令和3年度 活動報告
<第104回大会> 2021年7月3日 土曜日(Zoomを使用したオンライン開催)
- 《領内名勝図巻》と矢野良勝の実景図制作について
金子岳史(熊本県立美術館)
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細川家御用絵師矢野派の五代目・矢野良勝(一七六〇―一八二一)は、雪舟流の画風を基調とし、矢野派を隆盛に導いた絵師である。矢野派は、初代三郎兵衛吉重が細川家の小倉統治時代に細川忠利に仕え、細川家の熊本入封とともに熊本に移住したことに始まる。三代目茂安の代に一旦は廃絶が決まるものの、後を継いだ雪叟が雪舟流の画風を確立して再興し、子の良勝が受け継いだ。
熊本藩八代藩主・細川斉茲の命で、寛政三—五年(一七九一―九三)にかけて、矢野良勝が同門の衛藤良行とともに制作した《領内名勝図巻》は、肥後領国内の風景を一五巻にわたって描いたもので、良勝の代表作と言える。胡粉を散らして表現された滝や、雪舟流の謹直な描写が特徴的な作品であり、なにより一つの藩内の風景を計四〇〇メートル以上にも及ぶ長大な画巻として、他に類を見ないものである。
さて、近年熊本で、矢野良勝が全国を旅して各地の風景を描いた画巻を、弟子の築山勝遠が模写した資料が発見された。山陽路、東海道、富士山周辺、房総鋸山日本寺、奥州、玄界灘の風景を描いたものである。この資料により、矢野良勝が《領内名勝図巻》だけでなく全国の風景を描いた絵師であり、江戸時代後期における実景図の歴史を考える上でも重要な存在であると考えられる。また、この資料に描かれた風景描写は、《領内名勝図巻》に多く見られる雪舟流の山水描写はほとんどなく、視点の置き方や描法が明らかに異なる。つまり、矢野良勝は《領内名勝図巻》において、意図的に雪舟流の描写を用いて肥後の風景を描いた可能性が強いと考える。さらに《領内名勝図巻》では、芦北地方の牧山と豊後との国境位置する涌蓋山は、やまと絵風に装飾的に荘厳され、前後の情景とは明らかに異質に描写された空間として描かれるが、この二か所を「特別な場」として描いたと思われる。つまり、《領内名勝図巻》は、単に肥後の風景を良勝の描法で忠実に記録した実景図ではなく、実際の地形に基づきながらも、そこに意図的に雪舟流ややまと絵の描法を用いて表現した“作品”であると考えられる。
《領内名勝図巻》は、斉茲が「紀州様、水戸様、そのほか御同席様方へも御覧に入れる御約束」をし、制作させたもので、老中・松平定信も含めた風景画愛好の大名たちのサロンで披露されることを目的とした可能性が先学により指摘されている。それを踏まえ、本発表では、一八世紀後半における細川家の文化的立ち位置を考慮しながら、《領内名勝図巻》の性質と、矢野良勝の実景図制作について考察したい。
- 幕末期の増上寺における羅漢信仰と狩野一信筆「五百羅漢図」造像の実践的な意義
白木菜保子
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近世の仏教美術は、江戸時代の豊かな知的文化を土壌として発展してきたことが近年の研究で明らかにされている。幕末に描かれた狩野一信筆「五百羅漢図」(東京・増上寺蔵/一八五四―六三年制作/以下、増上寺本とする)は、近世後期における戒律復古思想の文脈上に成立した。造像の現場となった増上寺の学僧による制作方針の厳格さは、慈雲『方服図儀』(寛延四年/一七五一)に著された袈裟の着用法及び、顕道『大乗比丘十八物図』(文政二年/一八一九)に規定された持物から一六種が選択され、一〇〇幅の絵画上に徹頭徹尾、描き込まれる形で示された。
増上寺本発願は、大雲「新図五百大阿羅漢記」(文久三年)によれば、絵師一信(一八一四―六二)の大願である五百羅漢図制作を、願主・法誉(一七八〇―一八五四)が一大修善として引き受けたことを契機とする。しかし、一〇〇幅分の資材や表装に換えられた三千両の資金及び、一信への仏教・絵画両面からの指導体制を鑑みれば、その背景には、やはり増上寺側の羅漢図作成に対する強い意志が働いていたと考えられる。
