平成26年度 活動報告

 
 
 
 


<第90回大会> 2014年7月5日(於 福岡市博物館)



  • 「地域のアイデンティティ × 展示と叙述~常設展示リニューアルと市史編さんの現場から~」
     有馬 学(福岡市博物館長、『新修 福岡市史』編集委員長)

  • 福岡市博物館は、平成 25 年 11 月 3 日、常設展示をリニューアルした。平成 2 年に開館して以来、23 年を経て初めてのことである。九州藝術学会の第 90 回大会を当館において開 催するのも、これをふまえてのことと思う。この機会に、全面刷新された常設展示の概容を紹介し、リニューアルの作業過程において顕在化した課題と可能性について簡単に所感 に述べたい。 歴史民俗系の博物館である当館の常設展示は、「福岡の歴史と人々のくらし」というテーマを、文化財、レプリカ、模型、復元品、パネルや情報端末の形で供されるテキスト・画 像・映像・CG等を通して表現する。そのリニューアル作業は(どこもそうだと思うが)、予算と時間との戦いであった。さらに、学芸スタッフは、展示室やケースの面積に比して、 かなり多量の内容を展示に盛り込むべきと考えていた。言うまでもなく、この地域は、文献資料や考古学上の遺物・遺構から構築される地域の具体的なイメージが、かなり時間を さかのぼっても保証されるという、独特の歴史的背景を持つ。ゆえに、当館の常設展示では、内容とスペースの兼ね合いは、「ありがち」の範囲を超え、極端に難しい課題となった。 結局、当館の常設展示リニューアルとは、「何を語り、何を語らないか」という選別であり、ここでなければ語れないことは何か、「福岡・博多らしさ」とは何かを問う仕事であったと 思う。 ところで、福岡市では、平成 16 年より『新修 福岡市史』の編さん事業を実施している。現時点では、平成 36 年までに計 35 巻(通史編 9、資料編 16、民俗編 3、特別編 7)の刊 行を計画(現在、資料編 4 巻、民俗編1巻、特別編 3 巻を刊行済)。全体像としては、「より多くの市民に読み継がれる『新修 福岡市史』」をめざし、各編は、●資料編―100 年後 にも活用できる/●民俗編―福岡・博多の「いま」を生き生きと切り取る/●特別編―斬新な切り口と最新の研究成果を結集する、というコンセプトを持つ。このプロジェクトに ついても紹介したい。 『新修 福岡市史』の編さんとは、突き詰めれば、「福岡・博多という都市の姿とそこに暮らす人々の歩みを描く」という目的のために、さまざまな研究ジャンルを「切り口」と 捉え、その研究成果をハンティングし、書籍(主に)という媒体にアレンジメントしていくことだと言える。ここでは、時代区分や研究ジャンルを前景化させない編さんスタンス を、いわば確信犯的にとっている。いささか挑戦的とも言えるこのスタンスが、『新修 福岡市史』を、「既存の研究成果の羅列」にとどまるものではなく、新しい研究の視座を提供 する場、また、一般市民に対しても訴求力のある「地域のアイデンティティの語り」とならしめると構想している。ここに美学美術史・芸術学の研究者のご期待とご協力を乞う。

    
    
  • 「石本秀雄の作品にみる西洋美術の影響について」
     佐々木奈美子(佐賀大学美術館)

