平成22年度 活動報告

 
 
 
 



 

<第82回大会> 2010年7月3日(研究発表、見学会:於 御花史料館)



  • 「朝倉文夫の彫刻表現についての一考察」
     緒方 信行(崇城大学大学院)

  •  朝倉文夫(1883−1964)は、現在の大分県大野城市に生まれた。恵まれた幼少年期を過ごしたが、中学校を退学することとなり、兄の彫刻家渡辺長男を頼りに上京する。東京美術学校彫刻選科に入学した彼は、早くから写実的資質を見せ始め、1907 年の卒業制作《進化》は、ラグーザの来日以降から続く日本における西洋的写実表現を代表する作品として有名であり、卒業後も文展で連続入賞を果たすなど活躍する。1910 年の《墓守》は朝倉の制作におけるターニングポイントと言われ、それ以降、朝倉は「自然主義的写実主義」を掲げて、一貫して対象を素直に捉えた表現を行う。また彼は、朝倉彫塑塾を主宰して後進を育成するとともに、文展の審査員や東京美術学校教授にも就任し、さらには1948 年に文化勲章を受章するなど、日本の近代彫刻界に確固たる地位を築いた。
     しかし、このような経歴を持ちながら、朝倉は、現在、日本の近代彫刻史において大きく扱われているとは言い難い。朝倉の活躍期には、荻原守衛や高村光太郎がおり、続いて抽象表現も登場することとなり、彫刻史全体の流れから見れば、朝倉の存在は大きくクローズアップされてはいないのである。例えば平成19 年に開催された「日本彫刻の近代」展(宮城県美術館他)での展示数も、荻原が3 点、高村が10 点であるのに対して朝倉の作品は1 点のみであり、当展覧会のカタログでもある『日本彫刻の近代』における朝倉の紹介も僅かであった。彫刻界だけでなく、社会全体が大きな時代の変革期に突入していたこともあり、その芸術が「アカデミズム」と評される朝倉は、日本近代彫刻史を代表する作家とはみなされていないのかもしれない。だが、古代ギリシア・ローマ時代に一つの完成を見た彫刻の写実表現は、時にはアカデミックな単なる形態把握にすぎないとして批判されたりしながらも脈々と受け継がれ、今日も写実による芸術的価値を追究する彫刻家は絶えることがない。芸術を志す者が単なる「形」の把握のレベルに満足するはずはないのである、と発表者は考える。朝倉文夫も、歴史的変革期の日本の近代において「自然主義的写実主義」を標榜しながら、写実を探求し具現化しようとした一人の彫刻家である。
     そこで本発表では、主に東京の「朝倉彫塑館」や大分の「朝倉文夫記念館」、並びに彼に関する展覧会等で作品をできる限り実見調査しながら、朝倉の彫刻における表現の特徴を把握し、それを日本の近代彫刻の流れと比較することで、彼の彫刻表現における挑戦とその展開を明らかにしたい。また、《墓守》や1952 年の《平和来》などの顕著な作例を挙げ、それらの制作に際して彼が参考にしたと思われる作品の彫刻表現を文献によっても裏付けながら探ることで、彼が目指した「自然主義的写実主義」がどのようなものであったのかを考察し、朝倉文夫の彫刻の真髄に迫って行きたい。
    
    
  • 「ピントリッキオ作ブファリーニ礼拝堂装飾壁画研究
       ―ローマ、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会におけるシエナの聖ベルナルディーノの称揚について」
     荒木 文果(九州大学大学院)

