ドイツの印象

1.この10日、ふとしたことがきっかけでゲーテ・インスティチュートから招待をもらい、罹災後の日本への贈り物として「エネルギーシフトとしての文化転換」というプログラムに参加する機会をいただきました。内容についてはこれから、17日NPOもやいバンク福岡での報告をしたり、20日ゲーテ・インスティチュートにも報告書を提出しますし、3月の年度末出版予定の報告書(『フィールド人間環境学ことはじめ』)で書こうと思うので、ここでは彼らが私たちに呈示しようとしたところ以外で、私が感心したことを書こうと思います。たった10日なので、印象にしかすぎませんが、それでもヨーロッパは初めてだったので、大変興味深かったです。

2.今回は南西ドイツのフライブルクから北東ドイツのハンブルクまで、列車やバスを乗り継いでいったのですが、まず興味深かったのが、大地と建築との関係でした。例えば北ドイツの方に行くと、赤土がよく露出しているのですが、そういう土地の家には赤煉瓦が使われていたりして、当たり前のことですが煉瓦も土の産物なのだと実感させられました。またドイツは近世に至るまで領土が小分けにされていたので有名ですが、現在でもその土地に根差した建築様式が見られ、ハイデガーの弟子和辻が「風土」という概念を思いついたのもよく分かる気がしました。

3.現在でも大学の主な財源は州からのものであり、連邦国家からのものではないようです。もちろんそれが故のデメリットもあるのですが、例えば連邦の首都ベルリンでさえ、それほど高層の建物はなく、それに匹敵する都市がミュンヘンやハノーヴァ、ハンブルクにも見られるように、ドイツに来ると一極集中していない「道州制」というのが如実にイメージできました。そうして、自分たちの身近なところから積み上げていっているせいか、どの土地に行っても自分たちの納得したやり方で子どもたちを育てている「落ちつき」が感じられました。

4.また都市に近づくと一角に低い掘立小屋が並んでおり、最初は移民のゲットー化したものかと思って驚きましたがさにあらず。同行したドイツ近世史家の出村先生に依れば日本で言えば日曜農園のようなもので週末にバーベキューなどして愉しむのだとか。まぁそうした子育てと菜園の愉しみを持つ風土なればこそ、チェルノブイリ事故の後はスペインの小さな島に移住した家族も珍しくはなかったと伺いました。

5.また「風土」と書くとある環境がいつも変わらぬ人を生むと考えられかねませんが、私たちが眼にしたのはあくまで2011年の戦後ドイツの帰結であり、歴史については興味深いもののまだほとんど何も知らないことを認めざるを得ません。ただ、戦後のドイツ史は日本の戦後史と酷似している構造と、大きな違いが両方見られ実に興味深いものでした。

6.具体的には戦後の経済体制が上手くゆき、工業を中心に再興し、その象徴が自動車産業だったこと。それがゆえに環境汚染を引き起こしたこと。また戦前との対決として学生運動が熾烈を極めたこと。そこから過激派の赤軍、反原発、有機農業志向などがうまれたこと。その後、政治やメディアが保守化したことなどは構造的に酷似しているように思われました。

7.他方で、ベルリンでは自由時間を利用してナチの恐怖政治を展示する「恐怖の地政学」や、被虐殺ユダヤ人モニュメント、ユダヤ博物館などを見てきたのですが、あぁした博物館が首都のほぼ中心部にあること、また「ドイツでは反原発とか有機志向を表明しない人間や研究者は奇妙な目で見られた」とさえ言われることから、大学における研究者差別が逆向きになっていること、そして緑の党の指示や2022年までに原発撤廃を決めたことなどには大きな違いがあると思われました。

8.出かけた時期がクリスマスシーズンだったこともあり、「これはゲーテ・インスティチュートからのクリスマス・プレゼントのようだなぁ」と感慨深く思いました。私がその受け取り手としてふさわしい人物だったかどうかはまだ迷いますが、私の今後次第でふさわしくも「なれる」かもしれません。

9.少なくとも、私たちを介して罹災後の日本をこんなにも応援してくれる人たちがいることを忘れてはならないし、自分もしっかりしなきゃな、と思えました。大学というのは(その他の機関と同様に)様々な力がひしめく場所なので、時には内部の人間関係でうんざりさせられることもあるのですが、外でこういう風に真摯に取り組んでいる人たちに出遭い、はげまされました。

10.一緒にいった東北の理系の学生たちもすがすがしくて、いつかまた会いたいと思っています。こうした人間関係はいくらこちらが望んでも、自分の意図だけでは再生も、持続も可能ではありません。だからこそそうした関係を心行くまで慈しむために、私たちが責任のある大人としての判断をしなければね。文化人類学実習の学生たちも、不在中、関先生とよく頑張ってくれました。さぁ、世界に向き合おう!