  •  東光会、日展で活躍した洋画家石本秀雄(1908-1986)は、佐賀県展の礎を築くなど地 域の美術振興に尽力し、一方で、佐賀大学においては「特設美術科」の創設時に中心 的な役割を果たすなど、教育界にも大きな足跡を残した。彼のもとからは多くの美術 科教員が巣立ち、その影響は様ざまな形で現在までその跡をとどめている。没後 30 年 近くになるが、最近では展示の機会が続き、石本を直接知らない若い世代にも地域の 洋画の先人として改めて認識されているようである。 石本秀雄の作品を見ていくと、不可思議なパースペクティヴや、過剰に近い装飾性、 描かれた対象を画布の端で裁断するような大胆な構図など、ユニークな特徴に満ちて いる。色彩も独特である。画家本人は自らを「セザニアン」と称していたが、作品を 見る限り、セザンヌのみならず、マティスやボナール、ブラックら、近代絵画の巨匠 らへの明瞭なリスペクトを見ることができ、興味深い。 若き日、東京美術学校の図画師範科に入学した年(昭和 3 年)に二科展でみた佐伯 祐三の滞欧期の作品に感動したという。ヨーロッパの芸術か文化か、その両方かに早 くから興味があったのだろうが、学生時代の自画像を見る限りはヤニ系の暗い絵画で、 明るい色彩や、画面のすみずみまでオブジェが溢れるような画風は 20 代後半からの特 徴である。その後招集され、戦地から戻った昭和 20 年代の半ばから、個々の西洋絵画 の特徴が作品の中に見出せるようになる。 普通に考えれば、画家としての画業形成の模索として、ヨーロッパ美術の主流から 何かを学ぼうとしたと見るべきなのだろう。だが、石本の場合には、それだけではす まないと思わせる何かがある。学生のため、流派にこだわらず優れた教員を集めた石 本だったが、「特設美術科」開設当初は、人手不足ため、自ら「西洋美術史」の授業を 担当していた。遺族のもとに残されている授業の準備ノートを見ると、隙間なく描き こまれた鉛筆の跡は、鬼気迫るような細かさである。作品の中に西洋美術の影響が見 られたとして、それは、ただ単に自分の画業のためだけだったのか。意識的か無意識 的かは別として、優れた西洋美術の成果を、自分の筆と作品を介して顕現させようと していた可能性はないか。あるいは、西洋美術を受容する過程さえ、その姿を生きた 教材として、若い人たちに見せようとしたのではなかったか、ということである。 今回は、制作に教育にと超人的な活動を展開していた昭和 24~28 年の作品を中心に、 石本の作品と西洋近代絵画との影響関係を辿る。彼が実際にヨーロッパに行くのは昭 和 39 年なので、この頃はまだ、図版・写真といった限りある情報が頼りだったはずで ある。その中で貪欲に行われた西洋美術受容について、画家として、そして、教育者 としての二つ側面からアプローチする。

    
    
  • 「昭和期官展における『現代風俗画』の展開―中村研一《瀬戸内海》を中心に―」
     高山百合(福岡県立美術館)

  •  中村研一(1895~1967)は、昭和期の官展アカデミズムを牽引した福岡県出身の洋画家で ある。中村は、昭和 5 年の第 11 回帝展において帝国美術院賞を受賞した《弟妹集ふ》以降、 昭和 10 年にかけて、一連の人物群像作品を官展に出品した。本発表では、それらの帰結点 と位置づけられる《瀬戸内海》(京都市美術館蔵)に着目し、先行作例から本作へ転用され た表現や技法を確認しつつ、その制作意図や独自性を明らかにするとともに、昭和洋画史 における意義について考察する。 《瀬戸内海》は昭和 10 年に制作され、帝展改組後の混乱の中、官展系の中堅作家らによ って同年に結成された二部会展に出品された。当時の官展洋画においては、海水浴やピク ニックを主題とする大画面による人物群像が流行していた。なかでもその典型ともいえる 本作を含む一連の中村の作品は、モダンな風俗や生活を活写する「現代風俗画」として高 く評価されていた。しかしながら、先行研究においてはマネの《草上の昼食》から主題や モチーフの引用が行なわれているという指摘があるものの、本作の造形的特徴や制作意図、 同時代における意義や影響などについて十分な考察が行われているとは言えない。 本作には、ドレスに白いハイヒールを身に着けた洋装の女性に加え、当時の最先端のモ ダンデザインであるカンチレバーのスチール椅子が描かれているというように、総じてモ ダンな雰囲気が漂う。さらには、高い位置から見下ろす俯瞰的な視点が取られていること や、画面右側の女性の顔に見られるように、主たるモチーフを意図的にトリミングすると いう点などの特異な表現が見られる。そうすることにより中村は、従来の絵画表現にはな い視覚的な新しさを探求しようとしていたと思われ、その背景には当時流行していた新興 写真や機械美学など、同時代の視覚文化の影響を看取することができる。 《瀬戸内海》をはじめ、昭和期の官展において流行した、海水浴やピクニックを主題と する絵画は、西洋美術の伝統としての「水浴図」を翻案した近代的水浴図の系譜にあると 思われる。近代日本においても、絵画に何らかの寓意や物語を込める「構想画」の理念を 移植する過程で多くの水浴図が描かれたが、昭和期を迎え、絵画の大画面化と技術的成熟 とともに、絵画におけるモダニズムが深化したことを背景に、寓意性や物語よりもむしろ、 表現や視覚における新しさや「現代性」が求められるようになった。そのような中で生ま れたのが「現代風俗画」であった。そしてさらに現実世界へと向けられた眼差しは、やが ては戦争の拡大という時局を背景に、戦争画と繋がっていく。そのような意味で、本作は 「構想画」の時代から、戦争画に至るまでの、近代日本洋画の歴史を橋渡しする作例とし て重要であると考える。それに加え、本作の研究は、《コタ・バル》(昭和 17 年、第 1 回大 東亜美術展、東京国立近代美術館無期限貸与)をはじめとする、戦争画制作にのみ関心が集 まりがちな中村研一の戦前期の画業を、より多角的に再検討するという点でも意義がある と言えるだろう。