  •  サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会にはシエナの聖ベルナルディーノ(1380-1444)に捧げられたブファリーニ家礼拝堂がある。本礼拝堂壁面の聖人伝連作にあたったのは、ピントリッキオ、すなわち15 世紀末から16 世紀初めに、5 名の教皇、聖職者や在俗の富裕層によって数々の壁面装飾を依頼されたペルージャの画家であった。注文主はニッコロ・ディ・マンノ(1430/40-c.1506)で、ローマで書記官として働いていた法学者である。
     従来、本礼拝堂装飾壁面に関しては、制作年代や画家の工房における協力者の役割など様式論的議論が中心であった。また、その図像学的側面に関しても主にアラスやラリックらによってある程度明らかにされている。さらに近年ラ・マルファによって、本礼拝堂におけるグロテスク装飾と描かれた建築要素が生み出す空間的統一性の歴史的意義が喚起された。それに対して本発表では、聖人伝の図像表現に再び目を向け、聖人がローマにおいて異端審問にかけられた事実に留意しつつ、次の二点を中心に新たな解釈を提示する。
     一点目は、東壁面上段ルネッタ部分に描かれた《隠遁を試みる聖ベルナルディーノ》の主題についてである。聖人は隠遁生活を途中で断念したために、通常本主題が絵画化されることはない。一方、ルネッタの聖人には、隠遁を主題とした伝統的な図像表現が踏襲され、実際の逸話を再現する意図で制作されていないことが分かる。画面では聖人を指し示す男性を中心に聖人と男性群が対置され、とりわけ目立つ位置に異教徒が描かれている。当時キリスト教国の平和実現のために、異教徒は不信人者として改宗させるべき対象であったが、本画面における隠者と不信心者の対置から想起されるのは、隠者が不信人者を改心させるという中世以来の思想である。さらに聖人が語る説話、聖なる場面を異教徒に指差す構想がみられるシスティーナ礼拝堂の《キリストの洗礼》との比較、異教徒のポーズ等の検討により、本ルネッタの真の主題は、不信心者の改心、特に異教徒の改宗であると考えられることを明らかにする。
     二点目は、祭壇壁面の《聖ベルナルディーノの栄光》において聖人と共に冠が描かれるという図像的特異性についてである。発表では、冠を捧げる天使が百合の花を持つ点に注目し、百合と冠を携える天使のモチーフが通常聖母の頭上に描かれるものであることを指摘する。祭壇壁面における両聖人の視覚的繋がりは、画家の徒弟が制作したサンタ・トリニタ教会のフレスコ画によっても裏付けられる。さらに聖人の説教において、実際に彼自身が聖母との繋がりや彼の聖母への信仰を聴衆に語っていることを確認する。それによって本祭壇壁面においては、聖母を篤く信仰しその加護のもとにあった聖人像が示されていると共に、聖母のアトリビュートを意図的に用いることで、かつて異端視された聖人の記憶が覆われ、その正統性が表明されている可能性に言及する。
    <『デ アルテ』27号、45〜68頁>
    
    
  • 「御花史料館所蔵の無款の油彩画「花下遊楽図」について―亜欧堂田善の新出作品として」
     金子 信久(府中市美術館)

  •  御花史料館所蔵「花下遊楽図」(絹本油彩、縦44.2cm×横90.2cm、額装)は、柳川藩主を務めた立花家に伝来し、無款ながら江戸時代の洋風画として本格的な作行きを示す作品である。すでに昭和63 年の福岡県立美術館による調査目録、及び平成19 年の柳川市史編集委員会による調査目録に、作者不詳として掲げられている。この作品について、発表者は最近調査の機会に恵まれ、その画風から、作者を奥州須賀川出身で白河藩主松平定信の御用を務めた画人、亜欧堂田善(1748−1822)の作と比定するに至った。本発表では、田善の基準的作例と比較し、あわせて新出作品としての意義等にも触れてみたい。
     海を望む高台での花見の様子が描かれている。あちらこちらに毛氈を敷いて花見に興じる人々や田楽売りが見えるが、左方近景の巨大なまでの木は、画面上方で大きく枝を広げ、印象的な描写である。画面右方の一段低い場所には建物が並び、更には海、そして霞むような遠くの山々も見える。景観の特徴と花見という主題から、描かれているのは、江戸の品川にあった御殿山の風景と考えられる。つまり右方の建物は東海道の品川宿、遠景は房総半島である。
     作者についてであるが、まず、御殿山の光景を俯瞰的に捉え、遠方の山並みまで見渡す構図感覚は、田善の油彩画や銅版画の基準的作例にしばしば見られる。木や人物、耕地等の個々の事物の描法も、基準的作例のそれと同質とみなすことができる。目を引く大きな木が配され、画面上辺で断ち切られる構図もまた、しばしば田善の作品にみられるものである。田善は油彩画材を自製したと考えられるが、そもそも絵の具の発色や絵肌も、基準的作例と同様と見受けられる。無款である点についてであるが、田善は自身の作品に必ず款印を入れるわけではなかった。基準的作例の中に、制作当初は無款であったと考えられるものがあり、また、無款の油彩画で田善の作と推定できるものがある(東京国立博物館所蔵「護持院ヶ原図」)。以上の諸点から、本作品は田善の作で、その制作時期は文化年間(1804−18)頃と考えられる。
     90 点に及ぶ銅版画で知られる田善であるが、油彩画は今のところ十数点に過ぎず、本作品がそこに加わる意義は大きい。例えば、その様式の成立に田善の師の一人である谷文晁の写実的な風景図の様式が強く関わっていること、また、風俗描写に特徴があるとされてきた田善が自然景に対しても積極的に取り組んでいたことなど、画人像の解明にも資するであろう。更に、定信の御用を務めたとは言え、これまで松平家をはじめ大名家に伝来する遺品は知られていなかった。本作品は、田善の創作の大きな魅力を伝えていると同時に、洋風画という、いわば前衛的絵画がどのように受容されたのかという問題提起をも含んでいる。

