メディアとのつきあい方

研究人生のなかでマスメディアと交差することが何度かあったのですが、「近くて遠い/遠くて近い」という2つの感想が入れ替わることがありました。

1.最初に交差したのはある商業誌Aで、原稿を提出した後になって「原稿料はありません」と言われたのですが、普段から論文などでは掲載に原稿料をもらう訳ではないので、そこにこだわりはなかったのですが、事後的に言われるのはよくないなぁ、と思い、編集側に提言したことがありました。

2.次に交差したのは商業誌Bで、これは調査先でのある話題を広めたいために、私から企画書を書いて掲載していただいたのにもかかわらず、当時としては驚くほどの原稿料をいただき、読者に支持されている商業誌の力を仰ぎ見たこともありました。

3.そのあとは、フィールドで調査をしていたところ、現地のドキュメンタリー作家の方Aさんにドキュメンタリーを撮らせてほしいと言われたのですが、顔ばれすると現地調査に影響をきたすな、と思い、オファーを断ったことがありました。

4.ところが博論を終えつつあるステージではもうこの理由が書くなったので、現地地方紙Aや別の現地ドキュメンタリー作家Bのインタビューにも応えています。なので、まぁお互い様なのですが、仕事のライフステージ上での出遭いというのもあるよなぁ、と思います。

5.日本に戻ってきてからは、児童福祉の暴力問題に取り組んだこともあり、これはまた別問題が発生し、いい勉強になりました。もともとは臨床心理学の田嶌誠一先生の声掛けで始まった仕事でしたが、臨床心理学では基本的にケースは守秘義務で、日時も場所も、名前も特定されないようにして、資料はすべて回収します。ですが、人類学の場合は基本的に社会問題に取り組む作法でやってきていないため、その辺りのことは意識しないと、臨床心理学で守秘していることが学際連携している社会科学側から漏れるということになりかねません。私の場合は修士の時から臨床心理学のケースカンファレンスに出席していたので、その辺りの意識はあったのですが、逆にメディア側から、臨床心理学からはインタビューが取れないというので全国放送Aが私の研究室に連絡を取ってきたことがありました。これは当然、上述の懸念があったためお断りしましたが、そうした作法に慣れていない研究者だと乗ってしまいかねないな、と思いました。

6.時系列的には前後しますが、全国放送Bから現地の聖地のことでコメントをもらえないか、と打診をされたこともありました。ただ、向こう側は事情が分からないので、気軽、という意識もなく頼んでくるのですが、こちらはフィールドが少しでもずれると調べ直さないといけないので、今仕事が立て込んでいるので、近々に、ということだと難しいのですが、と申し上げたところ、予想通りに近々の話だったので、これもお断りしたことがありました。これは割と社会科学系の研究者だと持っている体験ではないかと思うのですが、マスメディアからある事件のコメントを急に求められることがありますが、こちらは当該の事件についてマスメディア以上の資料を持ってないこともあり、そうした場面で既知の知識でお応えすると、実態とずれた説明をしてしまいかねないリスクがあります。なので、読者や視聴者としては、マスメディアに登壇する研究者はこうした交渉の結果、選ばれて登壇していることを知っておくのが良いと思います。

7.またフィールドによっては、公の場で発表したら、もうその場にマスメディアが常駐していて、何でも書かれかねないという場もあります。こういう時には、事前に記事のチェックなどをさせてくれるかどうかはその記者さんとの関係次第なので、研究者としては最初から情報を守秘的にして発表しなければならないこともあります。最近はある程度落ち着いてきましたが、大学が研究成果を積極的にメディアリリースすることが推奨された時期があり、人類学や民俗学などでも公共性を意識する領域ではそうした方向を推奨する姿勢もあるのですが、私自身はたとえ現地の人がOKを出した場合でも、それをこうした公の場に出すかどうかは研究者として考えなければならないし、フィールドからSNSなどに直で書くようなことばかりをする人物とは距離を置くだろうと思います(一度学生がブログでそうしたことをしたことがあったので、背景や理由を説明して、止めてもらったことがあります)。フィールドと研究者とメディアとの関係はその一つ一つで判断すべきことが色々あるので、この関連様態は複数もっていることが関係を豊かにすると考えています。

8.ちょっと珍しかったのは、地方紙の新聞記者、地方テレビ局、研究者で一緒に10日ほどの旅を共有したこともありました。この時はそれぞれの職種と人物のちがいで、こんな風に取材の仕方が違うのか、とも思いましたし、その場でそのことを質問できたので、大変勉強になりました。私がまず驚いたのは、地方テレビ局のディレクターとカメラマンで、たった10分もないくらいの放送のために、10日もカメラを回すことにも驚きましたが、最初から構成が決まっていて、まず扉であれを撮って、次にこの場面とこういう場面を使って、そのあとにディスカッション風景を入れて、と、最初の数日で最後までのストーリーが出来上がっているのに驚愕しました。それを一緒に見ていた地方紙の記者に話したところ、「そうですよ。だってテレビは『絵』がないと話にならないから、『あそこであれを撮っておけばよかった』っていうのは通用しないですからね。だって、どこどこで火災がありました、なんてニュースは新聞記事にしたら数行ですけど、そんなニュースがテレビだと見てられるのは『絵』があるからですからね」と言われ、なるほど、と思いました。継いで「でもそれで言ったら新聞はもっとストーリー先行ですよ」と言われ、その自覚の持ち方に、優秀な記者だなぁ、と舌を巻きました(実際はいろいろな人やパターンがあるとは思います)。

