平成25年度 活動報告

 
 
 
 


<第88回大会> 2013年7月6日(於 北九州市立美術館)



  • 「平安時代の脱定型経典見返絵―中尊寺金銀交書一切経―」
     緒方 知美(筑紫女学園大学)

  •  経絵という言葉は、一般的に二つの意味で用いられる。一つは、仏教経典にもとづく絵画をさす。もう一つは、経典の表紙の裏に描かれる見返絵のことをさす。 ただし、美術史用語として経絵様式という場合の「経絵」とは、平安時代に盛んに制作された紺紙金字経典の見返絵をさす。
     現在の日本美術史研究において、この経絵様式の権威とされるのは須藤弘敏氏である。須藤氏の研究「平安時代の定型見返絵について」(『佛教藝術』136号1981年)では、 12世紀半ばに成立した経絵の定型構図を「画面の中心に正面向き釈迦説法図、上方に霊鷲山、下方に説話図を描くもの」と定義し、それまで不明確であった経絵様式の成立と展開に関して、その後の研究に決定的な影響を与えた。
     しかし、須藤氏の研究にも問題点を指摘することができる。それは、須藤氏が、経絵様式の時代的展開を、定型成立を頂点とする一筋の流れとして単純化して把握しようとしたため、 その定型という基準を逸脱する作品を考察の対象から除外していることである。須藤氏が考察の対象外とした作品群には、世俗画である絵巻と共通する表現が見いだされ、 経絵の絵画史的位置づけのため重要な意義をもつものとして注目される。
     本研究で対象とする「脱定型」の経絵とは、定型の中心モティーフである正面向き釈迦説法図を省略あるいは縮小したり、斜めに配置したりする作品である。平安時代の経絵のうち法華経は40余部確認されるが、その中で脱定型は5部を数える。一切経の場合は、上述した定義でいう3要素のうち画面下方の説話図が描かれない場合が殆どで、法華経の定型より構成要素が少ないが、中心モティーフを正面向きの釈迦説法図とする点で構図の基本は共通している。これを一切経の定型とみなすことができるとすれば、現存する4部の一切経のうち2部に脱定型の作品が含まれていることになる。 本発表では、これらのうち、中尊寺金銀交書一切経(天治3年〈1126〉供養)に含まれる脱定型の経絵を対象としてとり上げ、経絵様式の特徴について再考する。
     中尊寺金銀交書一切経については、京都国立博物館が主催した「金剛峰寺所蔵中尊寺経を中心とした中尊寺経に関する総合的研究」の報告書に、全4231件にのぼる見返絵のデータが報告されている。その中で脱定型に分類できるのは全体のわずか2パーセントであるが、それら脱定型作品は、図様的に変化に富み、画技の上でも秀逸なものが多く、創意に富んだ絵画表現が認められる。特に中尊寺金銀交書一切経にみられる、銀泥の暈しを用いた雲霞表現(六十華厳巻第57)や金銀泥散らしを用いた波の描写(大集経巻第22)などは、『伴大納言絵詞』(12世紀後半)などの絵巻において効果を発揮している鑑賞性を高めることを目的とした技法である。 本発表では、比較対象として、鑑賞用の彩色絵巻という絵画としてのジャンルも材質も異にする作品を取り上げ、経絵が平安時代絵画史において如何に位置づけられるかを考えたい。

    
    
  • 「朝鮮王朝成宗代における王室周辺仏事の一側面 ―福井・永平寺所蔵 《三帝釈像》を中心に―」
     李 智英(九州大学大学院)

