平成31年/令和元年度 活動報告
<第100回大会> 2019年7月6日 土曜日(於 九州大学伊都キャンパス 日本ジョナサン・KS・チョイ文化館)
- 橋本関雪と「木蘭」―描かれた「中国」と日本近代―
中島由実子(福岡県立美術館)
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橋本関雪(1883-1945)は明治から昭和にかけて活躍した⽇本画家である。関雪は 1930 年代以降多く描いた動物画による評価が⾼いが、その画業において多くの中国故事や漢詩に取材した作品を制作している。中でも 1918 年、第 12 回⽂展に出品された《⽊蘭》は、漢詩「⽊蘭辞」を主題とした作品である。「⽊蘭辞」は、5 世紀に北魏で歌われた⾺上軍歌から成⽴し、男装した少⼥が年⽼いた⽗親の代わりに戦場で活躍するという物語の爽快さから、現在に⾄るまで演劇や⼩説、映画など様々な形で、世界中の⼈々の⼼を掴んできた。関雪は、2 年後に同主題の《⽊蘭詩》、《⽊蘭詩巻》の 2 作品を制作しており、この主題に対する関⼼の⾼さがうかがえる。発表者は、1918 年の《⽊蘭》を対象とし、作品研究から関雪の中国観について研究してきた。2017 年 1 ⽉に提出した修⼠論⽂において、関雪作品と同時代の他の画家による「⽊蘭辞」主題作例との⽐較を通して、近代⽇本における「⽊蘭辞」受容について、そして同時代の⽇本における中国受容について考察し、《⽊蘭》に⾒られる関雪の中国観、中国表象について検討した。本発表では、修⼠論⽂の内容に、新出資料と《⽊蘭詩》に⾒られる⼈物表現についての新たな考察を加え、《⽊蘭》から関雪の中国観が作品にどのように反映されているかを⽰すことを⽬的とする。
そのために、関雪を含む同時代の画家の間で、「中国」⼈物像としてある程度共有されたイメージがあった可能性を指摘した上で、関雪の「⽊蘭辞」の受容をその⾔説から考察し、作品の表現に照らし合わせ、他の画家の同主題の作例と⽐較して「⽊蘭辞」の表現の差異を⽰し、この差異から関雪の「中国」受容と表現の特異性について考察していく。
まず、関雪の「⽊蘭辞」についての発⾔から、詩の「対照の好き変化」、「詩的な、ロマンチックな」、「場⾯の変化」という 3 点に⾯⽩さを感じて制作を⾏っていたことを⽰す。そして、同じく「⽊蘭辞」を主題とした作例である横⼭⼤観《⽊蘭》、吉村忠夫《⽊蘭》について⽐較検討し、関雪の《⽊蘭》は⼈物像以外の要素が多く描きこまれている点、屏⾵である点、より新しい時代の服飾で描かれている点が⼤きな特徴であることを⽰す。さらに、中林⽵渓の《⽊蘭従軍図》を取り上げ、関雪が《⽊蘭》を描く際にその作品を参照したことを明らかにした上で、これら 3 作品との差異をふまえ、関雪の制作意図について検討する。結論として、橋本関雪の《⽊蘭》には、当時の異国趣味としての「⽀那趣味」と、漢学の素養としての「⽀那趣味」の双⽅が反映されていること、中国への⾼い関⼼と豊富な知識を持ち合わせた関雪の中国観が⽰された作品であり、近代⽇本画家の中国観を⽰す作例として評価できることを述べる。
- ブリューゲルの12ヵ月図
平岡洋子(目黒学園カルチャースクール)
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ピーター・ブリューゲルの連作画『12 カ⽉図』には、100 年以上にわたる研究史を経てなお⼀致した⾒解に達していない問題がある。①主題は『12 カ⽉図』なのか『季節画』なのか、つまり、6 枚のパネルに描かれた農作業は 12 ヵ⽉の各⽉を表すのか、6 つの季節を表すのか、②6 枚のパネルはどの順序で展⽰されたのかという 2 つの問題である発表者は、展⽰順序については『ルネサンス美術館』(⼩学館、2008 年刊)のコラムで、また連作全体の構成と注⽂者の意図については 2012 年にニュルンベルクで開催された国際美術史学会で発表した。現在のところ主題は『季節画』という説が広く採⽤されているが、発表者は連作画を『12 カ⽉図』と⾒ている。ニュルンベルクの発表では 20 分の発表時間という制約のため主題は 12 カ⽉という⾒⽅の根拠を詳しく披瀝する機会を得なかった。今発表ではこの点を詳しく述べたい。
『季節画』説を主張する研究者たちは、「各パネルに描かれた農作業が何⽉を表したものかを同定するための根拠とした同時代の時禱書や政務⽇課書を⾒ていくと、⽉と農作業の対応関係は確⽴していない。したがって各パネルに何⽉が描かれているかを厳格に同定するのは困難である。ブリューゲルは各パネルに厳密な意味で何⽉を表すという農作業を描いたのではなく、季節の代表的な労働を描いて⾃然の推移を表した」と述べている。
