平成23年度 活動報告

 
 
 
 



 

<第84回大会> 2011年7月2日(於 九州歴史資料館)



  • 「顔輝筆《蝦蟆鉄拐図》(京都・知恩寺蔵)の成立をめぐって」
     森橋 なつみ{九州大学人文科学府博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)}

  •  南宋末から元初にかけて活躍した顔輝は、中国のみならず日本美術の歴史においても大きな影響力をもった画家である。近年の研究では、顔輝の作品に王朝交代期の遺民意識を読み取ろうとする動向があり、なかでも金道榮氏(2010)は顔輝の《李仙図》(北京故宮博物院蔵)に、征服王朝への強い抵抗感を見いだしている。また、近藤秀実氏(2010)は《蝦蟆鉄拐図》(京都、知恩寺蔵)のうち鉄拐像に注目し、その成立背景に金代以来華北を中心に勢力を拡大していた道教教団、全真教との関連を指摘された。これまで実態がほとんど明らかにされていない顔輝の作品を、南宋末元初という時代相のなかで、遺民意識あるいは特定の宗教教団と関連させるこれらの観点は、非常に示唆深いものである。
     但し、これらの研究では、画家の活動の中心地であった廬陵(江西省吉安市)にほとんどふれないまま、遺民や全真教を同時代の現象として作品に結びつけて考察がすすめられている。しかしながら、周知のとおり廬陵は義士文天祥(1236-1282)や愛国詩人劉辰翁(1232-1297)を輩出し、彼らに唱和した多くの文人が、遺民意識を詩文にあらわした地であった。また、周囲に仏教・道教の名山が多くそびえ、有力な宗教教団の拠点からも遠くない地域である。南宋末元初の江西廬陵という地の特殊性を具体的にかんがえ合わせることが、顔輝作品の解釈をすすめていくためには不可欠である。
     本発表では、顔輝の活動をその環境とともに捉えなおしていくために、顔輝の唯一の真筆である《蝦蟆鉄拐図》の解釈を足がかりとしたい。《蝦蟆鉄拐図》は、現状では二幅一対をなし、各幅に鉄拐仙人と蝦蟆仙人が、自然景のなかで岩に坐すようすが画かれており、いずれの仙人についても本作は最も早い事例である。
     このうち鉄拐仙人については、前出のように全真教との関わりが指摘されているが、景定五年(1264)には江西宜春の李簡易による『玉谿子丹経指要』の「混元仙派之図」中に「李鉄拐」の名を見つけることができる。すなわち、南宋の末には江西においても鉄拐が有力な仙人のひとりであり、その意味については検討の余地がある。また、もう一方の蝦蟆仙人については、従来指摘されてきた劉海蟾以外の可能性として、南宋の道士白玉蟾(1194-1229?)の存在に注目したい。白玉蟾は江南道教における重要人物であり、その出生の逸話に白いガマガエルが語られることも、本作との関与を指摘する理由の一つである。
     それぞれ幅の主題を検討した上で、この二仙を対幅としている顔輝の《蝦蟆鉄拐図》をいかに解釈すべきか。そこに、受容層であった江西知識人の遺民観と呼応するかたちで、「本来性の喪失」という意味が内包されていることを試論として提示したい。

    
    
  • 「マナンサラ作《最初の十字架がたてられる》―フィリピン近代美術におけるキュビスムと歴史画」
     古沢 ゆりあ(総合研究大学院大学比較文化学専攻博士課程)

