平成19年度 活動報告




 



 

<第76回大会> 2007年6月30日(研究発表:於 西南学院大学博物館)



  • 「ピカソとケーテ・コルヴィッツ」
     徳山光(元長崎県学芸員)

  •  ケーテ・コルヴイッツについて記したもの、またはケーテ・コルヴィッツが記したものには、ピカソについて記したものは全くないし、ピカソの名前すらあらわれない。
     一方ピカソについて記したものにもほとんどケーテ・コルヴィッツについて記したものはない。ただピカソの初期のことを記した"A Life of Picasso THE EARLY YEARS, 1881-1906 John Richardson"には、ケーテ・コルヴィッツがピカソの1901年の最初のパリでの展覧会で1点買った事が記されている。その記述内容からすると、ピカソのパリでの第一回展のギャラリーのオーナーであったヴォラールや、この展覧会の企画者であり、バルセローナ出身の現代美術のバイヤーだったマニアックなどから案内を受けた知人たちが、前もって購入した時にケーテ・コルヴィッツも購入したようで、その時のカタログのメモにケーテ・コルヴィッツの名があるようである。それによると「マダム K・コルヴィッツ、ベルリンの絵描き」が〈La Bete〉を買ったことがわかるということである。前記のジョン・リチャードソンの同書には、その作品は早い時期に手放されたようで、遺族はその作品が在ったことを知らなかったとし、その作品がアメリカで見つかっていることを記している。
    私がこのようなピカソとケーテ・コルヴィッツの関係を調べることになったのは、現在、長崎県美術館が所有する須磨コレクションのなかの、ピカソが途中まで描いたと思われる作品のキャンヴァス裏にあったスペイン語による墨書きの次のような書き付けからである。
    「パブロ・ピカソ・ルイスによる母の下絵。この非常に感覚的で素早い作品を、1901年に画家ケーテ・コルヴィッツのためにF・イツリーノとのパリでの展覧会の時に描く。Jn Cuadros」
     ピカソとケーテ・コルヴィッツの作品を精査するとそれぞれ1点ずつ、興味深い作品が見いだせる。

    
    
  • 「裸婦彫刻の近代性について」
     野添浩一(崇城大学大学院)

    目的:鹿児島市立美術館所蔵の一彫刻作品を通して、古代以来、彫刻家が追い続けてきたテーマ女性裸体像、その「近代性」について、以下にしたがって考察する。

    1 作品の紹介。作者によって《水浴のあと体を拭く女》と名付けられた本作品の素材、大きさ、主題、ポーズについて、客観的に記述する。

    2 作者の紹介。作者ヴェナンツォ・クロチェッティ(1913〜2003)について、その経歴と主たる作品を紹介する。

    3 古典的作品との比較。比較の対象として、紀元前2世紀のギリシアの原作であり、両腕を欠くもその他ではほぼ完全な姿をとどめ、各部の寸法が知られている《ミロのヴィーナス》を取り上げ、ポーズおよび各部の比例関係を比較する。

    4 古典との調和。いくつかの身体的比例関係を比較し、本作品においては古典との調和が意図されていたことを確認する。

    5 古典からの乖離。ポーズおよび細部のいくつかの比例関係を比較して、本作品において意図された古典からの乖離を確認する。

    6 本作品の「近代性」。上で見た古典との乖離を分析し、ポーズやいくつかの細部(たとえば臀部、乳房など)における均衡の破壊と歪曲を破壊し、そこの本作品の特質である「危うさ」、「瑞々しい官能性」の表現をみる。

    7 結論。以上の推論から本作品が一方では古典との調和を図りながらも、他方では、アンバランスと細部の強調と歪曲でもって「危うさ」、「瑞々しい官能性」を表現しており、このことから、結論として、古代以来彫刻家が追いつづけてきたテーマ女性裸体像が「近代性」をも盛り得る器であることを確認する。

    
    
  • 「キリシタン時代のメダイ図像研究」
     浅野ひとみ(長崎純心大学)

