駿台随筆

【略凡例】
・表示できない漢字は■で表した。但し、偏と旁などで表せるものは、[●+▲]のごとくに示した。
・玉川本にて補った部分は( )に入れ、〔玉川本〕と記した。
・ルビ、返り点は省略した。
以上
                    翻刻者




駿台随筆 上

駿台随筆巻の壱 目録
讒言を信ずるを戒る詩
朗詠集の聯句
曽子が梁父の吟
葱台の事
都良香が鐘の銘
女郎花の事
石敢当の事
時日方位を忌まず
寿星の像の説
芙蓉花の名
兼好法師の事
加藤清忠の詩
楓橋夜泊の詩
庚申のせつ
黄鳥の事
牝鶏の夜鳴
檮杭の本名
丈人泰山の事
倭人詩をよくす
宣菴の兵法

駿台随筆巻の一
鳩巣室老人著

讒言を信ずるを戒むる詩
恐るべきは讒を信ずるより恐ろしきはなし。君たる人信ずれば、臣なるもの誅せらる。父たるもの信ずれば、子たるもの遠ざけらる。夫妻の間に讒を信ずれば、離別す。朋友の間に讒を信れば疏んず。恐るべきにあらずや。是故に、故人の詩に、堂々八尺軀。莫聴三寸舌。々上有龍泉。殺人不見血と作りしは、戒とするに作れり。

朗詠集の聯句
余童稚の比、朗詠集を誦るに、故郷在母秋風涙。旅舘無人暮雨魂といゑる句を愛して、その作者及び全編を先哲に問といゑども、知れる人なし。其後高積善が撰べる本朝麗藻を見るに、是即ち源為憲が詩にして、迂陵嶋の人にかわりて皇恩を謝する詩也。その全編に云く、遠来殊俗感皇恩。彼不能言我代言。一葦先摧身殆没。孤蓬暗転命纔存。故郷在母秋風涙。旅館無人暮雨魂。豈慮紫泥許帰去。望雲遥指旧家園。その合作なるを持て好事のために記るしをく。

曽子の梁父吟
梁甫の吟は諸葛武候が晏子が人となりを恋ふて、斎の東門に三哲の塚あるを見て常に歌しを、梁甫の吟の橦輿と心得しが、その後楽苑を見るに、曽参が梁甫の吟を作りし事を載せたれども、其文は亡びて記さず。此歌枕徳潜が文集を見るに、徳潜も其辞の亡たるを惜みて自ら古辞に擬せり。其文に、曽子耕泰山之下値天大雨雪不帰思念其母作梁父吟以見志今楽苑載其事亡其辞予欲伝孝子心也。擬古辞以補之共五解○力農于野泰山之側雪閉川原欲帰不得眷念我母念我帳望瀧畝誠通境隔中心何在禄養由命色養由人豈因賤貧焉侍饗飧小鳥反哺往来深樹嗟我人兮而不如微羽昊天明々乎其知我心傷乎○是を以て考るに、梁甫の吟といゑる題は古よりありて、諸葛武候より始りたる事にもあらざるべし。

葱台の事
今、橋の欄干をひらき柱といふは、いか成字にやと問れて、答る事を知らざりしに、此ごろ和名抄を見るに、楊氏漢語を引て葱台と記せり。和名比良岐波之良、此則橋之両端所堅之柱、其頭似葱花故云と。欄干のかしら擬宝殊あるを以て起れる名か。

都良香の鐘の銘
水戸西山公の撰び玉ひし扶桑鐘銘集の中に、都良香が撰べる唐の開元寺の鐘の銘あり。その文に云ふ、
大唐明翊開元寺鐘銘 并序
都良香
乙酉歳二月癸丑朔十五日丁卯日本国沙門賢真敬造銅鐘一口初賢真泛海入唐経過勝地明翊冶南得開元寺可以繋意馬可以降心援自就一遊畄連数日有雲樹有烟華有棲台有幡蓋禅器之類亦多備焉伹独関者捷推而已挙寺僧徒相共恨之其中長老語賢真云常聞本国好修功徳若究衆治之工以合双欒之制従彼扶桑之域入我伽藍之門遍満国土不得不随喜第二天衆不得不驚聴爾時賢真唯然許之帰郷之後便鋳此鐘送達彼寺遂本意也直指鹿苑遠駕鰲波物出一物善分両処寸心丹実之信取鋻十技万里滄瀛之程変道一箭念之至也感之通也推前生以言之引後事以銘之小僧共誓願於彼寺彼寺今有因縁於小僧亦已明矣若不然者得如是乎凡寺靡不有鐘々靡不有銘无鐘何以警衆无銘何用示人況乃天非常天地非常地今日謂之谷明日謂之陵庶使大小衆生白黒四輩千歳培視一弁刻久有前進士京華対為之銘曰
鳬氏三思 鴻銘四名 亦銅錬尽 朱火治成
褰唇吐気 聚父含精 和霜秋晩 影月夜更
禅林共振 清籟混鳴 十方中響 三大下声
鬼神魂聳 天竜耳驚 梵韻旁達 永離若生
都良香は本朝の文宗にして、延喜昌泰の比には其名唐国へも聞しや。盛事といふべし。唯この文中その名を京華対とかける事疑ふべし。余按ずるに、京は都といふ事なるべし。良香とかくべき所に華対とかきしは、都良香はもとの名を桑原腹赤といゝし人なり。後に名を改めしと思へども、さにあらぬか。良香はヨシカと読むなれど、今按ずるに、やはりラカと読なるべし。腹赤はハラカとよむを、上のハの字を略し消して、下のラクの訓を良香の弐字にて埋めしなるべし。是を以て考れば、華はハナなり。対は樹なるべし。樹はキともカとも読む。カキクケコの働らきあればなり。されば熟々考るに、華樹はアナカなり。ハナカ、ハラカ近し。仍て因て京華樹とかけるか。我国より漢土へ文章を乞し事あれど、漢土より我国へ文章を乞へる事是を以てしるべし。

女郎花の事
今の人廃醤花を以て女郎花と称す。花の色は蒸せる栗のごとしといふを以て証とす。しかれども、女郎花はもと菊花の別称也。中華の書にも侭見へたり。菊はもと黄色あるを以て黄花の称あり。故に花の色は蒸せる栗の如しとは菊の事をいふなるべし。花の貌は今はなきを以て証とすべし。

石敢当の事
史游急就篇といへる書に、石敢当といへる文あり。尤も是を貴ぶ。後に明人陳元鬢といふ人京都に客たり。余此事を元鬢に問ふに元鬢がいふ、今の当門神を則ち石敢当といふと。当門神とは町の三又巷、或は橋の衝当にあたる家を死巷家と称して、其処へは必ず邪神幽鬼の類集るを、一つの石碑を建て、碑面に石敢当の三字を彫み、又下に一首の詩を彫て悪邪を厭譲す。是を石敢当と称す。則当門神の事也と答へられき。其詩に、甲冑当年一武臣。鎮安天下蓬居民。捍衝道路三又口。埋没泥塗百戦身。銅柱承陪間紫塞。玉関守禦老紅塵。英雄来往休相問。見尽英雄来往人と。後ち姓源珠璣といへる書を見るに、五代の世に劉智遠なるもの晋祖に仕ふ。其とき潞王従珂といゑるもの反逆す。愍帝と共に謀を合せて、欺て晋祖を宴に招き、是を殺さんとはかる。劉智遠兼て是をしり、晋祖の傍をはなれず、潜に力士石敢当なるものに命じて潞王従珂及び同友の人を尽く殺さん事をたのむ。石敢当これを許諾し、遂に多くの人を殺し、その身も又伝国の玉璽を焼きて死ぬ。其霊を祭るものは、凶事も吉事と変じ、侮りを禦せぎ、危き事を免ると記せり。今我日本にても、丹後の高率都婆、大和蓋率都婆も此類なるべし。又閲巷及び田舎の辻々に石地蔵を建つも此類にて、皆保護のためなるべきか。

時日方位を忌まず
時を撰び、日をゑらび、方位を忌む事、漢土及び我朝にてもむかしより専ら用ゆる事なれど、皆道家の説にして、古の英雄は拘々として泥むべからず。忌むべからず。已に宋の武帝は敵をせめ、軍を出すに往亡日に当りければ、軍吏も其往て亡ぶといふ字義を忌みて是を忌むといふ。武帝がいはく、我往きて彼亡ぶといひて軍兵を出されしが、遂に勝利を得玉へりと。又唐の李愬まさに芙房を攻めんとせしとき、軍吏その往亡日なるを以て是をとゞむ。李愬がいはく、敵かならず往亡日なるを以て我軍至る事なしと思ふべし。我その虚をうたんとて、遂に捷をなせし事など本邦にて其例多し。宋の大宗が云く、東家之西、西家之東、大歳果何居焉との寉言は、世俗の惑を解く豪傑の士といふべし。

寿星の像の説
今の世の画図に、福禄寿と称するは南極星の貌を絵き、福禄寿と称するは南極星は福禄寿の三つを守り玉ふと。世俗の説なれど、其貌の奇なるは何に拠として画き出せしやしらず。この比、周亮工が書を見るに、宋の真宗皇帝のとき、北京へ何くともなく一人の異人来れり。身の長け纔に三尺ばかり、首の長さ又三尺、豊髯秀耳にして市中に乞食せり。世人是を怪しみて是に問ふときは彼人答ていふ。我聖君のために寿を奏し、齢を延んために来れりと。其事聖庁に達し、或日是を宮中にめし、其故を問玉ふに、唯酒を嗜みぬとのみ答ふ。仍てさけを賜りけるに、一石の酒を一飲し終て忽然として見へず。翌立日大史の官奏問していふ、昨夜寿星の纏(やど)り、ひそかに帝坐を侵せりと。是を以て、神宗返々人を四方に遣し求め玉ふといゑど見へず。仍て画工に命じて其貌をゑがゝしむ。即ち今の世に伝ふる所の寿老と称するもの也。余史書を考るに、真宗皇帝位にある事弐十五年、寿命纔に五十五歳にして崩し玉ふ。是を以て考るに、異人の寿を奏ん為に来るといゝしは虚説か。怪むべし。

芙蓉花の事
李白が詩に、昔昨芙蓉花。今為断膓草。以色事他人。能得幾時好といゑる詩意は、むかしは芙蓉の花の如き艶なる婦人も、年老ぬれば寵をとろえて、唯愁にのみしづむは断膓の草のごとし。故に色のみにて寵を得れば、色衰へて寵をとろふるは必定の理なり。よくいつまでも寵をとる事なしといふ事はあらず。然るに、この芙蓉花、断膓草は二品のものと世人も心得るに、此比陶弘景が仙方の注を見るにいふ、断膓草不可食。其花美好。名芙蓉花とあれば、一物たる事あきらかなり。博く見ずんばあるべからず。

