閑山子LAB

九州大学大学院人文科学研究院教授・川平敏文のページです。


駿台雑話

むさしの国、大城の東、駿台のもとに、草の菴むすびて住ける独の翁有けり。そのかみ北国より爰に来て家居せしが、もとより深山木の花にあらはるべき材もなければ、其梢としる人もなくして、たゞ学の窓に文をひろげ、見ぬ世の人を友とし、老の至るをもわすれつゝ、きのふといひけふと暮して、はやふたとせあまりにおよべり。ちかきころより衰病日に加り、それに痿痺の疾ありて、起居も心に叶はねば、日夜衾枕をのみ親しみ、書籍にさへうとくなりにたり。何をか世にあるおもひ出にせまし。爰に此翁に就てもの学ぶ輩ありて、書を講じ文を論じ、おの〳〵虚にして往、実にして帰らぬはなし。其外花の晨日の夕には、かならず問来てなにくれと世にあらゆる事ども語りつゞけ筒、日をくらし僕を更れどもやむ事なし。むかしより良辰は失ひやすく、嘉会は得がたければ、いつも賓主ともに唐錦たゝまくをしくなん見えし。翁も客に対して清談する事をこのみて、身の煩はしさも心地よくおぼゆる儘に、いにしへ今の世にいひふる難波の事のよしあしとなく、本末懸てその理を尽しけるが、われながらをかしとおもふひとふしもあれば、其席はてゝ、わが子弟に命じて、やまと文字に写し置けるに、日数を経ておぼえず巻をなせり。もとより有識のきはの人の、目をとゞむべきものにあらねば、さしてをしむべきとにはあらねども、古人の雞肋といへるにも類しぬべし。さすが反故となしてかいやり捨んも本意なければ、さて児輩にあたへてよましめむとて、しばらくのこしおきけらし。
享保壬子のとし九月中旬、鳩巣の翁駿台の草の菴にして筆をとる。

駿台問答の話、是に限るにあらず、経伝の文を論ずれば、所論(論ずる所)の書により、諸生の問に答ふれば、所問(問ふ所)の人にしたがふ。この故に、所論(論ずる所)の文参差として斉しからず、所問(問ふ所)の事多端にして一にあらず。今こゝに所記(記す所)は、正道を明かにし、邪説を弁じ、すべて学問の大綱に係り、又は世俗の諺浅近の語といへど、平生の事に通じて、観省の益ともなるべき事どもを採集て、しるし置になんありける。よりて観るにたよりあるべきために章段を分ち、其中の提要の一語を摘て篇に名付けらし。鋪敍倫なく、議論複出するやうにきこゆるもあれど、本より撰次して書となすに心なければ、たゞそのかみ語りしまゝに敍録して、家に貽し置ものならし。
 国語大やう古雅にしたがひ、世俗のいやしき語を避ると、いへど、事情にちかく、人聴に切なれば、たとひ鄙しき俗語にても、そのまゝ取用て、択びすつるにいとまあらず。又近代漢字をもちひて、音にてつらねよみて、常語とするあり。武家の盛衰に武運といひ、武士の戦功に武辺といひ、人に礼辞するを挨拶といひ、事に懈弛するを油断といひ、君父の義絶を勘当といひ、山林の鬼魅を天狗といふ。是等の類なほ多し。甚無謂(謂はれ無し)といへども、久しく世にいひ来る詞なれば、今改るに及ばず。又字を誤りもちふるあり。号令して流布するをふるゝといふに、徇字たるべきを、触字をもちひ、強忍にして敢てするをおすといふに、忍字たるべき押字をもちふ。是等は同訓に誤らるゝなるべし。雨露の滴をしづくといふに、雫字をもちひ、種菜(菜を種る)の田をはたけといふに、畠字をもちひ、伴語の人をとぎといふに、伽字を用ふ。是は雨下の二字を合せて一字として、露の下垂するといふ意をとり、白田の二字を合せて一字として、白地の田といふ意をとり、人加の二字を合せて一字として、人の相加るといふ意をとるなるべし。又同仇の兵をみかたといふに、味方の字をもちふるは、一味の方といふ語を略するなるべし。又家号氏族のかぢゐかぢはらといふに、梶字を用ふ。是は柁字を誤て梶に作るなるべし。すべて此類は仮名をもて其詞をしるしおきてもよかるべし。されど畠山梶原などいふ氏族をしるすには、仮名をもちひ難し。誤りながら真名をもちひても、咎なかるべし。
 雑話の中に引用る古語古文もしくは事実頗る多し。そのかみ客に対しては、あらまし覚えしまゝに語りし程に、すこしづゝたがひ、又は首尾せぬ事もあれば、後に本書を考へしるし置ぬ。されど今老耄して、精神も乏ければ、その出処を忘れて、急に考へあたらぬをば、必しもしひて考索せず。もし善読者あらば、たゞ大意のある所をとらんかし。其余は論ずるにたらず。

駿台雑話 巻一

    老学自叙
 つら〳〵身の過来し昔を思ふに、もとは武蔵の産にてなんありける。そのかみ初て髪を結びて、詩書を事としてよりこのかた、或は檄を捧て藩邸に游事し、あるは笈を屓て、京師に旅食す。其後北地に家居せしかば、常に旧学を脩め、素願を償て、一生を終る事をなんはかりにき。然るに往年はからざるに、大家の徴を辱うして、ふたゝび故郷に帰り住せしが、身老材腐て、やがて丘に首する死を待程になんなれりける。されば多くの歳月を経て、今犬馬のよはひ、七十にあまる四の年まで、学を好み道に志すといへども、人の師表となるべき道徳もなく、又外になにの材能もなくして、むなしく世にあるこそいとほいなき事なれ。されど翁を信じて、こゝに問来る人人に、日ごろ自得したる事を語りきかせて、後学のたよりともならば、それこそ責てながらふる甲斐もあるべしとおもふにぞ、病をつとめ痛を忍んで、たえず書を講ずるにてぞありける。ある日講はてゝ、宋儒以来学術の異同におよぶ。座中に程朱の学に疑を胎す人ありしに、翁のいふやう「某もわかゝりしとき、俗儒に習て記誦詞章を学びて、多くの年月を曠うせしが、或時忽往日の非を悟て、始て古人己が為にするの学に志ありしかども、不幸にして良師友もなかりしかば、諸儒紛々の説に眩惑して、程朱をも半信じ半疑ひつゝ定見なかりし程に、とかくして又むなしく歳月を経にけり。年四十にちかきころにもあらん、ふかく程朱の学、つひに易べからざる事をさとりて、それより日夜程朱の書をよみて、心を潜め思を覃うする事今に三十年、仰げばいよ〳〵高く、きればいよ〳〵堅く、高遠に過ず、卑近におちず、聖人復出とも、必其言に従はん事疑なし。されば天地の道は、堯舜の道なり。堯舜の道は孔孟の道なり。孔孟の道は程朱の道なり。程朱の道を捨て、孔孟の道に至るべからず、孔孟の道をすてゝ、堯舜の道に至るべからず。堯舜の道をすてゝ、天地の道に至るべからず。老学もとより信ずるに足らぬ事には侍れども、是ばかりは実見ありて申事にて侍る。もし実見なくしてさもなきことを申ならば、翁が身忽天地の罰を蒙るべし」と誓ひけるにぞ、座中も聴を改むる気色也。其時翁いふは「是は五百年来論定りたる事なり。今更翁がちかひを待べきにもあらず。朱子以後、宋には真西山、魏鶴山、元には許魯斎、呉草盧、明には薛敬軒、胡敬斎の諸賢をはじめ、其外道学に志ある人、程朱を尊信せざるはなし。一代の碩学たる事、宋潜渓がごとく、百家を綜核する事、楊升菴がごとき、文字論説の末においては、程朱を議すといへども、学術道徳においては、間然する事をきかず。されば明の中葉までは、おほやう世の学術も正しく、名教も頽れざりしぞかし。王陽明出て、良知の学を唱へ朱子を排せしより、明の学風大に変じぬ。陽明既に没して其徒王龍渓がごとき、つひに禅学となる。それより世の学者良知に沈酔し、窮理に欠伸し、其弊嘉靖、万暦の間に至て、天下の学者、陽儒陰仏の徒となりてやみぬ。諸賢よく思て見給へ。西山以下の諸賢、たとひ汙下なりとも、所好に阿ねるには至らじ。又其徳行材識、いづれも明季並に今の儒者の下にあるべきにあらず。それに程朱万分の一にも及ばぬ学識をもて、軽々しくなにくれ譏議するは、鷃の鵬を笑ひ蠡にて海を測るに似たり。韓愈がいはゆる、井に坐て天を観て、天を小なりといふの類なり。然るに軽薄無識の徒、其説の新奇なるをよろこびて、雷同瓦鳴する事、あげて数べからず。国家百年以来、太平久しく文化日に開て、師儒世に輩出しけり。其学の是非はしらず、たゞ程朱を堅く崇信して、ふるき模範を失はざりしをぞ、ひとつの幸とせしに、ちかき比俑作る人ありて、始て一家をたて、徒弟をあつめしより、老姦の儒いでゝ、其上にたゝん事を欲し、猖狂の論を肆にして忌憚る事なし。一犬虚を吠れば、群犬これを和する習なれば、邪説横議世に盛なるこそ、理にて侍れ。誠に此道の厄運ともいふべし。されば韓愈も、仏老盛に行れし時に生れて独これを排斥して、みづから孟軻に比せしが、その孟簡に与る書をみるに、天地鬼神臨之在上質之在傍(天地鬼神之を臨むに上に在り之を質すに傍ら在り)とは、誓ひしぞかし。今翁がちかひも、孟子の功にこそ及ばずとも、韓愈が心にはおとり侍るまじ。あなかしこ、かり初の空言とおぼすべからず。

    釈源空がちかひ
 むかし源空上人、九条の月輪殿へつかはせし一枚起請とて、今に新黒谷に残りてあり。其誓書を翁は見侍らねども、そのかみ人に尋ねしに、「念仏申て極楽に生るといふ事誕ならば、源空地獄に堕べしといふ事なんありける」と語りし。彼宗門にてはさぞ慥なる事におもふべけれど、吾儒よりいへば、この誓ほどうける事はあらじ。いかにとなれば、もとより極楽といふ事なければ、又堕べき地獄もなし。いくたび誓ひてもいと安かるべきわざなり。前代いまだ殉死の制禁なかりし時、ある諸侯の家殉死あまたありける中に、ひとり与論のをしむ人にやありけん、其家の老臣みづから其宅へ行て死をとゞめしに、中〳〵許諾せざりしを、いろ〳〵にこしらへければ、其人やむ事を得ずして一諾しけり。「さらば誓ひてよ」といへば、いと快く誓ふ。さては心安しとて帰りぬ。さて其翌日にか、殉死の面々亡君の菩提所へと相約して、寺に聚りしに、日ごろ知旧名残ををしみつゝ、まうで来にけり。かの老臣も行て上座しけるに、昨日ちかひし人、いちはやく来て諸客にいとま乞しけるを、老臣うらみて、「某をこそ欺き給ふとも。いかで誓ひをば背き給ふべき、口惜きわざかな」といへば、其人笑て、「御うへを欺き候事は御ゆるし候へ。昨日ちかひ申さず候へば、とかく御のがしなく候故、御疑を散ずる為にこそ誓ひ候へ。誓を背て神罰を得候とても、死ぬるより外の事はあるまじく候。されば死をきはめたる身にて候へば、もとより誓ひを背く覚悟にて誓ひ候」といへば、老臣こと葉なくしてやみぬ。此人の命を喪外に神罰なき事を意得て誓ひしやうに、源空も土になるより外に地獄なき事を意得てこそ、かくは誓つらめ。今翁が誓はそれと異なり。上は皇天を戴き下は后土を履て、天地にかけて誓ふ。誓ひもし誕ならば、天地の罰をかうぶるべし。されど我道の為に誓ふは、源空も同じ心なり。是につけておもふに、釈氏の教は、有を無にし、実を虚にするにあり。然るに無を有にせねば、有を無にしがたく、虚を実にせねば、実を虚にしがたし。されば極楽地獄のさたは、もと虚なる事としれども、もとより真仮一如とみてこれをとく、往生の教をたてゝ衆生を導けば、賢愚をわかず、思慮に渉らず、すべて念仏滅罪の中に帰してやみぬ。是釈迦如来の密旨なり。我朝にても諸宗の祖になる程の僧は、此旨を互に心をもて心に伝て、仮にも浄土地獄の沙汰をうきたる事とはいはず。今源空が誓も相伝の旨なるべし。九条殿の生るべき浄土もなく、源空が堕べき地獄もなし。されば無をもて有とし、虚をもて実として、衆生に生死を出離さする法とするは、釈迦の本意にかなへり。それはいさゝか偽なきことなり。もし吾儒至誠をもて人を教化する道をいはゞ、雲泥のさたなるべし。

    異説まち〳〵
 ある日翁が病を問とて人々来りしを、「翁も徒然にこそ侍れ。今日はしばし」といへば、「さらば侍坐つかうまつらん」とて、日をくらし語りあひし程に、当代異説の事に及べり。座中一人翁にむかひて、「たゞ今西京東都において、世に鳴て人を率る儒者の説を承り候に、或は我国の道とて、神道を雑へてとくもあり、或は陽明が学とて、良知を主としてとくもあり、或は古の学とて、新義を造りてとくもあり、紛々異同の説まち〳〵なり。いづれを是とし何れを非とせん。翁の心においていかゞ思ひ給へるにや」翁きいて「当代門戸をたてゝ異説を唱ふるもの、おほやう今申さるゝ三流ときこえ侍る。是等の説を立る人々、さこそ所見あるにて侍るべし。もし翁が古に聞ところをもていはゞ、いづれもさには侍らず。それ道は天にいでゝ一原なるものなり。その一原のところをさへ悟りぬれば、わが国の道とて人の国にかはるべからず。良知の説とて窮理にはなるべからず。鄒魯の学とて濂洛にたがふべからず。然るに是を知るは聖賢の書にあり。聖賢の書はよみやすからず。されば志を遜てくはしくよまずしては、その意を得る事なし。今の儒者、おほくは自ら高ぶる心ありて、濂洛の書をくはしく読人まれなり。いまだ程朱の藩籬をも窺はずして、己が心を先だてゝ、にはかに大賢を議す。所見の是非は姑くさし置ぬ、先其学の軽薄浮浅なるこそ、うたてしく覚え侍れ。さやうの人は孔孟の書をもくはしく読まじければ、孔孟の意をも得ざるべし。孔孟の意を得ずしては、いかで程朱の説に疑なかるべき。然るに程朱をば軽々しく議すれども、孔孟を議する事をばきかず。是は孔孟にも疑なきにはあらねども、孔孟は二千年来世に尊信す。それを議しては人のうけがはぬ事なり。程朱は世代ちかく、明朝に至て或は譏る人もありける故に、是を譏るなりといはゞ、是毛遂がいはゆる因人成事(人に因て事を成す)なり。一定の所見ありとはいふべからず。もし又己が道徳学術孔孟には企及ばねば其憚ありといはゞ、さては今程朱を譏るは、是己が賢ははるか程朱の上に立とみづから許すなるべし。それはともあれ、神道とはいへど其説をきくに、我国に荷担し、湯式叛逆の類といへば、其いはゆる神道は、仁義の外に有にやあらむ。良知といへど其説をきくに、仏性を明徳と並べ称し、武蔵房弁慶を智仁勇の士といへば、其いはゆる良知は、是非の心にあらざるにやあらん。古学といへど其説をきくに、大学を聖人の書にあらずとし、孔釈の道二つなしといへば、其いはゆる古学は、徳性の外にやあらむ。是等の説、いづれも翁が疑をのがれぬ事にて侍る。然るに仁義をかね、内外を合せ、古今に通ずるは、たゞ程朱の学なり。されば大中至正の道にて、孔孟の正統たる事、なにの異論かあるべき。たゞ翁がふかく恐るゝ所は、程朱の学をするのともがら、身をもて践履をせずして、たゞ議論をのみ事とせば、其学は正しといふとも、道において何の得る事かあるべき。明朝にすでに其弊ありし故に、陽明も支離をもて朱学を譏りしぞかし。邪説の起るも是故にてこそ侍れ。もとより実行を忘れて空談をつとむるは、聖賢の戒る事なれば、今更翁が事新しく申にも及ばず。ふかく慎むべき事にこそ。」

