令和5年度 活動報告
<第108回大会> 令和5年7月1日(日)(於 筑紫女学園大学)
- 「ベルニーニ《四つの河の噴水》のガンジス川の河神像について」
落合桃子(福岡大学)
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17世紀イタリアの彫刻家・建築家ベルニーニ(Gian Lorenzo Bernini, 1598–1680)の《四つの河の噴水》(1648–1651年、ローマ、ナヴォーナ広場)は、時のローマ教皇インノケンティウス10世の発案によって制作された作品で、四方に大理石による4体の人物像が配置されている。これらはドナウ川・ナイル川・ガンジス川・ラプラタ川の擬人像で、それぞれヨーロッパ・アフリカ・アジア・アメリカの寓意となっている。16世紀から18世紀の西洋美術では、世界の四つの大陸を主題とした作品が数多く制作されたが、本作品では四大陸が4つの河川で表現されている。
本発表では、このうちガンジス川の河神像に注目する。いったいなぜアジアはガンジス川で表されているのか。《四つの河の噴水》に関する主要研究にフーゼ(1967年)やプライメスベルガー(1974年)などがあるが、ガンジス像についてはこれまで詳細な検討がなされていない。ガンジス川の河神像に込められた含意を浮かび上がらせることで、西洋近世美術におけるアジアの表象の一つの例を示す。
古代の西洋美術では、ギリシア神話の大洋オケアノスやその他の河川が人間の姿で造形化された。こうした河川の寓意像が河神像(God River, Flussgott)と呼ばれる。16世紀のイタリアで古代の河神像が再び注目され始めると、その後の美術作品に河神像のモティーフが多く見られるようになった。
ガンジス川に関して言えば、ヨーロッパでも古代からその存在は知られていたが、西洋美術でこの川の河神像が一般的になるのは近世に入ってからのことである。リーパ『イコノロジーア』(1603年)では、棕櫚の葉の冠を被った横臥像としてガンジス川が擬人化されている。ベルニーニ研究でも言及されてきたジャンボローニャ(Giambologna,1529-1608)《オケアノスの噴水》(1570–75年)の三世代の男性による河神像の一つもガンジス川と解釈されている。
では、ベルニーニ周辺でガンジス川は、どのように理解されていたのだろうか。《四つの河の噴水》に関するパンフレットを1651年に刊行したカトリック司祭で神学者のミケランジェロ・ルアルディ(Michelangelo Lualdi)は、その2年後に『福音の下にある東インド』を出版している。同書はポルトガル領インドや日本などにおけるカトリック伝道を論じたもので、ここでガンジス川の地理的理解について触れられている。
そして、ネーデルラント総督オーストリア大公エルンストのアントワープ入市式(1594年)の記録に、インドやブラジルなどへと支配を拡大していたポルトガルを主題とした「ポルトガル人の凱旋門」がある。この中に、ベルニーニ作品と同様の、ヤシの冠を戴いた髭のあるガンジスの河神像を見出すことができる。
このように、《四つの河の噴水》のガンジス川の河神像には、意味内容においても図像面においても、ポルトガル領インドないしアジアにおけるキリスト教布教との関連が見えてくるのである。
- 「鹿児島・薩摩川内市の木造阿弥陀三尊像をめぐって ―一三世紀鹿児島における仏像奉渡の一例―」
有木芳隆(公益財団法人 永青文庫)
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本発表では、近年その存在が知られた薩摩川内市町(個人蔵)の木造阿弥陀三尊像(以下本像)について概要を紹介し、制作年代、制作した仏師について考察する。続いて、本像は一見して鎌倉時代半ばころ畿内での制作を想定させるが、造像当初からこの北薩地域に伝えられたのならば、どのような経緯で奉渡されたのか検討する。この考察によって、薩摩・大隅等のいわゆる「南九州」中世前半期における仏像制作の様相、発願者(受容者)と制作者(仏師)、信仰(西大寺真言律との関係)等間の関係の一端を明らかにすることを目的とする。
