平成21年度 活動報告

 
 
 
 



 

<第80回大会> 2009年7月4日(研究発表、見学会:於 福岡市美術館)

  • 「田能村竹田の山水画における「黄鶴山樵法」による作画について」
     宗像 晋作(出光美術館)

  •  豊後国岡藩に生を享けた文人画家・田能村竹田(1777〜1835)は、文化8年(1811)に藩内で起こった農民一揆に際し、藩政に対する失望の念を抱き、文化10年(1813)37歳にして藩職を辞した。終生、岡藩に住居を構えながらも、頻繁に豊後と京坂を往復し、頼山陽(1780〜1832)をはじめとした文人との交友を深めつつ画家として成長し、晩年にあたる天保期には、明浄な色彩と、細線を丁寧に引き重ねる繊細な筆致によって、清澄で気品漂う独自の画境を切り拓いている。
     竹田の画業におけるターニングポイントは、文政9年(1826)から翌年にかけての長崎遊学であった。竹田は同地でみた舶載明清画の技巧にショックを受けたようだが、この体験は独自の画風を本格的に模索しはじめる契機となっている。竹田の山水画について、佐々木剛三、宗像健一、河野元昭、黒田泰三ら先学が指摘するように、この長崎遊学以降、実景を意識した山水画を制作する傾向が顕著となる。例えば、文政12年(1829)の「船窓小戯帖」や「目撃佳趣画冊」などの旅のスケッチ帖とでもいうべき画帖作品は、竹田の作画が自然の中での実体験に基づくものであることを明確に示すものであり、こうした作画姿勢は、天保期に入っていよいよ本格的に大画面の山水画にも試みられるようになっていった。
     実景に目を向ける一方で、竹田が文政末〜天保期の作画において傾倒を示したのは、黄鶴山樵と号した中国元末の画家・王蒙の画法であった。竹田の画論『山中人饒舌』や、絵画制作について語った書簡資料などによれば、竹田は中国画などに学んで古法を踏まえることが大切であることを強調しており、その上で独自の画趣を出すことを理想としていた。しかし、王蒙画の真蹟など見ることができなかった当時の状況を考慮すると、明清画の倣古山水や『芥子園画伝』などの画譜から竹田なりの王蒙画のイメージを創り上げていったと考えられる。この王蒙画法による山水画を本格的に描き始めたのが、実景を意識し、実体験に基づく山水画を描き始めるのとほぼ同時期であったことは、古典を踏まえた上で新たな創造を目した竹田の作画理念に適う画風展開として受けとめることができるだろう。
     以上のことを踏まえ、本発表においては、文政末〜天保期に制作された竹田の「黄鶴山樵法」による山水画を取り上げ �@竹田の理解による王蒙画法について �A王蒙画法による真景図の成立とその意義 �B王蒙画法の昇華としての「松巒古寺図」の成立について という三つの論点を中心に考察する。そして、天保期の竹田画の一つの重要な側面が、現実の記憶と中国古典イメージとの間を自由に往き来することができるかのような画世界の創出であったことを、一連の王蒙画法による山水画の展開に則しながら明らかとしたい。

    
    
