平成28年度 活動報告

 
 
 
 


<第94回大会> 2016年7月9日 土曜日(於 石橋美術館)



  • 救済なき死
    ―ピーテル・ブリューゲル(父)作《死の勝利》をめぐる考察―
     香月比呂(九州大学大学院)

  •  16世紀ネーデルラントの画家、ピーテル・ブリューゲル(父)の《死の勝利》は、「死」の軍勢が生者に襲いかかる様を描き出した作品であり、先行研究では、その着想源となった主題や図像伝統に関する議論がとりわけ盛んに行われてきた。しかし本作品において、中景右で運び出される棺、中景左の棺の安置と埋葬、後景の葬列と、複数箇所に繰り返し描かれている「葬儀」のモチーフは、壮大な死の闘争を目撃する鑑賞者の視点を誘う重要なモチーフとして登場するにもかかわらず、ともすると死の付随的産物として等閑視される傾向にあった。そこで本発表では、葬儀の場面の描写に画家ブリューゲルのより積極的な意図を求め、この特異なモチーフが作品の鑑賞者に死の恐怖を喚起させる上で果たした役割について考察したい。
    葬儀という現実の儀式の描写は、死を主題とした図像作品においてもなお極めて稀であった。ブリューゲルの描いた葬儀のモチーフを理解する手がかりは、実に、葬儀が例外的に頻繁に描写された媒体、すなわち聖務日課書や時禱書の中にある「死者のための聖務日課」が記された頁の挿絵に求めることができる。「死者のための聖務日課」とは、定時課や葬儀の際に死者の救済を願って捧げられた祈りであり、最後の審判の日まで煉獄で罪を清めている死者の贖罪の期間は、この生者の祈りによって短縮され得ると考えられていた。この死者を救うための日課書の頁に、葬儀という現実的場面と、「死」の擬人像が姿を現す非現実的な場面が、しばしば並置されるようにして描かれたのである。
    このことを踏まえて《死の勝利》を見てみるならば、ブリューゲルは葬儀を「死」に執り行わせることにより、現実と非現実とを融合させていると考えられよう。まず、「死」が生者に襲いかかるという非現実的な絵画世界に、葬儀という現実的なモチーフを挿入し、それにより、鑑賞者に壮絶な死の情景をより身近な、真に迫った世界として体験させるよう構想されている。そして、死者のための聖務日課にも描かれた葬儀、すなわち死者の救済に重要な意味を担っていたはずの儀式を行う主体を、今まさに生者の命を奪う「死」として描いている。その倒錯的な葬儀の場面は、死後の救済という本来の意義を失い、死を最後の審判に至るまでの過程の一つと捉えていた当時の鑑賞者に、救いのない死に対する恐怖を喚起させただろう。結果として、ブリューゲルの描いた葬儀のモチーフは、既存の宗教的、文化的な価値観を打ち崩した、いわば「さかさまの世界」を創造せんとする画家の表現語彙の一つであり、それによって観賞者に、やがて訪れる現実の死を痛烈に意識させようとしたと考えられるのである。

    
    
  • 初期浮世絵における見立絵図像の成立
    ―奥村政信『絵本江戸絵簾屏風』を手がかりとして―
     五味あずさ (広島市立大学大学院)

  •    多色摺り版画である錦絵の誕生以前の江戸において、数多くの古典的な画題を扱い、またそれらの画題を当世風俗で描く見立絵の普及に貢献した浮世絵師として奥村政信(1686~1764)がいる。彼が残した様々な見立ての図像が、後に鈴木春信(1725?~1770)らによって錦絵に用いられていることは既に指摘されているが、それらの図像の種類や成立について、これまで充分に検討されているわけではない。本発表では、特に、奥村政信が制作した『絵本江戸絵簾屏風』(以下、『簾屏風』と記載)という、初期浮世絵の見立て図像が収録されている「絵本」をとりあげ、同書収録の画題の図像の典拠を中世から近世初期のやまと絵や漢画、禅宗絵画、ほかの絵本などの先行作例中に探索し、同書が見立絵成立の過程で果たした役割について考察する。
    『簾屏風』全二巻は江戸時代中期、宝暦(1751⁻63)頃の成立と考えられ、刊行年・地ともに不明である。同書は26の画題が収められた図像集という体裁になっており、その図像は、やまと絵、漢画(狩野派など)、禅画など様々なジャンルから収集され、古典の画題とともに当世風の見立絵も交えて編集されている。ここであえて「図像」という言葉を用いるのは、それが単なる図様ではなく、描かれたかたちが、それぞれ決まった意味を持つものとして人々の間で理解されていたからである。同書中の見立絵で描かれた画題に関しては、琴高(きんこう)仙人など中国の説話をモティーフとした漢画系画題が多く、同画題の作例は室町水墨画にあり、日本の画題としては中世に遡る。こうした図像は、近世初期に刊行された絵本・絵手本類の普及と関わり、『簾屏風』にも取り入れられ、見立絵の図像に変換された可能性がある。見立絵が画題として成立する前提として、制作者と鑑賞者の間にかたちと意味が共有されていなくてはならず、政信らの初期浮世絵において数多くの見立絵が登場した背景に、故事、説話等が古画の図様と併せて人々に普及していた事が窺える。
    『簾屏風』収録の画題や図像を確認し、見立絵図像の成立を考察することで、中世からの画題を絵本・絵手本類が取りこみ、また見立絵の図像に変換するという現象において、その図様の取捨選択こそが当時の価値観を反映したものであったと推定できる。奥村政信が制作した『簾屏風』を手がかりに、中世古典絵画のヴィジュアルイメージに遊戯性を与え、江戸文化の華というべき錦絵における見立絵隆盛の前段階を用意した彼の役割を再確認したい。

