平成20年度 活動報告




 



 

<第78回大会> 2008年7月5日(研究発表、見学会:於 九州産業大学)



  • 京都・万寿寺所蔵涅槃変相図について
     古谷優子(北九州市立自然史・歴史博物館)

  •  京都市東山区にある京城山万寿寺は、東福寺の塔頭でかつては京都五山の一であった。同寺に所蔵される涅槃変相図(以下、本図)は、涅槃の場面を中心に、その前後に起こる純陀供養、虚空上昇、金棺不動、金棺飛旋、金棺出現、迦葉接足、分舎利の計八場面をあらわした作例である。本図と同図様の涅槃変相図は現在確認できているだけで十数件にのぼり、この手の作品群がある程度受容されてきたことを物語る。本図はこれらの中でも最も古い作例の一で、鎌倉時代(13世紀)の作である。
     本図を含むこれらの作品群については先学により、鎌倉初期に活躍した明恵(1173~1132)が建保3年(1215)に撰述した『涅槃講式』との関係が指摘されてきた。確かに本図にはこの講式と合致する箇所が見受けられるが、講式に記されない純陀供養、金棺出現の二場面を、どのように解釈するかは提示されてこなかった。
     そこで、発表者は本図の画面構成に着目した。すると、本図の上部六場面については明恵の涅槃講式の順序通り、虚空上昇の場面を起点に円環構図をなすこと明らかとなった。また、樹木で上方と区切られた残りの場面が、涅槃講式にない純陀供養と金棺出現の場面であることにも気付かされた。このような構図を考えれば、上部六場面については、先学の指摘通り明恵の涅槃講式に基づく可能性が高まるが、依然として残りの二場面の解釈が問題として残る。この点については、平安中期の天台僧源信(942~1017)撰述の『涅槃講式』に、純陀の供養に倣い福徳を得ることが涅槃会の趣旨とあることに加え、金棺出現に関する記述が見出せること、また、11世紀成立の『釈迦金棺出現図』に、金棺出現に加え、純陀供養の場面が描きこまれている点が注目されるだろう。
     また、図様については、叡福寺所蔵の涅槃変相図(以下、叡福寺本)との部分的な近親性が伺われる。叡福寺本は、万寿寺に程近い泉涌寺に伝来した南宋時代の作例で、大般涅槃経後分に基づく図様であることが指摘されている。
     つまり、本図は、大陸の涅槃変相図の図様を借用しながら、国内で流行した明恵の涅槃講式の内容を盛り込んだ作例とも考えられる。そして明恵の涅槃講式で理解できない下部の二場面については、明恵の涅槃講式成立以前の涅槃会の伝統が息づいている可能性もあるだろう。
     さらに、本発表では、この涅槃変相図がどのような要求に基づいて成立したのか、明恵の涅槃講式の広がりと本図が所蔵される万寿寺の歴史、そして、その周辺の人々の動きを総合的に考えながら、私見を述べてみたい。

    
    
  • 長谷川等伯研究における諸問題点をめぐって
     黒田泰三(出光美術館)