兼好法師の事
吉田の兼好が卒せる所定かならず。徒然草の諸抄に、たゞ湖西双らびの岡のべに無定所をもうけて、ちぎり置く花とならびの岡の辺にあわれ幾夜の春を過さんと読るを以て、彼地を今に終焉の所と定む。又伊賀の国名張の辺、たねを山といふむらに古墳ありて、観応二載四月八日兼好墓所とあれば、此地に終るとも、拾翠軒の主人の話なりき。然るに、又伊賀の国多井の庄、種生村といゑる村墟に、むかしより乾坤塚といゝ伝へし古墳あり。古老の云伝ふるに、塚中に多くの財宝をうずむと。元録の初年、近江の悪年少どもその財を奪ん事をはかりて、或夜風雨はげしくて、ゆく人さへ無ければ、鋤鍬なんど持て其墓地を掘ひらかんとせしに、一人のもの忽ち暈し倒れぬれば、各々驚きて返りぬ。其年誰がいふとなく、仄かに大守の聴に達しぬれば、侍臣に命じて斎戒せしめ、墓をひらきてみせしめ玉ふに、一つの石櫃あり。そのうちに朽骨依然として坐せるが如く、傍らに黒漆の箱あり。長さ弐寸、はゞ四寸、高さ三寸弐部、内に一巻ありて、兼好が京を退きし後のことども委しく記せりと。又小さき金の牌に兼好の位を彫れり。其巻中を読むに、その比、伊賀の国主に藤原の成忠といふ人ありて、和歌を兼好に学びて親しく交りけるが、都もものさわがしき比なれば、兼好都をさけて、成忠によしみあれば、伊賀の国に赴き、則成忠が領地なれば、種生村密乗院の辺に棲ぬ。その比、伊勢の神官檜垣常遠及び同国仏性寺の弘融などは、各々兼好が和歌の弟子にして都よりの知己なれば、とき〴〵成忠が宅にあつまりて、和歌を詠じけるとなん。其後光厳帝より勅使を給りめしければ、唯多病なりとて勅に応ぜざりしかど、度かさなれば、都に登り院に参りけるに、故宇多院の事など仰出され、又勅によりて老子経を講じ、事終りて、いかなれば世をも心も捨し身のまだ捨やらぬ敷嶋の道と詠じて、御会の席を退きぬ。光厳帝叡感のあまり黄金を多く賜るといゑどもうけず。伊賀に帰りけるが、観応の年夏の比、兼好心地悪しかりければ、帝きこし召れ、典楽頭和気清元を伊賀の国へ遣され、又米五十石を賜りければ、已に死すべきをしりて、薬も用ひず。賜りける米は尽く近隣の貧人に分ちあたへ、同年八月廿八日、行年八十八歳にして種生むらに死ぬと。辞世に、なき人のこのごろおほき世や更に常としりても驚かれぬる。又、ありとだに人にしられぬ身の程や三十日にちかき明ぼのゝそらと。帝きこし召れ、御衣の袖をしぼらせ玉い、錦十万疋、米五十石を成忠に給り、同国遍照院の僧をしてなき跡の礼を念比に執行せしめ玉しと。其旧廬に残れるものは斟瓶一つ、麻の衣、自筆の普門品、源氏帚木須磨の巻、頓阿の筆の幻の巻、二条大臣良基公の書給し古今集、その外手習ひゑかきし反古のみなりと。兼好在世のとき、帝より僧都の官になし玉んと勅あれど、固く辞しぬ。其比のことにや、玄賓僧都の読し歌を恋ひて、水草も清き流れにたどる身は宮古へいゑど夢の世の中。かくの如く記せりと、其郷人の語りき。是を以て考るに、かの兼好が人となり知るべし。高の師直が為に頼れ艶簡を書し事どもは、世人の妄説たるべし。然れども、其妄説の起るは兼好老荘の学にのみ身を委ね、唯風花雪月を遊びし事ども、妄説を招くのもとか。惜むべし。恐るべし。

加藤清忠が詩
加藤清忠は肥後守清正の嗣子なり。父に継て独り武事に長じたるのみならず、又文事をよくす。慶長定鼎の後、出羽の庄内に竄せらる。承応弐年、配所にて卒す。辞世の詩に、○人間万事定難。定身似明星西又東。三十一年如一夢。醒来庄内破廬中。そのとし五十七歳。あゝ、文武の良将不幸にして亡国の臣となる。然りといゑども、天の革命を知てあへて憤らず。其温和の気象詩意にあらはる。惜むべし。悲むべし。

楓橋夜泊の詩
唐の張継が楓橋夜泊の詩は世人みな唱る詩なれど、全体の詩意を暁の景色と心得しより違ふて粉々と説あれど、只半夜比の景と見てよし。まづ第一の句に、月落鳥啼て霜天に満つといふ句は、毎月七日八日ごろの半夜のけしき也。夜半の比に、月も山の端にしづめば鳥もなき、霜ぞらのけしきか。鳥は暁のみに啼にもあらず。故に楽府題に鳥夜啼といふ題あり。又古歌にも、鵲の渡せる橋にをく霜の白きを見れば夜ぞ深けにけるとありて、夜ぞ明にけりと非ず。是にて第二句の、江楓漁火愁眠に対すといゑるも、只楓橋の辺に照りかゝやきし漁火の、旅愁のねむりを照しける比、姑蘓城外の寒山寺につく半夜の鐘声は客船まで聞ゆといふが張継が詩意なりき。夫を暁の景と心得しより、結句の夜半の二字、穏かならざれば、夜半といふは鐘の名目にて、寒山寺の鐘を夜半鐘と名づくなどいふ説は穿鑿かといふべし。況んや千家詩の注に、愁眠は山の名などいふ説は、物好る人の説なるべし。

庚申の説
今、世上の人、庚申にあたるときは、神道家にては猿田彦の神を庚申と称し、仏家にては青面金剛童子と称して祭をなす。余、なにの神を祭ることをしらざりしが、此ごろ会神篇といふ書を見るに、青面金剛童子といふは、舜の時の皋陶たる事疑なし。其故は、皋陶は大賢にして舜の世に史の官となりて、刑罰をつかさどりて、其政道平らかなれば、後の世に至るまでも獄屋のうちに是を祭りて、已に罪過に究りし罪人には是を拝させて罪に行ふと也。いか成故に其獄屋に祭る。皋陶の面を青く彩りて、是を青面天皇と称し、其像を安置せる堂を天王堂称し、庚申の日に当りて祭礼を設くとなん。是にて知るべし。惣じて庚申にあたれる日は、天より刑罰を行い玉ふ日にて、三彭といふ神に命じて人の善悪を正させ玉ふと云伝へたり。余が友、芝軒老人の詩に、元日庚申宝永年。灯花剪尽舜樽前。三彭縦是訴吾罪。不過論為一酒仙と。今、和州などの所々に庚申と二字彫りたる立碑のあるところは、皆古の法場なりと言。伝に、青面金剛童子と称するは仏家の附説か。

黄鳥の説
今、本邦の鶯と称するは、鷦鷯の類にして、漢土に所謂黄鳥、倉鶊の類にあらず。然るに、倭人知らずして是を混ず。誤りといふべし。近き頃、石川丈山が詩に、春上花梢雖弄鳴。[■+羽]毛形相異倉鶊。看来爾是鷦鷯類。誤彼人呼黄鳥名。此詩を以て証とせんか。此類ひ侭多し。君子は必らず名を正さん事を専要とすべし。

牡鶏の夜鳴
ある家の牡鶏宵鳴するものあり。家人みな不祥の兆とせしかば、其家の主人、そのまゝ是鶏を宰殺して食しぬ。家人怪んでその故を問ふ。主人答ていふ。鶏の宵になくは彼が身の禍を告るなり。是故に一たび鳴きて遂に自ら身を亡せりと語りしが、主人にはなにの禍もなかりしと。実にや、妖は人心より起ると、聖人の確言、是を以て知べし。唯禍は身よりなせる禍ほど大なるはなし。

檮杌のこと
楚国の史記を檮杌と称する事、粉々たる説あれど、唯尓雅翼に其事を詳らかにせり。史は往きし事をしるし、来事を知しむるものなり。檮杌といふは獣の名にして、此獣の性質よくあらかじめ来事をしるもの也。よつて檮杌を以て史に名く。

丈山泰山
漢土にて、舅のことを泰山とも丈山ともいふは、何の義たる事をしらず。此比は宰園老人が随筆を見るに、唐の玄宗、開元十三年、泰山を翌祭(やまゝつり)し玉ふとき、張説を以て封禅使として泰山へつかわし玉ふ。旧例に、封禅使となるものは三公より以下は皆な位一級をすゝむ。張説が婿に鄭鎰といゑるもの有。舅の張説が封禅使たるを以て自らも又、張説が推挙を以て位五品を隆遷し、自ら上を恐れずして緋服を着して玄宗の前に朝護す。玄宗その頻りに隆遷し、緋服まで着せしを怪しみて、其故を鄭鎰に問玉へども、元より是張説がはからひにて頻りに隆遷せし事なれば、答ふべき辞もなし。唯うつむきてありければ、玄宗の傍にありし黄幡綽といゑる人が戯れに奏せしは、是泰山の力なりし。是即ち舅が力なりといふ事を隠し、辞にて云し成べし。是よりして舅の事を泰山といふ也と。又泰山の別峰に丈山峰といふ峰あるを以て舅の事を丈山ともいふなり。

倭人詩をよくす
大津の王子はじめて我国に詩賦を行れしより、詩章を以て唐にて其名を称せられし人多し。阿部の仲麿、吉備の真備、小野の篁、淡海の三船を始として、当時の文章博士と呼れし人々、延喜昌泰の比の諸名公の詩文多く讃せらるゝ事は諸書にも見へたり。近くは五山叢林の僧徒、詩賦を専らとし、宋元明の間に漢土に至りて名を賞せらるゝもの多きが中に、天龍寺の僧、策彦明なるもの大明にありしとき、常に万葉和歌集を読む。明人、其故を問ふときは答ていふ。詩を学ぶは我国の和歌集を読よりよきはなし。和韻をよくするときは詩を賦する事至りて安しと。元より傑作多し。或とき策彦明、西湖の景を賞せん事を乞ふ。明人ともに相謀ていふ。彼をして西湖にゆかしめば、好詩を賦せんことは必定なり。しかず、彼が英才を抽じかんとて、或日烟雨淀濛たるとき、策彦明を伴ふて西湖の余抏門に至りしに、薄霧四方を覆ふて見へず。策彦明すなはち詩を賦して云く、余抏門外日将晡。多景濛朧一景無。諳得雨奇晴好句。暗中模索認西湖と。明人大に其才に服す。雨奇晴好とは東坡が西湖の詩に、山色淀濛として晴ても又好く、水光艶■として雨にも又奇なりといふ句のごとく也。又其比の僧に義堂、絶海、大白、万里、南江など云る作者、各々一家をなす。近比黄檗の僧高泉が著せる山堂清話といゑる書を見るに、明の万暦のすゑ、福省の海濱に大船一双飄着せり。其うちの人各々衣冠を着し、独り俊秀の少年あり。言語通ぜずといへども、其貴人たる事しり、紙筆を前に置て信を通ぜしむ。その人詩を賦して曰く、日出扶桑是我家。飄揺七日到中華。山川人物般々異。惟有梅花一様花と。その末に書していふ、某は日本国の王子なり。月夜船を泛るに因て飄風のためにこゝに到ると。仍て大船を具して本国に送る。これ又何人成事を知らず。又明人趙寄国が書にのす、明の永楽年中、倭国の使者[口+害]哩嘛哈なるもの入貢す。よつて倭国の風俗をとふに、[口+害]哩嘛哈、詩を以て答て曰く、国比中原国。人如上古人。衣冠唐制度。礼楽漢君臣。銀甕万新酒。金刀鱠錦鱗。年々三二月。桃李一般春と。[口+害]哩嘛哈とは我国の姓氏にあらず。音を以て名字に埋しものか。又閩の陳全之が著せる蓬窓日録に載す、倭人舟を定、海の通津橋艤はす。津使これを止む。倭人則ち詩を賦していはく、棄子抛妻到大唐。将軍何事苦相妨。通津橋上団円月。天地無私一様光と。津使よつて是を通しぬと。右の三詩其意同ふして体格もまた相似たり。是明人好事のものゝ疑作せしにや。又は真に其ことありしにや。

宣菴の兵法
余、童雅の比、江州彦根の家臣、岡本宣菴成人に値ぬ。宣菴、名は宣就、本姓は熊井戸。その父新八なる人は武田家に仕へて軍師たり。よく兵略に通じ、一家の術をはじむ。武田家亡びてのち、新八戦死せしときは、宣菴纔かに九歳にして家属も亡ぬれば、僧となりて比叡の東院にありしが、十八歳のとき比叡の一山平信長に属し、一山尽く焼失せしとき、庫蔵に嵯峨帝の真筆あれば、その亡ん事を歎き、ひそかに是をとりて走りしが、後遂に兵術を以て井伊家に仕へ、功名を顕しぬと。又昔は嵯峨帝の遺墨を学べるを以て世に天皇様と称す。連歌をよくし、風流の技に長ぜずといふ事なし。其兵術の書数巻あり。訓閲集と名く。余も其兵法を学べり。一奇人といふべし。宣菴のちに無名老翁と称す。

駿台随筆巻の一終

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駿台随筆巻の二目録

東西南北の字説
天狗獣の事
唐土の戯場の事
末下塩鼓の説
金右衛門が詩
男を謹といふ事
鶏骨床を支ゆ
曹操が疑塚
梅山陵の石人
祝杖山が事
清平調の詩
院号の起り
居士号の起り
銭思公の篤学
酎金の事
老馬よく道を知
六逆の事
箕仙の術の事


