九州大学文学部・大学院人文科学府・大学院人文科学研究院

先輩からのメッセージ

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文学部で活躍する学部生から、これから文学部を目指す人に向けたメッセージです。

「空間」を読み解く

地理学コース
南 源来(地理学 2014年度入学)

写真:南源来(地理学 2014年度入学)

おそらく多くの人にとって「地理」とは、受験科目としてのものが多いかもしれません。ひたすら山脈や気候の名前を覚えるといったイメージを持っている人も多いのではないでしょうか。しかし、大学の「地理学」と受験科目としての「地理」はほとんど違う!まず、山脈や気候などは「自然地理学で取り扱う対象であり、九大の地理学は「人文地理学」です。人文地理学は、空間、場所、地域を政治・経済・社会・文化・歴史などと関連づけて研究するのです。例えば、福岡県と佐賀県の境界は、筑後川に沿って決められているが、なぜ実際の河川の流れと異なる箇所が多いのかといったこ とや、都市のなかで社会的に排除される人はどのように発生するのかといったことを扱います。また、対象のスケールも様々です。国際的な紛争問題から、市町村より非常に小さく、地元の人が勝手に名づけた地名をもつ地図上にない区域までが対象です。

高校の地理学は多くはアウトプット型であり、大学はインプット型だと思います。大学の地理学は、地理をやってないよーっていう人や地理はちょっと…っていう人も大丈夫!大学でやる地理は、様々な講義や文献から知見を得、自分の好きなことを好きな地域でフィールドワークや分析を行うといったものです。もちろん、高校の地理の知識は「地理学」の諸事象を理解するのに一役買うのですが。

私は、三年時の夏に岡山県の商業について調査しました。一般的に郊外に分布する巨大ショッピングモールが中心市街地にできると、周辺商業施設にはどのような影響が生じるかが私のテーマでした。街頭でのインタビューや過去の住宅地図を用いての分析を行ったが、なかなか聞きたいことが聞けないこともあったし、思うような結論が出ずに大変でした。しかし、見知らぬ街、見知らぬ人々との出会いは、私の心が強く惹かれました。

地理学に一番必要なものは、好奇心です。例えば、あなたが旅行に行き、この街並みはどのように作られたのだろうと感じる。そういったことから地理学は生まれるのです。また、学校に電車や自転車で行き、授業が終わり、家に帰る途中コンビニでお菓子を買う、毎日の動作の中にも地理学は隠れています。あなたならどんな地理学をやりたいですか。

文学部に地理学があることを意外に思った人もいるかもしれません。それには、様々な歴史的背景がありますが、私は勝手にこう思います。空間を分析し、記述する。それが文学部に地理学がある理由だと考えています。

人間科学コースには地理学研究室以外にも、4つの研究室があります。それぞれ、共通する部分もありますが、特色のある研究を行っています。よく考えて研究室を選び、自らの知的好奇心を揺さぶる学びを行ってください。


中国哲学史の魅力

哲学コース
井手 梓(中国哲学史 2012年度入学)

写真:井手梓(中国哲学史 2012年度入学)

「中国哲学史」と聞くと、何だか難しそう、一体何をする研究室だろう、といった印象を抱かれる方が多いかと思います。実際、それほど難しく考える必要はありません。中国哲学史研究室では、古代中国の書物を読み、そこから何が読み取れるかということを学んでいます。とてもシンプルなことなのです。

私は学生時代から『論語』を読むことが好きでした。研究室選択の際には、その『論語』をはじめとする漢文を学びたいと思い、中国哲学史研究室に進みました。研究室では、『論語』や『孟子』など古代中国の書物を読み解き、そこから何が言えるか、何を伝えようとしているのかを考えていきます。遥か2500年も前に書かれた書物が今も読み継がれているのには、やはり理由があります。また中国思想は、江戸時代以降日本でも盛んに学ばれ、日本思想にも大きな影響を与えています。古代中国の書には、我々が生きていくうえで大切なことが書いてあるのです。

