2014年度行事開催記録


【報告】「応答の人類学」第18回研究会・公開合評会を開催しました(終了)(2015年2月8日)

参加者数:12人

日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」第18回研究会
「公開書評会『公共人類学』:著者と読者の対話」

2015年2月8日(日)13:00~17:00
国立民族学博物館 4階 第2演習室(〒565-8511 大阪府吹田市千里万博公園10-1)

■開催趣旨
2014年に『公共人類学』(山下晋司編、東京大学出版会)が刊行されました。
本書をめぐっては、昨年「東アジア公共人類学懇談会」で書評会がもたれましたが、
今回は、その懇談会の議論の成果を引き継ぎつつ、
本書の共著者たちをまじえた応答的・対話的場面を設定します。

本研究会では、著者から専門分野を軸とした公共人類学のあり方についての発題を行います。
その後、東京での書評会の議論に基づいた2人の読者による問題提起を糸口としながら、
応答の人類学をめぐる議論において公共人類学が提示するものは何か、
その対話は文化人類学一般に対しどのような影響をもたらすか、
などといった複数の角度からの討論を行いたいと思います。

すでに本書を読んでくださった方、あるいは、
これから読むかどうか決めるための参考にと考える方、
どなたでもご自由に議論にご参加ください。
(企画趣旨:亀井伸孝)

【参考サイト】
山下晋司編. 2014.『公共人類学』東京: 東京大学出版会.

日本文化人類学会課題研究懇談会「東アジア公共人類学懇談会」『公共人類学』合評会(2014年10月26日、東京大学駒場キャンパス)

■プログラム
□趣旨説明:「『公共人類学』:著者と読者の対話」亀井伸孝(愛知県立大学)(10分)

□第1部:著者からのメッセージ(各15~20分ていど)
亀井伸孝(愛知県立大学、8章「障害」担当著者)
木村周平(筑波大学、11章「災害の公共性」担当著者)
鈴木紀(国立民族学博物館、5章「開発」担当著者)
森茂岳雄(中央大学、4章「多文化教育」担当著者)

休憩

□第2部:読者からの問題提起(各20分ていど)および自由討論
本書全体に対して:河合洋尚(国立民族学博物館)
各章に対して:稲澤努(東北大学)
討論「応答の人類学の議論に公共人類学は何をもたらすか/ほか」:参加者全員

司会:飯嶋秀治(九州大学)

終了後、懇親会

■備考
参加ご希望の方は、事前申込をしてください。〆切は2/3(火)です。
申込先:「応答の人類学」事務局 outou.office@gmail.com

本研究会は、日本学術振興会科学研究費助成事業「同時代の喫緊課題に対する文化人類学の<応答>可能性の検討」(代表:清水展)の一環として行われています。

■連絡先
日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」事務局
outou.office@gmail.com
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~com_reli/jasca_outou/

【当日の討論内容報告】

◆趣旨説明(亀井伸孝):
昨年「東アジア公共人類学研究懇談会」(以下、「懇談会」)で実施された『公共人類学』の書評会の成果を引き継ぎ、今回、著者と読者が対話する場を設けた。開催理由は、現時点で『公共人類学』に対する明快なレスポンスが見られないためである。なぜだろうか。(1)文化人類学自体が非力であるのか、(2)文化人類学の公共領域への介入が不相応であると見られているのか、それとも、(3)効果が出るまでに非常に時間がかかるのか。私としては、(3)でありたいと期待する。

本書では、便宜的に人類学が関わる6つの公共領域(国家、地方自治体・地域社会、市場・企業、国際機関、NGO、ボランティア)が設定される。しかし、公共人類学の役割を限定してしまう必要はないであろう。たとえば、人類学の公共的な営みの筆頭として「人種主義払拭の歴史」を挙げることができるが、昨今の身近にあふれる人種主義的言説や行動を批判していく際には、こうした狭い公共領域に限定しない観点も必要である。つまり、公的領域と私的領域を二分法的に分けて考えることの限界である。他者への偏見や序列化は日常的な会話や行動の中にも現れてくる。こうした、必ずしも公共領域とは言われない私的な領域を含め、どこへでも人類学のスタンスや知見を持って介入していく人類学を総称して「公共人類学」と再定義したい。

◆第1部:著者からのメッセージ
■亀井伸孝(愛知県立大学、8章「障害」担当著者):
本章で述べたかったことは二つある。
ひとつ目として、文化人類学には三つの公共性(外とのつながり方)があるということ。文化人類学と社会のつながりはその効用が現れる3つのタイムスパンに分類される。
(1)長期的:一世紀以上を要する、一人の人類学者が自分の研究領域では果たしえないような大きな効用。反人種主義や文化相対主義の確立など。
(2)中期的:専門領域や特定地域や集団に関する知識を蓄え、必要とする人びとに提供する役割。そうした知識を教材、事典、データベースなどにして提供することなど。
(3)短期的:その場に居合わせて関わるという短期的なつながりで果たしうる役割。「応答の人類学」では重視している。喧嘩の仲裁や通訳など、さまざまな関わりが含まれる。

ふたつ目に、従来の文化人類学の限界を指摘した。「障害」という、身体が様々に異なるというテーマへの文化人類学的アプローチには限界があり、文化人類学自体のリフォームが必要だ。例えば、耳の聞こえる人は手話言語を覚えることで、ろう者コミュニティにおける参与観察をすることは可能だが、「耳が聞こえない」という身体経験をすることはできない。逆に、耳の聞こえない人が音声言語を習得して耳の聞こえる人に関する参与観察を行うのは困難である。ここに参与観察の非対称性が生まれる。これまでの文化人類学は、身体の違いを越境することには必ずしもまじめに取り組んでこなかった。人の身体、身体が出会う環境、それらを媒介する文化は多様である。「多様な身体に多様な文化が宿る」ということを、序列化せずに直視し、標準的な人間観として確立する必要がある。

■木村周平(筑波大学、11章「災害の公共性」担当著者):
本章では主に、東日本大震災に関する人類学者の取り組み、および筆者の取り組みから見えてきたことを書いた。ポイントは(1)人類学者にとっての現場を表現、記述することの重要性。被災地を描く際、地元有力者と被災者とが対立している、などとは異なる現場の記述の仕方が大切で、それを提示していく必要がある。多くの場合、人類学の成果はスローである。しかし、だから意味がないとするのではなく、スローでも意味があるということを主張した。(2)多様性の容認、共存、対話可能性のために現場をどう捉えるかという「土台」の形成。(3)公共人類学がどうあるかについて。一つは公共的な問題を扱うことで、もう一つは公共的な問題に実践することである。実践の強調は専門家と実践者の分断につながりかねない。だから、実践しながら考える、どのような実践があるかを人類学の考察にもっていくことが必要である。

本書全体を踏まえて考えたのは、今後の「公共人類学(者)」にとっては、(1)既存の公共人類学的な試みをきちんと踏まえること、(2)対象とする問題を取り巻く複雑な法や制度を理解し、批判だけでなく、うまく利用することが重要だということである。また、きちんと考えられるべきこととして、(1)本書の著者間での「公共」についてのイメージのズレを意識する必要性(統一の必要はないが)、(2)「文化」を複雑で多様で流動的なものだとする人類学者の主張は、単純な見方を批判し、より正しい理解に向かうようで、同時に我々自身を新しいモデルの創造や「文化の専門家」と見なされる立場からから遠ざけるマイナス面もあることを意識し、社会と関わっていく必要があるということである。

■鈴木紀(国立民族学博物館、5章「開発」担当著者):
本章ではまず開発、公共、文化というテーマを論じるため、公共領域を「公共問題を解決するために異文化が出会い、新しい文化が創造される場所」と規定した。開発人類学での「知識の戦場」に関する議論を踏まえ、公共概念にアプローチするため、異文化の出会いという特徴に加えて、新たな文化の創造という要素を導入した。こうして文化の論理から公共問題を解決するという枠組みを用意した。また、文化相対主義を方法論としての文化相対主義(「文化現象を扱う際に、文化に根ざす価値観や判断を一時的に停止すること」)とモラルとしてのそれを区別する必要性を示した。前者からは「一時的停止」の後、つまりバイアスなしに異文化を理解した後、どうするのかが問われ、後者では異文化の尊重だけでいいのかが問われることになる。

以上を踏まえ検討した問題は(1)知識の戦場の相対化だけでなく、どこに自分の立場を置くか、(2)相対化で留まらず、文化を創るためのコミュニケーション・スキルとは何か、(3)一時停止モードのオン/オフのタイミングについてである。以上の検討のため、筆者のマヤ・ユカテコの農村開発、およびJICAプロジェクトの民族誌的評価に関する研究を取り上げた。前者では政府の政策の問題は明らかになったが、どうすべきか価値判断できず一時停止モードのままだった。後者では、調査結果を踏まえワークショップを開き、JICA職員や専門家と対話し、プロジェクト評価での現地文化理解の重要性を訴えた。研究と実践の切り替えに関しては、前者、マヤ・ユカテコ研究でできなかった実践を後者、JICAプロジェクト研究で試みたと言える。実践に踏み出すにはある種の割り切りのもと、はじめからどうアウトプットするかを計画する必要がある。

本章の貢献は文化相対主義の議論から逃げなかったことである。方法論としての文化相対主義は保持すべきだが、モラルとしてのそれが求める「異文化の尊重」には問い直しが必要である。限界は(1)公共・開発・文化という3大概念の関連性にはもっと考えるべきことがあり、(2)筆者の経歴に則った議論で、開発人類学一般と公共人類学の接点は論じられていない点である。

応答の人類学への含意。この章で提示した人類学者の実践は、人類学者として知識の戦場を俯瞰し、現地に存在する様々な「応答」を調べ、それを相対化しつつ、自分の「応答」をおこなっていくと、要約できよう。しかし、同時に文化を創っていくという発想とその実現のために、人類学だけでなく、各々応答している人々との協働のコミュニケーション・スキルが必要である。

■森茂岳雄(中央大学、4章「多文化教育」担当著者):
本章の問題意識は、人類学が学校教育という公共領域での問題解決にいかに寄与できるかである。90年代以降、外国人児童生徒が増加し学校現場でも多文化的な状況が見られ、共生が喫緊の問題となっている。その解決に示唆的なのが多文化教育である。本章では多文化教育カリキュラムで人類学の内容や方法がいかに活用可能かを書いた。

アメリカでは70年代以降、マイノリティ児童支援と民族文化などを教える民族学習をカリキュラムに組み込んでいく運動が起こり、それが発展して多文化教育の成立につながった。AAAもそれに呼応し、人類学の知識や研究方法の学校教育への応用可能性を論じるシンポジウム(1981年)も開催された。多文化教育の実践にあっては本質主義に陥る危険性があるが、戦略的に本質主義も使いつつ、学年に合わせて変えていく必要がある。また、学校知はマジョリティの「日本人性」から構成されがちなので、マイノリティ視点からの学校知の再構築やマジョリティの特権性を自覚させるような内容も必要である。

最後に教育の公共人類学に向け、ピーコックが提示した応用人類学の三つの機能に基づき、(1)現実的な問題の解決:教育問題としての多文化教育、(2)政策への参入:学会による多文化教育の政策提言の重要性、(3)現場への支援活動:民博での異文化理解教育のプログラムづくりや教員研修について指摘した。また、「関与」と「協働」という観点から(3)の事例として、著者も企画・運営に関わっている民博での博学連携について紹介し、様々な実践が生まれる一方で、そこには学問(人類学)の知と教育の知の衝突という応答の困難性も伴うことを指摘した。

◆第2部:読者からの問題提起
■各章に対して:稲澤努(東北大学)
「懇談会」での本書合評会で担当した11章へのコメント・感想、それに関わる部分で発表のあった章を踏まえ議論、問題提起を行う。(11章に対し)本章は公共的課題である「災害」への人類学者の関与についての考察であり、そこで読み取れるのはスローサイエンスとしての人類学の位置や記述することの重要性である。ならば蓄積のあるトルコの事例に基づく議論が望ましいのではないか。また、筆者のすぐに「役に立つ」ことへの留保は個人的に共感でき、「懇談会」でも多くの共感を得た。しかし、今後の日本社会はそれを許容可能のか、人類学はそこで生き残れるのかという問題もあるため、政府や一般の人々からの何の役に立つのかという疑問にも答えていく必要がある。

(他章に対し)8章のタイムスパンによる文化人類学の公共性の三分類には賛成だが、11章の例を踏まえると、長期的な公共性は日本社会で共感を得られないかもしれない。また、「応答の人類学」で議論されてきたホームとフィールドでの応答のされ方は、中期、短期では異なるのではないか。例えば、すぐに役に立つことの留保への共感と、フィールドで人類学者が即興的に応答するなかで役に立つことの関係の整理。4章は人類学者の「ホーム」での取り組みといえる。人類学者は法制度を含め日本社会にあまり明るくないため(cf. 岡田 2014:51)、森茂先生のような専門家との協働の中で活動に活路があるのではないか。5章では実践の目標に合わせ必要な研究をすると考えることで研究から実践への移行が円滑になるという指摘が興味深い(鈴木 2014:81)。議論すべき点はあるが、中期・短期的な公共性を目指す場合の人類学のあり方の一つだろう。(公共人類学に対し)本書へのレスポンスがない点を踏まえ、長期的な公共性の意義をもっと発信し、人類学(者)自体が中期的・短期的な公共性を帯びた研究をしていることをもっと自覚、発信していく必要がある。

■本書全体に対して:河合洋尚(国立民族学博物館)
(本書全体に対し)日本では公共人類学に関連する多くの活動や研究がなされてきたが、それを公共人類学というテーマを標榜した本として出版したという意味で記念碑的な本であるが、作者ごとに公共や公共人類学の位置づけが異なり、ぼやけた印象を与える。

(「懇談会」の関心と立場)公共人類学はアメリカだけでなく、東アジアでも広く発展してきたが、そこで重要な要素の一つに公的な説明責任(public accountability)がある。これは社会問題を人類学者の立場から扱い、理解を公共に促す、また人類学の手法を「公共」に押し付けず、使ってもらうという立場を意味する。ここでは人類学者の問題関心と公共のそれとがすり合わされる。その意味で従来の人類学での人類学者と被調査者の間の権力関係の再考を促す。こうした人類学の枠組み自体の問い直しも公共人類学発展の要因である。我々の関心も公共人類学を手段とし、我々がこれまで取り組んでこなかったより身近なテーマを人類学で扱っていくことができるのではないかという点にある。