鹿児島県では激しい廃仏毀釈のため、辛うじて破壊を免れた仏像も前近代の来歴不詳の作例がほとんどで、入来の旧家に伝わった本像も来歴不詳である。本尊像の像高は79.0㎝、形状は肉髻珠・白毫相・三道相をあらわし、内衣・覆肩衣・衲衣・裙を着ける。印相が不明だが、左足を踏み出して立つ姿勢や、両脇侍像来迎形式であるため阿弥陀像と判断される。品質構造は、ヒノキ材の寄木造。漆箔。玉眼嵌入。頭体幹部は両耳後ろを通る線で前後二材を矧ぎ寄せ、内刳りのうえ、頭・胸部と衣部を着衣の襟にそって割矧ぎ、また衲衣の裾と裙の間を割矧ぐ。左肩以下は袖外側まで一材でつくる。両足首は別材製で、脛部(別材)を矧いで裙裾部に差し込む。像底裙裏を刳り上げて、二本の雇枘で台座に立てる。
本像の作柄を検討するとき特に注目されるのが愛知・常楽寺の木造阿弥陀如来立像である。常楽寺像は弘長三年(一二六三)法橋円覚の作であるが、両像は面貌や体型、構造等がほぼ同工で、耳の造形も対耳輪、耳輪、上下脚の形が一致する。このような相似点から、本像も常楽寺像とほぼ同時期に、法橋円覚の手によって造立されたものと考えて誤りあるまい。法橋円覚は、山本勉氏によれば西大寺叡尊関係の造像に携わり、真言律の発展に伴って関東でも活動した「善派」仏師系統に連なる仏師と考えられている。また、円覚は別作例の銘文から鎌倉・極楽寺や忍性とも関わりのあったことも推測されている。
北薩地域とこの円覚とを結びつける要素として注目されるのは、一つには薩摩国唯一の西大寺末寺、泰平寺(廃寺、薩摩川内市)である。もう一つは宝治合戦(一二四七)後の恩賞として、この地域の地頭職を与えられ西遷した澁谷一族。澁谷氏は渋谷庄(神奈川県綾瀬市)を本貫とする関東御家人であり、愛知や鎌倉以外では作例が伝えられていない円覚の阿弥陀像が当地に存する理由としては、泰平寺での造像のために真言律と関係があった仏師円覚が起用され、そこに鎌倉御家人である渋谷氏の関与もあり得たとするものであろう。九州の鎌倉時代の仏像制作状況を展望するとき、関東御家人による畿内仏師作の仏像移入と、そこに特定宗派に近しい仏師の活動がしばしば認められるが、南九州・薩摩での本像奉渡の場合にも同様の局面が存したものと思われるのである。
- 「池田学《誕生》にまつわる語りの所在をめぐって」
秋山沙也子(佐賀城本丸歴史館)
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《誕生》(2013-2016)は、画家・池田学(1973-)の最大の作品にして代表作である。縦300cm×横400cm、パネル4枚分の大画面にペンの微細な線で描き連ねられた精細かつ壮大なスケールの画面は、その前に立つ者を圧倒する。
2013年よりアメリカ・ウィスコンシン州立大学付属チェゼン美術館のレジデンシープログラムに参加した池田は、現地で滞在制作を行い、約3年半をかけて《誕生》を完成させた。2017年に佐賀県立美術館が開催した特別展「池田学 The Pen ―凝縮の宇宙―」で国内で初めて公開され、同年に佐賀県が購入した。以降、現在に至るまで、佐賀県立美術館の目玉となる収蔵品の一点として、展覧会などで展示・公開がなされている。
本作の語りにおいて、しばしば「東日本大震災」という枕詞が登場する。当時カナダに滞在していた池田が、故国を襲った東日本大震災(2011)の惨禍に衝撃を受けて本作の制作を始めたというエピソードは広く知られており、がれき(震災遺物)や荒れ狂う波など、作品内には震災および原発事故を想起させるイメージが散見される。その語りの「分かりやすさ」から、東日本大震災という時事的な事象から本作を解釈する言説が《誕生》の一般的な作品理解とされてきた事実は否めず、展覧会においてもそのような語りが主流となってきた。
しかしながら、本作はそのような一面的な見方には収まりきらない深く多義的な射程を有している。その理由の一つは、制作にかけられた時間に由来する。池田はペンで細部を描き重ねながら、物語やイメージを思索的かつ連続的に広げていく手法を取るが、作品内に登場するモチーフを追うことで、3年半という制作期間を経て作家のイメージが拡散し、あるいは熟成され、より広義の災害や自然の諸相、生と死、あるいはその連環などの表象へと変貌するさまを見ることができる。本作にはさらに池田の生活経験、異国で見聞きした事物やメディア・イメージなど、様々なモノが登場する。個別具体的であるそれらのモノは、作品世界の中で一定の役割を持ちながら、鑑賞者の想像力を刺激し、多彩な語りを引き出す。東日本大震災という「大きな物語」を経糸、池田の生活史などの「小さな物語」を緯糸として成立した本作は、それらの個別性を超え、より多声的かつ普遍的な語りを獲得するに至ったと言うことができるだろう。