    
    
  • 「国際美術展における地産性―インディジェネス・アートの視角から」
     藤川 哲(山口大学)

  •  「地産地消(地場生産地場消費の略)」は、1980 年代半ばより、先ず農業関係者の間で用いられ、次いで90 年代以降、水産業、畜産業、林業をも含む域内流通と地域社会、生活様式の改善運動の旗印として使用されるようになった新造語である。他方、インディジェネス(indigenous)という形容詞は、人類学等において「人々(people)」とともに「先住民(indigenous people)」を名指す際に使用されているが、この単語の認知度を近年特に高めたのが、1989 年に国際労働機関(ILO)によって採択された「原住民及び種族民条約(Indigenous and Tribal Peoples Convention)」である(日本は未批准)。同条約は、多文化主義の興隆を背景に、従来の同化主義的な方策を改め、先住民・種族民独自の文化、伝統、経済の保護を批准国政府に求めるものである。
     食の生産消費を核とする地域共同体再生の取り組みと、多文化主義政策の一環としての先住民文化の保護は、同じグローバリゼーションという時代背景から登場したものと考えられる。英和辞典に見られるindigenous の語釈は、「1. 土着の、(…の土地に)固有の、国産の/2. 生まれながらの、生来の、(…に)固有の」であるが、「〜に溢れた」の意を付加する語尾-ous を除いたindigene(英語では名詞、仏語indigène は形容詞)のラテン語語源indigena は、indu(=in の古形:〔その場所〕に)+gigněre(産まれた)であり、「地産」の訳語を充てることが十分可能である。
     発表者は、第72 回九州藝術学会(2005 年)での研究発表「国際美術展とグローバリゼーション―展覧会企画者の理論と実践」以後も、ビエンナーレ、トリエンナーレと呼称される国際美術展の実地調査を継続してきた。同発表をもとに学会誌に投稿した論考で述べた「開催都市のサイト・スペシフィシティを重視する傾向」(『デ アルテ』第22 号、22 頁)について、新たに、ラテンアメリカにおける先住民擁護運動「インディヘニスモ(Indigenismo: 西語)」の歴史を参照モデルとして、1)地産性の排除(=国際性志向)、2)地産性の借用(=外来美術家による地域交流作品)、3)地産性の課題化(=関係者の挑戦)の3 つの観点に整理して、シドニー・ビエンナーレ2008、越後妻有アートトリエンナーレ2009、神戸ビエンナーレ2009、第4 回福岡アジア美術トリエンナーレ2009、チリ・トリエナル2009、第9 回ダッカールト―現代アフリカ美術ビエンナーレ(2010年)等を中心に、調査報告と分析を行う。
     以上の分析と比較考察を通して、国際美術展における地産性の涵養が、国際美術展の新設が相次ぐビエンナーレ化現象から創造的な側面を引き出す道である、という結論を提示したい。
    <『デ アルテ』27号、5〜26頁>
    
    
  • 「〈象徴形式の哲学〉の形成と感性論」
     喜屋武 盛也(沖縄県立芸術大学)