    
    
    • <第3回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「文徴明≪関山積雪図巻≫(台北故宮博物院蔵)に関する一考察」
            都甲さやか(九州大学大学院専門研究員)

    •  授賞式では、まず選考委員が紹介された。錦織亮介委員長が第3回デアルテ賞受賞者を発表し、賞状と副賞が受賞者の都甲さやか氏に授与された。続いて渡邊雄二委員から選考経過と受賞理由が読み上げられた。その後、都甲氏から挨拶があり、授賞式を終えた。
       第3回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。
      
      
      
    • 見学会

       福岡市博物館

    
    
    

    <第91回大会> 2014年11月29日(研究発表:於 つなぎ文化センター)、30日(見学会:水俣病資料館、蘇峰記念館、つなぎ美術館、赤松館)

    
    
    
    
    • 「琉球国王の肖像画「御後絵」の研究-描かれた衣装から見る国王イメージ-」
       平川信幸(沖縄県教育庁 文化財課)

    • 「御後絵」は琉球王家第二尚氏歴代国王の肖像画で、古琉球期から近世琉球期の約 500 年間描き続けられた。しかし、それらの作品は沖縄戦で失われ、戦前に鎌倉芳太郎によっ て撮影された 10 枚のモノクロームの写真で、図像を確認出来るのみである。 その特徴は、幕が張られ、磚が敷かれた背景の中央に、イスに座し正面を向いた国王の 左右に、多様な形態の持物を持った家臣団が配されるという、幾つもの図像の構成によっ て成り立っている。その衣装についても、国王は琉球の衣装ではなく、一貫して明朝の祭 服である皮弁服を着用している。 皮弁服は唐衣装ともよばれ、冊封儀礼や朝拝儀式など王国の最も重要な儀礼で着用され、 琉球の衣冠制度の中で、王権を象徴する最も重要な衣装であった。本発表では御後絵の皮 弁服の変遷について、描かれた衣装と伝世資料を比較すると共に、国王衣裳の下図と国王 衣裳製作に関する文献から検討していく。さらに「御後絵」に描かれた国王衣裳の分析を 通して琉球をめぐる国際情勢と、国内における国王イメージの変遷について考察を行う。 御後絵の国王衣装は冊封の際に明朝から送られた皮弁冠・皮弁服に由来しているが、第 二尚氏が琉球に君臨した 15 世紀から 19 世紀、中国では明から清へと王朝が交替し、その 衣冠制度が大きく変動する。明朝期、冊封関係において琉球国王へ皇帝より与えられてい た皮弁冠・皮弁服のセットは、衣冠制度が異なる清朝期になると与えられなくなる。代わ りに清朝では、皇帝の権威を示す五爪の蟒が織り出された蟒緞などの反物が与えられる。 琉球では与えられた蟒緞から国王の衣装を製作している。御後絵の国王衣装はこのように 中国の王朝交代による衣冠制度の影響を受けている。 明朝期、御後絵において国王の衣装は明朝から与えられた皮弁冠と皮弁服で描かれるこ とが定着する。しかし、明朝の規定や現存する皮弁服と描かれた比較した結果、御後絵の 国王衣裳は、明朝から与えられた皮弁服をもとに、古来の帝王像より服飾品の図像を借用 して、重厚な国王イメージを作りあげている。 清朝期の国王衣装は、清朝より与えられた蟒緞で皮弁服風に作製された。しかし、蟒緞 の模様は、筒袖の満州族の衣装のためのものとなっており、振り袖のような漢民族の皮弁 服を作製するためには、裁断し、改めて模様を再構成する必要があった。清朝期の御後絵 の衣装は、蟒が見られない尚貞尚タイプ、蟒が現れる尚敬王タイプ、全体に蟒が配される 尚育王タイプと段階的に荘厳化していく。 御後絵の国王衣装の変化は、中国の王朝交代にともなう衣冠制度の変化が影響を与えて いる一方で、皮弁服を衣冠制度に組み込んだ琉球王国の状況と、国王イメージに相応しい 皮弁服を試行錯誤する琉球王国の思惑が反映されていると考えられる。