  •  本発表は、フィリピン近代美術の代表的な画家ヴィセンテ・マナンサラ(Vicente Manansala, 1910-1981)による《最初の十字架がたてられる》(Planting of the First Cross)(フィリピン国立博物館所蔵)を取り上げ、その制作と展示の経緯を明らかにするとともに、同国の近代美術におけるキュビスムと歴史画の関係について、フィリピン美術におけるモダニズムの受容と、近代国家における歴史の語りに美術が果たした役割というふたつの観点から考察するものである。
     《最初の十字架がたてられる》は、1965年、セブで開催されたフィリピンのキリスト教布教400周年記念祭の関連展覧会「キリスト教文化の400年」展のために制作され、カルロス・フランシスコによる同サイズの作品2点とともに展示されたものである。本作品は、その表現においては、物語場面を再現的に描き出すと同時に、キュビスムを取り入れたマナンサラの様式である透明キュビスムの手法による色面分割が見られ、主題としては、フィリピンのキリスト教化・植民地化の発端となったマゼランのフィリピン到達(1521年)という歴史上の出来事を扱っている。
     本発表では、まず主題となる物語と、制作背景としての「キリスト教文化の400年」展について確認し、描かれたモティーフを検討することで、この作品には征服者の物語を描く中にもフィリピン人の側からの歴史への視点が読みとれる可能性を提言したい。
     次に、カナダとパリで学びキュビスムを取り入れた画家マナンサラについて、アジアにおけるキュビスムの受容に関する「アジアのキュビスム」展(2005年)における議論をふまえ、加えて画家の言葉から読みとれる彼自身の視点とともに考えてみたい。
     そして、キュビスムを含むフィリピンのモダニズムの歴史画による、美術におけるアイデンティティの探求と歴史の語りなおしについて論じ、《最初の十字架がたてられる》を、そうした社会的背景による要求と、美術表現との関わりのなかでの位置づけを試みる。本作品の考察から、モダニズム絵画が歴史主題と結びつくことで、新たな近代国家となった独立後のフィリピンにおいて自らの歴史やアイデンティティを語りなおすという美術の役割を確認したい。

    
    
  • 「戦後アジアにおけるコレクション形成―福岡アジア美術館の活動を手がかりに」
     岸 清香(都留文科大学)

  •  1990年代以降のアジア地域において、「アジア美術」と呼ばれる収集領域が現れ、コレクション活動が進展している。「現代」「近代」「アジア太平洋」「東南アジア」などその対象範囲を異にしつつも、域内外の美術界が接続された相互に重なり合う複合的なネットワークのなかで、市場関係者、収集家や美術館組織が「作品」を集め、価値づけ、分類・体系化をはかっている。
     なかでも福岡アジア美術館のコレクションは、「アジア21ヶ国・地域の多様なジャンルの作品を網羅」しつつ、「既製の『美術』の枠をこえていく」アジアの「近現代美術」を収集する活動として知られる。それはまた、福岡市美術館において1977年の設立以来収集されてきた「アジア・コレクション」を基に、1995年、新たに福岡アジア美術館の収集方針としてまとめられた価値体系でもあった。既存のコレクションとの差別化を目指すいわば同館独自の美術観の表明であったといえる。
     本報告では、この福岡アジア美術館コレクションの形成過程をたどり、同館の収集活動に関連するアジア域内外のネットワークの様態とともに、そこで形づくられた「アジア近現代美術」という価値体系=美術観の実体を明らかにすることを目的とする。同コレクションでは、東アジア・東南アジア・南アジアという3地域を対象に、地域毎に異なる多様なネットワークと関係性において収集された作品が、「現代」「近代」「生活造形」という相互に乗り入れる3つのジャンルへと分類・体系化されている。と同時に、その収集プロセスにおいては、「日本」と「アジア」の「和解」を踏まえ、「西洋近代」に対抗しつつ自らの社会の「現実」に向き合う「アジア近現代美術」という美術観を打ち出すことが可能になったと考えられる。
     こうした事態は、各国近代美術史の構築を第一に目指した戦後アジアのコレクション活動が、冷戦構造の崩壊に伴うアジアの地政学的変化において新たな可能性を見出したことを示すものであろう。「アジア美術」というコレクション活動を成立させている社会的力学について考察する手がかりとしたい。

    
    
  • 見学会

     九州歴史資料館


<第85回大会> 2011年12月3日(研究発表:於 鹿児島大学)、4日(見学会:鹿児島、指宿)



  • 「薩摩塔の時空と背景」
     井形 進(九州歴史資料館)