駿台随筆巻の弐
鳩巣室先生著

東西南北の字説
東西の弐字は天を以て形どり、南北の弐字は人を以て形どる。天に取ては日を主とす。東といふ字は日の木の間より出る貌あり。むかしは我国に大なる扶桑の樹ありて、中華より日の出を見れば、木の間より出るを以て作れる字也。故に我国を日本とも扶桑国とも称せり。ヒガシと訓ずるはヒイガシといふイの字を略せるなり。日が生るといふ事にて日出をいふなるべし。西といふ字は日の西に没する貌ち也。篆字にて書ば、■なり。■は鳥なり。■は日なり。酉のときに日没する貌なるべし。説文長箋に■を以て窓の字とし、其説に、日の暮ゝは鳥牕のうへに来るとあれど、日暮とて窓の上に鳥の来るものにもあらず。篆字にて字形の似たる故に誤れるなるべし。ニシと訓ずる事はヒイニシといふヒイの弐字を略せる也。日がいぬといふ事成べし。南といふ字は人の面の冠をきたる貌なり。篆字にては■也。天子は南面し玉へば日と並ぶといふ事にて、天子の頭に冠を着し給ふ貌ち也。ミナミと訓ずるはメナミ也。マミムメモの働らきあれば也。北といふ字は背骨の貌ちなり。天子南面し玉へば北の方は背になる也。この故に北といふ字に肉月を添て背といふ字になる也。篆字にて■とかくは即ち背骨の貌あり。キタと訓ずるはカタといふ事か。カキクケコの働らきあればなり。

天狗獣の説
我国に天狗と称するものは、漢土に所謂木客の類をいふか。何ものゝ画図にかき出せるにや。其貌ち人に似て鼻高く、背に羽翼を生じたるは何ゝ拠せるや。世に閻羅王の像を絵き、雷神の図と称するものも皆此類ひあらんか。或はいふ、星経の中に天狗星といふ星ありと。然れどもその貌を絵きしものにもあらず。余、頃日は杜少陵が全集を見るに、唐の玄宗、天宝六年天下に詔ありて、一芸あるものは皆京に召て官を授け玉ふ。其とき杜少陵も京に趣きける折ふし、玄宗麗山の温泉宮に行玉しかば、杜少陵も陪待して麗山に至りけるは、温泉宮の傍に獣房と名けて種々の奇獣を飼ふ所あり。其内天狗院と名替て天狗といゑる怪獣を飼てるよし見へたり。少陵が天狗の賦の文にいはく、瞻孳清之萃々漠々而山殿戌削縹与天風崛乎廻薄上場雲■兮下列猛獣夫何天狗嶙峋乎気独神秀色似狻猊小如猿狖忽不楽雖万夫不敢前兮非胡人焉能知其去就向若鉄柱歌而金鎖断而事未可救瞥流沙而帰月窟兮斯豈踰昼日食君之鮮肥兮性剛簡而清痩敏於一擲威解雨闘終無自私必木虚透嘗観乎副君暇豫奉命于畋則蚩厄之倫巳脚謂戟涇提挈丘陵与南山周旋而慢囲者戮実禽有所穿伊鷹集之不制兮呵犬豹以相纏蹙乾坤之翕習兮望麋鹿而飄然由是天狗捷来発自於左頓六軍之蒼黄兮劈万馬以超過材官未及唱野虞未及和冏[骨+孝]失与流星兮囲要害而倶破洎千蹄之迸集兮始拗怒以相賀真雄姿之自異兮巳歴塊而高臥不愛力以許人兮能絶耳以為大〔音駄〕既而群有噉咋勢争割拠垂小亡而大傷兮翻投跡以来預劃雷殷而有声兮紛胆破而何遽似瓜牙之便禿然无魂魄以自助各弭耳低徊閉目而去毎歳天子騎白日御東山百獣[足+秋]蹌以皆従兮四猛仡銛鋭乎其間夫霊物固不合多兮胡役々随此輩而往還惟昔西域之遠致兮聖人為之豁迎風虚露寒体蒼螭軋金盤初一顧而雄材称是兮召群公与之倶観宣其立閶闔而吼紫微兮却妖孽而不得止于時駐君之玉輦兮近奉君之渥歓使臭処而誰何兮備周垣而辛酸彼用事之意然兮匪至尊之賞闌仰千門之峻嶒兮覚行路之艱難懼精爽之衰落兮驚歳月之忽弾顧同儕之甚少兮混非類以摧残偶快意於校儠兮尤見疑於蹻捷此乃独歩受之於天兮孰知群材之所不接且置身之暴露兮遭縦観之稠畳俗眼空多生涯未愜吾君儻憶耳尖之有長毛兮寧久彼斯人終日馴狎己。この文を見るに、其色狻猊の如く、大さ猿に似て、性質猛健にして万馬を劈き、蒼鷹を割き紫微に吼え、妖孽を退くと。然れども、今世俗のいふ天狗にもあらず。唯本邦に天狗と称するは山霊の別称にして、その霊をいふか。了芥子が説に音羽山に美成瀑布あるを見ては、その山霊を観音と称し、日山の嶮峻なるを見ては、其山神を八劔明神と称す。天狗といふも唯山の神の恐ろしきをいふ名なるべしと。確論といふべし。近年の俗僧及び、神道者流のもの、強牽の論を建立し、心術を以て天狗の事を喩ふる事取にたらず。

中華の劇場
余が少年の比迄は、唯傀儡の技のみにして、歌舞妓伎と称するは、只北野の菊松太夫がせしばかり成しに、いつしか世は奢侈に成安く、今は江府の芝居と称するもの、年にまして行る。唐土にても、宋の終り、金元の世より劇場といふもの起りて、拘攔・劇場・演台とて称し、役者を戯子とも梨園子弟とも称し、立役を生と云、女役を旦といふ。悪人役を丑といふ。少しも我国と異なる事なし。たゞ唐土にては立役は男子、女役真の婦人成のみ。

末下塩豉の説
晋書陸機が伝に、陸機はじめて洛陽に至り、王済が宅を訪ふとき、王済座上にある所の羊酪を指して、其元の在所の呉の国には是に勝りし美味ありやと陸機にとふに、陸機其侭答て、千里蓴羹と末下塩豉といへるは我呉の国には千里江といゑる所の蓴菜の羹や、末下といゑる地の塩豉が美味なりと答し故に、世の人も名対じやと評判せり。末下は地名にして、今は江干の地に属せり。夫を世々の人が心得違へて千里江の蓴羹は美味なれば、未だ塩豉を加るに及ばずして美味なりと説しは、末下の末の字を未の字と心得違ひしより起りて一盲衆盲を導けり。明人趙吉士ひとり卓立の才を以てよく此事を弁へり。惣じて書を読に至ては、倉卒にすべからず。其義を誤てば、其行を誤つ事をゝし。

金右衛門が詩
近年、山西金右衛門とて柁船を業とするものありしが、海外の国は残る所もなく経歴し、朝鮮に住ること数年、又清都にあつて学業を成し、夫より西洋のはて迄も至らざる所なしと、後本国に返り、浪花に禁銅せられしが、府吏某、その才を試みんとて自ら作れる旧稿弐首を贈りて、其和作を乞しに、立所に筆をとりてその韻を和せり。其詩にいふ、
和晩愛誠園楓葉
寺交楓樹日将斜。霜信有期染未差。最惜深紅関不住。却疑浄界酔無涯。月前枝掛止観境。風面葉賙坐愛車。許可臘僧真富貴。天然贏得上林花。
和承恵紅葉
雅恵不同霜葉飄。美観須懇繋狂颷。舌頭三十温醪味。天作濃紅誰克焼。
和冬至戯酌
祝盞交傾来復天。三千金嬡桂房前。貴期有待鼎成日。是日食円是一年。
その作真率にして俗態なし。其学文も又知ぬべし。或人のいふ、金右衛門、海外の国に於て一大官人となる。其故園を慕ふ、以て帰れりと。嗟呼、志あるものはかくの如きか。後、金右衛門、江府より棒録を玉ふ。他日の役あらんため也。むかし漢の張蹇西戎の国を残りなく経歴し、水草の所をも知るを以て博望候に封せらる。金右衛門に棒録を賜ふ事、その故あり。

男を漢といふ事
我国より中華をさして漢といふは、漢の世の比日本より称していふ成べし。又中華にて男子といふ事を自ら漢子と称す。是は胡国より中華の人は漢土の人なるを以て中華の男子をさして漢子と云そめしを、後には中華の人々自ら漢といゝし也。是故に大男をさして大漢といゝ、老人をさして老漢といゝ、男立をさして好漢といふ也。中華よりは故国の人をさして胡人、胡児、狂胡といふの類なるべし。

鶏骨床に支ゆ
(謝在杭が文海披抄に王戎鶏骨床を支ふ、人)〔玉川本〕、其意を解することなし。よつて後の此書を読もの二義を以て是を解す。一説は、王戎常に豪放にして平生食する所の鶏骨支床といふは、常に食する鶏の骨が床の上にても積あげたるといふ事となん。又一義は、痩骨若鶏僅堪支持床上といふ事にて、王戎が性質清高にして床の上にかゞみ支持すとなん。後の説をまされりとす。

曹操が疑塚
魏の曹操、一生娨悪の性を恣して漢統を絶し、他の豪俊を殺害し、一旦天下を三分して、其一を保ち、その赤壁の戦に酒を灑んで江に泛び、戟を横へて詩を賦するときに至ては天下の英雄多しといゑども、眼中に人はなきが如し。然れども未ダ三世を過ずして国亡び、後世に至るまで娨悪の名を残せり。曹操死に臨んで、其臣下に詫していはく、我死ば必ず我墓を発くものあらん。我を漳河の辺葬りて七十二の塚を築き、世人に疑しめ真に我を葬る所をしらしむ事なかれと。呼々、彼が愚なる、何ぞかくの如き。今に至りて漳河の辺に七十二の塚ありて、是を曹操が疑塚と名く。宋の愈応符、その地に至りて詩を題していはく、
生前欺天絶漢統、死後欺人設疑塚、人生用智死即休、何有余機到丘壟、人言疑塚我不疑、我有一法君未知、直須尽発疑塚七十二、必有一冢蔵君屍と作りしは、誠に詩を以て斧銊にかゑし確言にして、娨悪の人を戒むるにたれり。たとゑ七十二の塚をもうくとも、尽く七十二の塚を発かば、何ぞ是をかくするをゑんや。我一人の手を以て天下万人の眼を捨んとすとも、いかんぞ是を欺て事を得んや。

梅山陵の石人
上古は皇族の死せるときは必ず殉人を以て葬る事、和漢ともにありしと。我国にても垂仁天皇の御とき迄は、宮妃に至るまで共に葬りしを、野見の宿祢の臣、帝に奏問して殉死の人を止め、人に替るに土殖の人形を以てす。帝彼が功を賞して大師といふ姓を賜ふと。それより代々土人形を以て殉人にかゑしと。大和国高市郡平田むらの東に欽明天皇の陵あり。郷人、梅山の陵と称す。叢樹欝蒼として、丘陵皆砂石を以て固む。歳経て石の如し。陵の傍に石人四軀あり。長け各々三尺ばかり、奇形の人也。内に一軀陰を出せるものあり。何のものたる事を知らず。是も又殉人にかゑしものか。但しは圧勝のためか。頃日は陸務観が入蜀記を見て抹陵の傍に石老石媼あり。是も又上古の帝陵の物たりとあれば、漢土にも此類ひありや。又添上郡佐保山の陵には、巨石に狐形の事を彫刻せり。是即ち聖武帝の御母藤原の宮子を葬る所也。是全々道家に所謂圧勝の類か。惣じて漢土、我邦とに符節を合せたるが如き事多し。

祝技山が事
明人祝允明、別号を枝山と称す。嘉靖万暦中の方子なり。五歳にして書をよくし、九歳にして詩賦をよくす。遂に当時風流の冠たり。しかれども、性酒色六博を好み、又歌曲新声をよくす。常に顔に粉墨を施して、劇場に至、梨園子弟とともに演戯をなすときは、梨園子弟も彼が容貌に愧ずと。又海内の諸貴族より、其文章及び書画を求るもの、その門に至れども、多くこれを辞して、常に大砕して妓女の為に祐けられて、是に見ゆ。又天子より黄金を賜ふときは、人に分ち与へ、外文を貯ることなし。是を以て世人に貴重せらるといゑども、其死せるの日、家に一物なし。其放達遊蕩人の観横とする所にあらずといゑども、世の貪夫娨人に喩れば、却てまされり。然れども、其行ひ端正ならざるを以て、蓋天の才をもつて尺寸の功なし。惜むべし〳〵。其友唐伯虎、沈石田、李卓吾の輩も又その才万人に卓絶すといゑども、其正道を守らざるを以て、遂に終事をよくせず。文人万子深く鑑みざらんや。

