「文化人類学」10選(裏の巻)

 菅原和孝 1998 『語る身体の民族誌』 学術出版会

 川田順造 1992 『口頭伝承論』 河出書房新社

 森山工 1996 『墓を生きる人々:マダガスカル、シハナカにおける社会的実践』東大出版会

 エヴァンス=プリチャード 1978 『ヌアー族』 岩波書店

 ターナー 1976(1969) 『儀礼の過程』 思索社

 レヴィ=ストロース 1972(1958) 『構造人類学』 みすず書房

 タンバイア 1996(1990) 『呪術・科学・宗教』 思文閣出版

 アンダーソン 1987 『想像の共同体』 リブロポート

 太田好信 1998 『トランスポジションの思想』 世界思想社

 田辺繁治 1989 『人類学的認識の冒険――イデオロギーとプラクティス』 同文館

 

 はじめにことわっておくと、文化人類学の基本文献を紹介してくれる本は山ほどあります。 例えば米山俊直『現代人類学を学ぶ人のために』、綾部恒雄『文化人類学15の理論』、中山敏『交換の民族誌』などなど。屋上に屋根を架すようなまねをするよりは、今までに「文化人類学もなかなかおもしろいものだな」と感じさせてくれた本を、自力でいい本を探しだすための道しるべとして紹介することにします。

 

 文化人類学の主題は、他者理解を試みることと、他者理解を誠実に行おうとする自己の再形成を試みることです。この主題に取り組むために、文化人類学はフィールドワークの中で他者と出会い、その出会いを民族誌という形で表現する、という手続きをとってきました。ですから民族誌は文化人類学的営みの実践的記録として、重要な読み物です。

 

 人々の生活の細部を記録した民族誌を読むのは大変ですが、なかには面白い読み物として引き込まれる作品もあります。まず思い浮かぶのは菅原和孝『語る身体の民族誌』、それに川田順造『口頭伝承論』です。前者は、カラハリ砂漠に住むグイの人々の会話を大量に採録し、彼らの「コミュニケーション」のあり方に分析を加えるスタイルで書かれています。また、後者はさまざまな「語り」の様式や言語学的理論に関する博識を駆使して、「語り」とはなにか、「歴史」とはなにかを洞察していきます。

 

 その教訓は一言で言えば、「神は細部に宿る」。細部を観察することによって今まで気付かずにいた思いこみに気付き、当たり前と思っていたことがもはや自明のことではなくなっていく感覚を体験できます。そして同時に彼らの洞察力を裏打ちしているのは、天才的なひらめきというよりはむしろ、シャーロック・ホームズのような地道な観察眼であることを思い知らされるのです。

 

 さて、「他者」について語るわれわれの言葉の未熟さが痛感されたとき、一つ一つの言葉を吟味しなおして、注意深く積み上げながら「他者」を描き出すという努力が始まります。その好例として印象に残っているのは、森山工『墓を生きる人々』です。マダガスカルのシハナカと呼ばれる人々がいったいどのような人々であるのかを、一段一段階段を上るように、適切な設問を自らに課してはそれに答えて先に進むというスタイルは謎解きのようでもあり、読者の興味を逸らしません。

 

 エヴァンス・プリチャード『ヌアー族』も読みやすい民族誌です。冒頭におかれた調査の苦労話や、分かりやすい部構成などから、E-Pのユーモアとバランス感覚の良さを感じます。この作品を基準に古い人類学と新しい人類学の違いを考えさせられるようなところがあって、まさに基本中の基本文献です。他の古典をこなそうとするとき、この地点から振り返るようにして読むと理解しやすくなることがあります。

 

 さて、折り返し点のE-Pが挙がったところで、今度は理論化傾向の強い文化人類学的作品を見てみましょう。ジュネップ『通過儀礼』は古今東西のいろんな儀礼を列挙してその共通項を見出して儀礼とはなにかを語ってしまう少々乱暴な本です。それだけにかえって、人間の多種多様な生活の営みを総覧した上で一般理論を打ち立ててやろうという黎明期の文化人類学的野心がストレートに伝わってきます。

 

 さらにレヴィ=ストロース『構造人類学』となると、この野心が手のつけられないほど飛翔して人類的活動の一般理論を構想するにいたります。さすがに少々やりすぎの感がありますが、言語学や心理学まで巻き込んだ学問的ブリコラージュの玉手箱を開くようなワクワク感もあって、楽しめます。

 

 ついでにもうひとつつけ加えたいのは、ターナー『象徴と社会』です。ジュネップの儀礼論を「社会」に敷衍して、L=Sとは異なる構造概念の系譜を引きながら社会変化の一般理論を論じた本です。「そうまでして構造概念に固執しなくても…」という気はしますが、社会構造の変化や不確定性など、困難な問題に向き合おうとした苦闘のあとが感じられます。良くも悪くもこの三冊は、一般理論を志向する文化/社会人類学的情熱の系譜を象徴しているように思われます。

 

 さて次に、より自省的傾向の強い作品を見てみましょう。タンバイア『呪術・科学・宗教』は、文化人類学の思想的遺産を受け継ぎながら宗教とはなにかを考察した本です。しかしそれを考えるための材料となるのは他者の文化ではなく、他者の文化を理解しようとしてきた文化人類学者自身の営みです。そのためこの本は文化人類学の歴史についての手際よいレビューの一つともなっています。

 

 こうした省察が出てくるのは単なる気まぐれではなく、近年の世界(認識)の変化が大きな原因として挙げられます。グローバル化が進んだ現在、もはや「彼ら」と「われわれ」があたかも別の世界に住んでいるかのように記述することはできなくなりました。「彼ら」と「われわれ」は違いもあるけれども同じ世界に住んでいる、そういう認識から文化人類学も再出発する必要に迫られているのです。

 

 「彼ら」と「われわれ」を同じ俎上に載せて論じる――そういう試みが文化人類学に求められているとすれば、アンダーソン『想像の共同体』も、文化人類学の必読文献と言えます。近代国家の形成という、「彼ら」と「われわれ」に共通する課題をとりあげたこの作品は、近代化を経験した一人の人間としてインドネシアのある女性を描き出したライフヒストリー的民族誌、土屋健治『カルティニの風景』とあわせて読むと双方の理解がより深まります。

 最後に、今後の人類学の行方を思索した本として、太田好信『トランスポジションの思想』と、杉島敬志『人類学的実践の再構築』をあげておこうと思います。前者はこれからの人類学に対する警告として、後者は励ましとして読むことができます。(千代蔵)

 

 

 

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