  •  朝鮮王朝前期の仏画研究では、16世紀の文定王后(1501-65)が活躍した時期を最盛期とする見方が主流で、当該期の作例を中心に考察されてきた。こうした見方は、16世紀初めの燕山君による徹底した廃仏以降、明宗代になってようやく文定王后が仏教を復興し、数多くの仏画を発願したという史実に鑑みてのことである。しかし、文定王后による仏事を先取りするかたちで同様の繁栄をみせていた15世紀の仏事の意義は、これまで十分に検討されているとは言い難い。15世紀では特に成宗朝において、王室の宗親・女性の庇護の下、願刹の復興や法会の勤修が盛んに行われていたことは数多くの文献史料が示すとおりで、数に乏しいとはいえ、王室周辺で発願された優れた作域をしめす仏画も現存している。15世紀における王室周辺仏事や仏画制作への理解を深めることは、16世紀の作例を含めた朝鮮王朝前期仏画全般の性格を知る上で、看過しえない課題である。
     本発表では、こうした問題意識に立ち、成宗14(1483)年に制作された福井・永平寺所蔵の《三帝釈像》をとりあげ、その画記の内容と特異な図像構成について考察を加え、王室周辺で制作された朝鮮王朝前期仏画を包括しうる発願の性格や造形上の特色を考えるための前提条件を確認する。
     福井・永平寺所蔵《三帝釈像》は、高臣の廬思慎による画記の内容から、かつて政治の実権を握っていた貞熹王后(1418-83)が病床にあった最晩年、成宗とその妃である貞顕王后、及びその一族の繁栄を願い制作させたことが判明する。永平寺本は、一幅に三体の帝釈天を配するという特異な尊像構成において注目されるが、尊像の配置や女性性を強調する尊容表現にくわえ同時代の文献史料から知られる王室周辺の事情を勘案すると、帝釈天のそれぞれには王室周辺の三人の女性、すなわち、発願者である貞熹王后と成宗の生母・昭恵王后、そして新たに成宗の妃となった貞顕王后という三者の姿が投影されている可能性がきわめて高い。貞熹王后は、坡平尹氏を出自とする世祖の王妃にあたり、世祖亡き後、幼少の孫・成宗に代わって大王大妃として垂廉聴政を行う一方、仏事においては、昭恵王后とともに実質的な中心人物であった。貞顕王后は、貞熹王后と同じく坡平尹氏を出自とし、永平寺本の発願からまもなく貞熹王后が没すると、昭恵王后とともに王室周辺の仏事を担った人物として記憶される。
     永平寺本は、死期を目前にした貞熹王后が一族の繁栄・家門の継承に対する切実な願いを特異な尊像構成として実現させた作例であり、当時の王室周辺の仏事を象徴するきわめて高い資料的価値を有している。さらに16世紀の王室周辺仏事を復興した文定王后もまた、坡平尹氏を出自とし垂廉聴政を行った人物であったことを念頭に置くとき、永平寺本に象徴される貞熹王后の仏事は、16世紀の王室発願仏画を考える上でも、規範的な意味を有していたと結論づけることができよう。

    
    
  • 「報告 柳瀬正夢研究ノート」
     西村 勇晴(北九州市立美術館)

  •  北九州市立美術館では本年12月14日から2014年2月2日にかけて「柳瀬正夢 1900 ― 1945 大正、昭和を駆け抜ける」展を開催する。 福岡県内では2000年の「生誕100年柳瀬正夢」展に続く催しであるが、松山に生まれ11歳で門司に移住した柳瀬は実質、門司で画家として育まれたにもかかわらず、この地との関わりについては遅れているのが現状であった。
     本展は巡回先の愛媛県立美術館、神奈川県立近代美術館葉山の協力を得て、柳瀬に縁の深い松山、北九州、東京のフィールドワークを基に調査・研究を深め実施するものである。そこで今回はまだ調査の段階ではあるが、当館が担当した北九州での柳瀬の支援者についてや、これまで判明していなかった彼の風景画の取材地(門司、八幡、佐賀関、阿蘇)について報告する他、最後に彼の代表的な作品である《門司港》(1919年作、東京国立近代美術館蔵)についての画題、取材地を考察する。

    
    