発表者は、中世の時禱書カレンダー画の研究者、ペリーヌ・マヌとジョルジュ・コメの研究から、カレンダー画の各⽉の農作業選択には定番の農作業⼀覧が存在することを⽰す。ペリーヌ・マヌとジョルジュ・コメは、フランス中世の時禱書、政務⽇課書、教会建築の装飾に描かれたカレンダー画の農作業の統計を取った。そして、定番となった農作業⼀覧が存在することを述べた。両者によると、カレンダー画の⽉を表す代表的な農作業選択には古代以来の伝統があり、カロリング朝時代に変化が起こったものの、中世にも引き続いて古代以来のモデルが踏襲されつつ変化して農作業選択の定番が確⽴されていったという。コメは、定番⼀覧に合致しない組み合わせが⾒いだされる場合、カレンダー画が描かれた地⽅の季節の推移のズレが作⽤している場合があること、さらに他にもズレを引き起こす何らかの経済的社会的⽂化的な要因があることも考え合わせるべきだろうと指摘している。
発表者は、時禱書カレンダー画の定番農作業⼀覧とフランドル 15、16 世紀のシモン・ベニングによる時禱書カレンダー画を⽐較対象として、ブリューゲルの各パネルの農作業の⽉同定を⾏った。次に、ブリューゲルの農作業選択の特徴を挙げ、ベニングや定番農作業とのズレが⽣じている点について、その意味するところを考察した。
- エミール・ノルデと日本
藤本真帆(福岡県立美術館)
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ドイツ表現主義を代表する画家のひとりであるエミール・ノルデ(1867 - 1956)は油彩画のみならず⽔彩画や版画においても傑出した才能を発揮した。ノルデの作品、とりわけ⽔彩画に⾒られる⾃由闊達な線や巧みに省略された事物の洒脱なフォルム、滲みの多⽤、和紙の使⽤などは、ときに東アジア美術の影響を想像させるものですらある。実際にノルデは 1913 年に⽇本を含めた東アジアに滞在している。しかし、それらがあくまでラバウルを⽬的地とした学術調査団(ドイツ領ニューギニア医学・⼈⼝論的探検隊)の旅程の途中であることやノルデの⽇本や東アジアへの⾔及がさほど多くないことなどからこれまでノルデとオセアニアとの関係ほどには詳細には調査・研究されてこなかったといえる。そのため、本発表では、以下の 3 点を中⼼にノルデの⽇本滞在およびノルデと⽇本の関係について考察する。
1 点⽬はノルデの⽇本滞在⽇程の詳細な検討である。刊⾏されているエミール・ノルデや妻アダ・ノルデの⾃伝、書簡、講演録などの記述に加えて、ハンブルク⼤学が所蔵するシーフラー夫妻宛書簡や当時の配船表・鉄道時刻表を参照することで、1913 年 10 ⽉ 20 ⽇頃に⽇本に⼊国し、22 ⽇に東京を訪れ、3 ⽇に⻑崎から出国する 2 週間ほどの⽇本滞在であったことを⽰す。あわせて、当時、ノルデがどのような⽇本美術・東洋美術の作品を⾒た可能性があるかをノルデの⾃伝やノルデが⽇本で出会ったカール・ヴィートの⾃伝の記述なども⼿がかりに考察する。
2 点⽬はノルデ財団が所蔵する⽇本に関わるノルデの遺品の分析である。ノルデ財団には、浮世絵、能⾯・狂⾔⾯、⼩ぶりの仏像や⼈形などが残さており、その⼀部は展覧会図録『Emil Nolde: Puppen,Masken und Idole』に掲載されているが、本発表では実際に調査できた浮世絵と能⾯・狂⾔⾯について同定し紹介する。
3 点⽬はノルデと和紙の関係である。ノルデが東アジア滞在で得たものとして、和紙や中国の藁紙などがあげられることもあるが、実際にはノルデの和紙の使⽤は東アジア滞在に遡るものであり、また当時の版画における和紙の使⽤などもあわせて考えるべきであることを⽰す。
これまでエミール・ノルデにおける異⽂化受容についてはオセアニアとの関係が中⼼であったが、実際に⽇本に滞在した画家としてエミール・ノルデは⽇本⽂化受容の貴重な例でもある。本発表では、先⾏研究にみられるノルデとオセアニアの関係とも⽐較しつつ、上述の 3 点を調査・分析を通じて、その受容の様相を⽰す。
見学会
見学会(工学部壁画など)
見学会説明会 後小路雅弘(九州大学)
「九州大学とアート」見学会(工学部壁画など)
懇親会
於 イトリ・イト
<第101回大会> 令和元年12月7日 土曜日(於 長崎県美術館)
- 岡本太郎のパブリックアート作品の地域における受容―佐賀県有田町の《花炎》を事例として―