発表ではまず、本作の完成から現在に至るまで、展覧会やメディア掲載を通じて本作に付せられてきた作品論や言説を整理し、本作《誕生》がどのような文脈で語られてきたのかを分析する。その上で、作品内に描かれたモチーフを分析し、東日本大震災という個別の事象から種蒔かれたイメージがどのように変容・発展していったのかを探る。最終的には、学芸員としての立場から、ミュージアムが作品を「語る」ことの課題についても言及したい。
見学会
太宰府市文化ふれあい館 太宰府の絵師展3「吉嗣家交友録~近代文人の書と絵画~」
懇親会
於 ビストロでんでんむし(太宰府市)
<第109回大会> 令和5年12月2日(土) 研究発表(於 沖縄県立博物館・美術館)、3日(日) 見学会
- 「仏師院什作 山口・正護寺釈迦三尊像について」
末吉武史(福岡市博物館)
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山口市陶にある萬松山正護寺は、南北朝時代の延文年間(1356~1361)に大内氏重臣の陶弘政を開基、傑山寂雄を開山として創建された臨済宗東福寺派の寺院である。本発表では同寺本尊として伝来した釈迦如来及び両脇侍像を取り上げる。
中尊は髻を結い上げて豪華な宝冠を戴き禅定印を結ぶ宝冠釈迦如来像で、その図像は中国・宋~元代に『華厳経』の教主毘盧遮那如来の影響を受けて成立し、日本では鎌倉時代以降、禅宗寺院でしばしば造像されたものである。像高85.2㎝、ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入し、表面は金泥に精緻な截金と盛上げ彩色を駆使した皆金色仕上げとし、銅製鍍金の豪華な宝冠と胸飾が付属している。両脇侍は獅子(亡失)と象に騎乗する文殊・普賢菩薩で、中尊と同工であり、当初から一具の作と認められる。
三尊とも箱を思わせるやや角張った体躯で、厚手の衣に複雑にうねる衣褶、眉を長く引いた沈んだ顔立ちをあらわし、像内を平滑に内刳りしたうえ像心束と前後の体幹部材を繋ぐ二本の束を設ける構造を採用している。こうした特徴は足利将軍家の菩提寺である京都・等持院の大仏師職に任じられた仏師院吉とその嫡子院広らが確立し、南北朝~室町時代の仏像様式の主流となった院派様式に通じるものである。また、その出来栄えも院吉・院広の代表作である観応3年(1352)銘静岡・方広寺釈迦三尊像に匹敵する水準にあり、膨らみの強い頬や着衣の処理などに微妙な作風の違いが認められるとはいえ、制作時期も方広寺像とさほど隔たらないように見受けられる。
ところで、本三尊像は既に『山口市史』史料編に紹介され、南北朝時代の院派仏師による作品と評価されていたが、これまで造像銘記等は報告されていなかった。しかし、近年発表者が改めて精査を行ったところ、像底裳先部に「仏師法印院什作」と記す陰刻銘が見出され、仏師院什が制作したことが明らかとなった。
院什については、正平17年(1362)の福岡・崇福寺(周防永興寺旧蔵)釈迦三尊像や応安7年(1374)の山口・龍文寺(周防長福寺旧蔵)釈迦如来像など数件の作例があり、大内氏関係の造像など西国を中心に活動していたことが知られる。また、仏師としての系譜についても、正平25年(1370)銘の熊本・東禅寺釈迦三尊像には「仏師院吉嫡孫院什嫡子院■(一字不明)」と記されることから院什が院吉の子で、さらに法印位の補任時期から院広と並ぶ重要な立場の仏師であった可能性も指摘されている。
本発表では本三尊像の概要を紹介するとともに、既に知られている関連作品との作風比較を通じて院什の個性を明らかにし、彫刻史的な位置づけをおこなう。さらに、大内氏や陶氏といった有力外護者の存在にも注目し、周防・長門地域におけるその後の中世院派仏師の活動について、現存作例を押さえながら地域的な展開を跡付けたい。
- 「長崎、大浦天主堂所蔵《二十六聖人殉教図》《元和の大殉教図》の画家セシル=マリー・トレルについて』」
谷古宇尚(北海道大学)