9.さて、そんなこんなで、ドキュメンタリー作家、地方紙、全国紙、雑誌、全国放送といくつかの交差があったため、ある程度は体験してきたな、と思っていたところで、先日、オンライン講習やラジオ放送の記録のオファーがあり、自分の専門にもかかわることだったのでお引き受けしたのですが、独特の難しさがあるなぁと実感しました。全国放送などでライブでコメントを求められるのはこういうことなんだな、と思いましたが、「何分内」とか時間の枠組み(いわゆる尺)を頭に入れて発言するのって、慣れてないと難しいなぁ、と。一つは、オンライン講座での収録で、1時間収録で後で見たら舌足らずで誤解を招きかねないところがあったものの、撮り直しなしのため、注を入れるしかない場合がありました。放送大学などではその場で複数の人間で何度も確認し、危うい個所があればその場で撮り直しますが、財源などが限られたところではそうもいかず、ある程度説明を飛ばしたところはこちらで応答責任を引き受けないといけないなぁ、と実感。またラジオ放送の方でも、1つの話題の尺が決まっていたので、それを意識しながら話していると、Aという著作の紹介からその書籍が置かれている文脈がある研究動向へと敷衍して紹介したのですが、後から考えたら、一緒に話してしまったので、敷衍した説明の部分はAの紹介の範囲を大きく超えているため、これも誤解を招きかねなかったなぁ、とは思いましたがこちらも再集録なし。こうした資源が限られたところでの録画・録音は、その独自の臨界を意識していないと難しいなぁ、と思った次第でした。

10.またそうした体験を経ることで、マスメディア側の独特の難しさも体験することになりました。なので、お断りすることもあるのですが、全く違う職種の人というより、異なりながらも似ている人、という視線でつきあっております。

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人間環境学への想い

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1.昨年末に参加したIUAESからはしばらく時が経ってしまったので、話題を変えよ … 続きを読む

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言葉

1.「言葉」この一つの話だけで、いくつもの側面があって、論じるのが本当に難しい。また以前、竹内敏晴さんに教わった、声や身振りの次元は味わうに愉しい。言葉は人間にとって、汲めど尽くせぬ源泉のようなもの。少なくともその一つ。

2.昨年末、ドイツで理科系の学生たちと食事をしていたら、ある学生さんが注文した飲み物のボトルを前に「僕、こういうのを見ると、成分は何なんだろうって考えちゃうんですよねぇ」と言うと、周囲にいた理系の学生たちが「そうそう」「わかるぅ」と共感して聞いていた。

3.それを見て、「ははぁ」と思った。私たちにはそういう発想は弱い(ないわけではないのは以前も書いた)。けれども、同じ飲み物を見たら、僕やその学生なら、「この飲み物はどこからどういう人伝いに来たか」と考えるんじゃないかと思った。

4.同じ世界を前にしても、どこに焦点をあてて、何に着目するのかは多様だ。同じボトルを前にしても、その「中身」の成分に注目するようにトレーニングされた人々もいれば、その「物」の経緯に注目するようにトレーニングされた人々もいる。

5.社会心理学やメディア研究で、「マスメディアの効果」について論じる際、有名な議論に「(メディアの)話題設定機能」というものがある。メディアで放映されたものを見聞きしたからといって、すぐにそれを模倣すると思われていた(強い効果論)、かといって、例えば政治的信念のある人に対して、その信念を変えるほどの効果は及ぼさないという実験結果も出ていた(強い効果論の否定)。これらの後に出てきた、ちょっとフーコーの言説=権力論と共闘できそうな議論が「話題の設定機能」というものだ。おそらく、理系にせよ、文系にせよ、学校というメディアで学生が学ぶ言葉と、その「話題設定機能」というのがこういう形で現れるのであろう。そして、一度「成分」に注目が行くと、その中の分析に話題が方向づけられ、逆に一度「経緯」に注目が行くと、その経路や人手に話題が方向づけられがちで、それは決定されるわけではないけれども、その他の発想の展開を大きく規定する、という話である。

6.なので、もう10年ほど前から、大学の授業で、かなり一般的な入門的な授業であっても、僕はマスメディアの投資構造というものをいつも新入生たちに話すようにしてきた。テレビ局は株式会社なので、それに投資する人たちがいてはじめて成り立つ。そして、多くの場合それは、新聞社(やラジオ会社)なのである。なので、テレビ局が、自社系列の新聞社の批判を積極的には報道できないことは当然のこと、という話をする。「だって、君たち学生だって、僕が成績を出す以上、積極的に批判はしにくいでしょ」という話もする。