清平調の詩
李白が作れる清平調の三首は、玄宗のとき洛陽興慶池のうち沈香亭の牡丹、今を盛りなりけるとき、玄宗貴妃と共にその地に遊宴ありて、李白を召て、その景を作らしむ。又楽工をして清調平調を以て是を合奏せしむ。よつて是を清平調といふ。其詩人をいふて花に喩へ、又花をかへさず。変幻自在にして太白が妙境、是を以て見るべし。其三首のうち、雲想衣裳花想、容春風払檻露華濃、若非群玉山頭見、会向瑶台月下逢といゑる詩は、遍く世人の知れる所にして、別に解するに及ばざれども、起句の雲を衣裳かと想ふ雲の字は、花の多きいふとのみ思しに、後明人徐[火+勃]が著せる所の徐氏筆稿といふ書に、葉、想衣裳(と)〔玉川本〕作れり。穿鑿の説といゑども、よく此詩を解するに宜しきか。

院号の起り
院といふは、もと宮中屋宇の名也。中古以来、天子位を退き玉ふ後に院号を称するは、亀山に御座あるを以て亀山院と号し、東山に御座あるを以て東山院と称するが類也。故に崩じ玉ゐて後、すなはち院号を以て謚の替りとす。又公卿太夫などの貴族の院号を称するは、至て不可なりといふべからず。然れども、今斗屑の人に至るまで、其父母兄弟の死せるとき、皆院号を以て是を称す。窃礼の甚しき事、是に過ぎず。志あるものは、院号を以て称すべからず。是皆浮屠氏非礼のもの、猥りに愚俗を煽惑するの術なり。甚しきものは、近年俗儒、術士の輩、人の為に諱名を命ずるに、字音の反切を以て是を韻鏡反しと称し、且つ吉利の名を考ふと称す。人の名を命ずるに、反切を用ゆべけんや。是皆愚俗を惑し、人の銭財を貪るの術也。悪むべし。

居士号の起り
本邦禅家の僧、猥りに世人の法弟となるものに居士の号を授くる事、何の拠なき事なり。居士といふは、君に仕えざる隠君子の事なり。呉曽慢録といふ書に見へたり。昔周の始、大公望、斉の国に封ぜらる。其とき、東海の辺に居士任、矞華任といゑる兄弟のものあり。二人常に相議つていふ。我天子の為に臣とならず。諸候と友たらず。自ら耕して食し、自ら汲て飲む。一つとして世人に求ることなし。禄無くして自然と禄あり。人を尊敬する事もなく、人に尊敬せらるゝ事もなし。唯自ら力を事とすといゑりと。是を見るに居士といふは、即ち処士の事也。礼記の玉藻を按ずるに、屋士錦帯とあり。漢の鄭玄が注に、居士は道芸ある処士也と記せり。されば古より居士の号は有しにや。今俗子の死せるにも、屋士の号を名くるは何事ぞや。

銭思公の篤学
世の学者博く見ずんばあるべからず。宋の銭思公座せるときは、経書、史類を読み、臥せるときは、小説の書を読み、厠にゆくときは詩文の書をよむ。その謹むる事かくの如し。古人の篤く学ぶ事、後人の及ぶ所にあらず。むかし僧の安覚、宋国にゆきて漢学するとき、十年のうちに尽く一部の蔵経、記せん事を欲す。念誦甚苦しめり。昼夜を捨ず、もし遺忘するときは仏前に陰相を祈り、案上に頭を叩き、血を流すに及べりと、宋の羅大経が随筆に記せり。朱文公がいはく、今の学者は書を読むに紙の数をかぞゑ、六経語孟も未だ三五枚をも記する事あたわず。かくの如くにして成る事あるを望む。何ぞ業を成すに至らんと。確言といふべし。故に厚く志し博く学は古人のなす所也。

酎金の事
余、少年のとき、諸子と同じく廿一史を考究せしとき、漢の世の諸侯王、酎金を以て国を亡すといゑる事、侭見えたり。余、其事を解せず。先哲に問ふといゑども、詳らかならざりしが、後焦澹園が筆乗といゑる書を読んで、はじめて其義を解せり。酎といふは正月に醸じて、八月に熟する酒の名なり。金といふは黄金の事なり。むかし漢の世には、毎歳天に宗廟の祭をなし玉ふとき、廟中へ献じ玉ふ酎といふ酒也。祭の費用とし玉ふ黄金は、みな四方の諸候王より、是を献じて祭を助けし也。その諸候にも大国を領するあれば小国を領するあり。酎金を献ずるに、各々それ〴〵の多少あり。其数のごとくならざるときは、各々罪の軽重によりて郡県を削る。礼甚しきに至ては、一国を没収せらるゝに至る。是を酎金を以て国を亡すといふ也。

老馬よく路をしる
或日、木村憨斎と兵法を論ずるとき、憨斎がいふ。むかし、斉の桓公孤竹を伐しとき、春ゆきて秋帰れば軍士とも帰路を失ゑり。管仲軍士に命じ、老馬を放しめ、其ゆく所に随て帰る事を得たりと。近くは文録の役に筒井順慶よし野の深山に迷ひ、老馬を放て路を知れりと。其とき、余惘然として管仲が事は何の書に出たる事を知らざりしが、後、春秋後語を見るに、其ことを載たり。その文にいはく、夜失路以北斗建為正以四時定之則知四方之路如本路則放老馬以従之と。是を以て、老馬のよく路を知る事をしれり。

六逆の事
一、管子といふ書に下として上にそむき、臣として君を殺し、賤して貴きを妨げ、若くして長者を陵き、遠くして親しき(を)〔玉川本〕へだて、新職にいて旧職の人をへだて、小職に居ながら大職の人を敬せず、淫乱にして義を破る。是八つのものは礼の経なり。人として是を侵さば刑戮を免れず。恐るべし。左伝に六逆と称するもの、此内の六ヶ条也。是管子の文を証拠とすべし。

箕仙の術の事
中華の道士が術也。箕仙といふ事あり。宋元の間より盛に行れ、明の末に至て、益行る。心に決定せざる事あるときは、神仙に問ふに秘訣ありて、神仙の宝号を唱へ、箕のうへに粟米をまきて、自ら筆を手にとり、そのまきたる粟米の上に筆尖をつけ、眼を閉て神を凝すときは、その占ふ所の吉凶自然と粟米の上へ書顕せり。是を箕仙の術といふ。黄檗山の開祖、隠元隆琦、我国に至るとき、日本に禅法の闡揚すべきや否を箕仙の術を以て問ふに、陳無烟といゑる仙人降りて、一首の詩を箕上に題す。其詩に、爵尽黄根歯不寒、可知機下有禅関、三千桃蘂初生日、以待真人共対餐。こゝを以て其法の楮桑に行るゝ事を知れり。後、遂に後水尾の上皇のために偶せられ、臨済一派の宗を開く事をゑたりといふ。その中華の箕仙の術に降る所の仙人の詩を見るに、各々其祈る所の人、詩に工なれば、その下る所の仙の詩も工なり。祈る所の人、詩に工ならざれば、その降り所の仙の詩も工あらず。不審といふべし。是近年民間の狐術をなすものの為す所と異なる事なし。

駿台随筆巻の弐終

駿台随筆巻の三目録

葉子が確言
間嘗の字義
経史中の俗語
三所の西湖
永楽銭の通用
字書の字数
冠山が唐話
無極の論
好鵝の論
許宣平が詩
畵寝の説
画蝿の事
上祭先生が詩
黄直卿が算数
款乃の字義
芸祖大祖の弁
睍睆の字義


駿台随筆巻の三

 鳩巣室先生著

葉子が確言
或人その友のために横道を以悩さる。急に是が為に讐を報せん事を欲して葉子に問ふ。葉子がいはく、你人のために横逆せられ、家を亡さるといゑども、其身さへ全ければ讐を報せん事今にかぎるべからず。彼自ら亡る時節あらん。桀の如(き)〔玉川本〕悪逆も天の助け玉ふときは急に伐べからず。彼悪人なれば、遅きか早きか亡ざる理なし。尭の如き聖人も、犬のために吠らるゝときは如何ともする事なし。急に彼を伐は、張良が博浪の椎を費すが如く遂に労して功なし。徐かにして時節を待は、項羽が烏江に剣を以て自ら刎るが如き事あらん。況んや彼が悪逆世人悉く是をしれり。你心を安閑無事にして、事を大量にはかりて時を待べし、と。其人、葉子が言に随しに後、果して彼悪人自ら亡ぶ。嗟乎、世の人我行ひ、たとい尭に譲らずとも犬のために吠らるゝときは怒るとも益なし。讐人たとゑ桀の如き悪逆をなすとも天の亡ざるうちは代べからず。徐かにして時を待にはしかず。

間嘗の字義
大学朱熹の章句のうちに、間嘗𥨸取程子意以補之といふ文あり。この間嘗の二字間の字をコノコロと訓じ、嘗の字をカツテと古人の訓点せるより世人も皆聞ゆる様にて過れども、是字義を解せざる誤り也。間嘗は二字連続せる文字にて、間常といふ字(と)〔玉川本〕同音同意にて、問常といふ義は、つね〴〵といふ義也。つね〴〵窃かに程子の意を考也。其義に随ふといふ意也。間常は俗語也。惣じて宋人の語録には俗語多し。其深切に事を説くには、俗語にあらざれば世俗に通ぜぬ故なり。

経史中文俗語
経史のうちとて雅語のみにあらず。俗語極て多し。是を以て我邦にて解しがたき事、侭あり。左伝に、利市の字あり。物を交易して得あることをいふ也。古文孝経の孔安国が序のうちに、人事といふ字あり。人事といふは表むきの急度したる贈りものにてはなく、ミヤゲモノといふ程の義也。五代史に、僂羅児の字あり。ヲヽチヤク者といふ程の義也。斉書に、東西の字あり。物の字のかわりに用ゆ。晋書に、寧馨の字あり。かくの如くといふ意あり。其外枚挙しがたし。是を以て見るに古より経史中に俗語を用ゆるは、世俗に解し安からしめん為なるに、我国にては却て解せぬ事になれ、又律令の書といふは、我邦にいふ公義の法度がき也。大明律、六喩演義、福恵全書の類也。是は官府語とて別に文字ありて読がたきもの也。去る丁亥のとし、公府より明律解を余に命ぜらる。余老病を以てこれを辞す。荻生惣右衛門、余に代りて明律考を著せり。

三所の西湖
蘇子胆、はじめ杭州の令たりしとき、杭州の西湖の地に住めり。其後、又頴州の令たるときも又、頴州の西湖といふ地に居せり。晩年に至りて恵州に謫せらる。其地にも又西湖といふ所あり。子胆が友人、泰少章が詩にいふ、十里薫風菡旧初我公所至有西湖、欲将公事湖中了、見説官閑事亦無と。又明の楊誠斎、その事を賦していはく、三処西湖一色秋、銭塘汝頴及羅浮、東坡元是西湖長、不至羅浮便得休。この詩は、初の二ヶ所の西湖は、東坡其地の令たれば、栄といゑども、終りの恵州西湖に至りしは、罪を得て謫せられしにより羅浮に至らざれば、よくも休すべしといふ意也。是を以てみるに、西湖といふ地名は所々にあり。然れども世に西湖の十景と称するは、杭州の西湖なり。東坡が、水光灔澰晴偏好山色涳濛雨又奇と作れるも杭州也。我国にても京極黄門が、駒とめて袖打はろふと読玉し佐野渡りは、下野にてはなく大和也。又尾上の鐘とばかり称すれば、高砂にてはなく初瀬寺の鐘なりと、和漢とも此類多し。

永楽銭の通用
我日本の通貨は、むかし垂仁帝のとき、無文の銀銭を鋳しより世に用来りしが、元明帝の和銅年中に多くの銅を掘出せしより、和銅開珎の銭を鋳る。此とき迄は今のごとく大判小判一歩丁銀などといゑる分ちなければ、唯銭一品を通用す。是を以て銭の価、至つて貴し。和銅銭出るに及んで、銭の価滅すといゑども、猶、和銅銭一文に米一斗六升を かえたりと、古き文に見へたり。銭の貴きことかくの如し。夫より代々の天子十二朝の間は、唐土の如く代々銭を鋳かゑて、村上帝の御ときに至る。夫より以来は、銭を鋳こともなかりしが、保元以後は戦国の世になりて、只漢土唐宋以来の銭を雑へ用しより、銭の価益々賤しく成ぬ。しかるに後小松帝のとき、応永十年八月三日、関東大風にて屋宇・林木を吹倒せり。其日、相州鎌倉三崎が浜へ、大船一雙(艘)〔玉川本〕飄着せり。舩中に永楽通宝の銭百万貫をつむ。是則ち明の鳳翔府より明京へ行く船なるが、颶風のために飄着せるよしなれば、早々鎌倉より京都へ告文ありて、大府の令により永楽銭をとり、塩醤米麦を与へ、船を送らしむ。夫より永楽銭を以て以前に通貨せる宋元の銭と雑へて通用せるに、永楽は銅質至つて美にして、宋元の銭は歳月を経て或は欫げ、或は薄くてよからざれば、是を悪銭と称して市に争ひ起りて、永楽銭にあらざれば用いず。是によりて足利家より令ありて、永楽一銭に悪銭三銭と当て用ゆべし、とのことなれ ば、自然に争ひも休ぬ。其後、文禄年中に永楽及び悪銭通用を禁ぜられ、文禄通宝の銭を通貨と定めしより、慶長年中に慶長通宝を鋳、元和年中に元和通宝を鋳、寛永年中に寛永通宝の銭を鋳しより、遂に末代迄の通貨となれり。然れども、銭貨の賤しきは一弊といふべし。為政の人のこゝろ有べき事なり。