  •  1549年、ザビエルにより、キリスト教は日本に伝わったが、豊臣秀吉の伴天連追放令を端緒として、厳しい禁教の時代が始まる。1596年の二十六聖人、1622年の元和大殉教など痛ましい記憶を乗り越えて、1873年、パリ外国宣教会によって信仰が復活する。300年間、指導者も持たずに信仰が維持されたのは西欧世界にとって大きな驚異であった。2006年、長崎では、キリスト教遺産群の世界遺産暫定リスト入りを契機にこの<ロマン>が強く前面に押し出され定型化しつつある。そのような中で、カクレキリシタンと言われる人々の信仰様態を厳密な意味ではキリスト教徒とみなさない宮崎賢太郎、宣教会主導でない「こんふらりや(信徒信心会)」の機能を綿密に解析した川村信三らの宗教学・史学の先鋭たちの研究は、長崎を始めとする日本の初期・禁教下キリシタンたちの複雑多岐にわたる信仰形態をあらわにしている。
     さらに、近年、今野春樹、後藤晃一ら、考古学者がメダイ(宗教図像レリーフのある金属製コイン)の蛍光エックス線を使った成分分析を含め、発掘されたキリシタン遺物の詳細な報告を始めている。
     本発表は、これらの、宗教学・史学・考古学的成果に基づいて、キリシタン時代に日本に到来したメダイ図像を美術史プロパーの観点から精細に分析しようというものである。そのためには、まず、純正輸入品であるヨーロッパ製のものと、日本で「踏み返し」という方法でコピーされた和製品を区別しなければならない。発表者は、美術史的な鑑識眼ばかりではなく、全国に残る60例ばかりのメダイのタイプと単位面積あたりの質量の関係をもとに分散表を作成し、1ヨーロッパ製、2和製、3復活期以降のヨーロッパ製メダイとに分け、どのようなタイプのメダイがキリシタン時代に多く流入したかを考察した。その結果、「無原罪の御宿り」図、「アニュス・デイ」(キリストの首)と「聖体讃仰」図とが圧倒的に好まれたほか、著名な巡礼地であるモンセラトなどのマリア像が散見されることがわかった。これらの図像は、多く、イエズス会系、ドミニコ会系などに分類されるが、おそらくは、川村の言うこんふらりあの守護者として信者の結束を強めるために密かに伝えられたものではないかと想定される。
     第三期は、小規模磁器窯の時代である。江戸時代末期から近代にかけて天草はじめ肥後各所に、限られた地域を流通範囲にしたと考えられる小規模窯が開かれるが、その多くは短期間に消え去ってゆく。
     日本のキリシタン時代美術としては、セミナリオから生まれた正統キリスト教絵画が著名であるが、禁教下では、むしろ、民衆の心を支えたのは、鋳物師たちの手でコピーされ、信者間で秘匿されて、伝えられた小さなメダイ図像であった。
    本発表は、昨今のカクレキリシタン・ブームの陰で、キリシタン資料館にレプリカや偽物、みやげものが真正品にまぎれて並ぶ世情を憂えて、長崎に住まう美術史学徒の責任として、キリシタン美術研究のあり方に道筋をつけることを一つの大きな目的とするものである。

    
    
  • 「柿右衛門様式磁器に潜む『源氏物語』の意匠 ─語られなかった和様人物文様の意義─ 」
     山本 紗英子(九州産業大学大学院)

  •  日本の色絵を代表する柿右衛門様式磁器に描かれた絵付け文様の多くは、花鳥文様である。そのためか、柿右衛門様式磁器に描かれた人物文様についての研究は、ほとんどなされなかった。
     近年、国内外の調査が進み柿右衛門様式磁器の実態が明らかにされるなか、人物文様も美術館展示や図録などに多数登場するようになった。このことからも、これまで以上に柿右衛門様式磁器に描かれた人物文様に関する研究や分類、意義解明の必要性が求められる。従来、柿右衛門様式磁器にみる人物文様の分類及び人物文様が持つ意義の解明は、とりわけ、唐様人物文様を中心に行われた。故に、中国意匠の影響を受けたことが論じられ、和様人物文様の意義を問うことはなされなかった。
     本発表で採り上げる柿右衛門様式磁器「姫御殿文ティーセット」は、ヨーロッパの美術館・博物館に数多く所蔵され、柿右衛門様式磁器の和様人物文様として分類されるものと云える。また、イギリスを中心としたヨーロッパの各窯で、この和様人物文様「姫御殿文」 は模倣され、大きな影響を与えていた作品であったことも見逃せない。
     日本陶磁器の個性は本来、日本的な風趣に富むものの中にあると考える。その観点から本発表では、代表的な日本文学作品であり、現存する最古級の物語絵巻物の対象でもある『源氏物語』の意匠を陶磁器、絵画、工芸品(染織・蒔絵)に着目し、柿右衛門様式磁器に描かれた「姫御殿文」の絵付けと『源氏物語』の意匠の関連性を探り、これまで語られなかった和様の人物文様が持つ意義を考察してみる。そこから新たな柿右衛門様式磁器研究の展望が生まれるであろう。
     <『デ アルテ』25号、47〜63頁>

