令和2年度 活動報告
<第102回大会> 2020年8月22日 土曜日(ZOOMによるオンラインでの開催)
- アングル《オシアンの夢》―1813年の完成時における構図の検討―
髙山 環(九州大学大学院)
……………………………………………………………………………………………………
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780-1867)の《オシアンの夢》(1813 年,油彩・画布,348×275cm,モントーバン・アングル美術館蔵)は、古代ケルトの伝説的な吟遊詩人オシアンが歌ったとされる叙事詩を主題とする作品である。フランス第一帝政が接収したローマのクイリナーレ宮殿を改装する事業において、皇帝ナポレオンの寝室の天井中央区画に設置するために制作された。しかし、帝政の終焉によって、完成後間もなく天井から取り外され、約 20 年後にアングルが買い戻した時には非常に傷んでいたという。画家はその後、本作を修復するだけでなく構図の変化やモチーフの削除、追加などを行い、画面を大きく改変しているのだが、それは本作にうっすらと残る改変前の痕跡や、画家の手記などから判断することができる。とはいえ、改変の正確な時期や場所、加筆の程度についての確たる資料がないうえに、本作の作品研究では改変後の構図を前提に議論が行われてきたせいもあって、1813 年に天井に飾られた本作がどのような姿であったのか、具体的に検証されることなく曖昧なままである。おおむね、トレース紙に描かれた 2 枚の全体構図の準備素描(ともにアングル美術館蔵)に基づくものであったことが痕跡との比較から認められてはいるが、素描以外の根拠は示されてこなかった。
そのために、関雪を含む同時代の画家の間で、「中国」⼈物像としてある程度共有されたイメージがあった可能性を指摘した上で、関雪の「⽊蘭辞」の受容をその⾔説から考察し、作品の表現に照らし合わせ、他の画家の同主題の作例と⽐較して「⽊蘭辞」の表現の差異を⽰し、この差異から関雪の「中国」受容と表現の特異性について考察していく。
本発表では、アングルの準備素描に対するラファエーレ・ステルン(Raffaele Stern,1774-1820)の批評と照らし合わせることで、改めて当時の構図を示す。そのうえで、アングルが当初、寝室の他の装飾との調和を意識して本作を制作せざるを得ない状況にあったことをふまえ、画家がどのような工夫によってその状況に積極的に対応したのかを明らかにする。
まず、本作の制作背景であるクイリナーレ宮殿装飾事業について、皇帝の寝室の装飾を中心に概観し、装飾全体に皇帝を称揚するメッセージが込められていたことを述べる。次に、難航した寝室天井中央画の主題選択について、改装によって宮殿全体が古代ギリシャ・ローマの伝説や歴史に取材した装飾に彩られるなか、主題の多様性を求めオシアンの主題が選択されたことを当時の資料を基に示す。最後に、紆余曲折を経てアングルに《オシアンの夢》が注文され、寝室の他の装飾が設置された後に制作が始まったことから、画家が、すでに設置されていた装飾の素材や表現、さらに建築的構造を考慮に入れて本作を制作していたことを述べる。特にホセ・アルヴァレス・クベーロ(José Álvarez Cubero, 1768-1827)による石膏パネルに薄浮き彫りを施したフリーズ装飾の人物たちと、本作後景の群像の大きさや色調を調和させるように工夫して描いていたことを明らかにし、アングルが寝室の装飾全体を統べる作品であることを意識して本作を制作したことを論じる。
アングルの《オシアンの夢》制作当初の構図と意図を明らかにすることは、のちの画家自身による改変の解釈にも寄与するはずである。
- アントニー・ヴァン・ダイク作《向日葵のある自画像》: 赤い服の男性肖像画とその継承
小笠原 美果(明治大学兼任講師)
……………………………………………………………………………………………………