    • <第2回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 該当なし

    •  選考委員が紹介されたのち、小林法子選考委員長から受賞論文なしという発表がなされ、続いて「選考経過と結論」が同委員長によって読み上げられた。
       第2回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。
      
      
      
    • 見学会

       北九州美術館・本館(コレクション展)

    
    
    

    <第89回大会> 2013年11月30日(研究発表:於 下関市立美術館)、12月1日(研究発表:於 毛利博物館、阿弥陀寺、功山寺、長府博物館、住吉神社宝物館)

    
    
    
    
    • 「イギリスの現代美術にみる表象の差異― 「イギリス美術」と「文化的多様性」に関わる文化政策のあいだで」
       石松紀子(九州大学大学院比較社会文化研究院)

    •  1990年代前半、インド亜大陸出身でイギリスを拠点に活動する2人のアーティストたちの作品が、福岡市美術館でそれぞれ異なる文脈をもつ展覧会で展示された。 1人はアニッシュ・カプーアで、1990年から1991年にかけて日本国内の美術館6カ所を巡回した『イギリス美術は、いま:内なる詩学』展に、イギリスを代表するアーティストとして参加した。 もう1人はラシード・アリーンで、1993年に開催された『ラシード・アリーン:抗争/構造』展で、アジア現代作家として紹介された。 アニッシュ・カプーアはインド出身で、ラシード・アリーンはパキスタン出身であるが、どちらもインド亜大陸からイギリスへと渡り、 そこを拠点に活動を続けている。福岡市美術館の展覧会では、1人は「イギリス美術」として、他方は「アジア美術」として紹介されており、 明らかにその表象のされ方に違いがある。このような表象の差異は、イギリスでの「イギリス美術」に関する展覧会と 「文化的多様性」に関わる文化政策といった二つの異なる姿勢が、ダブルスタンダードとなって福岡市美術館の展覧会に反映されたと考えられる。 本発表では、アニッシュ・カプーアとラシード・アリーンの活動や作品に関連づけながら、イギリスにおいて展覧会や文化政策をとおして形成される 「イギリス美術」と「文化的多様性」の美術が、いかに表象の差異をつくりだしているかについて考察することを目的とする。
       まず、「イギリス美術」や「文化的多様性」に関わる美術が、どのように形成されてきたかについて検証する。 79年に英国アーツ・カウンシル主導で始まった“The British Art Show”展は、「イギリス美術」を5年ごと紹介する展覧会で、 同時期に始まったターナー賞と共に、主流的な「イギリス美術」を形成してきた。一方、89年に「文化的多様性」に関わる文化政策が施行されるが、 その前身は86年の「芸術とエスニック・マイノリティ:行動計画」であり、非欧米系アーティストたちの周縁的な待遇を是正するためにとられた政策である。 このような2つの異なる美術への姿勢があるなか、アニッシュ・カプーアは前者に、ラシード・アリーンは後者と関わりながら活動してきた。 この2人の作品や活動をとおして、イギリスにおける2人の立ち位置の違いを検討する。そして、福岡市美術館での2つの異なる展覧会から、 イギリス国内におけるアーティストたちの位置づけや評価が、海外での表象受容にも影響を与えていることを検証する。このような考察や検証をとおして、 展覧会や文化政策が「イギリス美術」や「アジア美術」といった文化的差異の表象を形成する過程を明らかにしたい。

      
      
    • 「クレーの『アトリエ』―1930年代初頭のアトリエ素描を中心に―」
       藤本真帆(福岡県立美術館)

