平成29年度 活動報告

 
 
 
 


<第96回大会> 2017年7月1日 土曜日(於 出光美術館 門司)



  • 谷川寺 薬師如来立像をめぐる一考察
    宮田太樹(福岡市美術館)

  •  谷川寺は福岡県八女市、矢部川南岸の小高い丘陵上に所在する。同寺に伝来する薬師如来立像(以下、本像とする)は、構造や造形的特色からその制作が平安時代前期まで遡ると推定されている、北部九州でも屈指の古像である。加えて、平安前期一木彫像の代表作として名高い京都・神護寺の薬師如来立像(以下、神護寺像とする)と像様が著しく類似することも、かねてより注目されてきた。本発表では、本像の制作背景を考察し、天長年間(824-834)に観世音寺講師恵運によって主導された写経事業が、造像の直接の契機となった可能性を指摘する。
     まず、本像の造形的特色を、畿内および九州の作例との比較から検討し、1)その制作は9世紀まで遡りうること、2)神護寺像を直接に参照したわけではなく画像情報が介在した可能性が高いこと、3)北部九州の在地様式とも呼ぶべき表現が採用されていること、の3点を指摘する。
     在地様式が採用されることから、本像が制作されたのは谷川寺周辺であった可能性が極めて高い。一方、本像の顔立ちは、神護寺・五大虚空蔵菩薩像をはじめとする9世紀第2四半期に畿内で制作された諸作例に非常に良く通じており、これは本像のもとになった画像情報が畿内、さらに言えば神護寺周辺で制作された可能性を示唆している。このように考えたとき、次いで問題となるのは、谷川寺において、いかに神護寺像の画像情報を入手することができたのかということになる。
     これを考えるうえで、大きなてがかりとなるのが、観世音寺の統領であった観世音寺講師の存在である。同職は、平安時代前期において大宰府管内諸国の寺院を統括する権限を有していたが、東大寺戒壇院の戒師より選任すべきことが定められることから、その出自が中央にあることが判明する。したがって、本像のような中央風と在地風とが共存する造形が谷川寺で実現するためには、この観世音寺講師が大きな役割を果たしたと考えられる。
     そこで、発表者が特に注目したいのが、天長10年(833)より、観世音寺講師として一切経写経事業に関わった恵運である。この写経は、神護景雲年間(767-770)に起こった皇位継承を巡る事件(いわゆる、宇佐八幡宮神託事件)に際して下された八幡神の託宣に基づくもので、大宰府が朝廷の命をうけて作成された写経は神護寺へとおさめられた。神護寺像も、この八幡神の託宣に基づく造像であることに鑑みれば、写経事業を契機に神護寺像の画像情報が恵運を介して観世音寺へともたらされ、本像の造立がなされたと考えることができるだろう。
     以上の考察を通じて、観世音寺講師によって進められた北部九州の造像活動の一端を明らかにするとともに、それが、朝廷周辺といかなる関わりをもって展開したのかについても展望を述べたい。

    
    
  • 箏曲≪六段≫の歴史的展開
    伊藤和雅(元西南学院大学非常勤講師)