7.こういう話をすれば、勘の良い学生なら、「じゃぁ、その新聞社の株主はだれなんだ?」と思うだろう。これはこの10年くらい、いったん株式公開が義務付けられた後、修正されて、なかなか大手新聞社の出資者が簡単には分からないように、生命保険会社とかになっているけれど、地方の新聞社などではかなりあからさまにみられるところもある。例えば西日本新聞社の場合、大株主のトップ3は電通、九州電力、新日本製鉄がそれぞれ3%台を保有している。これらの投資者は、西日本新聞が運営されれば自社の商品も売れる仕組みなのだから当然であろう。その仕組み自体を問題視はしていない。そういう社会に生きているのだから、そこから便益を享受している市民が1人1人知っていることが望ましい。

8.が、こういう仕組みがあるから、視聴者は、テレビ報道の内容を、この構造を考慮して聞いた方が良いし、読者は、新聞報道の内容を、この構造を考慮して読んだ方が良いのである。これは大学生の社会科学入門にふさわしい内容だと思うので、僕は新入生に教えているのである。

9.ドイツのTazに出かけた際、「日本はなぜ唯一の被爆国なのに、原子力発電に強く反対しなかったのか?」と記者に聞かれた。ある理系の先生が「日本では核の<軍事利用>と<平和利用>は別と考え、無限のエネルギーの可能性を秘めていると思われていたし今も一部の科学者はそう思っている」と応答したので、文系の人間として「それは一時読売新聞が大々的にアメリカと組んでプロパガンダしたからで…」と補った。このことは『原発導入のシナリオ―冷戦下の対日原子力戦略―』というタイトルでNHKで1994年に放映された番組で描かれており、隠すべきことは何もないと思われたからである。また、ハインリヒ・ベル財団で「どうして日本では福島の後でなお、再生エネルギーが進まないのだと思いますか?」と訊かれ、同様に応えたうえで、「新聞社の大株主に電力会社があるからといって、必ずしも直接的に発電会社がメディアに力をかけるわけではありません。私が知っている例でも例えば東芝EMIが反原発ソングのアルバムを差し止めたことなどは中間企業の自粛です。しかし、こうした自粛とときにあからさまになる外圧とを支えるのは、このような投資の構造があるからです」とお話しした。

10.実際、テレビでも新聞でも罹災地の「惨状」を報道する内容は多く、それがゆえに、特に当初は多くの「支援」ボランティアが詰めかけ、今も、頑張っている。他方で、ドイツから不思議に思われて何度も質問を受けたように東京電力や政府、アメリカに批判が向かわないのは、そのような問題を指摘して積極的に書く報道、記者、メディアが少ないからであろう(全てとは思っていない。年末のNHKや朝日新聞はこの点、よくやっていると思う)。メディアを通じて「話題設定機能」は充分に機能している。特にそれは、今回のように、何か普段から考えたことがない人には最も効果的に浸透する。そういう作業をしているのだということを、報道の人たちには分かってほしいと思う(*)。かといって、そうした批判の先に「よい原発電力会社」ができることには疑問なので、私は私で、NPOもやいバンク福岡、九州大学大学院人間環境学研究院FD「安心・安全検討委員会」やIMSのナチュ村でドイツのエネルギー革命と教育についてお話し、より安全な基準でエネルギー供給をする仕組みを提示したいと思う。問題は原発か否かではなく、同じものであればより安全な基準にしてゆくということに生の質を増す仕方があるからである。

*そういえば、ドイツでの旅程中、こんなことがあった。テレビ用の取材に来ていたディレクターとカメラマンが、取材2日目ではやくも「政治的な絵をとって、文化的なものをいれて、それで先生からインタビューをもらうのが良いんじゃないですか?」と。私は10日のうち、2日目にしてこうした決められてゆくテレビ報道の「構文」にいささか驚いた。そのことを同行の新聞記者の方にお話ししたところ「そうですよ、彼らが欲しいのは『絵』ですからね」とお話ししてくれた。「ただ」と付け加えられたところでは「ある意味、新聞はもっと枠組みが決まってますよ」とも話をしてくれさらに驚いた。確かに、2人で相談していたので、テレビ取材の「構文」が明らかになった訳だが、1人で考えている新聞取材の「構文」は顕現しないだけなのかもしれない。そのときに話し合ったのは、テレビと新聞の世界というのは、研究者にとって、パワーポイントと論文の世界に似ている気がするということ。パワーポイントだと、ある程度論理に齟齬があっても「見れてしまう」が、論文だとそうはいかない。けれどもパワーポイントだと見てわかる側面が強くなるので、多くの人に投げかけられる。研究者の論文にもこうした「構文」はもちろんある。たまに指導で「論文としてはもうひとひねり欲しい」などと言われるのがそれで、ある種の期待と、その裏切りがないと研究者は満足できないのである。私自身はちょっと斜に構えて、そういう現象を見ているが、それ自体が研究者の構えの構文なのかも。

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