    •  1931年、パウル・クレーは《アトリエのなかの平面》(1931年/40)、《アトリエのなかの垂直面と水平面》(1931年/41)という2点のアトリエの素描を残している。  この2点の素描作品はクレーのアトリエの研究においてこれまであまり重要視されてこなかった。  クレーにおいてアトリエ画はアトリエ写真によって取って代わられており、アトリエ写真に見い出される作品のほうが「アトリエ絵画」と名付けられ重要な考察の対象となってきたためであろう。
       確かにクレーはいわゆるアトリエ画というものをほとんど残していない。  しかし、数少ないながらも、クレー自身がつけたタイトルの一部に「アトリエ」という言葉を含む作品が1931年と1932年に集中して制作されていることは看過できない。
       本発表では、まず、先行研究を参考にしながら、クレーのアトリエ画に対する意識を探る。  アトリエ写真にみられるようにクレーがアトリエ画の枠組みに対して深い理解があったことは確実である。
       ついで、1931年と1932年に描かれたアトリエという語を題にもつ素描作品について、  《アトリエのなかの平面》や《アトリエのなかの垂直面と水平面》を中心にクレーの書簡の記述やアトリエの写真などと比較していくことで、  当時、クレーが所有していたデッサウとデュッセルドルフのアトリエ、どちらのアトリエを描いたものかについて検証する。
       さらに、これらのアトリエの素描に対照的な二つの描法が見出させること、二つを対比させる意識が同時期の別の作品にも見いだせることを指摘する。
       最後に、クレーが置かれた当時の状況を整理しつつ、クレーの他の作品も踏まえながら、何故クレーがこの時期にアトリエを描いたのか、対照的な描法を用いたのかについて考察する。
       1930年初頭はドイツ社会もクレー自身もクレーの環境も大きく揺れ動いた時期だった。  クレーのデッサウ・バウハウスからデュッセルドルフ美術アカデミーへの「転向」はクレーの当時の試みの断念とも評されている。  そのなかにあってクレーはある種の分裂の状態にありながら「パウル・クレー」の位置を模索しており、  その振る舞いが1930年代初頭の一連の「アトリエ画」のなかに表現されていることを本発表において指摘する。
         
      
      
    • 「黄金時代の「黄昏」を生きる:18世紀前半における17世紀オランダ絵画受容研究」
       青野純子(九州大学基幹教育研究院)

    •  近年のオランダ美術史研究において、レンブラントやフェルメールを輩出した17世紀最盛期の美術のみを重視する立場は見直され、  かつては衰退期として一蹴された17世紀末以降の芸術が様々な側面から再評価されてきた。  そのなかで発表者が提示したいのは、この17世紀末から18世紀前半という過渡期を、  17世紀盛期オランダ美術をはじめて意識的に「受容」した時代と見なす観点である。  たとえば、アーノルド・ハウブラーケンやヤン・ファン・ホールによるオランダ画家の列伝、  ヘラルト・デ・ライレッセの絵画理論といった18世紀初期の文献では、  最盛期には語られなかった17世紀オランダ美術の特質が定義されはじめる。  また、絵画市場に注目するならば、17世紀オランダ絵画は、当時の絵画競売システムの成熟を背景に国内外で盛んに売買され、  その市場価値を高めていた。つまり、18世紀前半の理論家や批評家、コレクターは、17世紀最盛期のオランダ美術を自らの時代の美術と区別し、  栄光の世紀の賜物として賞賛し収集しはじめていたと考えられるのである。そこで問うべきは、こうした時代状況において、  18世紀の画家たちが17世紀先駆者の絵画作品をどのように受容し、そこから何を選択し、刷新したのかである。  すなわち、18世紀初頭、画家が17世紀オランダ黄金時代の遺産を享受するだけでなく、絵画制作という行為を通じて、  その「規範化(canonization)」のプロセスにどのような役割を果たしたのかである。  発表では、17世紀オランダ黄金時代の「黄昏」の時期にあたる18世紀前半を生きた画家とコレクターの密接な関係に焦点をあて、  「風俗画」という絵画ジャンルをめぐる具体的な事例からこの問いを考察したい。

      
      
    • 見学会

    •  下関市立美術館 (開館30周年記念「芸術は魂のたべもの 河村幸次郎と美の世界」)
       
    
    
    
    topへもどる