    心のめしひ
 座中又ひとりいふは、「翁の仰らるゝごとく、吾党の士は、相戒めて実行をつとむるこそ、邪説を距ぐ上策と申べく候。されば、孟子も楊墨を距て、好弁の譏をば辞し給はねども、其要を論じて、君子は経に反るのみといふに帰せられ候 況や今偽学詭弁の徒、野辺におふる葛の如くはひひろごり、邪誕妖妄の説、林に落る木の葉の如くしげゝれば、それにしたがひて弁説を費やさんは、反て吾道を浅はかにするにて侍りなむ。此ころの事にて候。ある儒者の説とて、耳を驚かす事をこそ承候へ。「道は天地に出るにあらず、聖人の作り給へる事なり」又いふ。「道は事物当然の理にあらず、文雅風流のものなり」又いふ。「五倫の内に夫婦のしたしみばかり天性なり。其外君をたつとび父母をうやまふの類は、人の性にあらず、聖人の作り出せる道なり。其作者聖人なる故に、古今に行はれて変ずる事なし」とぞ。古より邪説多しといへど、是ほど乖戻りぬる事は承らず。いへばいはるゝものに候」とて、互いにいひあひて笑ひけるに、翁きいて、「諸賢は東坡が日喩の説を見給へりや。生れて盲たる人あり、日はいかやうなる物と思ひてかたへの人にとへば、日はかく円なりとて銅鑼を探らせけるに、銅鑼をたゝいて、さては日は声ある物とおもへり。又かたへの人いふは、「日は光あり、燭の至る時には、おのづからあかるきやうにおぼえぬべし。そのごとし」といふを聞て、蠟燭をなでゝ、さては日はほそく長きものとおもへり。今の世俗道理にくらき人多し。たとひ書を読ても、道理にくらければ、いふ人もきく人も、目こそあき候へ、心は盲たるにて侍る。さればその盲たる心もていろ〳〵におもひなぞらへ候はゞ、此人の日をはかるやうに、おほきに取たがへたる事もあるべきぞかし。今承るごときの説は、取りあげてなにと申べきやうもなく侍る。たとへば喪心の人を相手にして是非を論ずるに似たり。その論ずる人もさきと同じ事と申べし。然れども翁ひそかに此説の起りを考るに、其人もと記誦の儒なり。記誦の儒は諸子百家を渉猟することをのみ好みて、四子六経に心をとゞむる事なし。たゞ其文辞訓詁を僉議して、理趣のふかきに及ばず。然るに日ごろわが学の義理にくらきをばしらず、飽まで己が博学を自負して虚誉を要する程に、世も亦是をもて推崇みて一代の儒宗とす。明季諸儒の風、大抵かくのごとし。それに放蕩不遜にして、人に驕り物に傲るを高致とし、好て大言を吐て先賢を毀り、抗然として高く唐宋諸儒の上に出んとす。然れども有識より是を見れば、学は遠く荀荘が余毒にゑひ、文は近く王李が浮華を拾ふに過ず。されば己が臆見にまかせて、道は天地に出ずとし、事物当然の理にあらずとす。己が曲学に合せて、道を文雅風流のものとし、己が俗情にこゝろみて、夫婦の外は五倫みな人の性にあらずとす。本より論ずるにもたらぬ事ながら、世俗多くこれを信じて、群をなし徒をなすにぞ、とかく世は奇怪を好む事となん今更思ひ当り侍る。たゞ人の心術を害し、世の名教を損ずるこそ返す〴〵もなげかしく候へ。周礼に造言の刑あるは、この為にて侍るぞかし。かやうの中に、翁が道徳もなく材力にも拙き身をもて、是を支むとするは、誠に大厦の一木ともいふべし。たとひ言て距ぎ、辞して闢くとも、たれか信ずべき。己が量をしらざるの譏も、身にのがれがたく侍る。たとへば、程朱の説は先王の礼服なれども、宋人の章甫を越に売がごとし。断髪の俗には用るところなし。程朱の説は天下の名曲なれども、郢客の陽春を楚に唱ふるに似たり。鴃舌の俗には和する人なし。詩にいはく、「知我(我を知る)ものは我心憂ありといふ。不知我(我を知らざる)者は我何をか求むといふ。悠々たる蒼天これ何人ぞや」此詩は周の大夫周室の衰るをかなしびて作れり。今翁が吾道の衰るをかなしむも、事はかはれども心はおなじかりぬべし。

    愚公が山
 されども翁が心は、知己を一世にもとむるにも候はず。昔より邪僻妄誕にして、根もなき事のさかんに世に行れて、あなかしがましくきこゆるは、女郎花の一時とや申べき。大かたはつゞかぬものにこそ。世を歴て正道へかへらぬはなし。しかるを心短くして、早く其験を見むと思ふは、未練のことゝいふべし。諸君列子が書を見給へりや。愚公といひし人ありけるが、家居ちかく山のありしをいとひて、わきへ移さんとて、日々に子ども引具し出つゝ、手づから耒耜をとりて一簣づゝこぼちとりけるを、智叟といひし人是を見て、「かく大なる山を、わづかなる人の力にてこぼてばとてこぼちつくさるべきか」と其おろかさを笑ひければ、愚公きゝて、わが代よりこぼちそめて、わが子の代にも継てこぼち、わが孫の代にも又其子の代にも継てこぼちなば、終にはわきへ移さぬ事やあるべき」といへば、いよ〳〵笑ひけるとなんしるし置けり。もとより寓言なれば、この人あるにはあらねども、愚公がいふやうなる事は、世に愚なりといへば、愚公と名づけ、智叟がいふやうなる事は、世に智なりといへば、智叟と名づけゝるならし。およそ天下の事、愚公が心ならば、おそくも一たびは成就すべし。然るに世に智ありと称する程の人は、大かた智叟が心にて、愚公が山を移すやうの事を聞てはその愚を笑ふ程に、なに事もその功を成就せぬなるべし。しかれば世のいはゆる愚は反て智なり。世のいはゆる智は反て愚なり。それ故に禦寇が世を諷してこそかくはいひつらめ。今翁も百年論定まるの日を身後に期し侍れば、世の明智なる人よりみては、翁が迂濶なることを笑るべし。されど老ひがめるにやあらん、此志を守て身を終なんとこそ思ひ侍れ。愚公が山を移すの類なるべし。

    老僧が接木
 されば是につけて思ひ出し事あり。忍が岡のあなたの谷中のさとに、何がしの院とてひとつの真言寺あり。翁いとけなかりしころ、其住僧をしりてしば〳〵寺に行つゝ 木の実ひろひなどして遊びしが、住僧かたへの人にむかひて、前住の時の事をなん語りしをきゝ侍りしに、寛永のころの事になん、将軍家谷中わたり御鷹狩のありし時、御かたちにてこゝやかしこ御過がてに御覧ましましけるが、此寺へもおもほえず渡御ありしに、折ふし其時の住僧はや八旬に及て、庭に出てみつはぐみつゝ、手づから接木して居けるが、御供の人々おくれ奉りて、御側に二人三人つき奉りしを、中〳〵やんごとなき御事をば思ひよらねば、そのまゝ背き居たりしを、「房主なに事するぞ」と仰せられしを、老僧心にあやしと思ひて、いとはしたなく、「接木するよ」と御いらへ申せしかば、御わらひありて、「老僧が年にて今接木したりとも、其木の大きになるまでの命もしれがたし。それにさやうに心をつくす事ふようなるぞ」と上意ありしかば、老僧「御身は誰人なればかく心なき事をきこゆるものかな。よくおもうて見給へ。今此木どもつぎておきなば後住の代に至ていづれも大きになりぬべし。然らば林もしげり寺も黒みなんと、我は寺の為をおもうてする事なり。あながちに我一代に限るべき事かは」といひしをきこしめして、「老僧が申こそ実も理なれ」と御感ありけり。その程に御供の人々おひ〳〵来りつゝ、御紋の御物ども多くつどひしかば、老僧それに心得て、大きにおそれて奥へにげ入しを、御めし出しありて物など賜りけるとなん。いま翁も此老僧が接木するごとく、老朽ぬれども、ある限は旧学をきはめて、人にも伝へ書にものこして、後世に至て正学の開くる端にもなり、此道のために万一の助ともなりなば、翁死ても猶いけるがごとし。古人のいはゆる死しても骨くちじといひしこそ、思ひあたり侍れ。いさゝか我身のために謀るにあらず、諸君も翁がこのこゝろを信じ給へかし。

    葉公の龍
 しかれどもかく申せば、翁が身ものに似たるやうにて、はづかしくこそ候へ。翁わかゝりしより心に聖賢をしたひ、口に六経を誦し候へども、たゞ載籍のうへにて聖賢を窺て、少し其意を得たると申ばかりにて侍る。今もし真の聖賢にあひ奉りなば、日ごろしたひ奉りし心とちがひ、反ていみはゞかる事あるまじきや、心もとなくこそ候へ。すこしもいみはゞかる事ありなば、今申事も皆偽になり、林慙澗愧つくべからず。又なにをもて後世を待候べきや。むかし葉公龍を好て、其形を画がゝせて日夜愛翫せしが、ある時真の龍これを聞て、ゑがける龍をさへさやうに愛翫あるに、わが行たらむには、ことなるもてなしにもあひなんとおもひ、窓より顔をさし入たれば、葉公大きにおそれてにげまどひけり。今東西両都の儒者をみるに、多き中には正学の志ある人もあるべけれども、大かたは自から尊大にして師儒と称しつゝ、我こそ聖賢の道を好むといへど、たゞ論説をつとめ、著述を衒ひ、是をもて世に傲り名を釣には過ず。もとより道に実得の功なければ、もし真の聖賢にあはゞ、目をかへして相見むとぞ覚侍る。しからば日ごろ聖賢の道を好むといふは、葉公が龍を好むに同じかるべし。晏嬰が仲尼を毀り、蘇軾が程頤をにくむにて、考へ見給へ。ひとりは斉の賢人、ひとりは宋の名臣にて候へども、それさへかくの如し。況や二子に及ばざるものをや。されば漢の楊雄道徳を論じ太玄を著し、一代の儒といはれしかども、一旦賊莽に臣としてつかへて、節義を失ひしぞかし。たとひ莽が世に生れずして此事なくとも、是等の学問にては、もし孔孟にあうて節義の守をもて責られなば、必にげさけぬべし。然らば太玄五千文皆虚文にあらずや。後世の子雲ありて我をしらんといへど、後世莽が太夫ありて知音たらんかし。この故に言論のみを聞て、その実迹を見ざれば、世話にはたけ水錬といふ如く、仕かたばかりにては人信じがたきものなり。はや三十年前の事にて侍る、加賀の国に杉本の何がしとて、ひとりの微賤の士ありき。翁その人を久しく相知しが、其子九十郎といふもの、十五歳の時、父はあづまへ行役しける其跡に、年輩同じ程なる近隣の人の子と、囲碁のうへにて口論しけるに、九十郎こらへず、刀を抜て相手を一太刀きりしを、かたへの人取さへけり。さて其事庁に達して後、相手の創療治さすべしとのことにて、其間九十郎は官長の家に預かり置しに、いさゝか臆したる気しき露ほどもなく、言語ふるまひの落つきたるは中〳〵年におはぬやうに見えける。日を経て相手終に創にて果ければ、九十郎も切腹するに議定しける程に、その前の夜、主人名残ををしみつゝ、酒肴いろ〳〵よういしてもてはやしけるに、九十郎母への文などしたゝめ置、さて主人にくはしく謝詞をのべ、此程附居たる家人へも、それ〴〵にねんごろにいとま乞して、さていひけるは、「面々へ名残もをしく候へば、こよひはあくるまでも語りたく候へども、あす切腹の時ねぶたく候ては、いかゞと存じ候へば、先へふせり候べし。面々は是にてゆる〳〵と酒をすゝめられ候へ」とて、奥へ入て高鼾してねぬるを聞て、跡に居たりし人々感じあひけるとぞ。又の日つとめてよき程におきいでゝ、沐浴し衣服あらためつゝ、ようい心静にし、其後切腹の席へいでゝ検使に一礼し、こゝろよく切腹しぬ。其有様従容としてやすらかなりし。いかなる勇烈老功の士たりといふとも、是には過まじきと見えしとて、其場に有合し人々、年を経て後迄も語り出して、涙おとさぬはなし。此事おこりし始に、翁彼が父のもとへ文やりてしらするとて、「九十郎たとひ切腹するに及びたりとも、此程のおとなしさにては、未錬なる事あるまじ。それは心安くおもふべし」といひつかはしけるに、後にきけば、父そのふみを人にみせて、「かくはいひて来れども、わらはべに灸するに、前には人にすかされて、思ひの外におとなしく見ゆれども、火を取てむかへば、そのきはになりて俄になき出して、前の言葉には似ぬ物ぞかし。わが子もいまだ年にたらねば、いさぎよく切腹したるといふたよりをきくまでは、心もとなく思ひ侍る」といひしとて、古人のいふ如く、此父なくば此子あらじとなん思ひ侍りき。さて此事を今申出し侍るは、九十郎がかくばかり歳にも似ずしてけなげなるを、世にきゝ伝ふる人もなくて果なんは、あまり不便に候へば申事にて侍る。其上今翁をはじめ、言論文字にて古人のまねをして、その実のあらはるゝ時に至て、日ごろのあらましとちがひありなんは、是ぞ誠にわらはべの灸なるべし。多年学問して儒者といはるゝ身にて、かの童蒙無知の九十郎が覚悟にさへおとるべき事かは。いとはづかしきこゝろならずや。諸君も常にこゝを察して、よく〳〵省み給ふべし。

    扁鵲薬匙をすつ
 他日の会に翁いふは、「過し日学術の邪正を論ぜしが、其論いまだ尽ざるやうに覚え侍る。今日其論を果し候べし。今世儒者、朱子を議するに三等あり。第一等は陽明良知の説を祖として朱子を議するあり、陽明は傑出の人なり。朱子の学を毀て支離とするも少しいはれなきにもあらず。当時朱学の弊多は文字言語にもとめて、内省の工夫やゝすくなきを見て、朱子格物の説を義外とする程に、良知を標的として、一向に内省につとめしむ。これ其意よからざるにはあらず。然ども朱子格物の説、良知を外にするにあらず、事物に即て良知を致すなり。たゞ陽明の説の如く、良知にもとめて事物に求べからずといはゞ、先王の教、詩書礼楽といはずや。詩書礼楽、事物に非して何ぞ。孔門の教、文行忠信といはずや。文に六経あり、行に百行あり。忠と不忠と、信と不信と、必事物によりて其理をしるべし。もしひとつの良知を致せばおのづから敬して、礼を学に及ばず、おのづから和して、楽を学ぶに及ずといひ、又ひとつの良知を致せば、おのづから百行も脩り、忠信にもすゝむといはゞ、それほど簡約にして手近き道あるを、聖人何とてしめし給はず、かくむづかしく迂濶なる教をたて給べき。且いへ良知を致すに、事物をもてせずしてなにをもて致すや。定て内省を専にして私欲をさるをもて、良知を致すとするにやあらむ。それはたとへば、五声をしるは耳にあり。耳を守れば、五声をきかずして五声をしるといひ、五色をしるは目にあり。目を守れば、五色をみずして五色をしるといひ、五味をしるは口にあり、口を守れば五味をなめずして五味をしるといふが如し。しらずや、五声をしるは耳にありといへども、五声は物にあり。五声をきかずしては、五声の真をしるべからず。五色をしるは目にありといへども、五色は物にあり。五色を見ずしては、五色の真をしるべからず。五味をしは口にありといへども、五味は物にあり。五味をなめずしては、五味の真をしるべからず。況や五声にも清濁物ごとに異同あり。五色にも浅深物ごとに異同あり。五味にも厚薄物ごとに異同あり。其物によらずしては、なにゝよりて其別をしるべき。親を愛し兄を敬するは不学(学ばず)してしるといへど、事親事兄(親に事へ兄に事ふる)の事の上にて、愛敬の理を窮むべし。すべて君子の百行皆しかるなり。其事に即て、其理を窮めずして、己が善知り悪知るものひとつにしてしるべきにあらず。孝は百行の本といへば、しばらく事親(親に事る)の事にて申侍るべし。朝省昏定やうの事は、およそ事親(親に事)の人誰かしらざるべきなれども、其さへ田舎農家の民などは、愛親(親を愛する)の心なきにはあらねど、朝に省むべく昏に定むべき事ともしらざるぞかし。況や親を養ふは誰も養へども、口体を養ふと志を養ふの異同あり。親を敬ふは誰もうやまへども、厳威儼恪は事親(親に事る)の道にあらず。其外父母の前にては、恆言不称老(恆の言に老を称せず)、叱咤の声犬馬に及ばずといふの類に至まで、すべて事親(親に事る)の事なり。もし其事に即て各其当然をきはめずして、わが愛親(親を愛する)の心にもとむれば、おのづから事々つくすにたりぬといはゞ、聖人の上にはさもありなん、学者の及ぶべき所にあらず。おそらくは孝の道をつくさぬのみにてもなく、又心ならず不孝の事もありぬべし。かくいへばとて、事親(親に事る)をやめて是等の事を講ぜよといふにもあらず、又是等の理をのこらず究めねば事親(親に事る)べからずといふにもあらず。たゞ事親(親に事る)の上にて其事の当否をきはめ明にし、又は読書の上にても聖人孝を論じ給ふにあはゞ、反復して其理趣を味ひ、其本末をきはむべし。もろ〳〵の事是をもて例してしるべし。是則格物の学なり。かくしつゝ久しうすれば、やうやく道理純熟して、後はわが愛親(親を愛する)の心ひとつをもて親につかふるに、其道をつくさずといふ事なし。是程朱格物の学の妙処なり。かねて力をこゝに用る人にあらずば、其味をしるべからず。孟子の不学(学びず)してしるは良知なりといへるは、人に孝弟の心学びずしてあり。是を本として学んで、其量をつくせとの事なり。不学(学びず)してもそれにてたれりといふにはあらず。今朱学の弊を改んとて格物窮理を廃するは、朱子の意をしらざるのみにあらず、矯枉過直(枉れるを矯め直きを過ぐす)といふべし。それも亦まがれるなり。第二等には理気体用などの説、孔孟の言及ばざるといふに拠て朱子を議するあり。むかし孔子性相近しとの給ひしに、孟子に至て性善を論じたまひ、其外養気夜気の論など、唐虞三代の書に沙汰もなく、もとより孔子も似たる事をもの給はざりしかども、宋の諸先生其旨の聖人にもとらずして、毫髪の疑ふべきことなきを見つけられし程に、先聖のいまだ発せざる所を発すとて、殊に称嘆せられけり。況や程朱の時、孔孟の世をさること遠し。言を撰び論をおこし、道を明かにするに急なり。道理においてたがふ事なくば、何ぞ必しも規々とし古人の言を蹈襲すべき。今朱子の説孔孟の給はざるに出なば、其意をふかく考へ究べし。もしいまだ合ざる所あらば、しばらく疑を闕とも可なり。然るを己が心にあはぬとて、孔孟の給はざるに事よせて、にはかに大賢の説を軽〳〵しく毀るこそ、其学識の浅陋なるもしられ侍れ。其議論をきくに、いづれも疎鹵膚浅なる事になん有ける。こゝに一々挙正するにいとまあらず。たゞ其理気の説をあら〳〵弁じ侍るべし。彼がいふは、天地の間気の外になにかあらん。この気四時に流行し、万物を生じて、おのづからやまず。是則天道なり。昭然として見えたる通りの事なり。然るを朱子一等上に形象なき物をたてゝ、気に配して理とするは、隠怪にちかしとぞ。其説似たり。此疑は彼に限らず、あなたにても先儒の中に是に類したる疑難ありしぞかし。それは朱子の言をふかく考へて、なほ疑を免がれぬといふにてありける。彼が一過の見をもて臆決するやうの事にはあらず。もとより理気前後の説は微妙なる事にて、一座の話にていひ尽しがたし。翁しばらく老子の語をかりて、たとへをもてかたばかり申侍るべし。車をかぞへて車なし、歳をかぞへて歳なし。たとへば車を数へて、是は輪なり、是は軸なり、是は軾なり、是は轅なり。輪をもて車とすべからず、軸をもて車とすべからず、軾轅をもて車とすべからずとて、輪をすて軸をすて、軾をすて轅をすてゝ見たれば、車もともになくなりにけり。たゞ車の理は、車の出来ぬ前に定まりてあればこそ、上代車のなかりし時、車をば作り出すらめ。今とても車匠車を作らんとては、輪を斲り軸を斲りて、何時によらず車を作り出すは、車の理常にほろびずしてある故に、それに本づきて作り出すにあらずや。是によりて見よ。車は輪軸より出る歟、輪軸は車より出る歟。車は輪軸より出るといふは、車の形ある事をしりて、車の理ある事をしらざればなり。歳をもてたとへても同じかるべし。十二時を日とし、三十日を月とし、十二月を年とす。是は時なり、是は日なり、是は月なり、是は年なりとて、のけて見たれば、外に歳といふ物なし。然れども三百六旬有六日に、天と日と会して歳となるの理は、前に一定してありて、日月も約束の如く運ればこそ、それに本づきて、上代に暦をも作り出し、今も暦家に当代の暦を作るは勿論にて、只今なき日月を考て、前百載後百載の暦を作るに、毫髪もたがひなきぞかし。是その理は日によらず月によらずして常に存在するにあらずや。されば天言はずして四時行はれ百物生ず。是その樞紐根柢となるものありて、天地の太極柱となりて、四時も是より行はれ、百物も是より生ず。然るに車をかぞへて車なく、歳をかぞへて歳なければ、気をはなれて理なし。外に形象もなく方所もなきほどに、たゞ道理とまでいふべし。よりて孔子は形より上下をもて器に対して道といひ、朱子は形より先後をもて気に対して理といふ。すべて同一理なり。今其本源をしらずして、枝葉の上にて議論を生ぜば、紛々異同なにの底極かあるべき。体用の説も亦しかり。道に用あれば必体あり。寂然不動は体なり。感而遂通(感じて遂に通ずる)は用なり。静にして存養すれば、体に即て用存し、動て省察すれば、用に即て体行はる。是を体用一源顯微無閒(閒無し)といふなり。孔子の敬以直内(内を直くし)、義以方外(外を方にす)との給ひ、子思の中和をもて大本達道といひ、孟子の仁義をもて正位大道といふ、是またすべて同一理なり。体用をいはねども、いづれか体用にあらざる事ある。彼曲学の徒、僅々として得小自足(小を得自から足れり)とすれば、道に全体大用あるをしらぬもことわりぞかし。ふかく論ずるにたらず。第三等には、放蕩を貴び、名撿をいとひ、専に文辞典籍を学とし、一たび程朱居敬窮理の説をきゝては、腐儒の常語とて、相ともに嘲笑ふ程に、学者脩己(己を脩むる)の道においては、講ずべきものともせず。その議論をきくに、不急の察、無用の弁、■【言+尭】々として人耳を喧しうせざるはなし。なにをか取挙ていひ出すべき言の葉にせん。たゞ大息に付してやみなまし。むかし扁鵲斉桓公の疾を見て、二たび迄はなほいふ事ありしが、三たびに及ては、もはや療治の手なかりし程に、薬匙をすてゝ驚走りき。俗学の弊もこゝに至りては、桓公の疾の日にふかきがごとし。儒に扁鵲ありとも、療治の手なかるべし。況や老学非才無智の身にて、何とて道の軽重をなすにたらん。ただ口を箝て驚走りつべうこそ覚え侍れ。