 

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安全な基準、危険な基準

1.かつて、グレゴリー・ベイトソンはこんな例をもちだしていた。「呼吸の反射というのは酸素不足によってではなく、相対的に危険の少ない二酸化炭素の過剰によって引き起こされる」[Bateson1991(1972):15]。面白い指摘だと思う。もし、横隔膜が、酸素不足で起こるとしたら、二酸化炭素過剰で起こるよりも、相対的に危険な基準であり、私たちの身体はその基準を採用してこなかった。

2.今日、外でごぼ天うどんを食べてきた。九州の名物と言われている。確かに関東では食べた覚えがない。素材は、大豆(醤油)、小麦(うどん)、葱、ごぼう、さつまいも、といったところだろう。他にも、何の出汁か、どういう天麩羅粉を使っているのか、何か化学調味料をつかっているのか、など気になるけれど、とりあえず、それが分かると安心する。でも、これが、どこの大豆なのか、どこの小麦なのか、どこの葱なのか、どこのごぼうなのか、どこのさつまいもなのか、までは分かっていない。なので、少し、不安になる。

3.なにしろ、僕らが食べているエビがどのような仕組みでインドネシアから輸入されているのか、現地では、その産業のために、どのような生態系の破壊が生じてしまったのかは、村井吉敬さんが『エビと日本人』などで描いている。鶴見良行さんからアジア太平洋資料センター系の仕事は、バナナ、コーヒー、マグロなどについて、大同小異の構造があることを指摘してきている。なので、自分が既に、相対的に、危険な基準に足を突っ込んでいるのではないか、と不安に思うのである。

4.なのでときたま、ドラッグ・ストアやデパートの化粧品売り場で、一見きれいにパッケージされているけれど、成分を見るとさっぱりチンプンカンプンな化粧品などを見ると、「こんなものをいきなり身体にとりこんで大丈夫なのかな?」と不安になる。まぁ私たちの身体は、原則的に、内から外へと細胞の流れが出来ているので、多少、肌に何かをつけても、うわべのことだけだと分かっているのだけれど、「成分が分かる」だけでも既に危険に足を突っ込んでいるようにさえ感じるときがあるので、「成分さえ分からない」のは、とても危険な基準のように思うのである。

5.数日前から、夜の天神が美しく彩られている。けれども、美しい電飾の背景にも、その成分というものがある。東京電力で使われていた原子力発電所のウラニウムの一部は、オーストラリアから輸出されており、現地ではオーストラリア先住民の大地が掘り崩されている例がいくつもある。2000年までのジャビルカでは、ウラニウム発掘残土を保存しておいたプール水が溢れかえり、周囲に先住民が居住し、その河川から野菜を採っているところに浸水したことが疑われてさえいる。けれどもこういう背景を知らないと、自分たちが「危険な基準」を採用していることにさえ気づけない。

6.鳥山敏子は殺生と食べ物の関係について、「『生きているものを殺すのはいけないこと』という単純な考えが、『しかし、他人の殺したものは平気で食べられる』という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」「殺す人と食べる人が分離されたときから差別がうまれ、いのちあるものをいのちあるものとみることさえできなくなってしまった」と書いて、原発の問題も構造は同じなのではないか?と思い、現場で作業をしてきた人物に思いを馳せいたが、現在では、さらにその外にも思いが馳せられないと「危険な基準」に足を突っ込むことになる。

7.今年「人類学と経済学―個人投資家の事例から」[飯嶋2011]で書いたのも、そういう指摘で、かつてであれば、成人儀礼で教えられていた「世界」や「人間」の意味は、その活動がもはやとんでもないところにまで広がっていて、成人式までに教えられる「人間」概念がそれに追いついていない、ということだった。私たちは実に危険な基準を採用しているように思うのである。

 

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共生社会システム論宣言!

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1.九州大学人間環境学研究院人間共生システムコース共生社会学に奉職して5年。10 … 続きを読む

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