アントニー・ヴァン・ダイク(1599-1641)は渡英して間もない 1632-1633 年頃、《向日葵のある自画像》を描いた。この作品についてはロバート・ウォークを皮切りにジョシュア・ブリュインとヤン・エメンス、近年ではジョン・ピーコックによって向日葵が暗示する意味に焦点をおく研究がなされてきた。しかし向日葵はヴァン・ダイクが伝えようとするメッセージの小道具の一つであり、向日葵以外のものにも意味を込めて描いていると思われる。本発表で注目するのは赤色の服である。そこで(1)ヴァン・ダイクが《向日葵のある自画像》の中で赤色の服で自らを描くに至った経緯と、(2)それを後世の画家がどのように解釈したのかを論じる。
ヴァン・ダイクは第二次イギリス時代(1632–1641)に最も多く赤色の服を着た男性肖像画を描いた。なかでも《チャールズ一世とヘンリエッタ・マライア王妃》の二重肖像画は《向日葵のある自画像》の直前に描かれ、当該の作品を描くにあたり画家にインスピレーションを与えた作品である。仮装劇を想起させるような半屋外の設定、金の鎖を示しつつ向日葵を自分になぞらえて自画像と並置する描き方から、ヴァン・ダイクは後に「ファンシー・ドレス」と称される赤の服を纏い、王(太陽)を信奉するという意味で向日葵とともに自らを描いたのである。
それでは、この作品は後代の画家にどのように継承されたのか。まず確認しておきたいのは、ヴァン・ダイクの死後、イギリスの詩人トーマス・フラットマン(1637–1688)が詩の中で画家を太陽として称賛していることである。自然の事物を正確に模倣できるこの画家に対する賛辞であった。ジョバンニ・ピエトロ・ベッローリ(1613–1696)による『芸術家列伝』でも、ヴァン・ダイクについてのタイトルページで模倣の天才であったことを擬人像で示している。すなわち肖像画家としてのヴァン・ダイクの評価は 17 世紀後半にすでに確立していた。こうしたヴァン・ダイクの評価を受けて、肖像画を得意とする後世の画家の中には、自画像を描く際《向日葵のある自画像》を参考として描く者が多くいる。構図やポーズだけではなく、赤い色の服で描かれている作品も多い。そこにはヴァン・ダイクと自らをひき比べて表そうとする自負心が垣間見える。イギリス宮廷において王の臣下であることを示すべくヴァン・ダイクが描いた赤色の服は、彼らにとって肖像画家の王を目指す色となったのである。
本研究により、ヴァン・ダイクが第二次イギリス時代において描いた肖像画に特徴的な「ファンシー・ドレス」について理解が深まり、後世ヴァン・ダイクが肖像画家としていかに評価されたかについて新たな視座が得られると思われる。
- ボストン美術館蔵「円覚経変相図」に関する再解釈―盧舎那仏図像の受容と儀礼の視覚化を中心に―
柳 尚秀(九州大学大学院)
……………………………………………………………………………………………………
ボストン美術館蔵「円覚経変相図」(以下、本図)は、『大方広円覚修多羅了義経』(以下、円覚経)を典拠として制作された 14 世紀初め頃の高麗仏画の優品として名高い。60 年代以降、本図に関する先行研究はいずれも高麗仏画としての認識を前提とするもので、1988年の石田尚豊氏をはじめ、藤本真帆氏、ユキオ・リピット氏、そして近年では常青氏によって行われ、主尊の尊格の特定、跪く菩薩形の機能が主に議論されてきている。
本図の主尊の図像解釈においては、毘盧遮那仏あるいは盧舎那仏と判断する二の見解がある。しかしながら、本図の主尊の図像を詳細にみれば、頭部には宝冠を戴き、耳には垂髪が確認され、手印は両肘から指先を外側に開き説法印をとっていることからして、菩薩形の盧舎那仏であるのは相違ない。こうした盧舎那仏の登場は、浙江一帯を中心に広まっていた天台宗の開祖である智顗が説いた三身仏思想に基づくもので、特に盧舎那仏の画像が菩薩形にあらわされるのは、中国では北宋代から南宋代にわたって定着する一方で高麗にも受容され、本図の主尊としてあらわされたことをはじめとし、本図の構成が、『円覚経』のみならず、高麗僧義天の師であった北宋の浄源が述した『円覚経道場略本修証儀』(以下、浄源本)という儀礼書の内容を反映していることを、発表者は、これまでに明らかにしている。この研究は、令和元年 5 月に開催された第 64 回国際東方学会者会議において「ボストン美術館蔵円覚経変相図─盧舍那仏の図像の変遷とその受容を中心に─」と題して発表し、令和 2 年 1 月刊行の英文紀要へ掲載されている。