    矯軽警惰
 翁又いふやう、「当代東西両都の儒を見るに、もとより人によりて一概には論じがたけれども、多くは異論を好み、名誉を要するは同事にして、其病根は又異なるべし。大抵洛陽の儒は驕惰の弊あり、東都の儒は剽軽の弊あり。洛陽は風気和し土地狭し。この故に近き比まで其土の宿儒、おほくは温厚柔謹にして、制行正しく、威重ありて人望を失はざりき。然るに近年温柔変じて惰弱となり、威重変して驕泰となる。空談尚び文史を玩び、是をもて自から尊大にして、曾て遜志時敏(志を遜り時に敏く)する事をしらず。されば良工用意(意を用ふる)の労をいかでしるべきなれば、たゞ道を容易なる事に意得る程に、はては先賢を慢り、程朱を毀りてやみぬ。たとへば王孫公子、あたゝかにそだちて艱苦を経ねば、おぼえず驕泰になるがごとし。宋武帝の高祖の葛燈籠麻蝿仏を見て罵つて田舎翁とするも、祖宗の大業を建立せし艱難をしらねば、更にとがむるにたらず。翁むかし史記蘇秦が伝を読みて、秦が我をして洛陽負郭の田二頃あらしめば、豈能佩六国相印乎(豈に能く六国の相印を佩んや)といふを見て、実もしかりとおもひき。今洛陽の儒、大かた土著に安んじて、隠居放言自からたれりとす。もし其人をして世務にあづかり、一官をつとめ一職を弁ぜしめば、しらずよく其任にたへんや否や。恐らくは洛陽二頃の田祟をなさば、懐居求安(居を懐ひ安きを求むる)の心にひかれて、やがてかけこもらまし。いかで是等の人と聖賢の志を論ずべき。東都の儒は又是に異なり。関東は風気薄く土地濶し。それに武人俗吏其地に逼居て、其風おのづから儒者にも移れば、昔は文飾なく質直なるかたありて取べかりしが、今は質直変じて麤悪となりぬる程に、放蕩軽薄徳義を銷刻し、浮辞恠説文字を造作す。たとへば蘇秦が洛陽宿執の害はなけれど、世に游説するは縦横捭闔傾危の道なるがごとし。されば今天下の学者、惰弱ならねば剽軽なり。此二病除かざれば、高談性命博究群書(高く性命を談じ博く群書を究む)とも、聖賢の徒をいふべからず。横渠先生も是をもて学者の要務とし給へばこそ、矯軽警惰(軽きを矯め惰りを警む)の一語を挙て示されしなれ。惰弱なれば義にいさむ志なく、つひに郷愿の人となる。剽軽なれば忠厚の心なく、はては讒佞の徒に陥るべし。こゝをもていへば、矯軽警惰(軽きを矯め惰りを警む)の一語、学者の要務なるのみにあらず。しかしながらすべて士たる者の頂上の鐵針たるべし。

    忠厚のこゝろ
 されば、士は第一忠厚の心を本とすべし。その人となり軽薄にしては、材美ありといへどみるにたらず。それにつきて翁日ごろ楽毅が伝をよみておもへらく、毅は戦国の士にあらず。学問ありて道のあらましをきくの人なり。しかるに後世毅が将略あるをしりて、学問あるをしらず。楽毅燕の昭王に仕へ、上将として斉を伐て、七十余城を下せしは、非常の大功なり。不幸にして師いまだ凱旋せざりし先に昭王薨じ、恵王斉の反間を信じて、将をかへ兵権を奪ひしかば、毅みづから垂成(成るに垂とする)の大功をすてゝ、すみやかに燕をさる。見幾而作不俟終日(幾を見て作つ俟たず日を終ふる)といふにちかし。其後身を趙によせし時、趙王燕を伐む事を毅に謀りけるに、固辞して其謀に預からず。誠に忠臣の法とすべし。その恵王に報ずる書をみるに、忠厚の心言外に藹然たり。戦国反復の世には、空谷の足音と申侍るべし。その書中に、君子交絶不出悪声忠臣去国不潔其名(君子は交り絶て悪声を出さず忠臣は国を去て其名を潔くせず)といへるは、三代の遺言なるべし。もし学問なくしては、誰か其言の旨き事をしらむ。今其意を解侍るべし。交絶不出悪声(君子は交り絶て悪声を出さず)とは、たとへば人と交通して、其人の悪事をいはぬは、もとよりの事なり。其人と中たがひては、己が是をいはんとて其人の非をいふべきに、交絶て後に其人のあしき事を一向に言に出さぬは、君子の忠厚人に屓かざるの心なり。翁其意を詠じ侍るとて、
  ならはじな児の手がしはのふたおもて身は葛の葉のうらみありとも
 今更翁づれが申もおろかなれども、伊川先生に感服する事あり。蘇東坡伊川をそねみ悪みて、哲宗に上る奏状に、程頤が姦と称し、又衆中にて嘲て、鏖糟陂裏の叔孫通などといひしが、伊川遂に東坡が是非を一言の給ひし事をきかず。是にて知べし、洛蜀の二党いづれか正なる、いづれか邪なる、いはずして明かなり。又邢恕初めは伊川に従ひて学びしが、後に小人に党し、伊川を讒して陪陵に謫せしむ。門人聞て伊川に告しに、伊川の給ひけるは、故人かねて情厚し、われ少しも疑ふの心なしとて、いさゝか不平の辞色なかりし。是等の事誠に吾徒の師法とすべし。忠臣去国不潔其名(忠臣は国を去て其名を潔くせず)といふも、忠厚の事なり。是は人臣たるもの、君と義絶て其国をさらんに、あながちに君の非をいふにもあらねど、己があやまらぬ事をいうて、一分の上を潔うせんとすれば君のあしきになるゆゑ、わが名をにごらし自からわがあしきやうにしてをるとなり。是忠臣の心なり。翁加賀にありし時、ひとりの老人あり、其父太陽寺左平次といひし者、長湫の戦に池田勝入の手にて戦功あり。其後天下泰平になりて、大坂籠城の輩をさへ、御仁政にて諸侯の国につかふる事を御ゆるしありし程に、戦功ありし士ども、己が手にあひし事をいひたてゝ仕へをもとめしに、左平次一生己が長湫にての戦功をいはず。さて親しきものに、「大将の敗亡したるに、其手に屬したるもの、己が戦功をいふべきにあらず」といひしと語りし。己が戦功をいへば、惣勢の敗軍をば大将の越度にし、一分のいひわけしてのくにて侍る。左平次そこをおもふにこそ。古人忠厚の余味あり。いとやさしき事なり。其戦功をいふははるかに劣りぬべし。

    鬼神の徳
 ある日講過て後、五六輩跡にのこりつゝ、おの〳〵疑問に及しが、中にひとりいふは、「こゝにひとつ問まゐらせ度事侍る。我朝は神国とて、ちかきころ世に神道をとく人あまたあれども、いづれも其説隠怪にして、正理を得たりとも覚え侍らず。もとより鬼神の説は、聖人も仮初にはのたまはねば、我等ごとき薄識の人のにはかにさとるべき事にはあらねども、たゞ其かたはしを示し給はゞ、他日の功夫の種ともならまし」と、各同じこゝろに益をこへば、翁きゝて先易を引て、「聖人以神道設教(聖人神道を以て教を設く)とあるは、聖人の道の神妙なるをさして神道といへり。仁道などいふが如し。是をひとつの道とするにあらず。然るに世に神道とてとくをきくに、我国の道とて聖人の道より一等たかき事のやうにいへるこそ、意得難けれ。抑鬼神のふかき道理は、翁もしらぬ事にて侍れども、日ごろ覚悟し置けるあらましをかたり侍るべし。中庸に鬼神之為徳(鬼神の徳を為す)といへるは、いかゞ心得給へる。朱子釈して性情功效といへるは、徳字の義を釈してかくいへり。もし其徳たる実をいはゞ、左伝に神は聡明正直にして壹なるものなりといへる、是則神の徳なり。然るに神は正直なるものといふ事は誰もしれども、聡明なる事をしらず。神ばかりすゝどきものはなし。其故は、人は耳をもてきけば、耳のおよばぬ所は、師曠が聡といふとも、きかずしてありなん。目をもて視れば、目の及ばぬ所は、離婁が明といふとも、見ずしてありなん。心ありて思慮すれば、頴悟の人といふとも、なほ猶予ありぬべし。神は耳目をからず、思慮に渉らず、真直に感じ真直に応ず、是ふたつもなく三つもなきたゞ一ツの誠より得たる徳としるべし。されば天地の間に、きはめて耳とく極て目はやき物ありて、時をもわかず所さりせず、有のまゝに現在し、端的に往来し、あらゆる物の体となりて、両間に盈わたりてあれども、元より形もなく声もなければ、人の見聞には及ばずして、たゞ誠あれば感じ、感ずれば応ず。誠なければ感ぜず。感ぜねば応ぜず。応ずれば忽ちあり、応ぜねばおのづからなし。これ天地の妙用にあらずや。中庸に視之而弗見聴之而弗聞体物而不可遺(之を視て見えず之を聴きて聞こえず物に体して遺すべからず)といへるは此事なり。昔西行法師伊勢の神詞に詣てよめる歌に、
  なに事のおはしますをばしらねどもかたじけなさに涙こぼるゝ
 なに事のおはしますともしらずして、かたじけなさは何事によるや。涙は何故にこぼるゝや。是誠の感動にあらずして何ぞ。神前にて其心他念なく一筋に誠になれば、神も其誠のなりに来格して、かたみに感動する程に、涙もこぼれつべし。たとへば清くすめる水には、其まゝの月のうつりて、たがひに光をますが如し。久しくなれば一つ誠に渾融して、神と人とをわかず、たとへば水や空、空や水ひとつにかよひてすめるが如し。こゝに至ては、洋々乎として其上に在がごとく、其左右に在が如くなるべし。是神のあらはるゝなり。誠のおほふべからざるなり。さりとて神を遠き事とな思ひ給ひそ。たゞわが心にもとめ給へ。いかにといへば、心は神明の舎なり。一毫も私欲のさはりなければ、おのづから天地の神明と同気相感じて、かくいちじるきぞかし。但相感ずる事なければ、さる事なかるべし。西行も神前に至らぬ時は、いかで涙こぼるゝばかりのかたじけなさあるべき。是をもて来格は相感ずるにありといふ事をしりぬ。今各に申す。たゞ躬に省み内に求めて、心の誠に本づき給はゞ、下学の功積て上達せらるべし。其時にこそ只今翁が申すやう、いさゝかうける事にてなしと思ひしり給はめ」とて、其談やみぬるに、座中良久く声もなく静まりかへりてありしが、「翁の御物がたりいとたふとくこそ侍れ。誠に西行が歌にこたへて、今日もかたじけなさに涙こぼれつべう侍る」とて、各感心にたへずぞ見えし。

    聖人の誠
 翁又いふは、「前に申侍る西行が歌にて、舜の無為にして治まるといふ事を思ひ給ふべし。聖人の誠は則神明なり。もしなに事のおはしましては、無為とはいふべからず。そもなに事のなに故とはしらねども、たゞその篤恭の至りなん神の如くにして、おのづからかたじけなさに、涙こぼるゝばかりに覚えぬべし。それに衣裳をたれ手を拱て、上に現在しておはしませば、天下仰ぎ奉る事日月の如く、したひ奉る事父母のごとし。天地無形の神の感応時あるやうなる事にてはあるべからず。されば所過者化(過る所の者は化す)とて、聖人の身の歴たまふ所は変化をなして改まる事、ものゝかたに入るがごとし。舜歴山に耕したまへば、民皆畔を譲り、河濱に陶したまへば、器皆いしまあらざるといふにてしるべし。又所存者神(存する所の者は神なり)とて、聖人の心のとまる所は自由を得て廻る事、ものゝ掌にあるがごとし。孔子邦家をえてんには、綏ずれば其まゝ来り、動かせばそのまゝ和すといふにてしるべし。こゝに至ては、とかく凡慮の及ぶ事にあらず。これ聖人の手がらにて仕出したまへる不思議にもあらず。たゞ誠はおほはれぬものになんありける。されば「君子室に居て言を出して善なれば、千里の外応ず。況やその邇きものをや。室に居て言を出して不善なれば、千里の外違ふ。況やその邇きものをや。室に居て言を出して不善なれば、千里の外違ふ。況やそのちかきものをや」と孔子ものたまへり。さりとて家にてする事の忽に千里に及ぶといふにはあらず。たとへば風の草木に移るがごとし。其ひゞき彌高にまさりゆく程に、家より国にひゞき、国より天下にひゞく。是自然の理にして、誠のおほふべからざる所なり。こゝをもて、君子は常に内に心をもちひつゝ、たゞ手前を正しくして外を飾る事なし。たとへば錦を衣てうはおほひするがごとし。其美おほへどもおほふべからず、いやましにしるきぞかし。小人は内行をさまらずして、外見をのみ飾れば、くさきものに蓋するがごとし。其臭ふさげどもふさぐべからず、いとゞあらはるゝぞかし。枚乗が呉王を諌むる書に、「欲人勿聞、莫若勿言欲人勿知、莫若勿為(人聞くこと勿からんことを欲す、言ふことを勿きに若く莫し人知ること勿からんことを欲す、為す勿きに若く莫し)」。此語浅きに似て味ふかし。名言といふべし。口にいうて人のきかぬやうにし、身になして人のしらぬやうにとするは、いやしきたとへながら、悪に利息を添て身におふが如し。日にそひ月にそひて其おひまさりなば、いかでおほひかくすべき。聖人より以下は、君子も過ちなきにあらねども、これをかくさんとはせずして、人の見るまゝにあらたむる程に、過ちは過ちと見え、改るは改ると見えて、其しかたにかくるゝ事なく、心に一点くもりなきとしるれば、反て其徳のひかりもまさりぬべし。されば子貢も、君子の過は日月の食のごとし。過てるも人皆見、更むるも人皆仰ぐといへるぞかし。むかし小邾駅千乗の盟を信ぜずして、子路の匹夫の一言を信じ、囘紇六軍の兵をおそれずして、郭子儀が単騎の約をおそる。是二子の誠かねて隣国にあらはれ、蠻貊に及ことをしるべし。千里の外応ずるにあらずや。もとより聖人の誠には及ばねども、心事明白にして一毫の疑なき事を、天下の人皆しる故に、一たび其言をきき、一たび其面をみると其まゝ信服する程に、なにの手もなく、なにの造作もなし。是誠の感応にして、恩威智力の及ぶ所にあらず、是をもていふに、好事門を出ず、悪事千里を行と、世話にいへど、これ僻言なるべし。好事悪事ともに、其実ある事のいづれか千里にゆかざる事あるべき。悪事のみに限るべからず」。