近世仏教思想史の観点でみれば、儒仏国学の思想家はそれぞれの古代像に理想を託す復古主義の形式をとることで独創的な思想を展開し、文献学的方法によって自らの古代像を明らかにしようとした。寺院法度によって檀林(寺院階級)の頂点に定められた増上寺において慧厳、大雲、徹定に関しては日野霊瑞(一八一八―九六)のように他宗名僧の教えを乞う様子がなく、剃髪し増上寺に掛錫して以降、江戸幕府の庇護下にある学問所の中で育てられた純粋培養の官僧であったと言える。
本発表では、増上寺本の発願当時、第六六世貫主をつとめた(一七九三―一八六〇)の指揮の下、学僧大雲(一八一七―七六)、養鸕徹定(一八一四―九一)が行った執筆活動が慧厳の羅漢信仰に端を発していることを確認し、増上寺本の発願が戒律復興を基盤とした実践の中に位置していたことを指摘する。慧厳は大雲に羅漢講式の整備(大雲「刻羅漢講式引」嘉永四年/一八五一)、梵網経菩薩戒経の対校(文久三年/一八六三刊行)を、徹定に嘉永五年(一八五二)以降の継続的な古経捜索、羅漢図研究を命じている。慧厳は羅漢信仰の研究を通して二人の学僧との結束を深めている。
増上寺本第三六、四五幅等には貝多羅葉や巻子状の経典に向かい二、三人の羅漢が文字を書き込み、言葉を交わす様子が描かれるが、この描画の原点には徹定が古経捜索の謄写に際して著した規範「閲蔵清規五ヶ条」(嘉永五年)があり、単純作業の反復に取り組む現場の動静を率直に伝える。また、増上寺本第九一、九二幅は阿育王の即位式だが、両幅の中央に描かれた平面的な金雲によって「江戸図屏風」(一七世紀/国立歴史民族博物館蔵)のような王権を表す絵画の見立てが行われている。増上寺本の発願には護法による「鎮護国家」という裏テーマが設定されており、制作は学僧の思想を実現化する実践の枠組みに組み込まれていたと言える。
- 近代における聖徳太子の慈悲のイメージ
長嶺勝磨(沖縄県立芸術大学大学院)
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本研究は、近代日本における聖徳太子の慈悲のイメージについて分析するものである。飛鳥時代の皇族・政治家である聖徳太子は、推古天皇の摂政となり、蘇我馬子と協力して政治を行い、遣隋使の派遣や中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を制定するなど、中央集権国家体制の確立を図り、仏教や儒教を取り入れ興隆に努めた人物として、今日高く評価されている。しかし江戸時代には、崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子を太子が罰せず、政治の場で重く用いていた点が国学者や儒学者らから批判されるようになり、大義名分にもとる不道徳な人物として位置付けられるようになった。明治時代において、このネガティブな太子観は世間一般に広まっていた。そのイメージを覆すべく活動した団体として、上宮教会や聖徳太子一千三百年御忌奉賛会、聖徳太子奉讃会などが挙げられる。上宮教会は、明治維新以来の国民思想の混乱と道徳の頽廃を憂い、聖徳太子の偉業を喧伝し、国民に模範を示すことを目的として、一八九七年(明治三〇)に結成された。聖徳太子一千三百年御忌奉賛会は、一九二一年(大正一〇)に法隆寺で営まれる聖徳太子一千三百年御忌の法要を成功させることを目的として、一九一六年(大正五)に結成された。この団体は、一九二四年(大正一三)に、聖徳太子奉讃会として新たに発足した。これらの団体は、聖徳太子顕彰活動を盛んに行った。その際、『四天王寺御手印縁起』にみえる四箇院建立や、『日本書紀』にみえる片岡山飢人伝説の記事に基づき、社会事業活動を積極的に行い、聖徳太子の慈悲深い精神性を喧伝した。その結果、明治時代以後、聖徳太子の慈悲のイメージがしばしば描かれるようになっていった。