  •    八橋検校の作曲とされる筝曲『六段』の演奏と、グレゴリオ聖歌のクレド合唱の融合を聴いた。ヨーロッパ中世・ルネサンス音楽史専攻の皆川達夫氏は、曲の計量音符である六段の各段26小節、各104拍、合計624拍などが現代の五線譜で整然と重なり合う、という。しかも、デウスの意志表示部と音楽的強調も同じで、違和感なく重なりあっていた。六段の成立に、クレドの影響が決定的に大きいとの問題提起に、私は魅了された。
     時空間が異質な筈の楽曲である筝曲六段がなぜ類似性を持つのか。その誕生と関りを持つ時代と地域は、佐賀藩誕生期の肥前と筑後の久留米ではなかったか、史料を模索した。
     信仰を深め弘めるために聖歌は重要な手段であった。仏教社会にキリスト教弘布の楔を打ち込むのに、盲目の琵琶法師を利用した。法師の聖としての徳性、神仏に関する知識、そしてヴィオラに似た楽器、琵琶を弾きこなして『平家』を吟ずる能力は、聖書の物語を謳わせるのに最適であった。その候補として唯一史料に残るのが、法師の中でもザビエルが見出した肥前白石領出身の琵琶法師ロレンソであった。ザビエルの期待通り邦楽史の中にもたらされ、街歩く仏教徒でさえ口ずさむ程クレドは切支丹時代の日本社会に浸透した。
     その後、信長の死以降排教の危機を誰よりも察知し、キリスト教の中心的聖歌であるクレドの延命を図ろうとした人物はいたかを考えた。しかも、キリスト教宣教のためにも、謳い慣れない外来のラテン語聖歌のメロディを正しく謳えるように、聖歌のメロディを布教地の楽器で伴奏を支え補強させねばならなかった。その能力を持ち得た人物は、信長らに「日本の長老」と認められ、宣教最大の功労者で音楽の才能があったロレンソであろう。
     秀吉以降徳川政権まで愈々排教を迫られ、切支丹全体として危機感を共有するに至り、その意思を引き継ぎ得たのが筝演奏の伝統ある久留米藩の善導寺近くに住したドミニコ会の酒井太郎兵衛である。彼はクレドと筝との接点を持ち得る可能性があり、ドミニコ会の本拠地鍋島領鹿島との密接な交流があった。偶然にも佐賀藩では善導寺との交流の結果、全国で唯一筝の演奏が生まれ、同藩の文化史に生田流の曲名「六段の調子」が記されるように近代まで伝統があった。そうであれば、クレドは佐賀藩でも醸成された可能性を持つ。
     そのドミニコ会と、これを最大の切支丹排斥者とした佐賀藩との接点は何か。国内唯一布教を敢えて望んだドミニコ会に、鍋島勝茂はこれを認め慶長13年に教会の落成をみる。それは勝茂が江戸時代初め、ドミニコ会士メーナの「捨世の伴天連」として、ひたすら自他の霊魂の救済に努める彼らの精神に共感したからである。勝茂は、中世天台の真盛の姿や、それ以前に『金光明教』で知られるように、釈迦が飢えた虎親子にその身を投じて救う菩薩行の「捨身飼虎」を描いた法隆寺の玉虫厨子の図に通ずるものをみたのではないか。


    • <第6回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「民国期中国の女性洋画家関紫蘭をめぐって─《少女像》(一九二九年)を中心に─」
            武梦茹(九州大学大学院)

    •     授賞式では、まず選考委員が紹介された。橋冨博喜委員長が第6回デアルテ賞受賞者を発表し、賞状と副賞が受賞者の武梦茹氏に授与された。続いて西本委員から選考経過と受賞理由が読み上げられた。その後、武氏から挨拶があり、授賞式を終えた。
       第6回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。




    <第97回大会> 2017年11月25日 土曜日(研究発表 於 宮崎県立美術館)、26日(見学会 於 日向国分寺跡・木喰五智館、西都原考古博物館、酒泉の杜、平和台公園平和の塔、宮崎県立美術館)

    
    
    
    
    • 『仁智要録』と『類筝治要』にみる筝譜の比較及び復曲研究
      劉一葉 (九州大学大学院芸術工学府)

    •  『仁智要録』は12世紀中期に太政大臣の藤原師長(1138-1192)が編纂した全十二巻からなる現存最古の箏譜集である。中国と日本の独奏箏曲が完全なかたちで記録されており、唐箏の旋法、調弦法、演奏法を知ることができる。『類箏治要』はやや遅れて13世紀初期に編纂された全二十巻からなる箏譜集であり作者は不明、中御門宗一派の箏の伝承を記した箏譜である。本発表は、これらの筝譜集の記譜法について検討を行うとともに、代表曲を復曲することを目的とする。
       まず、『仁智要録』と『類箏治要』の版本を収集し検討した。『仁智要録』は、宮内庁書陵部本、上野学園大学日本音楽史研究所本、東京芸術大学図書館本(二種)、京都大学図書館本(四種)、『類箏治要』は、国立国会図書館本、上野学園大学日本音楽史研究所本、東京芸術大学図書館本(二種)、京都大学図書館本(三種)の版本を検討対象とした。版本の完備性と保存状態を考慮し、宮内庁書陵部本の『仁智要録』、国立国会図書館本の『類筝治要』、上野学園大学日本音楽史研究所本の『仁智要録』と『類筝治要』、京都大学図書館本の『仁智要録』十一巻と『類筝治要』二十巻を分析と復曲に使用した。
       次に、両筝譜集に記譜されている奏法やリズムに関連する記号を検討した。演奏法の巻である『仁智要録』の「筝案譜法」と『類筝治要』の「案譜法」にはそれらの説明がある。そこでまず、林謙三、宮崎まゆみ、葉棟、関也維、ピッケン・ローレンス、ネルソン・スティーヴンの先行研究を参考に、「筝案譜法」と「案譜法」の記号の意味について検討した。説明がない記号については、先行研究に加えて中国筝と日本筝の演奏法を考慮し、意味を特定した。この検討を通して、先行研究の解釈の誤りを14箇所発見した。
       次に、両筝譜集における代表曲である《皇帝破陣楽》《団乱旋》《春鶯囀》の復曲を試みた。この三曲は、『仁智要録』『類筝治要』のどの版本も同一の調子(壱越調)と旋律であり、注釈の記述も完備している。検討した記号の解釈にもとづき、各版本の異同の検討を踏まえ、五線譜による復曲を試みた。