安森大樹(崇城大学大学院)
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戦後の日本で前衛芸術家として活動した岡本太郎(1911〜1996)は、美術作品を制作するだけでなく、執筆活動やインダストリアルデザイン、テレビへの出演などを通して当時の美術界や社会に多大な影響を与えた。パブリックアート作品に限っても、1952年制作の《創世》を皮切りに、死去する1996年までの約40年間に140点以上のパブリックアート作品を手がけており、その表現形態もモザイク画、壁画、彫刻、インスタレーション、記念碑など多岐に亘っている。したがって岡本芸術、特に後半生の彼の芸術を理解するには、パブリックアート作品に関する研究や考察は不可欠と言える。また、岡本は「芸術は大衆のもの」と考え、芸術の専門家や愛好家ではない一般の人々に向けて発言や活動を行なってきた作家であるため、岡本芸術の理解、評価には、大衆が彼の作品をどのように受容したかを把握することも不可欠である。
しかし、岡本の後半生、特に晩年の芸術活動や作品に関する研究は、未だ十分になされているとは言い難い。岡本のパブリックアート作品の一つであり、また遺作でもある佐賀県有田町「歴史と文化の森公園」にある《花炎》についても事情は同じである。同作品は、直径約20mの花型の池の中に配された、高さ約7mの炎のような形態の造形物(ブロンズ製)と、それを取り囲むように配された六つのカラフルな花の造形物(磁器製)から成っている。本発表では、研究対象作品を九州にあるこの《花炎》に絞り、それがどのような背景、経緯で岡本に依頼され、またどのようなテーマで制作されたのか、そしてその作品は岡本が自身の芸術の受容者とした一般の人々、ここでは特に作品を設置した地域の今日の人々に受容されていると言えるのか否かを解明してみたい。
同課題の解明に先立ち、まずは本発表における調査・研究の前提である「パブリックアート」について、同用語に関する先行研究をもとに、パブリックアートの歴史と定義の概観、確認を行う。次いで、岡本のパブリックアートに関する先行研究について概観し、彼のパブリックアート作品の研究の現状と課題の明確化を行なう。続いて、《花炎》自体に関する基本的事項、すなわち設置されるに至った背景や経緯、制作過程を解明したい。方法としては、《花炎》設置の契機となった「ジャパンエキスポ佐賀’96 世界・焱の博覧会」関連資料の収集、また、当時の関係者への聞き取りによる情報収集、また、当時の関連する新聞記事の洗い出しによって、同作品が設置されるに至った背景や経緯、制作過程を解明する予定である。次いで、地域による「受容」の有無、並びにその状況解明については、《花炎》の設置場所周辺で発表者が実施した《花炎》の今日の地域住民における受容に関するアンケート調査の結果を分析することで、同作品が地域に受容されているのか否かについて考察し、結論を導き出したい。
- 植民地期パンジャーブにおけるシク・アイデンティティの変容―創始者グル・ナーナクの肖像画を中心に―
池田篤史(学会員)
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今日、シク教の創始者であるグル・ナーナクの肖像画はシク教徒たちの間で非常に人気があり、インドのパンジャーブ州や在外コミュニティのシク教徒たちの寺院、家屋、店先などの壁に頻繁に掛けられている。本発表はそのように絵を壁に掛ける習慣の起源を19世紀後半の英領植民地期に求め、シク教創始者グル・ナーナクの肖像画を事例に、壁に掛ける教主の肖像画の登場がシク教徒たちの近代的アイデンティティの形成に与えた影響を明らかにするものである。本研究では特に植民地期パンジャーブで新たに形成された都市中間層の芸術庇護に着目し、ピエール・ブルデューの「文化資本」概念に依拠して議論を行う。
1849年のパンジャーブ併合と1957年のインド大反乱に続いて成立した英領パンジャーブ州では、ヨーロッパに由来する様々な制度や価値観が流入していた。この頃、パンジャーブ地方には西洋式の教育を受けた新興の中間層が現れ、19世紀前半のシク王国の王侯貴族に代わって、この地方の主要な芸術の後援者となった。彼らはこの時期に現れた新しい美術として、壁に掛けるグル・ナーナクの肖像画を所有するようになった。例えば、《詩文の外套を纏うグル・ナーナク》などは壁に掛けられていた可能性がある。その理由は中世の宗教写本画に起源を持つ伝統的な細密画の約二倍の縮尺で描かれているからである。この絵は現地語であるパンジャービー語で使用されるグルムキー文字で主題が書き込まれており、格の高い西洋風の様式で描かれていることから、新興の中間層のために制作されたと考えられる。このような新しい肖像画は当初は新中間層の集うサロンに置かれ、彼らの特権性を示す文化資本として機能していたとみられる。そして次第に寺院や一般のシク教徒の家庭に置かれるようになったと考えられる。