私の好きな言葉に「義を見て為ざるは勇なきなり」という孟子の言葉があります。これは、「人として当然行うべきこととわかっていながらそれをしないのは、勇気がないためである」という意味です。この言葉を常に胸にとどめ、目の前にすべきことがあれば、必ず行おうと心がけています。このように昔の言葉は、現在自分自身が生きていくうえでも、活かしていくことができます。先人たちが何を考えていたのかを、文を読み取ることで、たどって行くことは非常におもし ろいです。先人たちの言葉に触れ、それを今の自分にも活かしていけることが、中国哲学史の魅力であると感じています。

哲学コースのなかには、中国哲学史のほかにも西洋哲学、倫理学、インド哲学、美学・美術史学等、幅広い専門分野の研究室があります。学ぶうえでわからないことや不安なことがあっても、周囲の先生方や先輩方が一緒に考え、助けてくださるので心配はいりません。ぜひ哲学コースの研究室をおすすめしたいと思います。自分自身の世界を広げることができます。ぜひ哲学コースに関心をもっていただき、入っていただけると幸いです。


時に及んで当に勉励すべし

中国文学コース
原田 愛(金沢大学 人間社会学域学校教育学類 准教授)

写真:原田愛(金沢大学 人間社会学域学校教育学類 准教授)

六朝の隠逸詩人陶淵明に「時に及んで当に勉励すべし、歳月 人を待たず」(雑詩十二首・その一)という有名な詩句があるが、実はこれは一般にことわざとして使われる「時が来たらしっかり勉学に励むべし、歳月は人を待つことなく過ぎ去るものなのだから」という意味ではない。詩歌全体の文脈から見ると「仲間と共にいる時を存分に楽しもう、歳月は人を待つことなく過ぎ去るものなのだから」という意味になる。ただ、自らの大学院時代を振り返ったとき、私はそのどちらの解釈にも共感を覚えた。

九大文学部卒業の後、私は大学院に進学した。私が院生になって変わったことは、まず物事に対する取り組みの姿勢である。演習ではさまざまなジャンルの文学作品(例:六朝の詩賦、唐宋の詩詞、明清の戯曲小説など)を読むことになる。そこでは担当者による文字一つ一つについての綿密な調査発表と、参加者全員による緊張感漲る討論が行われる。初めての担当では、数々のミスを指摘され、自分の未熟さを痛感した苦い記憶がある。また、演習はもちろん学会の研究発表などにおいても、原文の緻密な解釈をもとに、しっかりと疑問点や問題意識を持ち、作品の文学史的評価や作者の生涯や人格にまで考察を深めてゆくことが常に求められた。時にくじけそうになることもあったが、先生方の厳しくも温かいご指導とご助言、研究室の先輩や同輩、時には後輩たちからの叱咤激励にも支えられ、私の研究者としての姿勢も少しずつ矯正されていったようである。そして博士3年次には上海の復旦大学に留学、翌年夏には博士論文を提出し、博士号を得た。まさに私にとって大学院時代はこつこつと勉学に励むべき苦しい「時」であり、同時にその苦しみを研究室の仲間と共有しあった楽しい「時」であり、過ぎ去った今も私にとってかけがえのない思い出である。

現在私は主に学校の先生を目指す学生たちに国語教材としての漢文を教えている。『論語』などの経書や『史記』などの歴史書、そして陶淵明や杜甫、李白、白居易、蘇軾など文学作品の多種多様な面白さ、奥深さ、また、それらの日本文学への影響を伝え、将来先生となる彼らの学ぶ意欲が少しでも向上するように努めている(写真はその一貫として佐賀の『論語カルタ』を紹介し、実際にやっているところ)。今の自分の基礎は仲間とともに真摯に学ぶことの苦楽を知った大学院時代に作られたものである。皆さんもどうぞ大学院に進んで、ぜひこの二重の意味での「時に及んでの勉励」を味わってみてほしいと思う。


歴史を学ぶ

西洋史学コース
隈部 雄大(西洋史学 2011年度入学)

写真:隈部雄大(西洋史学 2011年度入学)

「歴史」を学ぶというと皆さんはこれまで学校で教わってきた日本史や世界史の授業のことを真っ先に思い浮かべるのではないでしょうか。例えば、「○年に△△戦争が勃発した」「○年に□□という制度がつくられた」というように。