      
      
    • 「鷹狩図の流行をめぐる一考察」
       水野裕史(熊本大学)

    •  古来より日本では鷹狩の絵画が描かれてきた。建長 6 年(1254)の『古今著聞集』には 内裏清涼殿の衝立屏風に描かれたと記されており、《春日権現験記絵》などの中世絵巻から その様相を窺い知ることができる。そして近世初期には、数多くの鷹狩図が制作され、画 題として流行したのである。先行研究では、鷹狩図が流行した背景として武家の鷹狩への 愛好を根拠とする見解が展覧会図録などで簡略に報告されている。しかし現存する鷹狩図 には、武家ではなく公家のみを描いた作例があり、武家の鷹狩の愛好と鷹狩図の流行を安 易に結びつけることには疑問が残る。そのため鷹狩図の成立背景には鷹狩の愛好だけでは ない可能性を考慮する必要があるだろう。 そのような中、発表者が注目するのが、中世末期に制作され「野行幸絵」と呼ばれた絵 巻である。「野行幸」とは、鷹狩のために天皇が大原野・北野・嵯峨野などの京都近郊の野 に行幸することであり、古代において盛んに行われた行事である。中世末期の『基成朝臣 鷹狩記』(宮内庁書陵部蔵)の奥書には「五巻は代々御門の野の行幸の絵なり」とあり、中 世末期には「野行幸絵」と呼称される絵巻が存在したことが明らかである。 本発表では、まず現存する近世後期の野行幸絵について紹介するとともに、近世初期の 鷹狩図を比較材料としながら、中世末期の野行幸絵について復元を試みる。その上で、鷹 狩図の様式成立には野行幸絵が関わっていることを指摘する。また、鷹狩図の成立には、 鷹狩の場面が描かれている源氏絵や曽我物語図などの影響を鑑み、鷹狩を主題とする絵画 作品の様式成立について、様々な絵画作品の比較を通じて論じることとする。 加えて、近世初期において鷹狩図が制作された文化史的背景についても検討する。中世 末期から近世初期は、中澤克昭氏によれば西園寺家や持明院家などの「鷹の家」と呼ばれ る鷹狩の故実家が確立した時代とされ、また「鷹書」と呼称される故実書が多く書かれた 時代でもある。つまり鷹狩図が流行した近世初期には、鷹狩をめぐる環境が隆盛しており、 これを背景に鷹狩図が流行したものと見なすことができるのである。 さらには下原美保氏らによって指摘されている近世初期における王朝文化の復古運動と 絵画の関係も見逃せない問題である。近世初期には多数の王朝絵巻が制作されたことで知 られ、野行幸絵や鷹狩図はこの復古運動の影響を受け、制作された蓋然性が高い。 本発表では、鷹狩図の流行の背景には、鷹狩の愛好だけではない「鷹の家」の成立や「鷹 書」の流行、王朝文化の復古運動など、様々な文化史的環境が関わっていることを提起す る。

      
      
    • 「日本近代における「陶彫」の創始者とその定義についての一考察―寺内信一と沼田一雅の比較を通して―」
       西村佳菜子(崇城大学大学院)

