令和4年度 活動報告
<第106回大会> 2022年7月2日 土曜日(於 福岡市美術館1F ミュージアムホール)
- 現代スィック教社会における偶像崇拝論争:教主の肖像画と表象をめぐる言説と実践
池田篤史(株式会社メンバーズ)
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今日、創始者グルー・ナーナクを初めとするスィック教の歴史上の教主たちの肖像画はスィック教徒たちの間で非常に人気があり、寺院や家屋、店先などの至る所で見ることができる。しかし、インターネット掲示板には、教主たちの肖像画に関する多くのスレッドが立てられており、スィック教の教義で禁止されている偶像崇拝に抵触するのではないかとの懸念があることが窺える。このように現代のスィック教社会では、偶像崇拝の禁止という教義と、教主の肖像画崇敬という実践の間に乖離があると言える。本報告では、この現象をスィック教研究の中に位置づけるとともに、スィック教の宗教機関が公表している偶像崇拝に関する新聞記事を分析し、そのような言説がスィック教独自の視覚文化を発展させていることを指摘する。
偶像崇拝論争の主な論点は、教主の彫像を寺院などに設置することは明らかに偶像崇拝に抵触するものと理解されているが、教主の肖像画に関しては許容されるべきではないかというものである。教主を表象することの是非は肖像画に留まらず、映画やインターネット上の画像についても論争の範囲が拡大している。新聞記事で紹介されるスィック教の宗教機関のコメントなどからは、教主の肖像画を悪しき偶像とみなす立場と、それとは反対に聖画像としてみなす立場の両方が存在することがわかる。前者の立場では教主の役柄を人間が演じることさえ批判されているが、後者の立場では飲酒の席に設置されることは許されずに寺院へ移送することなどが推奨される。また、教主の肖像画をオークションなどで競売に掛けることも批判を受けている。
以上の論争はスィック教の視覚文化に影響を与えている。例えば、立体とも平面ともどちらとも言えない厚さのない彫像を作ることで、肖像画が偶像にならない工夫が為されている。同様のことは肖像画で教主の表情を消したり、写真のように写実的に描いたりすることでも試みられている。また、偶像崇拝の禁止に抵触しないように、グルー・ナーナクの手形や足形などを崇拝する実践もスィック教徒の間では行われている。その他にも、聖遺物であるグルー・ナーナクの外套を寺院に祀ったり、スィック教の聖典を擬人化して毎晩寝室に安置したりするなどの習慣もある。近年では、タトゥーやスマートフォンの壁紙などにも教主の肖像画の図像が使用されており、それらの事例も偶像崇拝の禁止に抵触しない工夫なのではないかと思われる。
最後にこの現象が1990年代以降に加速したことに着目し、インターネットやSNSなどの情報技術の革新というグローバルな文脈と、インドの経済開放やスィック・ナショナリズムの終焉といったローカルな文脈の中に位置づけることを、今後の課題として提示する。
- ペルジーノの名声と反復
伊藤拓真(九州大学)
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本発表では、ルネサンス期の画家ピエトロ・ペルジーノ(1450頃–1523)の型の反復の問題を、画家の活動地域の広がりという観点から検討する。最盛期のペルジーノは中部イタリアの広い地域で高く評価されたが、ヴァザーリの『美術家列伝』(1550/68)によれば、後半生に同じタイプの人物像を使いまわすようになったことで非難されるようになったという。近年のR・ヒラー・フォン・ゲルトリンゲンの研究でも、画家が制作において原寸大素描を頻繁に再利用していたことが示されている。しかしながら、同時代の注文主や初期の批評家たちにはとって各地に散在する作品の全体像を把握することは困難であり、画家の画業に対する受容者側の認識は断片的なものでしかありえない。