しかし、大学でなされている歴史学はいわゆる暗記科目と言われていたような歴史とは大きく異なります。たしかに、これまで教えられてきたような過去から現在に至るまでの歴史を知ることは現代の様々な社会情勢(テロ、移民…etc.)を理解するうえで重要なことですが、大学では文献やモノといった史料をどのように捉えるのかという問いがとりわけ重要になってきます。また、一言で歴史といってもそのテーマは非常に多岐にわたっており、政治・経済・文化といったものだけでなく、皆さんにとって非常に身近な食べ物やスポーツ、ファッションといったものも研究の対象として挙げられます。大学での歴史学はその方法も対象も際限がなく、そして自由なものだといえます。

高校までの学習と大学での研究との間において、もう一つ大きく異なるのは研究室という環境の存在です。研究室では同学年だけでなく先輩と後輩という縦のつながりもあり、イメージとしては高校までのクラスというより部活に近いものがあるかもしれません。現在、文学部には専門分野によって21の研究室がありますが、研究室ごとの雰囲気はかなり多様であるかと思います。皆さんが専門分野を決定する際には何を学ぶのかという研究テーマはもちろんのこと、少なくとも3年間は過ごす環境になるわけですから、研究室の雰囲気というものも判断材料の一つにするとよいでしょう。

私が所属している西洋史学研究室では、授業のなかで英語やフランス語、ドイツ語といった言語による様々なテーマに関するテクストを購読し、その内容や歴史的背景といったものを学んでいます。時代や地域といったものが異なれば、現代の私たちの常識では考えもつかない状況がしばしば起こりますが、当時の政治、文化、社会といったものをふまえながら、それを一つ一つ紐解いていくところに歴史を学ぶことの一つの醍醐味があるのではないかと私は感じています。

これまで、大学の研究室で歴史を学ぶということについて述べてきましたが、結局のところ、大学での学問は自分で実際に触れてみなければ分からないことばかりです。先入観にとらわれず、自分の進みたい方向性を模索しながら、充実した大学生活を過ごして下さい。


人間に関心がある方へ

人間科学コース
河本 真澄(比較宗教学 2014年度入学)

比較宗教学。世の中では身近な三大宗教から聞いたこともないような慣習まで、様々なモノが信仰されています。比較宗教学研究室、いう以上はそのような信仰されているモノたちについて研究するのだろう…と思いませんか?残念ながら少し異なります。私たちの研究対象は、信仰されているモノ自体ではなく、そのモノを信仰している人々の方です。一体どういうことか、実際に研究室の生徒が取り組む授業内容の1つである卒業論文を例にして説明します。

私たち比較宗教学研究室の生徒は、研究室に配属される2年生の時から卒業論文に取り掛かります。論文のテーマは一人ひとり違うものを選びますが、基本的に何でもありです。たとえば創作ダンス、笑い、母親、観光、記者、外国人福祉など、宗教と全く関係がなくても良いです。テーマを選ぶ基準は、単純に好きだから、関心があるから、問題意識をもっているから、など様々ですが、2年生の時から3年間向き合い続けるテーマなので、よく考えてから決めます。

次に、テーマから問いを立てます。問いに対するアプローチは2つあります。1つは文献調査です。そのテーマに対して、どういった切り口や方法で研究がなされてきたのか。先人たちはその研究で何を分かり、また分からなかったのか。文献を読むことで、そのテーマに対してより深い知識と理解を得ることが出来ます。

もう1つはフィールドワークです。テーマに関わる現地の人々の元を訪れ、観察やインタビューを行います。ここが正念場です。対象となる人々と相対し、赤の他人として見つめるのではなく、彼らと並ぶように関わり、「肩越しの視点」を得ることが望ましいです。同時に同じ物を見ているとしても、自分自身の観点と現地の人々の観点は全く異なっていて、結果的に全く異なる理解をしていた、ということは珍しくありません。謙虚に相手のことを学ぶ姿勢が大切です。また、文献に書かれていた通りのことが現地の人々にも当てはまったり、逆に全く当てはまらず新しい発見があったりと、収穫はとても多いです。