    •  明治の幕開けと共に、日本に「彫刻(Sculpture)」概念を持ち込んだのは工部美術学校の お雇い外国人ラグーザであったが、同校で彼の生徒であった寺内信一(1863-1945 年)と同級 生の内藤陽三(1860-1890 年)が、工部美術学校で学んだ塑造法や石膏型取り法、大理石の彫 法、美術解剖学などを活かすため、常滑の地で陶による彫刻、すなわち「陶彫」制作や塑 造に関する講義をいち早く開始し、引き続き瀬戸陶器学校や有田工業学校、砥部工業徒弟 学校などで生徒に陶彫制作や塑造に関する指導を行ったことはほとんど知られていない。 一方で、「陶彫」の制作開始が寺内や内藤より若干遅いにも拘らず、「陶彫の父」として一 般に広く知られているのは、東京美術学校彫刻科教授であった竹内久一に師事し、セーヴ ル製陶所において陶による立体造形法を学び、日本陶彫会の創設者となった沼田一雅 (1873-1954 年)である。後者に関する文献の中には、彼を「陶彫の創始者」と位置付けてい るものすらある。 本発表では、このような矛盾が生じた理由を解明するため、まず寺内信一と沼田一雅の それぞれの生涯や功績、弟子たちについて、表や作品を示しながら、整理ならびに比較を 行う。続いて、両者に関する研究論文や、両者に関する言及がなされている単行本や図録、 報道記事などを洗い出し、時系列的に整理することで、彼らが美術界や産業界、また美術・ 工芸史上でどのように位置付けられてきたのかを明確にする。また現在、陶を用いたオブ ジェや招き猫などの縁起物、あるいは彫刻作品は「陶彫」として一括りにされる傾向があ るが、同用語の厳密な使用の開始時期や定義、ならびに美術・工芸界における同用語の浸 透過程を明示したい。次いで、両者の作品の中から、比較可能な肖像や婦人像、老婆像、 仏教主題の作品、素描をそれぞれ抽出して、造形的、技術的観点から比較を行う。また同 時に、それぞれがどのような人物から影響を受け、その影響がどのように作品や制作に反 映されているのかや、両者の遺稿や書簡を精査して、それぞれの芸術観や思想がどのよう なものであったのかについて指摘ならびに比較を行う。 最後に、以上の諸点からの比較結果を総合して、寺内が「陶彫」史上にその名を留める ことなく終わり、一方で沼田がその「創始者」あるいは「開拓者」として仰がれるに至っ た理由や経緯と、「陶彫」の定義について発表者の結論を導く。

      
      
    • 「ヨハン・マッテゾンにおける修辞学と「よい趣味」―ギャラントと装飾との関わりから―」
       米良ゆき(九州大学大学院)

    •  ヨハン・マッテゾン(1681-1764)は、当時流行していた「よい趣味」の概念を自身の音楽 論に導入し、「ギャラント」概念に関連づけている。このギャラントという語は以後の音楽 理論家たちによって、バロック時代への反発として生まれた一つの「様式」を指す語とし て定着していった。このような重要性にも拘らず、従来マッテゾンにおける「ギャラント」 や「よい趣味」は単に理論的知識に対立するものとしてのみ捉えられており、その意義が 十分に議論されているとは言い難い。そこで本発表は、装飾及びギャラントをめぐる記述 を手がかりに、「よい趣味」と修辞学との関係性を明らかにし、18 世紀美学におけるマッテ ゾンの音楽観の実像を再考すると同時に、18 世紀ドイツ音楽論の一端を解明することを目 的とする。 佐々木健一によれば「よい趣味」とは 17〜18 世紀のフランスで流行した概念で、真に美 しいもの、優れているものを見分ける能力を意味し、その射程は人事全般の良し悪しにも 及ぶ。イギリスの論考を中心に導入された後、「趣味」は 18 世紀美学の中心的問題に発展 していく。アディソンやバークらのイギリス哲学によれば、「趣味」の概念は自然主義的に 理解される一方で、慣習によって育成されるというアポリアが存在することは、小田部胤 久が指摘するところである。 ではマッテゾンにおける「よい趣味」とは何か。マッテゾンは装飾をギャラントの派生 語である「ギャラントリ」と実質的に同一のものとし、「慣習」に担わせている。確かにこ のことは、マッテゾンが修辞学の中でも装飾を「理論的知識」というより、むしろ実践的 に体得するものとして捉えていたことを示しており、「趣味」が慣習によって育成されると するアディソン、バークらとの共通項を見出すこともできるだろう。しかし、さらに注目 すべきは、装飾ないしギャラントリの節度を問題にする際、マッテゾンがイソクラテスの 修辞学における「よい思慮と健全な判断力」を「よい趣味と健全な判断力」と言い換えて いる点である。この「よい思慮」から「よい趣味」への改変には、彼が古代ギリシャ以来 の修辞学と 18 世紀の流行概念である「よい趣味」をいかに結びつけようとしているかが端 的に表れている。このことに加えて、「よい趣味」やギャラントは、アフェクトの喚起との 関わりから自然や道徳との問題にも繋がりをもち、単に実践的なものに留まらず、ある種 の普遍性を獲得しうるものであると言えるだろう。 以上のように、マッテゾンは伝統的「学識」である修辞学に、流行に沿ったアクチュア ルな働きを付与し、一方で流行概念であった「よい趣味」に音楽論の中での正統な基礎付 けを与えようとしている。それによって彼は、伝統的思想を自身の時代に適合させるに留 まらず、「趣味」という言葉に内包されたアポリアを引き受けつつ理論と実践、古代と現代 とを統合させていったのである。