  •  二十世紀前半に活躍したエルンスト・カッシーラー(1874-1945)は、主著とされる『象徴形式の哲学』に1920 年代を通じて取り組み、「言語」(1923)、「神話的思考」(1925)、「認識の現象学」(1929)の三巻を刊行した。この執筆期間はハンブルクで活動していた時期と重なっている。カッシーラーは美術史家のザクスルやパノフスキーらとともに、ヴァールブルク文化史文庫の活動に参加しており、文庫での講演、紀要に掲載された成果も少なくない。したがって、理性の批判を文化の批判へと拡大することを企図した彼の哲学の形成のなかで、芸術は決して瑣末な対象ではなかったはずである。しかしながら、芸術についての巻は、当初計画されていたものの断念されたままとなり、芸術についてのまとまった記述がなされるのは、ようやく晩年の『人間』第九章においてである。
     ただし、言語や神話、あるいは認識が主題となっている場合でさえ、感性的な意味の世界の豊潤さやイメージのもつ創造性が議論の根幹を成している点は注目に値する。つまり、明確な芸術論ないし美学の形態をとらないまでも、彼の文化哲学の方向性そのものに感性論、あるいは美学的思考とでも呼ぶべきものが介在していると考えることができるであろう。本発表は、そうした観点からカッシーラーの1920 年代の哲学の形成をたどり、彼の文化哲学の進展を検証するための一助とする。
     第一巻「言語」とほぼ同時期に執筆されたヴァールブルク文化史文庫講演「精神科学の構造における象徴形式の概念」(1923)では、言語、神話、芸術、認識が象徴形式として挙げられている。各象徴形式の背後には、それぞれ個別の学問が存在しており、カッシーラーは言語学、神話学などそれら学問領域の同時代的成果を基礎に置き、時間、空間、数などの諸関係が、様相を変化させながらあらゆる形式中に見出されることを確認する。芸術もまた、それら形式の一つとして議論の一端を成している。
     第二巻から第三巻に向かう途上で、こうした形式の並列的な構造に加えて、そうした形式自体の生成発展に対する観点が明確化される。神話から言語や科学的認識が形成されるにいたる理念的な展開が構築されると同時に、そうした形式の展開を支えている、表情(Ausdruck)、表示(Darstellung)、純粋な意味(reine Bedeutung)からなる象徴の形成作用の三つの次元が付け加わる。それに応じて、第三巻「認識の現象学」では「象徴的懐胎」(symbolische Prägnanz)という概念が提出され、感性論的な考察は一つの到達点を迎える。至極単純な感覚的経験のなかにすでに、どれほど含蓄に富んだ意味の世界への可能性が内在しているのかが、ゲーテやゲシュタルト心理学の成果を援用しつつ、議論されるのである。

    
    
  • 見学会

    御花史料館所蔵品(亜欧堂田善《花下遊楽図》を中心に)


<第83回大会> 2010年12月4日{研究発表、見学会:於 徴古館(財団法人 鍋島報效会)}



  • 「ヘラルト・ダーフィット作《カンビュセスの裁き》試論―画中に描かれた牡鹿をめぐって―」
     藤村 拓也(九州大学大学院)

  •  現在、ブルッヘのフローニンヘン美術館に所蔵されているヘラルト・ダーフィット作《カンビュセスの裁き》(1498 年完成)には、ペルシア王カンビュセスの命により、不正を犯した執政官カンビュセスが逮捕され、皮を剥がれるというおぞましい物語が描かれている。ただし、同市の市庁舎に飾られていた本作は徒に残虐性を衒うものではなく、施政と司法に携わる人々に対して訓戒と正義の規範を呈示することを目的としていた。同様の役割をもつ作品は一般に正義図(あるいは裁判画)と呼ばれるが、ダーフィット作品には君主にむけられた政治的メッセージが付与されている可能性が指摘されている。
     しかしながら、三回にわたる市当局から画家への支払いを記した会計記録の解釈や、科学調査によって判明した下絵と完成時の違いが本作の議論を複雑なものにしており、上述した意味内容の政治性を否定する論考も発表されている。歴史学をはじめ、文献学や科学分析などをふまえた多角的な考察がおこなわれているにも関わらず、本作には未だ議論の余地が残されているのである。
     そこで、本発表では先行研究の成果を参照しつつも、今まで看過されてきた本作の細部に注目する。それは処刑の繰り広げられている都市空間の外に広がる木立である。一見するとこの細部は自然景観に見えるが、精察するとその奥は壁で閉じられ、牡鹿が木蔭にたたずんでいる姿が確認できる。まず、このモチーフの意味内容をいくつかの事例・作例から明らかにし、考察の糸口としたい。先んじて言えば、この牡鹿は本作の解読において重要な役割を担っていたと考えられるのである。
     また以上の考察の過程で、本作に描かれたいくつかのモチーフの意味内容をひとつに同定することが困難であることも明らかとなるが、この不安定な状況は絵画を読み解くプロセスと、そこから生じるメッセージがひとつではないことを示唆しているともいえる。そして、このような解釈の複数性は本作が公的な空間である市庁舎に置かれ、不特定多数の目に触れていたことをふまえるならば、重要な意味合いを持つのではないだろうか。
     つまり、画家あるいは注文主が本作制作にあたっていくつかの受容者層を想定し、各層の期待の地平によって各モチーフの解釈が変化するよう企図していた可能性も十分に考えられるのである。以上の可能性をふまえ、あらためてブルッヘの政治的・社会的コンテクストからダーフィット作《カンビュセスの裁き》を考えてみたい。その結果、前述した画中の最奥部に描かれた牡鹿が、本作の最も重要かつ巧みに隠されたメッセージを読み解くための鍵である可能性が浮かびあがるのである。
    <『デ アルテ』27号、27〜44頁>
    