本発表では、こうした研究に立脚しつつも、これまで高麗仏画の研究に充分に注目されてこなかった宗教画像としての儀礼的機能と役割という新しい観点から、本図の考察を深めていきたい。まず本図のディスクリプションを行い、以前の研究をふり返ながら、本図において儀礼的な要素がうかがえるモティーフとして跪く菩薩形のみならず他の儀礼的要素について議論する。続いて、本図の画面上に視覚化された儀礼のモティーフが浄源本とどのように結びつけうるのかを確認し、この図像が現実世界(此岸)と非現実世界(彼岸)を結ぶ媒介としての役割を果たす点に注目し、他の類似作例と比較検討することで、本図特有の図像の性格をただすことを試みる。そして、こうした儀礼的機能を内包する本図が、当時において、どのような文化と思想的風土の中で制作されたのかについて、その背景を明らかにすることを目的とする。
- 大通禅師(愚中周及)像について―画賛読解による摩頂像の意味―
城市 真理子(広島市立大学准教授)
……………………………………………………………………………………………………
佛通寺(広島県三原市)には、その開山である大通禅師すなわち愚中周及(1323-1409)の頂相(重要文化財/絹本着色/掛幅装/104.8 ㎝×42.0 ㎝/佛通寺蔵)が伝来している。
その像は、頭に手を置く姿―摩頂―で、他に類例がない、きわめて稀な像容である。自然木の倚子に座るということも、また、絵の最上部に「㘞」の一文字を置くのも異例の頂相である。これらは、何を伝えようとしているのだろうか。室町時代の肖像画では、その人の生き方を示すものを人物の側に描きこむことがしばしばなされており、本像の図様には特別な意味がこめられているはずなのである。本像は寿像で、愚中の自賛によって、小早川春平の求めに応じて制作されたものであるとわかる。応永 4 年(1397)、春平は佛通寺を建立するにあたり、当時、丹波の天寧寺住持であった愚中を請うて開山としたが、同寺の建立には、三原地域の小早川氏庶流が協力しており、一族の統括という目的があったという。同年は、愚中が数え年で 75 歳となり、本像はそれ以降が制作時期となる。
賛には、「教内教外 握土成金 愚中添些気力 空裏幻出鳳林 㘞一聲罷自摩頂 接響
付嘱順天心」とある。「摩頂」という言葉が使われており、この肖像では、まさに文字通りの姿で描かれている。この言葉には、『孟子』によれば、身をすり潰すようにして天下のために働くという意味がある。また、禅語としては仏が帰依者の頭頂を撫でるという意味でもある。画幅最上部の「㘞」の一文字もまた、愚中の自筆と思われ、これは「カ」と読み、もともと船を進めるときの「えいやー」というような声を表わし、禅宗では大悟徹底して、カッと発する一声であるとする。
もう一つ挙げられる特徴である自然木の椅子は、山中に隠遁する文人像や羅漢図などにしばしばみられる。愚中周及は美濃土岐郡(今の岐阜県)に生まれ、京都で夢窓疎石のもとで禅門に入り、さらに中国に渡って高僧・佛通禅師の侍者となり、29 歳で帰国した。帰国後は京都の南禅寺に寄寓していたが、山林隠逸を好み、33 歳で都を離れて各地の寺院を転々とし、より深い山中へと移り、43 歳の時に丹波の天寧寺に請われて住持となった。極めて厳格とされた愚中の禅風と、本像の自然木の倚子という図様は関連するものと発表者は考えている。
従来、本像の特異性は知られているものの、その図様の意味についての先行研究は特にみあたらない。本発表では、画賛の読解および関連する絵画、愚中の生涯や禅の特徴等から本像の図様の意味を解釈する。
- 総会
- 第8回『デ アルテ』論文奨励賞(令和2年度)授賞式
1)日野綾子「河鍋暁斎《山姥図》―図像と制作背景に見る明治期の暁斎―」
2)野口朋子「十一代将軍徳川家斉期の婚礼道具に関する基礎研究」
<第103回大会> 令和2年12月5日 土曜日(ZOOMを使用したオンラインでの開催)
- アジア太平洋戦争と松本竣介の「転向」
後小路 萌子(大分市美術館)