    妖は人より興る
 座中ひとり「神は聡明正直なるものにて、至誠の感応はさもあるべき事にて候。然るに昔より妖怪不正の事ども、世に流布し侍る。是もその理ある事にや」といふに、翁「鬼神は天地の功用二気の良能といへば、勿論正理より出たる事なれども、人の本性悪なくして、気質におちては善悪あるごとく、神も人世に降ては、正しきあり、正しからざるあり。其子細は陰陽五行の気の四時に流行するは、天地の正理にて、不正なけれども、其気両間に游散紛擾して、いつとなく風寒暑湿をなすには、おのづから不正の気もありて、人に感ずるにてしるべし。されば天地の間、この気の往来にあらざるはなし。正気をもて感ずれば、正気応じ、邪気をもて感ずれば、邪気応ず。但正邪ともに二気の感応より出れば、邪気の感とても神にあらずといふべからず。夫正気の感は、大小となく精誠の所致(致す所)にあらぬはなし。大事にていはゞ、高宗の良弼を感じ、周公の金滕を感じ、小事にていはゞ、鄒衍が六月の霜を感じ、韓愈が悪渓の鰐を感ずる、其事は異なれども、同じく精誠の感にして、怪むにたらず。前年真西山の集を見侍るに、ある民家の女子、父の疾を憂て、夜になれば天に向て身をもて代らんと祈りしに、その誠感じてやありけん、一夜群鵲にはかに遶屋(屋を遶り)飛噪し程に、仰で空中を胝れば、大星三ッ燁煜として月のごとく、■【木+閻】楹の間を照しけるが、翌日より父の疾瘳けり。西山郡守として、其事をまのあたり見聞せしまゝ、其閭を榜表して懿孝坊とし、記を作て其事をくはしく著されける。是等はことにたしかなる事にて、其感いちじるしといふべし。然るに衰世に及て、人心正しからねば、大かた邪気の感のみにて、それより妖怪を生ずるなるべし。もとより怪力乱神は聖人の語り給はぬ事なれども、其理を窮るは格物の一端なれば、諸君のために申侍るべし。左伝に、妖を魯の申繻が論じて、人之所忌其気燄以取之妖由人興也(人の忌む所其気燄以て之を取る妖人に由て興るなり)といへり。よく物理に通ずる言といふべし。燄は火の未盛(未だ盛ならず)して進退するとあれば、人の気にてもかくの如し。すべて人の忌おそるゝ所は、世話におそろしき物の見たきといふやうに、さながら心に忘れえぬほどに、思想にひかれて火のかつもえかつきゆるやうに、あると見つなしと見つして、かくしてやまねば、気うかれて我にもあらずなりぬる程に、邪気隙に乗じて、幻に形象をさへ生じぬれば、さま〴〵に妖をなし怪をなすぞかし。斉侯の彭生を見、鄭人の伯有を見るの類是なり。すべて気燄の所致(致す所)にて、正気の感には絶てなき事なり。唐宋小説の書に、洞庭湖の辺に水神の祠あり。大湖を渡る人は、是に水難をのがるゝやうに祈る事になんありける。ある賈人毎年大湖をわたる程に、その祠をふかく信じて、往来に必賽祀せしが、あるとし湖上にて風に遇て船破れて、つひに溺死しけり。其子湖辺に到り、父の死を悲しみつゝ怨悔する余りに、わが父此祠を多年信仰して、祭奠いさゝか懈らざりしに、冥助なかりしこそ遺恨なれ。あすは必此祠を焚んと思ひきはめていねたりし其夜の夢に、水神ふかく恐るゝけしきにて、汝わが罪をゆるさば、湖上にて楽を奏して、其恩を報ずべし。さればとてわれ祠をやかるゝを恐るゝにあらず、又汝が怒気のいきほひに恐るゝにもあらず。たゞ心のそこに必焚んと決断したる一念、我にこたへて敵しがたき程にかく謝する、といひけるとぞ。もとより斉東の野語、信ずるにたらぬ事なれども、神は決断におそるゝといふ事、道理ある事なり。もし此人怒の心ゆくまゝに、やかんと思ひながら、その気燄にして、やくともかやぬとも決せず、其気進退せば、やがて神にけおされて、反て祟を受くべし。むかし駿府の御城に、うは狐といひ伝へし狐あり。人是に手巾をあたふれば、それをかぶりて舞しが、声ばかりして形は見えず、たゞ手巾空に飜転して廻舞のやうを見せし程に、人々興に入りけり。人手巾をあたふる時に、受取る形は見えねども、もたる手をものゝすりて通るやうに覚えて、其まゝ取てゆきける。わかき人々わざと渡さじとあらがふに、なにと堅く持ても、とられぬといふ事なしと語るを、大久保彦左衛門聞て、我はとられじとて手巾をもちて、これとれといふに取得ず。さていふは、さても無分別の人よ。あなおそろしとてにげさりぬとぞ。彦左衛門は手に覚のある時に、わが手ともにきりておとさんと思ひつめけるを、狐さとりしなり。されば武士の心剛にして一筋に直なるさへ、其気燄になき程に、狐も妖をなしえず。まいて正人君子においてをや。本より邪は正に敵せねば、正気にあうては、氷の日にむかうて忽に消るがごとし。西域の妖僧、傳毅をいのり殺すとて自から暴死し、武三思が妾、狄仁傑にあうて芸を施しえず、畏縮せしにてしるべし。それにつきても、世に正人君子乏しき故に、邪気おのがじし威福をなすこそ悲しけれ。しかのみならず世こぞりて宮観の淫祠をあがめ、浮屠の邪法を信じて、あゆみをはこび、貨を費やさざるはなし。もとより正体もなき事なれども、ものゝゆるみながらも、形あれば其なりに影あるやうに、深く信向する心から、不思議と見ゆることもあれば、いよ〳〵これに惑て正理を失ふにてぞありける。ともある事には、こゝの神かしこの仏とて、漫に霊験ありと称しつゝ、いろ〳〵虚誕なる事を造作して、世を誣民を欺く程に、人群聚て市をなし、銭財積で山をなす。其人は国家の大賊、其事は天下の大弊といふべし」。

    飛騨山の天狗
 しばらくありて、翁、鬼神の感応は気の往来なり。わづか気に渉れば、声色にあらはるゝを待ずして、鬼神ははやとくにしるものにて侍る。こゝに寂然不動にして、毫末も気をまじへず。鬼神もいろひ得ざる所あり。是わが本分のある所にて候へば、翁はこゝをさして我と申たく候。謝霊運が詩に、達人貴自我(達人自我を貴ぶ)といひしは、暗に申あて候へども、その我といふもの、中〳〵霊運ごときがしる事にてはなく候。天且不違、況於人乎、況於鬼神乎(天且つ違ず、況や人に於いてをや、況や鬼神に於いてをや)、とあるも、人はいふに及ばず、天地鬼神も我にたがひえざる事をいふなり。三代の聖人、この我をもて天下の上に立て、天下惟我のみあり、たれか我志に違ふ事あらむといへり。後世の賢人、この我をもて万人の外に立て、千万人の中といへども、たゞ我ある事をしるといへり。されば我といふものゝあり所を尋るに、一念未生の時、本然未発の体是なり。君子こゝを存養してそこなはねば、天地も我より位し、万物も我より育し、鬼神も我より感応す。なに事か我によらぬ事あるべき。邵康節の、一念起る事なければ、鬼神もしる事なし。我によらずして誰にかよらんといへるは、これをいふ也。それに付てあやしき事ながら、加賀にありし時人の語りしは、北国にいやしき工の飛騨山にゆきて、杉を採てへぎて生業とする者ありき。ある時山中に杉をへぎて居けるに、ひとりの山伏の鼻を隆きが来りしを見て、心に不思議〔の〕ものかな。天狗にやとおもふに、汝はなにとて我を天狗とおもふぞといふ。はやくされかしとおもふに、汝はなど我をいとひてされかしとおもふとぞといふ。何にても心におもへば、はやしりてとがむる程に、後は是非なく、そのへぎし板のながくはへたるを綰撓めて、繩して括らむとしけるに、心ならず取はづして板はねける程に、其板の末、天狗の鼻にしたゝかにあたりしかば、汝は心ねのしれぬものかな。おそろし、とて行きさりぬるとぞ。板のはねけるは思慮より出ざる事なれば、こゝには天狗も及ばぬにこそ。是にてしるべし、念慮なき所は、鬼神も窺ひえざるになんありける。常人多くは心に閑思雑慮常に絶る事なく、なに事も思慮作為の中より出る程に、気にひかれ物にうばゝれて、我といふ物自立する事あたはず。さればこの我の失はじとならば、心源存養の工夫をなすべし。心源存養の工夫は私欲なきを本とす。この心私欲だになければ、静虚動直とて、何事も思慮作為をからず、たゞ静虚の中より、道理のままに真直に出る程に、万物の先に定まりて万物の後に堕る事なく、鬼神を制して鬼神に制せらるる事なし。無声無臭(声も無く臭も無く)して天下の大本となる、無体の体ともいふべし。無思無為(思無く為無く)もして、万化の大柄となる、不御の権ともいふべし。老子の象帝之先(帝の先に象れり)といひ、釈氏の唯我独尊といふも、此所をすこし見つくるにやあらぬ。されど彼は人倫をすて事物を外にし、たゞ空寂を事とすれば、人欲を制すといへど、天地を明かにするにたらず。一心を治むといへど、万事を宰するにたらず。其体はありと見えて其用なし。なにをもて大本とし、なにをもて大柄とすべき。大に似て大に似ざる事なるべし。

    年内の立春
 されば中庸にいはゆる其不覩(覩ざる)を戒慎み、其不聞(聞かざる)を恐懼るとは、誠の本源、かのなに事もおはしまさぬところを持養するの功夫にて、さて隠微の中一念の起るを省察して、その本源の地を乱らぬやうにするこそ、又簡要にて侍る。それは中庸を講ぜし時にくはしく申たる事にて侍れば、今更いふに及ばず。それに見ぬ京物語に似候へ共、倭歌の意に引合て申候べし。古今集の巻頭にのする在原元方の歌、もとより歌のさまも手づよく力あるやうに覚え侍る。二十一代集をはじめ、家々の集にも、春の巻頭とするを見るに、大かたは空の霞、谷の鶯など、春のけしきをもて春たつ事をよめり。それは春の始をいふには第二段に落るなるべし。いまだ冬ふかく何のけしきも見えぬに、気色をはなれてよまんは、なにをか言葉の種とせむ。いと難かるべきわざなるに、こぞとやいはんことしとやいはんとは、なにの造作もなく、さりとはおもしろく取なされたり。祖父にもはぢざる作者といふべし。されど翁が此歌を取侍るは、詞のおもしろきといふにもあらず、これをわが修行にたとふるに、我心に人しらず一念のきざすは、独居の時暗処の事なれば、なにのけしきも見えず、いはゞ年の内に春の来るに同じ。一念の萌すところに、既に善悪のわかれあれば、年の内にこぞとことしのわかるゝに同じ。されば千里の謬も毫釐の差よりおこるといふも、こゝにある事なり。濂渓先生の幾は善悪といへるも此事なり。是非のさかひ善悪の関と知るべし。されば目をはなたず此関を守りて、われとわが心に善とやいはん悪とやいはんと尋つゝ、一筋に悪をさり善に向ふこそ、我儒の修行の本とする事なれ。もし此所に心ゆるして、色にいで声にあらはれて始てさとらば、たゞ手の延たるといふばかりにもあらず。たとへ勉強すとも力をもちふるに難かるべし。されば元方の歌、詞のをかしきのみにもあらず、聖学のふかきにさへたとへつべし。常に打吟じて、我心の省とするに助なきにあらず。

    袖ひぢての歌
 座中ひとり和歌を好める人ありしが、「只今迄、元方の歌たれも口馴たる事に候へども、人心善悪の幾にして意得べき事とは思ひよる人なく候に、御物語にて始て承りて候」といへば、翁、「古今集は外の集とちがひ、其歌いづれも誠実に候故、おのづから道理にかよはして見るべくこそ候へ。右の元方の歌にさし継て、貫之が自からよみたる袖ひぢての歌をのせしも、月令に孟春のはじめに東風解凍(東風凍を解く)とあるにかなひて、心ありて見え侍る。其故は春風の凍をとくこそ、陽和の至る最初のしるしにて侍れ。かの霞鶯などやうの事は、是程に的実には覚え侍らず。されど春風の凍をとくといふばかりにては、いかによみかなへたりとも、さまで余情あるまじきに、いにし歳の春過ての後より夏秋冬をへし事を、「袖ひぢて結びし水のこほれるを」と、一首の中によみこめて、さて「春たつけふの風やとくらむ」と、今又春にかへるこゝろにて結びし事、千鈞の重さある物から、歌にたけありて、余情かぎりなきものなり。此外の歌も、古今集にのせしは、いづれも言葉すなほにて、なにの手もなきやうにて、打吟ずればその味おのづから深長にして、言外にあるやうに覚え侍る。詩にていはゞ漢魏の楽府古詩の如し。詩は盛唐といへど、漢魏の詩は、実情より発して、おのづから巧拙をはなれて見ゆ。更に同じものにあらず。古今集の歌もしかなり。その言葉すがた後の作者の及ぶべきことがらとは見えず。是をおもふに、さして撰者よみ人のとがにもあらず。文章は時と上下すとあれば、時代の盛衰につれてかくあるにこそ。いかゞ思ひ給へる」といへば、「翁の仰られやうちがふまじく覚え侍る。歌人の論も大かたさにてこそ候へ。さて右の貫之が歌に付て思ひ出したる事侍る。天文のこかとよ、織田備後守一族彦五郎と不和になりて、争戦に及けるを、備後守が家老平手中務といひし者、一族の不和なるは、敵国の侮を受るものなりとて、和睦の事を謀りしが、事とゝのひしかば、彦五郎が家老坂井、河尻などいふ者のもとへ、中務よろこびのふみをつかはすとて、其文のはしに、貫之が袖ひぢての歌をかきつけゝるとぞ。親族のちなみは、袖ひぢて結びしやうになれむつまじきものゝ、不和なるは是こほれるにて、今又和睦してもとへかへるを、春たつけふの風やとくらんとよせけるにて、かゝる事によそへても、こゝろふかく思ひながく、言葉さへたりて、誠にたけき武夫の心をも和げぬらんとおぼえ侍る。中務かしこく思ひよりぬるにて候。翁はいかゞ思ひ給ふにや」翁打うなづきて、「昔春秋の世に、列国の士大夫宴会の時は、必三百篇の詩を歌て、互に志をあらはしけり。其後此事世に絶て、魏晋よりこのかた、たゞ自から詩を賦するを専にし、巧拙を争ふ事になりけるこそなげかしけれ。やまと歌もさにてこそ侍れ。むかしより歌を好む人をみるに、たゞよまんとのみするなるべし。必しも自からよまずとも、万葉古今などの歌を、時にあたりて思ひよりて、打吟じたらむは、心もやすらかに、あはれもふかゝるべし。
 白河院、五月のころ淀に行幸の時、暁になる程に、子規ほのかに鳴て過ければ、俊頼など一首詠ぜまほしく覚えしに、女房の舟中にて、「淀のわたりのまだ夜ふかきに」と打吟じたるは、中〳〵あたらしくよみたるにはまさりてきこえけるよしいひ伝へ侍る。されど是はほとゝぎすの歌を、ほとゝぎすに思ひよりたるなり。作者の心はそれとはなきを、平手が袖ひぢての歌を引しやうに、その意のかよふをとりて、外の事に引合たらんは、すぐに比興のこゝろにもかなひて、ことに感情ありてきこえ侍る。周人の三百篇の詩を歌ひしも、みなかくのごとし。いとやさしき事なり。その平手、後に信長をいさめかねて自殺しけり。その諫書を見るに、学問ありて義理のあらましをしる人とおしはからる。をしき事なり。古より忠臣義士の不幸ほど、痛ましき事はなし」とて、長使英雄涙満襟(長くして英雄を涙襟に満たしむ)といふ句を口ずさびけるにぞ、座中の人々感じあへりき。

