平成18年度 活動報告




 



<第74回大会> 2006年7月1日(於 筑紫女学園大学)



  • 「中国南北朝時代における如来像の中国式服制出現をめぐって─「礼」と「律」/「内」と「外」の融和─」
     岩井共二(山口県立美術館)

  •  仏教が中国社会に広く浸透していった魏晋南北朝時代の五世紀、仏像のスタイルに大きな変革が起きた。如来像の中国式服制や菩薩像のX字型天衣といった中国独自の着衣形式の尊像が、突然変異的に出現したのである。
     この仏像の着衣形式(服制)の変容は、日本の飛鳥時代止利様式の源流をめぐる問題とも重なって関心が持たれているが、その形式の出現を、南北朝時代のうちのどの地域のどの時期とするかは、いまだ定説をみていない。この様式起源の問題については南朝の中心地であった江南地域からの新発見を待たない限り新しい展開は望めないが、本発表では、起源論とは別に、如来像の中国式服制が、どのような社会的要請によって出現したのかを今一度再検討してみることにしたい。
     これまでの研究によって、如来像の中国式服制は、中国の俗人の服装に似せたものであることが知られるが、胸元を開け袈裟の末端を肘にかけるという中国式服制の特徴は、僧侶の袈裟の着け方を定めた「斉整著三衣戒」で禁じられた「象鼻」という着衣法であることは、問題視されて来なかった。本来、袈裟の着衣法は律によって定められ、俗人に似せることは禁じられていた。その仏像・僧侶の服制を改め俗人に似せるという変化は、形式の中国化という言葉で簡単に片付けるべきではなく、より強制的な要因を考えなければならない。かつてその要因として北魏の漢化政策や、皇帝を当今の如来とする皇帝即如来思想などが挙げられたが、むしろその要因として、南北朝時代から盛んになってきた三教交渉、すなわち中国固有の宗教である儒教・道教の側からの仏教攻撃にあると考えられるのである。
     本発表では、仏像・僧侶の中国式服制を「律からの逸脱」「服飾の礼との対立と融和」「排外主義への対抗」という観点から、その出現の意義を考察し、中国仏教美術史上の重要な転換点として位置づけることを試みる。

    
    
  • 「18─19世紀マカオの洋画研究」
     黄志峯(九州産業大学大学院)

  •  本発表は、まずポルトガルの歴史の中で、ポルトガル人がマカオへ定住するに至る過程を触れたうえで、ポルトガル人のマカオ定住に伴い渡来した宣教師によって伝わった西洋画の発展について述べる。さらに、当時さまざまな理由でマカオに到来した西洋人画家たちや、西洋人相手に商売を行った中国人画家たちが描いた作品(歴史画)から当時のマカオにおける西洋画壇の様子などを述べる。また、今までこれらの歴史画は歴史資料として使用されるのが一般的であったが、この発表では、これらの歴史画を西洋絵画(美術品)として考え、現在までに発表されているこれら歴史画に関する資料を踏まえて、さらに美術的角度を加えて分析する。つまり芸術論と技術論を合わせた観点から作品を分析することで、今までの歴史資料だけでは解明できなかった部分や、当時の中国人画家が描いた西洋画がどのようなレベルであったか、また彼らは西洋人画家からどのような影響を受けたかについて述べてみる。加えて、西洋画の入口としての役割を果たしたマカオは彼らからどのような影響を受けたか、特にマカオに移住したイギリス人画家ジョージ・チネリー(George Chinnery)がマカオにどのような影響を与えたかについて考える。また、彼の作品について歴史的な角度から分析するだけではなく、画家の目線で分析し、当時彼はどのような絵画様式を持ち、誰に影響を受けたかについて述べる。そして、マカオでどのような作品を描いたかを紹介するとともに、現地の気候に合った水彩画を多く描いた理由などについての考察を試みる。最後にジョージ・チネリー(George Chinnery)の弟子とされるラムクワー(Lamqua)は、ジョージ・チネリー(George Chinnery)にどのような影響を受けたか、ラムクワー(Lamqua)とジョージ・チネリー(George Chinnery)の関係、そして現在の研究者によって次々に発表されたその本名の謎を巡る異なるラムクワー(Lamqua)説を、初めてマカオ人の立場から分析する。