聖徳太子の慈悲のイメージとは、四箇院建立や片岡山飢人伝説に基づいた図像を指す。近世までに制作された聖徳太子絵伝の多くには、片岡山飢人伝説の場面が描かれており、太子が飢人に衣を施与する様子が図像化されている。片岡山飢人伝説を絵画化した明治時代以後の作品としては、鳥谷幡山(とやばんざん、一八七六―一九六六年)が一九〇四年(明治三七)に制作した《聖徳太子》、橋本関雪(はしもとかんせつ、一八八三―一九四五年)が一九一一年(明治四四)に制作した《片岡山のほとり》、織田観潮(おだかんちょう、一八八九―一九六一年)が 一九二〇年(大正九)に制作した《片岡山》などが挙げられる。とくに観潮の作品は、原文の記述に忠実に従い、衣を脱いで下着姿になった太子像を描いている点で画期的であり、一九三一年(昭和六)に文部省が編纂した『小学国史教師用書上巻』の挿絵に採用されたことから、世間一般における聖徳太子の慈悲のイメージの形成に大きな影響を与えたと考えられる。聖徳太子の慈悲のイメージは、国民を慈しむ皇室という理想像を喧伝する役割を果たした。
- ロマン主義と唯美主義の架け橋としての「想像力」―ラスキンの美術論の一断片―
萩野哉(大分県立芸術文化短期大学)
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ヴィクトリア朝の批評家ジョン・ラスキン(一八一九―一九〇〇)は、初期の代表的な著作『モダン・ペインターズ』第二巻(一八四六)において、「想像力」と「空想」を区別しつつ、前者を対象へと働きかける順に「洞察的想像力」、「連合的想像力」、「観照的想像力」の三段階に分類した。これらの想像力は、視覚的な情報を分析・選別したうえで、有機的に組み合わせ、自己の経験として感情と結びついた総合的な記憶へと到達する過程を、それぞれ受け持っていると考えられる。本発表では、ラスキンのこの主張が、S.T.コールリッジのロマン主義的な想像力論をふまえつつも彼独自の細分化を試みている点に注目したうえで、三種類の中で最も複雑な「観照的想像力」の働き方について、「洞察的想像力」や「連合的想像力」の機能と関連させながら解明する。ついで、これらの想像力概念が、『ラファエル前派主義』(一八五一)、『ヴェネツィアの石』第三巻(一八五三)、『モダン・ペインターズ』第四巻(一八五六)などの著作の主要なテーマである、ラファエル前派とJ. M. W. ターナーの比較、さらにはターナーら「色彩画家」たちをめぐる評価において、いかなる役割を担っていたのかを考察する。
「観照的想像力」をひとつの軸とするこのような議論は、『モダン・ペインターズ』完結後に新たな展開をみせる。たとえば、一八七四年にオクスフォード大学スレイド講座でおこなわれた美術講義「フィレンツェにおける感性派と数理派」でラスキンは、物質的な対象や抽象的な定理のみに専心する「数理派」と、物理的事実としての正確さよりも主観的な印象を優先させて表現する「感性派」を比べつつ、後者を積極的に評価している。そして、かつては単なる身体的な感覚とみなされ、美の知覚から排除されていた “æsthetic” の概念を、論理的思考に対する感性的なもの、さらに想像力に関わるものとして重視する彼の態度は、『モダン・ペインターズ』における風景画家論や、科学と芸術の関係をめぐる一八五〇年代の主張とも結びついていた。本発表では、ラスキンのこうした後期の思想が、人生を経験する意識の流れの観照ともいうべき「唯美主義」に立脚していたことも、三つの想像力の意義を振り返りながら明らかにしたい。
<第105回大会> 令和3年12月4日 土曜日(於 九州大学伊都キャンパス Zoomを併用したハイブリッド形式開催)
- 野口彌太郎《長崎の風》の変遷―「滞日作」を巡る一考察
入江清佳(長崎市長崎学研究所)
