令和6年度 活動報告
<第110回大会> 令和6年年7月6日 土曜日(於 福岡大学 中央図書館 多目的ホール)
- 「ヨハネス・フェルメールのヴァージナルをめぐる一考察」
恒賀康太郎(中村学園大学)
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17 世紀オランダは、風俗画を含めた様々なジャンルの絵画が成立し、新興市⺠階級が買い求めることで画家の生活を潤した時代である。そのため、当時の風俗画には市⺠の生活の一端が現れるだけでなく、市⺠の関心事や出来事が暗示的に表現された。したがって、画中の楽器は、何の楽器がどのように描かれているかは、作品理解に欠かせない情報であるといっていい。本発表で取り上げるヴァージナルもその一つであり、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer,1632-1675)のみならず、同時代のオランダで活躍したヤン・ステーン(Jan Steen, 1626 - 1679)やヘリット・ダウ(Gerard Dou, 1613 ‒ 1675)など様々な画家が画中に描いている。
ヴァージナルは、チェンバロと同様の機構を持つ小型撥弦鍵盤楽器であり、その特徴からチェンバロの一種として位置付けることができる。一般的にグランドピアノ型の大きなものはチェンバロ、小型で弦が奏者からみて横に張られているものはヴァージナルと呼ばれている。その形態的特徴を具体的にみると、弦が楽器の⻑辺および鍵盤と平行に張られており奏者から見て手前側に低音弦が張られていることである。また、イタリアの ロッシ親子の楽器のようなヴァージナルは鍵盤が本体の箱より前に突き出しており、ベルギーやオランダ、ドイツのものは、鍵盤が本体の中に収まっているのが特徴である。このように、各地域に特徴のあるのヴァージナルが作られたのは、それを担った工房の影響が少なくない。特に、後者の地域で活躍したのはルッカース一族である。彼らは、ハンス・ルッカース(Hans Ruckers,1540-1598)を筆頭に、息子のヨハネス(Ioannes Ruckers, 1578-1642)やアンドレアス(Andreas Ruckers, 1579-1645)とその子、さらには彼らの甥のヨハネス・クーシェ(Ioannis Couchet,1615-1655)に至るまで多くの職人を擁する大工房を経営し、他の工房にない特徴を今に伝えている。また、その特徴は、フェルメールの画中に描かれたヴァージナルにも表れており、明確なルッカース一族の手によるものとして疑いがない。その明確な特徴ゆえに、フェルメールに関するヴァージナルは、画中での意味合いや作品解釈の上で論じられるにとどまり、ヴァージナルそのものの検証については十分議論されてきていなかった。1996 年 Ben Broos によって「稽古」に描かれたヴァージナルがヨハネス・クーシェの手によるものであろうとする指摘がなされ、2006 年 Peter C.Sutton によって、アンドレアスが制作したものとして示唆されているが、推測の域を出ていない。
本発表では、フェルメールのヴァージナルに関するこれまでの研究成果を参照しながら整理することで、上述の再検討の必要性があることを言及したい。また、再検討によって作品のイメージや画家フェルメールの制作手法や方法を明らかにする可能性について論じる。
- 「堂本印象「新造形」期の黒色顔料—自然科学的調査による既往の仮定との比較—」
中尾泰斗(鳥取大学)
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堂本印象(1891-1975、以下、印象)は 50 年以上の画業でみせた多様な作風が注目される。その中で本研究の範囲である 1959 年以降の「新造形」期では《交響》のような線状の造形が主体になった抽象画を制作した。
「新造形」は、当時日本でも流行したアンフォルメルやオートマチスムを想起させる図や、印象がミッシェル・タピエと複数回交流したことから⻄洋美術からの影響がしばしば指摘される。しかし、少なくとも制作課程に目を向ければ、「新造形」は実験的な試みを除いて日本画材で構成され、手順も小下絵から大下絵、本画という日本画制作の基本に従っている。この準備と見通しの設計は日本画において一般的な手順である一方で、偶然性に依拠するオートマチスムと比較すれば入念な態度といえる。また、印象は補色関係を意識した画面作りを意識するなど、東洋的な余白や空間観を重んじながらも造形空間の表出を冷静に思案する態度があった。