    
    
  • 「明治36年の活人画─癸卯園遊会・歌舞伎座歴史活人画興行・東京美術学校紀念美術祭」
     京谷啓徳(九州大学)

  •  発表者はこれまでルネサンス期イタリアの宮廷美術を研究対象としてきたが、君主称揚のメッセージを盛る器として役割を同じくする宮廷祝祭の活人画にも関心をもつようになり、更にその末裔たる近代日本の活人画についてもこのたび調査を行った。本発表はその調査報告を趣旨とする。
     さて「活人画」とは、語の響きからも明治の香りが感じられるように、明治時代に日本に移入されたタブロー・ヴィヴァンの翻訳語である。生きている人間が衣装をつけ、聖書や歴史上の場面、アレゴリー等を静止した状態で再現するタブロー・ヴィヴァンは、西欧近世以前の宗教行列や宮廷祝祭において欠かすことのできない構成要素であり、近代以降も上流階級の夜会の余興や女学校の学芸会の出し物、またあるいは各種芸能と、様々なかたちで市民社会に受け継がれた。
     そのタブロー・ヴィヴァンが「活人画」として、明治期の日本にもたらされることになる。明治20 年代から在留外国人らにより活人画の行われたことが知られているが、日本人が主体となった活人画の上演は、明治36 年を待たねばならない。この年には立て続けに、性格を異にする三つの活人画の企画が実現したのである。その内訳は、4 月の癸卯園遊会の活人画、7 月歌舞伎座における歴史活人画興行、そして11 月、東京美術学校創立十周年を祝う紀念美術祭での活人画であり、それぞれについて仔細に観察してみるならば、舶来の活人画が日本において担った特別の役割が理解される。特に4 月の園遊会および7 月の歌舞伎座における活人画は、明治期の歴史画の流行や演劇における洋風舞台美術導入といった動きに棹さすものだった。
     本発表では、日本近代における活人画の歴史の見取り図を示すとともに、特に、上記明治36 年の三つの活人画に焦点を定め、活人画が当時の日本人にいかに受け入れられたのかという受容の枠組みの問題、活人画受容において洋画家山本芳翠の果たした役割、そして従来詳細が不明であった歌舞伎座歴史活人画興行の復元の三点を中心に論じたい。

    
    
  • レクチャーコンサート

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     「ジャワのガムラン音楽」
     田村史 氏(筑紫女学園大学)&筑紫女学園大学ガムラン部




 

<第75回大会> 2006年11月25・26日(於 八代市立博物館 未来の森ミュージアム)


  • 「韓国美術における'ハン(恨)' ─韓国の固有情緒'ハン(恨)'や韓国女性美術の中に表れる'ハン'─」
     黄禧晶(九州産業大学大学院)

  •  論者が生まれ育った韓国には韓国独特の民族情緒である'ハン(恨)'が存在する。この 'ハン'は'恨'という漢字を使っているが、日本でいう'恨み'とは多く異なる性質を持つ韓国人独特の生まれついたモラルである。'ハン'は他人への憎しみから生ずるもので はなく、わけ知らぬ心の奥底からくる悲しみや痛みの情緒である。このような'悲'や '痛' の情緒はほぼ遺伝的に発するものである。'ハン'はその感情ら(悲や痛)を他人へとぶつ けるものではなく、むしろ'ハン'にはその悲しみの原因は自分自身にあるという考え方が潜んでいる。'悲'から始まる'ハン'の情緒は'諦念'や'達観'の美学まで含んでいる言葉で説明し切れない不思議なものである。韓国民族は'悲'を愛する民族であると言われている。近年日本にも多く紹介されている'韓流文化'もこの'悲'の情緒に訴えているところが非常に大きい。このような'ハン'は韓国という国の長い歳月にかけての'抑圧'の歴史と密接な関連があると考えられる。韓国が大陸と海に接している地政学的条件を持っているため、韓国は様々な国から相次いで侵略されてきた悲運の歴史を持つ。その相次ぐ被侵を経験していくうちに愛する者や国を失う悲しみを自然に憶えるようになり、それは'慢性化された悲しみ'になって韓国人の無意識に染み込みつつあった。いわば'ハン'は韓国民族の遺伝的トラウマであると言えよう。
     'ハン'はその特性上疎外されがちな、抑圧されがちなところに芽生えかねない。論者はこのような抑圧の象徴である'ハン'の特性に注目し、また二分法的観点から男性に従属されがちであった'女性'におけるハンがどのようなものであるか考察する。論者のジェンダーが'女性'であることに着目して女性的視線からみる'ハン'の実体を探ることにする。また男性とは異なる身体的、感性的経験を持つ'女性の感受性'と'ハン'を結びつけ、韓国女性美術の中に表れる女性的'ハン'を考察する。論者は儒教の文化や因習が未だに根強く残っている韓国社会で、'対象'ではなく'主体'として立ち上がろうとする女性の視線が'ハン'の表出として表れる韓国女性美術の例を紹介することで、韓国的情緒ひいては韓国的女性感受性に対する理解を求めるのである。