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大正から昭和期に活躍し日本的フォーヴィズムの画家として知られる日本近代洋画家の野口彌太郎(1899~1976)は、第5回毎日芸術賞(1964年美術部門)受賞時に受賞作である《セビラの行列》(1963)を「滞欧作」と称し、今後は「滞日作」の制作を行うと新聞紙上で宣言した。その後、1964年から1967年までに7点の長崎に関する大作(以下「長崎の大作」と呼ぶ)を制作し、日本国際美術展、現代日本美術展などに出品している。この内の6点は、長崎滞在時の協力者であった長崎市議の諸谷義武宅で昭和20年代に描いた墨彩画を基に構図を再考し油彩画の大作として描いたものである。中でも《長崎の風》(1964)《長崎の情緒》(1965)《長崎の屋根》(1966)《長崎の風(風神)》(1967)は、風景を忠実に描こうとするこの画家には珍しく、モンタージュ的な手法や寓意的な描写が見られる。
本発表では、長崎の大作の中でも連作である《長崎の風》、《長崎の風(風神)》を比較検討し、「滞日作」の模索の過程を明らかにすることで、作品の制作意図及び独自性を示し野口の目指した「滞日作」の一端を示す。
まず、考察の前提として「滞日作」という言葉について明らかにする。野口が活動した当時の日本洋画壇では、ヨーロッパから輸入された油彩画に対して西洋の模倣ではない「日本的油彩」の確立が盛んに議論されていた。特に所属した独立美術協会ではこの傾向が強く、野口自身も独自の「日本的油彩」の確立を志し、制作を行っている。以上を踏まえ、「日本的油彩」に関する野口の発言を整理すると、「滞日作」は「日本的油彩」と繋がる言葉であることがわかる。
次に連作《長崎の風》の制作意図や独自性に関する考察を行うため、墨彩画《長崎の風》(1952)、油彩画《長崎の風》、《長崎の風(風神)》を比較する。墨彩画《長崎の風》は、野口が目にした長崎の市民生活に対する印象を描いたもので、作品には画家がとらえた長崎の表象が集合している。これに対し「滞日作」宣言後の油彩画《長崎の風》は、一部差異はあるものの墨彩画《長崎の風》の内容を強く意識していることがわかる。ここから、画家が自身の代表的なモチーフである長崎を、まず「滞日作」として描こうとしたことが推察される。次に油彩画《長崎の風》と《長崎の風(風神)》を比較する。後者は前者が基礎となっているものの色彩、筆致、人物、天使と雷神に差異が見られ、これらを分析すると《長崎の風(風神)》には俵屋宗達筆《宗達伊勢物語図色紙》の影響が感受される。つまり、野口の油彩画に日本美術の要素を取り入れた「滞日作」の模索がここに垣間見えるのである。
結論として、油彩画《長崎の風》と《長崎の風(風神)》は「滞日作」を意識して描かれる中で、当初は自身の代表的なモチーフである長崎を重視し描いたが、制作を重ねる中で日本を広く意識し、日本美術の要素を取り入れるに至ったと考えられる。
- 和田三造《博多繁昌の図》(1958)とその習作群について
忠あゆみ(福岡市美術館)
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画家・和田三造(1883-1967)の油彩作品《博多繁昌の図》(1958年、福岡市美術館所蔵)は、和田の戦後の代表作の一つである。主題は寛永〜慶長年間の博多(現・博多区)の街並みで、水路を介して貿易船が行き交い、異国の人々や様々な職種の町人で賑わう街の様子が俯瞰構図で描かれている。所々が装飾的文様が付いた雲で覆われ、モチーフの描きぶりには写実技法と南蛮美術などの非近代・非西洋圏の表現手法が混合している。