……………………………………………………………………………………………………
松本竣介(1912–1948)は、アジア太平洋戦争下の日本の美術史を語る上で、必ずと言っていいほど言及される画家である。その理由には、戦時下における彼の「生きてゐる画家」と題された文章と新人画会の活動が、彼の作品以上に、注目されてきたことが挙げられる。現在の松本竣介研究は、画家の内面に焦点を当てた村上博哉氏を嚆矢として、英雄視され、神話化されてきた画業を、あらためて一人の人間の画業として捉えなおす、いわば等身大の松本竣介像を明らかにする段階に入ったといえよう。
発表者は、これまでの研究史を踏まえ、松本竣介の 1940(昭和 15)年末の画風の転換に着目する。松本は 1930 年代後半には、二科会のなかでも新傾向の画家の団体「九室会」に所属し、いわゆる「都会シリーズ」と呼ばれる都市の情景を線によって描き、モンタージュ風に再構成した前衛的な作品を二科会に出品していた。しかし、1941 年以降、戦争によって二科会が中止されるまで、穏健なスタイルで描いた自画像を出品するようになる。この画風の転換については、その「前衛性」の後退から、戦時下における前衛画家の「転向」とも捉えられて、正面から向き合うことが避けられてきた。たしかに、この時期、前衛的傾向を追求していた画家たちのほとんどが、その「前衛性」を後退させた背景には、治安維持法の適応範囲拡大などによる言論統制や、国策に沿った作品制作を要求する国家権力の圧力があったことは間違いない。ただ、それを国家の圧力による前衛画家たちの「転向」とのみとらえることは一面的に過ぎよう。一見、「転向」したように見える作品にも、そこに刻み込まれた内発的な表現や自らの〈芸術的課題〉の追求を見ていく必要があると発表者は考える。
本発表では、戦時下における松本の「転向」を〈国からの要請〉と〈松本自身の芸術的課題〉が交差する地点として積極的に捉えなおす。そのうえで、画風の転換の詳細、同時代の社会状況や美術界、そして松本の個人的関心を見て行く。そうすることで、松本のこの時期の画風の転換が、ドイツによるパリ占領以後のフランス近代美術至上主義の反省という日本の美術界の流れの中に位置づけられること、またその作品に「独自的なものと普遍的なものの統合」という三木清のヒューマニズム論の反映がよみとれることを明らかにする。本発表を、戦時下の表現の問題、そしていつの時代にも存在しうる国家権力等による表現の統制というより大きな問題を考えるための一助としたい。
- 植民地期朝鮮の女性独立運動家による朝鮮美術論―申摩実那の「朝鮮美術」(『公道』1914 年 11 月)―
福井 慶丈(北海道大学大学院)
……………………………………………………………………………………………………
本発表は、植民地期朝鮮(1910 1945)の女性独立運動家・申摩実那(1892 1965)による朝鮮美術論である「朝鮮美術」(『公道』1914 年 11 月、pp.28 3 2【朝鮮語、漢字ハングル混用体】)の分析を通して、当該期の朝鮮における「美術」受容の一端を明らかにしようとするものである。植民地期の朝鮮美術論に関する先行研究には、一定の研究蓄積があるものの、特定の図式的な整理(伝統的芸術論か西洋的芸術論か、殖産興業寄りか芸術寄りか、など)が先行しており、資料の全体的な読み込み、および執筆背景との有機的な関連に基づく把握が不足していた。さらに、従来の研究では、安廓「朝鮮の美術」(『学之光』第号、1915 年 月、pp.47 52【朝鮮語、漢字ハングル混用体】)が、近代朝鮮において、最も早い時期に、芸術の一ジャンルとしての「美術」概念を導入した論説として、注目されてきたが、今回取り上げる申摩実那の「朝鮮美術」については、管見の限り、その存在すら指摘されていない。「朝鮮美術」が発表された雑誌『公道』は、1914 年 10 月に創刊された、社会・宗教・教育・学術を主とした総合雑誌で、編集者は、当時、培材学堂の教師をしていた独立運動家の姜邁である。申摩実那は 1914 年春に梨花学堂大学科を卒業した第 回卒業生で、卒業演説は「韓国〔朝鮮〕美術探究」であったというが、具体的な内容については不明である(梨花 100 年史編纂委員会編『梨花 100 年史』梨花女子大学校出版部、1994 年、p.113【韓国語】)。時期的に見て、『公道』に発表された「朝鮮美術」は、彼女自身の卒業研究と密接な関係があることは間違いない。よって、「朝鮮美術」は、当該期における先駆的な女子高等教育機関であった梨花学堂大学科の性格を推し量る材料ともなる。