本発表ではまず、ペルジーノに対する初期の批評を検討し、画家に対する非難が特定の構図や人物像の再利用というよりも、同じような雰囲気をもつ人物像の多用に向けられていたことを指摘する。ペルジーノの作品は同時代の史料で「天使的な」「甘い」雰囲気をもつとも評され、特にその人物像の描写は高く評価されていた。しかし、R・マッフェイやP・ジョーヴィオ、ヴァザーリらの記述を見ると、人物像の画一化の傾向が問題視されているのである。このことは、ヴァザーリの時代を代表する芸術家であるミケランジェロが、常に新しい形態の人物像を求めていたとされるのと好対照をなしている。
一方で、一般的にペルジーノの凋落の原因となったとされる同一構図の反復は、同時代においては必ずしも否定的に捉えられていたわけではない。サンセポルクロの《キリストの昇天》などは、おそらくは注文主の求めに応じて既存の作品の構図を再利用している。またフィエーゾレのサン・ドメニコ聖堂祭壇画とクレモナのサント・アゴスティーノ祭壇画のように、同じ形式の作品がほぼ同時期に異なる都市のために制作された例もある。このような地理的な分散とでもいえる方法は、ペルジーノの弟子とされるラファエロも部分的に取り入れている。
結論として、ペルジーノの反復行為が地域ごとの状況の違いを巧みに取り込みつつ、画家の広範囲にわたる名声確立に寄与したという指摘を行う。ただしこの議論の目的は、反復という行為をとりまく統一的な見解を見出すことではなく、むしろその行為が実行に移され評価されるコンテキストがいかに可変的なものであり、時に矛盾したものであるかを示すことにある。『美術家列伝』に代表されるような規範的芸術観が確立・普及する以前の時代にあって、ペルジーノの活動範囲に含まれる諸地域には、それぞれに独自の芸術観が存在していたといってよいだろう。そのような地域的多様性を、ペルジーノの作品は反復という行為を通じて横断していたともいえるのである。
- 吉嗣家三代関係資料―近代文人画研究の一事例―
井形栄子(インディペンデント・キュレーター)
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吉嗣家は、幕末から昭和にかけて、梅仙・拝山・鼓山の三代が太宰府の地で書画をなりわいとした一家である。梅仙は齋藤秋圃と小田海僊に学んだ絵師として、拝山と鼓山は詩書にも長けた南画家として知られるが、全国的にその名を知られる拝山を除き、梅仙と鼓山については、福岡の人名・画家辞書の類に紹介はあるものの、いずれも簡単な画歴紹介にとどまっている。吉嗣家の真の顕彰は実のところ、これからなのである。
太宰府市教育委員会では、2014年から行なっている太宰府の絵師調査事業の一環として、現在この吉嗣家三代に関わる資料(以下、吉嗣家資料とする)の調査を進めており、発表者も調査の一員としてこれに参加している。吉嗣家資料は書画作品、画稿類、書簡、典籍、古写真、画材その他の工芸品など、多岐にわたる内容で構成され、総数は8,000件を超すと目される。
吉嗣家三代の中で、拝山は近代文人画の名手のひとりとして挙げられるが、彼もまた、事故で右手を失ったのち「左手拝山」と称して左手で絵を描いたという逸話をもって喧伝されるばかりで、美術史や絵画史における具体的な検討や位置づけは従来あまりなされてこなかった。近代の南画イコール格下の絵画、粗製濫造、贋作横行などのネガティブイメージが研究者を遠ざけてきたことは、こと吉嗣拝山に限ったことではない。
このような中、長尾直茂氏は『吉嗣拝山年譜考證』(勉誠出版、2015年)において、漢文学の立場からの詳細な史料分析によって積極的な評価を試み、拝山研究の大きな土台を作った。冒頭の絵師調査事業においては改めて書画に重心をおきながら、さらなる研究の深化と発展を目指している。