    
    
  • 「韓國梵鐘の特性と變遷 ─特に日本にある韓國梵鐘を中心に─」
     崔應天(韓國 國立中央博物館)

  •  日本には現在50 點以上の多くの韓國梵鐘が殘っている。その中に統一新羅の梵鐘では常宮神社所藏の蓮池寺鐘(833)、雲樹寺所藏の鐘(8 世紀後半)、光明寺所藏の鐘(9 世紀)、宇佐八番宮所藏の天復4 年銘鐘(904)などを始め、合わせて4 點が知られている。國内に殘っている統一新羅の鐘が現在3點に過ぎず、特に9~10世紀につくられた統一新羅後期の梵鐘がわずか一點も殘ってないという點で、この作品たちの重要性は非常に大きい。特に今はなくなった統一新羅745 年、856 年に製作された梵鐘が長崎にあったことも確認することができ、更に残念である。その他にも韓國にはほとんどない統一新羅末から高麗の初めに至る過渡期的な樣相を把握することができ、樣式的にも大変重要な作品もかなり多く確認されている。
     特に九州地方には、韓國と地域的に近いためか、最多の計12 點の韓國梵鐘が散在している。九州國立博物館に所藏されている高麗時代の梵鐘は、1989 年新たに甘木市の秋月城址の地下から出土した作品として注目されたことがある。中國、山陰、四國地方には高麗時代の963年に製作された照蓮寺鐘を始め、12點の梵鐘が殘っている。その中の住吉神社所藏の梵鐘は全高142.5cm に達する最大の大きさで、一時日本の國寶にまで指定されたことがある、大変優秀な樣式の高麗初期の作品である。近畿、北陸地方には統一新羅の833年に製作された常宮神社所藏の梵鐘など、合わせて13 點の梵鐘が殘ってあり、關東、東北地方には12點の韓國梵鐘を確認することができるが、そのなかの4點は1945年以後渡った東京博物館の小倉コレクションの蒐集品である。
     日本に殘っている韓國梵鐘を所在地域に確認してみると、九州地方が10 点で最も多く、その次が京都、山口、大阪地域であり、東京近くの關東地域に行くほどその數が減っていくことがわかる。そして統一新羅と高麗初期の梵鐘の場合、大分縣、島根縣、島取縣、福井縣など主に北部の海岸一帶に集中的に分布してあり、その他の梵鐘も大部分が海岸から近い地域に所藏されている点が注目される。同時に大きさにおいても、住吉神社の梵鐘を除いて高さ70~80cm 内外の中型鐘が多いのは、韓國から鐘を持って行く時に移動しやすい中型以下の鐘を對象にし、海上運搬が容易な海岸に隣接したお寺、神社などに移動したものと思われる。
     一方、このような鐘に記録されている日本での追刻銘が13世紀から15世紀までの例が大多數を占めているのは、韓国において倭寇の被害が最もひどかった時期に多數の梵鐘が日本に渡って行ったことを示唆する。

    
    
  • 「パイプオルガンの演奏と展覧会のご案内」
     古澤嘉生氏(西南学院大学名誉教授)によるオルガン演奏と解説
     米倉立子氏(西南学院大学博物館学芸員)による博物館の建築および「納戸の奥のキリシタン」展の解説



<第77回大会> 2007年11月24日(研究発表:於 沖縄県立芸術大学)