本発表は、以上のように制作された「新造形」における黑色顔料に関する報告である。「新造形」の黑色部は墨での描画と解説される一方、先行研究では作品実見と日本画制作の一般論を運用し、画表面の再現には岩絵具白番の使用が最も妥当と指摘されている。しかし、印象と親しかった関係者からは「ドイツブラック」(以下、試料)または「ピグメントブラック」と呼ばれる通常日本画で用いる岩絵具とは名称を異にする粉体の使用が示唆されている。つまり、「新造形」の黑色は目視において細粒子であるという事実以外に輪郭が定かでない。この現状は、本研究が直接的に関連する学芸、美術史分野での作品解説や史的位置づけ、そして作品の保存、修復において曖昧な現状を呈するものであり、早急な把握が望まれる。
では、試料は先行研究に対してどのような差分があるだろうか。本研究では、縁故者が所有する試料に対し自然科学検査を実施し実態を追及する。このために、先行研究を踏まえ試料を無機顔料と仮定して以下の手順を採った。
①走査電子顕微鏡(SEM)観察とエネルギー分散型 X 線分析装置(EDS)測定による試料の形状および成分の確認と比較顔料の選定
②比較対象と試料の双方への物性検査(吸油量、着色力、吸油量、隠ぺい力、比重)
③①と②の結果を踏まえ有機物を除いた状態と重量の変化を確認するための顔料焼成試験検査の結果、試料と既往の仮定は以下の相違がみられた。
①試料の形状は天然白群のような単結晶粉砕物でなく、純黑朱のような合成顔料と同様。
②試料の 1 次粒子は天然白群や純黑朱といった日本画で一般的に用いる黑色顔料より細かい。
③試料の組成は銅とクロムが主な無機物として検出されながらも有機物を含む。
④物性検査からは比較した無機顔料(銅クロムブラック)と結果が類似しない。
以上から、自然科学的検査の観点からは墨もしくは天然岩絵具白群という既往の認識や仮定が棄却された。
- 「ペーテル・パウル・ルーベンス作《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》と《四人の哲学者》におけるイタリア芸術の受容―ネオ・ストア派の死の概念―」
小笠原実果(公益財団法人 政治経済研究所)
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本発表では、17 世紀フランドルを代表する画家、ペーテル・パウル・ルーベンスによる《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》(ヴァルラフ・リヒャルツ美術館蔵)と《四人の哲学者》(ピッティ宮殿、パラティーナ美術館蔵)におけるイタリア芸術の受容について論じる。この二つの作品に共通するのは、自画像を含む集団肖像画だという点である。17世紀前半のネーデルラントにおいて、画家が家族やギルドの仲間とともにある集団肖像画は存在するが、それ以外の人々との集団肖像画は、類例をみない。
美術史家ハンス・フリーへは、ルーベンスの作品をまとめたシリーズの一編である『肖像画 II』(1987 年)のなかで、《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》を《四人の哲学者》の原型であると述べ、この作品からルーベンスと描かれた人物たちがマントヴァにいたことがわかると論じた。しかし、《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》における登場人物、明確な制作年代、そして主題は十分に明らかとなっていない。そのため、この作品と《四人の哲学者》との関係性や共通点も、検討の余地を残している。
この問題を明らかとするため、ルーベンスのイタリアでの滞在(1600〜1608 年)がどのような影響を与えたのかという観点から考察を試みる。ルーベンスが参考にしたと思われるイタリア絵画に加え、古代ローマ時代の遺跡や石棺も考察対象とする。また両作品に描かれている新ストア主義者のユストゥス・リプシウスの思想を検証するために、著書『オペラ・オムニア』からの引用や、ギリシアの哲学者セネカやキケロの言葉も検討する。
その結果、《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》を描いた頃、ルーベンスはゴンザーガ家の宮廷画家としてイタリアに滞在し、先の宮廷画家アンドレア・マンテーニャの作品《出会い》と《聖母のお眠り》に影響を受けていたことがわかった。《聖母のお眠り》は、聖母の死を主題としており、そこに描かれた胸に手を置く聖人と同じジェスチャーをしたルーベンスの自画像からは、悲しみの表現が読み取れる。《四人の哲学者》においても、死との関係がみとめられる。すなわちこの肖像画には、すでに故人であったリプシウスとフィリップ・ルーベンスを中心に、リプシウスの信奉者であったヤン・ヴォヴェリウスとルーベンスが描かれている。