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現在も大浦天主堂の聖堂内陣に掲げられる《二十六聖人殉教図》と、隣接するキリシタン博物館に移された《元和の大殉教図》は、最近フランスの女性画家セシル=マリー・トレルによる1869年と1870年の作であることが確定された。《二十六聖人殉教図》は1869年のサロン出品作であり、トレルにとってサロンへのデビュー作であった。
1840年にパリで生まれたトレルは、1908年にヴェルサイユで倹しい生活を送りながら亡くなった。フランスのトゥーロンやル・マン、ヴェルサイユに大きなサイズの祭壇画が残されており、司教の肖像なども描いている。少なくとも職業的な画家としては、カトリック教会と近しい関係にあったといえる。小品ではあるが《コンソラツィオーネ施療院でのピウス9世の贖宥の業》という同時代の教皇と関係する珍しい主題にも取り組んでいる。トレルは、世俗化の趨勢の中で困難な状況にあった教会と共に、近代におけるキリスト教美術と向き合った画家だった。
本発表では、この忘れられた画家の画業を残された数少ない作品から辿りつつ、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての教会による美術戦略の文脈に、大浦天主堂の殉教図を位置付けることを試みる。その際、28歳で亡くなった夭折のイタリア人画家ベルナルド・チェレンターノがアイルランド・ダブリンのイエズス会聖堂のために制作した《フランシスコ・ザビエルの日本での説教》(1860年)や、1869年にローマで展示されたジュリオ=チェーザレ・フェッラーリによる《カルロ・スピノラの殉教》(油絵習作のみ現存、個人蔵)など、これまで紹介されることのなかった日本における宣教や殉教を描いた作品についても検討したい。
リソルジメントの時代、徐々に領土を失い1870年にはローマをイタリア王国に併合されることになる教皇庁にとって、美術は教会の普遍的な権威を示す恰好の手段であった。また、長崎の二点の殉教図を注文したと考えられる日本代牧区のプティジャン司教は、当時中国や韓国、ベトナムで数多くの殉教者を出していたパリ外国宣教会に所属していた。浦上四番崩れの真っ只中にあって、もしこれらの殉教図を信徒たちが目にすることがあったならば、信仰を棄てることなく死に立ち向かうよう鼓舞したであろうし、プティジャン司教はそれにより、日本での新たな殉教者を求めていたのかもしれない。14世紀初頭にさかのぼるフランシスコ会士をはじめとする宣教師たちの殉教の図像の系譜は、やや時代遅れに思われるが、長崎でその掉尾を飾るのである。
- 「近代における光明皇后のイメージに関する一考察―施浴・社会事業・観音のイメージを中心に―」
長嶺勝磨(沖縄県立芸術大学大学院)
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近代日本の社会事業を牽引した皇室の「御仁慈」の先例として、光明皇后の表象が重要な役割を果たしていたことが先行研究で指摘されてきた。若桑みどりは近代日本における皇后の表象を前期と後期に分け、後期を代表する光明皇后には、赤十字活動や看護慰問に重点を置いた女性規範が込められていると論じ、片野真佐子は、東京慈恵医院の開院式に臨んだ美子皇后の令旨に光明皇后への言及がみえることを指摘した。
本発表では、赤十字活動や看護慰問に重点を置いた女性規範としての光明皇后のイメージを具体的に検証し、その形成や展開、特色について、テキストとビジュアルイメージの両面から考察を行う。その際、施浴・社会事業・観音という三つの観点から皇后のイメージに注目し、明治時代から昭和時代の展覧会に出品された美術作品を分析して、その特徴を明らかにする。そして、主に以下の事実を指摘する。
近代以前において、光明皇后が病人の垢を洗ったとする『建久御巡礼記』所載の説話に基づいた施浴のイメージは、絵巻や錦絵などに描かれてきた。やがて1887年(明治20)の令旨や翌年の磐梯山噴火を契機として、皇室や日本赤十字社などを中心に、日本における社会事業の先駆者として光明皇后を評価する言説が明治時代後期に多く見られるようになった。1913年(大正2)の明治記念博覧会には、小堀鞆音の《光明皇后大悲願圖》が出品された。皇后を「赤十師」と称える大道長安の詩が書かれた本作は、赤十字の博愛精神を代表する存在として、光明皇后を描き出した。