本発表は、吉嗣家資料の紹介かたがた、とくにこのうち約1,000件を占める書画作品に着目する。ここでいう作品とは落款印章をともなった完成作品とそれに準じるもので、下書きの類いは含まない。作品の大多数は吉嗣家以外の作者によるもので、実に300名近くの人名が確認される。これらの資料について、まずはその内容を通覧し、明治19年(1886)に梅仙の古稀を祝って催された書画会ゆかりの資料が多く含まれていることを、同資料中の『楳仙先生古稀筵展観録』とともに確認する。書画会における作品の機能や作者たちの意識や戦略に目配りをしつつ、美術史的な立場からこれらの特徴を指摘し、近代文人画研究の新たな視座を提示したい。
<第107回大会> 令和4年12月3日 土曜日(於 九州大学)
- 柳瀬正夢とジョージ・グロッス
野村優子(愛媛大学)
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1900年の日本に生まれた柳瀬正夢(1900-1945)と、1893年のドイツに生まれたジョージ・グロッス(George Grosz, 1893-1959)の人生は不思議と重なる。柳瀬は本名である正六を「正夢」と名乗り、グロッスは本名であるGrossを「Grosz」と改めた。本名を僅かに改変したという共通点だけでなく、幼少期に一旦故郷を離れ、再び戻った際に周囲と馴染めず孤立した経験や、早くに片親を亡くした点も一致する。このような少年期を過ごした二人が絵を描くことで孤独を紛らわせたことは想像に難くない。市井の人を鋭く捉える風刺画というジャンルで二人の画業が交錯したのも必然だと思われる。
柳瀬の画業を語るうえでグロッスの存在は欠かせず、柳瀬のグロッスに対する愛着は1929年に『無産階級の画家 ゲオルゲ・グロッス』を書かせるほどだった。そのため、先行研究において柳瀬とグロッスを結びつける言及は多く、その中では、ドイツ留学帰りの村山知義(1901-1977)が柳瀬にグロッスを知る契機を与えたこと、絵画制作と漫画制作は別物だと考えていた柳瀬に、この二つは両立可能だとグロッスが示したこと、日本のプロレタリア運動がロシア路線に傾いた時、グロッスの風刺画は批判の対象となり柳瀬も彼を乗り越えようとしたことが主に記されている。しかし、これらの記述は断片的で、柳瀬のグロッス受容がどのように展開していったのか詳述したものはない。加えて、それらはどれも柳瀬の側からだけ語られていて、同時期にドイツでまだ創作していたグロッスの活動とどう呼応しているのかも不明である。
そこで本研究では柳瀬のグロッス受容の全体像を示すため、まずは両者の自伝に目を向け、風刺画へと向かう二人の人生がいかに類似したものかを明らかにする。次に柳瀬の言説を取り上げ、柳瀬を魅了したグロッスの特徴を示すとともに、それが柳瀬の創作へと浸透していく過程を追いかける。最後に否定へと転じる柳瀬のグロッス観が、当時のグロッス自身の活動や同時代のドイツにおけるグロッス批評と照らし合わせて妥当なものだったのかを検証し、最終的に柳瀬の画業にグロッス受容は何をもたらしたのかを導き出したい。
- 観世音寺毘沙門天像の造像背景について
森瑞穂(九州大学大学院/大田区教育委員会文化財担当)
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観世音寺は、斉明天皇の冥福を祈るため天智天皇が発願した官寺で、律令制最大の地方官庁が置かれた太宰府に所在する。この寺は「府の大寺」ともよばれ、観世音寺講師は、平安時代初期には、九州一円の僧綱を統括する権限を有した。本発表では、この寺に伝来した毘沙門天像(以下、本像と呼称する。)の造像背景について論じる。
本像は、足下に眷属像を従える兜跋毘沙門天像の初期の優作として知られる。研究史黎明期に、松本榮一氏により比叡山延暦寺の毘沙門天像の系譜を引く天台系の作例と位置付けられて以来、その見方が踏襲されてきた。しかし、近年の兜跋毘沙門天像研究の進展を踏まえると、先行研究には図像解釈上の問題点があり、別のアプローチによる再考が求められる。本像の元禄十年(1697)の修理以前の伝来が不明であることも、造像背景の考察を困難にしている。そこで本研究では、中央作例や請来図像のみに絶対的な規範力をみとめ、地方へと一方的に影響を及ぼしていくという影響伝播論や、従来の兜跋毘沙門天像研究で踏襲されてきた類型論的な見方からの脱却を図り、九州という地が、大宰府を通じて中央と密接な繋がりを持ち、なおかつ東アジア世界への窓口でもあったという特殊な地勢的条件を踏まえ考察を進める。