調査や研究を通じて、世の中には色々な人がいて、色々な生き方があることを学ぶことが出来ました。月並みな表現ですが、大学に入ってから自分の視野はとても広がりました。九州大学文学部が相手取るものは幅広く、深く、計り知れないほどたくさんあります。その中でも、今生きている人間に関心がある方は、是非一度比較宗教学研究室を訪れてみて下さい。


哲学のやりがい

哲学コース
大江 美月(哲学・哲学史専攻 2014年度入学)

私が哲学を専攻していることを人に話すと、「難しそうなことをしているね」といった返答をいただきます。哲学に対して「難解で堅苦しい学問」というイメージを持っている人が多いのではないでしょうか。私自身もそのようなイメージを少なからず抱いていたのですが、実際に学んでみるとそこまでとっつきにくいものではないことを実感しました。

では哲学とは具体的にどのようなことを研究対象にしているのでしょうか。私が思うに、自分が疑問に思ったことは何でも哲学として扱うことができます。「りんごの赤さとポストの赤さは同じ赤さなのか」、「時間というものは本当にあるのか」、「どうしてこの絵を美しいと感じるのか」といったように哲学が扱う問題は様々です。このような問題の全てに、数学のように一つの明快な解答があるわけではありません。むしろ人によって意見がわかれることが大半です。答えのない問題について、頭を悩ませ議論をすることは無意味なものであると思う人もいるでしょう。しかし本当にそうでしょうか。

考えてみれば、私たちの社会が抱える問題は正解が出ないものばかりです。政治や宗教、教育、人権の問題などは、立場や価値観の違いによって人の持つ意見が異なります。社会の一員として私たちに求められるのは、問題に向き合い自分の言葉で意見を述べることだと思います。難解な問題と向き合い論理的な思考や説明をする力を養うという点では、哲学は意味を持つのではないでしょうか。皆が当たり前だと思い、問題にしないようなことに対しても「本当にそうだろうか」と疑問を投げかけ、突き詰めて考えることによって少しでも解決に近づけることが哲学の役割であると思います。

哲学・哲学史研究室では、主に講義と演習を通して哲学を学びます。講義はこれまで皆さんが受けてきた授業と形式は変わらないと思いますが、演習は聴くだけではなく発表や質問など自分の考えを発言することが求められます。例えば、演習では特定の文献を皆で議論を交わしつつ読み進めます。哲学の文献は専門用語やその哲学者独自の言い回しなどが多く、一読するだけでは理解しづらいものです。さらに、扱う文献は日本語とは限りません。したがって皆で意見を出し合いつつ文献の正確な理解を目指し、また、内容をもとに議論を行います。他にも、自分が行なっている研究を発表する演習もあります。研究テーマは、基本的に自由です。先ほど述べたような身近な疑問をテーマにしても良いですし、ある哲学者の思想を研究することもできます。研究においては文献を読み解く力、そして発表においては論理的な説明力が必要です。演習は準備にも時間がかかりますが、哲学の醍醐味を味わうことができると思います。

哲学は身近で些細な問題さえも研究対象にしてしまう非常に幅広い学問であると思います。私は、哲学の文献や議論を通して世界の見方が少し変化したような気がします。考えることが好きな方はもちろん、少しでも哲学に興味を持たれた方は、哲学コースも選択肢の一つに入れていただけると嬉しいです。


言葉を学ぶ面白さ

文学コース
河野 健児(仏文学 2014年度入学)

フランス文学を学んでいるとたまに聞かれる質問で、なぜよりによってフランス文学なのか、といった問いがあります。確かに中学、高校と英語を学んできて、どうしてわざわざ大学に入ってから全く新しい言語に挑戦するのでしょうか。

