平成30年度 活動報告

 
 
 
 


<第98回大会> 2018年7月7日 土曜日(於 西日本シティ銀行・本店 7階)




     
  • ラファエル・コラン《眠り》をめぐって――新出作品紹介と考察
    三谷理華(静岡県立美術館)
  • ……………………………………………………………………………………………………
    フランスのアカデミスムの画家、ラファエル・コラン(1850-1916)は、《眠り(Sommeil)》と題した作品を、1893年フランス美術家協会サロン、及び1900年パリ万国博覧会に出品している。この作品の図像や1892年の年紀は、万博の絵入りカタログなどの同時代複製図版から判明してはいた。ただ、作品自体の所在は知られておらず、手がかりとしては、万博カタログにある「スミス夫人蔵(Appartient à Mme Smith)」という記載のみであった。 作品自体は所在不明とは言え、しかし、コランの《眠り》は、同時代複製図版が明治の日本洋画を語る際にしばしば参照される、美術を通じた日仏文化交流を検証する上での重要作の一つとも目されてきた。コランに師事した二人の弟子、黒田清輝は1907年に《野辺》(ポーラ美術館蔵)と題した作品を、岡田三郎助は1917年に《花野》(佐賀県立美術館蔵)という作品を描いているが、これらはいずれも図像の類似性から師の《眠り》を踏まえた作と考えられたためである。 この行方知れずであったコランの《眠り》に関し、発表者はこの度、その所在を確認し、調査を行うに至った。万博カタログの所蔵者記載からスタートして、フランスに保管される関連公文書等から得られる情報を分析し、作品の足取りを追うことで、現所蔵者を突き止めることに成功したのである。したがって本発表ではまず、一世紀以上の時を経て再び姿を現した《眠り》を、画家の新出作品として、知り得た情報とともに紹介する。 続いて本発表では、《眠り》という作品の特質や作画意図に関する考察を進める。これに際しては、二つの主たる段階を想定している。まず初めに、この作品が発表された1893年サロンでの批評を分析し、当時の鑑賞者の注意を引いた点について探ってみる。この分析を通じては、同時代人の捉えた《眠り》の絵画的特質を浮き彫りにすることはもとより、そこから翻って本作における画家の試みをも推量し得ることが期待される。この過程では、並んで言及された他の画家の同年サロン出品作や上述の日本人洋画家の作品との比較も随時取り入れ、《眠り》特有と言える点をより鮮明とすべく努める。これに続く次段階では、コランの別の《眠り》(ルーアン美術館蔵)との比較を行うことで、その画業における本作の位置付けを検証する。コランのサロンデビューは1873年であるが、この時も《眠り》という同じ主題の作品を出品している。この《眠り》出品時のサロン批評の分 析を行い、結果を1893年サロンの《眠り》のそれと比較検討することで、デビューから20年後に画家が同一主題の作品でなした試みについて探究する。 新出の《眠り》に関し以上の分析を行った後、本発表では最後に結論として、コランの画業における本作品の意味合いやそこから導き出される意義について言及し、「幻」の作品ながらもしばしば引用される特異な存在であった要因の一端を示すことを試みる
    