本作は当初、注文主の五代太田清蔵が所有する東邦生命ビル内帝国ホテルの大広間に飾られていた。太田はビルの建設予定地で銅銭などの遺物が発見されたことを契機とし、和田に博多の町を物語る絵画の制作を依頼した。考古学者の中山平次郎・弟子の奥村武がこれに協力して和田に資料を提供し、画中には和田が彼らから入手したと見られる博多の街に関する情報が描き込まれている。多くの来賓を迎えるホテルの大広間に大画面の《博多繁昌の図》を据えることは、対となる《西都政庁の図》と合わせ、商業都市としての博多の歴史を喚起させ、また今後の経済的発展への希望を示す意味を持っていたと考えられる。1950年代の鑑賞者が共有していた博多へのノスタルジーを示している点も興味深い。
本発表では、以上の制作背景を踏まえ、和田が本作を発表した意義を考察する。合わせて、制作過程で生まれた習作を参照することで、本作を和田の画業の中で捉え直すことも試みる。すなわち、《博多繁昌の図》を、和田が戦前から関心を持っていた課題に戦後も取り組見続けていることを示す作品と位置付けたい。
《博多繁昌の図》注文から完成までの7年間に、和田は30点を超える大小の習作を手掛けた。水彩・墨画など多様な画材で描かれた習作には、モチーフの縮尺の操作・装飾的なデフォルメ、多様な人物描写という特色が見て取れる。これらは《海の幸》《山の幸》(1918年)に共通する特色だ。周知のとおり、和田は青年期に白馬会洋画研究所および東京美術学校で黒田清輝の指導のもとで西洋式の写実的な描写を身につけた。しかしながら、ヨーロッパ留学の帰途で立ち寄った東南アジア各地で非西洋圏の美術に触発され、帰国直後は染色美術に傾倒した。絵更紗の技法で製作したタペストリー《海の幸》《山の幸》(1918)はその集大成であるが、俯瞰構図の中に南蛮船、そこから運ばれた人物と賑わいを描く上で、装飾的な価値と正確な描写とのバランス、共同製作の中で生まれる画風の不統一などの問題に直面し、和田にとり後悔の残る作品でもあった。《博多繁盛の図》は、この作品から主題のみならず制作上の課題も引き継いでおり、その結果として、先にあげたような特徴的な描写が現れているのである。
《博多繁昌の図》と習作群に見られる特徴的な描写は、制作背景・関連する和田の先行作品を参照することで、重層的な意味が浮き彫りになる。また、画業の初期から晩年に至るまで多様な表現手法に取り組んできた和田に、戦前から続く一貫性があることを示す作品でもあるのだ。
- 「レノー・コレクション」展の実態とその影響
羽鳥悠樹(福岡県文化振興課)
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P. A. レノー(Pierre Alexandre Regnault, 1868-1954)は、オランダの実業家、絵画収集家である。1910年代に絵画収集を始め、表現主義やエコール・ド・パリの画家の作品を好んで集め、戦前のオランダにおいて一大コレクションを築き上げた。
このレノー・コレクションが、オランダ領東インドの首都バタヴィアで、長期に渡って公開、展示されたことが、インドネシア近代美術におけるモダニズム受容に大きな影響を与えたことは、多くの研究者が指摘するところである。
「レノー・コレクション」展は、1935年から1940年までに、ほぼ1年に1回のペースで合計5回開催された。従来この一連の展覧会では、ポール・ゴーギャン、モーリス・ユトリロ、ジョルジョ・デ・キリコ、マルク・シャガール、キース・ファン・ドンゲン、フィンセント・ファン・ゴッホなどの画家の作品や、オノレ・ドーミエ、ワシリー・カンディンスキー、パブロ・ピカソらの複製版画の展示が行われたことが注目されてきた。
しかし、これほどのコレクションが、なぜ当時バタヴィアにまで運ばれ展示されたのか、各回では実際にどのような作品が展示されたのかといった詳細には、ほとんど注意が払われてこなかった。そのため、同展が具体的にインドネシア人画家の制作にどのような影響を与えたのかということも、実証的に明らかにされてはいない。
本発表では、まず「レノー・コレクション」展が開催されるに至った経緯や目的、各回の詳細について確認し、一連の展覧会の実態を明らかにする。その上で、実際にインドネシア人画家の作品に見られる影響を検討し、同展がインドネシア近代美術におけるモダニズム受容に果たした役割の一端を明らかにする。