  • 「三十三観音図成立に関する一考察」
     立畠 敦子

  •  初期水墨画とよばれる初期的な墨の表現を用い描かれた道釈人物画中、白衣観音図の作例は数多く認められる。この白衣観音のさまざまなバリエーションが三十三幅集まり、一揃いの観音として伝わる作例が、現在数点数えられる。
     建長寺白衣観音図三十二幅(以下建長寺本)、長楽寺白衣観音図三十三幅(以下長楽寺本)は、1幅に観音を1図描いた掛幅装の作例である。また東福寺三十三観音図(1412年制作・内2幅は後補、以下東福寺本)三十三幅は、明兆が描いたものとして、また制作年が分かるものとして非常に重要である。
     これらの観音の図像は白衣をまとい、二本の腕に数珠や柳の枝、水瓶をもつなど大まかな図像が共通する。さらに建長寺本・長楽寺本には観音の他に北斗七星や韋駄天など特定の信仰を想定できるモチーフが描かれている。 一方、東福寺本は画面が上下に分かれており、画面上部には白衣観音の図像を描く点は先に挙げた2例と同じだが、画面下部には観音の功徳・観音の救済や、観音が姿を変えて現れる33身の姿を法華経観世音菩薩普門品第二十五から引用し描いている。
     「観音経」の信仰は奈良時代以来盛んであり、観音を33体の姿であらわしたものとしては、本法寺(富山県)法華経曼陀羅普門品(22幅の内1幅)や、彫刻では長谷寺(神奈川県)三十三応現身立像、三十三間堂中尊光背化仏の観音三十三身が33応現身として仏身、小王身、童女身など33体として現されるものが確認でき、また正嘉元年(1257)観音経絵巻(メトロポリタン美術館)では、33応現身と観音救済の図が組み合わされて描かれている。つまり、建長寺、長楽寺、東福寺諸寺の3例のように、32もしくは33幅の観音図については現存作例があまり多いとは言えず、これまで三十三観音図の成立について言及された研究は少ない。
     東福寺本は墨書より三十三観音として制作されたことが確認できる現存する最初期の作例である。しかし、東福寺本が典拠とする図像や教典については確認できていない。同時期の禅僧の語録にそれを求めたとき、「三十二応身」という記述は多く見られるものの、三十三観音についての記述はほとんどない。つまり東福寺本は33という数が意図的に選ばれ、上部図像に白衣観音の図像、下部図像に観音救済や観音説法に図を、単幅の白衣観音図や版本観音経絵から適宜選択され組み合わせ製作されたと考えられるのである。そこには何らかの意図があったと考えるべきである。
     東福寺本と同図像の三十三観音図はこれ以降三十三観音図の規範として描き継がれていくが、その背景には東福寺を筆頭とした禅宗寺院を中心とした観音信仰と明兆筆東福寺本の存在が大きいのではないかと考えられる。  本発表は現存する三十三観音図の図像を詳細に検討し諸記録と照らし合わせ、室町初期に成立した三十三観音図の製作過程及び制作背景を試考するものである。
    <『デ アルテ』26号、41〜70頁>
    
    
  • 「都市と絵画の防衛機制―ジョルジョ・ディ・ジョヴァンニとシエナ戦争」
     松原 知生(西南学院大学)

  •  イタリア美術にきわめて深い心的外傷(トラウマ)を刻印したとされる出来事としては、1348年の黒死病流行と、1527年のローマ劫掠が知られている。前者はミース、後者はシャステルによる詳細な研究の対象となっているが、イタリア全体からシエナという一都市の歴史に目を向けたとき、これらと同様に(あるいはそれ以上に)衝撃的な事件として記憶されているのが、1552年に始まるシエナ戦争と、それに続く共和国滅亡(1555年)である。このトラウマ的な出来事が同時代芸術にどのように反響したのかという未着手の問題を考えるにあたり注目されるのが、画家・建築家ジョルジョ・ディ・ジョヴァンニである。実際、彼はシエナ戦争時、軍事技師として要塞の設計や市壁の拡充など都市の防衛に尽力すると同時に、この戦争にまつわる絵画作品を手がけてもいるのである。本発表では、従来切り離して考えられがちだったこれら2つの活動を関連づけ、さらに画面構造の分析と歴史的背景の解明を連動させることで、戦争の経緯と共和国の滅亡がジョルジョの絵画作品にいかなる影を落としているのかを考察したい。
     ここで主に分析されるのは、すでにジョルジョ作と認定されている小板絵《シエナ市民を励ます聖パウロ》(シエナ、国立文書館)、および今回新たにジョルジョへの帰属を試みるフレスコ画《無原罪懐胎の聖母》(同、サン・ピエトロ・アッラ・マジョーネ聖堂)の2点である。両者を比較すると、いずれも中央に大きく聖なる人物像を、その足下や背後に庇護されるかのようにシエナの都市風景を配している点、またとりわけ、戦争で被害を受けたシエナの町あるいはその一部の街区を隠蔽するように表象しているという点で、興味深い類似性を示していることが理解される。都市の軍事的な「防衛」を担当したジョルジョ・ディ・ジョヴァンニによるこれら同時代の絵画イメージには、精神分析的な意味での「防衛機制」の働きも同様に見出すことができるのである。
     さらに、心的外傷とその視覚イメージにおける防衛機制という問題は、ジョルジョ・ディ・ジョヴァンニ以後の画家たちにも引き継がれていく。とりわけ重要な作例が、アルカンジェロ・サリンベーニによるフレスコ画《シエナの町を庇護する被昇天の聖母》(1580年、シエナ、サン・ベルナルディーノ祈祷所)である。一見トラウマが解消されたかのように、シエナ戦争の激戦区をあからさまに前景化しているこの作品においてもやはり、勝利者メディチ家による大要塞の建設という新たなトラウマに対する心的「防衛」、あるいはイメージにおけるその存在の「検閲」のメカニズムが作動しているのである。
     以上の考察は、16世紀シエナ絵画研究に新たな視座をもたらすのみならず、トラウマとその表象(不)可能性という、より一般的かつアクチュアルな問題系の解明にもいささか寄与するところがあるだろう。
    <『デ アルテ』26号、5〜24頁>
    
