平成27年度 活動報告

 
 
 
 


<第92回大会> 2015年7月4日 土曜日(於 九州産業大学)



  • 「関紫蘭《少女像》─民国期上海女性の「近代」―」
     武 夢茄(九州大学大学院)

  •  関紫蘭(グァン・ズーラン、1903-1985)は、1920、30 年代に上海洋画壇で活動した第一世代の女性洋画家である。中華芸術大学洋画科を卒業した関紫蘭は、1927 年から 1 年弱日本に美術留学をし、神戸で個展を開催したほか、二科展覧会に出品した。帰国後、戦況が厳しくなる 1940 年代初頭まで上海で教鞭をとる傍ら、定期的に展覧会に出品した。関紫蘭が民国期に制作した作品は現在そのほとんどが所在不明であり、人物画としては唯一《少女像》が北京の中国美術館に収蔵されている。《少女像》は、彼女が日本から帰国後 1929年に制作し、翌年上海で開催された個展に出品した際に、新聞雑誌で大々的に取り上げられた作品である。本発表では、この《少女像》(以下本作)に着目し、描かれたモデルの特定を行い、関紫蘭によるフォーヴィスムの受容について分析しつつ、本作の制作意図や独自性を明らかにすることで、上海洋画史における意義について考察する。
     関紫蘭に関する稀少な先行研究の中で、これまで本作に描かれたチャイナドレスを着た断髪の女性が、画家自身、あるいはその恩師陳抱一の娘陳緑妮であるという指摘がなされた。また本作に影響を与えた画家として、マティスや安井曾太郎、中川紀元の名が挙げられたが、いずれも作品の詳細な分析に基づいて実証されたとは言い難い。
     本発表ではまず、関紫蘭が自らの人格を絵画によって表現することを目指していたことを 1926 年に『申報』に投稿された彼女による講演会批評から導き出す。次に、1920 年代の上海洋画壇では、近代国家にふさわしい美術の創造という目標のもとで伝統的に用いられた臨模に代わって、西洋美術の基礎である実物の写生が美術教育の中で取り入れられていたことに着目し、関紫蘭が陳抱一と丁衍庸から人物の写生を学んだことの意義について考察する。その上で、関紫蘭と中川紀元の交流記録を基に、彼女が自らの画室で妹をモデルに本作を制作した可能性を提示する。さらに、本作にみられるフォーヴィスム的作風は、関紫蘭と芸術観を共有していた丁衍庸が1920年代後半に描いた一連の女性像から影響を受けたものであることを指摘し、丁衍庸のマティスに関する言及を基に、彼女によるフォーヴィスム受容の様相を明らかにする。
     以上のような本作の主題・様式の基礎的な分析を踏まえた上で、とりわけ画中のチャイナドレスのもつ象徴性に着目して、「東洋のパリ」と称された 1920 年代の上海に到来した近代化の潮流が女性の身体を通していかに表れているのかについて言及する。さらに、画中に犬のぬいぐるみを配置することで、女性のナイーブな初々しさが表現されている一方で、その視線や含みを持つ笑みからは、コケティッシュでありながらも高貴な雰囲気が漂うことに着目する。以上のことをふまえて、本作にみる豊かな表情をたたえる近代化の象徴としての女性像に関紫蘭の自己が投影されていることを結論として述べる。

    
    
  • 「ルカ・シニョレッリの装飾的傾向に関する一試論
      ―アルチェヴィア、サン・フランチェスコ教会のための《フィリッピーニ祭壇画》を中心に―」
     森 結(九州大学大学院)