      
      
    • 河鍋暁斎《山姥図》―新たな山姥イメージの創出と第二回巴里府日本美術縦覧会―
      日野綾子 (九州歴史資料館)

    •    《山姥図》(東京国立博物館所蔵)は、幕末明治期に活躍した狩野派の画家、河鍋暁斎(1831‐1889)の作である。本図は、美術団体の龍池会が明治17年(1884)にパリにおいて開催した第二回巴里府日本美術縦覧会に出品することを目的に制作されたとされる。暁斎の晩年の作であること、また制作背景から暁斎と「美術」行政の関わりについて考察する材料となり得ることから、暁斎の画業の中でも重要な作例と言えるが、その意義について十分に議論がなされているとは言い難い。そこで本発表においては、先行研究を踏まえたうえで、《山姥図》について図様と制作背景の両方の側面から考察することを試みる。
       山姥は日本固有の山岳信仰から生じたと言われており、その存在は説話などの形態で伝承されてきたほか、芸能や造形の題材となることによってイメージの形成がなされてきた。例えば美術作品においては、江戸時代の喜多川歌麿や長沢芦雪の作例がよく知られ、前者は若い美人の姿で、後者は怪奇な存在として描かれる。他作例においてもそのどちらかの表現が選択されることが多い一方、本図ではそれらと異なる表現を用いている。吉祥性の高い衣装の文様や、神聖な動物に用いられる白色の彩色を施した熊、山姥の面貌に仏画に通じる表現が見られることからは、画面に吉祥性や聖性を付与する意図があったことが読み取れる。さらに、幽霊画に用いる表現の使用や、芦雪《山姥図》からの構図の引用が見られ、これらの表現により、本図は先行作例を意識しつつも、暁斎独自の山姥イメージを表したものとなっている。
       本図の制作の契機となった第二回巴里府日本美術縦覧会は、明治12年に官僚を中心に結成された美術団体、龍池会の事業である。この事業は、フランスのパリにおいて日本絵画を展示し販売することで当時の西洋人の趣向を査察することを目的に行われ、明治初期の殖産興業としての美術工芸品奨励政策と極めて関係が深かった。暁斎の博覧会の出品作品や『暁斎画談』からは、暁斎がこうした「美術」政策の一部に意欲的に参加していたこと、日本独自の画題の追及という課題を政府や同時代の画家と共有していたことが推察できる。また、本図における新たな山姥像の創造が、新たな「意匠」を求める龍池会の意図に沿ったものであった可能性を提示する。
       これらの考察を元に、《山姥図》において暁斎が独自の山姥イメージを創出したこと、そしてそれが明治初期の「美術」行政や画家を取り巻く状況の中でこそ生み出され得るものであったことを示すことで、明治初期における暁斎の活動の一端を明らかにしたい。

      
      
    • ピントリッキオによる「ボルジアの間」の肖像画とパトロンの記憶
      永井裕子 (日本学術振興会特別研究員PD・九州大学大学院人文科学研究院)