「朝鮮美術」の内容は、冒頭で朝鮮美術の歴史的な変遷について総括的に述べた後、①建築術、②鋳造彫刻術(仏像、金工、石工、木彫)、③漆法、刺繍及陶磁器術、④絵画術、の順に論じていく、というものである。主要な特徴として、李王職次官・小松三保松が主導して刊行した『李王家博物館所蔵品写真帖』1912 年【日本語】以下『写真帖』)の記述との顕著な類似、が挙げられる。一方で、『写真帖』との異同から、少しでも朝鮮美術の独自性と優秀性を主張したいという意図が見られることも確かである。このことから、当時、申摩実那が朝鮮の「美術」を論じたのは、純粋に学問的な興味関心からというより、朝鮮民族としてのアイデンティティと自負心の確立が中心的な動機であったこと、が窺える。これは、安廓「朝鮮の美術」とも共通する姿勢である。その他、申摩実那「朝鮮美術」の独自性としては、『写真帖』にはない「建築」という項を立て、やや詳しく論じていることが挙げられる。今後の研究次第では、この部分に関しても種本が見つかるかもしれないが、少なくとも朝鮮王朝時代の建築については、彼女自身の生活圏内にあるものについて語っており、細部の装飾の実用的あるいは呪術的な意味にも目配りしている点は注目に値する。
従来等閑に付されていたこの資料を全体的に読み込み、さらには「美術」という言葉のもとに、実際は何を企図したか、という背景を浮き彫りにする今回の試みは、当該期の朝鮮美術論に関する議論において、従来の図式的な整理に収まらない新たな視座を提供すると同時に、時代や状況の異る美術史研究にも、議論の材料を提供し得ると考える。
- ジャンバッティスタ・ティエポロ《アポロと四大陸》(ヴュルツブルクのレジデンツ「階段の間」フレスコ画)におけるアジアの寓意表現について
落合 桃子(福岡大学)
……………………………………………………………………………………………………
1 8 世紀最大のフレスコ画家とも称される、イタリア・ヴェネツィアの画家ジャンバッティスタ・ティエポロ(Giambattista Tiepolo, 1696 1770)は、ドイツ・ヴュルツブルクの司教宮殿、レジデンツの「階段の間」に、フレスコ画《アポロと四大陸》(1752 1753 年)を制作している。約 3 2 メートル×19 メートルの巨大な天井画で、四辺ではヨーロッパ・アジア・アフリカ・アメリカの四大陸が主題とされている。
本発表では、北西側の長辺にフリーズ状に描かれているアジアの場面を検討することで、1 9 世紀のオリエンタリズム以前のヨーロッパにおけるアジアの表象の一端を解明したい。
四大陸という主題は、1 7 世紀から 18 世紀にかけて、とりわけイタリアや南ドイツなどのカトリック文化圏で教会や宮殿などの装飾の中で好んで取り上げられており、ティエポロの作品もこうした系譜に位置づけられる。しかし、本天井画のアジアのイメージには、象に乗る寓意像をはじめ、リーパの《イコノロギア》など従来のイコノグラフィーから逸脱するモティーフが登場しており、これらについては、フリーデン・ランプ(1956)、シュミット(1974)、ザンティファラー 1975)、アシュトン(1978)、アルパース・バクサンドール(1994)らによって研究がなされてきた。本発表では、オイルスケッチ(1752
年)の段階から登場し、ティエポロにとってアジアを表す重要なモティーフであったにも関わらず、これまで十分に検討がなされてこなかった つの画題、すなわち、象とアジアの擬人像に向かって平伏する人物、虎と格闘する男たち、手かせをはめられた裸体の男に注目する。