本研究では、「唐風甲制」という類型にあてはめられてきた本像の甲制について詳細な検討を行い、本像の制作時期が九世紀半ばから後半頃であること、平安初期の神将形像としては古様の特徴を持つことを確認する。その古様の特徴が、北部九州に伝来した奈良時代から平安時代にかけての神将形像にもみられることを指摘し、その図像的源泉として、奈良時代末に太宰府の大野城に対敵の霊験を期待され造立された四王寺の塑造四天王像を推定する。本像と類似点を持つ在地の神将形像は、北部九州特有の表現要素を有する観音像の周囲に安置された四天王像であると考えられ、本像の当初の安置形態を考える上で参考となる。
さらに本像が伝来した太宰府という場の宗教的コンテクストを復元的に考察するために、『圓満山四王寺縁起』(福岡市博物館所蔵)や台密の事相書『行林抄』に着目する。九世紀半ばに入唐前後に四王寺に滞在した円珍に課せられていた護持僧としての政治的使命や、この寺で行われた特殊な修法に注目し、本像の地天像に当時隆盛していた神仏習合思想が反映されている可能性や、本像の当初の安置場所についての試論を提示する。
- 五代・北宋前期における屋木門の画家たち―燕文貴「江山楼観図巻」の理解にむけて―
前田佳那(九州大学大学院/学術振興会特別研究員DC1)
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五代をはさんで唐以来の統一王朝を成立させた北宋は、その前期にあって、五代十国の優秀な官僚や各地方様式に習熟した画家たちを都開封に集約し、新たな山水画を試行していた。大阪市立美術館所蔵「江山楼観図巻」は、北宋絵画史において劈頭を飾る作品として評価されてきたが、その議論は山水画史のうちに留まってきた。これに対し本発表では、画巻の前半部分に散見される建築や船のモチーフに注目する。燕文貴は、劉道醇が著した聖朝名画評(1059年頃成⽴)において、人物門、山水門とともに、屋木門の画家として評価されているが、燕文貴の屋木門の画家としての側面は従来語られてこなかった。しかし、⼭⽔景観のなかに前例の⾒出せない細密な建築物の表現が留められた「江山楼観図巻」は、現存する屋木門の作例のうち極めて立派な作例と言い得る。
発表者は、第66回国際東方学者会議(2022年5月21日)にて、第三代真宗皇帝に深い信頼を得ていたときの大宦官劉承規が、燕文貴の制作に対して指導的役割を果たしていたこと、本作におけるモチーフ選択が劉承規の視界と密接に結びついていたことを指摘した。劉承規は、宮廷コレクションの管理を務めながら、皇帝と密接に理念を共有していた人物で、内蔵庫を運営し財政を掌握しており、予算の段階から、造営過程におけるマネジメントまですべてを担ったオーガナイザーとして、当該期の芸術事業において必要不可欠な人材であった。この時期に屋木門は、劉承規が監督にあたった玉清昭応宮などの北宋前期の造営事業との兼ね合いのなかで、ひとつの絵画ジャンルとして脚光を浴びている。従来、屋木門の画家たちに注目した研究はないが、国初の皇帝の威光を具現化する際に、実務の指揮系統であった劉承規にとって、高い専門知識や精緻な画技をもつ屋木門の画家たちはその実現に重要な役割を担っていた。
⼭⽔画という舞台装置のなかで、屋⽊⾨の絵描き達による建築物、物流を象徴する船や盤⾞、宋代の技術⾰新や社会システムを象徴するような新しいモチーフが展開している。これは北宋後期の⽂⼈主体の作画状況と⼤きく異なる点である。劉承規に代表される国初の為政者たちは⽂理双⽅によく通じ、軍事⾯に加え科学的、⽂化的な両側⾯から統治を進めていた。こうした要求に応え制作された⼭⽔画が詳細な建築物や船のモチーフを描きこんでいることは注⽬され、⽂理融合の側⾯を反映した表象と言いうる。こうしたモチーフが、国家の理念をしめす⼭⽔画のなかに描きこまれた意図を探ることで、従来⼀元化して⽂⼈⼠⼤夫による⽂化的産物としての側⾯のみ強調されてきた当該期の⼭⽔画の役割が、為政者たちの国初の理念が反映された実利的なイメージを担っていたことを示す。