  •  薩摩塔は、半世紀前に初めて存在が認識された、石塔である。その姿は、木造のそれを石で模した須弥壇の上に、壺型の塔身を据え、その上に、棟に強い反りをもった屋根がのるというもので、須弥壇の四面には、一面につき各一躯、四天王像が、塔身正面の龕中には、塔の主役である坐像が、肉厚な浮彫であらわされている。塔の姿といい、刻まれた尊像の姿といい、日本にある石造物の中では、異風際立つ存在である。
     そもそもこの塔は、薩摩で存在が認識され、わずかに作例が知られていたもので、現在の呼称はそれに由来している。その後の調査の進展で、平戸周辺や、福岡平野周辺などからも確認され、むしろ分布の重心は、西北九州にあることが明らかになってきた。とはいえ、現状30基程を数える塔の所在が、九州内に限られている状況には、変わりがない。九州の信仰と造形について考える際には、看過できない意義をもった存在だと言える。
     この薩摩塔に関しては、近年に至るまで、制作地や制作時期さえ絞り込めてはいなかった。そのような中で発表者は、福岡県糟屋郡久山町の、首羅山遺跡の塔にあらわされた四天王像の甲制に注目することで、これが中国での制作であることを推定した。そして同時に、同一時期同一工房の作だと看取される同遺跡の宋風獅子を、13世紀半ばの制作だと推定した上で、両者を相補って考えることで、共に南宋時代の制作であろうとしたのであった。さらにその後、平戸の志々伎神社中宮に存在する作例の、薩摩塔においては初めて知られた銘文の判読を試みて、この塔を、元亨3年(1323)の奉納だとしている。
     薩摩塔の時空に関しては、13世紀を中心としつつ、12世紀から14世紀にかけての中国に、絞り込むことができると考えている。軌を一にする見解は、近年の、石材を主対象とする研究においても出されている。そして、塔の移入者は、入宋僧や入元僧などではなく、博多綱首のような、中国人商人であろうと考えている所である。僧たちが活躍した京都や鎌倉他には塔が存在しておらず、中国人商人の拠点が存在し、あるいはその可能性が指摘できる、九州の特定地域からのみ見出されているからである。
     主として尊像から塔の時空を、また分布状況から、移入や信仰の主体を押さえた上で、発表では、その背景へと考察を進めてみたい。従来薩摩塔に関しては、仏教的な側面を意識してきたし、事実そのような側面はもっている。しかしこの塔には、それ以外の信仰の反映も感じられ、むしろ神仙思想を重く見るべきか、との考えに至っている。最も重要である塔身が、壺型をしていることは、それを端的に示すものではないかと思う。壺は、中国の神仙思想の中では重要な存在であって、神仙世界そのものの表象でもある。薩摩塔を通して、今まで意識されていなかった信仰と造形の世界に、光をあててみたい。

    
    
  • 「『麑海魚譜(げいかいぎょふ)』と画師木脇啓四郎について」
     小�M 亜由美(九州産業大学非常勤講師)

  •  『麑海魚譜』とは、明治16年(1883)に東京上野で開催された第1回水産博覧会に、鹿児島県勧業課が出品する目的で作成された。鹿児島県知事渡辺千秋の命により、編纂者白野夏雲のもと、2人の絵師木脇啓四郎と二木直喜が作画した。「麑」とは鹿児島のことで、鹿児島湾を中心に生息する海洋生物が描かれた344図の彩色写本と、325図からなる刊本とがある。これまでの論考は、島津出版会による『新編 麑海魚譜』や上野益三氏著『薩摩博物学史』などがあるが、いずれも博物学の分野からの論述であり、文化史および美術史的な面での論考はおこなわれていない。
     従来の本草書に載せられた動植物図は、専ら挿図的な役割であり、魚図も例外ではなかった。江戸時代の中頃から、大名や本草学者などにより盛んに博物図譜が作られるようになると、魚貝類だけで編纂される魚譜も現れ始めた。そのなかでも代表的な魚譜として、『衆鱗図』(明和4・1767年頃)がある。『衆鱗図』は、高松藩主松平頼恭の命により編纂された博物図譜であるが、絵師が美的技巧をこらし極彩色に銀箔や金箔を加えて描かれており、その転写例は多く、後のさまざまな魚譜の編纂に大きな影響をあたえた。大名や本草学者のネットワークのなかで、多くの博物家の目に触れ、転写が重ねられて行くが、その一端に『麑海魚譜』も含まれると考える。また、その博物家のネットワークのなかには、第8代薩摩藩主島津重豪がおり、薩摩藩を江戸時代本草学の一つの中心地にしたという伝統も、『麑海魚譜』編纂の背景には働いている。本草書の挿図としての枠を越え、新しい博物図として、そして絵画作品として、『麑海魚譜』と編纂の背景とについて考える。
     併せて、『麑海魚譜』の絵師木脇啓四郎と二木直喜にも着目する。近世から近代にかけての鹿児島(薩摩)の美術については、近世では木村探元を中心にした絵師の活躍が、そして近代以降は黒田清輝、藤島武二、和田英作などの近代洋画家の輩出が主に語られている。近代の狩野派の流れをくむ絵師たちは、洋画壇の陰に隠れ、黒田清輝が日本画の手ほどきを受けた樋口探月、藤島武二が学んだ四条派の平山東岳など、わずかな絵師が取り上げられているだけで、その他の絵師たちについての言及は少ない。このなかで、明治16年に完成した『麑海魚譜』は、薩摩の伝統的な画法の中にいた絵師によって描かれたが、彼らが新来の西洋絵画や博物図譜などを学び、新しい分野の作品に挑戦している様子がうかがえる。特に、比較的に資料が残る木脇啓四郎について、その人と画業についても考察する。