    
  • 見学会

     福岡市美術館常設展示


<第81回大会> 2009年12月5日(研究発表:於 大分大学)、6日(見学会:国東半島)



  • 「レアリスム・写真・エッチング―ボードレールの後期美術批評の一断面」
     荻野 哉(大分県立芸術文化短期大学)

  •  シャルル・ボードレール(1821〜1867)が、『1859年のサロン』(Salon de 1859)で展開したレアリスム批判は、「想像力」をめぐる理論との対立図式のもとでのみおこなわれているように見えるため、そこに込められたさまざまなニュアンスが見逃されがちである。彼の美術批評にはレアリスム、およびこの流派の第一人者であるギュスターヴ・クールベに直接言及した文章があまり見られないことが、その大きな要因である。しかしそれらの文章も、同時代の画家たちや、新たに台頭してきた芸術ジャンルに対して下された評価と比較・照合しながら再検討すれば、また違った意味合いを帯びるに違いない。
     本発表ではこのような意図に基づいて、「自然も現実も醜い」ことを認識できていない大半の風景画家たち、すなわち「自称レアリスト」へのボードレールの批判的態度が、レアリスム派のシャンフルーリと実は相通じるものであったことをまず考察する。次に、伝統的な規範に従って現実をひたすら理想化しようとするドミニック・アングルへの厳しい批判に対置させるかのように、醜い現実と直面しつつそれらを描き出すクールベの姿勢を、ボードレールが「有益な反動の精神」と評価していたことを確認する。さらに、『1859年のサロン』においてレアリスム批判の直前で展開されている、有名な写真批判論を多角的に分析する。写真に芸術性を一切認めず、それが芸術に及ぼす悪影響を強調するボードレールの論法は、レアリスムに関しては、主観性を表出し得るかぎりでの意義を認める記述も残すこととなった。最後に、以上のようなクールベ観、およびレアリスム観が晩年まで引き継がれていたことを、エッチングについての論考などを検証することによって論じ、彼がその美術批評で提唱しようとした真の「レアリスム」とは、客観に対する主観、あるいは模倣に対する創造という単純な図式に安住することなく、芸術家と現実との直接的な関係を「率直に」打ち立てる試みであったことを解明したい。
    
    
  • 「ケルムスコット・プレス版ジェフリー・チョーサー作品集"騎士物語"におけるバーン=ジョーンズの挿絵について―素描から完成まで―」
     吉田 公子(多摩美術大学美術館)