    
  • 「酒井抱一筆〈夏秋草図屏風〉の銀地背景について試論」
     立木 美江(九州産業大学大学院)

  •  東京国立博物館所蔵酒井抱一筆「夏秋草図屏風」は現在重要文化財であり、尾形光琳筆「風神雷神図屏風」の裏絵であったことが広く知られる作品である。依頼主は将軍家斉の実父、一橋治濟であり、目的は古希や婚礼の祝い、抱一の腕試しなど諸説ある。その背景の銀地は夜を思わせる月光に見立てた表現などと言われる。本作品の研究史は画評にはじまり、表絵との関連性や下絵による時代考証が中心に行われ、現在では、玉蟲敏子氏などによって絵解きにまで及んでいる。しかしながら作品の詳細、技法的な側面について言及した先行研究はない。ここでは制作者として初めて作品検証を試み、「夏秋草図屏風」の特性を明らかにしたい。
     発表の主題は銀地背景の技法と目的を明らかにすることである。技法を検証し、古色表現・残像表現・動的表現などの効果を解釈し、その背景の技法の目的が絵画表現や時代色づけにあることを示す。つまり作品の詳細から「夏秋草図屏風」に新たな解釈を加えるものである。
     比較対照には制作時期がほぼ同じ抱一筆銀屏風を選択した。静嘉堂文庫美術館所蔵「波図屏風」、出光美術館所蔵「紅白梅図屏風」、同美術館所蔵「四季花鳥・波濤図屏風」のいずれも抱一筆の作品三点である。個々の屏風の銀地背景を箔の大きさの単位でみると、正方形の銀箔を、実際に押したようにみせる技法が他の銀屏風とともにあるが、「夏秋草図屏風」独自の技法としては輪郭線のみを描いて銀箔に似せたものもある。 全体をみると、背景の正方形の描法は、モチーフの配置に従って成されることも分った。銀箔本来の効果をつけつつも、一方では銀箔の持つ強い光彩を避けるため上から泥を用いて柔らかな光を放つ効果も狙っていることが観察された。つまり背景は余白でなく余情として解釈され、絵画効果をより一層高めている。
     他の抱一筆銀屏風にない「夏秋草図屏風」独自の表現には、主なものに動的表現の効果がある。この筆による描写技法、いわゆるスピード線が風を可視化し、背景の動的な要素が手前のモチーフに動きを与える効果を与えている。次に残像効果、いわばコマ送りの表現がある。この描写は一見汚れにみえるが、時間経過を感じさせる効果がある。次いで剥落の効果が挙げられるが、これは現状模写的な技法で描かれ、汚れや傷を絵柄に無関係に描く。このように背景の絵画効果には他の三屏風に見られない独自のものがあった。そういった効果は染みや傷を思わせるものであり、これは時代色をつけ効果も狙っている。
     以上から「夏秋草図屏風」の擬古的表現は、表絵の100 年後に描かれたことへの配慮によるものであると結論づける。本作品の新たな解釈として、作品背景に抱一筆作品の技術的な力量、依頼主との美意識の共通性なしには成し得ない技であったことが推測され、さりげない技に江戸時代の美的価値観を垣間見ることが出来る。
    <『デ アルテ』27号、103〜127頁>
    
    
  • 「河井寛次郎における詩―「民藝」解釈に関する一考察―」」
     高木 崇雄(九州大学大学院)