この二作品は、いずれも新ストア主義者たちの集いを描いていると解釈できる。その通奏低音としてあるのは、時空や死をもものともしない賢者の友情である。リプシウスは、セネカの哲学を解釈するなかで、賢者による友情は死よりも強固であると説いている。そのため、《マントヴァにおけるルーベンスと友人たち》中にマントヴァに来ていない人物が描かれていても問題はなく、《四人の哲学者》において死者と生者はともに集うのである。
- 「アーンドラ地方南部のヒンドゥー教石窟の場所性について—その系譜と分類—」
永田郁(崇城大学)
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発表者は 2016 年 1 月に「南インド・宗教美術に関する研究(崇城大学平成 26 年度研究重点配布予算)」の一環で、南インド、アーンドラ・プラデーシュ州南部の都市ヴィジャヤワダおよびネロールに点在する四つのヒンドゥー教石窟寺院1Mogalrajapuram Caves, 2Undavalli Caves, 3Akkanna Madanna Caves (Upper/Lower)(1〜3、ヴィジャヤワダ周辺)4Bhairavakonda Caves(ネロール周辺)を踏査した。その後、上記石窟寺院の基本情報として写真、平面図、石窟の概要を公開・記述した簡単な報告書を『崇城大学芸術学部研究紀要』第 16 号(2022)に掲載した。本発表は拙稿の報告書を踏まえて、南インド、アーンドラ地方南部に展開するヒンドゥー教石窟の「場所性」について考察するものである。
本研究が対象とする南インド・アーンドラ地方は紀元前より仏教美術が展開し、特に後 2〜4世紀頃まで、サータヴァーハナ朝・イクシュヴァーク朝の下で豊潤な仏教美術の世界が展開してきたことはよく周知されているであろう。ただ、ヒンドゥー教美術の当時の様相については未だ
判然としない部分が多く、特に 4 世紀イクシュヴァーク朝が崩壊した後の 5 世紀〜8 世紀の当地の宗教美術については不明な点が多く残され、Missing link と言えるのである。特にこのアーンドラ地方南部にある四つの石窟寺院は、仏教美術を開花させたサータヴァーハナ朝・イクシュヴァーク朝が活躍したクリシュナー河・ゴーダヴァリー河の南であり、7 世紀以降タミル地方で台頭し、ヒンドゥー教美術を展開するパッラヴァ朝の版図の北に位置し、時代も Missing link である5〜8 世紀の間に造営されたものとみられる。すなわち、上記のヒンドゥー教石窟の詳細を調べることで、失われた5〜8世紀の南インドの宗教美術の様相が明らかとなると考えている。
この地方の周辺地域を考えた際、⻄にはデッカン地方を覇者ヴァーカータカ朝、初期⻄チャールキヤ朝、南にはタミル地方の覇者、パッラヴァ朝の諸王朝が群雄割拠の状態であり、王朝間の文化交流も念頭に入れる必要がある。また 7 世紀前半には玄裝三蔵も当地を訪れており、『大唐⻄域記』の記述も援用すれば、その当時の宗教美術の様相の見通しがたつと考えている。本発表では、四つの石窟の建築的な構造(柱の形式含め)および主室などの本尊や壁面に彫られたヒンドゥー教の神像浮彫や装飾表現などを整理・分類することで、各石窟がどの周辺地域と関連ある
のかという系譜の問題、またその独自性などを見極めていきたい。なぜヒンドゥー教石窟を取り上げるかについては特に5〜8世紀は石窟寺院の⻩金期の時代でもあり、その後 8 世紀以降、インドでは石積寺院が展開していくため、石窟寺院がその時代を表す指標となると考えられる。従って、本研究ではヒンドゥー石窟を通して、アーンドラ地方南部のヒンドゥー諸王朝が交流する特異な「場所の特性」を明らかにすることで、デッカン高原を中心とする南インド・宗教美術史の再構築の一助となればと考えている。
- 見学会
野見山暁治《卑弥呼の国》・野見山暁治(原画・監修)《卑弥呼の国》
- 懇親会
於 文系センター棟 16階 スカイラウンジ
<第111回大会> 令和6年12月6日(土) 研究発表(於 鹿児島市立美術館)、7日(日) 見学会
- 「小清水漸論―「作業台」シリーズと「水浮器」シリーズの関連を中心に」
秋丸知貴(滋賀医科大学)