    諸道わざよりいる
 ある時、講会やゝ懈りしに、日を経て諸客来会せしが、此ほどは世事にさへられて懈怠がちなりとて、悔みけるを、翁聞て、「世事にさへられて懈怠するといふは、大かた学者の常語にて候。此翁をはじめ、さやうに申す事にて候へども、畢竟己が志のたゝぬ故にて候を、それとは意得ずして、世事に咎をおふするにて侍る。但世事にさへられて、書をよむに懈るは、さもあるべし。それは一説ある事なり。すべて学といふは、聖賢の道をつとめ習ふ事なり。そのつとめ習ふに、致知あり、力行あり。されど其理をしらねば行はれず。其理をしるは、書に限らねども、聖賢の書を第一とする程に、学といへば致知を主とし、致知といへば読書を主とす。この故に大学に、自修も学なれども、学をもて自修に対しぬれば、その学といふは、致知の事なり。子夏も、「仕而優則学(仕へて優なれば則ち学ぶ)」といへり。仕るも学に外ならねども、仕へていとまあれば学ぶとあれば、その学といふは、読書の類なるべし。又子路、「何必読書然後為学(何ぞ必ずしも書を読んで然して後に学と為ん)」といへるを見れば、そのかみ孔門の学といふは、読書を専とするとしられ侍る。しかいへど学は読書に限るべからず。書をよみて義理を講じ、事物に即て其理を窮る、同じく致知の事にして、力行の始なり。もとより聖人の道は、日用事物を外にせねば、父母につかへ君につかうまつり、朋友に交るより、其外世にあらゆるもろ〳〵の応接に至るまで、一事一物、いづれか致知の地にあらざる。一動一静、いづれか力行の時にあらざる。善はその善なる理をきはめ、悪はその悪なる理をきはめなば、世事善悪ともに、皆わが学中の事なり、いかで世事にさへられて懈るといふ事あるべき。翁加賀にありし時、大坂よりひとりの後生北地に寓居するあり。翁に相見したきよし紹介していひこしけるが、他日翁が敝廬を問て、談論時を移しけるに、翁、「ちかきころは世事多くして、久しく廃学なんしける」といひしかば、其人「学は世事の外なる物にや」といひしに、翁意得て、其失言を謝しき。翁が意は読書を廃する事なるを、ふと廃学といひけるゆゑ、彼きゝ咎めけるなり。されば天下の事に即て其理をきはめて、吾心の知を致すは、内外を合するの道といふべし。しかるに陽明良知の学をする人、朱子格物の説を譏て、朱学の格物よき事にもせよ、世の居官務職(官に居り職を務め)日夜給仕する人などは、何のいとまありて天下の理をきはむべきと難じけるよしきゝ侍る。是朱子格物の説をあしく意得て、先一間時を得て事物の理を窮めて、後に其事をするとおもへるにかあらん。朱子の格物とはいふはさにはあらず。親に事る上にて、その事々に即て孝の理をきはめ、君に事る上にて、其事々に即て忠の理をきはめ、昨日情のいまだ至らざるを今日しり、今日事のいまだつくさゞるを明日しる。是格物致知の学也。居官任職(官に居り職に任ず)がごときも、必其事をつとむる上にて、当否を処し事空を察し、日々に職事に熟し、誠実にすゝむ。是則格物致知なり。もし居官任職(官に居り職に任ず)ものは窮理のいとまなしといはゞ、嚮に翁が世事故に廃学するといふに同じかるべし。されば事に大小ありて理に大小なければ、時となく所となく格物の地にあらざるはなかるべし。さりきらひすべきにあらず。よりて天下の物に即て其理をきはむとはいふなり。さりとて先後緩急の序はあるべき事なり。日用親切の事をすてゝ、一草一木の理をきはめよといふにはあらず。今良知の説、手短く本づきやすきやうにきこゆれども、聖人の道はさにはあらず。およそ天下の道、なにゝてもわざより入ざるはなし。詩にいへらずや。天生烝民有物有則(天烝民を生ず物有り則有り)、物はわざなり。則は法なり。たとへば六芸を習ふがごとし。其わざにより、其法によらずして、吾心の知にて其理をきはめんとせば、なにとして其道をつくすべきや。聖人の道もかくの如し。吾心に不学(学びず)してしるの良知ありといふとも、事物に即てその知を致さずしては、未鍛(未だ鍛ざる)のかねのごとし。昆吾の鉄といふとも、あらがねにては鋭利の用をなさじ。未磨(未だ磨かざる)の玉のごとし。荊山の璞といふとも、あら玉にては、温潤の色を発せじ。この理をよく思ふべし。今孝にていはゞ、聖人門人の孝を問に答へ給ふを見給へ。孟懿子には無違(違ふこと無かれ)をの給ひ。孟武伯には慎疾(疾慎む)をの給ひ、子游には不敬をいましめ給ひ、子夏には色難しを詠じ給ふ。此四子親を敬愛するの心あらざるとにはあらず。たゞ事親事長(親に事へ長に事)の上に付て、或はこれに得て彼に得ず、又は愛勝て敬たらず、敬勝て愛たらざる故に、かくの給ふにてありける。仁を問に答へ給ふも是に同じ。顔子には克己復礼を告給ひしが、克己復礼、必日用事物に即て其理を験る事なれば、視聴言動をもての給へり。仲弓には敬恕を告給ひしが、敬恕も亦日用事物の上にて験る事なれば、出門使民(門を出民を使ふ)をもての給へり。其外も推てしるべし。もし六経の教も、良知にて、すむ事にしあらば、詩は思無邪(思ひ邪無し)にてすみ、毋不敬(敬せざること毋かれ)にてすみ、易は審変識時(変を審かにし時を識る)にてすみ、春秋は尊周抑夷(周を尊み夷を抑ふる)にてすみなまし。何によりて詩に国風雅頌の情をいひ、礼に経礼曲礼の目をわかち、易に陰陽卦爻の変をつくし、春秋に朝聘会盟の事を備ふべきや。この故に六経の教は、天下にあらゆる事物の理を明かにするにあり。事物の理明かならざる事なければ、吾心の知つくさゞる事なし。わが心の知つくさゞる事なければ、是をもて身を検するに、節文慎まざる事なし。然れば程朱のいふ所の致知力行は、則孔門の博文約礼にあらずして何ぞ。それに致知格物の説を義外とて譏るは、たゞ罪を程朱に得るのみにあらず、実に孔門の教に違なるべし」

    釈寂室の秘訣
 ある日講はてゝ、翁もの語りに、「昔足利家治世の季に、寂室といひける僧あり。わかきころ大明に渡海し、東帰の後、僧侶帰依せしが、其徒に語ていふは、吾に緊要の一訣あり。秘密の事なれども汝に付すべし。汝毎日晨に興て、まづ手を引て頭顱を摩、又目をもて袈裟を顧て、心に念じ口にいふべし。吾はこれ釈迦文仏の法孫なり。たとひ命を殞すとも、比丘の模範を失はじと、是第一の覚悟なりとぞ。寂室異端の徒ながら、いと殊勝なる事なり。儒家にこれ程の志操ある人をきかず。大方儒者の模範を失て、反て釈氏に阿同し、彼が下風に立事をしらず。むかし尹和靖の践履の厳整なるをば、僧も見て感じ、「儒家にいふ周孔も是に過じ」といひ、朱文公の高風を円悟仰慕し、其梅花の詩を和して、「独憐万木飄零後、屹立風霜惨淡中(独り憐れ万木飄零の後、屹立風霜惨淡の中)」となむいひける。二賢は真儒にて、異端を絶れしかども、彼さへ帰向せしぞかし。今世の儒者をみるに、武人俗吏にも貶議せらるれば、いかで人の敬信を得べきや。甚しきものは、戈を倒にして聖言を駁し程朱を譏る者も、近来世に多く出来侍る。儒教の振はざるこそ理にて候。又近来武士の風の衰弱になるも、人々多くは武道に心懸薄きが所致(致す所)にて候。北地にひとりのふるき武人ありしが、子弟に訓て、汝等すでに両刀を佩て武士と名乗ぬる上は、朝夕武名をけがさじとおもふべし。こゝにひとつの口伝あり。汝等門外に出る事あらば、家の閾を跨ぐ時に、必気をつけて、ふたゝび家に帰らじと覚悟すべし。此覚悟なくば、外にて不慮のことあらん時に、心おくれしなん、とぞいひし。寂室がいふ所と道は替れども、其意趣は同じ事なり。さればいづれの道にも、心懸ふかき人は、かくなんありける。但其心懸て忘れじとするはなに事ぞといふに、釈氏は五戒を破らず、声利に近づかざるをいひ、武士は武道に不覚をとらざるをいふにやあらん。それは簡約にて紛るゝことなく、心懸るにやすかるべし。吾儒の道は百行を該れば、何をか題目として心懸べき。翁常に立居につけて思ひ出つゝ、忘れぬ事三あり。其三は父の恩、君の恩、聖人の恩なり。欒共子が言に「先王之制、民生於三事之如一。惟其所在則致死焉。父生之、君養之、師教之(先王の制、民三つに生ず。之に事ふること一の如し。惟だ其在る所は、則ち死を致す。父は之を生じ、君は之を養ひ、師は之を教ふ)」といへり。是欒共子が始ていひ出るにあらず、先王の大訓にして、古今の通誼なり。中に師といふには同異あり。道徳の師あり、術業の師あり。古人も、人師は得がたく経師は得やすしといへば、まいて後世に至ては、道徳の師は得がたく、大かた術業の師なれば、君父の恩に並ぶべきは稀なるべし。たゞ後世に教をたれて、我人依頼し、其恩深長なるは聖人なり。夫報本不忘恩(本を報い恩を忘れざる)は、人道の大端なり。されば父母は、わが出来し本なり。我を生じて我を育す。一毛一髪までも、父母の遺体にして、遺愛のある所にあらざるはなし。いかゞして忘るべき。さて君恩に浴して、不餓不寒(餓えず寒からず)、妻子を養ひ、親族を賑はす、すべて養生送死(生を養ひ死を送る)の道、世話にいふ箸一本までも、君恩にあらざる事やある。いかゞして忘るべき。されど飽まで食し、煖に衣て、君父につかうまつる道をもしらずは、禽獣に近かるべし。幸に聖人の教によりて、義理のあらましをもしり、禽獣に免がるゝは、これ聖人の大恩にあらずや。いかゞして忘るべき。およそ人として、常に此三を忘ずば、天理おのづからほろびずして、本心を失ふに至らざるべし。衆善のあつまる所ともいふべし。翁は常に此三を忘れずおもひ出て、身にしむばかりに覚え侍る。家学の要訣とも申つべし。今人家の子弟を見るに、多くは我身の楽をのみ思うて、君父の恩を思ひしる心なきよりして、言行に慎みなく、放逸に流れ侍る。又老子碩学と称する人も、聖人の恩を身におもひしらざるが故に、自から高ぶり、名聞を務て、篤実なる方は露のこり侍らず。もし此翁が家の要訣を授て内省せしめば、陽浮の気を降伏して 誠実にすゝむの媒ともなりぬべし。されど彼が師といひ弟子といふ者、程朱親切の訓を聞ては、嘲笑て頭痛すといふもあり。悪心すといふものありと、人の語りしが、翁が今いふ説をきかば、さこそ嘔吐もしぬべし。もし世に篤学の人しあらば、老耄の瞽言にあらざる事をしらんかし。

駿台雑話 巻二

    武運の稽古
 ある時わかき人々、武芸の場より帰るさに翁が菴へ来て、例の文談に及べり。翁いふやう、「武芸は各の家業といふべければ、常に稽古あるべき事なり。但武芸と武運といづれか重きとおもひ給へる。翁は武芸より武運は重き事とおもひ侍る。其故はいかに武芸に達したる人なりとも、武運つきなば何の詮かあるべき。長湫の合戦に、森武蔵守は打物取て鬼武蔵といはれけれ共、かけ出るとひとしく銃丸に中りて即時に果ぬれば、武芸も武勇も用ふべきやうなく侍る。然れば武運ありての武芸ならずや。各武芸の稽古あらば、先武運の稽古し給へかし。さて武芸の稽古は、それ〴〵の師に問給はゞくはしかるべし。武運の稽古においては、芸術の師のしる事にては侍らず。それは翁などこそ」と語りのこしけるに、座中ひとり、「翁の仰事には候へども、武運の稽古と申事こそうけられ候はね。むかしより人力の及ばぬ事なればこそ、武運とは申つれ。もし稽古にて及ぶ事ならば、誰か芸古せざるべき」といへば、翁かしら打振て、「いや武運に芸古こそ侍れ」「さらば承らむ」といへば、翁、「各思案して見給へ。運はいづくより出る事にて侍る、天より出るにあらずや。されば世話にも運は天にありと申候。とかく運をば天に祈るより外はなかるべし。天の心に叶はんとならば、天の好める事は何事ぞ、悪める事は何事ぞと尋ぬべし。翁つら〳〵天の好悪を案じ見るに、天は仁をこのみて甚不仁を悪む。信を好みて甚不信を悪む。其いはれをいふに、天はたゞ万物を生ずるを心とする故に、古より今に至るまで、年々人物を生じ〳〵てやむ事なし。秋冬粛殺の気行はるゝといへど、果して粛殺するには非ず。生気を固うして根へ帰せしめ、春を待えて又発生せんとなり。易に、「生々之謂易(生々之を易と謂ふ)」といひ「天地之大徳曰生(天地の大徳を生と曰)」といへるは此事なり。天にありて物を生ずるは、人に在ては人を愛するなり。各是をもて見給はゞ、天の仁を好て不仁をにくむといふ事疑なかるべし。又信を好む事をいはゞ、日月星晨の行度、万古を経ても一日の如し。日月の食を見給へ。遥に大空の外なる事を、こゝもとにて推歩するに、分秒迄もたがはず。是に過たるたしかなる事あるべきや。天下の至信といふべし。然れば人は外の事はしばらくさしおく、たゞ仁にして信にだにあらば、おのづから天心に叶ふべし。天心にかなはゞ、などか擁護なかるべき。さりとて、しばらく仁を行なひ、仮に信を守りて、其験あるべきとにはあらず。是は平生にある事なり。常に仁を好て人をそこなはず、常に信を篤うして人を欺かず。かくしつゝ歳月を積なば、其誠天にこたへて、はからざるに自然の冥助もありなん。されば戦場にても、おのづから禍機に触ず、矢石にもあたらざるべし。翁が武運の稽古といふは、是を申すにてこそ侍れ。老人の僻言と聞給ふべからず。たゞなげかしきは、世俗の有さまなり。専に身を利して人をそねみ、偏に智を恃て詐を飾る。自から是を渡るよき計こそおもふらめど、終には天に見捨られぬべし。人として天に見捨られなば、いかでかよき事のあるべき。翁わかき時より世に時めく士大夫の邸宅を過て見るに、三つ葉四つ葉に作りならべたるに、歳々に諸寺諸山より捧げすゝめける武運長久といふ牌を門に釘せぬはなし。然るに其家或は刑戮せられ、或は子孫断絶して、武運長久の牌は其まゝ門にありながら、主うせ家滅びて、跡方もなく成行もあまた有にて侍る。又それ程にこそ侍らね、身を辱しめ名をおとして、晩節を保ざるもいくばく人ぞ、是等は皆武運の稽古なき故にこそとおしはからるれ。日ごろ稽古なくして、祈祷厭勝の力にて、武運を守らむとおもふ事、至ておろかなりといふべし。孔子も、「獲罪於天無所祷也(罪を天に獲れば祷る所無なり)」とこその給へり。凡神にこび仏に諂うて、符章陀羅尼やうの事を信ずる婦女などのするはいかゞせん、丈夫たる者の有べき事にはあらず。然るに近世士大夫より上つかた民の師表たる人も、こゝに惑はざるはすくなし。されば左道の民間に行はれてはてしなきも、是誰が過ぞや」とて、翁毛詩の「瞻烏爰止于誰之屋(烏の爰に止るを瞻るに誰が屋においてする)」といふを打吟じて、慨嘆におよびしが、いかなる心にかありけん。

    善悪の報
 しばらくありて、座中より翁にいひけるは、「武運の稽古と申事、あたらしき事承て感服し侍る。今より此稽古わすれおこたるまじきにて候。但世には仁にして信ある人に禍あるもあり、不仁不信なる人に福あるもあり。顔囘は大賢なれども、貧窮にして夭し、盗跖は大盗なれども、富厚にして寿し、翁のいへる武運の稽古も、こゝに至て少し疑はしうこそ候へ。是はいかゞ意得侍るべきにか候」翁、「それ善をすれば福あり、悪をすれば禍あるは、是正理の前にて必定の事なり。それに幸あり不幸あるは、時の仕合にて不足なる事なり。聖人はたゞ正理を説給ふにて侍る。不定の事をばいかで説給ふべき。たとへば身に病なく、長命ならんとおもはゞ、常に酒色をいましめ、養生するにあり。主君の気にあひ、立身せんとおもはゞ、職事を懈ずして、よく奉公するにあり。然るに養生よくても、夭死する人あり、養生あしくしても長命なる人あり。さればとて養生しても益なし、養生せずしても害はなしとはいふべきや。よく奉公しても、不幸にて立身せざる人あり、奉公よくせずしても、幸にて立身する人あり。さればとてよく奉公しても益なし、奉公よくせずしても害なし、とはいふべからず。もし養生しても益なしといひて、日夜酒色を恣にせば、やがて病死に至るべし。奉公しても益なしといひて、たび〳〵職事に懈らば、やがて黜罰せらるべし。しかれば養生は長命を得るの道、奉公は立身を得るの道たるは、是不易の理といふべし。各よく考へて見給へ。なに事にてもあれ、かねて覚悟をさだめ給はんには、道理の前にて定まりたる方にきはめ給はんや。時のしあはせにて定まらぬかたにきはめ給んや。道理の前にて定まりたる方にきはめ給ふにてあるべし。道理にて極めたる事は、たとひちがひても後悔なかるべし。しあはせをたのみては、覚悟もさだまらぬものなり。それ故にかねてのあらましたがひぬれば、必臍を噬ぞかし。されば福善禍悪(善に福ひし悪に禍ひす)といふは、道理の前なる事なり。聖人の教も、君子の守も、道理の前にてきはめて、其上吉凶禍福は天にまかする外はなき事なり。いはんや道は人の当然の事なれば、福を得んとて善をなし、禍をおそれて悪をなさぬといふにもあらず。この故に孔孟の人を教へ給ふを見るに、福善禍悪(善に福ひし悪に禍ひす)の沙汰に及ぶ事なし、商書にこそ、天道は福善禍淫(善に福ひし淫に禍ひす)とは見えたれ。是はもろ〳〵愚頑なる民に命じ給ふによりて、かくはありし事ならん。然れどもこれ道理の至極したる事なれば、釈氏の方便などやうの事と、同日の談にはあらざるべし。