まず、本作品の象のモティーフについては、ヨーロッパ人によるアジア旅行記からの影響がアシュトンによって指摘されているが、跪拝する人物の姿も、イエズス会士タシャール(Guy Tachard, 1651 1712『シャム旅行記』(1689 年)の挿絵などに見出すことができる。次に、虎狩りの場面に関しては、ブーシェ(Fran ois Boucher, 1703 1770)らがルイ 15 世のために制作した、異国の狩猟をテーマとする絵画連作(1735 39 年)との主題上の類似を指摘することができ、トルコ趣味と結び付けられる。先行研究も踏まえると、ティエポロのアジアイメージは、オスマン帝国や古代のエルサレム、アルメニア、エジプトに関連するモティーフ、さらに旅行記などによってもたらされた東方世界のイメージなどから構成されていると言える。そして、手かせをつけられた奴隷像の意味を考察するため、ポッツォ(Andrea Pozzo, 1642 1709)の《イエズス会の伝道の栄光》(1691 94 年頃)との比較を行う。天井画の鑑賞順序と合わせて検討すると、《アポロと四大陸》には、アジア、アフリカ、そして新世界アメリカに対し、ヨーロッパを優位と見なす世界観が反映されていることが浮かび上がってくるのである。
- 雲谷等顔の文化人的側面について―和漢兼帯の教養と画事―
福田 善子(山口県立美術館)
……………………………………………………………………………………………………
雲谷等顔(1547 1618)は、桃山時代に活動した毛利家お抱え絵師・雲谷派の祖である。これまで、等顔は雪舟流の正統な継承者として評価されることが多かった。加えて、先行研究では、等顔の画風成立には、雪舟以外にも宋元画や朝鮮山水画の学習成果があったこと、また等顔は、京都・山口の禅僧や博多の商人との親交があり、茶の湯や連歌を嗜む文化人であったことも指摘されてきた。以上の先行研究に基づき、発表者が担当した『没後四〇〇年 雲谷等顔』展(山口県立美術館、2018 年)では、さらなる作品と史料の発掘により、等顔の画業と実像について視野を拡げることができた。
近年の新知見のなかで、とりわけ注目されるのは、和漢兼帯の幅広い教養を備えた文化人として、毛利輝元に近侍した等顔の実像である。そこで、今回の発表では、新出史料を中心に、毛利家の文化的ブレーンを担った等顔像の復元を行い、等顔の社会的地位や役割、画事との関連について考察したい。まず、等顔の足利将軍家の同朋衆三阿弥とも共通点がみられる職務や、多彩な教養によって兼務した業務、さらに多能さゆえに輝元に重用され「御伽役」を務めたことに着目し、同朋衆や前・同時代の御伽衆との比較を通して、等顔の職掌について明確にする。
次に、等顔の漢と和に関する教養のうち、とりわけ顕著な唐絵と連歌について注目し、それが自身の画事とも密接に繋がっていたことを指摘したい。第一に、等顔の絵画的特質として、画題や画様の選定・受容において宋元画を重要視したことが挙げられる。山水・人物画では南宋の玉澗や牧谿、梁楷に私淑し、走獣画では北宋の李公麟の系譜を引く白描の群馬図を描いた。この要因の一つとして、中世以来の東山御物を美の規範とする選択基準が毛利家内にもあったことをうかがわせ、等顔はそれを主導する立場にあったことが考えられる。大徳寺の江月宗玩からも唐絵目利きの相談を受ける程であった等顔は、毛利家(防長移封後は萩藩)の道具管理や鑑定にも関わっていたことが想定される。禅僧や大陸の文物を扱う豪商など、等顔の交遊関係がもたらす唐絵についての理解は、自身の漢画の制作に大きく作用したと考えられる。
一方で、等顔の和の要素を併せ持つ作例として、現存例こそ少ないが、「春夏山水図屛風」(重文、個人蔵)や「鹿図屛風」(吉川史料館蔵)などがある。また、等顔は歌仙絵も描き、さらに能の舞台や道具の絵付、藩主一族の謡本の表紙、短冊の金銀下絵など料紙装飾も手がけていた。これらの画事を可能にした最大の要因は連歌の才であろう。等顔は大内時代の山口連歌師とともに毛利家の連歌を担う重要人物の一人であり、大内氏以来の伝統文化を受け継ぎ実行する立場にあった。漢だけではない、和の文化的教養を兼帯したことが、等顔の画風や絵師としての領分に少なからず影響を与えたことを指摘できるのである。