- 一対の肖像画をいかに飾るか―《ペーテル・パウル・ルーベンス》と《アントニー・ヴァン・ダイク》
小笠原美果(政治経済研究所)
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17 世紀フランドルを代表する画家ペーテル・パウル・ルーベンス(Peter Paul Rubens, 1577–1640)とアントニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck, 1599–1641)は、存命時からすでに一つの絵画に描かれ、また、それぞれの肖像画は並んで飾られた。興味深いのは、対とされるのは常にルーベンスとヴァン・ダイクであり、同時代に活躍したヤーコプ・ヨルダーンス(Jacob Jordaens, 1593–1678)でも隣国の巨匠レンブラント・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn, 1606–1669)でもないことである。
ルーベンスとヴァン・ダイクが共に描かれ、飾られてきた方法には、大別して二点ある。1ルーベンスとヴァン・ダイクの肖像画が一対の絵画あるいは彫刻として飾られた場合、2ある絵画作品の中にルーベンスとヴァン・ダイクが描かれ、そこに関係性がみられる場合である。本発表では、1について、ルーベンスとヴァン・ダイクの肖像画がどのように飾られたのかを、17 世紀から現代に至る期間で検証し、この現象がなぜ生じたのか考察する。考察対象には二人の画家の肖像画(自画像を含む)が飾られた画中画や版画あるいは飾られていた記載のある文献史料が含まれる。
王室コレクション・トラストによる特別展『ジョージ四世:芸術とスペクタクル』(2019年)は、ジョージ四世(George IV, 位 1820–1830)の再建したカールトン・ハウスとオランダ絵画収集について論じている。また、ウフィツィにあった「画家の自画像室」についてヴォルフラム・プリンツが『ウフィツィ美術館の自画像コレクション』(1971 年)において、書簡に基づきコレクションの歴史を考察している。レオポルト・ヴィルヘルム大公の収集品を飾ったウィーンのシュタルブルク宮殿については、スヴォボダが『ウィーン帝国絵画館と公立美術館のはじまり』(2013 年)で宮殿内の絵画配置を三次元構成した。本発表では、こうした先行研究から、ルーベンスとヴァン・ダイクの肖像画が一対の形で飾られたことの意味を検討する。
その結果明らかとなったのは、ルーベンスとヴァン・ダイクの肖像画を二つながら収集できたのは高い社会的地位と財産を有する美術愛好家だったことである。すなわちイギリス国王チャールズ一世(Charles I, 位 1625–1649))とレオポルト・デ・メディチ枢機卿(Leopoldo de' Medici, 位 1667–1675)、レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ(Leopold Wilhelm von Österreich, スペイン領ネーデルラント総督 位 1647–1656)らである。彼らの所有したルーベンスとヴァン・ダイクの肖像画が、どのような場所に、いかなる意図のもとに飾られたのかを考察した結果、元来は夫婦肖像画で扱われた一対の肖像形式が、左側にルーベンス、右側にヴァン・ダイクの肖像画を配置するよう転用されたことが明らかとなった。また、自画像収集が 17-18 世紀の美術愛好家の間で高まっていたこと、17-18 世紀において宮廷画家として認識されていたルーベンスとヴァン・ダイクが、絶対王政の崩壊と宮殿の美術館化に伴い、フランドルの巨匠としての地位を獲得していったことを指摘する。