    
    
  • 龍安寺石庭研究の再検討
     石田泰弘

  •    方丈の南庭にある石庭は、作者や作庭年など謎に包まれていますが、私の強い関心はそれだけではありません。石と白砂と土による無機質な造形、そこに生まれる静謐な空間です。十五個の石が五群に分散された石組による図と白砂の地とから生まれる日本独自の間(ま)の造形についてです。
    ですが、この造形について論及する前に明らかにしなければならない重要な問題が介在しています。私たちが見ている石庭は作庭当初と同じで変わっていないのか。変化せずに今日まで在りつづけてきたのでしょうか。現存する文献と絵画資料などを再検討しますと、そうではないようです。
    作庭年については、室町時代、桃山時代、江戸前期、寛政時代など諸説ありますが、石庭自体は変化していない、というのが通説です。しかし大山平四郎氏は相国寺の禅僧子健(一四八六~一五八一)作の借景説を唱えました。現在では築地塀の外の景観が高い木々などによって遮断されていますから、私たちは作庭当初と異なった別の石庭を見ていることになってしまいます。私も借景説に賛同しますが、大山氏と違います。石清水八幡宮を祀る男山などの山々を借りた石庭が当初の作庭意図であった、というのが私の新説です。ただし、その当初の石庭は、寛政二年頃に成った石庭を元に作り換えられているのです。室内からだけでなく庭内も移動して観賞できる石庭でした。ところが、同九年二月に方丈が焼失し石庭がダメージを受けたのでしょう、同十二年頃に作り換えられたのです。方丈の室内から観賞する石庭として生まれ変わったのです。石を愛でる庭から間(ま)を楽しむ場に変身しました。
    かつての借景としての石庭は、此岸の石達と姿が似ている彼岸の山々とが生み出す空間、連鎖しつつ拡充する間(ま)が魅力でした。静謐で敬虔な間(ま)の世界、心と精神を解放してくれる場としての石庭だったのです。


    • <第5回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「昭和期官展における『現代風俗画』の展開―中村研一《瀬戸内海》を中心に―」
            高山百合氏(福岡県立美術館学芸員)

    •   授賞式では、まず選考委員が紹介された。松本誠一委員長が第5回デアルテ賞受賞者を発表し、賞状と副賞が受賞者の高山百合氏に授与された。続いて植野健造委員から選考経過と受賞理由が読み上げられた。その後、高山氏から挨拶があり、授賞式を終えた。
       第5回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。


    • 見学会

      石橋美術館
      特別展「石橋美術館物語 1956久留米からはじまる。」会期中





    <第95回大会> 2016年11月26日 土曜日(於 佐賀大学)

    
    
    
    
    • 赤瀬川原平の「超芸術」―「トマソン」という転換点
       長尾萌佳(九州大学大学院)