次に、社会事業を実践する光明皇后を描いた作品として、高橋廣湖の《藥狩》、増田牧山の《光明皇后深夜縫衣圖》、保田龍門の《光明皇后賜療》、高橋萬年の《光明皇后像》、寺崎武男の《渤海國使節藥料奉献の圖》などが挙げられる。施薬院・悲田院設置の事蹟に基づいたこれらの作品のうち、《藥狩》と《渤海國使節藥料奉献の圖》は1934年(昭和9)に開催された救療史料展覧会に出品され、皇室の「御仁慈」を国民に示す役割を果たした。
そして法華寺の十一面観音像の伝説に基づいた作品として、中澤弘光の《おもひで》や澤田政廣の《光明佛身》が挙げられる。これらの作品は光明皇后を観音像として表現し、皇后の慈愛精神を観音の慈悲に結びつけることに成功した。
近代に制作された光明皇后像の多くは、光明皇后を慈愛に満ちた人物として表現する傾向がみられる。明治時代以降、皇室の「御仁慈」や日本の社会事業と密接に結びついた光明皇后のイメージは、慈愛の象徴として国民の間に定着し、美術家らにとって重要な主題になっていったと考えられる。
- 「デザイナー柏崎栄助の戦前期の活動について ―「紅房」におけるデザインおよび欧州滞在を中心に―」
藤本真帆(福岡県文化振興課)
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デザイナー・柏崎栄助(1910‐86)は、昭和初期に琉球漆器へデザインの革新をもたらした工芸組合であり漆器メーカーである「紅房」における活躍で知られるデザイナーである。戦後は福岡を拠点とし、九州各地の試験場や指導所と関わり続けるとともに、福岡市内で伝説的なインテリアショップ「NIC」を立ち上げ、さらには、九州のデザイナー達の組織化に携わるなど、福岡や九州のデザイン史を語るうえでは欠かせない人物である。大学でも長く教鞭をとり、柏崎を慕う人々は今もなお多い。
柏崎栄助に関する先行研究としては、主に、追悼展刊行物、比嘉明子氏の戦前期の工芸産業振興に関する博士論文、梶山千鶴子氏の柏崎栄助に関する修士論文、車政弘氏、竹口浩司氏、阿部守氏、武田義明氏などによる主戦後の活動を中心とした記述・論考などがあるが、その足跡についてはいまだ不明な部分も多く、基礎的な研究も十分とは言えない。柏崎の活動の検証は、九州のデザイン史研究においても重要な意義を持つのみならず、デザインという概念・用語が成立しつつある時代における図案家/デザイナーのキャリア形成の検証という意味でも意義を持つと考える。本発表では、柏崎の活動を考察していくために、主に初期の柏崎を考えるうえで欠かせない二つの点について検証する。
1点目は、紅房時代の柏崎がデザインした製品の制作年についての問題である。現在、柏崎デザインと思われる紅房製品は主に浦添市美術館と福岡県立美術館に収蔵されており、福岡県立美術館所蔵の紅房ゆかりの作品は全て制作年(デザインされた年)が戦前に帰されている。しかしその中には戦後デザインのものも多く含まれていると考える。本発表の前半では、福岡県立美術館所蔵の柏崎デザイン作品の制作年を検討するとともに、柏崎デザインとされる紅房製品の造形的特徴を整理しつつ、ウィーン工房、特にヨーゼフ・ホフマンのデザイン(1870-1956)の影響を確認する。
2点目は、柏崎のヨーロッパ滞在についての問題である。柏崎栄助は東京美術学校図案科卒業後、1936年よりヨーロッパへと遊学する。彼の教え子によると、滞欧時に参加したヨーゼフ・ホフマンのゼミについて柏崎はしばしば語っていたという。柏崎の珠玉の書簡集『沖縄日記』(1989年刊行)にも繋がる重要な出来事ではあるが、現存資料が少ないこともあり、先行研究でもあまりその実態について検討されていない。本発表では、柏崎のウィーン滞在を中心に、ウィーン応用芸術大学(当時の工芸学校)アーカイブの資料をもとに柏崎の滞欧期の動向を検証する。アーカイブの学籍簿には柏崎の名前が残されていなかったが1936年には外国人向け夏期講習が開催されていたことが分かった。アーカイブに残された工芸学校の授業記録や年報、あるいは柏崎の師・和田三造の著書の記述なども踏まえ、柏崎栄助の渡欧の状況とその位置づけおよび意義を論ずる。
- 3日(日) 見学会
佐喜眞美術館(宜野湾市)
南風原文化センター・沖縄陸軍病院南風原壕軍20号(南風原町)
ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)