字書の字数
世の博物に誇るもの、たゞ奇字を知るを以て人に誇んとす。宋人の世より以来、新に制作せる文字至つて多し。試に其一二を記す。○甩 堂音 ものをほり、或は投る事也。○〔氵+卡〕周音水中を物の流るゝ事。○喒牙音我といふ事。北方の自称也。甚しきに至つては、 ○□(入力不可)郭音閻羅王の帳面といふ事也。ヶ様の俗字あるに至る。余古来より侍る所の字書の字数を考るに、漢の許慎が著す所の説文には、字数纔かに九千五百九十三字あり。それより以来、宋の沈約が四声譜には、一万一千五百二十字あり。陏(隋)〔玉川本〕の陸法言が広韻には、二万六千百九十四字あり。毛晃が定むる所の洪武正韻には、一万二千百四十六字あり。陸漛が著せる范斗韻譜には、一万四千五百二十二字あり。孫晒が唐韻には、四万五千五百余字あり。後世に至りて、世に文字繁冗なる事かくの如し。其余字彙、玉篇、小補、韻会、及び清朝にて集るところの康熙字典、正字通の如き大部の字書に至ては、幾万字あるといふ事をしらず。しかれども、猶漏たる文字あるが故に好事の輩は別に品字箋、字貫、通雅、字孿などいゑる奇書を以て考索に備ふといゑども、是を奇を好むの一僻にして世用にとも(ことも)〔玉川本〕ならぬ書也。高価を費して求むべからず。然ども子雲が僻あるものは、しいて止むべからず。清の大祖の新に制字を造る事を禁じ玉ふも叡智の君といふべし。

 冠山が唐話
長崎の釈司、岡嶋嘉兵衛、名は援之、別号冠山。近ごろ東都に寓して時々余を訪ふ。其人放達にして学を好み、尤も唐話をよくす。是を清人某に受くといふ小説の書を読む事六百部に過ぐと勤たりといふべし。その尤も解し難き書は水滸伝、金瓶梅の二書なりと、又よく律令の書をよむ。近時、荻生惣衛門が明律考を著せしも、その伝を冠山に受 たりと、本邦の人什磨怠生了的などいゑる俗語に通ずるも、実に此人の力なり。

 無極の論
宋の游誠之が友人、或とき游誠之に問ふは、易に大極あり。然るに近ごろ濂渓周先生、別に無極の論を建るは何事ぞや。誠之答ていふ、常に我心に是を試むるに、其寂然にして善をなすの心発せざるとき、是を無極といふ。善をなすの心、未発せずといゑども、照然にして霊深昧からざるを大極といふ也と、友人大に歎服す。又游誠之が詩にその意をいふ。東風未旨催桃李、留得疎籬浅淡香、平生意思春風裏、信手題詩不用工、間処漫憂当世事、静中方識古人心。これらの句意よく味ふときは、弘益あらざらんや。

好鵝の論
王逸少、性質鵝鳥を愛せり。或とき山陰の道士が養ゑる白鵝を愛して、一巻の黄庭経を写して是と換たりと、是は鵝の乖巧ならざるを愛するなるべし。宋人張正索が父王右軍 が鵝鳥を愛するは、右軍もとより能書の人なれば、書なすには指実に掌虚して腕運るを筆徳とす。鵝の頸、その貌ちに似て腕法ある。是を愛せりといふ説あれど、是所謂理の 屈に落るものにして取にたらず。

許宣平が詩
  唐の許宣平は、隠君子にして歙南の陽城山に隠居す。李白その名を慕ふてゆきて訪ふときは、宣平其地を逃れてあらず。唯菴壁に一首の詩題し残せりと。其詩にいはく、一池荷葉衣無尽、半畒黄精食有余、剛被人来尋討着、移菴不免更深居。この詩、世の人の知る所なり。然るに第三句の剛の字義を解する人なし。剛は俗語に剛々地といゑる字あり。夫を省略して剛と一字用ひしもの也。早くといふ意也。今世俗のチヤツトといふ義也。初の二句は、隠者といゑども食に乏しからざる事をいふ也。ヶ様の境界ゆく人の送迎にも倦ゆへに、山中に隠居してあれど剛と世人が知て来るゆへに、まだ其上に菴を移して猶も山深く分いるといふ意ならんか。是にて剛の字の意をしるべし。

畵寝の事
世にいふ三写烏焉馬とて、多く書を写しかくては(かく時は)〔玉川本〕、字画を誤る事多し。後世の学者、聖経を尊んで是を弁ぜずんばあるべからず。論語の宰予晝寝の章を見て知べし。晝はもと畵の字の誤り也。畵寝といふは。寝廟に畵くといふ事也。礼に、諸侯たるものは寝廟に畵く。大夫たるものは丹を以て寝廟を彩どりす。士庶人たるものは白亜を以て寝廟をぬるを正しとす。然るに春秋のとき世礼乱れて奢靡の風をなし、宰予が如き賢人といゑども、世風にならひて寝室に畵きて諸侯の礼を侵せるを以て、孔子も其不礼を悪みて朽木糞土の比喩を以て戒しめ玉ふなり。然るを畵の字を晝の字と心得違ゑて、宰予がひるいぬるといふ事に注しきたれども、さのみ晝いねたるとて、ヶ様迄に戒しめ玉ふには及ぶまじ。此等の類、皆字畵をうつし誤りしより其義を誤つに至る。古人のいはく、誤るに毫厘を以てすれば、違ふ事千里、とはこれらをいふ成べし。新井筑州君の話に、兼好が徒然草を大江の友胤といゑる建武頃の人が写せし本を見るに、文庫の文、塵塚の塵と云ことありて面白し。是にてよく聞へ給(侍)〔玉川本〕らずやと語られき。然るに今印行せる本を見るに、文車の文、塵塚の塵とありて、文車といふは、むかし禁庭にて書籍を運ぶに宮嬪などの力に及ばぬ本は、文車といふ車を作りて書籍をのせたるとて、その車の図迄を絵きたる本あり。しかれども、むかしより外に文車といふ事を記せし書もなし。是も畢竟、文庫の庫の字の广を書をとせしより文車といふ説の起りしならん。

画蝿の事
世説の孫楚が事に、枕流嗽石といふ章の評に、画蝿の二字を書せり。是は、むかし魏の武帝の客に画をする人ありしが、或日墨画を描んとて筆に墨を醮して紙上に臨しに、その墨二三点紙上に落ければ、傍観する人、すみを落し玉ふにやといゑば、其人、左あらぬ体にてその二三点落せし墨点を、そのまゝ蝿の貌ちに画きしといふ故事あり。この人も、孫楚が石を枕にし、流れに嗽んといふべべ(ママ)きを誤て、流を枕にし、石に嗽んといふを如何、と問れて、流を枕にするは耳を洗ひ、石に嗽くは歯を𪊞ん為なり、と答へしと同様の義なれば、画蝿の二字を以て評せるならん。

上祭先生の詩
宋の上祭先生が詩に、透得利名関、方是小歇処、と世人よくこの句を解するときは、利に趨り、名を好むの域を逃れて、終身憂な かるべし。人として明徳を明らかにする事を知ず、名利の二つに心を昧さるゝときは、遂に身を休することを知ざるのみにあらず、徳を損す。朱文公がいはく、今の士太夫は、口に仁義をいふ事をよくすれど、身に礼儀を行ふ事あたわず。是鸚鵡のよく言ふに異なる事なし。礼にいはずや、鸚鵡よく言へども飛鳥を離れず、と。嗟乎たとへ万巻の聖経をよむとも、一つの善を行ふ事あたわざれば、真の禽獣ならずや。

黄直卿が算数
一人の算者あり。黄直卿に見へて大言していはく、我算術に於るや、天文暦法より人の禍福に至るまでよく知て違ふ事なし、と。黄直卿がいふ、我に大算術あり。よく身を保ち命を安ず、と。算者その故をとふ。黄直卿がいはく、迪に恵へば吉なり。逆に従へば凶なり。善をなせばこれに百祥を降たまひ、不善をなせばこれに百殃を降し玉ふ。大学にいはずや、言悖て出るものは、又悖て入る。貨悖て入るものは、又悖て出といゑり。此数術古今に亘りて少しも違ふ事なし。你が算術よりも勝らざらんや、と。確言たりといふべし。

 款乃の字義
  唐の柳子厚が詩に、〔款+乃〕靄一声山水緑、といふ句あり。この〔款+乃〕靄といふは、掉歌のことなり。しかるに〔款+乃〕の字はもと款と乃と二字にて、款の音奥也。乃の 音靄なり。それを誤りて、款の字と乃の字と二字を一字にして、音を奥と心得、靄の字を合せて〔款+乃〕靄と書来れるは、大なる誤といふべし。洪駒父よく比事を弁じて、冷斉夜話といふ書に記せり。弁ぜずんばあるべからず。

芸祖大祖の弁
書経に、帰格于芸祖の語あり。注に曰く、以芸祖為文祖とその義を詳らかにせず。又宋人其大祖趙匡胤を称して芸祖といふ。世人もよく知る所也。されば芸祖といふは、大祖の別称也と思しかど、さして証とする事もなかりしが、其のち唐書を見るに、唐の明皇開元十三年泰山を祭るの文にいはく、惟我芸祖文考精爽在天といゑる文あり。是則ち唐の大祖李世民をさしていふ也。又金史に金の世宗大定二十五年混江の水神を祭るの冊文にいはく、仰芸祖之開基佳江神之効霊とあり。是も又芸祖といふは、歴代ともに大祖の別称たる事あきらかなり。

睍睆の字義
詩経の句に、睍睆黄鳥載好其音と、この睍睆の二字を鳥の啼声と心得し人あれども、左にあらず。もし睍睆を啼声となすときは、下の載好其音といふは重復といふべし。明人楊用修が詩経の古注に、睍睆は黄鳥の羽彩にして声にあらず、と。又巌氏詩緝といゑる書に、睍睆は羽毛の鮮にして潔きをいふ、と。是を以て黄鳥の羽毛な る事現然たり。近ろは水戸の西山公、その師容明人朱舜水にその説を問玉ふに、舜水答ていふ、睍睆は流盻に見る事也と。音説(と)〔玉川本〕いふべし。睍睆ともに目に随へる文字なれば此説を是なりとせんか。

駿台随筆巻の三終

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駿台随筆巻の四目録

乱臣十人の論
陽春白雪の弁
千斤の力百斤を舞す
須弥芥子の論
正月飾ものゝ説
琢釘の戯の事
画鶏折松の事
豊臣大閣の書
鵰の伝の戒
数詩の詩
孔子三世妻を出さゞる弁
東坡仏印が問答
以徳報怨の弁
釈奠の事
望気の術


駿台随筆巻の四
鳩巣先生著

 乱臣十人の論
書経泰誓の武王が言に、予有乱臣十人、と。注にいはく、治乱曰乱、又十人は周公旦、召公夷、大公望、畢公、栄公、大顛、闔妖、散宜生、南宮括、其余の一人は文母と記せり。又邑姜とも記す。文母は文王の正妃大姒なり。邑姜は武王の后なり。是武王軍中にて誓玉たる辞也。注者の意には、周公旦を始、南宮〔女+舌〕(活)〔玉川本〕までの九人の臣、外にあつて武王を助け、又大姒は婦人なれば内を治む、と。然れども、三軍鋒鏑の間にあつて軍士に誓玉たるに、内を治る婦人を九人の列に加ゑ玉んや。況や武王の言にいはく、牝鶏之晨惟家々索なり、との玉しを見ば、たとへ大姒邑姜いか成賢女たりとも尽く婦人の言を用ひ玉はんや。余久しく此一条を疑しが、此ごろ著識小篇といゑる書を見るに、婦人を殷人に作る。殷人とは膠鬲なりと云り。然れども膠鬲は殷の賢人にして、殷亡びて他へ逃るといゑども周の臣とならず。況や孔子の言に、有婦人九人のみと仰られしにて、其一人は婦人たる事明らかなり。然れども又太姒邑姜にあらざるゆへは、太姒は武王の御母なり。子たる武王の御言に臣下の列に入れ玉ふ義なし。是にて大姒に有ざる事あきらか也。もし又邑姜となさば、邑姜は武王の后なれば武王よりは成程臣下の列にも加ゑ玉ふべし。夫にては成王の大誥に曰く、爽邦由哲、亦惟十人とあり。成王は邑姜の御子として、その母を諸臣の列に加へて称し玉んや。是別に一婦の諸臣の列へ加るものあれど、婦人ゆへに其名の後世に伝らざるや。千古の遺感といふべし。