    •  ベルナルディーノ・ディ・ベット(1456頃−1513)、通称ピントリッキオは、教皇庁を中心とするローマやウンブリア地方などで活躍し、各地の教会堂などで壁画装飾事業を行ったルネサンスの画家である。本発表では、この画家の代表作ヴァチカン宮殿「ボルジアの間」に描かれたとされる肖像画を考察の対象とする。この教皇と親族のための住居の壁面には、教皇一族ボルジア家とその周辺の人々が描かれていると言われてきた。肖像主の特徴をよく捉えたアレクサンデル6世の肖像画については、教皇を象徴する持物や他の肖像作品との比較から人物特定が可能であるが、それ以外の人物像の同定については、具体的な証拠が示されたことはなく推測の域を出ていない。本発表は、肖像画とされるフレスコ断片の分析と肖像に関する史料考察を通して、これらの肖像とされてきた人物像の同定が、ボルジア家に対する後世の風説と混同の結果であることを示す。
       まず、教皇の愛人の扮装肖像画であるとされた聖母を描いたフレスコ断片について論じる。ヴァザーリの『列伝』によると、ボルジアの間には教皇の愛人ジュリア・ファルネーゼに似せた聖母像が描かれており、これは近年発見されたフレスコ断片であることが確認された。しかし、この聖母の容貌はピントリッキオが描いた他の聖母像と一致しており、ジュリア個人をモデルとした肖像とは考え難い。ボルジア家の放埓さに対する否定的イメージがこの絵に重ねられ、結果的に破壊され断片となったのだが、その原因としてヴァザーリ以前からこの聖母を教皇の愛人像だとする言説が蔓延していたことを指摘する。
       ボルジアの間に教皇周辺の人々の肖像が描かれたと考えられるようになった理由の一つとして、教皇がピントリッキオに描かせたサンタンジェロ城の連作画の存在があげられる。ヴァチカン宮殿の壁画完成後、ピントリッキオは宮殿に隣接するこの要塞に、教皇とフランス王シャルル8世の一連の接見場面を描いた。現存しないこの壁画について言及したヴァザーリなどの言説によれば、各場面には教皇と要人の他に、息子チェーザレ・ボルジアと兄弟姉妹が描かれていたとされている。ボルジア家周辺の人々を描いたこの失われたサンタンジェロ城の壁画の記憶と、ボルジアの間の壁画の混同によって、後者の中に肖像が多く描かれたと考えられるようになった可能性が高い。
       ボルジアの間の壁画は、あるイメージが後世の言説と混同によって本来とは異なる意味合いを持ち、芸術家よりも注文主の評価が作品に影響を与える事例を示している。このように、作品の毀誉褒貶は芸術家とは無関係になされたが、この事実は肖像分野における画家の過小評価に結びつくものではない。アレクサンデル6世像で見せたピントリッキオ作品の優れた肖像性が、他の人物像も肖像画だと解釈させたのであり、その意味において、本発表は肖像画家としてのピントリッキオを再評価するものである。

      
      
    • 《両親の家のキリスト》における風俗画的要素―作品受容を中心として
      出口智佳子 (佐賀大学美術館)

    •  19世紀イギリスの画家で、ラファエル前派兄弟団(以下、「PRB」)の一員であったジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-1896)は、1850年に《両親の家のキリスト》を描き、王立美術学院の夏季展覧会に出品した。《両親の家のキリスト》は、聖家族を卑俗的に描いたとしてバッシングを受け、ヴィクトリア女王が謁見するにいたるスキャンダルとなった。本作品はミレイのPRB時代における宗教画として研究がなされ、次のような解釈がなされてきた。幼少年時のキリストが手に傷を受ける場面を描くことによって、受難の予見を示す予型論的解釈と、英国国教会の高教会派に特徴的な建築様式を模した構図によって、画家が傾倒した宗派を示すという作品解釈である。これまで、作品自体から導き出される解釈がなされてきたが、本作品の受容論からのアプローチは十分ではなかった。本発表では、ヴィクトリア朝時代における主たる芸術需要者の中産階級による批評を分析し、当時の宗教画および流行していた風俗画と比較し、彼らが本作品から何を受け取ったのかを考察したい。
       《両親の家のキリスト》の批判で最も影響力があった記事は、文豪C. ディケンズのものであった。キリストを「泣きじゃくる寝間着を着た男の子」と、聖母マリアを「イギリスの最下級の酒屋にいる女」と表現し、登場する聖家族を社会的地位の低い人物として捉えている。また、19世紀イギリスの宗教画は、J. R. ハーバート《わが主の少年時代》やC. イーストレイク《幼子を祝福するイエス・キリスト》のような美しい姿のキリストや聖人達で、対象を理想化せずに描いたミレイのそれとは異なっている。一方、流行していた絵画は風俗画であった。イギリスの風俗画の特徴的要素として、「風刺的要素」と「同情的要素」があると言われている。例えば、D. ウィルキー《盲目のバイオリン弾き》やG. B. オニール《捨て子》が挙げられる。前者は貧しい家族がバイオリンの音に慰められる場面で、後者は捨てられた孤児を役所でいかに扱うか議論されている場面である。貧民層の生活や私生児・孤児の社会問題を扱う風刺的要素と、それに対する慰めや孤児への哀れみの同情的要素がみられる。《両親の家のキリスト》も、このような風俗画として受容された可能性がある。つまり、本作品からは貧しい大工の家族という風刺的要素と手に傷を負った少年とそれを悲しむ母親という同情的要素が見出される。本作品は一旦、貧しい家族を描いた風俗画として見なされるが、実はそれは聖家族を描いた宗教画であったため、鑑賞者は嫌悪し、非難を浴びせたのではないだろうか。聖なる存在が、芸術需要者の中産階級よりも劣った存在として捉えられていた同時代の下層階級の人物として現実味を帯びて現れたといえる。