     能登の地に生まれ京都に活躍の場を移した長谷川等伯(天文8・1539~慶長15・1610)は、たびたび狩野永徳とならび称される桃山時代を代表する絵師である。とくにその「松林図屏風」(国宝・東京国立博物館)は、日本における水墨画を自立させたとまで評され、日本絵画史上最高傑作のひとつとして知られる。等伯は現在最も注目される絵師の一人と言ってよい。
     その等伯の芸術生活は以下のように概観できる。
     1) 能登における絵仏師時代(「信春」印の使用) 20歳代~30歳代初期
     2) 京都における等伯前期時代(牧谿様式踏襲から脱却期) 50歳代
     3) 京都における等伯後期時代(雪舟様式の自覚期)60歳代(66歳法橋叙位まで)
     4) 京都における等伯法眼時代 60歳代~72歳(67歳法眼叙位後)
     桃山時代、地方出身の絵師が京都に上り活動をおこなったにしては、異例と言うべき明確さでその生涯を追うことができる。この内容は先学による研究成果にもとづき構築されてきたものであり、その間にはさまざまな問題点の抽出とその解決がくり返されてきたことは言うまでもない。しかし、熱い議論の季節を過ぎ、今や等伯研究者のほとんどがこの内容を全面的に是認し、語るようになっている。2年後の2010年には歿後400年の節目を迎えることになる等伯は、今後ますますその注目度を高めていくことであろう。そしてその際、彼の生涯は地方の絵仏師から中央画壇へと進出し成功を収めたという、いわばサクセス・ストーリーの側面が大いに語られていくことになろう。
     しかし、上記1~4の各時期の繋がりについて問題点が全くないとは言えない。たとえば、等伯は信春と名乗り能登地方で絵仏師として活躍をしていたことになっているが、『丹青若木集』『扶桑名公画譜』『画乗要略』といった江戸時代の記録では信春は等伯の子供とされ、『本朝画史』では信春は春日絵所の絵師と記されおり、信春と等伯は別人とみなされていた。ところが昭和13年に土居次義氏によって「日堯上人像」(本法寺)が見出され、その書き込みの解釈によって「等伯・信春同人説」が提出されて以降江戸時代の諸記録は否定され、この同一人物説は一部の研究者を除きひろく認められてきている。しかし、発表者には様式論において同一人物と認めるのに躊躇せざるを得ない。問題点は完全に解決しているとは思えないのである。土居氏も自論において、新資料の出現によっては訂正をおこなう考えのあることを明記している。あるいは60歳代、雪舟様式を強く自覚した「自雪舟五代」という署名を用いるのであるが、「五代」という根拠に乏しいことや、晩年にはわずか一年足らずで法橋から法眼になったことなども問題点たり得ると思われる。
     そこで本発表では、かつて指摘された長谷川等伯研究における問題点のいくつかの再点検および新たな疑問点の提示をおこない、現在確立されたその芸術生活のいっそうの補強を目的としたい。

    
    
  • 『美術館』(註1)はどこへ行くのか
     後小路雅弘(九州大学)

  •  昨年、北九州市立美術館において、減り続けていた「専門」学芸員(註2)が退職によってゼロになるという事態が生じ、最近になってマスコミ各社があいついで報道、また市民有志によるシンポジウムが開催され、市議会でも問題となっている。西日本の公立美術館の先駆的存在として、後発の美術館にとっての道標ともいえた同美術館の窮状は、近隣の美術館学芸員はもちろん、学芸員志望の学生、あるいは美術史、美術館学等の研究者にとっても、座視できない状況になっていると言えよう。そこには、北九州市立美術館固有の事情もあるだろうが、そうした個別の問題を越え、今日の日本の美術館を取り巻く問題の端的な表れとして捉え直し、それを普遍的な課題として共有していくことが、われわれにとってはより重要だろう。
     「冬の時代」ということばが陳腐に思われるほど、美術館を取り巻く状況は厳しく、その厳しさは、一過性のものというよりは、もっと本質的なもののように思われる。地方自治体の財政難、指定管理者制度、博物館法の改正、学芸員の減員、研究環境や雇用条件の悪化など、かつては、すべてが右肩上がりの幻想の中にあった日本の社会の横並びの豊かさ志向の中で、歓迎され愛され肯定されていた美術館も、いまや批判や否定の対象になってきた感がある。あれほど待望し、歓迎した、わたしたちの美術館も、できあがってしまえば、たいしてありがたくも、有益でもなく、意外にお金はかかり、学芸員はひとりよがりの自己満足に終始している、と思っている地域住民も多いのではないだろうか。
     ともあれ、危機は、常に新たな可能性をはらむものである。美術館の危機は、そのまま社会における美術館の存在意義やミッションを問い直し、あらたな展開の契機になるはずだ。それができなければ美術館に、そもそも未来などないだろう。
     九州・山口の美術館の現状と課題について報告し、問題を共有しつつ、今後の展望につて議論したい。
     なお、報告を後小路が行い、中島順一氏、川浪千鶴氏がコメンテーターを務める。

     註1 ここでは美術館としたが、ここで報告する問題は、博物館を含め広くミュージアム全体に共通する問題であると考える。
     註2 本来「専門でない学芸員」というのはあり得ないわけで、この言葉は矛盾ではあるが、新聞各紙にならい、美術史や美術館学等の専門的な教育をバックグラウンドとする学芸員のことを指す。

    
    
  • 見学会

     九州産業大学美術館「はんが 技法に出会う版画展」
     同大学校内の柿右衛門様式窯



<第79回大会> 2008年12月6日(研究発表、見学会:於 崇城大学)、7日(見学会)



  • 美の「非同一性」―Th. W. アドルノにおける自然美と藝術
     東口豊(九州大学)