      
      
    • 「フェルナン・クノップフ作《私は私自身の上に扉を閉ざす》再考―モチーフの象徴的意味をめぐって―」
       矢追愛弓(九州大学大学院)

    •  《私は私自身の上に扉を閉ざす》(1891:ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク蔵)(以下、 《私》)は、19 世紀末に活躍したベルギー象徴派の画家、フェルナン・クノップフ(1858 -1921)の代表作の一つである。その多くが文学と密接に関連するクノップフ作品の中でも、 英国ヴィクトリア朝期を代表する女流詩人クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)の詩 「誰が私を救うべき」(1864)に基づくことで知られる。しかし先行研究では、本作品とロ セッティの詩との関連については、この詩が示す内省的な精神へのクノップフの共感が指 摘されるに留まり、いまだ十分に考察が行われていない。よって本発表では、まず「誰が 私を救うべき」の内容を確認する。そしてその内容が《私》にいかに反映されているかを、 画中のモチーフの検討などを通して考察する。 ロセッティの詩中に看取されるのは、登場する「私」の、①現実からの逃避願望による 外界の遮断、②外界の遮断という状況下で起る制御し得ぬ自己の自覚、③救済の希求の三 点である。①については、《私》では室内という設定により端的にその状況が表わされてい るのと同時に、クノップフ自身が獲得していた造形語彙の導入により、それが己の内面へ の逃避であることが示唆されていることを示す。②については、画中の女性に付与された 身体的特徴や服装などが示すその性格に注目したい。ロセッティの詩において、制御し得 ぬ自己は己を堕落へと誘う誘惑者の性格をもっているが、《私》の女性が有する身体的特 徴は、その所有者が誘惑者であることを観者に伝えるものである。しかし一方で、この女 性の服装や姿勢に着目すると、それらはむしろ、所有者を誘惑に悩む被誘惑者とみなすよ うに促す。つまりこの女性には、誘惑者でもあり被誘惑者でもあるという二面性が与えら れていることがわかる。そして③については、ギリシア神話において眠りを司るヒュプノ ス神の存在が重要となる。「誰が私を救うべき」で、ロセッティがキリスト教の父なる神 に救いを求めているのに対し、《私》ではヒュプノスの頭像が登場している。この大きな 相違点に着目するならば、敬虔なキリスト教徒であったロセッティとは異なる、クノップ フの異教的とさえ言える独自の思想が浮かび上がってくる。 以上の考察からは、クノップフが、ロセッティの詩に表わされている、内面における制 御し得ぬ自己の自覚と救済の願望とを汲み取り、自身の造形語彙を用いてそれを絵画化し たということが明らかとなる。19世紀に研究が発展した無意識の問題にも結びつくこの 主題は、彼自身にとって重要な命題であったのだ。発表では、晩年にクノップフが建てた 館の特徴とそこでの彼の生活を振り返り、クノップフ自身が《私》の女性のような在り方 を体現していたことにも触れたい。

      
      
    • 見学会
       案内 楠本智郎氏(つなぎ美術館)

    •  つなぎ美術館 (展覧会「篠塚聖哉 草原」)
       
    
    
    
    topへもどる