    
  • 南インド・アーンドラ地方南部、タミル地方北部における5〜7世紀の 宗教美術史の様相—南インドの宗教美術史の構築へ向けて-
    永田郁(崇城大学)
  • ……………………………………………………………………………………………………
       南インド・アーンドラ地方の宗教美術の展開を考えた際、古くはアショーカ王がマウリヤ朝期のアマラーヴァティー大塔の創建に遡り、その後2世紀以降、サータヴァーハナ朝が支配していたデッカン北西部から東方のアーンドラ地方に逃れて、その王朝の再興をはかった。その後イクシュヴァーク朝に引き継がれ、4世紀まで存続し、当地は2世紀以降4世紀にかけて、上記のサータヴァーハナ朝・イクシュヴァーク朝の両朝のもと、仏教芸術を開花させた。南インド・アーンドラ地方を支配していたイクシュヴァーク朝は南方タミル地方のパッラヴァ朝によって滅ぼされる。南方のパッラヴァ朝においても4〜5世紀の情況についてははっきりしていなく、その後6世紀後半にシンハヴィシュヌによって再興され、7世紀前半以降、マーマッラプラム、王都カーンチープラムを中心にパッラヴァ朝におけるヒンドゥー教美術も開花していく。 上記、南インド・アーンドラ地方、タミル地方の王朝史を概観したが、特に南インドの王朝史において、4〜5世紀の期間についてはその様相は未だはっきりせず、宗教美術に関してもその造形活動や寺院の造営などその様相が不明確な部分が多い。特に南インド・アーンドラ地方のイクシュヴァーク朝が滅亡した以降および、タミル地方のパッラヴァ朝の7世紀までの、特に4〜6世紀の情況が遺構・遺物で跡付けられない情況にあり、従来当地における宗教美術の報告・研究はあまりなされていない。 しかしながら、4〜5世紀においてタミル地方を統治したカラブラ朝の諸王はジャイナ教を信奉しつつ仏教も庇護していたようである。タミル語による叙事詩である『マニメーハライ』には5世紀のカーンチープラムは仏教の中心地であり、仏教寺院が繁栄する様子が伝えられ、また7世紀にカーンチープラムを訪れた玄奘は「伽藍(仏教)は百余カ所・・・・・天祠(ヒンドゥー教)は八十カ所」と記されており、文献資料は4世紀以降もなお仏教、ヒンドゥー教の活動が当地において盛んな様子を伝えているが、遺跡・遺物については明らかになっていない。従って、この期間が南インドの宗教美術の歴史において、まさに「ミッシングリンク」と言えるのである。 そこで本発表は2016年1月に実施したアーンドラ地方南部からタミル地方北部のフ現地調査に基づき、上記の「ミッシングリンク」の時期、特に5〜7世紀の当該地域の遺跡(石窟寺院・馬蹄形寺院)・出土品を取り上げながら、上記文献資料が伝える情況について検証を加え、この空白の時期、地域、すなわち、南インドの宗教美術史のアーンドラ地方からタミル地方の展開の様相(仏教・ヒンドゥー教を含めて)を可能な限り明らかにし、南インドの宗教美術史の構築へ向けての一助とすることが本研究の目的である。
    
    
  • 幻住派の絵画の一側面: 絶際永中筆白衣観音図をめぐって
    李宜蓁(九州大学)
  • ……………………………………………………………………………………………………
    幻住派の絵画といえば、一連の中峰明本自賛像が想起されるが、中峰と同時代を生きた絶際永中筆とされる白衣観音図もきわめて重要である。絶際は、死関と呼ばれた高峰原妙の会下で中峰と修行した同門の禅僧で、呉門幻住庵を二人で営んだこともある。現在、絶際筆とされる白衣観音は4点が知られ、「幻住永中筆」の落款を有する真筆のクリーブランド美術館本をはじめ、無款の藤田美術館本、東京・個人蔵本、大阪・個人蔵本の伝称作では、いずれも中峰が署名する賛文を伴っている。白衣観音像をめぐる二人のコラボレーションには、如何なる意図があったのだろうか。 図像と賛文の内容を検討すると、一連の白衣観音像では、修行者としての観自在菩薩と救済者としての観世音菩薩という二つの観音像の絵画伝統の違いが意識され、双方のイメージが重なりあう形象となっているのがわかる。坐禅しながら白衣の裾を風に翻らせるクリーブランド美術館本では、悟りを求める観自在菩薩の形象には、中峰賛に説かれる「塵塵刹刹播慈風」の一節と対応し、慈風を吹かせて他者を救済しよとする観世音菩薩の働きが重ねられている。一方、藤田美術館本を含む他の三点では、観音を立姿にあらわしながらも、両手に坐禅と同じ手振りを残している点に大きな特色がある。立像によって他救済の強い行動性を示しながら、ここでは、悟りを求めるという修行者としての観音の形象も留められている。さらに、この三点の作品では、いずれも中峰の賛文で、観音が孕むこの両面性に触れている点も興味ぶかい。絶際筆とされる一連の白衣観音像は、「幻住」を標榜し、悟りの境地を求めながらも現実の世俗世界に対して積極的に関与していこうとする幻住派に特有の絵画表象となっているのである。 一連の白衣観音像は、細部の意匠や筆描形式も、幻住派の思想と関係がある。宝冠を着けず瓔珞などの装身具も簡素な姿には、中峰の隠遁的な禅が根本としていた頭陀行が連想され、白描体を基本とする造形には、士大夫層や在地の有力者の支援を受けた幻住派に相応しい筆描形式が選択されている。さらに必要最低限の墨線のみで描かれている絶際の表現に独自の白描体が認められるならば、そこにも我々が住んでいる世界の万物をすべて幻と認 識する幻住の思想が投影されているといえよう。幻住派に特有の観音像の創作、そこに白衣観音像をめぐる中峰明本と絶際永中のコラボレーションの真意があったと結論づけたい。
    