    天人相勝
 翁かさねていひけるは、「人衆勝天。天定勝人(人衆ければ天に勝ち。天定まりて人に勝つ)」、是は伍子胥呉王闔閭をすゝめて、楚国に攻入、父兄の仇なればとて、旧君平王の墓をあばきて、尸を戮するを、伍子胥が旧友申包胥、平王の臣たりしが、あまりの事とて、人して伍子胥にかくいはせける。古今の名言といふべし。天は必人にかち、邪は正に敵せず。然ども人衆くして勢盛なれば、人力をもてしばらく天に勝事もあれど、それは天のいまだ定まらざる内の事なり。天定まりては人に勝ずといふ事なし。但天は悠久にて自然なる物なれば、人間の約束などの、急に其験見ゆるには似べからず。然るを人ちひさき眼をもて、天道を窺ふ故に、たゞ目前見る所をもて、善悪の報なき事と見過しつゝ、君子は善をしても疑あり、小人は悪をしても恐れず。その善悪はかはれども、いづれも天定まりて人に勝といふ事をしらねばなり。それ顔囘の夭、盗跖が寿は、天のいまだ定まらざるなり。其後天の定まるをみるに、顔囘は一箪の食一瓢の飲、陋巷に窮居せしかども、其名今に日月と倶に垂て、千載朽ずしてあり。盗跖は聚徒(徒を聚むること)千人、天下に横行せしかども、身死して肉いまだ寒ざるに名先ほろびて、誰いひ出す者もなし。責て遺臭百世(臭を百世に遺す)こそ、積悪のしるしともいはん。是をもて見給へ。天の顔囘に報ずる事果して薄しとせんか。盗跖に報ずる事果して厚しとせんか。その上顔囘、盗跖の如く善悪の報おそきは稀なり、其外世俗を見るに、善悪の報端的なるもあり、又しばらくおそきもあれども、其身に及ばぬはなし。近きころ国家贓吏多して、前後罪にあたるがごし。はやくあらはるゝもあり、おそくしるゝもあり。又幸にして一生のがれて死後にしるゝもあり。いかゞしてかくはあるぞといへば、郡県の租税、金穀の出納、年を積て限なく稠畳する故に、その交互紛糾の間、金銀の出入たがひありても、大かたはしれ難き程に、小人は利欲にさときものなれば、それをよき機会と見て、色〳〵智を廻しつゝ、ひそかに官財を私して、妻子をさかやかし、奢侈をきはむれども、その跡見えぬ程は、恬然として自から計を得たりとす。其内あらはれて罪に行はるゝもあれども、それは其人の才覚たらぬ故也と、反て己が智に自慢して、いさゝか懲戒むる心なし。されど才覚をもてする事の、いつかたがはぬことやある。一旦はからざるに其端見えて、糺問におよぶ時にこそ、分釐も勘定に漏ることなければ、智も計も施す事なく、その姦利忽にあらはれて、さきにしばらくのがるゝと見えしも、末の露もとの雫にて、彼も是も終には免るゝはなし。しかれば国家の上にて見るに、大きなる所帯は、かくの如く事の実否俄にはしれ難きぞかし。いはむや天は四海国土を徧覆し、幾億万ともなき人を引受て、いはゞ莫大の所帯なり。およそ人のする事、善となく悪となく限もなく入乱るれば、善悪の報いかでか急に極るべき。されば前後不同ありて、治定せぬ事のやうに見ゆる程に、小人の険を行うて幸をもとむる事もあやしむにたらず。然るに天にも終には勘定の極まる時あり。是を天定まるといふなり。こゝに至て天の聡明は、天下の名算の人といふとも及まじければ、善悪の報、軽重大小すこしもたがふ事あるべからず。むかしよりもろこしやまとゝもに、世の英雄豪傑、多くは己が武勇智謀に誇て、天のいまだ定まらざるを見て、天道は人力をもて自由になるものとおもひつゝ、猛威を逞うし、詐力を恣にして、一旦は志を得るに似たりといへども、程なく天定まりぬれば、忽に天罰にあたりて、身うせ家滅ぶる事、古今歴々として、そのためしすくなからず。されば人として天に勝は、禍のもとゝしるべし。小人は眼前の利を見て、浅はかにこれをよろこび、君子は未然の害を監て、ふかくこれを懼る。詩にいへらずや「畏天之威于時保之(天の威を畏れ、時に之を保つ)」と。誠につねにおそれて保つべき事なり。

    夢のうき世
 こゝにもと葱嶺の教を信ぜしが、近きころ翁にまなべる人あり。ある日の会に、かたへの人にむかひて、「某翁にまみえしより、儒道の尊き事をさとり侍る。されど釈氏にもすてがたき事侍る。今の儒者を見侍るに、多くは実有の相に泥て、世事に拘り名利にわづらふ程に、一生道に所見なくて終り侍る。仏者は世を如夢如幻と見る故に、異端にもせよ、仏性をさとり、本覚の地に至る人も多し。吉凶糾へる縄の如く、慶弔踵を門に接るを見れば、浮世の有様すべて夢にて侍る。いかで是に心をとゞむべき。一向に夢と見破りてこそ道にも本づくべけれ」といふ。翁聞て、なにがしの申さるゝ所、其いはれなきにもあらず。昔より高明の士の儒を逃れて仏に帰するは、其故にてこそ候へ。それにつきて鄙しきものがたり侍る。いつの事にか、或人翁に語るは、「さる家に宴饗の設けありしに、其座はてゝ衆客もろともにまかりしが、其中に一人、あまり酒食に飽満してそのくるしさにたへがたきまゝに、うめき〳〵果然の腹を抱て帰りしに、路にて乞児の飢て食をもとむるにあうて、あらうら山し、彼が身にならばなにかあるべきといひしとぞ」いとをかしく侍る。今儒者世事にあき名利をいとひて、反て頭陀の教をしたはしくおもふは、此人の酒食に飽て乞児をうらやむに似たり。わが名教中に楽地ある事をしらざればなり。夫天下に真と妄とあり。天理より出るは真也、人欲より出るは妄なり。天地開きそめしより、三綱五常の道ありて、古も今もかはる事なし。されば天道の誠より出て真なる物なり。いかで是を夢となし仮となさん。但世の人々、多くは富貴利達を謀り、毀誉得喪に拘りつゝ、一生東西に奔走して日夜経営する程に、忽に往忽ち来り、図らざるにさかえ、はからざるにおとろふ。是等は皆人欲よりいでゝ妄なるものなり。夢ともいふべく仮ともいふべし。孔子も不義の富貴を見給ひては、浮雲のあるかなきかのやうにおもひ給ふとなり。しかるに釈氏三世の説世に行れしより、すべて此世を夢と見仮と見て、真と妄とをわかずして、三綱五常をはじめ悉く打破て、是を棄る事塵芥の如し。たとへば目ありて物を見、耳ありて物をきく故に、みる事にまよひ、聞事にまよふぞとて、終に目をつぶし耳をつぶして瞽聾となり、何事も見ずきかずして快しとするがごとし。しらずや、心はもと天より受て、衆理を具へ万事に応ずるにてこそ、その虚霊なる事を貴ぶなれ。今理と事とを二障として、三綱五常をさへすてゝ、わが心をあらぬものとなしなば、なにをか本来の心とすべき。定めてその神識の霊覚なる物をとらへて、本覚真如とするにかあらん。たとへば心は火の光明なるがごとし。火は物を照してこそ火とはいふべけれ。もし山海などにある龍燈、山燈などゝ世にいふ火のごとく、ものを照す事もなく、たゞすさまじく沈める光のみありて、人里遠く無用の地に自在に飛ありくを、神火とて尊ぶがごとし。されば仏法世に行はれてより後、五倫五常をはなれて、たゞむなしく動作する人あり。人事物理を具せずして、たゞむなしく霊覚なる心あり。日本は推古より前、もろこしは後漢明帝より前に、かくのごときの人なく、終にかくのごときの心なし。仏性ともせよ、本覚ともせよ、無用の妖物といふべし。しかるにやまともろこしともに、はや千年に余りて、尊きも卑きもこれに傾かぬはなし。或は君臣をすて父子を背て、出家遁世する人も世にたえせず。それ見きく人おしなべて、真の道に入ぬよとてうらやみぬ。いかなる心にやとあやしきまでに思ひ侍る。昔の賈誼にはあらねども、長太息しつべしとて、翁しばらく黙然たり。

    鈴木某が歌
 さていひけるは、むかし鈴木のなにがしといふ人なんありけるが、父は一向に釈教に帰依せしに、其子は儒を学びて、道の大意をも知たる人と聞えし。其人のよめる歌に、
  夢の世とたがいひそめし夢ならぬ其ことわりを身にししらばや
それを同志の人に見せけるに、「其ことわりをしれどもかくよみけるにや、但しらでかくよみけるにや」と問ければ、「しればとて遽にしりたるとはいひがたし。よりて疑うてしらばやとはよむなり」といひしと、ある人の語りしに、翁其時はいまだいとけなかりしかば、さやうの事にふかく心づきなく、かさねて問きく事もなかりき。今おもへば、此歌身にししるといふ所に深き意あるべし。さきに翁がいひける外に、夢ならぬ理とてはなけれども、そのことわりを身にしらねば、真にしりたるとはいひがたし。もし人ありて、此道の天よりいでゝ我にある事を身にし知なば、其親切なる事前に似たる事にも有べからず。たとへば今まで由緒あるともしらで其人といひかよひたるに、我とのがれぬ事をしりては、日ごろのしたしさは物かはと思はまし。霍去病が父と名のりあひて、始てその遺体たる事をしりし後は、其したしさ其ゆかしさ、前に百倍すべし。其人はもとの人なれども、別人のやうにこそ覚ゆらめ。旨酒のうまさは、下戸もしれども、上戸のしるは別の事なり。蒸餅のうまさは上戸もしれども、下戸のしるは別の事なり。儒者も此道の真にして実なる味を、劉伶が酒の美をしり、何曽が餅の美をしる如く、朝夕に身にしりなば、何とて外物に移され、実理にまよふ事あるべき。起るも是、居るも是 動も是、静も是、行住坐臥皆是なり。夷にも是、険にも是、生ずるも是、死するも是、吉凶禍福皆是なり。造次にもこゝにおいてし、顚沛にもこゝにおいてす。是を道を身にししるとはいふなり。かくいへばとて、翁もいまだこゝに至らねば、真にしる人にあらず。鈴木某も、こゝに及ばぬ事を自からさとりて、希望の意にてこそ、身にししらばやとはよみけるにぞ。

    朝がほの花一時
 此時松永某とて、鈴木氏が道学の友ありけり。その人朝がほの歌とてかたりしが、自からよめる歌にや、又は鈴木氏がよめるにや、とかく両人の内にてあるべし。
  あさがほの花一ときも千とせ経る松にかはらぬこゝろともがな
 此歌も意味ふかきやうにおぼえ侍る。昔よりあさがほをよめる歌おほけれども、大かた朝がほのあだなることをいひて、秋のあはれをそへ、世のはかなきをしらするを趣向とする外は見えず。白居易が、「松樹千年終是朽、槿花一日自為栄(松樹千年終に是れ朽ち、槿花一日自から栄と為す)」といふ詩を、公任の朗詠にも取て風雅とすれども、是もしひて栄枯をひとつにし、彭殤を斉うする意にて、俗耳には高きやうにきこゆれども、いと浅き事になむありける。是等は瞿曇が涎を引、荘周が唾をなむるに過べからず。今松永氏が松にかはらぬ心といへるは、それにてはなかるべし。各いかゞおもひ給へる。翁は朝に道を聞て夕に死するも可なりといへる意とこそ思ひ侍れ。朝に咲て日かげを待てきゆるは、朝がほの天より受たる性なり。世には千とせを経る松さへあるに、是程はかなき生を得て、いさゝか己を忘れ外を羨の心なく、朝な朝ないと快く見事に咲て、受得たる性分をつくして枯るこそ、花の見する誠なれ。いかであだには見るべき。それは松も同じ事なれど、あさがほのはかなきにて、一入そのことわりしるく見え侍る。されば松の心に千とせなく、あさがほの心に一日なし。たゞ各己が性分を尽すばかりなり。然るを松の千とせをさかえと見るも、あさがほの一日をはかなしと見るも、たゞ見る人のよそめなり。松と朝がほの心になにかあらん。およそ無情の物はかくの如し。人は有情なる故に万物の霊とはいへど、反て私智に妨られて、いまだ道をきかざる時はこゝに至る事を得ず。されば人は道をきくべき事なり。しかれども道をきくといふは、仏者の頓悟などのやうに、別段の事とは意得べからず。道はもとより事物当然の理なり。匹夫匹婦もともにしりともに行ふところなり。たゞ真にしらねば、実に行はず。それ故に習て察せず、行うて著しからず。身を終るまでこれによれども、つひに悟入する事なし。今道をきくといふは、外の事にはあらず。たゞ此道理を真にしり実に行うて、魚の水を安んじ、鳥の林を楽しむ如く、常に道理をいのちとして、しばらくも離るゝ事なく、いきてある限は道にしたがひ、死すれば身も道もこれまでにて、ながくやすかるべし。一日いきては、一日の道を尽して死し、一月いきては、一月の道をつくして死し、一年いきては、一年の道を尽して死す。かくてはたとひ朝に道を聞て其夕に死しても、糸毫の遺念なし。こゝをもておもん見るに、あさがほも一日の寿といへど、己が受得しまゝに残なく十分にさきて、さて日かげを待得てきゆれば、何の恨かありなん。松の千とせと修短は大きにかはれども、いづれも天命をつくして自からあきたる事は同じかるべし。これを松にかはらぬ心とはいふなり。松永氏も此心にならまほしきまゝに、朝がほによそへてかくはよみけるならし。翁も其歌にならひて、
  天地にうけしまことをそのまゝに咲てはしぼむあさがほの花
  あだなりと見てやはやまぬあさがほのさくもしぼむも花の誠を
  そこなはずむさぼらぬをぞあさがほの松にかはらぬ心とはしる
 まことに世話にいふ兎脣の嘯も心なぐさみにて侍る。各さぞをかしくおぼすらめ。たゞ詞をすてゝ意をとり給へかし。

    不忮不求
 座中の人々、翁の歌めづらしとて、各たゝう紙にかきつけしに、中にひとりいふやう、「そこなはずむさぼらずといへるは、毛詩の詞にて侍る。いま朝がほにはちとあはぬ事のやうに覚え候はいかゞ」といへば、翁聞て、「およそ人をそねむは、そこなふ心にあらずや。人をうらやむはむさぼる心にあらずや。是は朝がほの己が天のまゝに、なに心もなくかつさきかつしぼめるを、人の心に移して見れば、松の千とせをそねまず、又うらやまず、たゞ己が上をつくすと見ゆるをかくいひけるなり。さらば此序に詩のこゝろを語り侍るべし。此詩は婦人の作れる詩なり。其夫役に行て、久しく帰らぬ事をかなしみて、前に先わが思ひの切なる事をいひて、
  瞻彼日月。悠々我思。道之云遠。曷云能来。(彼の日月を瞻れば。悠々我思あり。道の云に遠き。曷ぞ云に能く来ん。)
 一たびわかれしより、いく度か日もいに月もきぬ。されば日月の往来を見ても、これとともに悠々とながき我思ひあり。はる〴〵路遠き所なれば、我夫の帰らむ期もはかりがたし。いつかここに来て見もし見えもすべき、といひて、其跡に、
  百爾君子。不知徳行。不忮不求。何用不臧。(百の爾の君子。徳行知らざるや。忮らず求らず。何を用つてか臧からざらん。)
 是は夫に告やるやうにいふなり。早く帰り給へかし。相見まほしとおもふは、女のつたなき私の情なり。かねてをのこは徳行こそ大切の事と承る。それに羈旅はよろづ艱難にて、おもひがけぬ事もあれば、日ごろの名節を損ぜられぬやうにとこそ思ひ侍れ。それは百の君子なべて御存知の事なれば、申におよばねども、女のおろかなる心におもふには、人はたゞ人をそねみにくまず、人に貪りもとめずして、手前をさへ正しく守らば、いづくにありても、何のよからざる事かあるべき、といふなり。かくいふ意をみるに、夫の徳行に疵なく、身を全うして帰るを望むにぞありける。限なく殊勝の事なり。誠に情に発して礼義にとゞまるといふべし。其上不忮不求(忮らず求らず)といへるは、浅き事にはあらず。それをいかにといふに、人は人我あれば、必人をそこなひ、利害あれば、必人にむさぼる。人我を忘れ、利害を離れずして、此味はしりがたし。されば、孔子も子路の敝れたる縕袍を衣て、狐貉を衣たるものと並び立て恥ざるを、此詩を引てほめ給ひしぞかし。いかなればいにしへはいやしき閭里の婦人にさへ、かやうの事をしりける人あるにや。されど是は先王の遺沢いまだ竭ざる時の事なり。もろこしも漢より以後は、此俗ある事をたえてきかず。まいて我朝は、昔より釈教のみ世に行はれて、聖賢の教ある事をきかねば、婦人の事は申にやおよぶ。士大夫たる人も、たゞ名刹の境にのみ一生をくらして、かりにもまことの事をしらぬ程に、一旦空ととき夢ととくをきゝては、いと高き事におもひつゝ、是をもて世を観念して、身の活計とするのみなり。もとより五倫五常をさへ空と見るなれば、いかで一草一木にふかき理ある事をしらむ。されば松永氏があさがほを詠ずるの主意は、道をきかざる人のしるべき事にあらず。今翁が不忮不求(忮らず求らず)をもて松にかはらぬ心とするは、子路の狐貉をきたる人をそねまずうらやまずして、狐貉も縕袍もふたつながら忘れたる心とひとつ事と見れば、かくよむなり。かやうの事を詩にいふさへ、明朝の人は、儒者の頭巾をぬがずとて笑ふ事になんありける。いはむや和歌によめるをや。京師和歌の名家など、翁が此歌をきゝては、さこそ笑ひ給らめ。されど、詩は人情に発すとあれば、なにのいはざる事かあるべき。三百篇を見てしるべし。和歌は人の心を種として、よろづの言の葉となれりとあれば、なにのよまざる事かあるべき。万葉集を見てしるべし。もとより歌の風体詞の用捨はあるべきなれど、それは翁がしる事にあらねば、今更沙汰に及ばず。