 陽春白雪の弁
世に陽春白雪の曲は、調高きが故に和者寡しと称するは、唐人の詩にこの故事を誤り用ひしより世人も左様に心得しかど、宋玉が本文を見る(ママ)いわく、陽春白雪国中属而和之者数十人、引商刻羽、雖以流徴属而和者、不過数人而己と。此文を以て考れば、和者の寡きは流徴の曲にして陽春白雪の曲にあらず。然るに唐詩に、陽春和者寡し、又は白雪調高しなどいゑる句あるより世人も誤り伝へし成べし。

 千斤の力よく百斤を舞す
古人のいはく、千斤を挙るの力あるものは、馬上にをいてよく百斤の器械を舞す事自在なりと。誠にしかり。余壮年のとき加府に於て明人鄭茂といゑるものが持し金煎斧といふ器を、多くの士集りて是をもつに、只挙るのみにして舞弄する事は能ざりしを、飯田某なる人その場にありて、我よく五六十貫のものをあぐ、とて此斧をとり、此一人のみ弄舞する事を得たり。後この斧の重さをはかるに、纔か八貫目ばかりのもの也き。是を以て考るに、古の関雲長は八十二斤の青龍刀を使ひ、張翼徳が丈八の蛇矛、泰叔宝が双簡、王彦章が花戟、皆重き事百斤に近きもの舞弄する事自在ならば、万斤の力ある者にあらずんば能わず。我朝の弁慶、朝比奈などさぞと思やらる。

 須弥芥子の論
仏家の説に、須弥山を芥子の裡に納るゝと云事あり。理を以て解すべからず。唐の李渤、あるとき帰宗禅師に問ていはく、須弥の芥子を納るは大物に小物を納るゝなれば、理の当然といふべし。芥子へ須弥を蔵すといふは何事ぞや。帰宗がいはく、伝へきく、君万巻の書を心中に会得すと。李渤がいはく、然り。帰宗がいはく、君が心肝は、大さ椰子の如くならずや。万巻の書は何くに蔵すべきと答へしに、李渤もその理に伏せり。又宋の王荊公が詩に、巫医之所知、瞽史之所業、載車必百両、独以方寸摂と作りしはこの意なるべし。嗟呼、我心に一太極を具するときは、何ぞ万巻百車の書を蔵すのみならんや。鵬搏鯤運もその高深を計るにたらず。日昇月沈もその広狭を計るにたらず。豈に人心は万物の霊にあらずや。

 正月飾ものゝ説
先年某侯より正月飾もの儀式の義御尋ありしとき、余歳事儀略といふ書を著して答へ奉りぬ。是書は古より用ひ来りし雅俗の式を考へて委しく此事に記せり。其うち唐土と我国と附会せる事も多く、又違ふ事も多し。唐土にもむかしは元旦に松を折りし儀有。これ我国にての門松なり。又桃湯を飲儀あれば、我国にても梅の湯を飲む儀あり。又葦を懸るの儀あれば、我国にてもしめ索をはるの儀あり。鶏を画事儀あれば、我国にても鶏を画きし例あり。又屠蘇をのむの例、其外和漢ともに暗に附合せる事多きが、唐土にてはむかしより正月十五日上元の節には、禁闕より都の町々まで灯籠をつりて、佳節を賀す。十四日より十六日にいたりて夜々洛中の男女遊嬉せり。然れども群集の内には非義の事ども起りしゆへにや、今の清朝にては康煕皇帝より堅く此事を停止せられしと、我国には上元を祝せし事はなけれども、古しは正月十四日、十六日には踏歌の節と名け、又男踏歌、女踏歌とて多く、禁庭へ男女をめし、踏歌を奏せし事ありしが、聖武帝の天平年中に踏歌の儀をやめられ、正月十四日には仁義礼智信の五文字を短冊に書して都の士庶人をめし、是を探らしめ、仁の字をさぐれる者にはふときぬを賜は(は:ナシ)〔玉川本〕、義の字を探れるには禄を賜は(は:ナシ)〔玉川本〕、礼の字には錦、智の字には布、信の字には段常布をそれ〴〵に賜しとなん。今は名のみにて其儀なし。漢土我朝と申に、睿智の君は男女の遊楽を禁じ、国淫を遠ざけ、節倹を示し、賞罰をあきらかにし玉ふ事ありがたき政ならずや。

 琢釘の戯の事
世説にも出て唐土に琢釘の戯といふ事あり。いか成事にやと思しに、周亮工が随筆に委しく此事を(恐載之字□:補入)たり。其文にいはく、金陵童子有琢釘戯、画地為界、琢釘其中、先以小釘琢地、名曰簽、以簽之所在為末、出界者負、不当者負中而触所主簽亦負。この文を見て始て其事を詳らかにせり。三国のとき、孔融、魏王のために収られしとき、其二人の児子の戯をなして有しといふ文あれば、後漢の時代より有しことにや。

 画鶏折松の事
謝在杭が五雑俎に、歳の元旦には画鶏折松の儀式はむかしはあれど今は亡びぬと有を見れば、むかしは有しにや。後歳時記事を見て始て其事を詳にせり。鶏を画くは正月元日を鶏の日とし、二日を狗とし、三日を猪とし、四日を羊とし、五日を牛とし、六日を馬とし、七日を人とす。この故に元日の祝事に鶏を画くなり。折松は、松は歳寒に至れども操をかへぬにとれりとぞ。我邦の門松といゑるも此儀たるべし。一条冬(兼)〔玉川本〕良公が門松の祝にも、松は千歳をちぎり、竹は万代をちぎるものなれば、年始の祝事にこれを用ゆとなん。又一説に、門松は素盞烏尊、南海にて巨旦将来といふ者の宿をかさぬを怒りて巨旦を滅し、又蘇民将来が宿を借たるを好んじて巨旦が墓に生し松をきり、是を蘇民に賜はで、永く你が門に建て功をあらはずべしとありしを権輿とす、とは簠簋内伝といゑる俗書に出てとるにたらぬ説也。又御府に住吉法眼がゑかける鶏の画に、壬戌元旦勅命に仍て画くとあれば、我国にては元旦に鶏をゑがきし事ありしにや。

 豊臣大閣の書
豊公布衣より起て海内を掃清し、その威朝鮮に震ふといゑども、頗る嬌奢にふけり、人を見る事麈芥の如きのみならず、鬼神を見る事も又土壌の如し。一とせ芳野に登山せしとき、連日春雨はれざれば、山僧告ていふ、これ君の□(禁か:傍記)(禁)〔玉川本〕を用いず肉を携へしめ玉ふが故に蔵王神の怒り玉ふならんと。豊公笑ていはく、你の言の如んば、我誠に肉を禁ぜん。禁すとも猶ふらば、我一炬にこの山を尽く焼んと篤り玉ふに、明日果たして天晴ぬと。鬼神も又恐るゝ事ありや。嗟呼、豊公は一時の豪雄にして武僧(倫)〔玉川本〕の如きは世の知る所也。文徳の事は聞ことあらず。其遺筆といふものを見るに能書にあらず。然るにこの頃は王士稹が香祖筆記といゑる書を見るに、豊大閣の書を大に賞せし事あり。今按ずるに、是正しく菊亭晴季公の書なるべし。豊公つねに晴季卿に命じて簡牘を書せしむ(と)〔玉川本〕いゝ伝ふ。

 鵰伝の戒
上たる人善を好めば、下も又善を好む。上暴をこのめば、下も又暴を行ふ。是天理たりといゑども、上善を好んで下善をなさゞるものも侭多し。然れども上善なるときは、表には善を行ひ、裏には悪を行ふのもの也。是即ち大学所謂不善を揜ふて、其善をあらはすものなり。明君よく善に似たる悪人を識り玉はずんば、世に不平の事絶ざらん。宋人某かつて鵰の伝を作て、かく世の人の善悪を識ざるの君を戒しむ。鵰伝にいはく、昔黄帝少皥氏之世、鳳鳥適至故為鳥師而為百禽長。當是時南山有鳥名鵰。々之性鷙而健、貪而狡稲梁之甘木実之美、鵰不屑焉資衆禽之肉以為食。鵰之徒実繁。其与鵰同気而異質者、鷹鸇鳶隼鷂鶻鴟鶚、皆助鵰為虐者也。其異類而同姓者、鴟鴞鵂留梟鴆訓狐児車、其悪与鵰同特其材異爾。然鵰有大小。小者従鷦鸚雀力可制則制之、大者雖鴻鵠不畏也。故鵰之所在衆禽皆逃散遠去、標枝無安巣、灌叢無息羽、鵰無所得食、則遣操詭辞、招衆禽之過而愬諸鳳曰、鴻雁背北而来南、是叛者也。鸚鵡舍禽言習人語、是姦者也。倉庚出幽谷遷喬木、是冒越者也。鷾鴯秋冬遠遁、是避役者也。鳥知吉凶、言妖祥以惑衆聴。鵲項河以阻水利。鳩攘鵲之居、鴛鴦荒淫無度、鷗好間。雞好闘、鳧鷖鵝鴨習水戦。鸕鷀白鷺得魚不税。孔雀有異相、杜鵑催帰令戍卒逃亡、提壺勧人飲酒生事、是皆有罪。不治将益甚。鳳皇惑焉。命爽鳩氏治之、鵰与爽鳩相為表裏窮山谷、搜林麓。禽之出者、搏之逐之、攫之拏之、啄胔扼肪絶筋、磔毛揚風、漉血殷地。凡遇之者、無噍類。其餘皆周章振掉謀所以免禍者。毀巣破殼空所積以奉爽鳩。且以賂鵰使勿執。於是鵰之勢益張而衆禽之生理日蹙。其爪距稍利者、慕鵰所為則起而効之。其鈍者、深蔵遠竄餒死於草莽相藉也。而鳳皇始憂之、聞蓬萊之顛、有胎仙焉。胎仙名鶴号青田翁。廉介而潔白也。和平而好生。於是徴爽鳩使隺乗軒而治之。隺則与鳳皇謀曰、夫鵰其始一而已。自子之不戒而使之蔓延。今之為鵰者何夫多耶。昔之鵰名鵰、字鵰、形鵰、性鵰、本為鵰者也。今有非鵰而鵰者何也。鵰則得食、不鵰則不得食。鵰則有利而無害。不鵰則利未見而害常随之故不容其不鵰也。今禽之産子者、願為鵰雛之習飛者学為鵰形狀与鵰異者、又冒為鵰不誅其渠魁殲其凶醜以励其余、吾恐□鴪鸑神雀大鵬金翅皆化為鵰耳。鳳凰曰、善奏請于帝、々遣虞人持弓矢、張網羅。随鵰而磔之。鵰之徒尽斃。敕天下無留鵰、故其余党皆屏迩匿形不敢出。衆禽始得安於生養以尽其天年。此皆少皥氏之恩、鳳皇与隺之力也と云々。宋人がこの伝よく民を蠹し、政を乱るものを砭するにたれり。今の世人、鵰を学ぶもの少なからず。たとへ暫く志を擅にすとも、遂に天の譴をかうむらざらんや。

 数字の詩
詩の体に一句を三字畳むものあり。呉融が詩にいはく、一声南鳫己先紅、〔土+戚〕々凄々葉々同とこれなり。又一句宛に三字連ぬるものあり。劉駕が詩に、樹々々上啼暁鶯、夜々々深聴子規とこれなり。又両句を三字連るものあり。白楽天が詩に、新詩三千軸、々々金玉声とこれ也。又三聯ともに字を畳むものあり。古詩に、青々河畔草、欝々園中柳、盈々楼上女、皎々当牖織、娥々紅粉粧、織々出素手。これらの類也。詩の変体、晩唐よりして宋元の世に至りて至て多し。近年清人周元会が七律の閨怨の詩に、一二三四五六七八九十百千万丈尺両半双等の十八字を詩句(の)〔玉川本〕中に用ひて作れり。極て巧なり。本邦一時の文人皆その作を和せしが、周元会が作に及ばざる(のおよばざる)〔玉川本〕事多し。只芝軒老人が和作尤も勝れり。其詩にいはく、二六峯巒五大谿、築台百尺望遼西、十年七病終帰仏、一夢三驚動聴鶏、万樹秋声双杵乱、半庭秋草両眉斉、九重城外八千路、時復回首再四啼。いま好事のためにこゝに記す。