    
    
  • 「J.M.W.ターナーの"洪水"観―《光と色彩》《影と闇》」
     岩永 亜季(九州大学大学院)

  •  J.M.W.ターナーは1843年、ロイヤル・アカデミー展に6点の作品を出品した。その内《光と色彩》《影と闇》はノアの洪水を主題とする対作品である。1840年にイーストレイクによって英訳版が刊行されたゲーテの『色彩論』を受けて描かれたこの洪水連作は、ターナーの代表作と見なされているにも関わらずいまだ十分に研究がなされているとは言い難い。本発表では、この内《影と闇》と酷似した構図の作品《洪水の夕べ》を洪水連作と比較考察し、洪水連作理解の一助とすることを試みる。
     《洪水の夕べ》は既に述べた通り《影と闇》と似た構図を取ることから、1843年頃に制作されたと考えられているが、具体的な制作時期に関しては諸説分かれている。しかしこの作品を洪水連作の共通点や差異を明確にすることで、作品の構想から制作に至る過程を推察出来るのである。
     《洪水の夕べ》と《影と闇》との違いは、まず古生物と思われる動物の描写にある。《洪水の夕べ》前景右部の岩場に描かれた動物は、先行研究でプレ・ダーウィニズムの影響を指摘されており、魚竜あるいは古代のワニと考えられている。洪水論など当時の地質学理論とノアの洪水との密接な関係、ターナーとロンドン地質学会の密なコネクションからこの説は有力である。しかし《影と闇》では、この動物は白く掻き消すような筆致で目立たぬように描かれている。本発表では《光と色彩》のある細部に着目し、《洪水の夕べ》に見られる地質学理論の影響が《影と闇》ではなく《光と色彩》に継承されていることを指摘する。
     また、《洪水の夕べ》と《影と闇》それぞれの前景に描かれた人物群や家畜達にも差異を指摘出来る。《洪水の夕べ》の横たわる人物群が下半身を覆う赤い布や天幕、ワイン壷によってノアの酩酊やロトの物語を想起させるのとは異なり、《影と闇》の人物群は全裸であり、人物の数も増えているように見える。《洪水の夕べ》が単独の作品として構想・制作されていたと仮定すると、このような人物描写は、洪水という神の手による大災厄の後の事件をも想起させるという目的のもとになされたと考えられる。一方《影と闇》には洪水後の光景を描いた《光と色彩》が対作品として存在しており、その後の人間の有り様に対するターナーの考えが自作詩『希望のむなしさ』を通して表明されている。洪水後までを単独の作品から想起させる必要がなくなったため、人物群の描写に変更が生じたのではなかろうか。
     更に洪水連作における色彩の用い方から、ゲーテの理論は《洪水の夕べ》制作以降、洪水連作制作以前に作品に導入されたと考えられる。相対する2者の合一がしばしば『色彩論』に説かれていることは、洪水連作が「連作」として制作された理由のひとつであろう。
     これらの検討結果から、本発表では《洪水の夕べ》を洪水連作の先行作例と推定し、更に単なる試作例ではなく独立した作品と位置づける。この作品と洪水連作の表現について論じることで、洪水連作における『色彩論』受容の重要性、ターナー独自の宗教観、当時の科学理論との接近を明らかにすることが出来るだろう。

    
    
  • 見学会
     案内 永田雄次郎氏(関西学院大学)、下原美保氏(鹿児島大学)

  •  長島美術館 (日本・西洋近代作家作品、黒・白薩摩コレクション等)
     薩摩伝承館 (薩摩金襴手コレクション、薩摩琉球国資料等)
     岩崎美術館・岩崎芳江工芸館 (黒田清輝・藤島武二作品、パプア・ニューギニア民族美術品等)



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