  •  河井寛次郎(1890-1966)は、濱田庄司(1894-1978)とならび、近代陶芸界における先駆者のひとりである。河井は東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科を卒業の後、京都市立陶磁器試験場の技手となり、近代的手法に基づく窯業技術者として作陶を行った。また自らの窯を築き、個人作家として立った後には、宗教哲学者にして民藝運動の主催者としても知られる柳宗悦(1869-1961)らと出会うことにより、新たな表現を模索すると共に、民藝運動の主導者のひとりとして活動したことでも知られる。
     また河井は、陶器という形での表現のみならず、詩文を以て彼自身の美への思い、彼自身の言葉によるならば「祈り」を表現した。雑誌『工藝』(1931-1948)への寄稿、詩集『火の願ひ』(1947 年刊行)などを通じて見られる河井の表現には、当然ながら共に活動を行ってきた民藝運動の同士である柳宗悦の影響が強く認められる。しかし、自らは作品を作らず、宗教哲学者として「眼と直観」を通じて美を追い求めた柳と、生涯を陶工として過ごすことを願った「手の人」河井、二人の間には「民藝」についての解釈を巡って微妙な差異が認められる。河井が見出した「民藝」概念には、機械工業化された「民藝」、実践をともなう生活改善運動としての「民藝」など、柳が想定した「民藝」以上の幅があり、このような河井と柳の「民藝」観の差異は、1960 年代に起きた「民芸ブーム」期における、用語としての「民芸」の濫用にもそのまま繋がるであろうし、現在も続く、近代美術史から切り離された河井寛次郎評価、ひいては柳宗悦評価にも繋がっているものと考えられる。
     これらを踏まえ、本発表に於いては、河井寛次郎と柳宗悦という二人の言説を比較することにより、通底する「民藝」観を明らかにすると共に「民藝」という言葉の多様性を改めて考察し、「あり得た民藝」について新たな解釈の可能性を検討したい。
    <『デ アルテ』27号、85〜101頁>
    
    
  • 「国際アートネットワークから地域文化政策へ―阿蘇Genesis起源展への考察―」
     三枝 泰之(崇城大学)

  • 1.はじめに(背景と目的)
     現代に於いて美術が社会的に同時代的なメッセージを発言していくことは重要だと考える。2010 年自ら企画し、今後も展開を考えている『Genesis 起源展』をめぐってジャンルを横断した交流から地域と世界(同時代意識)を結ぶ発言を行いたい。
     そもそも本展覧会に到る背景には、国際的なアートネットワークの参加団体であるM.M.A.C. (Mixed Media Art Communication/福島県)への参加がある。この団体も発足の伏線となっている会津地方でのパフォーマンス・フェスティバルから数えると早くも27 年あまりの歳月を経た。1997 年からは定着できる会場として、奥会津にある廃校を改良した施設があり外国人アーティストを招聘し、滞在型の制作、交流などが行われている。
    2.研究の方法・調査
     自らも各国アートフェスティバルへの参加を体験し、現地での美術展と社会的な発言との関係性などを肌で感じてきた。2002 年フランス/2003 年カナダ/2004 年ポーランド/2005 年ポーランド、上海/2006年フランス/2008 年ドイツ、ポ—ランドなどである。
    3.仮説と考察
     筆者も度々参加している国内外のアートフェスティバルをベースに、自ら企画・開催してきた熊本に於けるアート展の変遷とその意義を振返る。
     01.2005 年Passage to OLYMP「グローバリズムと自治について」
    ・インスタレーション制作に関する考察(デジタルテクノロジー/アウラ/メディアとしての人間)
     02.2009 年looking for NEW EARTH「未来派宣言から100 年後」
    ・100 年前「イタリア未来派宣言」と現代社会の共時性
     2 度にわたるメディア・アート展を通して見えて来た文化的な背景の差異性と同一性を、歴史的、同時代的な文脈から考察する。特に2009 年の展覧会『looking for NEW EARTH(新しい地球を探して…。)』のテーマから自らの足元に阿蘇という世界最大級のカルデラの再発見につながった。この地をシンボルにドイツのキュレータ、ハロ・シュミット(ドイツ・ハノーバー「クンスト・ファウスト」館長)と共に2010年「火山・アート・人間」というテーマの元「Genesis-1 起源展」の開催に到った。
    4.まとめ(展望)
     本企画は単に現代アートを使った地域再生事業や観光資源開発を行うというものでなく、同時代的でグローカルな実践や他分野(地質学/農学/市民運動など)との交流を通して文化として認識されなかったモノやコトの発見へ繋げるものである。今回の多ジャンル交流パネルディスカッションに於けるキーワード、「火山・珪石・水晶・精神活動・文化発生など」から思想・哲学への展望もある。一つのシンボリックなサイトから有機的な交流を経て、アートという一ジャンルの制作・発表だけのものでない「息づく文化」が見えてくるだろう。

    
    
  • 見学会

  • 徴古館にて「平成22年度文化庁美術館・歴史博物館活動基盤整備支援事業 御城下絵図を読み解く」を見学


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