 孔子三世妻出さゞるの弁
世に言伝ふ、孔氏三世孔仲尼より子思に至るまで、その妻を出り玉ふ事ありと。成程聖人といゑども婦人に七出の一つをも侵すものあれば去らざる事を得ず。然りといゑども三世まで出妻の事あらんや。余久しく是事を疑しが、後明の張孟常が随筆を見て其疑を解せり。その文にいはく、世伝孔子三世出妻、蓋本檀弓所載、孔氏不喪出母、自子思始之説、予窃疑之間、嘗反覆取檀弓之文読之、忽得其解。其曰、昔者子之先君子喪出母乎。夫出母者、蓋所生之母也。呂相絶秦曰、康公我之自出則出之為言生也。明矣、其曰、子之不喪出母、何居、即孟子所謂王子有其母死者、其伝為之請数月之喪是也。蓋嫡母在堂、屈於礼而不獲自尽、故不得為三年之喪耳。其曰、其為伋也。妻者則妾是也。意者白為子思之妾所出而子思不令其終三年之喪、故曰孔氏之不喪出母自子思始也。由是言之、子思且無出妻之事、而況於伯魚也、況於孔子乎。其曰、子之先君子、非孔子伯魚也。猶曰、子先世之人云爾と。孟常がこの説千古の卓見といふべし。是を以考るに、これ檀弓の文を記せるものゝ誤りにあらず。礼記を読ものゝ誤り也。漢宋の諸儒経語を弁ずるもの汲々たるに独り此事を誤り、聖人をして千古不白の冤を被らしむ。豈誤らずや。

 東坡仏印が問答
東坡蘇公は宋一代の博物にして、文章書画に至る迄巧なる事遍く人の知る所也。其方外の友に仏印禅師なるものあり。又よく口才あるもの也。常に東坡と答問して相戯る。或日東坡、仏印に戯れていはく、古人の詩句をよむに、時聞啄木鳥、疑是敲門僧。又、鳥宿池中樹、僧敲月下門とかくの如く多くは鳥を以て僧と対す。僧も又鳥に似たる事ありやと問ふに、仏印が答へに、是老僧が常に君と相伴ふと同意ならずやと応たるには、東坡も其才に服しぬと。是東坡を指して鳥じやといわぬ計也。世に伝蘇公その聦明衆に超んずるを以て終身を誤りし給にや。我子の愚ならん事を願しと世俗の説ならんか。明人揚白湖が詩にいはく、東坡但願生児蠢、只為聦明自占多、愧我平生愚且蠢、生児何妨過東坡。一笑すべし。

 以徳報怨の論
或人のいはく、以徳報怨はいかん。孔子の曰く、何以報徳と仰られしは、真に聖人の教なり。もし徳を以て怨に報い(ママ)ば、徳に報るものなし。然れども仏家には徳を以て怨にむくゆる説あり。仏経に釈尊、或とき山中にあって修行せしとき、歌利王猟して獣の逃る所をうしないて釈尊に問ふ。釈尊これを知るといゑども、生を傷らん事を哀んで答へず。歌利王大に怒て、釈尊の右の腕を切るといゑども猶答へざれば、又左の腕を截る。此のとき釈尊発願していはく、我もし成仏せば先きに此者を度せん。衆生を害せしむる事なからしめん。と後成仏して遂に此人を化度せり。是即ち十大弟子のうち陳〔心+商〕如尊といふもの也。嗟呼、世の人この公案を以て一心を降伏するときは、世々寃讐をむずぶ事なし。然れども我儒は道の通行すべ(き)〔玉川本〕ものに非ずんは行はず。もし通行せざるものは害、常にこれに随ふ。中庸にいはく、近人情人情に近きを道をすべし。

 釈奠の事
釈奠とは天子の孔聖を祭り玉へる名にして、礼記の王制に菜を釈、幣を奠て先師を礼すと有ゆへに、尺てんといふ也とぞ。唐土にては後漢の明帝自ら孔子の宅に幸して孔子及び七十二弟子を祭れりと伝ふ。本邦にても文武帝、大宝元年に釈奠の儀行る。夫より毎年二月八月上の丁日に此儀を行る。大学寮に孔子及十哲の肖像をかけ、上卿少弁納言の諸官ともに廟拝に立ち給て文章博士題を出す。孝経、礼記、毛詩、尚書、論語、周易、左伝也。とし〴〵めぐりて用ひらる。又次の日は鵰を天子に奉る事は公事根元に見えたり。歌に、唐人のかしこき朝をうつし留めひじりの時と今日祭る哉。又先聖とは孔子をさし、先師とは顔回をさす也。むかしは周公を先聖と称し、孔子を先師と称しけるを、唐の太宗貞観二年に改て先聖先師とは孔子、顔回を称するなり。今や昇平日久しく、朝庭の釈奠怠りなく、春秋に享祭し玉へば、東府にも又其儀行る。四方の公候も学校庠席の教べからん事を希ふのみ。

 望気の術
天文家の外に望気の法あり。気を望んで天地の変及び伏兵の類ひを知る術あり。漢土には、むかしより其法ありて、則管窺集要及び望気経などいへる書ありて、専ら是を学ぶ事成が、本国には此術ある事を聞ず。我友阿比留氏此術をよくすといふ。其術に亡殺存殺を知るを主とすとなん。亡殺とは気を望んで古戦場か又は墓地などの陰気の凝滞せる所をこなたより知る也。又存殺とは伏兵か盗賊か虎狼などの我に害ある者がむかふに隠れいるを気にて知る事也といゑり。又唐土には風水先生と称する人一種ありて、是は先祖を葬る墓地の善悪を相する見様ありて、善き地に先祖を葬りかゆれば、其子孫の内に必ず富貴の人生るとなん。晋の羊氏が伝に、猶折臂の三公を出さんなどいゑるも風水先生の事ならん。むかしよりヶ様の術もありしにや。甚しきに至て近年本邦の剣を相し居宅を相して愚民を惑し、重銭を貪るものにくむべし。

駿台随筆巻の四終

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駿台随筆巻の五目録

怯里馬赤の事
人面寒熱を厭ず
詩三百孔子の刪る所に非ず
倭国孟子を書なきの論
詩の始りの事
峨眉山月の詩
琉球国の神
元の八恩麻が事
儒仏道の論
日本崛強たるの論
阿堵寧馨の説
氏の字の弁
金吾棒の事
人を相するに貌を以てす
捷対の才
灯籠の論
杜撰の字義
和韻の事
怯勇常なき(の)〔玉川本〕弁
大字小字の弁


駿台随筆巻の五
鳩巣室先生著

 怯里馬赤の事
今長崎の訳司を舌官と名くる事は、字義に仍てよく知たる事なれど、先年清人肉麟が書に通事の事を怯里馬赤と記せり。何の義たる事を知らざりしが、頃者は葉子奇が著せる草木子といふ書を見るに、むかし北狄もと文字をしらず。七の字をかくに〔七の反転〕と書せし事などありしゆへに、後訳司を立て中華の言語を学べり。其通事の名を怯里馬赤と称せしと。元の世祖、或とき群臣に問玉ふ。孔子はいか成人ぞとありしかば、郡(群)〔玉川本〕臣のうちより答て、孔子は天の怯里馬赤なりといゝしは、孔夫子は天に代りて道を教へ玉し聖人故に、天の通事といふ意なるべし。是を以て考るに、怯里馬赤といふは、畢竟胡国にて通事の事を称するの名たるべきか。

 人面寒熱を厭はず
人の四支百骸こと〴〵く寒気を畏れづといふ事なし。唯人面のみ寒気を厭はざるは、人の頭は諸陽の会する所なり。其ゆへは、諸陰の脈は半ば頭に至りて下に還り、半ば胸より上らず。只諸陽の脈のみ頭上に至るによりて寒気を畏れずとなん。

 詩三百孔子の刪る所にあらず
孔子詩を刪て三百篇となすとは、孔安国が言に見へたり。是は史記に古詩三千とあれど、後世に伝りしは三百篇のみなれば、孔安国が意には、もとは三千首ありしを孔夫子が刪り玉いて三百篇を棟(捧)〔玉川本〕へると心へ違ゑし成べし。古書を考るに、孔子はたゞ楽を正して各々其所を得せしめ玉ふのみにて、未だ刪詩玉ふといふ文字を見ず。論語にも、孔子自衛返魯云云。誦詩三百と。又家語にも、対哀公問郊曰、臣聞、誦詩三百、不可一献と。是を以て考るに、皆誦詩といふ文字のみにして、刪詩といふ文字なし。又古伝に列国の卿大夫燕饗の詩は多くは皆三百篇中の詩なり。是皆孔子より以前の事也。是を以て三百篇に刪るは孔子の刪り玉ふに非る事を知るべし。然れども、葉水心が著せる習学記にいふ、古詩もと三千首ありしを孔子刪て三百篇となし玉へりと。是史記の説によつていふ成べし。余按ずるに、古詩もとは三千首ありしを、周の天子及び諸候(ママ)多く楽章に用ひて、史官如(に)〔玉川本〕命じ、三千首の十が一を刪り取て三百篇とせるにて、孔子より以前に三百篇に刪りしならん。古書の中に極めて逸詩少きを以て知るべし。唯孔子は自ら誦詩とはの玉へど、刪詩とはの玉はず。是を以て、詩三百は孔子の刪り玉ふにあらざる事、必せりと知るべし。

 倭に孟子の書なきの弁
建仁の頃、京師に今小路玄恵なる人あり。初僧にしてのち儒となる。博学の人にして、曽て大平記数巻を作る。玄恵が著せし洗心子といふ書にいはく、中国に孟子といゑる書あれども未だ見ずといゑる文あるを見て、久しく疑しくて過ぬ。其後明人謝在杭が著せる五雑俎を見るに、其地理の部にいはく、倭人重儒書信仏法。凡中国経書皆以重価贖之、独無孟子云、有携其書往者、舟輙覆溺すとあり。是を以て考るに、我国には古しへは孟子の書なかりしにや。然れども、孟子の書をのせ来る船は必ず覆溺すとは、恐らくは此理なかるべし。孟子の書の我国渡りしは、集注の四書の来るを始めとすと。又趙注の孟子は夫よりのちに渡れるにや。博物の君子に問ふべし。

 詩の始りの事
虞書にいはく、詩言志、歌永言と。是は詩の道なり。詩の始りを考るに、葛天氏のときは土(士)〔玉川本〕ありて、八闋を歌しを詩の始とす。しかれども、其辞は亡びて後世に伝らずといゑども、唐虞の世に至ては盛に行る。三言の詩は晋の夏侯堪に始るといゑども、実は湯盤の銘は古箴の銘を三言の始りとす。四言の詩は明良卿雲歌に始り、五言の詩は蘇武・李陵が河梁送別の詩にはじまるといゑども、実は詩経南風の詩に始る。七言の詩は栢梁台の詩に始るといゑど、実は甯戚飯牛の歌に始る。詩経三百篇の詩に四言多し。其外異体の詩は多くは後世好事の者の造る所なり。回文の詩、又野馬台の詩などいゑるは商謎などの辞より起れるか。

 峨眉山月の詩
李白が峨眉山月の詩に、峨眉山月半輪秋、影入平羌江水流、夜発清溪向三峽、憶君不見下偸州。この詩は李于鱗が唐詩選に出て、世人もよく知れる作也。月の事を詠ぜし様に見ゆ。然るに、結句の憶君不見下偸州、この憶君の君は誰をさして謂るにやといふに、昔より注者の意には、君は月をさしていふなりといゑども、穏かならぬ様に思しが、聯誠(珠)〔玉川本〕詩格といゑ(へ)〔玉川本〕る書の中には、此詩の題に送人之嘉州とあり。又姜白石が詩話には、此詩の題に峨眉山月歌送客とあり。送を見てはじめて此詩句を解せり。君とさしたるは送る所の客をさしていふ也。峨眉山の辺で折しも秋の夜の事なるに、客の他所にゆくを送るゆへに、詩の題に峨眉山月歌送客とありしを、于鱗が唐詩撰をゑらべるときに、送客の弐字を除きしなり。是は崑崙山雪歌送人之西河、又洞庭歌送人帰巴陵などいゑる題と同意と見るべし。惣じて詩を解するには容易に見るべからず。大々意たがゑること多し。