この疑問に対して私なりにひとつの答えを与えるとすれば、それは言葉を学ぶことが単にコミュニケーションの手段を確保するというだけでなく、言葉の背景にある暮らしや文化を学ぶことにもつながっているからではないかと考えています。例えば、フランス語ではとても寒い時に froid de canard (鴨の寒さ)と言ったりします。この表現は、秋から冬にかけて行われる鴨猟の際、狩人が寒さの中じっと獲物の接近を待ったなければならなかったという所から来ていると言われています。狩猟文化の発達したフランスならではの表現と言えるでしょう。このように、言葉を学ぶことでそこに表れる文化も学びことができるのです。私もこうした学びの中でフランス語やフランス文化に興味を持ち、さらにもっと深く学んでみたいと思うようになりました。

フランス文学研究室では、テクストと丁寧に向き合いながら、確かな語学力を身につけることを目標に日々研鑽を重ねています。フランス文学に限らず多くの外国文学が日本語に翻訳されていますが、原典で読むことにはやはりそれとはまた違った醍醐味があります。言ってみれば、作品の生きた声に直接耳を傾けることができるのです。

語学の面に関して言えば、留学のしやすさも私の研究室の特長のひとつです。研究室からは毎年フランス留学に挑戦する学生が出ています。ですから、もし不安なことがあれば、留学経験者の先輩にいつでも相談できるような環境があります。またフランス人の教師による授業も用意されていて、留学前からフランス語で学ぶことに慣れることができます。このようなサポートのおかげもあり、私も約9カ月間ボルドーで学ばせて頂くことができました。授業だけでなく生活そのものが発見の連続で、とても有意義な経験になりました。また、そこで出会った友人とは、留学後も交流が続いています。

大学で何を学ぶかは人それぞれですが、共通して言えることは、深く学べば学ぶほど面白みが増すということです。文学部には様々な研究室があるので、皆さんの関心がある分野がきっと見つかるはずです。ぜひどっぷり浸かってそこでの学びの楽しさを味わってみて下さい。


歴史を探す旅へ

歴史学コース
大森 康平(イスラム文明学 2015年度入学)

皆さん、歴史は好きですか?大河ドラマや歴史小説のファンもいれば、「知識ばっかり詰め込む教科は嫌い」という人もいるでしょう。さてそれでは、大学で「歴史学」を学びたいという人はどのくらいいるでしょうか。そもそも「歴史学」と高校までの「歴史」の違いは何でしょうか。

高校までの「歴史」では、教科書に書かれている膨大な知識を覚えこそすれ、決してその記述の正当性を疑ったりしたことはないでしょう。しかし歴史は水物であり、昨日までの通説が明日もそうである保証はありません。文献の性格や著者の立場などから史料を精査し、より「適当」な歴史を読み解き、考察し、再解釈することが歴史学です。大げさな言い方をすれば、人類の活動をつまびらかにし、民族や宗教、時代的地理的な差異を超越して他者を理解する学問とも言えるでしょう。そして人間だれしもが持つ、どうしても内側を向いてしまいがちな視線を外に向けて、他人を、そして他人を鏡として自分自身を見つめる、そんな学問でもあるのではないでしょうか。僕たちが知っている(と思っている)事由は、氷山の一角にすぎません。一方的な情報だけを安易に取り入れ、批判の眼差しを備えていなかったら、それはただの追従者です。学問には常にクリティカルな姿勢が必要ですが、とりわけ歴史学においてそのウエイトは多数を占めています。

昨今、人文系の学問は実用性に乏しいと言われ、肩身が狭くなっています。もしかしたら皆さんの中に、「歴史学を専攻しても無駄と言わるのではないか」と恐れている人がいるかもしれません。でも、大学はそもそも学問を修める場であり、職業訓練所ではないのです。皆さん自身が修学の意志を持って大学の門を叩いたのなら、それこそが立派な動機であり、世間(他人)には無駄と目されているものであっても、そこに情熱を傾ける価値を皆さん自身が見出した以上、余人の干渉するところではありません。

文学部には二十を超える専門領域がありますが、どの研究室でも皆さんを助けてくれる先輩、先生方がいらっしゃいます。どうぞできるだけたくさんの領域・研究室を覗いてみてください。そして皆さんが最も情熱を注ぎたいと思える専門分野を見つけてください。その時に歴史学コースを選択肢の一つに入れてくれていたら、こんなに嬉しいことはありません。歴史学を学ぶことへの皆さんなりの意義を、探しに行きませんか?