    
  • 11代将軍徳川家斉期の婚礼調度に関する基礎研究
    野口朋子(昭和音楽大学)
  • ……………………………………………………………………………………………………
    近世武家の婚礼調度については、家紋付蒔絵調度がその中心を占めることから、従来漆工史の分野で研究がなされてきた。特に国宝「初音の調度」をはじめ3代将軍徳川家光(1604-1651)の拝命により幸阿弥長重が携わった調度群は近世前期の基準作かつ婚礼調度の最高峰と見なされ、小池富雄氏による詳細な論考がある。以降の作例については家光期を凌ぐものは見られず、総体的に現存例が乏しいことから、高橋あけみ氏による蒔絵意匠の変遷に関する総括的研究のほかは、個別の事例紹介にとどまることが多く、歴代将軍にゆかりの婚礼調度が考察の対象となることは少なかった。 一方で、11代将軍徳川家斉(1773-1841)には子女が多く、53人の子供のうち12人の娘が他家へ嫁している。これについて血縁関係による大名統制といった政治的意図や経済史の観点から論じられることはあっても、将軍家が誂えた婚礼調度の、モノとしての質や規模、美術史的位置付けについて総体的に論じられたことはなかった。家斉とその義母弟で御三卿の一つ田安斉匡(1779-1848)はともに子福者で知られ、一つの家、しかも近世武家社会の最高権威である将軍家とその身内である御三卿が、ある一定期間に多くの婚礼調度を誂えたことは、その時代の武家の婚礼調度の基準をはかるにふさわしい研究素材といえる。 本報告では、家斉と斉匡の娘たち数十名のために誂えた婚礼調度のうち葵紋付蒔絵調度を対象とし、器物・文献の双方から出来得る限り資史料を収集し、各々にみる蒔絵意匠の特徴と共通性、将軍家と御三卿との類似性と相違性等について考察する。 今回の調査により婚礼調度の主要な蒔絵意匠が明らかとなったのは六種であり、いずれも唐草に何らかの表象を織り交ぜたものであった。なかでも「松唐草」は家斉娘の1人、斉匡娘の3人に共通する意匠で、この4人の婚姻年代には約20年の開きがあるが、技法・技術とも近似しており、明らかな年代の差異、家格の相違は見いだせない。これが意味することについて考察したい。 また諸藩が献上した婚礼調度を列記した史料「献上留」について、3人の娘に関するものを分析し比較検討することにより、各々主要な意匠は異なるものの、それ以外の調度はほぼ共通することが判明した。唐草御紋や吉祥模様など汎用性のある仕様の調度は御細工所で大量生産し、どの娘にも割り当てられるようなシステムが整っていた可能性を指摘したい。特に娘の多い家斉・斉匡の場合、複数人の縁組時期が重なる場合も多く、婚礼に至る諸手続は同時進行で進められており、その際に上記のシステムは有効となるのではないだろうか。 また、現在私たちが展覧会や出版物で目にする武家の婚礼調度は、現存する優れた調度品をつなぎ合わせたイメージ、すなわちあらゆる要因による経年から抽出された上澄みであることを、文献記録から確認し、往時の姿を明らかにしたい。
    
