「速度と人生 その1」

関 一敏のコラム 「速度と人生 その1」~筆の速度~

筆がおそい!! 中学校のころは、作文の時間が苦手だった。本を読むのは好きなほうだったから、自分でも書けない理由がわからずにいた。あれこれ考 えているうちに一時間たってしまい、一枚も書けないことが多かった。時間内にさっさとまとめて、しかも中学生にして達意の文章だったのは、飯田くんや角倉 くんたちだった。羨ましかった。速度のおそさは今でもかわりがない。小論文の試験など、まず無理だと昔からあきらめている。

 

大人になってから、おりにふれて、友人や先達に、書くコツをきいてみたことがある。故・宮田登は、とにかく手をおさえていないと右手がひとりでに原稿を書 いてしまうのだ、などと云いながら、それでも、明日につなぐためには仕事を途中にして机にひろげておくのだ と、これはけっこう真面目な顔つきで教えてくれた。毎日八時間は眠らないとね。しかし、これではまるで小学生相手の教訓だ。

 

故・柳川啓一は、論文を書けなどと云う資格は自分にはないといつもぼやいていたが、あるとき深夜のタクシーで国道246号線を走りながら、柱のキズはおと とおしの♪と唄いだし、背の丈まで論文を書くようにと云うのだった。突然このひとは何を云いだすのだろうか。しかし、そういえば、30年ほどまえの『思 想』の祭三部作のうち、「祭の神学と祭の科学」を書いていたときには、柳田國男の本を見ないようにしたと云っていたな。

 

それぞれの本や論文には、それぞれの著者のもつ、角度のある引力がはたらいている。そのいちいちに親身につきあっていると、何も書けなくなる。だからひと の本を読むのはほどほどにしろ、というKKさん(存命)の助言はまことに正しいわけだ。あれこれ読んでいると、たいていのことは全部書かれていると感じら れる。で、書く意欲がいよいよしぼんでくる。実のところ、すべてはすでに云われているのだが、だれも聞いていないので再びわたしが書くと作家は云うのだ (故A.ジッド)。

 

書くのがおそいのは結果だが、その手前にある、書く意欲に乏しいのはなぜか。むしろ読み方に問題があるのでは・・・と最近になって気づいた。まるごと細部 にわたって読みつぶすような読書のしかたは昔からのクセだった。しかし経典ではないのだからな。こらこら、詩のように朗読したりするな。ザクッと捨てなけ ればな。そうだ、長島茂雄の逸話がある。本屋敷は、学生時代の長島をみて、こいつにはかなわないと思った。夏の練習のあと、いっぺんにかき氷を三つたのん だ長島は、蜜のかかったところだけをさくさくと掘って口にいれ、のこりをザクッと捨ててしまった。

 

だから課題はこうである。書くのがおそいのは、捨てかたが下手だからだ。そういえば、部屋にもいらないものが山とあるな。まずそれを捨てようではない か。・・・というわけで今日も深夜まで部屋の整理をしている。よいことに気づいたはずだったが、そのせいでまた書く時間が減っている。


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