(問題提起)(1)公共人類学とは何か。本書からは伝わりにくい。民間や市民団体と協働する開かれた人類学なのか、人類学的手法から社会問題を解決する学問なのか。漠然としたイメージで捉えるならば民博も公共人類学ではないか。(2)公共人類学か、パブリック人類学か。「公共」は「官」を指すこともあり、公共政策を扱うと誤解されやすいという翻訳の問題がある。(3)応用人類学/実践人類学との違いは何か。両者を分けて考えるべきか、連続的なものとして考えるべきか。(4)公共への説明責任。実践はスローでも、「人類学とは何か」「何の役に立つのか」に対する説明責任はスローではいけないのではないか。(5)公共人類学ということで何が新しく見えてくるのか。単なる既往研究の言い換えではなく、その新しい可能性を明示する必要がある。(6)公共人類学の実践において本質化をいかに扱うか。我々が公共で説明する際に求められる本質化をどう解決していくか。

(今後の課題)(1)上記問題提起の改めての整理、(2)公共人類学に関わる先行研究と諸活動のレビューと公共人類学の定義、(3)文化人類学会の説明責任をどうするのかという問題。

◆討論:発表者からコメントへの応答
■亀井:本書は各著者がそれぞれ思い描く「公共人類学」について書いたためにズレがあるが、逆にそのズレが今後の公共人類学をめぐる議論のリソースになるかもしれない。(稲澤に対し)(1)社会から即時的効用を求められた時、それに対する説明も必要だが、必ずしもそれを満たさないとしても、他者との共存の土台となる反人種主義などの原則を守っていくなど、長期的寄与のために声を上げ続けねばならない。(2)得た知識をどこで使うかは、文脈や状況によって変わるため、タイムスパンでホーム/フィールドという応答の場所が決まるわけではない。(河合に対し)様々な指摘を受けたが、東アジア公共人類学懇談会での議論の蓄積のなかで、公共人類学の定義やそれを構成する条件に関するある程度の合意のようなものがあれば、むしろ教示いただきたい。

■木村:(稲澤に対し)半分わかるが、半分わからない。つまり、世間の空気を我々まで読んではいけないのではないかという一方、いかに我々の声を世間に届くようにすることを考える必要がある。その際、我々は一つに絞らずに、複数のレベルで複数のプロダクトを出していく必要がある。(河合に対し)公共人類学や公共は単一でなくて良い。特に実践は試行錯誤であり、複数のやり方があって良い。実践/応用人類学と区別する必要は必ずしもなく、社会に関わっていく人類学の実践が活発になることに肯定的であれば良い。(スローであることに関して)スローであるべきではなく、スローだから何もできないとするのが良くないと言っている。短期的には色々やっていく必要はあるが、役に立つ=素早いレスポンスとするという前提を考え直し、スローであってもできることをする。

■鈴木:(稲澤に対し)実践をはじめから想定した研究に入るには、キャリアの問題があるだろう。一人前の人類学者になるために、最初から実践的研究など、役に立つことを想定しなくても良いかもしれないが、その後に築いていくキャリアには色々な可能性があって良い。(河合に対し)問題提起(1):公共をつくっている人々の関心事や解決できない問題にこたえることが公共人類学だと思うので、民博はそれにはあたらないのではないか。問題提起(2)公共の意味として、JICAのような官の組織の活動も含まれるので、官を含意する公共に替えて、パブリックと言って協働相手を民間や市民団体と割り切るのも難しい。問題提起(3):応用人類学や実践人類学も、公共人類学と同様に問題解決をめざすものであるが、担当章では公共人類学の特徴として文化が創られていく場での活動という面を意識した。

■森茂:議論を聞いていて、一番感じたのは、皆さんは人類学の立場からいかに公共人類学にアプローチしていくかというスタンスだが、私はそうした研究をどのように活用するかというスタンスで、そこに違いがある。その意味で今日は良い応答ができた。

■河合:(木村応答に対し)公共人類学は多様であって良いが、本や論文を書く際は、何らかの位置づけをして議論を始めた方が良い。(鈴木応答に対し)我々の定義には広義と狭義のものがある。狭義は公共の問題にこたえる人類学で、広義は人類学以外と協働する開かれた人類学。民博は広義には公共人類学だが、狭義にはそうではない。

◆フロアとの応答(一部)
■A:民族誌などのアウトプットの見直しの方で、読者をどう想定するのか。
■亀井:どういうかたちで発信し、誰に何を届けるかは重要である。私は岩波ジュニア新書で中高生を読者と想定した手話の本を書いたが、教育や啓発の場面にもっとコミットしたい。それを文化人類学の大切な本業のひとつとしていきたい。また、政策提言やNGOとの協働は若手研究者における就職の上での業績になりがたい可能性もあるが、一方、昨今では大学教員に対して「地域貢献/社会貢献」が要請される。そうしたことも長期的には求められるようなっていくと思う。若手のそうした試みが、早く評価されるようになれば良い。

■B:アメリカの応用人類学会では当事者の発表も多いけれど、本書には当事者性を意識して書いている人が少ない。当事者性をどこまで意識して書いていくかということが公共人類学の課題ではないか。
■飯嶋:当事者性を巡ってはべてるの家から当事者研究が出てきたし、それ以前から安渓遊地さんなどが他人事(ひとごと)を自分事(わがこと)へという方向で議論を深めてきた。他方で、「応答の人類学」では、外から来た人が外部性のリソースも活かすべきではないかという議論があった。こういった視点も当事者といかに関わっていくかを考えるうえで重要であろう。

■C:公共と交わっているのは人類学だけではない。わざわざ人類学という必要があるのか。
■飯嶋:それは「応答の人類学」でも問題とされてきた。一つのポイントは皆がどこを人類学として手放せないと思っているのかを明確にすることである。自分の仕事でも発表をしたとき、それは(1)人類学じゃない=意味がない、(2)人類学じゃないけど意味はある、(3)意味があるので、もうちょっと人類学にしてくれという三つのレスポンスがある。
木村:人類学かどうかより、人類学というアリーナに来るかどうかが大事である。人類学である要素の一つは、全然違うフィールドの人と話をしたいということだと思う。そこに来るかどうか。たとえば、当事者研究の人たちが人類学のアリーナに来てプラスになるか、単に知識が増えるというだけではなく、彼らの問題に違う光を当てられるのかということが、人類学としてそれをやることであろう。

■D:木村さんに9割がた賛成だが、それでも僕らは人類学に対する思い入れが強すぎる。しかし、社会的に見れば人類学はたいしたことがない。人類学者の美意識をうまく突き放せないかというのが僕の問題意識としてある。

■D:(説明責任とコミュニケーション・スキル)他分野の人とどうやってコミュニケーションすることができるのかというスキルの問題についての我々の杜撰さがパブリックという問題でも多くを占めているのではないか。よって、アカウンタビリティが必要だといっても、どう説明するのか、一般社会に発信していくときのある種の戦略も込めたスキルが必要なのだろうという話がかなり大きくなるとの印象を受けた。

(キャリアとパブリックや応答の関係)従来のモデルに従い、一人前になってから実践するというキャリアの話には、人類学者の育成をするわけではない多くの大学での人類学教育との間にズレがある。そうした大学を含め、そのモデルを前提としない人類学を構想しながら次世代を育てることについて考える必要がある。

■鈴木:応答という点で飯嶋さんに本書および今日の議論でどの点が面白かったか聞きたい。
■飯嶋:公共に関するコンセンサスの問題などあるが、本書の出版により議論が活性化した。ただ、課題も残されている。私が調査しているフィールドでは暴力問題が起きているが、さらに酷い暴力に巻き込まれることを恐れる人間はそれを表だって言わない。これは一見するとプライヴェートだったりドメスティックな領域なのだが、そこでも切実な問題がある。かといって、問題によってはパブリックにするだけが最善ではない。私自身はそうした問題を臨床心理学など他分野に学びつつ、研究会をやって議論していく必要があると考えている。

■亀井:木村さんが言うように、呼びかけを待つのでは最早遅い状況だから、応答をイメージしながら口火を切って良いというスタンスに賛成である。ただし、「文化人類学が警察のようになってよいのか」というコメントを受けたことがあった。過度に取締のような活動を行い、啓発、啓蒙というスタイルで押していって、逆に見放されては元も子もない。自らが権力になっては意味がないため、自制的になりつつ実践していく必要がある。

議事録作成:奈良雅史(日本学術振興会特別研究員PD/国立民族学博物館)
議事録確認:亀井伸孝(愛知県立大学/応答の人類学世話人)


【報告】第17回応答の人類学研究会+科研第3回研究会「人類学教育を通して社会に応答する―時代のなかの人類学」(2015年1月30日)

□日時:2015年1月30日(金)13:30-17:30
□場所:〒169-8555新宿区大久保3-4-1早稲田大学西早稲田キャンパス51号館3階第2会議室
□参加者:12人

□趣旨:Anthropologyの意味は時代とともに変化してきた。その証左の一つはAnthropologyが「人間学」と翻訳されねばならないことである。意味としてはこちらの方が古い[飯嶋2009]。学説史をひも解く際に必ず言及されるタイラー[StockingJr.1999]も後の意味でのフィールドワーカーでも、現地人の視点の主張者でもなかった。また民族誌表象の仕方がクリフォードとマーカス[クリフォード&マーカス(編)1996]以降、強く再帰性を帯びるようになった。その変化のときどきに、博物学、地理学、文学、経済学、法学、心理学、精神医学、言語学、考古学、哲学、政治学、文芸批評、認知科学などが参照されてきたことも言うまでもあるまい。つまり、その時々、他分野から議論を流用しながらAnthropologyも変化してきたのである。

日本においても同様の歴史的変化がある[板野2005;山路編2011など]。戦後、民族学が文化人類学に名称変化を遂げるにあたり、準拠する参照枠や学界内での知名度やポストの数も変わってきた。さらに近年、2004年に国立大学法人化が行われると同時に教育予算は漸減し、2006年教育基本法改正がなされ、産学連携や地域連携が強調され、全国に分散された人類学者が大学内の新規学際・文理融合・多分野連携プロジェクトに埋めこまれる機会が増えてきた。そうなる時、学会(専門誌共同体)内での相互批判とは異なり、これまで対話をしてこなかった他分野の学問内でのつきあい方が問題となってくる。

課題研究懇談会「応答の人類学」では、これまで、第一の焦点を、各フィールドでの個人的な応答の事例検討、第二の焦点を、ホームに戻ってきてからの社会への応答の事例検討に当ててきたが、こうして社会に応答する人類学はその効果として、人類学がそれまでもっていたディシプリンを掘り崩し、編みかえてゆく可能性がある。ではそのように編みかえながら営まれざるを得ない私たちの学問が、地域連携的な学際性の中で生産的な意味を担うためにはどのようなあり方があり得るのであろうか。今回登壇する関根、伊藤、飯嶋、西崎はそれぞれ必ずしも文化人類学の専門家のみを育成する学的環境にないなかで、どのような模索(成果と課題)が行われつつあるのかの現状報告をする。また清水は戦時期の人類学に焦点を当てることで、社会に応答する人類学のあり方に歴史的深度を加え、最後に総合ディスカッションを行う(飯嶋秀治)

第一部(非公開)
13:30-13:40飯嶋秀治「応答の人類学」研究会趣旨説明
13:40-14:00関根久雄(筑波大学人文社会系)「人類学教育を通して社会に応答する(1): ダイバーシティ・マネジメント教育をめぐって」
14:00-14:20伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科)「人類学教育を通して社会に応答する(2): 社会人・企業人教育をめぐって」
14:20-14:40飯嶋秀治(九州大学大学院人間環境学研究院)「人類学教育を通して社会に応答する(3): 想定外の事態をめぐって」
14:40-14:50ディスカッション
14:50-15:20西崎伸子(福島大学行政政策学類)「被災地大学における3.11原発事故への応答」

第二部(公開)
15:20-15:30休憩
15:30-16:30清水昭俊(国立民族学博物館名誉教授)「多様な呼びかけ、多様な呼応:戦時期の人類学者の事例」
16:30-17:00ディスカッション
17:00-17:30総合ディスカッション

◆第二部報告要旨およびディスカッション
■清水昭俊(国立民族学博物館名誉教授)
「多様な呼びかけ、多様な呼応:戦時期の人類学者の事例」

日本の人類学・民族学:クロノロジカルな概観
 日本における人類学は、帝国大学(後の東京帝国大学)の学生だった坪井正五郎が中心となって学会(後の東京人類学会)を組織したことに始まる。学会誌『人類学雑誌』を通して多くの民間学者が参加した。当初の関心の出発点は考古学、土俗学である。

第二世代:鳥居龍藏、伊能嘉矩など
 大学で学生として知的訓練を受けた経歴のない雇員が、坪井の下で徒弟的に学習し、台湾などの植民地的状況で実地踏査の経験を積み重ねて独習した。現地の人たちの身体的特徴にも注意をはらうが、解剖学的知識はないので文化に注意が向けられる。

第三世代:宇野圓空、移川子之藏、秋葉隆、岡正雄、小山榮三、古野清人など
 大正後半から昭和初期(世界史の時代区分では戦間期)にあたり、文科系の大学学部で宗教学、文学、歴史学、社会学などを専攻した学士が、研究関心を拡張して人類学に参入した。同時代の欧米の人類学・社会学理論を文献を通して学び、一通り学習した後に、台湾などの調査旅行に出ていった。この学問的経歴が第二世代とは異なる。西洋のエスノロジー系の研究関心を受け継いで、身体的特徴には目を向けない。
1924年、柳田國男が『民族』という雑誌を作り、編集に参加した岡正雄が初めてethnologyの意味で「民族学」という言葉をつかい、それが標準的な名称として広がった。柳田と岡の仲はあまりよくなく、『民族』は休刊となって岡はオーストリア、ウィーンへと渡り民族学を研究する。日本では第三世代の人びとが『民族』の後継誌として『民俗学』という雑誌を作るも、資金が続かずに再び休刊した。
『民俗学』を支えた同人たちが、1934年、ロンドンで国際人類学民族学会議が初めて開催されたのに合わせて、日本民族学会を組織した。日本で人類学を人類学と民族学の二つの学会が担う体制が出来上がった。人類学、民族学いずれにとっても、毎年研究大会を開催するという組織的活動は、両学会の連合大会として1936年に始まった。その後、1939年、東京帝国大学に人類学科が設立されたが、フィジカルな人類学が中心だった。