    
  • 欧米博物館における等身大人形の展示-民間の交流による安本亀八作品の寄贈-
    本田代志子(福岡教育大学)
  • ……………………………………………………………………………………………………
    本発表では、19世紀末から20世紀初頭の欧米の博物館で日本紹介に用いられた等身大人形について、特に民間の交流による安本亀八三代目作品寄贈の事例を取り上げ、以下の点から展示用人形の役割、作品寄贈の経緯、人形師安本亀八の活動状況を明らかにする。  まず、欧米の博物館での日本紹介の等身大人形の歴史を振り返る。1870~1910年頃にかけ、欧米では日本の美術工芸品や民俗資料への関心が高まり、個人収集家のほか、各地で設立が始まった博物館の館長らによって収集がなされた。その際、等身大人形は、甲冑や着物のためのマネキンとして、同時に日本人の顔貌を伝えるものとして展示に用いられた。ここでは、アメリカのスミソニアン博物館、ブレーメンの海外博物館、フライブルクの民族学博物館の事例を中心に、風俗の紹介のための展示人形の役割を明らかにする。 次に、その展示の質を改善するために、民間の交流によって展示用人形が寄贈された経緯を明らかにする。19世紀末より日本人が技術や文化の習得のために世界各地へ赴き、国際的な友好関係が深まっていった。そのなかで、博物館の日本展示において誤解や混乱が存在する状況に接した日本人が、正しい理解と友好を促すために人形を寄贈したのである。イギリスのケルヴィングローブ博物館(グラスゴー)では、日英協会が1915年に安本亀八の成人男女の像を寄贈した。アメリカ合衆国のカーネギー博物館(ピッツバーグ)では、渋沢栄一が現地を訪問した際に、展示に付随する人形の服装が時代や身分に相応していないことに落胆し、1922年に安本亀八の女性像を寄贈した。博物館の設立から時代を経て、正確で質の高い展示が求められるようになり、現地に赴いた日本人が、日本文化の紹介に積極的に関わりをもつ段階になったと言える。 さらに、これらの状況で安本亀八が制作を依頼された要因を明らかにする。この安本亀八は幕末から明治、大正へと続いた生人形師の三代目である。1910年代前後は、デパートのマネキンや国内外の博覧会の風俗人形を手がけた頃で、その活動内容を軸に財界人との繋がりを検証する。また、海外博物館での展示という目的のため、人形制作の方法や方針がどのように決定されたのか、他の博覧会に出品された風俗人形の時代考証などをふまえて考察する。  以上により、民間の交流をもとに日本理解の促進のために作品寄贈がなされたこと、博物館の展示人形は質的向上が求められた時期であったこと、人形師安本亀八の活動において風俗人形とデパートのマネキンが密接に関連していたといえる。
    
    


    • <第7回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「ピーテル・ブリューゲル(父)作《死の勝利》―「葬儀」の場面についての一考察―」
      香月比呂(九州大学大学院)

    •     授賞式では、まず西本委員から選考委員が紹介された。
        下村耕史委員長が第7回デアルテ賞受賞者を発表し、選考経過と受賞理由が読み上げられた。
        学会前日の北部九州豪雨の影響で、受賞式に出席できなかった受賞者の香月比呂氏に、賞状と副賞が後日授与される予定。
       【2018年7月28日:追記】
       後小路代表により、香月氏に賞状と副賞が授与された。その様子は『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。





  • 見学会

    西日本シティ銀行のコレクション
    案内:清家尚美氏(福岡文化財団)
     


    <第99回大会> 2018年11月24日 土曜日(於 熊本県立美術館分館)

    
    
    
    

       
    • 1920年代大連における東洋趣味の表現−−大連勧業博覧会の中国美術展示をめぐって
      郭懿萱(九州大学)
    • ……………………………………………………………………………………………………
       1925年、日本最初の植民地博覧会として、日本の租借地であった大連市において大連勧業博覧会が華々しく開催されている。本発表は、同博覧会で行われた美術展のうち「古代美術」、「中華現代画家」、「工芸美術」各部に出品された「中国」美術に注目し、そこに見られた日本の東洋趣味について考察し、満州での美術活動が近代の日中美術交流においてどのような位置を占めるのかを明らかにしたい。  大連勧業博覧会の主催者は、ほぼ大連在住の日本の経済人、弁護士や満鉄(南満洲鉄道)社員、ジャーナリストといった日本人新興層であった。日本の、大陸進出の拠点となった大連に移住した彼らは、多くの中国古美術を収集し、同博覧会の「古代美術」部門に蒐集品を出品した。本発表では、現在、各地の美術館に収蔵されている大連ゆかりの美術品を検証し、その収集傾向を考察、1920年代の大連が日本人の東洋趣味の揺籃の地の一つであったことを指摘する。  次に、近代日中美術の展開において、東洋趣味にあふれた同博覧会が果たした役割を考察する。書画については、当時のスローガンであった「日華共存共栄論」の具体化を計るため、博覧会の主催者が、1920年代に日中の各都市で行われていた日華連合絵画展の中国側主催者で、伝統的な画風の団体であった中国画学研究会を「中華現代画家の部」に招待した。20世紀初頭、社会の変化と西洋近代美術の影響を受け、近代中国の伝統画派にとっては、新たな市場を開拓することが急務であった。大連勧業博覧会とその4年後に大連に巡回した第5回日華連合絵画展を見れば、東洋趣味を好んだ大連の新興層が、伝統的な画家にとって新たな観衆であり、買い手となったことが分かる。  さらに、東洋趣味は、書画だけでなく、工芸美術にも見られる。小森忍(1889-1962)を審査員とした「工芸美術の部」の出品作品の多くは中国古陶磁の模作である。このことは、当時の日本政府が、殖産興業を目的に中国美術を競って集め、満州を中国古陶磁の模倣作を製作する実験地としたことを反映するものである。また、同博覧会は「日華共存共栄」を標榜するものの、日本の統治がもたらした産業と教育、文化の発展を強調するため、その内実は、日華を差異化した上で、日本の優位性を演出する傾向を持っていた。こうした傾向は、「工芸美術の部」だけでなく、日本人の現代絵画を展示した「東洋画の部」「西洋画の部」にもうかがえる。そこでは、伝統墨守の中国人の絵画と対照的に新しいスタイルの日本の絵画が展示されたのである。そのように、博覧会における日本の東洋趣味は、日本の優位性のうえに成立するものであったと考えられる。  以上、本発表では、大連勧業博覧会が、大連の新たな日本人支配層の間に流行していた東洋趣味と密接に関わるものであったことを明らかにするとともに、こうした東洋趣味も単純な中国美術愛好ではなく、日中間の差異化と日本の優位性を示す役割を果たしたと結論付ける。
      