  •  ウィリアム・モリス(1834-1896)は産業革命が進行中であったヴィクトリア朝時代において、壁紙やテキスタイル、ステンドグラス等の多岐にわたるデザインの分野で活躍した。〈美しい家〉の次に望まれる芸術は、〈美しい書物〉であると公言したモリスは、理想とする書物を具現化するために、1891年にケルムスコット・プレスを設立した。その理想とする書物の条件は用紙と活字体、文字間の間隔、組版のレイアウト、装飾、挿絵と多岐にわたった。モリスは中でも挿絵について画家であり友人でもあったバーン=ジョーンズ(1833-1898)の作品を「美しく想像力に富む絵」であり「印刷本と最高に調和のとれた装飾」であると高く評価していた。ケルムスコット・プレスでは閉鎖される1898年までに、53点の書物が生まれた。
     世界三大美書と言われるケルムスコット・プレス版チョーサー作品集は、バーン=ジョーンズによる挿絵が87点付されている。この書物は、13世紀に活躍した詩人ジェフリー・チョーサー(1343?-1400)の作品集である。モリスは忠実に再現するためにチョーサー作品集の中でもカンタベリー物語についてはエルズミア写本を底本とした。他の作品についてはW.スキート(1835-1912)が校訂したオクスフォード版チョーサー全集を底本とした。カンタベリー物語はカンタベリー大聖堂へ巡礼に向かう29名の旅人が道中に1話ずつ語り合う物語集である。24の物語からなるうち、バーン=ジョーンズの挿絵が付されたものは、7話である。挿絵はバーン=ジョーンズによって鉛筆で描かれた後にR.キャタースン=スミス(1853-1938)がインクで描き直し、再度バーン=ジョーンズの修整を受けて写真によって版木に転写され、W.H.フーパーによって彫版された。またその校正刷をバーン=ジョーンズが確認した。バーン=ジョーンズがこれらの工程に関わることで、画家本人の意図する挿絵が最大限に表現されることとなった。
     本発表ではケルムスコット・プレス版チョーサー作品集におけるカンタベリー物語のうち“騎士物語”を取り上げ、バーン=ジョーンズによる6点の挿絵についてテキストとの関連性を素描から完成までの経緯を追いながら分析し、バーン=ジョーンズがモリスの理想にどのように応えたのかを明らかにする。
    <『デ アルテ』26号、25〜40頁>
    
    
  • 「富貴寺阿弥陀堂の平面構成の意味するもの」
     徳山 光

  •  わが国の寺院建築の様式が、中国・朝鮮からの導入によって始まり、その技術が日本化し完成されていく過程には、非常に興味深いものがある。その過程の重要な部分が阿弥陀堂建築であるとわたしは考える。
     わが国に導入された寺院建築は、柱と柱を梁でつないだものがその構造的単位として考えられていて、その組み合わせの並列的拡大によって建築空間が考えられていたこと示す建築表記法が存在する。それは構造的単位である柱と柱を梁でつないだもの2セットを立方体になるよう横材で連結したものを、建築空間の基本的単位とするという建築空間の表記法で、「間面表記」というものである。その表現内容から「母屋・庇記法」と呼んでもよいものである。即ち、例えば「一間四面」の建物という場合は、一間の母屋の四面(前面、両側面、背面の四面)に庇をつけた建物であるということになる。このときの「一間」とは長さの一間(6尺=約1.82m)をいうのではなく、「柱間一つの母屋」のことであり、その「四面に庇を付けた建物」ということを意味する。従って、「三間四面」は「柱間三つの母屋の四面に庇を付けた建物」ということになる。この表記は建物の規模と同時にその形状までも表すことができるところに特徴がある。ただし、「間面」による表記の内容が後世になると全く異なったものを表すことになる。後世の「五間四面」と記された場合、これは建物の正面全体で五間(5つの柱間)を持ち、その奥行き全体として四間(4つの柱間)をもった建物であるということを表すことになる。同じ「間面」の表記でも、後世のものは建物の大きさや規模そのものしか表さなくなるのである。
     この両者に違いが生まれるのは、建築構造上の違いが生じたからに他ならない。初めの場合は母屋という基本構造体に庇を付加して建物が造られるということが了解事項である場合であるが、後者の場合はそうでなくなったことからの表記であり、堂内の柱が自由に動かせるようになったことを意味するし、また、屋根部がわが国特有の二重構造になったことを意味する。
     富貴寺阿弥陀堂を間面記法で表せば、古い表記法であれば、「一間四面堂」ということになり、後の表記法であれば「三間四面堂」ということになる。その二重構造の屋根部をもつことから言うと後者のほうが適切であるし、堂内の内陣柱の前方2本だけが後方に移動されていることからも、古い表記法では不十分である。ただ、よく観察すると、内陣柱の上方部、天井裏には、旧来の母屋の構造的上部が残されていることを考えると、古い表記法での「一間四面堂」表記も可能である。さらに堂の平面計画を採寸してみると、10尺×10尺の内陣(母屋)部を核として、その前後に13対10の比による13尺と7.7(7.6923)尺、両脇に7.7尺づつを配しており、この建物の中心が母屋部にあることの意識を残している。また、堂の側面は3本の柱により4間に区切られているが、この柱間は7.6尺弱で7.7尺とほぼ同じであるが、この若干の数的な曖昧さは、構造的曖昧さと共に、何を物語るのでろうか。