国家総動員の呼びかけと呼応
 1937年、戦争(支那事変)が始まるとすぐ、政府・議会は国家総動員法を制定し、国家が法によって国民の資産を戦争目的に総動員する体制が整備された。
この総動員は、権力的・暴力的な強制で裏打ちしつつ、国民の精神動員、つまり国民の自発的な参加を呼び出すことに力点を置いた。国家の呼びかけに進取的に呼応する個人が、国家の呼びかけを代理し、それが次の呼応するものを呼び出すという関係が数珠つなぎに末端まで浸透した。
学術動員では、国家の呼びかけに呼応したものが、次に呼びかけていくという図式が、さらに複雑にもつれて進行した。たとえば1938年、内閣は東亜研究所という大規模なシンクタンクをつくり、調査委員会という方式を採用して、外部の研究者も多数動員した。この状況で、東亜研究所と直接関係のなかった外部の研究者(東大の法学者たち)が、やがて日本に統治されることになる中国社会を本格的に調査しなければならないと内閣に働きかけ、結果として満鉄と東亜研究所がそれぞれの研究計画を互いに協力して実施することになり、東大の法学者たちは東亜研究所の調査委員会に採用された。つまり、研究者側の呼応を装った運動が、国家の呼びかけを引き出すことに成功した例である。
東大の法学者たちは満鉄調査部の調査を「指導」したというが、実際に調査を行ったのは満鉄調査部の調査員だった。戦況の困難で満鉄調査部の調査は中止され、満鉄側の膨大な調査資料が残された。並行して行った東亜研究所側の調査は、報告書も刊行して終了した。しかし戦後、東大側の法学者たちは満鉄の元調査員たちを集めて、資料集を活字化。東大側の執筆した序論や解説を付けて、6冊の『中国農村慣行調査』として刊行した。戦時の戦地で行った調査でありながら、東大の法学者たちが指導して実施した良心的な学術研究として、高く評価された。その手法は、東大側の法学者たちが満鉄調査部の調査成果を自分たちの学術成果として横取りした形である。

「現実の要求」に応える民族研究:岡正雄
 岡正雄はウィーン留学(1929~1935)から一旦帰国した後、1938年初めに再び渡欧し、ウィーン大学教授に就任。二度目の滞在は、ヒットラー政権が政治学、言語学、民族学を合わせて「民族研究」を大規模に推進していた時期と重なる。
欧州戦争の勃発後も中欧各地で視察旅行を行い、民族間の政治的な動態を観察した。1940年末に帰国すると運動を開始し、日本の統治地域の「民族政策」に貢献することを掲げて、文部省直属の民族研究所の設立をかちえた(1943年初め)。岡の運動も、東亜研究所の法学者たちと同様、国家の呼びかけを引き出す呼応の行動だった。
民族研究所の設立にあわせて、岡は民族学者に呼びかけ、従前の民族学の、辺境の未開文化と人類の原初に向いた研究関心から脱却する必要を説き、現地の政治に参与する諸民族の社会的・政治的実態と動態を調査し、日本の戦争という「現実の要求」に応えることのできる「現在学的民族学」を推進するよう、働きかけた。

民族学の非力
 しかし、岡の呼びかけにもかかわらず、民族学者は民族研究所の所員も含めて、従前と変わらない研究関心から、辺境の未開民族・少数民族と、先史・原史に溯る歴史を追究した。戦争という「現実の要請」との関連では、全く役に立たない研究に終始した。
「現実の要請」に応える実用的人類学を志すのであれば、知的技術としての力量が問われる。この面で民族学はまったく非力だった。

知識人としての人類学者像:George W. Stocking3類型
Miklouho-Maclay~Malinowski:現地人を保護し、外来勢力を批判する人類学者、植民地的パターナリズム
Kubary:外来勢力は人類学者を支配(雇用)し、人類学者は現地人支配の代理をつとめる
「闇の奥」のKurtz:人類学者は外来勢力に対しても現地人に対しても支配者であろうとする
この3類型は互いに連続的。どのタイプの人類学者も他のタイプに移行しうる。

コロニアル言説批判
 人類学の歴史に対する私の関心にとって、過去の人類学(あるいは人類学者)のコロニアル言説に対する批判は、選択肢ではない。コロニアル言説批判は、批判対象から距離をとって、現在のつまり後世の視点から行う批判であり、批判対象にとって外的な(かつ既成の)理論的枠組みによる解釈に過ぎない。過去の圧倒的な時代的制約に拘束された個人ないし研究分野(当時の民族学)を、外的な枠組みで対象化しても、それは批判にはならない。時代の状況に拘束された個人や研究分野にとって、その拘束からの離脱はいかに可能だったのか。批判の可能性はこの設問への回答にあるはずである。

「産業(商業)人類学」の勧め
 人類学の調査地は現在もなお植民地的(あるいはポスト・コロニアル)な状況にあるかもしれない。しかし、調査地における人類学者の社会的位置が支配的であるとはいいがたい。現地の社会では、現地の権力の方が支配的でかつ強力であり、それに対して外来の調査者は非力である。とはいえ、人類学者の意識では、いまなお植民地的なパターナリズムが根強いように見受けられる。
現在のこのような状況では、第2の類型も人類学者の選択肢になりうるのではないか。「産業人類学」のような分野を開拓して、人類学者の職場を拡大した方がよい。ただし、この選択肢では、人類学の知的技術としての力量が試される。

◆総合ディスカッション
(小國)これまでの研究会を通じて、ビジネス等「外」からの要請に対して、人類学をスキルに切り売りして応答していくというような展望もひとつには示されてきたが、今回のような、時代に翻弄される学問としての人類学の実態について具体的に学ぶと、「応答の人類学」として、単にスキルをどうするかという次元の議論だけで終わってはいけない、と改めて考えさせられる。
ただし、現代において、やはり政策に翻弄されることへの危惧から批判的に捉えられがちであった開発人類学の立場からいえば、そのように各時代の文脈で読み替えられてきたといった実態を批判的に振り返って済ませるのではなく、今後どのようにしていくか、これからの人類学をどうするかに向けて、過去の経験から得られる知見を引き出す方向性にもっていけたらいいのではないかと思う。

(内藤)人類学とはなにか、といっても人類学者それぞれで異なる。だが、活かし方に共通点はあり、そこが人類学で重要な点であると思う。理工系学生に教えていて、高い割合で人類学的視点は役に立つという意見がでてくるのはなぜなのか。それを考えること、プロセスを考えることがやはり必要であると思う。

(清水)人類学者は外来者の一部として現地に行っている。現地の力関係は多元化、多様化していて、そこに人類学者が行った時に権力的な外来勢力の一員として振る舞えるかといったらそういうことはない。植民地的な状況はあまり意味がないのではないかと思う。
日本人、日本企業は決して有力な立場ではない。企業は、新卒採用の社員をいきなり一人で現地に送り出して、マーケットを開拓させるといった乱暴なやり方している。そんなやり方をするのなら、現地の生活環境などを知り悉した人類学者を雇って、その能力を活用してもらう方がよいのではないか。そこでネックになるのは、人類学者が資本主義の走狗になるのかといった、自分でも意識すると思われる批判の目。
そうは言われても人類学者も貧乏である。自分の生活を支えながら自分の学んだ研究を活かし、社会的に倫理的に問題視されない生き方をするということも、重要ではないか。
人類学者が調査地で得た知見を、人類学以外の場でも活用できるような環境を作らなければならない。

(伊藤)名前を付けるっていうのは大事なこと。文化人類学をまなんだということをリクルーターが結構反応している。呼びかけから呼応でなく、呼びかけ呼応、応答と言う連鎖。こちらから呼びかけを作る。今の人類学者は、昔よりもより力がないので、こちらから積極的に呼応して積極的に関わっていくべき。
いてもいなくても関係がないような存在であるので、こちらから呼応していき、意識を共有していかないと事態が希薄化し、物事を見誤る恐れがある。
権力にコミットするかしないかに関して言えば人類学者はかなり自由な立場である。細かいスキルに還元する以前に、現状認識をして何が人類学化という意識を共有するべき。これが応答を考えるという事ではないのか。

(亀井)人類学というのは、学問それ自体に熱い期待が寄せられている分野というよりは、便利に使われるタイプの職種であるような気がする。実際、大学の初年次基礎教育などの場面では「縁の下の力持ち」として活躍していて、「人類学」や「フィールドワーク」という名前をもたないところで頼られている面もある。だから、これは本来の人類学であるか/ないか、などの議論をするよりも、現に役立っている場面に光を当て、お互いに参照できるようにオープンにしていくことが重要だと思う。

(飯嶋)「呼ばれて応える」で良いのか、というのは何回もテーマに挙がっている。現地の人が声をあげてそれに呼応する。それが基本としても暴力状況等では通用しない場面もある。かといって、では、その論理だけでいいかといえばその論理だけでやると植民地時代みたいに、「現地の人が(語らなくても)求めているから俺がやってやる」と言う状態になりかねない。なので、その双方の落とし穴に落ち込まないために歴史的な系譜を確認するのが大事。

(清水)関根さんの話で気になったのは、文化的な多様性には、その裏面で、危険で受け入れがたいような多様性もあるということ。

共生と排除をどこで線引きするかが不明瞭な部分もあると思う。

(関根)多様性を保証するような制度を作ったとしても必ず反発がある。多様性に対する拒絶反応。そのことを折り込みながら、従来とは違った発想としてのダイバーシティを強調しておくことが重要であると思う。

(飯嶋)学生からのリアクションペーパーで反発はありますか?

(関根)自分の回に関して言えば、批判はあまりなく新しい発見をありがとうございました、といった具合であった。他の回の内容も全部あり、まだ完全に読んでいないのだが様々な意見があるようである。                               (文責:早稲田大学有志)


【報告】「応答の人類学」第16回研究会+「同時代の喫緊課題に応答する文化人類学の可能性の検討」第2回研究会 in 九州人類学会オータムセミナー(2015年10月25日)

以下の通り、公開研究会を行いました。

□日時:2015年10月25日(土)~10月26日(日) セッションAは2015年10月25日に実施
□会場:佐賀県基山町の「基山町民会館」
□参加費:約40名
◽︎主催:九州人類学研究会、セッションAについては課題研究懇談会「応答の人類学」とともに主催

「ホームでの/民族誌としての応答」(企画趣旨:飯嶋秀治)
課題研究懇談会「応答の人類学」を発足させ、科研「同時代の喫緊課題に対する文化人類学の〈応答〉の可能性の検討」へと展開するにあたり、とりあえずの焦点は2つあった。ごく簡潔に言えば、1つは、フィールドにおける研究者の個々のつきあい方、アクション、技法などの可能性を収集・検討するおとであった。いま1つは、ホームでの人類学的営みとしての民族誌記述のあり方を典型として、他者表象の実践展開の仕方、人類学独自の寄与の仕方などの史的研究・可能性の検討である。

現在フィールドとホームが多種多様に常時接続し、過去の古典においてさえ、むしろ世界システムの経路と系譜から切り離されたフィールドが詩的・政治的創造であったと把握されている現在であれ、議論を深化させるための論点の立て方として、こうした区分は採用されよう。本セッション「ホームでの/民族誌としての応答」では、この2つの問題系のうち、後者に焦点をあてた発表と議論を行う。

特にこのように区分を採用したとき、フィールドにおけるよそ者としての研究者とは異なり、ホームにおける当事者としての実践者は、既に存在する諸表象への介入をするため、即座に政治経済の問題にも巻き込まれることになる。具体的には国内の医療介入現場における民族誌記述の有効性と人類学的他者表象の実践のど真ん中にあるとも言える国立民族博物館の成立を巡る詩と政治を取り上げ、民族誌的表象をめぐりホームにおいていかなる実践を積み上げてきたのか、現在国外の医療介入の現場でいかなる課題に直面し、市場経済の領域での要請がどのようにエスノグラフィを創造しつつあるのか。そもそも今回のこの問題設定の仕方自体をも含め、今後の争点を析出して行く場にしたいと思う。

□飯嶋秀治(九州大学人間環境学研究院)「水俣と民族誌ー石牟礼道子『苦界浄土』を中心にして」
石牟礼道子の『苦海浄土』は、多様な表象を持つ水俣病事件表象史のなかでも、最も著名な作品と言って良いだろう。殆ど孤絶と言いたくもなる水俣病被害者の苦境を描いて深く広く、その窮状を描き伝えていった。だが初版刊行本以来、まだ半世紀にも至らぬ本書でさえ、当初の経緯から学び得たはずの諸争点すでに忘却されているかのようである。

このため、本発表では、①まず当時の諸言説ー新聞、報告書、詩、小説、報道番組などーから『苦海浄土』の言説の民族誌的特徴を指摘する。『苦海浄土』は現在、公共人類学の文脈で再評価の兆しがあるが、こうした受容は、当時の文脈を検討していない事が多いためである。②次に『苦海浄土』の文学的改稿過程研究から、柳田民俗学的特徴を指摘する。『苦海浄土』には「奇病」「天と海のあいだに」から『苦海浄土』初版本に至り、その後も改稿されてきているためである。その事を検討すれば、本作が柳田民俗学的とされる意味が分かるはずである(水俣病事件研究では水俣病患者自身が忘却の窮状にあるので、石牟礼の研究は日本近代文学研究史で進められてきた)。③次に、同時代において、石牟礼が水俣およびその外部との間で何をしてきたのかを考察する。この考察は、作品だけを読んでいても浮上してこないためである。④最後に、民俗学および人類学が、水俣を主題にいかなる表象を描いてきたのかを検討する。

以上を通じて、『苦海浄土』が、近代的な民族誌とは異なっており、そのことが応答の人類学における「民族誌としての応答」に投げかける可能性を検討したい。

参照文献 浅野麗2013「石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』への道-「水俣湾漁民のルポルタージュ奇病」から「海と空のあいだに 坂上ゆきのきき書より」への改稿をめぐる検証と考察」『叙説』Ⅲ(10):12-38
石牟礼道子1960「奇病」『サークル村』3⑴:34-48
石牟礼道子2004(1969)『新装版 苦海浄土-わが水俣病』講談社文庫
色川大吉編1983『水俣の啓示』筑摩書房
桜井徳太郎1979「地域研究の課題」、地方紙研究協議会編『山陰ー地域の歴史的性格』雄山閣:2-29
谷川健一2006『水俣再生への道』水俣学ブックレット① 熊本日日新聞社
茶園梨加2014「石牟礼道子『苦海浄土-わが水俣病』成立の過程」『戦後北部九州のサークル運動における文学-サークル村を中心として-』九州大学博士論文:93-107

□山路勝彦(関西学院大学名誉教授)「大阪万国博と梅棹忠夫」
1 1970年、「人類の進歩と調和」をテーマにして行われた大阪万国博は、①堺屋太一の「近代化論」と、②梅棹忠夫の「文明論」との結婚だと総括できる。博覧会への準備として「テーマ委員会」「サブ・テーマ調査専門委員会」が設置され、茅誠司(東大)、桑原武夫(京大)、湯川秀樹(京大)、赤堀四郎(阪大総長)、丹下健三(東大、建築)、大来佐武郎(経済学者、元外相)、井深大(ソニー社長)、曽野綾子(作家)ら、大学、産業界、官界の代表者が参加している。なかでもサブ・テーマ調査専門委員の梅棹忠夫の存在は大きく、林雄二郎、小松左京、岡本太郎も積極的に支援していた。
この結果、「生命の充実」「自然の利用」「生活の設計」「相互理解」が四本柱として設定された。だが議論の過程では厳しい討論が行われていた。井深が「産業(科学)主義」を推進すべきだと言うのに対し、赤堀は批判を投げかける。梅棹は文明論の立場から、「文明とは大地の利用と改造」であり、「荒れていたものをよくする」ように「調和的改造」は人類史の趨勢と発言する。反論を呼びこんだ一幕であった。