壁に掛けるグル・ナーナクの肖像画は、以下の二つの方法でシク教徒たちにとってアイデンティティの新たな拠り所となったと推測される。まず第一に、グル・ナーナクの肖像画は敬虔なシク教徒が身に着けるべきとされる5Kと呼ばれる装身具類を補完するものとなった。グル・ナーナクの肖像画を壁に掛けることは、周囲に対して自分がシク教徒であることを明示する行為であり、教義に厳格でないシク教徒たちを共同体に取り込むことが可能となった。第二に、これらの肖像画の中では、グル・ナーナクはほとんどの場合において四分の三面観で描かれている。これによって、基本的には正面観の彫像を崇拝するヒンドゥー教徒との差別化が図られ、同時に預言者の顔を描写することを禁ずるイスラム教徒とも異なる、独自の立ち位置をシク教徒たちは築くことができた。つまり、四分の三面観で描かれ、壁に掛けるグル・ナーナクの肖像画は、19世紀後半以降、シク教徒共同体の社会的結束を強化しているのである。
- 1930年代ベトナム絹絵に描かれたもの―グエン・ファン・チャン《オーアンクァン遊び》を中心に―
益田ひかる(福岡アジア美術館)
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1930年代初め、フランスの植民地であったベトナムで、絹に水彩絵具で描く「絹絵」が描かれ始めた。その後「絹絵」は描かれ続け、今日のベトナムでは、油彩画、漆画とともに絵画の主要なジャンルを成している。本発表は、この「絹絵」というジャンルの形成に大きく貢献したグエン・ファン・チャン(Nguyễn Phan Chánh、1892-1984)(以下、チャンと表記)に注目し、その代表作である《オーアンクァン遊び》(1931年 福岡アジア美術館蔵)の分析と考察を通して、ベトナム絹絵の成立状況とそのベトナム近代美術史上の意義について明らかにすることを目的とする。
ベトナム近代美術史は、フランス人画家であるヴィクトール・タルデュー(Victor Tardieu、1870-1937)が、1925年、ハノイに西洋式の美術学校を開設したことをもって始まる。ベトナム近代美術史を切り開いたのは、その初期の卒業生らであったが、第一期生の一人であるチャンは、教師らの助言を受けて絹地に水彩絵具で描き始めたと言われる。儒家の家に生まれ、書画に親しむ青年期を送り、教師生活を経て、32歳で美術学校に入学したチャンが、油彩画の技法や方法論になじめなかったことが想像されるが、結果として、チャンが、ベトナム絹絵という新たなジャンルをひとりで開拓したということが、ベトナム近代美術史の定説となっている
福岡アジア美術館所蔵の《オーアンクァン 遊び》は、現存するチャンの絹絵作品のうち最初期のものであり、ベトナム絹絵誕生の状況を物語る貴重な作例であるが、これまで本格的に学術研究の対象とされてこなかった。本発表では、まず、作品の基本的な情報について整理、検討し、その画題や技法について考察する。「オーアンクァン」が、アジアに広く伝わるマンカラに似たおはじき遊びであることは知られているが、それが描かれた状況や作品の背景について自分なりの見解を示したい。
1931年、パリで大規模な植民地博覧会が開催されたことはよく知られているが、その博覧会場の一隅に、フランス領インドシナの同時代美術、すなわち産声を上げたばかりのベトナム近代美術の初期作品が展示されたことはあまり知られておらず、その詳細については、明らかになっていない。チャンの作品はこの展覧会に含まれ、その展示を通してフランスに紹介され、好評価を得たことが当時の資料からわかる。チャンの初期絹絵作品に対するフランス側の評価が、ベトナムにおける絹絵というジャンルの形成に果たした役割について考察する。
結論として、「絹絵の創始者」という定説を検証し、画家グエン・ファン・チャンのベトナム近代美術史上に果たした役割について述べる。
- エクスカーション
大野教会堂(長崎市下大野町)
出津教会堂(長崎市西出津町)
旧出津教会堂(長崎市西出津町)
ド・ロ神父記念館(長崎市西出津町)
外海歴史民俗資料館(長崎市西出津町)