  •    ルネサンス期の画家ルカ・シニョレッリ(c.1450-1523)による《フィリッピーニ祭壇画》(1508)は、ロッカ・コントラーダ(現在のマルケ州アルチェヴィア)にあるサン・フランチェスコ教会のフィリッピーニ家礼拝堂に設置されていた祭壇画である。かつて祭壇画を構成していた板絵は、18 世紀の教会の改装や、ナポレオンによる美術品の接収、フィリッピーニ家の子孫による作品の売却などの結果、現在では世界中に散逸してしまい、その本来の構成は確定しがたい。しかしながら頂画(ルネッタ)に《聖母の戴冠と父なる神と二人の奏楽の天使》(サン・ディエゴ美術館)、主祭壇画に《玉座の聖母子と聖ヤコブと聖シモン、聖フランチェスコと聖ボナヴェントゥーラ》(ミラノ、ブレラ美術館)が設置されていたことは、多くの研究者の間で意見の一致を見ている。よって、本発表では、主祭壇画とルネッタの板絵に限定し《フィリッピーニ祭壇画》について論ずる。
     さて本祭壇画に見られるような金を使用し入念に装飾する傾向は、16 世紀初頭のシニョレッリ作品の特徴の一つとして挙げられる。そのような作品群は、金を用いた装飾故に、画家がミケランジェロやラファエッロらによる、同時代の美術の潮流を受け入れることができなかった証、あるいは前時代的な表現への回帰とみなされ、評価が低く見積もられてきた。しかし、従来等閑視されてきた、装飾的モティーフの成立の背景と図像的由来を明らかにするならば、本祭壇画の装飾の語彙が当時有していた意義が理解されるのである。
     本発表ではまず、主壇画に描かれた玉座の構造と、その基壇と垂幕における組紐文様による装飾が、ラファエッロによる、ペルージャのサンタントニオ・ディ・パドヴァ女子修道院のために描かれた《コロンナ祭壇画》(c.1505、メトロポリタン美術館)を参照していることを指摘する。《コロンナ祭壇画》はヴァザーリの列伝によれば、当時非常に注目を集めた祭壇画であり、この事は少なくともウンブリア周辺の他の画家の作品からも看取される。そしてシニョレッリも同祭壇画に着目した画家の一人に数えられるのである。
     しかしながら、本祭壇画の装飾は単にラファエッロとの影響からのみ理解されるべきものではない。次に指摘したいのが、本祭壇画の玉座の頭頂の装飾的モティーフと、15 世紀末に発見された、皇帝ネロの黄金宮殿内部のグロテスク装飾の「鎖に繋がれたサテュロス」と呼ばれるモティーフとの関係である。これは同時代のグロテスク装飾においてもその流行が確認できるモティーフであり、画家自身のオルヴィエートの礼拝堂装飾における使用も認められる。
     以上の指摘を勘案すれば、本祭壇画の装飾は、ラファエッロによる同時代の祭壇画に多くを負い、のみならずグロテスク装飾の流行に棹差すものであり、当世流の装飾の語彙を遺憾なく取り入れていることが理解される。従って本祭壇画の装飾は、画家が若い世代の美術の潮流に向き合った上でなお、独自の表現との融合を模索したものとして位置づけられるのである。


    • <第4回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「朝鮮王朝成宗代における王室周辺仏事の一側面-《三帝釈像》(福井・永平寺所蔵)を中心に-」
            李智英氏

    •   授賞式では、まず選考委員が紹介された。錦織亮介委員長が第4回デアルテ賞受賞者を発表し、賞状と副賞が受賞者の李智英氏に授与された。続いて小林知美委員から選考経過と受賞理由が読み上げられた。その後、李氏から挨拶があり、授賞式を終えた。
       第4回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。


    • 見学会

       九州産業大学
      渡邊雄二氏の案内で以下の学内施設を見学した。工芸棟(染色、金工、陶芸、木彫)~柿右衛門窯~円形ギャラリー~美術館






    <第93回大会> 2015年12月5日(研究発表 於 大分県立美術館OPAM)、6日(見学会 於 二階堂美術館、的山荘、大楽寺、宇佐平和資料館、自性寺)

    
    
    
    
    • 「1960年代のマレーシアにおける抽象美術について―受容をめぐる対話と抵抗」
       石松 紀子(長崎大学)