2 梅棹が1960年代に関心を寄せた課題は「未来学」、そして「情報産業論」であった。この「情報」という考えこそ、大阪万国博を特徴づけた概念であった。「光と音響」「映像」で象徴される大阪万博の企業パビリオン展示は、この梅棹理論と整合的である。

3 大阪万博では、「ハンパク運動」(べ平連、新左翼系の建築家集団)、そして東大文化人類学教室全共闘による「反万博、反民博」の運動があった。「産学共同」路線への批判は梅棹に注がれていく。これに対して梅棹忠夫は「歴史の駒を逆転させる反動ども」と厳しく対峙する。こうしたなかで万国博は6400万という人々(市民)の参加を得ている。終了後、梅棹は会場の跡地利用として「国立民族学博物館」の設立に動く。実学志向の梅棹の姿が立ち現れたのである。

4 梅棹のような人類学者は日本では稀有である。それは台湾研究での馬淵東一の学風とは真逆である。馬淵は、国家権力(そして教授会、学会)を嫌い、市場活動(印税目当ての原稿書き)を忌避し、市民活動(素人学問)を軽蔑し、徹底してフィールドワークに勤しんでいた。その馬淵の業績は果てしなく続く記述のなかにあるが、その成果は台湾で高く評価されている。
「応答の人類学」は、梅棹と馬淵との距離をいかに保つのであろうか。

参考文献 山路勝彦2014『大阪、賑わいの日々:二つの万国博覧会の解剖学』、関西学院大学出版会。

□増田研(長崎大学多文化社会学部/大学院国際健康開発研究科)「マラリア研究という応答フィールドで民族誌を売り込む」
この発表では、国際保健という実学分野における民族誌の有効性とその限界を整理し、民族誌というアプローチを効果的に売り込む方法を考える。発表者はいわゆる開発実務者でも医療人類学者でもないが、国際保健の大学院で7年にわたって学生指導を行っており、また近年はこの分野における学会発表や研究プロジェクトへの参加も増えてきた。それはあたかも「異業種からの新規参入を果たした新人」として歓迎されているふうでもあるが、他方で学会発表においては「民族誌ってなんですか?」という根源的な質問を受けることもたびたびである。

ここで取り上げるのは、熱帯および亜熱帯に広く分布する原虫感染症、マラリアに対する民族誌の位置づけである。マラリア研究というジャンルは多様多彩である。マラリアは原虫感染症なので、マラリア原虫や、それを媒介するハマダラカなどが調査の対象となる。ほかにも予防や治療のための薬、検査のためのキットの開発、効果的な蚊帳の開発と配付、知識の普及、対策プログラムの策定と実施、住民の治療希求行動など、マラリアに関する調査課題は多岐にわたるが、民族誌的なアプローチのものはほぼ皆無である。
他方で、国際保健において人類学の必要性を主張する医療系研究者はいないわけではないが、そうした主張が人類学を理解したうえでのものかといえば、かならずしもそうではない。数値的なエビデンスを持ってくるわけではないし、むしろ主観的な記述でレポートを埋め尽くす人々くらいに思われているフシがある。言い換えれば、面白そうだけど役には立たない感じ、である。

さて、こうした状況において「人類学は必要だ」という呼びかけは、いったい何を意味するのであろうか。ここでいう人類学と民族誌は同等のものととらえて良いのだろうか。我々の営為を、いわゆる「質的研究」の一部として位置づけることは適切なのだろうか。 複雑なことを複雑なまま提示しつつ「複雑さのパターン」を提示するような答えの出し方は、分厚い民族誌を読めない医療系の人々にどれだけ訴える力があるのだろうか。そもそも人類学あるいは民族誌は、呼びかけられているのだろうか?

こうしたさまざまに問いに対する答えを結いするプロセスを通して、民族誌を売り込む方策を考えるのがこの発表の目的だが、その前に「そもそも民族誌のマーケット開拓は可能なのか」という、人類学の市場生命の存続を巡る問いも重要なトピックとして浮上してくるであろう。

□伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学[JAIST])「民族誌なしの民族誌的実践──産業界における非人類学的エスノグラフィの事例から」
産業界におけるサービスとしてのエスノグラフィを本発表では事例として扱う。

エスノグラフィには二重の意味があることはすでに幾度となく指摘されいるところである。すなわち、質的調査のプロセスとしてのエスノグラフィと、プロダクトとしてのエスノグラフィである(Sanjek2002)。

前者は、エスノグラフィする(doing ethnography)といった語法で用いられるが、日本の人類学者の語感から言えば、この意味でのエスノグラフィは人類学的なフィールドワークとほぼ互換可能な語彙と言えよう。産業界でエスノグラフィと言えば、もっぱらこの質的調査プロセスとしてのエスノグラフィを意味し、それが流通している。産業系エスノグラフィの国際会議の名前もEthnographic praxis(エスノグラフィ的実践ないし民族誌的実践)と命名されている。

産業界で、分厚いモノグラフ(プロダクトとしてのエスノグラフィ)を作成するような機会はほとんどないと言って良い。「納品」されるのは、もっぱら公開を前提としないレポート(やそのエクゼクティヴサマリー)であり、時にはビデオ作品の形で納品される場合もある。エスノグラフィを実践し、エスノグラフィ(民族誌)を書く、という人類学の学的営為(さらには、エスノグラフィ(民族誌)群を読むことが人類学徒としての訓練でもあるアカデミックな人類学教育)と比して言えるのは、プロダクトとしてのエスノグラフィ(民族誌)が切り離されて、質的調査の技法の一部だけが、エスノグラフィとして流通しているということである。
プロダクトとしてのエスノグラフィ(民族誌)が作成されることはないのであれば、では、記述はどのような意味を持つのであろうか。プロセスとしてのエスノグラフィックな実践、具体的にはビジネスインサイトや気づきを得るための、網羅的な観察の項目にそれは還元(矮小化)されていると言いうるだろう。

これらを念頭に置きつつ、アカデミックなディシプリンとしての人類学の外部におけるエスノグラフィの実践のされ方と、エスノグラフィックな記述の持つ意味について考えてみたい。

□討論の内容
飯嶋:とても興味深い発表になりました。僕の話は何も応答をできない、聞くしかないという石牟礼さんの話をしました。が、それに対して応答すると、したとしましょうと、状況に応答した時に山路先生の話を加味して考えると、応答にも方向性があって、当時の若手の人類学者がやってた反博(はんぱく、万博反対運動)だって応答だからね。で、梅棹さんがやったのだって応答だし。ではその応答ってものに複数の方向性があったときに、どれをどういう風にやるのっていう、これ大きい問題の提起だったと思うんですね。
それで二つの過去の事例を踏まえて、後半の二つは増田さんと伊藤さんに現代のものすごい先端の方でやられている研究発表をしていただいたわけですが、前半の二人は1960年代の話をして、後半の二人は現在の話をしてきたでしょ。そうするとある幅が出たと思いました。
石牟礼道子さんがやってたのは生産主義から「棄民」って言われるような、打ち棄てられた人達の記述。その意味では抵抗の民俗誌だったんだけど、それ以降、時代が当時昔の人が頑張ってくれたおかげで、人類学が研究界や産業界に再帰的に取り込まれていって、現在は次のステージとして再帰的なプロジェクトの中でどうやって応答するかっていう状況になってると思います。
そこで一つは増田さんとの対比で言うと、同じ病いを扱っていると言ってもやはり50年の開きがあるのでコンテクストが変わっていて、起こった後の話ではなく予防になっているということが一つ、今の話のポイントのようですね。
もう一つコンテクストが違うのが、石牟礼さんが対応しようとしていたのはあくまでこれ読者は市民ですね。だけど今増田さんが言っている対話相手にしようとしたのは多分野のプロフェッショナルだっていう。この違いがありますね。つまり民族誌・民俗誌を読ませる相手が誰なのか、ということが一つ。
また梅棹忠夫さんも、山路先生の最新刊を読ませていただくと、他の分野の人との議論を見ると、万国博覧会に向けての議論ではすごく順応的にやってるようなところがありますよね。他の人達との言葉を調整してるっていう。これやっぱり、万博は納期があるのでそうなるところもあったように思うのですが。
そういう視点で見ると、同じ再帰的プロジェクトに人類学者が取り込まれていると言っても、一つは増田さんは研究者ベースでやってるから、納期を一緒にしなくていいっていうところがあるように思えたのですが。伊藤さんの場合、結局最終的に納期までに何かやらなくてはいけないっていうプロジェクトでやってるから。そうするとそこで、「(このフォーマットや言葉は)嫌だ」とかいつまでも言うことできないですものね。そういう応答する場の環境条件もあるのではないかというのが一つ。
それでは宮岡さんにコメントをいただいて、それからオープンのディスカッションをしようと思いますので、最初は宮岡さんよろしくお願いします。

宮岡:福岡大学の宮岡です。
私は、応答の人類学にこれまで全然かかわった経験もなく、この役を仰せつかったのですが、自身は台湾の先住民族の研究をしていまして、山路先生のレジュメの最後の方にあります、今回ご発表ではお話なされなかった4番目の話題で、「梅棹のような人類学者は日本で稀有である。台湾研究での馬淵東一の学風とは真逆だ」という風に書かれています。これについて補足をまず、簡単にしておきたいと思います。
馬淵東一というお名前をご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。東京都立大で社会人類学研究室でずっと教えていらっしゃった人類学者です。台湾・インドネシア・沖縄などフィールドとしていましたけれども、その出発点が台湾にありまして、発足したと同時に台北帝国大学付属人種学研究室というところに1928年から在籍をしまして、19歳から27歳まで台湾で過ごしました。彼が属した研究室は教員一人、助手一人、学生一人という体制の中で、休みの時には先住民の居住地に行って調査をするという経験を積んで、卒業後に嘱託になりました。研究室が寄付金によってはじめたエスノグラフィー・プロジェクトの主な調査研究者を担います。その成果物が『台湾高砂族系統所属の研究』という本なのですが、この500ページを超える本のうち、20代の大学を出て2、3年の馬淵が4分の3相当執筆してるんですね。で、この本は学士院賞を受賞しました。馬淵は、戦後にも何度か台湾を訪れるんですが、基本的にはこの年代の調査資料をもとにその後欧米にも名を知られるような社会人類学を構築していきました。
それで、山路先生のこれまでのご研究でも幾度か言及されているんですけれども、彼は伝統の記述、社会人類学の考究に関心があり、それにしか関心がない。彼が調査していた同時期っていうのは先住民社会がどんどん改変して、土地制度が変えられていき、保留地の面積が確定され、強制移住が執行され、というような改変の時代でした。しかしながら、描いたものの中にはそれについての言及が非常に少ない。寡黙を貫いている。こういった点からいうと同時代の現地の人々と社会が抱える切実な問題に対していかなる応答性をもちえてきたのかという、今回の飯嶋さんのご主旨に答えていうなら、おそらく馬淵の民族誌は、応答性は当時まったくもちえてこなかったと言えると思います。
ただし現代になって、『系統所属の研究』が中国語に訳されたり、それ以前から知識人、先住民出身の知識人の間でも読まれていて、例えば伝統的な土地の領有の範囲を示す調査報告書だとか、そういうところで引用されたりということが起こっています。つまり徹底した、いわゆる古典的な民族誌ですけど、私の言っているのは、その古典的な民族誌の記述が現代になって脚光をあびて、応答性を持つというような事態が台湾において生まれているということです。これは馬淵先生の研究に限らず、もう少し前の年代のものを含めて写真だの諸記録だのっていうのがものすごい勢いで、それも政府系の資金で復刻されたりしているのですけれども、翻訳・復刻されて当事者たちの文化復興の一助になったり、あるいはエスニシティの再編の機会になったりということが起こっています。先住民の、特に郷土研究、自民族研究をやるような人達には、「彼らが残してくれたから、今の私達が伝統文化や当時の状況を知ることができる」、みたいな言い方がある。
わたくし自身はそういう中で、ちまちました研究史の整理などをフィールドワークの片手間でやってきた、というような立場にいます。
①そうすると、ひとつの質問と言うのが、今回の増田さんと伊藤さんのお話には少しずれますが、時の権力者が同時代の人類学や民族誌に耳を貸さない、とすると人類学者がなしうることっていうのはフィールドワークと民族誌の記述に徹することではないか、それが将来的に現地の人々と社会が抱えるような切実な問題に対して応答性をもつという可能性もあるということは留意すべきかなと言う風に思いました。
② それからもう一つ、山路先生にお尋ねしたいのですが、梅棹さんがこの時代これだけの影響力をもってあんなに大きなものを作り出したのは梅棹さんの個人芸だったのか。今後、あるいは現在こういう人がまた生まれうるのか。それを待ち望むべきなのか。その辺のお考えをお聞きしたい。
③ レスポンスとして、飯嶋さんが先程おっしゃった応答の方向性という問題でいうと、私も話を伺いながら、東大文化人類学研究室の反博運動は当時の人類学徒たちからのある種の応答だったのだろうという風に解釈できるんじゃないかと言う風に思いました。
④ それからもう一つ、そもそも違う用法で使われている「ホーム」という概念。大きく分けて二種類の使い方、つまり研究者が位置する自社会という意味での「ホーム」と、研究者が拠って立つ学問領域と言う意味での「ホーム」という二種類が今回問題にされていました。この「ホーム」という二つの概念の関係などをどういう風に整理して考えればいいのか?
⑤ もう一つコメントを最後に。伊藤さんがおっしゃった「別の在り方」について。古典的なフィールドワークがあってエスノグラフィーがあるっていうような関係、プロダクトとしてのエスノグラフィーっていうのとは別の在り方が実際産業界で起こっていて、「エスノグラフィー」自体が違う用法で使われている、違う様態を指す言葉としても用いられている、と理解してよいかと思います。その時に思い出したのが、知人である台湾の人類学者が最近「行動人類学」の重要性を訴え、実践しているということです。先住民支援のNPOの理事長もやっていて、災害復興後の先住民の苦慮を政府に訴えるときなどには先頭に立つ役割をずっとされている。論文も書きはするけど、こういった活動自体も自分の人類学者としての一つの在り方だ、という風に位置づけているという傾向がこの頃顕著なようです。そうすると、伊藤さんがさっき最後におっしゃったこととたぶん通じて、応答的であろうとすることは、ホーム、自分の学問領域としての人類学におけるある種の制度や様式に対してどんどん挑戦していく、それを突き崩していくということを意味するのか。