    春秋のあらそひ
 ころは弥生の半にもありけむ、庭の桜もやう〳〵さかりなるに、鴬さへ友をもとむる声に打啼て渡るめれば、今日こずはあすは雪とぞとひとりごちて、人待がほなる折しも、跫然たる音して五六輩打つれて問来りぬ。あるじもともに花のもとにまとゐしてなん、数献におよびてかたりくらしつる中に、ひとりのまらうど、「春のはなばかりめでたき物はあらじ。花紅葉といへど、紅葉は花なき時に見ればこそあれ、花にはおよびがたし」といへば、又ひとり、「紅葉もさのみいひくたすべからず。秋ぎりの晴間に、千林万壑さながら錦をさらすごとくなるは、春の山も忘れつべし。今花にむかひてかくいふは、義山が殺風景の譏もあるべけれど、我は紅葉に心をよする」といふに、又ひとり、「「山有木工則度之、賓有礼主則択之(山に木有れば工則ち之を度る、賓に礼有れば主則ち之を択ぶ)」とあれば、所詮主の心にまかすべし」といふ。其時翁ゐざり出て、「此あらそひは、大津の宮の御宇に、大織冠に詔して其沙汰ありしとかや。それより秋に心よするは多し。大伴の黒主も、「錦をはれる秋はまされり」とかよみし。されど其後代々の歌人、春に心よする人もあまた出来て、「浅緑花もひとつにかすむ」などよみ、「秋は夕とたれかいひけん」などゝもあれば、吉野の雪、龍田の錦は、伯仲の間にあるべし。さはいへど艶陽桃李の節に先だつべき時しなければ、紅葉はつひに花におとるべし。但此事は清予間暇のはかなき戯事に似たれば、いづれ優劣ありてもさてやみぬべし。今是をもて古の韶と武との楽を論ずるに、善喩と覚え侍る。昔孔子韶をば美尽せり善尽せりとの給ひ、武をば美つくせり未尽善(未だ善尽さず)との給ふ。美は声容の見事なるをいふ。善は美の実なりとあれば、美の出る所なり。たとへば韶は春の花なり、武は秋の紅葉なり。花紅葉ともに、その見事さは更に優劣なきが如く、韶武ともにその声容の盛なるにかはる事はなけれども、花は春の陽和より咲出れば、其見事さの中におのづからのどかなる気を含めり。紅葉は秋の風霜より染なせば、其見事さの内におのづからすさまじき気をふくめり。韶の楽は揖譲より出る故に、其美の実優々として泰かなる方に勝れたり。いはゞ春の花の陽和の気あるがごとし。武の楽は征伐より出る故に、其美の実、慄々として厳なるかたに勝れたり。いはゞ秋の紅葉の風霜の気あるがごとし。いづれも聖作といひながら、韶はあくまで手厚く、武も薄きにはあらねども、韶に比すればすこし薄きかたともいはん。それ故に韶は善つくし、武はいまだ善つくさぬなるべし。さればとて春も秋も天なり、天の徳に同異ありとはいふべからず。舜も武王も聖人なり、聖人の徳に同異ありとはいふべからず。たゞ其時の同じからぬ故としるべし。韶は花の陽和の時にあへるがごとし、聖人の幸なり。武は紅葉の風霜の時にあへるが如し、聖人の不幸なり。さればこそ程子も是を論じて、「所遇之時然爾(遇ふ所の時然るのみ)」といへるにあらずや。此たとへほど始終よくかなひたる事は侍らず。各はいかゞ思ひ給へるや」といへば、座中の人々もろともに感じて、「日ごろ韶の善つくし、武のいまだ善つくさずといふ事、くはしく自得しがたかりつるに、けふ戯に花もみぢの事をあらそひて、はからざるに久しき惑を解侍る。あり難くこそ侍れ」とて、各額をつきて謝し侍りぬ。

    秘事は睫
 さて諸客いひけるは、「われ等書を読てなまじひに性命道徳の説のみ沙汰し、其道理を世話に移して察し候はぬ故に、世話は別段なる事のやうにいと軽く意得候つるが、此程世の諺に申伝しはかなき事につきて御物がたりを承候て、いづれもふかき意味ある事を覚え侍る。誠に秘事は睫にて、あまりちかきは反て見えぬものにて候故、我等どもの意得ぬにて侍るべし」翁、「その事にて候。孔子も舜の邇言を察し給ふにて大知と称し給へり。されば、芻蕘の言も聖人択焉とも申にて候。むかし孺子ありて、
滄浪之水清兮 可以濯我纓、滄浪之水濁兮 可以濯我足(滄浪の水清らば 以て我が纓を濯ふべし、滄浪の水濁らば 以て我が足を濯すべし)
と歌ひける。此歌の本意は定て、聖人は不凝滞於物(物に凝滞せず)、世と推遷るの意にて、かく歌ふにてもあらんかし。それを孔子きゝ給て、水すむ故に人纓をあらひ、水濁る故に人足をあらふ。是纓をあらはるゝも足をあらはるゝも、水の自から取事なり。小子よくきけ、との給へり。されば栄辱禍福みな藻にすむ虫の我から招くといふ事、此歌にてしるく侍る。たゞ人をとがめずして、手前をつゝしむにしくはなかるべし。かり初の歌とてあだにきくべき事に侍らず。翁わかゝりし時、京師にひとりの老儒ありしが、ふるき事をおぼえて語しは、東照宮御在世の時、御近習のわかき者に、「汝等身をたもつに簡要の語あり。五字にていふもあり、七字にていふもあり。いづれをきゝたきぞ」と仰せられしに、「いづれをも承度」と申せば、「五字にていはゞ、うへをみな。七字にていはゞ、身のほどをしれ。汝等是を常に忘るべからず」と上意ありしとなり。当世の人、大方は上に目をつけ身の程をしらず。それ故におのづから驕りたかぶりて、物ごとに華麗を事とする程に、家をもち崩し、不義のことも出来て、禍辱にも及ぶぞかし。むかし或諸侯の家老何がしといひしもの、万石以上の身にてありしが、其国にて登城の時、あかねの木綿羽織を著けるが、路次にて雨にあうてぬれける程に、玄関の扉にかけてほしけるを、其主君折しも鷹野がへりにこれを見て、「あかねは日にほせば色かはる物ぞ。とり入させよ」といはれけるとぞ。又同じころ、親藩の家にて物頭たりし者、黄金十両にて著がへの鎧を威せしが、「今当家中にこれ程の金出して鎧威す人はあり難かるべし。武具は格別の物なればかくは結構にしつるなり。子孫わが此意をよく知て忘るべからず」と一筆書て、その鎧に添て家にのこしけるとぞ。又同じ比、諸侯の中に、世に賢君と称するありしに、其家老の子弟年わかなるが、蒔絵の印籠に大きなる珊瑚樹を緒じめにして腰にさげたるを、其主君見とがめられ、他日に其人を前へよびて、「汝は印籠を好むと見えたり。此印籠は薬をよくもつなり。是をさげよ」とて、黒ぬりの印籠に木欒子を緒じめにして賜りけり。それより国の貴族皆恐れて華麗を禁ぜしとなり。是等は皆六七十年以前の事ぞかし。いつの程に風俗かく驕奢にはなりぬるや。馬具武具は軍装にかゝる物なればいかゞはせん。それも華麗を専にし、もの数奇を事とするは、何の用をなす事にやあらん、ほめられぬ事なり。古き人のかたりしは、大坂夏御陣に、将軍家惣陣を御巡見の時、本多佐渡守は渋帷子を著して、冑ばかりにて御供せられしとなり。又加賀の家臣に山崎長門守といひし名高き武功の者あり。あとは祝髪して閑斎とぞいひし。翁其子孫なにがしとしば〳〵参会せしが、閑斎大坂在陣の時著せし物とて、紙子羽織に銃丸のあたりたるあとあるを其家に蔵めけり。是等にて其比軍装の軽き事をしるべし。況や平日の衣服飲食家作等に華美をつくし、無用の事に金銀を費すこそ、なげかしき事なれ。古より太平の弊かくあるとはいひながら、これを改ずしては、風俗日に敗れ、国事も日に非なるべし。但其本源をいへば、私欲にひかれて上に目をつけ、身の程を忘るゝより起る事なり。東照宮そこをかねて思しめして、かくは仰ありけるならし。但この驕といふ病は、上下ともある事にて、わが一身の奉に限らず。古より戦国の時主将たる人、自から驕て力を恃み敵を慢るは、必国を失ひ身を滅す。その例和漢ともにあげて数ふべからず。永禄、天正のころにていはゞ、今川氏真、武田勝頼にてしるべし。いづれも上にばかり目をつけて身の程にくらく、たゞ一旦の強きにほこる故に、まのあたり滅亡しけるを、かの高き御目にて御覧ありて、御料簡の上にての給ひし事にもあらんかし。されば参河より起らせ給ひ、御威光日に盛なりしかども、いさゝか驕らせたまふ御心なく、常に御身の程を御考へ御働ありしかば、寸を得れば王の寸、尺を得れば王の尺にて、終に天下をしろしめしけり。されば右の五字七字の訣、なにはにつけてふかき御心も有なんと覚え侍る。たゞ仮初の事とは思ふべからず」

    仏になるやう
 座中ひとり、是を聞て、「上を見ずして身の程をしるは、わがともがら道芸を学び候にも要訣たるべく候。身の程をしらず思ひあがりて高慢なる人の、成就したる事は承らず候。たゞ引さげて身の程をかんがへて進修するにてあるべく候」といへば、翁は「よくも心づき給へり。なる程さにて侍る。其につきて物語こそ候へ。ある大藩の主に刃物の目利に長じたるありしが、或時無銘のふるき刀を見て、是は相州の正宗なりとて、本阿弥にみせられけるに、本阿弥うけがはず、「是は志津と見えて候。中々正宗にてはなく候」といへば、「いやとよ、正宗なるぞ、汝に預けおくなり。より〳〵硎て見よ。いつにても正宗になりたるときに返し候へ」とありし程に、意得がたき事に覚えけれど、取て家に帰りてしば〳〵硎てみるに、志津に似たる鍔は見ゆれども、正宗とは見えず。かくて年ふる程に、右の主君もうせられしが、二代になりて、本阿弥右の刀を持参して、「御預けの刀、はたして正宗になりて候へ。今更先君御目利のつよきにいづれも驚て候」といへば、家老ども其子細を問けるに、本阿弥「これは不思議にさる男の後生ばなしにて正宗になりて候。日ごろ某が家に心易く出入いたし候老人あり、常に念誦打して後生をねがひ候しが、ある時に来て、「我等此程は後生のねがひやうをかへ侍る。只今迄のねがひやうこそあしく覚え候へ。このあら凡夫の身として、俄に仏にならんとねがへばとて、仏になられ候べきか。仏にならんとならば、先よき人にならむとねがふべし。よき人になりて後仏をねがはゞ、仏になるにたよりあるべしと語りしを承りて、是は尤なる事にこそ。彼刀もすぐに正宗の鍔にせんと硎程に、反て正宗にならざるにてあらん。それよりちかき志津にして見ばやと存じ候て、志津の鍔をこゝろざして硎候へば、やがて正宗に似より候程に、さてこそと存じ、いよ〳〵心にいれてとぎあげ候へば、今はたしかに正宗になりて候」といひしとなり。正宗の鍔には目をつけずして、其刀の身に応じたる志津を心ざして硎し程に、つひに正宗にはなりたり。翁此物がたりを聞て、おもしろき事に思ひしが、其後さる酒もりの座にて、二人盃の先後をたがひに辞退しけるに、ひとりのわかき士、「御年にあやかり候やうに御盃を給り候へ」といふに、其相手の人「われらが年もそことあまりちがひ候まじ、御あやかりのありたき程の年にてもなく候」といふに、其時わかき士、「其事にて候、大きにちがひ候ては急にあやかり申べき思ひよりもなく候。先すこしの御年だかにあやかりまゐらせて、それよりよはひをかさねばやとこそねがひ候へ」といふにぞ、相手道理にまけて盃をさしけり。彼老人の仏のねがひやうと、此わか士の年のねがひやうと同じ事なり。いづれも高遠に目をかけず、身の程をしりて、卑近なる所より漸々に至る意得なるべし。いへば当座のはかなき物がたりのやうなれども、よくおもへばまことに秘事は睫にてこそ侍れ。もとより学は聖人を目あてにする事にては侍れども、たゞ目ばかりたかあがりして身の程を省ずしては、道といよ〳〵遠くなりつゝ、一生自得する事なくしてやみなん。右の老人、わか士の覚悟には大きにおとりたるといふべし。古今高明の人の行過るは、大かたこゝにあやまらるゝにて候。されどそれは虚見にてこそあれ、道に少し見付たる所ありての事也。今の世に鉅儒と称する人は、それにもあらず、道においてなにの見付たる事もなく、自から高ぶる心より、むなしく大言を吐て、たゞ人の上にたゝんとのみする程に、後は世にもてはやされて、自身にも聖賢のやうに思ひなすこそ、身の程をしらざるの甚しきなれ。たゞし是等の人は、論ずるにもたらざるべし」

    仁は心のいのち
 ある時例の人々とぶらひ来て講習しけるが、仁義の説に及べり。中にひとりいひけるは、「人は天地の心を得て心とす。天地は万物を生ずるをもて心とする故に、それを得て心とすれば、人は人を愛するをもて心の徳とする事勿論なり。よりて人は心之徳愛之理といへり。心の徳とあれば、仁義礼智諸ともに、仁にもるゝ事なき程に、仁は四者を包て、義も礼智も仁によりて立つなり。是は翁の講説にて、かねて承りし事にて侍る。但仁は人を愛する心にあらずや。それを衆善の長とする事、たれも知たるやうに候へども、大かたは人はたゞ慈悲を第一とするをもて、仁を衆善の長とするとばかり意得侍る。それは慈悲の重き事をいはゞ、しかいうてもやみなまし。今仁を心の徳とするは、さやうの一通りの浅き事にてはあるまじく候。いかなれば慈悲の心ひとつが心の徳となりて、義も礼も智も、仁なければうせほろぶるにやあらんと、工夫すべき事にて侍る。此ところを今少し承りたくこそ候へ」翁聞て、「只今申さるゝ所すこしもちがひなく聞え侍る。されば日ごろ申たる外に、改て申べき事もなく候へども、猶更くはしく申候はゞ、心の仁あるは、人の元気あるがごとし。人の元気は脈にあらはれ、心の元気は愛にあらはる。脈のかよひ絶れば人死するごとく、愛の理ほろぶれば心死する程に、仁は心のいのちとも申べし。夫心は活物なるにより、人に情あり、物の哀をしりて常にいきたる物ぞかし。よりて父母を見ては自然に親愛し、親愛せざるに忍びず。君長をみては自然に尊敬し、尊敬せざるに忍びず。歯徳を見ては自然に遜譲し、遜譲せざるに忍びず。義を聞ては必感ずる事をしり、不義を聞ては必恥る事をしる。もし情なく哀をしらずば、其心頑然として鬼畜木石の如く、痛さ痒さもしらずなりなん。何をもて自愛し、なにをもて恭敬せん。義を開て感ずる事なく、不義を聞ても恥る事なかるべし。是をもていふに、仁義礼智いづれも心の徳にして、各其理わかるれども、其本源は仁に外ならず。人として不仁なれば、義も礼も智も其さまあり其用ありといへど、所詮内より生ぜねば真の徳にあらず、公の理にあらず。この故に仁に心の徳というて外に徳をいはず、仁に愛の理というて外に理をいはず。そのいはざる所にふかき意ありとしるべし。其につきてひとつの物語こそ候へ。相州北条の幕下、佐野の城主天徳寺、豪健の勇将なりしが、ある時琵琶法師を招て、平家を語らせて聞けるに、いまだ語らぬ先に琵琶法師にいひけるは、「某はたゞあはれなる事をきゝ度こそあれ。其意得して語り候へ」といへば、法師、「心得候」とて、佐々木四郎高綱が宇治川の先陣を語けるに、天徳寺あはれがりて雨雫と泣ける。さて「今一曲前の如くあはれなる事をきゝ度」といへば、那須与市宗高が扇の的を語りけるに、平家半より天徳寺また落涙数行に及べり。後日に家臣の輩に、「過し日の平家はいかゞきゝつる」といふに、家臣ども、「尤おもしろき事にて候。但我等どもひとつ意得ぬ事こそ候へ。前後二曲ともに、勇烈なる事にて、あはれなるかたはすこしも候はぬに、君には御感涙に咽ばれて候、是はいかゞの事にて候にや。今に不審なる事にいづれも申あひ候」といへば、天徳寺おどろきて、「只今迄は各を頼もしく思ひ候しが、今の一言にてさて〳〵力をおとして候。先佐々木が先陣をよく合点して見られ候へ。頼朝舎弟の蒲冠者にも賜らず、寵臣の梶原にもたまはらぬ生唼を、高綱に賜るにあらずや。されば其甲斐もなく、此馬にて宇治川を先陣せずして、人に先をこされなば、必討死してふたゝび帰るまじきと、頼朝にいとま乞して出ける、其志を察して見られよ。あはれならぬ事かは」とて、しば〳〵ありていひけるは、「又那須与市も、大勢の中より撰ばれて、たゞ一騎陣頭に出しより、馬を海中に乗入て的にむかふに至る迄、源平両家鳴をしづめて是を見物するに、もし射損じなば、みかたの名をりたるべし。馬上にて腹かき切て海に入むと覚悟したる、心を察してみられ候へ。武士の道程あはれなる物は候はず。某は毎に線上に臨ては、高綱宗高が心にて槍を取候故、右の平家を聞時も両人の心を思ひやりて、落涙にたへざりし。しかるに各にはあはれになかりしと申さるゝにつけて思ふに、各の武辺は、たゞ一旦の勇気にまかせて 真実より出るにてはなきにやと思はれ候。それにては頼もしからずこそ候へ」と云しかば、諸臣皆迷惑して、辞なかりしとなり。是天徳寺が武辺は涙より出れば、もとより仁者にはあらねど、武の一筋は仁に根ざして、惻隠の心より発するにあらずや。然るに武は殺獲の事にて、手あらき道なれば、いはゞ仁とは黒白のたがひあるやうなれども、仁より出ざるは真の武にあらず。況や其余の事はなほもてしるべし。されば忠孝も礼義も、文道も武道も、内より油然として潤ひわたりて発するにあらざれば、真のものにあらず。是則前にいひし人に情あり、物の哀をしるの心なり。すべてもろ〳〵の言行ともに、義理に当てはこと〴〵く忍びざるの心より出て、天徳寺が涙をこぼすやうにだにあらば、是心徳の全きなり。仁者といはんになにの疑かあるべき」