インドネシア近代美術史研究では、19世紀後半から1940年前後までの間、つまりインドネシアで最初の洋画家とされているラデン・サレー(Raden Saleh Syarif Bustaman, 1811-1880)の没後から、インドネシア近代美術の父と称される画家S. スジョヨノ(Sindudarsono Sudjojono, 1913-1986)の「近代美術宣言」に至るまでの期間が、「空白の時代」とされ軽視されてきた。しかし、「レノー・コレクション」展を含め、当時オランダ領東インドで展覧会活動の中心を担っていたバタヴィア芸術協会(Bataviasche Kunstkring)の活動などはそのほとんどが等閑視され、多くの検証の余地を残している。本発表は、この「空白の時代」の芸術的環境の一部を再構築し、インドネシア近代美術史を捉えなおそうとするものである。
- ジョン・エヴァレット・ミレイの対作品《春》と《安息の谷》―同時代における展示と対の関係性―
古賀詩織(九州大学大学院)
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本発表では、19世紀のイギリス美術を代表する画家ジョン・エヴァレット・ミレイ(Sir John Everett Millais, 1829-96年)の絵画に関して、ミレイの画業の転換期に位置づけられる1859年の対作品《春》(1856-59年)と《安息の谷》(1858-59年)(以下、「本対作品」)に焦点を当て、二作品の関係性と対作品の意義について論じる。1850年代後半のミレイは、神話や聖書、文学といった物語的典拠をもたず、現代生活に取材した作品を描き始める。特にこの時期に制作された本対作品は、地平線の高さや画面右側の人物の視線が二作品で一致していることから構図やモチーフにおける視覚的な対応関係がある一方で、時間的な連関や風景など、描かれた情景の関連性をもたない点が特徴的である。先行研究では、二作品の視覚的な対応関係が指摘され、《春》と《安息の谷》をめぐる対の関係性について議論されてきた。しかし、先行研究で指摘される対の関係性は、二作品を並列した場合に明白となる視覚的な対応関係に比重が置かれ、ミレイ自身や同時代の言説に基づいた当時の展示の場に関する裏付けが不足している。
ミレイは本対作品の制作意図に関する言説をほとんど残していないが、同時代の展示や批評からそれらが当時どのように観られていたのか、受容の側面を明らかにすることは可能である。したがって、本発表では19世紀のロイヤル・アカデミー展における展示と批評から、同時代に見出された《春》と《安息の谷》の関係性、ひいては本対作品における対の意義を明らかにすることを試みる。はじめに、本対作品の特徴を確認するために、同時代の対作品とミレイの他の対作品との比較を行う。次に、《春》と《安息の谷》の制作プロセスをふまえたうえで、1859年のロイヤル・アカデミー展における展示と批評を確認する。そこで、展示会場では本対作品が離れた場所に展示され、ふたつの関連性がより希薄になる状況にもかかわらず、春の開花の喜びと墓地の哀愁という対照的な情景を描いた対作品として結び付けて解釈されていたことを明らかにする。その一方で、《春》は、1856年に出品された《秋の枯葉》(1855-56年)と季節の描写における情景の関連性が見出されていたことを示す。このことから、物語的典拠をもたない《春》は、《安息の谷》と形式的な対としてゆるやかに結びつき、ときには他の作品との組み合わせによって解釈が変容する対作品であることを指摘する。以上の考察から、《春》と《安息の谷》は対として完結する作品ではなく、他の作品と組み合わされることによって鑑賞者による解釈の広がりを可能にした点で対作品としての意義を有していることを示す。