  • 「文徴明の石湖図─上海博物館蔵《石湖花游曲詩画巻》をめぐって─」
     都甲さやか(九州大学大学院)

  •  石湖は、蘇州の西南に位置する太湖の一支湾であり、古来より文人墨客が遊んだ景勝地 である。石湖の名は、石湖居士とした南宋の范成大「四時田園雑興詩」によりその名をひ ろく知られるようになり、元においても楊維禎、顧阿瑛、陸仁等をはじめとする多くの文 人達が訪れた。16世紀呉派文人画の中心人物である文徴明は、数ある蘇州の名勝の中でも とりわけこの石湖を愛し、それは石湖に関する詩文や絵画作品の制作数の多さからもうか がえる。
     文徴明の石湖図は、嘉靖11年(1532年)、62歳の時の作である《石湖清勝図巻》(上海 博物館蔵)が、嘉靖2年(1523)から3年間にわたる北京任官後、文徴明が本格的に書画 活動をはじめる1530年代の優品として夙に知られる。しかしながら文徴明は、正徳15年 (1520)、50歳の作《石湖花游曲詩画巻》(上海博物館蔵)において、既に石湖の景観を絵 画化していた。本発表は、現存する文徴明の石湖図のうち最も早い作例となる《石湖花游 曲詩画巻》について、その制作背景と表現上の特色を考察する。本作品は、文徴明の石湖 に対するイメージの一端を明らかにするのみならず、12年後に制作される《石湖清勝図巻》にまで通じる、文徴明の石湖図が有していた普遍的な意味をも明らかにする手がかりとな ると考える。
     《石湖花游曲詩画巻》(紙本淡彩、縦26.2cm×横41.0cm)は、画の後に文徴明による書 が合装された、書画合装巻となっている。書は正徳9年(1514)、文徴明が友人の王守、王寵、湯珍とともに石湖で遊んだ際に制作されたものであり、内容は元の至正8年(1348)3月10日に、楊維禎、顧阿瑛等が石湖にて遊んだ際に詠んだ「石湖花游曲」を書いている。また詩文の冒頭には、楊維禎一行が石湖畔の山頂の寶積寺に登り、下山する途中、同伴し た妓女のために「石湖花游曲」を詠んだというエピソードが記されている。興味深いことに、文徴明は、彼らの詩の末尾に自作の詩を次韻するという特殊なかたちで本書を完成さ せている。そして6年後の1520年、王守の頼みを受けて画を制作し、書画合装としたが、 画は、高い視点から石湖周辺を見下ろす構図となっている。特に湖畔の連山の景物が詳細 に描きこまれ、画面下には、橋の上で遊ぶ文人達の姿もみられる。こうした絵画表現には、1348年の楊維禎らの石湖での雅会におけるエピソードや、「石湖花游曲」の内容が意識されていると考えられるが、同時にかつての自分達の石湖での雅会をも想起させるものであったと考えられる。このように、同じ石湖という場を通して、時間を越えて二つの雅会が交錯し合う本作品は、文徴明が自身を過去のどのような文人達の系譜に位置づけようとしていたかを物語るものであるともいえるだろう。
      <『デ アルテ』25号、25〜45頁>

    
    
  • チャイナ・トレード・ペインティングの雪景色―どこにもない「中国」を探して―」
     堀川理沙(福岡アジア美術館)