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本発表は、もの派の彫刻家小清水漸(1944-)の芸術活動、特に1974年から始まる「作業台」シリーズと1975年から始まる「水浮器」シリーズの関連を集中的に考察する。
小清水は、もの派の中心作家であるにもかかわらず作品が難解な上に自作を解説することが少ないので、これまで峯村敏明や北澤憲昭等の少数の論者を除いて本格的な研究論文は少なかった。特に、「作業台」シリーズ以後の作品は造形要素も多く、素朴な反造形主義とされるもの派の通念と異なるので研究に取り上げられること自体が少なかった。
しかし、2010年に稲賀繁美が「作業台に座る石たちは、なにを語るか」で、小清水の「作業台」シリーズがジャック・デリダの『絵画における真理』(1978年)における本体(エルゴン)と装飾(パレルゴン)の関係の脱構築よりも数年早いことを指摘したことで改めてその重要性が注目されている。これを受けて、2015年以来発表者は、小清水の「作業台」シリーズに関する展覧会を2回キュレーションし、小清水とインタヴュー・対談・シンポジウムを重ね、本年11月8日には「もの派の淵源」展国際フォーラム(上海AAEFアートセンター)で小清水と公開対談も行った。これらの継続的かつ最新の研究成果に基づき、本発表では「作業台」シリーズとそれに深く関連する「水浮器」シリーズの制作過程を詳細に解明する。
2019年に拙稿「Qui sommes-nous? ――もの派・小清水漸の1966年から1970年の芸術活動の考察」で示したように、1968年に小清水は《位相‐大地》により芸術表現における観念性から実在性への転換を経験した。また、2019年に拙稿「現代日本美術における土着性――もの派・小清水漸の《垂線》(1969年)から《表面から表面へ‐モニュメンタリティー》(1974年)への展開を中心に」で明らかにしたように、そうした《位相‐大地》がもたらした作者の主観的構想以上の物体の客観的性質の強調は、小清水に西洋彫刻とは異なる、素材の性質や自然との関係を重視する日本の伝統的な造形的感受性を開眼させた。さらに、2021年に拙稿「現代日本彫刻における土着性――もの派・小清水漸の《a tetrahedron‐鋳鉄》(1974年)から『作業台』シリーズへの展開を中心に」で論じたように、そうしたもの派としての経験から、小清水は西洋の人間中心主義的な彫刻観とは異なる、時間的にも空間的にも人為的な完結を保留する自然に開かれた「作業台」シリーズを生み出したのである。
これに並行して、同時期に同様の脱西洋志向から小清水が取り組んだのが「水浮器」シリーズである。この陶製の器に水を張り物体を浮かべることを基調とする連作もまた、石膏や青銅による具体的な人体像を至上とする西洋彫刻を相対化する試みであり、彫刻の中に日本の伝統的な工芸的感受性を生かすものであった。そして、時に組み合わされる「作業台」シリーズと「水浮器」シリーズは、ただ単に彫刻において西洋と東洋を対立させるのではなく、互いに補い合うより普遍的な方向性を示唆するところに現代的な意義があると指摘できる。
- 「東照大権現像と四代木村了琢」
竹下正博(佐賀県立名護屋城博物館)
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東照大権現あるいは徳川家康の神格化については、近年歴史学の研究進展が著しく、さまざまな作例が紹介されて研究の余地が広がっている。
美術史においても図像的研究が進み、しかみ像と呼ばれることもある徳川美術館本東照大権現像について、大織冠(藤原鎌足)像や如意輪観音像と重ねた礼拝像と解し、憤怒の相を家康の武威の顕現とする見解が提出されると、同様の表情をみせる増上寺本など、異形ととらえられることもあった作例の見直しが行われている。
その一方、東照大権現の神格化を主導した天海のもとで成立したと考えられる通有の図像作例については、国華紙上で狩野一信筆の作品を紹介した島尾新氏の丁寧な作品紹介があるものの、基礎的な研究は盛んではない。
令和5年9月開催の佐賀県立名護屋城博物館特別企画展「新時代へのかけはし」に出品された対馬市・萬松院の東照大権現像は従来ほとんど知られていない作品であるが、実見したところ、天海の賛文と「絵所」「吉綱」の印を有し、極めて優れた画技が認められた。正保2年(1645)に厳原に勧請された東照宮に伝来し狩野探幽筆との伝承があるが、制作・伝来の経緯と木村家の家系譜を照合した内藤典子氏は作者を四代木村了琢としている。