飯嶋:5番目の話は伊藤さん後で応えて。山路先生のは2番目の質問でありましたね。
増田さんじゃあ何か応えてよ。僕も何か応えるから。

増田:時代。馬淵さんのとこの話。私に対する直接の質問とコメントは特になかったので補足的に述べたいと思います。
まず、ちょっと私と伊藤さんのかかわりについて言うと、私が先で伊藤さんが後で発表したから、自分が言いたいこと言って伊藤さんの話を聞く順番になりましたが、売り込みマーケットが違うけど似た話だと思いました。
私の場合は大学院教育として関わってるけれど、実はその向こうにはJICAとWHOとかグローバルファウンドとか、ビル・ゲイツとか、そういう国際援助機関連合みたいな大きな巨額の金があるわけです。私自身が注文受けるわけではないけれど、そういうセクターに属しているわけです。そういうところで人類学のやり方で寄与するときにどういうのがいいのかって考えて、以前東京外大のAA研で研究会を主催したことがありました。この研究会は一度、応答研と一緒に「失敗の人類学」をテーマにしたことがあります。
その研究会で、私の知人のベルギーの人類学者が持ち出してきたキーワードがあって、それが「SMART人類学」。「Specific, Measurable, Applicable, Relevant, Time-bound」っていう頭文字を並べたものです。最後のTime-boundnessですけれども、要するに納期まで時間限られていることです。保健プロジェクトやるときにはまずbaseline surveyをやるわけですね。まずは現状把握、そこから改善目標までたどり着くストラテジーを立てる。Baseline surveyにかけられる時間って2、3週間なわけですよ。我々は2、3週間でエスノグラフィーできると思えないでしょう。で、人類学の使えるところだけうまくつかって組み合わせて短時間できちんと把握する、っていう手法を編み出そうとしている。そういうところも考えると保健の民族誌と産業エスノグラフィーは似ていると思いました。
さっき「時代」っていったのは、馬淵東一の論文が台湾で評価されているっていうのは、要するにお客さんは後から来たわけですよね。馬淵先生が未来のお客さんのことを考えていたかは知らないですけれども、台湾社会がやっと馬淵東一に追いついたわけですよね。問題は、我々は何か記録残して地味なエスノグラフィー残しても、誰も読まない。だけども、後になってみると、100年前はこうだった、増田が書いててよかった、っていう風に、そんな悠長な未来のお客さんを馬淵東一が想定していたかというと、僕はないと思う。でもそれを今、自分がやるアクティビティを正当化する根拠として使うことは構わないと思います。ただ、じゃあ「増田! 100年後のために頑張れよ!」と周りが言ってくれるかは分からない。結局は、自分がやろうとしてることをjustificationできるか、社会的な正当化、意義をきちんと主張できるということが、やっぱり人類学が大学とか日本のアカデミアの中で伝統を存続していくために重要だと思うんです。
僕が言おうとした「時代」ってまさにこれで、現在の日本の大学が置かれている社会と、僕みたいな40代半ばを超えた大学運営に携わる人間からすると、どうしてもそこのマーケットを考える。今ここにいる人の半分くらいは若い人ですね。この人たちがどこで就職して今やっていることを継続してやれるかっていうときに、日本の大学とか人類学、アカデミアのなかに置かれた社会状況的の中に置きなおして考えなきゃいけない。梅棹忠夫だって別に純粋な学者じゃなくって、行政やる人であり、いろいろお金動かすような人でありって、その時その時の状況に自分をなじませながら動くことできたわけです。学会で、この九州人類学研究会のセッションで言うことじゃないかもしれないけども、そういう日本のアカデミアの運営の中で自分のアクティビティを正当化する、そういうレスポンシビリティ(応答性)の在り方も考えなきゃいかんのかな、という問題意識を指摘しておきます。

飯嶋:それじゃあ二番目の質問で、山路先生今の梅棹忠夫がやった仕事がどれだけ属人的か。

山路:その前にですね、今、「象牙の塔」っていう、もう死語になったような言葉があります。
1960年代、僕が大学院にいた頃だけど、一番忌み嫌われていたのが産学協同。絶対に学問というものは産業界に貢献してはいけない、そういう考えは先程のレジメで挙げときましたけど、全共闘運動の典型的な発想でした。もちろん全共闘運動は象牙の塔に籠れといってるわけではなく、籠ることで見えなくなってしまう世界がある、見えないうちに体制の中にとりこまれてしまっているっていう考え方でした。
それが60年代、いろんな暗い面もあって、連合赤軍事件につながるようなそういう流れも一方にあって、今と比べて随分と時代が違うなあと感じます。
リーチ,Eが書いた論文「エデンの園のレヴィ=ストロース」をもじっていえば「エデンの園の馬淵東一」というのでしょうか。本人は周りの政治的事柄は一切気にしなくていい、自分の目的だけに邁進すればいいと考えていました。1960年代において主流だった考え方というのはマルクスシズムの考え方だったのかもしれない。しかし、大学では、それに劣らず強い力を持っていたのが象牙の塔の世界。
それが70年代の万博を境にしていろいろと世の中変わってくる。産学協同が強調されていく。あるいは最近では産官学協同だし。今そういうような世界が日本全体を覆ってきている。結局我々も市民だし、業者も市民だし、国家だって市民の集まりで、権力も市民のもとでなりたっている、それが民主主義ってことかもしれないけど、とにかく産官学協同ってものを強調するような時代になってきて、時代のギャップっていうのはわずか半世紀の間にこれだけ起こってきた。
若い皆さん実感できないかもしれないけど、我々の年代になってくると、なんでこんなに違っちゃったんだろうという思いです。
もっと上の世代、亡くなった人がほとんどの90代くらいの人達は、もっと変わった実感を持っています。戦前、徹底的に、進歩的なマルクス的な思想はいけないものと教え込まれていた。それが私の聞いた話ではー1960年代頃の話なんですけど、まったく180度違ってしまったというわけです。わずか数十年の間にこれほど世の中変わったのかと、その先輩から教えていただいたことがありました。
今感じてるのはまさにその時代の再編というようなものです。1980、90年代生まれの皆さんにはとても理解できないかもしれない。そういう時代性というものがあって、結局、人は時代性に縛られているんじゃないかということです。空間は乗り越えられても時代というのは乗り越えらない。時代をどのように把握したらいいのか、こういうことが次の問題になってくるんだろう。
僕は、梅棹忠夫は非常に時代を読むのがうまかった。そういう時代を読みあてる研究者はたぶんこれから生まれえないんじゃないかと思います。はっきりとは言えないが、どういう風に時代が変わっていくのか、今の世界情勢自体が変わってきていて、さらに10年後20年後、どういう時代になっていくか分からないわけです。とにかく時代性というものを絶えず我々は念頭に置かないといけないと思うわけで、あまりそれをわきまえず、価値判断を挟んでこの人はこうこうこう言ったからと非難しても、その時代というものを考慮したうえで話さないといけないんじゃないかと思うわけです。
ついでに、言ってよろしいですか。石牟礼さんの話になるんですけれども、石牟礼さんが描いた田舎・非近代・伝統っていうのかな、そういう世界が内包していた世界は我々が今から見ればすごく情緒的な民俗世界に見えるわけね。
でも現在、石牟礼さんをどういうふうに位置づけたらいいか、あるいは村落、ムラをどういう風に考えたらいいか。
実は今週、NHKの番組、「クローズアップ現代」では、山古志村についての話をしていた。新潟県の山古志村は、10年前の大地震で大きな被害を受けた。当時は棚田のきれいな田舎であって、非常に封鎖された閉ざされた世界であった。地震後、若者が出て行って典型的な過疎地農村として残されてしまった。
ところが近年になって村おこしをはじめた。農業がやはり大事なんだと、農村を復興させる。そのために若者を連れてきて農業を復活させようとしている。
つまり、かつての封鎖的なムラ社会というものが、――それは閉ざされたものだったが、――外との接触を持つことによって広がっていく。新しい世界というのが作り出されようとしている。閉ざされているけども開かれている、あるいは開かれているけど閉ざされているのかもしれないが(合田博子2010『宮里と頭屋の環境人類学』p.351)。とにかくひとつの伝統的な閉ざされた空間としてのムラ、これはもはや考えられない。
それを考えた時、伝統/ 近代、田舎/ 都市という二分法で見てしまうと、水俣の世界は昔話の世界にならないか。例えば大阪のアスベストの訴訟で、今問題になっているのは国の責任であり、補償の問題ですよね。そういうふうに被害・加害の関係で捉えていくならば、なおいっそうのこと水俣は、過去の情念の世界に閉ざされていく、そういうことになってしまわないか。
宮岡さんの質問からずれちゃったけど、今感じたところです。

飯嶋:ありがとうございます。僕と伊藤さんは時間超過したので懲罰で発言控えますので、せっかく先輩の先生がいらっしゃっているので当時の九大の話とか雰囲気などを教えていただけたらと。

フロア:はじめましてというべきかと思いますが、私は九人研のファウンダーの一人として大学院生助手の頃から関わらせていただきましたがしばらく欠席しておりまして、今回第13回オータムセミナーが私にとっての第一回の出席になります。
こういうセミナーが毎回非常にまじめな研究会としてコツコツなされていることが遠くから見ておりましたけども、今年もまたご案内をいただきまして、またむずむずと人類学的な好奇心が湧いてきまして、今日ははるばる出て参りました。
今回のテーマもいろいろ感じるところがありましたけれども、時間の限られておりますのでごく簡単にいくつか。
人類学におけるレスポンシビリティということは前から、昔から言われたことで私自身も学生指導していた時ゼミでマーガレットミードのアメリカンアンソロポロジストの中にそういった論文があります。エヴァンスプリチャードの業績の中にもイギリスの業績間としての側面も持っていたというのも昔読んだことありますし。その問題はもちろん今でも続いておりますし、常に研究者として何かを問われているんだということだと思って身を固くしなければいけないところがある。
今日のお話中でいろいろでましたが、山路先生が先程言われましたように、同じ世代かもしれませんけども、やっぱり紛争がありました。
紛争のときに、民博への攻撃も一部の人からやられました。その一部の人と言うのはわたくしよりも歳の若い方々だったと思いますが、その後、民博は今のように発展し、今のような形ですが、私としては立派なものをやってきたと思うんですが、当時、民博は資本主義の手先であるということで攻撃した当時の若い人達は、その後名前もわかりますけども、独立した人類学者として立派に業績残しています。
この人々の言説と言うものが、つまり私はレスポンスというか、レスポンスは反応と言うことでしょうが、それにビリティが入って責任と言うことと言うなら、それは相手がいるということだと思いますが、自己責任と言うか自分の方にもかかってくるということ、もろ刃の刃と言うことがあると思います。
ですから当時の攻撃した人たちの自身がどういう行動をとったのかというのを見ると、私は責任の取り方と言うのは、自分と他者との間のこういう一対一というのもありますが、もう一つは時系列のレスポンシビリティと言うのもあると思う。若い時にいったことを後で修正することはいっぱいあるでしょう、私もあります。そういう意味でレスポンシビリティとともに、もう一つ、アカウントビリティ、説明責任。過去にやったこういうことはこうだったと。それはプラスマイナスあるでしょうけどそれ自分はこういうスタンスをとっていると常に問われ続けられているのではないだろうかと思います。そのことに対するテーマを設定されまして、今回このような形でディスカッションされていることは意味のあることだし、この課題は簡単には解決できないだろうと思います。
もう一言、応用人類学という言葉がありますよね。アプライド・アンソロポロジー雑誌もありましたけれども。私は会員で長く勉強させていただきましたけれども。応用人類学会というのは日本にはまだないじゃないでしょうか。
私は応用人類学のような意味でのレスポンシビリティとかアカウントビリティってことを常に内に持っているなら、応用ってことは単なる産学協同とか医療との関係ってことだけでなくて、やっぱり何かありうる、発展する余地があるのではと思うのですが、なぜか日本では応用人類学をききません。
応用の中には医療もあるし教育もあるしいろいろあると思いますけど私はそういうものも今後、今度いうともうちょっと遅い気もしますが、かつてはありました、そういう関心が。それがいつの間にか聞かれなくなったというのはちょっとさみしいなという気もします。また今晩たくさん話したいと思います。

飯嶋心の声:(私は、近年の人類学で話題になる「ホーム」は、「フィールド」との対比で便宜的に用いられるので、一回一回の議論で「ホーム」と定義するのは意味があるとは思うのですが、この応答の人類学でどこか「だけ」にホームを固定する意味はないと思うんですよね。そういうのはエヴァンス⁼プリチャードの敵味方関係と一緒でその時々に便宜的に組み替えられるだけで。今回の発表で面白かったのは、増田さんが「アウェー」を出してきた点でしたね。これは今のところ「読者」と「論敵」が結びついた領域を指している気がしますが、磨いたら面白い議論が出来そう。実際、自分の民族誌を読ませる「アウェー」をどこに想定するのかで、記述の内容とその様式はずいぶん異なってくるはずで、私の発表でも言及したように、石牟礼さんの「苦海浄土」の場合、「アウェー」は熊本という都会の読者だったとしか思えないんですよね。増田さんの場合はそれが理系の諸学問分野の人たちだった。ただ「苦海浄土」を増田さんの言う意味での「アウェー」で考えてみた場合、興味深いことが2つあって、1つは『苦海浄土』のなかに医学のレポートが引用されているんだけれど、石牟礼さんの記述に比べて、医学的記述がいかに当事者から離れた視点で構成されているのかが嫌がおうにも分かるんですよね。もう1つ面白いのは水俣の場合、医学の原田正純さんが「水俣病における文学と医学の接点」という文章を石牟礼道子全集に寄せて書いていて彼女の記述について、「これ以上の完璧な記載があろうか」「文学的であり医学的(科学的)であることに私は衝撃を受けた」と書いているんですよね。なので、フィールドも、ホームも、アウェーも複数の可能性があって、一枚岩ではないので、応答の人類学において「ホームでの/民族誌としての応答」の論点に登録していけばいいと思うんですよね。)

伊藤心の声:(宮岡さんのコメント(5)でおっしゃっている、「応答的であろうとすることは、ホーム、自分の学問領域としての人類学におけるある種の制度や様式に対してどんどん挑戦していく、それを突き崩していく」、というのは伊藤が報告でまさしく言いたいことでした。応答的であろうとするならば、同時に既存の人類学者の構えを問い直すことなしにはあり得ないとおもいます。)

飯嶋:どうもありがとうございました。本来はオープンディスカッションの予定でしたが何しろオータムセミナーは若手に道を拓くというあれでして後進の人にご迷惑をかけるわけにはいかないので、これで一応終わりにして、次のセッションのセットアップが棲み次第、つつがなく移行したいと思います。どうもおつきあいいただきありがとうございました。

(文責:中尾有希/九州大学大学院人間環境学研究院修士課程)


【報告】「応答の人類学」第15回研究会(2014年9月27日)