      
    • 豊前・曼陀羅寺の当麻曼荼羅−証空との関わりを中心に−
      中川満帆(九州大学)
    • ……………………………………………………………………………………………………
          西山浄土宗寺院・曼陀羅寺(福岡県京都郡みやこ町)に伝来する当麻曼荼羅(以下、本作または曼陀羅寺本)は、その制作が中世に遡る浄土教絵画の優品としてよく知られている。しかしながら、本作に特化した論攷は未だ無く、当麻曼荼羅に関する先行研究の総括的意味ももっていた「特別展當麻寺」(平成25年、於奈良国立博物館)においても本作は紹介されていない。加えて、従来南北朝時代とされてきた制作年代にも再考の余地がある。そこで本発表では、曼陀羅寺本を図像と様式から分析し、その制作年代が鎌倉時代前期まで遡りうることを明らかにするとともに、中世以降盛んに制作された当麻曼荼羅の作例群中に位置付けることを目的とする。  まずは本作の図像的特徴を確認する。画面中央の大区画には阿弥陀三尊を中心とした西方極楽浄土の荘厳たる景観が描かれ、その右辺には王舎城悲劇譚、左辺には十三段階からなる浄土の観相方法、そして下辺には生前の行いに応じた九種類の往生のあり方が示されており、この構成の大枠は当麻寺所蔵の綴織当麻曼荼羅(以下、根本曼荼羅)をはじめとする一般的な当麻曼荼羅と等しい。だが、下辺部に描かれている来迎阿弥陀と聖衆らには違いも認められ、根本曼荼羅が坐像であるのに対し、本作では立像にあらわされる。これは西山上人証空(1177-1247)が考案した図像とされており、本作もこの証空系統に属することがわかる。  続いて本作の様式を分析すると、肥痩のない描線とその自在な使い分け、緻密な截金、一尊ごとの描き分けや動静豊かな群像表現、的確な奥行きの把握等、といった鎌倉仏画の特徴的な表現と、紺丹緑紫の配色や繧繝彩色、文様帯に輪郭を朱線とする表現を採用するといった平安仏画的要素が共存していることが指摘でき、制作年代は鎌倉時代も初期に遡ると考えられる。また、本作の優れた出来栄えは当該期の作例の中でも際立っており、制作地は畿内であるとみてよい。  曼陀羅寺本の伝来については、元亀3年(1572)の同寺開創にあたって西山浄土宗総本山の京都・光明寺からもたらされたという記録が遺るが、これは本作の制作地を畿内とみる発表者の見解とも矛盾しない。さらに光明寺は証空が第四世(1238-1247頃)を務めたとされており、本作の制作に証空ないしその周辺が関与したことも想定できる。  当麻曼荼羅の図像は、証空が縮約本の製作を含む模写事業を進めたことにより全国に広く普及したが、九品往生部分の図像を根本曼荼羅とは異なるものに改変した事情については現在も解明されていない。この問題の解明には、証空一派の規範としてきた来迎図を中心に鎌倉時代初期の来迎図の図像を整理し、その内容を総合的に検証してゆく作業が必要である。曼陀羅寺本はその制作が証空在世時に遡る可能性がある現存唯一の当麻曼荼羅であり、こうした問題を明らかにしうる重要な鍵となる作例と評価できるのではないだろうか。
      
      

    • 見学会

      熊本県立美術館
      案内:有木芳隆