四代木村了琢は、天海の指導により日光東照宮での絵画制作に携わるなど、極めて重要な絵仏師であるにもかかわらず、実作品に即した画技・画風の検討が十分になされているとはいいがたい。
今回の発表では、萬松院本及びその写本(十一代木村了琢筆)について詳しく紹介するとともに、四代木村了琢の作品として著名な徳川記念財団本と比較を行う。東照宮は全国各地で500あるいは700社が創建されといわれる。絵画、彫刻を問わず多くの東照大権現像が制作されたはずであり、今後も新出作品が続くことが予想される。根本像ともいうべき、四代木村了琢の作品について検証することにより、通有の図像のみならず、さまざまな東照大権現像を研究するにあたってのひとつの指標を提示できればと考えている。
- ミニシンポジウム「地域の課題と博物館 〜福岡市の「大灯籠」「大灯籠絵」調査、研究、展示の取り組み事例を手がかりとして〜」
発表:河口綾香(福岡市博物館)、佐々木あきつ(福岡市博物館)
司会:小林知美(筑紫女学園大学)
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【シンポジウム要旨】
令和4年(2022)一部改正された博物館法では、博物館の事業が、地域の活力の向上に寄与することをうたっている(博物館法は1951年制定、2009年改正)。地域をフィールドとして博物館活動を担う学芸員にとっては、地域の課題は、既に以前から身近に感じられていたはずである。九州山口地域を中心とした博物館活動に関わる会員の多い本学会として、新博物館法の示す内容をふまえ、近年の福岡市の「大灯籠絵」調査研究の取り組み報告を元に意見交換を行い、今後の課題や展望を考えたい。
【要旨】
福岡市博物館で開催された特別展「大灯籠絵」(令和6年9月13日から11月4日)は、2つの趣旨のもとに計画された展覧会である。
1つは、これまで研究の及んでいなかった福岡市における「大灯籠」「大灯籠絵」について、現時点での調査の成果を公開し、得られた知財を還元することである。
「大灯籠」とは、博多湾沿岸部の比較的マチ場に位置する「町」「町内」の神仏の夏祭りで道辻に飾られる畳4畳ほどの巨大な灯籠のことで、「大灯籠絵」は、「大灯籠」の木枠に取り付けられた合戦図や説話の一場面などが描かれた絵である。令和3年以降、3年にわたる調査で現存が確認された「大灯籠絵」は60点あまり、写真のみに残るものも含めれば80点以上になる。
限られた資料から「大灯籠」の歴史や展開を語ることは早計であるが、1.「大灯籠」を飾る行事は、博多湾沿岸部の町場を中心に行われている(た)こと、2.施餓鬼供養を中心とした死者の霊を弔う行事のなかで「大灯籠」が飾られている(た)ことが多いこと、が福岡の「大灯籠」の特徴として明らかになってきた。また、「大灯籠」を表す言葉が世代や地域によって多様であることも分かってきた。しかし小さなコミュニティで伝えられてきた「大灯籠」の存在は、町の外にはほとんど知られていない。この展覧会では、「大灯籠」が飾られる地域ごとに、行事の内容、「大灯籠絵」の特徴、今日至るまでの変遷について紹介し、多くの人に知られざる文化財の魅力を知ってもらうことを目的とした。
また、展覧会では「大灯籠絵」を製作した絵師にも注目した。博多周辺で活動していた浮世絵師、絵馬師を本業とする絵師3名に焦点をしぼり、彼らが「大灯籠絵」のみならず福岡博多の信仰、年中行事、社会、文化など生活に深く関わっていたことを、作品を通して紹介している。
もう1つは、調査の過程で直面した切実な担い手不足、行事や道具の保管と活用というヒト・コト・モノの継承の問題に対して、博物館は何かできるのかという地域の課題に答えることである。
「大灯籠」を飾る町内は、行事や「大灯籠絵」という有形 無形の文化資源の継承と活用について大きな課題を抱えている。博物館は、これらの課題を抱えた地域とどのように向き合うことができるのか。展覧会にかかる一連の資料調査や聞き書き調査、展覧会の開催、図録の作成、関連事業の実施などを通して模索する機会とした。一方で、行事や地域の衰退に危機感をもった若い世代が中心となって、行事の賑わいや町の誇りを取り戻すために「大灯籠」を復活させたり新たに取り入れたりした事例や、劣化しつつある「大灯籠絵」を復元した事例もある。本展は、こうした事例を展覧会という場を活用して共有することもねらいのひとつとした。本展をとおして「大灯籠」を飾る地域の文化を知り、地域の文化を継承していくことについて考える契機の一つになれば幸いである。
- 7日(日) 見学会
隼人塚(霧島市隼人町)
松下美術館(霧島市福山町)
三宅美術館(鹿児島市)
長島美術館(鹿児島市)