以下の通り、研究会を行いました。

◆日時:2014年9月27日(土) 10:00-16:30
◆場所:京都大学東南アジア研究所

◆テーマ:
1、フィールドにおける<応答>のゆくえ、
2、応答の人類学(課題別懇談会/科研)関係者による成果検討 研究会および今後に向けての打ち合わせ

◆スケジュール

第一部 「フィールドにおける<応答>のゆくえ」
10:00-13:00 話題提供と討論(敬称略)
猪瀬 浩平(明治学院大学)「SAサイタマノジンルイガクシャ?」
白石 壮一郎(弘前大学)「『集落点検』記」
西 真如(京都大学)「記述の学であるとされ、介入の学ではないとされる人類学の応答性とはどのようなものか」
望月 幸治(世界思想社)「事典を編むという応答」
全体討論

第二部
応答の人類学(課題別懇談会/科研)関係者による成果検討 研究会および今後に向けての打ち合わせ
13:30-16:30 メンバー全員による成果案の持ち寄り、発表
全体討論
飯嶋秀治(九州大学)、伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)、猪瀬浩平(明治学院大学)、小國和子(日本福祉大学)、清水展(京都大学)、白石壮一郎(弘前大学)、関根久雄(筑波大学)、内藤順子(早稲田大学)、内藤直樹(徳島大学)、西真如(京都大学)、望月幸治(世界思想社)

2. 質疑応答・議論の内容
(*発表内容の詳細は、PPTスライド、当日の配布資料をご参照ください)

◆第一部「フィールドにおける<応答>のゆくえ」質疑応答(一部)

■防災と応答
(飯嶋)集落点検というのは人にやる気をだしてもらうためのツールという面がある。徳野貞雄さんのT型集落点検などだと、10年後の地域を思い描かせて、どうするかを現地の住民が問うきっかけづくりにしている。そういう意味では、事実の調査とは目的が異なり、同様の正確さは求められていないところがある。その意味では防災なのだけれど、津波の防災というのは、フィールドの中の一ファクターである行政への応答になり得る。この点は、この研究会でも、内藤直樹さんや小國和子さんの仕事など、多くの人類学者が抱える問題になる。

(清水)災害の人たちは、シミュレーションを作り、意識を高める。しかし、完全に防ぐこともできない。防災より減災、復興。一撃の後が重要だろう。そこにおいて、人類学者が関与することは可能だと思うし、reflexiveなメソッドやツールがありうると思う。

(猪瀬)州崎に防波堤が突然出来た。防災の文脈で考えると、「できて仕方がない」。しかし、調査をしていると、「防波堤なんかつくってほしくない」人達がいたり、違う文脈が出てくる。防災関係の研究者は、防災の「前」を考えるが、人類学者は、常に災害の「後」それとはまた違うトピックで生きている人について考えている。この問いかけ自体をずらしていく。

■臨床事典について
(清水)文化人類学会が、「文化人類学事典」を出している。それに対抗して「文化人類学臨床事典」。臨床というのが新しいキーワードになってくるのでは。これまでの人類学の惰性の延長での調査をするのではなく、フィールドが、世界大の共通の問題に、固有の発展経路をもとに、直面している。そういう問題に対し、人類学の知的財産を総動員して立ち向かう。そう考えると「臨床」はすごくいいキーワード。
重要課題が50くらいある。あらゆる問題について、イスラームとかナショナリズムとか、感染症、テクノロジー、日本がアジアが世界が直面している問題を項目50挙げる。人類学がそれについて書けないなら切ってしまう。対処法のオルタナティブについて、挙げていく。人類学じゃないと言われるかもしれないけど、それぐらいをやったらおもしろいかも。

(望月)研究会だと、常に著者が先にあって、その人が書ける内容から決めていくということが多いが、先に重要課題50-100を決めてから書いていくという方が本として成功しやすいかなと思った。

(伊藤)家庭の医学は、家庭で読まれるわけで、この本、読者が誰か、人類学者が想定されるのだろうか。
(飯嶋)どちらか一方の実を出すと考える必要はないので、一般の人が読むものを一応の想定としているが、ポケット版(縮刷版)に人類学者が読むものを考えてもいいだろう。

(猪瀬)ある町で、外国人が他人の私有地に座布団などを干す事件があった。それが領土問題と一緒になって、○○人はやはり他人の土地に黙って侵入するという形で理解された。家の周りで起きている問題が、国際問題と同じ問題として捉えられてしまった。座布団をなぜ他人の私有地干してしまうのだろうか、あるいは日本人はなぜ自分の土地に一時的にでもものをおかれるといらだつのかを文化人類学的に説明することで、異文化は脅威だと思っている人に考えてもらえると思う。

■人類学と社会学
(清水)調査法の確立について、社会学はしっかりしている。社会調査士の資格を与えたり。就職の便利になるような形として学会としてもやっている。人類学は、そういうものがない。相手に対して誠実に、時間をかけてスローワーク。人類学、社会学の調査の差異はあるのか。優位にはたらくことはあるのか?

(白石)社会学の調査は、観察が弱い。「フィールドワークをやっています」という大学院生の調査内容を聞いてみるとインタビューが中心であることが多い。しつこい観察をあまりしない。

(飯嶋)様々な領域の研究者と一緒に仕事をしていた研究者に聞いたことがあるのだが、生態人類学者の調査の特徴は、まず最初に観察をし、その後インタビューをすることで、矛盾点に着目するのが特徴なのだという。こうしているのに、なぜこういう説明になっているのかという問いを立てる。文化人類学ではそうした観察が弱くなってきている気がする。

(伊藤)人類学もそうでは?観察が先でインタビューが後。教育的には、学生たちに「いきなりインタビューから始めるな」と最初に言わなければならない。
Contextual design:5つくらいのモデルをたてて、それをもとに観察していくといったようなある程度、フォーマット化されたものがある。ユーザビリティスタディーズのところでも、観察が先であるという教科書もある。Contextual Inquiryと言われる、一緒に作業をしながら調査をするものもある。
(清水)学生にとって、コミュニティがよく見えてくるし、その人間の自己形成や他者への配慮など違うように世界を見て育きっかけを提供することができる。そういうトレーニングが人類学の強みとして売り込めないか。

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午後:各自の興味関心と応答に関する発表

(清水)課題研究会が設置された時、課題があるから課題に答える、人類学の知識を活用する、というのは正しい方向だなと思った。「人類学が応答する」:誰に・何に応答するのか、3つのレベルがある。
フィールドワークでお世話になった人、NGOも含めた、中央政府も含め、フィールド/ホームにおいて応答する。この2つにおいて、応答する課題に違いがある。
1)フィールドでいろいろ言われる。それに何らかの応答ができたらと思う。
2)ホームでの応答は、人類学、学術としての知見をマスメディアなどに積極的に発言していく。応答、積極的にコミットしていく。エンゲージ、アンガージュマンしていく。
3)「人類学をやりたい」と思った事に対して、応える。
基本、応答は、やりとり。フィールドで、金をくれ、くすりをくれ、大学に行くのを手伝ってくれといろんな要求がある。呼びかけられてしまって、何かしなきゃならない、これに対して、対応していきたい。
未来を変えるような問題もある。それに対し、世論に介入していく。応答の人類学ということを挑発的に掲げてみた。

(亀井:飯嶋代読)応答と読んでも、応答性、実践性、関与と呼んでもいいと思うのですが、特定の地域の民族誌的知見のうえに、新たな人間観の創出という超長期間の関与を含め、3つの層で受け止めるようにしたいという展望をもつようになった。文化人類学は、ともすれば個別の地域、地域集団の研究に終わってしまい、文化の分析を通じ、人類全体を思考するきらいを失った今こそ、世紀をまたいで人種主義を撲滅に寄与した経緯を忘れずにいたいと思います。障害の分野において、身体をめぐる差異を序列化してとらえることが今なお横行しているからです。人種主義解体に寄与した人類学の普遍的なメッセージ性を何度も思い起こすことによって、第二の身体的序列化の解体のためのはずみをつけていきたいと思っております。

(小國)課題研究懇談会の1年目にフィールドワークの失敗学などいろいろなテーマをもった発表があった。当時、いくつか異なる次元の「応答」の議論が混在していた。その後の暫定的な整理としての「フィールドにおける応答」「ホーム、民族誌を通じた応答」。また、フィールドでの個人の応答から、集団、さらに民族誌としての社会への応答を概念図に示してみた(レジュメ参照)。

しかし自らの現状を翻ってみると、フィールドとホームが切れない。切れない状況で人との関わりが広がっていってしまう。
これまでに取り扱ってきた事柄から何が言えるか:
農村・農業+開発の現場=変化への正当性をめぐるせめぎあいが生じていた。
そうした文脈の特性に対する呼応としての応答を整理すると
1)価値判断を常に保留し、現象を俯瞰的にとらえることで問題群の背景を解きほぐす。
2)差異が生み出す力関係を排除に帰結せず、差異ある中でのつながりを模索する。
権威的な言説によって排除される存在が生み出されるような状況に対して、1、2の作業に通じて応答していく、ということが考えられる。

今後の議論の深化に向けて、なんでも応答といってしまうのではなく、フォーカスをあてて議論した方がいいのでは。

(飯嶋)これまで本に書いてこなかったところを報告する。A)いかにもフィールドでの応答 オーストラリアにおける先住民のフェスティバル:アピアランスで誰が何人参加したか統計をとったところ、それが次年度に政府から助成金を貰う資料に活用された。
児童施設での応答:『支援のフィールドワーク』の後、別の施設で1ヶ月1回施設で子供の間の暴力、職員への暴力を審議する。安全委員会の委員を担当している。
B)いかにもフィールドではない応答
自治体史編纂に携わる中で、非納税者、差別語、企業イメージ、納税者、念書など、学術出版とはことなる体験をしてきた。そうした聞き書きをさせてもらった人間とは「出版記念集い」を個人的に開催し、維持された関係、開かれた縁が形成されている(SNSでの縁など)。
共同実習で 2009年 2年に1回(計3回)同じ村に入っている。報告書が書かれた後、どうなったかを把握しているケースはそれほどない。1回目、民俗報告書を出した。しかし、それは研究者仲間から、牧歌的共同体を想定しているようだ、と批判を受ける。2回目、「ルーツとルートを辿る」というテーマで調査を実施。とんでもなく変なことをしない人たち、というのは伝わったかと思った。3回目、「ライフヒストリー」という課題で実施。こうした関係の中で、現地の人に良い関係をもたらす報告書の書き方はないか、と考えている。

(内藤直)人類学的知見で、地域貢献ができるのか、ということが最大の関心事。
人類学が得意と思っていた事が人類学に限った事なのか?と思い始める。人類学的知見のコアな部分とは何か、見えずらい。社会に応答する時に、隣接他分野と比べて、人類学の特徴は何か考えることが大事ではと、最近考えている。

(関根)日本のNGO:自然循環型農法普及プロジェクトについて調査をしている。現地で意見表明をしたり、対話をしたりというのが、プロジェクトの関わりとして一番大きかった。ビジネスプランを立てて、成果をあげることが、この事業の自立化、持続性の課題に。支援からビジネスパートナーへ。
心情的に寄り添うというのも、応答の一部とも言えるのではと思うが、拡大解釈か。肝心なところで応答できない無力さを痛感する。その中で人類学者としての応答とは、どういったことがありうるのか。フィールドで何が必要かわかっているのに応答しきれない。どのように応答すればいいか考えている。

(伊藤)内藤直樹さんから、誰も期待していない、応答させてください、と営業し始めている話があったと思うのですが、伊藤もそれに近い問題意識を持っている。基本的に、人類学「で」豊かに、人類学「を」豊かにできないか、ということを最近考えている。最終的に、学(人類学)としての応答として議論が収斂すべきだと思っている。
課題に対して応える、ということについて:
課題は私たちが作っている可能性があるのでは。応答すべき対象は、空腹がまずもってあってそこにパンを与えるような応答ではない。呼びかけ(課題)は既に在るのではなく、私たち人類学者が構築していることを意識する必要がある。応答すべき対象が形作られ、人類学の守備範囲が未来に向けて変化していく、再帰的運動なのではと思う。人類学の可変性を思い描くことなのではないかとおもう。

(内藤順)現在の職場は理系。350人教員がいる中で、人類学者1人だが、重宝されている。建築の人が家を建てる際、どれだけ人類学の知見が役に立つかというのを書いてくれたりする。
「ジャパンハート」:医療からもれている人に、医療を届けるNPOで、緊急医療現場の人に人類学の素養を身に付けさせたいと考えている。医学部と人類学を統合するような分野を打ち立てたい、という壮大な話に。早稲田には医学部がないので、シンクタンクのようなところに医者を投入して、人類学者をつれてきて、というようなことができないか、という話につながっている。もし実現するとすると、ダイレクトに実践的な人類学が組織化するというような話になるのでは、と。
「臨床」の言葉の吟味 医学の中での臨床とは、知識と技術を統合させ現場でやっていくものとして理解されている。それに対し、臨床、フィールドワークは、現場で発見、気づき、学んで、つくっていくという逆のベクトルのもの。

(望月) A家庭の医学的=短期的な応答  かなり実用的なものになるだろう。
対象読者はフィールドワーカー。文化人類学に留まらず、広範囲にひろげる。
B事例集/論文集として=中・長期的な応答
対象読者は、人類学者や周辺分野の専門家、一般の読者まで広げていく。
1)現代の視点から過去の民族誌を振り返る、2)現代社会に応答している事例、の2つは含まれるかもしれない。学としての応答の方が、読者の数が見えやすいかなと思う。
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◆討論
■応答と人類学
(内藤直)人類学を売り出すときに、売れるもの。市民調査の方法とか、薄っぺらいところで売れている。
人類学会の公開シンポジウムがそこそこうけた。PBL教育、軽薄だけど売れる。ということがある。人類学がやることになったら、どういう教育ができるか等考えたらいいのではと思う。

(清水)学問的深さと関係ないと思う。応答っていうのが偉そうなら、お役に立つ人類学、お節介な人類学でも。まじめで固いと、インボリューションが起きてしまう。流動性があった方がいいのではと。
社会学者は先に設定した質問項目を質問する。それしか見ない。観察をすること。そこが、フィールドワークをする際、はじめて見えてきて、そこをうまく記述することがエスノグラフィーだと思うのですが。
エスノグラフィーは、ビジネスや災害の現場でも重要になってきている。そこをキーワードとして、フィールドワーク、参与観察、エスノグラフィーを一般の方にわかりやすく、定義しなおすのが出きたらいいのでは。

(伊藤)発想法で、「異質馴化・馴質異化」という言葉がある。人類学が慣れ親しんだスローガンを、発想法ではそう呼んでいる。人類学の特徴として、我々がなじんでいる事象が実は当たり前ではないないのだと気づかせる点、、気づかない視点に気づかせる点があると思う。