  •   Th. W. アドルノ(1903-1969)は20世紀ドイツを代表する思想家の一人であり、彼の思想の射程は美学や音楽を中心とした藝術論から哲学や社会学にまで及んでいる。この様に多岐にわたる領域で展開されたアドルノの思想は極めて難解なものとして知られているが、彼の思想を理解する為に幅広い領域で専門的な知識が求められることや、彼の著作が複雑な文体を用いていることだけに理由がある訳ではない。むしろアドルノの思想の難解さは、その思想が「非同一的なもの」を軸とした否定弁証法の形態を採っており、演繹的にも帰納的にも思想の到達点が明確に語られない点に大きく起因している様に思われる。そこで本発表では、彼の著作の中でも大きな割合を占める美学・藝術学分野を中心にして、自然美や藝術の問題がアドルノの思想の形成や意義に如何に関わるのかを考察する。
     アドルノは哲学上の主著の一つ『否定弁証法』(1966)において、「曰く言い難いこと」に対して沈黙せざるを得ないと語るヴィトゲンシュタインに反して、まさに「語り得ないことを語る」ことこそが哲学の役割だと断じている。人間の認識能力を超える物に対して積極的な言明を避けるのは、中世における否定神学やカントの認識論における「物自体」など、哲学史上しばしば見られることである。また、ヘーゲルの体系的思考は絶対精神に客観を綜合するが、全体性を志向する体系的思考では体系の外を想定することは出来ないし、社会的生物である人間にとって社会の外に存在するものに関与することも不可能なことである。このように人間の認識、思考、行為などの限界の外に存在するものをアドルノは「非同一的なもの」として語ろうとするのである。
     このようなアドルノの試みは、全く人間の手によらない自然と人為的なものを如何に和解させるか、という問いの形で初期の「自然史の理念」という講演から一貫して問われ続けてきた。そこで決定的な影響を与えたのはルカーチやベンヤミンの藝術論であり、またアドルノが行っていた初期の音楽評論にその萌芽が見て取れる。アドルノによれば、自然は認識の対象や労働の素材として関わる場合には単に合理的に処理されるのみであるが、合理的態度の枠を超えて経験された時に突如「非同一性の痕跡」である自然美として立ち現れる。そのような自然美は主観的枠組みを対象に適用する概念的把握を拒み、対象に主観を合一させようとする「ミメーシス的態度」を喚起するとアドルノは考えるのだ。そして藝術は「ミメーシス」の産物であり、藝術もまた「ミメーシス的態度」を要請する。美的経験に基礎付けられたアドルノの思想は、「ミメーシス」を概念的思考で実現しようとする格闘だと言えよう。アドルノにとって自然美の経験と藝術の存在は、「非同一性」を持つものとして現状を批判すると同時に人間の限界を超える可能性を約束するものだったのである。

    
    
  • 黒田家所蔵『能淨一切眼疾病陀羅尼經』に関する考察
     金鍾珉(九州大学)

  •  『能淨一切眼疾病陀羅尼經』は中国唐時代の不空(705~774)が漢訳したもので、600字ほどの短い経典である。経典の内容は、眼病にかかった信徒が如来に平癒を祈願し、それを受けて如来がこの陀羅尼を製作し、それを阿難に流布させたというものである。  本写経は、元は折れ本だったようだが、渡日後、表装をする過程で巻本に変わったものと考えられ、現在は変相図と本文のみが残っている。発願文や刊記はなく、製作時期も明らかではない。しかし本写経がハングルで記述されているという大きな特徴から、ハングルの文法および表記法の変化、ハングルの書体等をもとに、製作年代を推定することができる。 本発表の目的は、この『能淨一切眼疾病陀羅尼經』の製作年代を、より明らかなものにすることである。本写経の製作は朝鮮王朝時代前期に該当するので、まず変相図に見えるチベット仏教の図像を通じて、中国明時代の写経との影響の関係を検討する。また同じ時期の板本変相図の図像との関連についても考察する。
     また、現存する韓国の写経の中では唯一の、ハングルと漢字を併用した写経であるという点に着目し、韓国語学の研究成果を通じてハングルの変遷過程とハングルの書体変化を分析する。ハングルは、1446年、世宗によって頒布した後の変化と発展の過程がはっきりとしており、それ故に本写経のハングルの表記を通じて製作時期の推定が可能であると考える。
     ハングルの書体は、最初に作られた『訓民正音』の書体を基本とし、様々な書体に変化する。訓民正音体は隷書を模した書体で、板本体と呼ばれる。以後しだいに発展し、筆写のために用いられる楷書へと変化していく過程は、本写経の書体分析を通じて明らかとなる。 また漢字の書体も、朝鮮王朝時代の前半期に大流行した趙孟■体が使われているが、純粋な趙孟■のスタイルではなく、様々な書体と混合し、変化したものといえる。これは朝鮮王朝時代の前半期に流行する書体の変化と流れを一にしている点で注目される。
     朝鮮王朝時代は仏教の弾圧が行われた時代であった。仏教美術は、高麗時代の全盛期以後、衰退の一途をたどる。しかし王室と貴族を中心として経典と仏画の製作が続けられ、仏教の教義を守り続けた。朝鮮王朝時代の写経の場合、前半期までは、高麗時代の影響をうけた高麗写経の図像と様式をそのまま伝えるが、世祖の代に至っては、写経の作例や製作記録などが見いだせない。それ故に本写経のような作品を製作できる階級は、王室や貴族であったと考えられるのである。また『朝鮮王朝實録』における、ハングルを制作した世宗から壬辰倭乱(文録の役)までの記録から、本写経が16世紀朝鮮王朝時代明宗代の作品である可能性が高いという見解を提示する。
     <『デ アルテ』25号、5~24頁>