    •  1957 年にイギリスの植民地支配よりマラヤ連邦が独立した後、1963 年に独立国家として マレーシアが成立し、1965 年にはシンガポールがマレーシアから分離独立する。現在のマ レーシアが成立して間もない 1967 年に、7名のアーティストたちによるグループ展“GRUP” が開催された。参加作家は、チェオン・ライトン(Cheong Laitong)、 イブラヒム・フセ イン(Ibrahim Hussein)、 ジョリー・コー(Jolly Koh)、 ラティフ・モヒディン(Latiff Mohidin)、アンソニー・ラウ(Anthony Lau)、サイード・アフマド・ジャマル(Syed Ahmad Jamal)、 ヨー・ジン・レン(Yeoh Jin Leng)で、いずれの作家もヨーロッパに留学して 美術教育を受けた経験をもつ。この展覧会では、抽象表現を用いた絵画や彫刻が集合的に 展示されたため、マレーシアにおける抽象美術の受容を強く印象づけることになる。当時、 国際的な視覚言語となっていた抽象表現を用いることで、これまで国内にとどまっていた 作品が、サンパウロ・ビエンナーレといった国外の展覧会で展示する機会へとつながって いく。
       その一方で、欧米の影響を受けた抽象美術に対する反発も見られる。1968 年にマレーシ ア国立美術館が主催した展覧会“Salon Malaysia”において、リアリズム絵画を描く半島画家 協会、アンカタン・ペルキス・セマナジュン(Angkatan Pelukis Semenanjung)の作家た ちが、抽象美術への偏重に抗議を表した。実際、先の“GRUP”展に参加した作家のうち4名 も、同サロン展において賞を獲得しており、マレーシアにおける抽象美術への関心の高さ が伺える。
       本発表は、1960 年代の抽象美術の作品を検証しながら、欧米で展開してきた抽象美術が マレーシアにおいてどのように受容され、また影響を与えてきたか、当時の美術の文脈に おける対話や抵抗を考察するものである。欧米の美術史研究ではアジアの美術を同時代の ものとしてとらえる視点が欠落していたため、このような検証や考察をとおして、アジア の美術動向が欧米のそれとどのような連続性をもち、また断絶していたか相互関係を理解 することで、同時代の美術として捉えていくことの重要性を明らかにしたい。

      
      
    • 「モーツァルトの《レクイエム》における慣習的表現と新しさ
                     ―〈イントロイトゥス〉と〈キリエ〉の構成を通じて―」
       松田 聡(大分大学)

    •    モーツァルトの(1756-1791)の《レクイエム》(1791 年、未完)において、冒頭の〈イ ントロイトゥス〉は詩篇「テ・デチェト」を中間部とする三部形式で構成され、それが半 終止した後、二重フーガによる〈キリエ〉が続く。マンフレッド・ヘルマン・シュミット は、1996 年に発表した論文で、この構成が 18 世紀のレクイエムの中ではユニークなもの であることを明らかにしたが、それ以上の考察は行わず、ただ、〈イントロイトゥス〉と〈キ リエ〉がそれぞれ独立的に作られている点では、ミヒャエル・ハイドン(1737-1806)の《レ クイエム》(1771 年)等にみられる、両者を一体化させた構成よりも古風であると指摘する のみであった。
       本発表では、それに対して、モーツァルトの作品における 2 部分の構成が、〈イントロイ トゥス〉の交唱「レクイエム」と詩篇、および〈キリエ〉を個別に作曲したガスマン(1729-1774) の《レクイエム》(1773 年頃)と、ミヒャエル・ハイドンの作品との両方の要素をあわせも つ、むしろ新しいタイプのものであることを示したい。モーツァルトは、〈イントロイトゥ ス〉と〈キリエ〉との対照性を保持しつつ、深いところで両者を結び付け、それを通じて 祈りの言葉が印象的に浮かび上がるよう作曲したのである。
       モーツァルトの《レクイエム》は、特異な成立事情を背景に持つため、長らく、「自分の ためのレクイエム」という悲痛な思いで作曲された作品とみなされてきた。近年は、1791 年における作曲家と教会音楽との密接なかかわりを重視し、むしろ、意欲的に取り組まれ た作品とする見方が一般化しつつある。これらは、一見、相反するものの、音楽作品を自 律的な鑑賞対象とみなす近代的な芸術概念の枠組み内にある点では変わるところがない。 《レクイエム》は元来、「死者のためミサ」で用いられる「実用音楽」として作曲されたの だが、その側面を適切に評価するのは、未だ、これからの課題といわざるをえないのであ る。
       本発表は、それを追究する試みでもある。そのような楽曲においては、少なくとも、個 性や独創性以上に、目的にかなった説得力が重視されるべきであろう。上記の「新しさ」 も、その点に照らして理解する必要がある。モーツァルトは、ミヒャエル・ハイドンやガ スマンの作品とも共通する伝統的な旋律素材によって〈イントロイトゥス〉や〈キリエ〉 を作曲しており、とりわけ、前者冒頭の交唱部分では、2 つの先行作とほぼ同一の構成法を 採っている。ここには、個性・独創性を追う姿勢は見出されない。むしろ、当時、レクイ エムの作曲に求められていた慣習的な表現に沿いつつ、そこに潜在する可能性を十分に汲 み出して典礼の場にふさわしい祈りの表現を仕上げた結果、余人には創りえない「新しさ」 が具わることとなった、と考えられるのである。