    
    
  • 「福田平八郎における造形性についての一考察 」
     宮崎 治(大分市美術館)

  •  福田平八郎(1892-1974)は、現在の大分市に生まれた。京都市立絵画専門学校に学び、1921(大正10)年、第3回帝展で「鯉」(宮内庁三の丸尚蔵館)により特選を受賞。その後も着実に画技を深め、1932(昭和7)年、第13回帝展に「漣」(大阪市立近代美術館)を出品し大反響を呼び起こし、また戦後の1953年の第9回日展では、瓦に落ちる雨の情景を斬新な視点で捉えた「雨」(東京国立近代美術館)で画壇に衝撃を与えた。平八郎は、ありふれた身の回りにあるものを題材にして、それを画面上で絵画芸術として昇華させた、近代日本画京都画壇における巨匠の一人であった。
     その芸術については、1921年の「鯉」や、翌年の第4回帝展出品の「鶴」、等に顕著に示されるリアルを身上とした写実性と、1942年の「竹」(京都国立近代美術館)や1947年の「紅葉と虹」(大分市美術館)などに窺える単純化した形態と平板な色彩等を特徴とする装飾性、それらを融合したものであることは、平八郎本人及び、多くの評論家等が認めるところである。
     また、そのような展開の中にあって、平八郎芸術における別の重要な特徴として、その作品に文学性や情緒性がほぼ欠如している点についても、これまでしばしば指摘がなされているところである。大胆な構図で、鮮やかや色彩を用いながらも、その画面には、自己の感情の高ぶりの様子は殆ど留めていない。あくまでも自然の姿を内包した、色と形と構図等によって成り立つ、独自の絵画世界があるのみといっても言い過ぎではないだろう。  平八郎の日本画における近代的性格を考える上で、発表者は定石的ではあるが、やはりここに重要な糸口があると思うのであり、それは、いわゆる、色と形と構図等の在り方、すなわち造形的な取り組み、それが大きく作用した一面があると思うのである。
     本発表はその意味で、平八郎が自己の画風を求め、大きく作風を変化させていった1930年頃以降から、独自の画風を完成させた1953年の「雨」制作の頃を中心に、その近代性という文脈にもからめながら、平八郎の造形的な面における、様々な取り組み、特徴を呈示してゆくものである。
     1930年に東京で活躍する中川紀元等の洋画家や中村岳陵等の日本画家たちと結成した六潮会へ参加した時期の「鮎」等における、飽くなき水についての表現試行や、六潮会出品作等に見られる、ほぼ単色で画面を覆うようにして表出される統一性、さらには1938年の「青柿」(京都市美術館)の頃に見られる形態の抽象化、その他「竹」や「鯉」等の題材の違いによる垂直、水平の構図の在りかた等、そうしたことについて呈示、考察し、平八郎芸術を、近代性に繋がると思われる造形性の面から探って行きたい。
    
    
  • 見学会
     案内 田中修二(大分大学)、藤原由莉(大分大学大学院)

  •  真木大堂 (阿弥陀如来坐像、大威徳明王像、古代公園等)
     富貴寺 (大堂、大堂内壁画等)
     熊野磨崖仏 (不動明王像、大日如来像)
     大分県立歴史博物館 (富貴寺大堂内陣実物模型、鏝絵等)


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