■数値化と応答
(関根)人類学の学術的なエスノグラフィーは計量化できないと思う。「定量化の壁」って大きいと思う。世間一般の人たちの分かりやすい読み替え、は数字で表現できないとなかなか受け入れてくれないのでは。

(伊藤)数字って「意思決定」に関わることが多いのでは。NGO、政府関係のところも含めて、組織の意思決定は、数字が後押し、エビデンスとして欲しがられる。客観性がないと言われる。それは、数字のマジックっぽい。

(関根)日常の中ですり込んでいくような何かだったらいいのですが、応答が何かお役に立つ、というものなら、意思決定の場面で関わるということが大事なのでは。

■応答ということば
(清水)潜水艦の探知の方法は2つある。アクティブソナーとパッシブソナー(ただじっといてただ音を聞いている)人類学って、パッシブソナーのような気がする。ただパッシブソナーとして、お祭りでみんなが語り合うとか、飲んで語り合うとか、さまざまな声、雑音も含め取捨選択して応答してく。

(関根)応答という言葉が、はまらないのかなと。受動性が強いイメージ。応答というと、じっと待っているようないつでも応えるようなイメージ。

(伊藤)人類学者でも、たとえば同じ地域でも同じ場面でもどのように応えるかは個々人で違ってくるはずだと思う。
個人的な思想的なものもあって、応えているんだろうと思う。そう考えるとただパッシブなだけではなくて、しかもそれも定式化できるものでもあるのか、とも思う。
個々人の相互作用の中で、何を問題として取り上げるか。それは同じ場所・場面にいたとしてもいくらでもあり得る。伊藤がフィリピンで清水先生と同じ応答をしたかと言えば違っただろう。

完全なパッシブということにはならない。さらに言えば、巻き込まれも、「別の」巻き込まれ方の可能性がある。常に別の可能性に開かれているような。

■エピソード語りと人類学
(小國)人類学の一つの武器が話術、(一般論ではない、けれどメッセージ性を伴うような)エピソード語り。ツールとしてのエピソード語りというのを、「一つのメソッド」として言ってもいいのでは?
(飯嶋)臨床心理学は基本それだと思う。他人の症例をずっと読んで、何かあったときに思い出されるとか。

■事典の編み方
(小國)事典をどう編むか、どのようなものを編むのかというのはこれからの課題。
(望月)清水先生が午前中あげてくださったのは、現代社会が抱える50-100個の課題をあげて、人類学だからこそできる回答方法はないか、ということをおっしゃっていて、実際は事例の集まりでも、そういう配列のしかたをしたら、読者には読んでもらえやすいのでは、と思います。
(飯嶋)『アクション別フィールドワーク入門』は読者として人類学者を想定した。家庭の医学が、民間療法の話とか工夫とか挙げられていたということを考えると、フィールドで出会っている知恵とか、エピソードをもりこむことが考えられる。だとすると、人類学者だけじゃなくて、一般の人とか、ナショナリズムなんかに関して言えば、研究者だけではなく、民間のフィールドでナショナリズムをかわしたりする知恵が必要な場合がある。ただし、読者をどう想定するか、を考えないとどっちつかずになってしまう危険性もあるるだろう。

■項目の選択と応答
(清水)各自が重要トピックを選ぶ。人類学だけの先行研究だけでなく、大きな問題の見取り図として関連研究をcognitive mapping をしっかりして、人類学から見ると、こうですよというツイストがかけられたら一番いい。

(西)どうやったら、自分たちの分野を売り込んでいけるのか、考えるのはやりがいがあると思う。

(清水)人類はどのように感染症を克服できるか、で西さんが書いていた、見つけて集中的に治療をすれば、99%くらいの確立で効果的な方法だ、と。どうしたらいいのかまで言えば、説得力のある家庭の医学の本になると思う。

(猪瀬)重要トピック50点って選んでしまう時点で、人類学が選ぶべきなのか?事典なんか買う人いるか?と思う。応答を考えると、手紙のやりとりのような感じのような気がしている。問いを書く人も自分のエピソードを書いて、これにどう応答してくのですか、という形で。一般論じゃなくて、問い自体が固有性をもっている深刻な問いものに対し応える。いきなり本をするのではなく、試しにホームページ上で問いに応えていくとか。

(内藤直)マスターナラティブではなく、アウターナラティブ。事典とか作って偉そうに言うのではなくて、それくらいののりの方がいいのでは。

(小國)誰に読ませたいか?読ませたい読者層を考えて進めないといけない。

以上。
(文責:秋保さやか/筑波大学大学院 人文社会科学研究科 博士後期課程国際公共政策専攻)


【報告】「応答の人類学」第14回研究会(2014年7月25日)

以下の通り、公開研究会を行いました。

日時:2014年7月25日 18:30-21:30
場所:愛知県立大学サテライトキャンパス(愛知県産業労働センター[ウインクあいち]15階)
〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38
参加者:約15名
司会:小國和子 (日本福祉大学)

テーマ:
文化の<相互翻訳>に向けて―調査・支援・日常から、「隣人としての外国人」を考える。

趣旨:
東京オリンピック開催に向けた建設工事要員需用を発端に、外国人雇用の問題が注目を集める機会が増えている。一方では、いわゆる「高度外国人材」の登用が促進され、他方では、「チープレイバー」の問題が指摘されている。「外国人」と、外国につながる家族を取り巻く課題は、日本では国家レベルの人口施策か、マイノリティの社会的包摂や権利保障といった「問題」として取り上げられがちであり、それは必ずしも当事者の日々の暮らしの感覚を掬いあげきれない。日本における外国人や、外国につながる人々が、「支援の対象」あるいは「特別な存在」として語られるのではなく、「あたりまえの隣人」として地域の担い手となる社会に向けて、ラテンアメリカ、東南アジア、東アジアなどの送り出し国の文化の学び手となってきた研究者はどのような場への参画が可能だろうか。日本有数の外国人人口を誇る東海をはじめ、人口減少が切実な中山間地域等の実情を踏まえながら考えてみたい。
――事前に応えを想定できる課題ではない。関心を共有する多様な人々が参集してくださることで、継続的に議論を行うきっかけづくりとなり、人のつながりが生まれる契機となることを期待したい。

スケジュール:
18:30- 趣旨説明 小國和子
18:40-19:10 佐竹眞明 (名古屋学院大学)
「国際結婚家族と地域社会:研究と<支援>通じた関わり」+質疑
19:20-19:50 土井佳彦 (多文化共生リソースセンター東海)
「東海地域における多文化共生の取組み:これまでと、これから」+質疑
20:00-20:15 小國和子 (日本福祉大学)
「とがつながる時代に」
20:20-20:35 岩佐光広 (高知大学)
コメント「「生活者」としての視点から」
-21:30 参加者自己紹介、全体討論。

(こちらもあわせてぜひご参加ください)
■日本文化人類学会公開シンポジウム「大学で学ぶ文化人類学:フィールドワーク教育の試みと可能性」
主催:日本文化人類学会         共催:愛知県立大学地域連携センター/中部人類学談話会
日時:2014年7月26日(土)13:30~16:45
会場:愛知県産業労働センターウインクあいち 10階 大会議室1001
発題者:赤嶺淳(一橋大学)/亀井伸孝(愛知県立大学)/南出和余(桃山学院大学)/
内藤直樹(徳島大学)/竹川大介(文学部)/松田凡(京都文教大学)
コメンテーター:和崎春日(中部大学)

【討論の内容】

それぞれの報告の後に簡単な質疑応答が行われた。3人による報告の後、岩佐氏より発表全体に対しコメントを頂戴した。今回の研究会には様々な分野から参加者が集まり、それぞれの報告に絡めての参加者による自己紹介とともに、全体討論が行われた。
それぞれの報告の要旨は以下の通りである。

◆報告要旨:

1.佐竹眞明 (名古屋学院大学)
「国際結婚家族と地域社会:研究と<支援>通じた関わり」

概要:フィリピン人の配偶者との婚姻生活25年。子どももいる。何気なく子育てをし、結婚生活を送ってきたが、地域社会や学校とのつながりの中で子どもも大きくなった。そして、国際結婚ならではの大変さ、楽しさ、特別な要素(家族形態・「トランスナショナル」家族)もある。さらに、関係を持ってきた日比結婚家族の方々がいる。それらの方々を対象に、「研究」し、文を書かせてもらってきた。それらの人々と自分の関係は何か。自分の立ち位置はどこか。何を「還元」できるか。そうしたことをこれまでの調査(四国・愛知等)や、医療通訳研修、ダブルの子どもたち(大学生)との関わりとも関連させながら、話題提供させていただく。
主な著作『フィリピン―日本国際結婚 移住と多文化共生』めこん、2006(メアリー・アンジェリン・ダアノイとの共著)。『在日外国人と多文化共生―地域コミュニティの視点から』、明石書店、2011(編著)。

在日外国人数は国別に見て、中国、朝鮮・韓国に次ぎフィリピン人が多い。その半数ほどは永住資格取得者である。フィリピン人にとって実際の日本での生活は文化も気候も、想像していた日本の生活とも異なっている。加えて、拡大家族を主流としトランスナショナルな家族形態を形成している母国を出て、核家族化が進む日本で暮らす困難もある。国際結婚により訪れた在日労働者たちは飲食店や工場、介護施設などで現場の労働を支え、超高齢化社会や限界集落を助ける存在として共に生きている。
報告者はフィリピン研究者であると同時に外国人移民の夫という「当事者性」を備えている。ジェンダー学の視点で観察されるべき国際結婚による夫婦への相互作用とその影響を、自身でも感じている。一方、研究者としての還元の方法として、まず結婚家族について記録することがある。また共生に向けての支援として、相談に乗ること、支援団体や行政支援への協力、外国人と市民との対話集会の開催支援や、男女共同参画プログラムの作成支援などを行ってきた。愛知県の医療通訳システムによる通訳資格の認定では、養成にも関わってきた。認定されたフィリピン語の医療通訳者によって、病院への派遣、電話や文書による通訳など計59件の支援が行われた。夫婦の対話集会をコーディネートした際には30~40名の日比夫婦の当事者が集まり、男女別れて国際結婚に関する議論が行われた。他にフィリピンとつながる子ども・若者への励まし支援として、募金活動や、在日フィリピン人を母に持つ学生への就職支援を行っている。
国際結婚、研究者としての自分の立位置、何が還元できるかを考えると、個人・地域・グループ・行政として、共に生きているという視点を持ちながら様々な関わり方ができる。

2.土井佳彦 (多文化共生リソースセンター東海)
「東海地域における多文化共生の取組み:これまでと、これから」

概要:2008年、東海地域における多文化共生社会づくりを目的とした中間支援組織を設立。これまでに携わってきた活動や昨今の新たな動きを紹介し、今後予想・期待される“チャレンジ(=課題への取組み)”を投げかける。それに対して各個人や組織が個別または連携してできることを考えたい。
主な著作「多言語支援センターによる災害時外国人支援―情報提供と相談対応を中心に」『東日本大震災と外国人移住者たち(移民・ディアスポラ研究2)』明石書店,2012(鈴木江里子編著)。「これからの多文化共生施策の立案に向けて」『国際文化研修』JIAM, 2013年春79号(pp.48-51) http://www.jiam.jp/journal/vol79-1.html。

多文化共生リソースセンター東海は、各地域の既存の現場団体が必要とするヒト・モノ・カネ、情報などを支援することで、これまで支援が行き届かなかった人々へサービスを拡充したりサービスの質を向上できるようにする「中間支援組織」という立位置にある。
多文化共生の推進において “3つの壁”が立ちはだかる。まず、コミュニケーションにおける「言葉の壁」。これを取り除くために、外国人への日本語教育や情報の多言語化が行われている。また、外国人が住居を確保したり、就学・就職をする際などに、国籍や在留資格などの「制度の壁」がある。さらに、見た目やステレオタイプな認識による差別・偏見といった「心の壁」も大きな障壁となっている。これらに対してさまざまな支援活動が行われ、また多文化共生の地域づくりに向けて、マジョリティである日本人に意識啓発を行ったり、外国人住民の自立と社会参画を促すための取り組みも行われている。
これらは、総務省が2006年にまとめた「多文化共生推進プログラム」を受けての行政や民間団体による取組みの紹介である。一方、今後注目すべき問題として、子育てする外国人への支援や、外国人子弟に母国の言葉や文化などを教えることが重要視されている。政府・自治体による外国人受け入れの法整備が行われていない現状に対しては、現場から声を上げていくことが必要であり、実践においては行政と民間の連携・協働が必要である。市民団体の活動については、持続発展的な可能性を向上させるにはどうしたら良いかが問われ、次の世代へのノウハウの継承や新しいチャレンジ、担い手の多様化やネットワーキングなどが課題である。加えて、多文化共生に対する無関心層への意識啓発や、一部の反対派との対話などが、中間支援組織としての役割としてますます重要になるだろう。

3.小國和子 (日本福祉大学)
「認識的世界の断絶を乗り越えたくて:フィールドとホームがつながる時代に」

概要:インドネシア農村でのフィールドワークの延長線上で関わった開発援助の現場では、相互に文化の学び手となる機会を創出することで、支援―被支援の固定的な関係をいかにときほぐし、「つなぐ」かが、一番の課題だった。<フィールド>に通い始め20年が過ぎた今、ダブルの大学生との出会い、海外技能実習制度を利用したインドネシア人子弟に資するための「研修」にかかわる中で、今度は<ホーム>における支援―被支援、搾取の構造で語られる制度や関係が、乗り越えるべき課題として目の前に近づいてきた。認識的世界の距離を縮める文化の相互翻訳の観点から、今後身近に出来ることを考えたい。
主な編著作『支援のフィールドワーク:開発と福祉の現場から』世界思想社、2011(亀井・飯嶋と共編)。『村落開発支援はだれのためか』、明石書店、2006(OD版)。

報告者は文化人類学者を学び、インドネシアなど「フィールドから学ぶ」というスタンスを続けてきた。特に国際開発援助に従事する中で、援助する側の正当性で物事が動いていることを実感した。そして、直接的な支援というのではないけれども相手社会を理解しようという思いを持って学ぶ立場での関わりに意味があるのではないかと考え、制度的な支援との間でできることがあるのではないかと考えるようになった。最近の取り組みとしては、現地調査先でも一方的に情報を得るだけでなく、自ら日本農村での生活や農業等「自分語り」を含め、相互に理解しあうような機会としてのフィールドワークを行っている。
研究者としてのフィールドワークの一方で、日本では専業農家の家族として生活している。福井農林高校の協定校からインドネシアの農林高校生が3カ月の交換留学で来ているが、農業をもっと長く学びたい、という現地高校のニーズが出て、農園で研修生を受け入れることになった。現実的に使える制度としては技能実習制度しかなく、既存の制度でどこまで柔軟に、実質的な研修が出来るか、農園では年間学習カリキュラムを作成して模索を続けてきている。昨今の、「技能実習制度拡大」の動きの中で、単純に日本側の人口・労働問題の観点のみからの議論が多く、強い危機感を覚えるようになった。これまで、インドネシアでの<フィールド>に対して、福井の<ホーム>での実習生とのかかわりを、研究的につなげて考えることをしてこなかったが、時代の流れの中で<ホーム>が<フィールド>につながってきた。技能実習生の送り出し国、地域の研究、調査を行ってきた地域研究者が、これから日本で出来ることを積極的に考えたい。

