※ 信仰について:
ひとはいかにして激流を渡るのであるか?
いかにして海を渡るのであるか?
いかにして苦しみを超えるのであるか?
いかにして全く清らかとなるのであるか?
ひとは信仰によって激流を渡り、
精励によって海を渡る。
勤勉によって苦しみを超え、
智慧によって全く清らかとなる。
Suttanipaata 183-184
※ 人の生命の無常:
生まれたものには、生の次に必ず死がある。
生まれ、生まれて、ここに死す。
実にいのちあるものどもには、かかる定めがある。
Therag. 553
昼夜は過ぎ行き、生命は滅び去る。
死すべきもの(=生きもの)の寿命の尽きることは、
あたかも小川の水のごとし。
眠れない人には夜は長く、疲れた人には1里の道は遠い。
正しい真理を知らない愚かな者にとっては、
生死の道のりは長い。
「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って
愚かな者は悩む。しかしすでに自分が自分の者ではない。
ましてどうして子が自分のものであろうか。
どうして財が自分のものであろうか。
男も女も幾百万人と数多くいるが、財産を貯えたあげくには、
死の力に屈服する。
いくら財産を貯えても、最後には尽きてなくなってしまう。
高い身分地位もついには落ちてしまう。
結びついたものはついには離れてしまう。
生命はついには死に至る。
Udaanavarga I, 18-22
※ 老いについて:
ああ短いかな、人の命よ。百歳に達せずして死す。
たといそれより長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。
人が「これはわがものである」と考える物、--- それは(その人の)
死によって失われる。
われに従う人は、賢明にこのことわりを知って、わがものという観念に
屈してはならない。
夢の中で会った人でも、目がさめたならば、
もはやかれを見ることができない。
それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、
もはや再び見ることができない。
「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、
死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。
Suttanipaata 804, 806-808