  • 「チャイナ・トレード・ペインティング」は、18世紀中頃から19世紀中頃にかけて、当時の清国で唯一対外貿易を許されていた広東港を中心に、中国人画工が西洋人向けに制作した輸出用絵画の総称で、近代黎明期特有の東西の美意識の混在したハイブリッドな魅力を持つ作品群である。福岡アジア美術館は、こうしたチャイナ・トレード・ペインティングを約24点所蔵するが、その中に《中国人家族のいる雪景色》(伝1810年頃i、75.2x110.3cm)がある。これは、積雪の山野を中国人家族が悠々と散策する風景を描いた油彩画で、元はイギリス個人所蔵とされるものである。管見の限りで、他に雪景色を描いたチャイナ・トレード・ペインティングは、イギリス、オランダ、香港など各地のコレクションに、20点が確認される。チャイナ・トレード・ペインテイングには、中国風俗をエキゾチックに誇張した作品が多い中で、北方の荒涼とした雪景色を描いた作品はいささか異質に見える。
     チャイナ・トレード・ペインティングは、従来「コレクターズアイテム」や「歴史的資料」として捉えられてきた。そのため、これまでの研究では、作品の造形的特徴に関する詳細な検討はもちろん、中国絵画史の文脈で論じられることもほとんどなかったと言って良い。特に雪景色作品については、他の画題と比べて比較的現存作品が少ないこともあり、作例の概括的な整理も進められていないのが現状である。
     本発表は、《中国人家族のいる雪景色》を、従来のように「商品」あるいは「資料」としてではなく、「美術作品」として捉え直すことを目的とする。具体的な手順としては、まず、《中国人家族のいる雪景色》を中心に雪景色作品を概観して、その造形的特徴を整理する。次に、構図や遠近法などの点で、西洋絵画をどのように参照しているのかを具体的に明らかにする。さらに、空の表現、構図、陰影処理、そして留白法や敷粉法など、きわめて雪景山水的な表現が用いられていることを指摘して、中国絵画史上の位置づけを試みる。また、モティーフの「満州族」的特徴に注目し、そこに北方異民族を表す「蛮族図」の系譜と、西洋人にとっての他者イメージが重層する様相を考察することで、そこに映し出された清朝の統治者である満州族をめぐる政治性や、作品の生まれる文化的社会的背景にも言及する。
     中国絵画の「近代」が、黎明の中に、おぼろげに姿をあらわし始めた時期、中国と西洋の出会う地点に、現実には存在しない「中国」を描いた一群の作品が創られた。その過程を、《中国人家族のいる雪景色》という作例を通して具体的に明らかにするとともに、その 社会的背景や政治性も考慮しながら、それらの作品の美術史上の意味について考えたい。

    
    
  • 琉球国王肖像画〈御後絵(うぐい)〉と中国皇帝の肖像画─東アジア肖像画の比較─
     佐藤文彦(沖縄県立芸術大学)

  •  琉球国王肖像画「御後絵」は15世紀から19世紀にかけて様式化した琉球独自の絵画様式である。そのはじまりはまだはっきりしていないが、描写された様式性から考えるとその根源は14世紀後半、中国明時代における朝貢─冊封関係にあるものと思われる。この絵画様式は当時中国と冊封関係を結んでいた東アジア諸国の国王肖像画にもその国々独自の絵画様式ではあるが共通する例も多い。また、「御後絵」を図像解釈学によって見るとシルクロードの壁面に描かれた絵画様式との類似性を感じさせるものがある。
     本発表では、これまで明らかにした「御後絵」の図像解釈を中心として、中国皇帝、朝鮮国王、ベトナム皇帝等の肖像画と比較する。
     なお、「御後絵」は第二尚氏王統十八代にわたって描かれたものだが、残念ながら実物は1945 年の沖縄戦により消失し、現在では大正時代に鎌倉芳太郎ほかが撮影したモノクロ写真のみ確認することができる幻の琉球絵画である。

    
    
  • 「アジャンター後期窟における仏殿本尊脇侍像の形成について 」
     永田郁(崇城大学)