      
      
    • 「近代沖縄の官製窯業振興策について
                     ―沖縄県工業指導所窯業部の動向を中心に―」
       倉成 多郎(那覇市立壺屋焼物博物館・沖縄県立芸術大学博士課程)

    •    近代日本で産業構造が大きく変わる中、琉球王府崩壊以後の近代沖縄でも工芸は大きく 変化を遂げた。本発表では、沖縄の近代工芸の中でも特に陶芸を主題とし、昭和 3(1928) 年に開設された沖縄県工業指導所窯業部による官製窯業振興策について検討する。
       沖縄県工業指導所は昭和 19(1944)年の空襲で全焼し行政文書や試作品が焼失した。ま た、戦後の沖縄の工芸振興は民藝運動が中心的役割を担っており、民藝運動の研究に比べ て指導所への関心は薄く研究も充分に進んではいない。平成 18(2006)年に窯業部初代技 師であった金澤武雄が郷里である熊本県天草市に残した行政文書と試作品を確認すること ができ、昭和 3(1928)年から昭和 7(1932)年までの指導所の活動について具体的に確 認することができるようになった。
       本発表では、まず沖縄県工業指導所設立の背景を検討する。琉球王国崩壊以降、近代的 産業施策が持ち込まれる中、振興すべき産業の対象として「窯業」あるいは「陶磁器」が 新たに沖縄に導入されるなど、近代期に入り沖縄の窯業が内的要因ではなく外的な要因に 主に左右されながら変化していった点を指摘していきたい。
       次に沖縄県工業指導所の試作品を通して官製窯業振興策が具体的にどのような作品に具 現化したかを明らかにしていきたい。沖縄県工業指導所窯業部と金澤武雄の試作品は、「地 方色」の具体化という課題を有しつつも、20世紀初頭の磁州窯発見や高麗青磁の復興運 動など多様な影響を受けながら成立している。
       官製窯業振興は近代沖縄においては民藝運動より長い歴史をもつモノ作りへのアプロー チである。また既に指摘されているとおり民藝運動とは当時の主要な工芸思潮に対するア ンチテーゼであり、テーゼとはならなかった。近代期沖縄の陶磁器生産においては民間主 導の陶磁器生産と共に行政主体の官製窯業振興が支配的造形思潮であり、この振興策の把 握なくして近代沖縄陶芸の全容の把握は不可能である。
       戦前期の日本に於いては官庁の中央統制が強く働いており官撰知事に象徴されるとおり 地方自治という概念自体が今日とは大きく異なる。沖縄県工業指導所も指導的立場の所員 は商工省によって中央から派遣されている。金澤武雄も山形県、沖縄県、栃木県と赴任地 を変えながら地方での窯業振興に尽力した。また金澤武雄が沖縄県工業指導所離任後は鈴 木利平が商工技師として赴任し窯業振興に当たっている。つまり、沖縄県工業指導所の活 動とは、国家の工芸(本稿では特に窯業)施策が地方に於いて具現化されるプロセスであ るが、同時にそれは日本のおおくの窯業産地と共通性を有するものであると指摘すること ができる。

      
      



      • 見学会

        二階堂美術館[近代日本画 企画展:上村松園と京都画壇]
        的山荘
        大楽寺[重文:木造弥勒仏三尊像、四天王像]
        宇佐平和資料館[零戦]
        自性寺[池大雅]