    •  赤瀬川原平(1937-2014)は、1960年代、反芸術的美術動向の担い手として活躍したが、1970年代以降は、主流的な美術の世界からは距離を置き、漫画や小説、エッセイなど幅広い領域にわたって創作活動を展開した人物として知られる。これまで、ハイレッド・センターや《模型千円札裁判》など、60年代の前衛美術の活動については度々論じられてきたが、それ以後の彼の活動については美術の文脈で十分に検証されてきたとはいいがたい状況である。そこで、本発表では、80年代に行われた「トマソン」に焦点を当て、美術家としての赤瀬川原平像を更新し、戦後美術史を見直すことを目指す。
      赤瀬川は1982年、雑誌の連載の中で、「超芸術トマソン」というコンセプトを発表し、主に雑誌や書籍といった活字媒体を利用して様々な活動を行った。「トマソン」とは、上った先にあるべきはずの扉がない階段や、半端な丈で切断された電柱、取り壊された隣家のシルエットが刻まれた壁など、街中に見られる実用的な用途を持たぬまま存在している建造物やその一部を指す言葉として、赤瀬川が命名したものである。それらは「芸術」を超えた「超芸術」であると謳われた。「トマソン」は写真とテキストによって提示されたが、赤瀬川はそれらを自らの「作品」として発表するのではなく、雑誌の連載で読者投稿を募り、趣味的な遊びとして世に広めた。
      「トマソン」は当時、美術の文脈で語られることはほとんどなかったが、近年では赤瀬川の活動の根底には一貫して「芸術」についての問題意識があることが指摘され、トマソンもコンセプチュアルな「作品」として再評価されつつある。とはいえ、それがどのように連続性を持つのか、十分に語られているとは言い難い。
      本発表では、まず先行研究をもとに、トマソンの活動の全体像を整理する。トマソンは赤瀬川の手を離れ、様々な人々の手によって展開していったが、赤瀬川の意図によって行われた、いわば「作品」としての核をなす部分をつかむとともに、活字媒体の利用や読者の動員といった手法を作品の形式としてとらえる。
      次に「トマソン」や「超芸術」というコンセプトについて、「芸術」概念についての思索を生涯にわたりテーマとしてきた赤瀬川の文脈の中から考察する。そこから、トマソンの活動が、60年代の「反芸術」的活動から断絶したものではなく、それ以前の活動を引き継ぎつつ、新たに展開させる転換点であったことを示す。

      
      
    • ヴァラッロのサクロ・モンテの彩色木彫
      ―第43堂<キリストの墓>内の≪死せるキリスト≫像の制作者・制作時期の再考―
       関根浩子(崇城大学)

    •    2003年に「ピエモンテとロンバルディアのサクロ・モンテ群」としてユネスコの世界遺産に登録された9施設のなかでも、ヴァラッロのサクロ・モンテは、最古の施設であるだけでなく、彫刻や壁画によって礼拝堂内に表現された聖なる場面が質的に極めて高いという点で、宗教建築史上、また美術史上もっとも重要な施設である。
      この巡礼施設は、主に、①初期(B. カイーミによる構想の具現期)(1491-1530年頃)、② G. アレッシによる新計画と再整備構想期(1565-69年)、③ ミラノ大司教聖カルロ・ボッロメーオによる新計画と再整備構想期(c.1570 -1585年)、④ ノヴァーラ司教カルロ・バスカペの最終決定による再整備構想期(1593-1640年頃) の4期を経て現在の形態に至ったものである。現在の施設は、登山路上の5つの小礼拝堂と山上の聖域内の45の礼拝堂、並びに聖母被昇天教会堂や復活のキリストの泉といった宗教建築や象徴的モニュメントなどによって構成されている。そして45の礼拝堂は、一部の礼拝堂を除けば、いずれもキリストと聖母の生涯のエピソードに関係しており、多くは16世紀後半以降に建設されたものである。
      これらの礼拝堂のうち、現存する最初期の数少ない礼拝堂のひとつである<キリストの墓>(現在の第43堂)の墓室内に配されている彩色木彫≪死せるキリスト≫像は、1566年から19世紀中頃まで長きに渡ってガウデンツィオ・フェッラーリによって初期に制作されたものと推測されてきた。ガウデンツィオへの帰属はさらに、20世紀後半の幾人かの主要な研究者の主張するところでもあった。そして発表者自身も、昨夏における調査の前まではガウデンツィオ帰属説に疑問を抱くことはなかった。しかし、彩色木彫調査のために久し振りに訪れたヴァラッロで、修復後の≪死せるキリスト≫像を間近から観察したり、同様に山上にあるサクロ・モンテ・ディ・ヴァラッロ特別保護区サクロ・モンテ管理運営財団所長エレナ・ディ・フィリップ女史から修復時の画像データをご提供頂いたりしたことで、像の構造や用いられた技法、作品としての質などが明らかとなり、ガウデンツィオへの帰属に疑問を抱かざるを得なくなった。
      そこで本発表では、まずヴァラッロの施設の最初期の礼拝堂と堂内のミステーリ場面に関する概観、並びに現存する初期の彩色木彫群の確認を行った後、第43堂の≪死せるキリスト≫像に特化し、先行研究による制作者や制作時期についての推察や作品評価の整理を行いたい。続いて、2006年に開始された修復に関するディ・フィリップ女史の報告と制作者・制作時期に関する推察、提供された修復時の写真などをもとに、諸先行研究の批判検証を行いながら、作品の制作者、制作時期の再考を試みたい。

      
      



      • 見学会

        佐賀大学美術館
        案内:佐々木美奈子氏(佐賀大学美術館)