  •  発表者はこれまでアジャンター後期窟の仏殿本尊脇侍像や守門像を取り上げ、その菩薩造像の始まりが第19窟ファサード左右の守門ヤクシャ像に観察されるように、ヤクシャ像を基本とし、そこに観音の標識の化仏や弥勒の標識の仏塔および持物の龍華といった菩薩の図像形式を付加することで、菩薩像の試みが行われたことを実証してきた。特に仏殿脇侍像の中で第17、1、4、6窟上階などにおいては蓮華手、金剛手などヤクシャ形の脇侍像が確認でき、アジャンター後期窟の守門像、脇侍像において伝統的な古代の民間信仰の神であるヤクシャ像との関連性がなお根強いことがこれまでの研究で明らかとなった。
     しかし、上記のような現象が西デッカン地方の後期石窟の最初を飾るアジャンター石窟においてなぜ起きたかについては、未だ不明な部分が多い。本発表はその現象が起きた理由を後期石窟の僧院窟の仏殿およびその中に祀られた本尊の形成との関連から探り、仏殿本尊脇侍像(ヤクシャ形)の成立過程を明らかにするものである。つまり、アジャンター後期窟の最初期の僧院窟において石窟内部後壁の中央を穿ち、本尊を祀る仏殿を配する点が後期の僧院窟の特徴の一つであった。その最初期の僧院窟の仏殿ではその本尊が明らかに仏塔から仏像へ変更されていることが知られ、その際変更された仏像の左右に脇侍を伴わせる観念はなかった。その後、第17窟仏殿本尊左右に脇侍像が登場する段階において脇侍像として蓮華手・金剛手像といったヤクシャ像を採択した。こうした状況の背景にはクシャーン朝以来インド内部において単独の菩薩像を制作するものの、仏三尊像の脇侍に菩薩を表わさず、金剛手、蓮華手像といったヤクシャ形の脇侍をとる伝統が大きく影響し、アジャンター後期窟においても脇侍に菩薩像を採択しなかった要因と考えられる。また5世紀中葉のサーンチー大塔の四面の仏三尊像においても脇侍に菩薩像は現われていない。よって、クシャーン朝〜5世紀中葉のインド内部の仏三尊像の脇侍の系譜を辿ることで、アジャンター後期窟における仏殿本尊脇侍像の形成過程を明らかにする。

    
    
  • 「『草枕』と西洋美術史」
     中山典夫(崇城大学)

  •  夏目漱石著『草枕』の舞台は、大都会を遠くはなれた鄙の温泉場(モデルは熊本市郊外の小天温泉)。主人公は、超俗(非人情)の美的生活にあこがれる青年画家。そして、随所に芸術論が展開される。それらを吟味すれば、二十世紀初頭における、あるいは現在に通じる、わが国知識人の西洋美術史理解を知ることができる。ここでは、主人公の画工(あるいは著者漱石)の裸体画論をとりあげ、次のように論を進める。
    一 『草枕』七段。画工は、目の前に突然あらわれた女主人公の裸身をきっかけに、彼の裸体画論を展開する。その論の展開を状況の推移を追いながら詳しく紹介する。
    二 画工の思いは眼前の光景を離れ、はるか近世フランスの裸体画へと飛び、それを卑しく品がないと激しく非難しながらも、「蔽(おお)えば、うつくしきものが隠れる。かくさねば卑しくなる」という奇妙な二律背反(アンティノミー)を提起する。
    三 画工は、「今世 (きんせい)仏国の裸体画」をひとまとめに否定する。しかし実態はどうか。ここでは、十九世紀後半のフランス裸体美術の動きをアカデミズムとモダニズムの対比のなかで追跡する。
    四 画工は「今世 (きんせい)仏国の裸体画」に対する非難をさらにつづけ、それが「下品」なのは、そこに余裕がないからだとする。そして、「年々のサロンの目録」に充満する裸体美人の余裕のなさを口を極めて攻撃する。
    五 「年々のサロン」とは、いつの、どのサロンのことだったのか。画工(そして著者漱石)は、古代以来の西洋美術の結晶ともいうべき裸体画について、何を知っていたのだろうか。渡欧前、滞欧中、帰国後の漱石の裸体画体験を追う。
    六 画工は、目の前の女主人公の裸身に「うつくしい画題」を見、彼の理想とする裸体画について詳述する。それが、西洋美術の裸体画といかに異なるものであるかを考察する。
     西洋に反発しながらも西洋に学ぶ漱石は、西洋の裸体画に常に関心を寄せ、それに惹かれる自身を否定すべく、激しく非難した。しかし漱石が、西洋の裸体画についてどのくらい知っていたかは、疑問のままのこる。『草枕』の裸体画論を吟味して見えてくるのは、近代西洋美術史の奔流の傍らで戸惑う、ひとりの異邦人の姿であるといえよう。

    
    
  • 見学会

     11月23日:沖縄戦跡など(沖縄陸軍病院南風原壕群20号、ひめゆり平和記念資料館、斎場御嶽)
     11月24日:首里城
     11月25日:沖縄県立博物館・美術館



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