 琉球国の神
世にいふ、中山国は小にして、貧弱自立すること能はず、我日本に臣服す。その国、神を敬して、婦人の節に死するものを尸神とす。是を女王と称す。代々この神の選によりて王位を継ぐと。是を以て、国王より以下敬せずといふ事なし。毎歳八九月の間、稲梁己に贄せるときは、自ら擅に芟らず。まづ神に告るときは、神降りて稲梁の数穂をとり茹ふ。その後にこれを芟る。もし誤つて神に告げずして是を芟ば、その人忽ち死すといゝ伝ふ。其神を祭る廟祝も又女巫なり。もし神に祷らんと欲するものは、先づその女巫に告るときは、女巫弐三百人の侍女を随へて出きたり。一人の女を揀びて是を尸神と定めて祷るに、神降りて其女の魂を摂し、自ら言ふ声、蚊の鳴が如し。極て霊顕多し。此事謝在杭が随筆に見へたり。余が友人松浦儀介、別号霞沼、先年彼国の人に此事を問しに、これ秘事也とて語らざりしとなん。畢竟これ我国の狐術をなすもの所為と異なる事なし。

 元の八思麻が事
世の仏を信じて僧を敬する事、和漢ともに少なからず。然れども、其至て甚しきは元の世祖のはじめて天下を定とき、西域の僧に八思麻といふあり。よく天文に通じ、籌略ありて、世祖を祐けて天下を定めしむ。又蒙古字を制し、七音を本とす。世祖これを尊んで、詔ありて帝師となして勅して曰く、一人の下、万人の上、西方の仏子、大元の帝師と仰くべしと。こゝを以て、天下の人尽く是を尊敬す。のち京師に於て卒す。世祖又帝の礼を以て是を葬り、郡国に詔して、帝師殿と名けて八思麻が廟を築かしむ。其制文廟と同じ。嗟呼、釈氏の胡僧を敬する事、何ぞかくの如きや。謬りといふべし。然れども、八思麻が如きは世祖を祐けて其功多し。もし是を帰俗せしむとも、凌烟閣に画すべきもの也。今の世を見るに、眼に一字を知らず、一戒をもたもつ事あたはざる俗僧をして大刹に住しめ、世の財宝を費す事惜むべし。

 儒仏道の論
宋の季木魯翀、若きとき翰林にあり。其才衆人にぬきんず。或とき天子問書に(問、書に)〔玉川本〕の玉く、儒仏道の三教、何れが尤も貴きやと。魯翀答ていふ、譬へば釈氏の道は黄金の如く、老子の道は白壁の如く、孔子の道は五穀の如しと。天子のいはく、然れば儒道を以て賤しとせんか。魯翀がいはく、然らず。黄金、白壁は世になくとも飢渇に及ぶ事なし。五穀なきときは一日も命を養ふ事を得んや、と天子大に其説に服し玉ひぬと。確言といふべし。

 日本崛強たるの論
我国の崛強たる事、古より余国にまされり。元の世祖のとき、西戒(戎)〔玉川本〕・東夷・南蛮・北狄、こと〴〵(く脱カ)元に従服せずといふ事なし。誠に天を窮め、地を極むといふべし。然るに、我日本のみ崛強にして、彼に随はず。故に世祖、阿剌䍐等に命じ、十万騎の兵を以て日本を征するに、其兵尽く亡びて、命を逃れて帰るもの纔かに三人のみ。夫より我国を恐るゝ事、猛虎の如し。明の大祖も四百余州を掌握するの英傑といゑども、我国と隣交を修する事を禁ぜしは、後の憂あらん事を恐てなり。謝在杭が五雑俎の地の部にいはく、大祖之絶日本朝貢、知其崛強(也)〔玉川本〕。文皇之三犂虜底(庭)〔玉川本〕、知其必為辺患也。舎此二者、中国可安枕而臥矣。固知創業之主、其明見遠慮、自非尋常所及也と。これを以て、我国の崛強たる事をしるべし。

 阿堵寧馨の弁
俗語に阿堵寧馨の字あり。阿堵は晋のときの俗語にして、後世の俗語の這箇といふと同意なり。コノといふ事なり。王夷甫の詩を以て阿堵物と云しは、此物と云しなり。夫を阿堵は銭の別称と心得るは大なる誤りといふべし。たゞ阿堵はコノといふ義と見るべし。又寧馨はカタノゴトクといふ事なり。晋の山濤、或とき王衍を見て曰く、何物老嫗生寧馨児と。この意にて見るべし。なにものゝ老婆が如此の児を産しといふ義にて、さして賞味せる辞にもあらず。只カクノゴトキといふ意也。後世の俗語に恁地といふと同意としるべし。

 氏の字の弁
今世上の人、自ら姓名をしるすに、某氏名某拝などしるすは誤りといふべし。氏の字は自ら称する字にあらず。左伝の正義に、氏猶家といゑる注あるを見れば、氏の字は家の字の意に見るべし。伝曰、盟于子哲氏。又曰、逐瘈狗入於華臣氏。この類にて見るに、氏といふは即ち家といふ事なり。然れば、孔子の遺書といふときは孔家の遺書といふ義なるべし。其外仏氏の書、老氏の書、鄭氏の書、新安陳氏の書など記せるは、皆氏の字を家の字の義に見るべし。是を以て考るに、自ら姓名を記するに姓と名との間に氏の字を用るは誤りならずや。唐土にては、只婦人のみ自ら氏字を用る例あり。李門強氏拝など記す例にて見るべし。男子の自ら氏の字を用ゆる例をきかず。

 杜撰の字弁
事の格に合ざる事を世に杜撰といふ。何の拠らする事を知ざりしが、野容叢書といふ書に其事をのす。むかし杜黙といふ人、詩を作りて、其詩律に合ざるを以て、後の人、事の格をはづれたる事を杜撰といふとなん。然れども、杜黙が伝を考るに、杜黙、字は師雄。□人。少くして逸才ありて、誠に詩に長ずとあれば、尽く律に合ざるにもあらざるべし。

 金吾棒の事
漢に執金吾といふ官あり。是は金吾棒を手に執て、天子の御幸ましますとき、御車の左右に付して守護する役なり。金吾棒といふ棒は銅にて作り、夫を黄色にぬりて、両端を黄金にて包し棒なり。金吾といふは、もと不祥を辟る事を好む鳥の名なり。よつて、天子を守護するに携る棒の名につけし也。是を以て考るに、執金吾といゑるは天子の御供役なるべし。多くの官爵の書にも漏たれば、こゝに記す。

 人を相するに貌を以てす
人情の軽薄成事、唐も倭も昔も今もこと成事なし。余が少かりしとき、或講席にゆきしが、一書生あり。自ら木履をうしないしとて、余が衣服の垢つきたるを見て、我が窃しやと疑しかど、余はたゞ知らずと答て過ぬるが、後に宋の羅大経が随筆を見るに、むかし、許由、尭の譲りを逃れて一夜逆旅に宿せしが、逆旅の主人、許由が衣服の破れたるを見て、官冠を窃めるやと怪めりと。伯夷・叔斉、周を逃れて首陽山に隠れしとき、周の使者、叔旦といふもの到りていはく、你等弐人再び周に帰らば、大官を与へて富貴心のまゝならんと盟しかど、二人は只笑ふて答へざりしとなん。人の見識も賢不肖によつて、其違ひし事幾ばくぞや。所謂相違ふ事九牛毛とはこの類にや。

 捷対の才
古より文人・才子、対語に巧なるもの、古書中に多く見へたり。其尤も巧なるもの一弐を記してその才を賞す。宋の丘機山、その才衆人に超出す。或とき、一書生その才を試んとて、五行金木水火土といゑる句を出して対語を乞ふに、機山そのまゝ四位は公候伯子男と答へしは名対といふべし。又明の于蕭愍、八歳のとき、紅衣を着し、馬を馳けるに、隣人戯れて紅孩児騎馬遊街といふ。言下に于蕭愍答て、赤帝子斬蛇当道と対せしかば、世人尽その才に服せりとなん。其外明人の名対には、三光日月星といゑる対に四詩風雅頌と答へ、又九州四海悉主悉臣といふ対に億載万年為父為母と対し、又冬夜灯前夏侯氏読春秋伝といふ対に東門楼上南京人唱北西廂と対せしなど、名対といふべし。是等は皆得易からざるの才なり。我友祇園瑜、別号南海、幼にして詩才凡ならず。その十七歳のとき、題を分ちて一夜に百首の雑詩を賦す。其作皆見つべくして、余人の及ぶ所にあらず。又十二歳のとき、人その才を試んととて、鳶飛魚躍活溌々地といふに対をなさしむるに、言下に光月霽風心醒々法といふ句を以て対せしかば、衆人その才に服せり。その外祇園生が名対猶多し。此外本邦古の名対詩句少なからず。良香が三千世界眼前尽、十二因縁心裡空。また気霽風梳新柳髪、氷消波洗旧苔髭、など巧に過たりといへど、又凡ならざるものなり。

 灯籠の論
宋の大徳年中に、僧の胆巴なるものあり。よく戒乗をたもちて口才あるもの也。これによつて、上天子諸候より士庶に至るまで、尊敬せずといふ事なし。不魯罕皇后これに帰依す。或とき、皇后の産し徳寿太子、病を以て薨じ玉へば、皇后悲しみの余に使を胆巴に遣し、責てもうさく、我もとより仏天三宝を帰依し、又師の礼を以て你に仕ふ。然るに、我一子の命をだに延ることあたわづやと。胆巴答ていふ、尊意の如くなれど、是を物に譬ふるに、仏法は灯籠のごとし。風雨ふき来るのときは、是を蔽ふて火の減ずる事をふせぐべし。もし燭つき、油つくるときは、是をいかんともする事なしと答へしは、確言といふべし。彼釈門の人といゑども、死生有命の意をよく会得せしといふべし。

 和韻次韻の事
上古より李唐の末まで、詩に和韻ありて次韻なし。和韻といふときは、他人が帰雁の詩を一東の韻にて作れば、此方も帰雁の詩を一東の韻で作るをいふ。起句より結句に至る迄、一字〳〵他人の用ひし文字を用るにあらず。次韻といふときは、起句より結句に至るまで、たとへ百韻弐百韻ありとも、尽く他人の用ひし字を用るなり。此法晩唐より起りて、白居易・元稹・陸亀蒙・皮日休など、たがいに贈答に此法を用ひしより、宋朝に至りて盛んに行れ、遂に今日に至りて風をなせり。甚しきに至ては、たゞ倹韻を押すを以とこゝろゑ、押すところの韻字の安否を顧ざるものあり。笑ふべし。譬へば堂を造り、墻を築くに、其礎かたからざれば、遂に傾き頽るゝの憂あらん。詩を作るも又かくの如し。韻を押すに穏なる字を用ゆべし。然らざれば、律に合ざる事あらん。然れども、秀才のものは是をなすも又可ならんか。短才の者の倹韻を用るは、西施が顰に傚へる類にして見苦しからん。

 怯勇常なきの弁
余或日、三宅九十郎と勝敗の道を論じて、春秋決勝篇の語をかたり、共に大に是語を愛せり。其語にいはく、人として常に勇なきものは、又常に怯るゝ事なし。よく我気を養ふときは心実す。こゝろ実するときは勇なり。もし気を養ふ事能はざるときは心虚し。心虚しき時は怯る。しかれば、勇は実より生じ、怯は虚より生ず。是常理なり。故に勇なるときはよく戦ひ、怯なるときは敗す。戦て勝ものは自ら勇を戦すを以てなり。戦にて敗るゝものは自ら怯を以て戦ふがゆへなり。是常理たりといゑども、能自らを顧るものにあらざれば、怯勇無常の道を知る事なし。聖人はたゞ是を知る事彰然たり。豈自ら身を顧みて養はざらんや。

 大字小字の弁
書を読むに、大字小字といふ事あり。大字とて字形の大なるにあらず。小字とて字形の小なるにあらず。譬へば壱弐の如き画多き字が大字なり。同じ文字にても、一二の如く画を略したる字は小字也。此類にて知るべし。是大篆小篆といふにて知るべし。大篆とて字形の大なるにはあらざれども、唯上古の字画多き篆字をいふ也。小篆とて字形の小なるにはあらざれども、同じ篆字にても字画少きを小篆といふなり。大字小字といふ目名は、唐土にはむかしより人の知し事なれど、我日本にては曽て知る人なきが為に、因みに此に記す。

駿台随筆巻の五大尾

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