    
    
  • 「"The Other Story"展(1989年、イギリス)にみるモダニズムと他者」
     石松紀子(九州大学大学院)

     <『デ アルテ』23号、61〜81頁>

    
    
  • 「鄙の夢─天草郡高浜村庄屋上田家と磁器焼成
     福原透(八代市立博物館)

  •  肥後の磁器史は大きく三期に画することができる。
     第一期は、磁器の創始と海外輸出の時代である。1650〜1680年代にかけて内田皿山焼(天草郡苓北町)をはじめとする天草下島の三窯で、東南アジア向輸出磁器などが焼かれた、17世紀後半の空前の磁器輸出景気が清王朝の展海令とともに消え去った時、肥後産磁器の第一期は終了する。その後、肥前波佐見の陶工による下津深江焼京ノ峰窯(天草氏天草町京ノ峰)の二年間の操業を除いては、天草は磁器産地ではなく、その豊かな陶石を、原料として各地の皿山に送る原料供給地となった。
     第二期は、肥後産磁器中興の時代である。宝暦13年(1763)高浜村(天草市天草町)庄屋上田伝五右衛門は、肥後長与の陶工を招き高浜焼きを開窯する。伝五右衛門とその子源作(宜珍)はたんなる原料の供給地ではなく、より付加価値の高い製品の生産地たることを目指した。高浜焼の技術は、やがて肥後細川藩窯網田焼に受け継がれてゆく。
     第三期は、小規模磁器窯の時代である。江戸時代末期から近代にかけて天草はじめ肥後各所に、限られた地域を流通範囲にしたと考えられる小規模窯が開かれるが、その多くは短期間に消え去ってゆく。
     今回、取り上げる高浜焼は、肥後の西端、天領天草という一地方の庄屋により興された新興磁器窯でありながら、安永78年(1778~79)には幕府により許されて長崎出島でオランダ人への磁器販売を行った希有な窯である。西洋人向けの染付や染錦手を苦労の末に制作したが、そのうらには庄屋二代にわたる壮大な夢が託されていた。本発表では、磁気焼成に込められた肥後の一地方の庄屋の夢と、それを取り巻く江戸時代中後期の社会状況について、関係資料、伝世品によって紹介したい。
     <『デ アルテ』24号、5〜20頁>
    
    
  • 「九州国立博物館導入の文化財用大型 X 線 CT について」
     楠井隆志・鳥越俊行(九州国立博物館)

  •  九州国立博物館では、このたび、文化財用大型 X 線 CT スキャン装置(コンピュータ断層撮影装置:エクスロン・インターナショナル社製)を導入した。文化財専用の CT スキャン装置としては最新かつ最大であり、仏像であれば等身大の立・坐像まで高速・精密に測定できる日本唯一のものである。
     X 線 CT とは、測定対象物の断面を非破壊・非接触で画像化する装置である。撮影した画像は透過像、断層像、三次元像として表示できる。九州国立博物館では、測定対象資料を博物館で展示する一般的な文化財に限定し、その内部の構造及び材質の解析を主たる目的として導入を決めた。これまでの試験運用の結果、なかでも木彫文化財の内部構造解析にもっとも効力を発揮することが明らかになった。
     本発表では、この装置の構成や特徴、これまでの調査例と成果について二、三の報告をおこなってみたい。

    
    
  • 見学会

     八代市博物館特別展 「肥後の磁器」展
     松浜軒(旧八代城主松井家御茶屋)




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