4.岩佐光広 (高知大学)
コメント「「生活者」としての視点から」

概要:在日外国人に関する議論は、ともすれば彼らの存在自体が「問題」とされたり、あるいは彼らが直面する「問題」について論じたりと、「問題」をめぐるものが大半を占めます。彼らの日本での生活には多くの「問題」があることは確かかもしれませんが、それだけではありません。在日ラオス定住難民コミュニティでのフィールドワークを通じて気づいたことは、彼らが「生活者」として営んできた彼らなりの暮らしの側面も豊富にあることです。「生活者」としての彼らの姿に寄り添いながら、在日外国人をめぐる「問題」と「支援」についてコメントできればと思います。
主な著作:「在日インドシナ定住難民の「彼らなりの暮らし」はどう保たれているか」『社会的包摂/排除の人類学:開発・難民・福祉』(内藤直樹・山北輝裕編、昭和堂、pp.141-156)。「在日ラオス系定住者の相互扶助の展開過程」『文化人類学』77(2):294-305。

岩佐はラオスにおけるターミナルケアを専門とする文化人類学者である。「生活者」という立位置から3名の発表を聞き、共有できるキーワードとして「立場性」があると感じた。
愛知みずほ大学の荻野氏によれば、ベトナム人の定住化において「重要な他者」の存在が様々な形で語られるという。重要な他者とは生活において助けになるような他者の存在であるが、この存在と出会えるかは偶発性が高い。多文化共生の目指す先の一つに、重要な他者との出会いの可能性と多様性を広げることがあるのではないか。支援以外に重要な他者としての付合い方を模索することも多文化共生のあり方であろう。佐竹氏の発表は非常に示唆的で、多様な関わり方の例を示していた。複数の立場性を抱えながら色々な形で付合うことで、反対に一つの立場に立てずに直面する難しさがある。自分自身の中にある抵抗感も含めて「立場性」を捉え、何が見え、できるのか、逆に何が見えず、できないのかを自覚する必要がある。つまり分業と共同が求められるが、土井発表の中間支援組織はこの分業のつなぎ手であろう。
「研究者は支援できない」というジレンマについても、立場性を意識すれば、研究者としての役割を自覚できるのではないか。直接関わらない研究者という立場から別の関わり方を探したり、「ビルマ難民」という呼び方など言葉の一つ一つも含めて、様々な背景を理解したうえで、できることできないことを理解することも、立場性という部分に関わってくるのではないだろうか。
「持続発展可能な支援」に関しては支援する側が生活できないことが問題であり、それが見えることで支援者層の再生産が行われない。ここから支援者の高齢化が起こっている。重要な他者との出会いの可能性と多様性を拡大するという多文化共生の形を模索する中で、個々の支援団体の持続を行いながらも、支援のための関わり自体を継続する必要性を認識した。今回の研究会参加者が、それぞれの立場性で、できることできないことを自覚しどう感じたか、改めて考えることが今回の場の意義ではないだろうか。

◆質疑応答の一部紹介:

Q 多文化共生の地域づくりとして、フィールドワーカーが日本においてどんな関わり方ができるだろうか。
A(小國)国際開発同様、日本の「外国人支援」においても、いわゆる制度的支援のフィールドでは、一方(支援する側)が他方(支援される側)を理解する場になりがちである。相互に理解できる場にするにはどうしたらいいか考えなければならない。

Q 外国人労働者の流入は不可避であるが、国が法制度としてやるべきことに関する研究はなされているか?」
A (土井)移民受入れにおける入管政策についての議論は多いが、来た後の人々についての議論はほぼない。受入れることが国や地域にとってプラスになるような受入れ先の提示が重要。それは国よりも現場がいかに力を発揮するかに作用されると考えている。

Q 多文化共生の多様性について、多文化共生とこれまでの在日支援団体とのすれ違いの事例や、それをどのように解決できるのか?
A (佐竹)国としては、オールドカマーとニューカマーを別ものとして考えている。イベントの中で各国からの在日外国人たちが互いに接する中で、自然に偏見が解けていっている事例もある。オールドカマーとニューカマーの間でも様々な偏見があるが、日本人と外国人間の偏見の解消と同様、ふれあいの中で解けていくのではないか。

Q 「顔の見えない定住化」という言葉もあり、エスニックな壁は両者が作っているものだと思うが、経験の中でどう捉えているか?またその対応は?
A (土井)個人的な意見だが、国籍を問わず、だれとでも仲良くしなければならないというものではないと思う。また、基本的にわざわざ困っている人・ことを捜し当ててまで支援しようとしているわけでもない。災害時などでは特に日頃のつながりの重要性を実感するので、それがないことで被害が拡大するのを悔やむことにはなるが、だれかれかまわず積極的に関わっていくことはない。実際に本人が困っていたとしても、プライドから支援を拒む例もある。それでも、ゆるいつながりがあれば、必要なときにはこっそり相談にくるので、さまざまな人と関係性をもち広げておくことは重要だろう。

◆参加者発言からの一部紹介:
全体討論では、佐竹発表の「立場性」、土井発表の「3つの壁」、コメントにでたアイデンティティや宗教などのテーマも含めて、各自が自らの経歴に絡めて関心を紹介し合った。詳細は割愛するが、以下、それぞれの「立場性」を感じられる発言部分を記載する(個人が特定される市町村名や固有名は割愛しました)。

・文化人類学研究者の立場で、実践者たちの力についていけないというジレンマを抱えている。「適切な答え手につなぐ」ことが自分にできることだと認識している。
・自分の「文化人類学者」の立場性がどう活かせるのかというジレンマや、立位置、テーマについて、今日の発表に共感した。
・在日ブラジル人の宗教生活について彼らのすぐそばで、調査・研究している。
・外国の外国人を研究する自分の学生が、身近な外国人について知らないことへの疑問や医療現場で働く家族の話などから、身近な外国人とも関わらなければと感じていた。フィリピン人のカトリック教会に行く機会があり関心が深まり、研究会参加のきっかけになった。身近にアジアからの外国人がいるのに知らないのは、アジアの研究者としてどうかと思ったため、今回の様な研究会にはこれからも参加していきたい。
・海外と関わりのある会社で働いてきた中でこれまで海外で助けてもらった分を、日本にいる外国人に恩返しできないかと思い、地域の日本語教室などで活動してきた。現在は日本語を話せる外国人の就職活動を支援したり、出産を控えた方のケアなどを行っている。またイスラム教の人々の食べられる物、食べられないものについて研究している。できることとできないことがある、できないことはできる人に伝えることができればよいのではという感想を持った。
・移民研究を行っている。外国人の多い地域で学生とともに学習支援を行っている。新しい問題として、支援対象者だった相手が成長し高校生になった現在、支援者である大学生の学力不足により学習支援ができないという問題が生まれており、持続可能性の問題の一つではないかと考えている。
・外国人と地域住民との多文化共生について研究している。研究地域で学習支援を行っているが、この地域ではマイノリティ・マジョリティを数の原理では言えず、日本人がマイノリティの地域もありそうである。そのような状況で地元住民がどんな感覚を持っているのか、インタビュー調査などで現在研究している。自分が調査していた中で感じていた、無関心な地域住民への意識啓発の重要性を、発表を聞いて再実感した。今後どのようなアプローチができるか再度考えたい。
・EPA(Economic Partnership Agreement/ 経済連携協定)で来日した看護師への支援をしている。雇用問題や労働問題について活動しており、それを報告する必要性を感じている。持続可能な支援に関して現在、EPAにより日本で勉強したが帰国してしまった看護師たちを呼び戻すことはできないかと考えている。EPAに関して日本側の態度は、看護に対しては教育を施すものとして上から目線である。介護については、日本側は人材を渇望しているが、日本の介護の現状に呆れて外国人たちが帰ってしまう現状である。このような状況について、どんな活動ができるか考えたい。また人類学などの研究者の人々とともに考えていきたい。

以上

(文責:千葉裕太/愛知県立大学大学院)


【報告】日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」第13回研究会(2014年5月16日)

下記研究会は終了しました。多数の来場ありがとうございました。

参加者:約25人

テーマ「人種主義再燃の同時代における文化人類学の役割」

日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」は、
学会50周年記念国際研究大会(IUAES2014合同開催、幕張メッセ)
の会期に合わせて、公開の研究会を開催します。

各地で再燃する、人種主義の動き。
文化人類学は、その学問の歴史を通じて「反人種主義」を掲げ、
文化相対主義を唱導する役割を担ってきました。
学問として果たしてきた、このきわめて長期的な社会への応答のありかたに着目しながら、
文化人類学の応答性を「長期的」「中期的」「短期的」の三つのタイムスパンによって
分類、整理することを試みます。
あわせて、同時代における文化人類学界が果たしうる役割について考えます。

公開開催、入場無料、申込不要。どなたでも自由におこしください。

【お知らせ】
当日、先着10名様に、バナナを無料でプレゼントいたします。
バナナを食べながら、反人種主義の過去と現在について議論しましょう。

【参考サイト】ハフィントンポスト
「人種差別に反対、「バナナの輪」世界のサッカー選手に広がる ネイマールら賛同」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/30/banana_n_5237271.html

日時:2014年5月16日(金)19:30~20:50
場所:「幕張会議室」中会議室(千葉市美浜区ひび野2-4 プレナ幕張6階)

話題提供
亀井伸孝(愛知県立大学)
「文化人類学の三つの応答性:長期的、中期的、短期的な社会との対話」

飯嶋秀治(九州大学)
「同時代の喫緊課題に対する文化人類学の<応答>可能性の検討:事業報告と年次計画」

連絡先
日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」事務局
outou.office@gmail.com
http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/~com_reli/jasca_outou/

行事のチラシはこちらからご覧ください(PDF)。

(以下、行事報告)

■亀井伸孝(愛知県立大学)「文化人類学の三つの応答性:長期的、中期的、短期的な社会との対話」

他者を類人猿にたとえて貶めるなど、擬似的な生物学的表現をちりばめた序列化の言説の横行に歯止めがかからない状況がある。このような人種主義(racism)の言説に対する批判は、はからずも人類中心主義(anthropocentrism)、自文化中心主義(ethnocentrism)をあわせて解体する批判精神を伴う。文化人類学の応答性は、(1) 長期的: 新たな人間観を創出する、(2) 中期的: 特定地域・社会の専門的知識を提供する、(3) 短期的: その場に居合わせて関わる、の三つに分類できるが、文化相対主義を打ち立て、1世紀半かけて人間観の修正を行ってきたこの学の寄与とは、もっとも長期的な社会への応答 (1) に相当するであろう。文化人類学は、今後も時流におもねることなく、世紀をまたぐ長期的かつ堅実な取り組みとしての、反人種主義の礎であり続けたい。この学問の存在意義を提示することは、人びとの関心と資源を招き寄せる魅力を示すことにもつながるであろう。

■飯嶋秀治(九州大学)「同時代の喫緊課題に対する文化人類学の<応答>可能性の検討:事業報告と年次計画」

課題研究懇談会の一部を外挿した平成26‐27年度科学研究費「同時代の喫緊課題に対する文化人類学の<応答>可能性の検討」での論点と年次計画に触れたのち、近年ホームで見られる自民族中心主義について取り上げた。応答の人類学には、清水展の議論に沿って①自己への応答、②目前の個別の応答、③民族誌的応答、④長期的応答と4つほどの集約点があることを紹介。またこうした集約点とはまた別の対応が必要と思われる近年のホームでの自民族中心主義について取り上げた。インターネット上の自民族中心主義は1990年代の後半から頻繁に目にしていたがそれが政治と結びつく機制について、「文化相対主義」が瀰漫して、逆に研究者の学説が「一学者文化の説」として取り囲まれる状況について、法哲学の井上達夫の議論を紹介した。こうした状況に対応するのに、①これまでの先行研究がそうした自民族中心主義の現象を分析できても、相手が学説さえ「一文化」として居直って参照もしない時、①一市民として対応する、②文化人類学の専門家として個別に対応する、という以外に方策がないものかを、③シャープ、トーゥレーヌ、田嶌誠一、鳥越晧之らの中で考えてゆきたいことを提起した。

■討論

□フロアから(発言者A):
今日の話では、音声言語にせよ手話言語にせよ、言語共同体のなかで言語を習得するということが前提となっているが、歴史的にみると「自らの言語で学ぶことができなかった」人たちもいる。ことばを奪われた人たちの存在は、文化人類学者を脱植民地化の文脈に位置づけることを迫る。文化人類学が、社会からどのように呼びかけられているのかをきちんと確認することが必要になる。言語を奪われた人たちと相対する局面では、「文化人類学者として」その局面に対するのか、「支配者のひとりとして」対するのかという状況に追い込まれる。自分がやっている学問の歴史、切り捨てることのできない歴史性に向き合う必要がある。

□発表者側回答:
文化人類学および文化人類学者が、どのポジションでだれと話すのかという点は、自ら背負っていくべきだ。

□フロアから(発言者B):
文化人類学では「「人種」は存在しない」とされているのに、「人種はない」と口にするたびに「人種」の概念が強化されてしまう。「人種主義」とか「反人種主義」とはいわずに、「レイシズム」とカタカナで表現していったほうがいいのではないか。「人種」ということばを使うたびに、身体的差異があることを前提としてしまうのだ。

□発表者側回答:
人種概念を批判する側も、相手の概念を構築することに手を貸してしまわないよう、立ち位置を自覚する必要がある。

□フロアから(発言者C):
「応答」というメタファーに関して。ふつうは「問われて」「答える」ということなのだろうが、ここでは、まずだれかから問いかけられることを前提しているのか? 自分たちは「○○を問われているからやっている」というスタンスをとるのか。

□発表者側回答:
この点はこれまでも議論されていて、現時点では未整理である。ただ、文化人類学者が「他からの問いかけを待っているだけの姿勢」ではないことは指摘しておきたい。時には、問いかけられるより前に行動を起こすこともありうるだろう。

□フロアから(発言者C):
応答しないことも含めるのであれば、応答しないところから応答するようになる過程も書いたらよいのではないか。

□フロアから(発言者C):
人種差別事例を発見し、それに対して反人種主義を表明するということがひとつの事例だが、このような行為そのものを文化人類学が道徳的に内面化して、「警察」的になってしまわないように留意する必要がある。今日のネトウヨの話などにおいては、そのような危惧が出てくる可能性があるため、その点も整理が必要であろう。

(議事録作成:増田研、亀井伸孝)