    
    
  • 彫刻の彩色―臼杵石仏群・古園石仏のいわゆる大日如来坐像の彩色の復元をめぐって―
     田原迫華(崇城大学)

  •  ルネサンス以来、西洋の彫刻、およびその影響下に発展した近代日本の彫刻は、彫像の彩色を否定してきた。たとえばヴィンケルマンは、「白は最も多くの光を照り返す色であるから、より感得されやすい。それゆえ美しい肉体は、それが白ければ白いほどより美しくなり、それが裸体であれば、実際よりも大きく見える。」と、色彩を排除した大理石像の美しさを賛美している。また、森鴎外は、一八九六年に「彫刻」と題する文章の中で「大理石の像は大抵彩色は用いないことで、若し色をつける時は、全体に同じ色を用いて、すなわち単色にしてその色もあっさりしたものを使うことに決まっております。石像に種々の彩色を施すことは、今では先ず好まぬことであります。」と断言している。
     しかし、彫刻の彩色は歴史上多く行われてきており、また今日の彫刻制作においても重要な問題とされている。そこで発表者は、彫刻の彩色の例として、大分県臼杵市の臼杵石仏群・古園石仏のいわゆる大日如来坐像を取り上げる。その復元像制作を試みながら、彫刻の彩色の問題について考察していくのが本発表の目的である。そこで今回は、まず古園石仏のいわゆる大日如来坐像について紹介する。そして発表者による復元作業の現状を報告し、復元像の彩色の問題を大日如来の図像を手掛かりに制作者の立場から検証していく。
     大分県南部にある臼杵石仏群は、国宝・国の特別史跡の二重指定を受けている日本有数の屋外石造文化財であり、多様な彩色の痕跡が現在も残されている希少な例である。なかでも古園石仏のいわゆる大日如来坐像(頭部)は、今日なお彩色の痕跡をとどめており、美術作品としても大きな魅力を備えている。しかしながら、その彩色が当初のものであるかどうかは、疑問である。また、臼杵石仏群の年代に関する史料などはほとんどなく、創建の時期、理由など、ほとんど明らかになっていない。ただ、その創建時期については、仏教美術、考古学の観点などからの先行研究によって、平安時代後期と推測されている。さらに、臼杵石仏群は、軟らかい熔結凝灰岩の岩肌に刻まれており、風化が激しく、現状での保存すら危ぶまれており、昭和三十一年から平成五年までに、樹脂を含浸するなど大掛かりな保存修理が行われ、現在に至っている。
     発表者は今年の七月より、現地での調査を踏まえて、臼杵石仏群・古園石仏のいわゆる大日如来坐像(頭部)、その復元像の制作をはじめた。対象とほぼ同質の石材を選定して大まかに切り出した後、主に鑿と金槌で彫り進めている。現在、彫りの段階は、顔部分に限定して中彫りに入っている。同時に、残存する顔料の分析を進め、その材料を特定し、石材片に塗って色見本を制作している。そして、できるかぎり同質の材料を用いて彩色の復元を試みている。また、儀軌に基づく同時代の絵画などから、大日如来としての彩色の推定、同時代の仏像との比較を通して、創建当時の彩色に迫っていきたい。

    
    
  • 見学会

     6日 崇城大学学生作品を見学
     7日 熊本県立美術館(永青文庫展示室)、熊本城(本丸御殿大広間など)、熊本市現代美術館、浄国寺(松本喜三郎作、谷汲観音像を拝観)



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