    義は心のきれ
 座中ひとり、「仁は心の徳にして愛の理たる事は、くはしく命をきゝ訖ぬ。今承るごときは、仁は心の全徳にて、四性を包侍るに、四性の中にひとり義ばかりを掲出して、仁に対して仁義と申候は、義も仁にさし次て大切なるものとみえて候。此序に義字の意をも承りたくこそ候へ」といへば、翁、「人に仁義あるは、天に陰陽あるがごとし。この故に易にも、「立天之道曰陰与陽、立人之道曰仁与義(天の道を立つるに陰と陽を曰ふ、人の道を立つるに仁と義を曰ふ)」といへり。されば乾元は春に居て四時を統ずといふ事なれども、秋の粛殺するにて発生の功をなすにあらずや。人道もまたしかなり。仁の四者を包るといふは、一向に自愛するといふにはあらず。もし義の裁制なくば、心の生道を損じて、仁も亡びぬべし。翁かねて初学の人に申侍るは、義は心のきれなり。朱子も心之制事之宜と註し給へり。心の制は、心のきれなり。事之宜は事のきれめなり。事によき程にきれめあるは、すぐに心のきれになる物にて候。仁に心之徳、愛之理とあるも、愛の理すぐに心の徳にして二つにあらず。それと同じ例なるべし。されば日用行事のうへより、取与去就の間に至る迄、含糊不断の心を持しては、いかでか道理に当るべき。此心にては、たとひ学問しても、苟且因循して、行に敏ことあたはねば、過を改るに吝にして、善に遷る事速ならず。又なにをもて徳にすゝむべきや。よりて百行すべて心のきれあるを下地とするにあり。孔子も君子の行を論じ給て、「義以為質(義以て質と為す)」とはの給はずや。又坤の六二を論じ給て、「敬以直内義以方外(敬以て内を直くし義以て外を方にす)」との給ひ、又聞達を論じ給て、質直にして好義(義を好む)ともの給へり。是をもて義の簡要なる事をしるべし。たゞ人心の害をなし、仁義の仇となる物は、私欲にて侍る。私欲あるが故に、邪智に誘れ、外物に引れて、かの仁の情あり哀をしりてすなほなる物も、忽にひすかしくこは〴〵しくなりぬれば、天理のかよひたえ〴〵しく、人欲日に熾なるぞかし。たとへば木を虫の蠧めるがごとく、其生気絶ぬれば、喬木も枯槁に同じ。それよりして心のきれも鈍くなりゆく程に、義もつひにうせはてぬるぞ悲しき。たとへば刀にさびの生ずるがごとし。其はがね腐りぬれば、利刀も頑鉄に同じ。是仁亡ぶれば義も一時にほろびて、我心あらぬ物になるぞかし。この故に孔門の学、仁をもとむるを要として、仁をもとむるには私に勝を本とす。されば顔子仁を問へるに、孔子克己復礼をもて告給へり。礼は天理の節文人事の儀則とあれば、身を撿するの防閑にして、私に勝の機括なり。一日私に勝て礼に復しなば、枯たる木のふたゝび栄に向ふがごとく、さびにし刀の新に硎を出るがごとく、天理流行して本心の徳全かるべし。但顔子はもとより天理人欲の分において、判然として疑なきが故に、すぐに進修の目を問給へり。其余の学者は、念慮行事の上において、天理人欲の分を真に不知しては、しひて私に勝むとすとも、いと難かるべし。さる故に孔門の教は、博文を約礼に先んじ、大学の法は、致知を誠意正心に先んず。是にてしるぬ、道は仁義にすぎずといへども、礼智をすてゝ仁義に至るの理なし。易にも聖人の徳を論じて、「知崇礼卑(知は崇く礼は卑し)」といへり。知崇は天なり。礼卑は地なり。いよいよ崇ければ、いよ〳〵卑し。これ成始成終(始めを成し終りを成す)の道なり。この故に横渠の張夫子、知礼をもて教をたてゝ、知礼成性の説あり。されどそれは横渠に限らざるべし。濂洛関閩の学は、すべて格物に本づきて知を致し、持敬によりて礼をはなれず。誠に孔門以来学者不易の法とすべし。

    浩然の気
 翁幼少にして手習せし時、世にもてはやす今川のふみをよみ習て、仁義礼智ひとつも闕ては、諸道成就しがたしといへるを、今におぼえ侍る。了俊さしたる学者とも聞えねども、此一言は不思議にいひあてられし、名言ともいふべし。さて仁義礼智いづれも大切なる中に、仁に次て義の大切なることは、孟子浩然の気にていよ〳〵しるく侍る。浩然の気は至大至剛、天地の間に塞るといふにはあらずや。各考て見給へ。かくばかり盛大なる物が、いかなれば義より生ずるといふにやあらん。人は天地の正気を得て、もと浩然たる物にて候へども、私欲ありて心のきれをなづまする程に、其気いつとなくちゞけて小さくなる事にて候。されば浩然の気は、心のきれより生ずる物と知るべし。しかるに心にきれなき人のくせとして、世話に牛の一さんといふやうに、やゝもすれば機嫌にまかせ、調子に乗じなどして、一概に物を決断して快しとす。是は真のきれにあらず。反て大に気をそこなひ、心の刃もこぼれつべし。いよ〳〵きれぬ物になりなんこそうたてけれ。孟子に、「義を集めて生ず」とあれば、一時一事のきれにてきほひを取て、浩然の気を生ずべきとにはあらず。其工夫日用の間、事の大小軽重によらず、道理に当りては、いさゝか狐疑せず、たゞ平等に心のきれを用ひて、一剣両断して宜きに合にあり。これかれたび〳〵かくのごとくにしてやまねば、此気常にたるまずして、丈夫になる程に、後には気より心のきれを助けつつ、義と合体して、おのづから浩然たるにも至るべし。但気にて心のきれを助くるといふ事、よく体認してしるべき事にや。たとへばこゝに二人あり。極寒の時に当て、仏暁にふたりながらいひあはせつゝ、同じく起き出るに、ひとりは寒さを痛でおくるにものうく、ひとりはさむさを事ともせず速に起く。其故をいかにと問に、稟賦の強弱によるにもあらず、そのすみやかに起る者は、上戸にて酒気あればなり。是気にて心のきれを助くるの左験とすべし。しかるに浩然の気は義より生じて、其生じたる気が又義を助くるこそ、いと奇妙に覚え侍る。前年韓文をよみて其雑説の中に、神龍の事をいふにてしりぬ。龍は誠に霊異なる物かな。気を嘘て雲を生じ、又わが生じたる雲に乗て日月に薄り、陵谷を汨く。是雲は龍より生じて、また龍の変化をたすくるにあらずや。今浩然の気は、心のきれより生じて、又心のきれを助くるにたとふるに、一理なるべし。しかいへばとて、しひて気力をもちひて、よわきを強しとし、むなしきを盈りとするは、いはゆる助長するにて、かの宋人の苗を抽て長ずるの類なり。此気自然の生路を妨げて、大きに集義の害を胎すべし。たゞなにの作為もなく、集義を事とするにあり。孟子に「必有事焉(必ず事有り)」といふは、たとへば人なにぞさし当て緊要の事あれば、朝夕そこに心をとゞめてすておかぬ物なり。そのごとく、集義するは必定一事あるなり。必ノ字最力あり、心の一定する所なり。しかるにおよそ世間の人、忘ねば助長す。助長せねば忘る。勿忘勿助長(忘るゝこと勿れ助け長ずること勿れ)というて、ふたつの間をしらするなり。忘れもせず助長しもせずして、心のきれを用ふれば、おのづからにぶらず、又はそこねずして、浩然の気もこれより生ずべし。先儒をもて持敬の法を論ずれば、持敬もまたこゝに同じかるべし。いかにとなれば、敬はたゞ儼然として、なにぞ事あるがごとしとしかいふべし。さればとて敬に執泥して、此心をしひて拘定すれば、他病を生じて、その害忘るゝよりも甚し。朝鮮の李晦斎がいひしやうに、たとへば鶏卵の手にあるがごとし。勿忘(忘るゝこと勿れ)は手に取ることを忘ぬなり。忘るれば取おとすべし。勿助長(助け長ずること勿れ)は力をいれて握りかためぬなり。握りかたむれば握り潰すべし。ふたつの間を体認して、持敬の法をしるべし。もとより存心集義二致なければ、持敬養気二法あるべからず。是等は簡要深切の事なり。たゞ一場の説話ときゝ給ふべからず。

    敬の工夫
 座中ひとり、「敬字の儀は程朱の説最詳明親切にして、なにの疑もなきやうには候へども、敬の工夫は、学者第一の事にて候へば、もし翁の思ひよられたる事も候はゞ、承たくこそ候へ」といへば、翁、「いやとよ、程朱のとき給へる外に、翁が今更申べき事は侍らず。但程朱の説、あまり反復切要なる故に、吾党の学者ふかく取過て、いとむづかしくなりぬるこそ、反て程朱の心にもかなふまじく覚え侍れ。翁はたゞ常人の心にあてゝ、俗語に引さげて申たく候。「敬は心のむきを真直にして、わきへゆかぬやうに、心のもとをたばねて、末のちらぬやうに、身の番人となるやうに、事の目つけとなるやうに」是にて敬はのこりなくこそ候へ。此翁が語、至て浅きやうに候へども、浅うして反てふかく、至てやすきやうに候へども、易くして反て難し。各是を身に験て見給はゞ、主一無適も、常惺々法も、この外になき事としり給ふべし。事新しき申様に候へども、天下に至極大切にて又至極たもち難きものは、此心にて候。孔子も、「出入無時、莫知其郷(出入時無く、其の郷を知ること莫し)」との給へり。然るに其至極大切なる物を粗略にいたし、至極難持(持ち難き)ものを心安く存知候程に、此心放逸するよりして諸悪起り、万事もやぶるゝぞかし。しかれば敬はその大切にしてあぶなき物をたもつ時の心にて候。古人の執玉捧盈(玉を執り盈を捧ぐ)にたとへしも、げにさる事ぞかし。今もし宝玉をとり、盤水の盈るを捧げば、少しも手をゆるさず、気をゆるめざるにてあらん。其心にて心をたもつを持敬といふなり。されど玉もとらばとらなん、盈るも捧げばさゝげなん。此心の執がたく捧げがたきは、中々それにたとへてやむべきにもあらず。いつも申ごとく、心は神妙霊活なる物にて候故、たゞむなしく無為にしてはをらぬものにて候。あるは人に接り、あるは事にしたがひ、さなくして隙にものするときは、不用の事を引出して、彼へ移りこれへ移り、水のつたふがごとし。無根の根をきざして、とさまにおもひ、かうさまにおもひ、麻のみだるゝがごとし。荀子は是を偸心といひ、釈氏はこれを流注想と名づく。是我人ある心の持病なり。今翁が心のむきを真直にして、わきへゆかぬやうにといふは、是を療する主方とすべし。さて心火とて、心は火に属する物なり。心のむき正しからざる時は、心のほさき乱れて用るにたへず。黄勉斎のいはれしやうに、心は一炬の火にたとふ。其本を堅く引束て火をともすときは、光つよくして、風にもたえず、雨にもきえず。もし本のつかねほどけてゆるまらんには、たとひ火をともすとも、光よわく打ちりて、滅ぬべし。翁が本をたばねて末のちらぬやうにとはこゝをいふなり。ひとりある時は、身のある所に心ありて、常に身をまもるを敬と言。是身の番人なり。事にむかふ時は、事のある所に心ありて、常に事を察するを敬とす。是事の目付なり。今敬の事を翁に申せとならば、大かた是にたがひたる事は、あるまじく覚え侍る。然るに是等の工夫は、いはゞ病気に的中したる良薬なり。この上にいふべきならば、薬の用やうひとつにて候。其用ひやうは、前に申ごとく、孟子養気の法に外ならず。翁かねて孟子をよみておもへらく、「養気持敬ともに必有事焉(必ず事有り)」といふ一言にて、もはやその理尽たる事なり。いかにとなれば、養気持敬何の替りたる事かあらん。いづれも本来の面目なれば、鳶のとび魚のをどると同じく、現在わが当然の事ありとして、つねにそこを離れずして居るまでの事にて候。此外毫髪も加る事はなかるべし。しかるに忘るれば、その有事所(事有る所)をうち忘る。助長すれば、気力を用ひてしひて作為す。忘れもせず、強て作為もせず、其間にて自然の天機を自得して、持敬の法とすべし。昔加賀にありし時、ある士人持敬の法を問しに、翁持敬の説をあらはして是にあたへき。其大略おもへらく、たとへば心は悍馬のごとし。持敬は悍馬を御するがごとし。我気たるみて、鞍よわく韁ゆるめば、馬駈出して泛駕の患あり。是忘るゝなり。さればとて力をもて馬を制しつゝ、韁をつよく引はりて、馬の口を痛むれば、馬なづみ苦みて、こゝろよくゆかずなりぬ。是助長するといふべし。たゞ行ざるのみにあらず、反て馬の邪気をさそひて、後にはのりずまひなどして、いろ〳〵くせつくものぞかし。いはゆる「非徒無益而又害之(徒に益無きに非ずして又之を害す)」にあらずや。されば、磬控中を得、緩急程にかなへば、おのづから進退疾序たゞ我心にしたがひて、自由ならずといふ事なし。是をもて持敬の法をしるべしといひしが、はや四十年にちかき事なり。其問し人も、今は昔語りになりたり」とて、翁感愴いとふかく見えし。

    民は王者の天
 ある時、論語郷党篇の講訖りて、その「式負版者(負版の者に式す)」とあるにつけて、翁諸客に対して、「王者以民為天。民以食為天(王者は民を以て天と為す。民は食を以て天と為す)」この意いかん。各いうて見給へといへば、座中ひとり、「民はこれ邦の本なり。民帰すれば邦存し、民叛ば邦亡ぶ。邦の存亡は民にあり。故に王者は常に民を尊びて天とす。食は民の命なり。食を得れば民いき、食を失へば民死す。民の死生は食にあり。故に民は食を尊て天となすといふ意にてあるべく候」翁、「さやうにとき候ては、上下両意にきこえ侍る。是は二句ともに、所詮農を重んずるを主意にしていへる事にて候。天より人を生ずれば、又五穀を生じて人の食とす。人あれば食あり、食なければ人なし。天下豈食よりおもき物あらんや。民は天下の為に食を生ずるもの也。それを天より王者にあづけ給へば、王者は民を仰尊て天とすべし。一夫をも軽慢るべからず。されば昔は諸国の民数をしるす籍を王に献ずれば、王も拝して受給ひ、孔子も民数の籍を負たるものには、式し給しとなり。又民としては思ふべし。天より我人命を続なる天下の大切なる物を、我等にわたして作らしめ給へば、民は食を仰戴きて天とすべしと。かりにも耕作を粗略にすべからず。是風俗の本、治乱の係る所にて候。今其有増を申侍るべし。むかし三代の時は、上に民をもて天とするの心ある故に、租税を薄うし、凶歉を拯ひ、困厄流離する事なからしむ。よりて郡県の民土著に安じ、農業をつとめ、米穀を出して君上に奉じ、食をもて天とせざるはなかりし。其風おのづから市朝にも移ちしかば、士大夫をはじめ、商賈等に至迄、大根勤倹にして華奢をいましめ、遊惰の俗ある事をきかず。暴秦に至て、民を天とするの心なかりし程に、頭会箕斂民に虐取してやまざりしかば、はては郡国離叛き、四方土のごとく崩れて、天下の乱民間より起りしぞかし。炎漢起りて天下泰平無事になりしかども、逐末射利(末を逐ひ利を射る)の徒日に出来て、富商大賈封侯にひとしく、食貨の権を恣にせしかば、村閭の民もそれに化して、豪奢にながれ、游侠を事とす。賈誼が治安の疏を見てしるべし。然れども上に民を天とするの心なほ残りて、しば〳〵詔を下しつゝ、農は天下の本といふ事を郡国に告諭し、租を免し復を賜ひ、郡吏の貪欲をいましめ、其上孝弟力田をもて下を率ゐ、たゞ務めて本を崇び末を抑へし事、くはしく漢史に見え侍る。さればこそかの文景の時、君臣恭倹にして、阜厚を致せし事は、三代以後の治世とも申べし。是によりてつら〳〵古今を考るに、上代は格別にて候。後世に至ては、郡県の風市朝に移るはよく、市朝の風郡県に移るはあしゝ。其故は市朝の風は奢侈を貴び、郡県の風は樸素を失はず。しかるに近来市朝の事を承るに、国に貪墨の吏あり、郷に貨殖の家あり。いづれも公には法禁を守り、貨賂を遠ざくとみゆれども、私には利欲をつとめ、宴楽を好まざるはなし。しかも私智を逞うして、己が悪を隠し、上を欺き人を誣るをかしこき謀とす。其会をきくに、食膳美をつくし、歌舞艶を競ひ、一日の費数十百金に及べども、互に是を風流とし、をしとも思はず。少しも倹素正直なる人をみては、これをそねみにくみて、世をしらぬ田舎人なりとて、群り聚りてこれを嘲笑ふ程に、ひとりの斉語衆楚の咻しきにたへねば、つひに一統の風となりて、田舎までも見および聞および、華美をつとめ、詐偽を習ふこそ、いとなげかしき事なれ。されば世こぞりて驕奢を貴びぬれば、その費用過分なるにつけて、己が諸欲を快うするに、金銀なければかなひ難き程に、おしなべて金銀を貪りもとめざるはなし。よりて天下の金銀、常に有力の人のために兼并せられて、おのづから流行も滞るぞかし。それに金銀は世を歴て滅し、米穀は年を逐て生ずる物なれば、金銀は日に貴く、米穀は日に賤し。食禄の士は、いやしき米穀をもて貴き金銀に易る程に、家貲いよ/\たらず、貨殖の家は貴き金銀をもていやしき米穀を買程に、家貲いよ〳〵たらず、貨殖の家は、貴き金銀をもていやしき米穀を買程に、家貲いよ〳〵余りあり。しかるに、有数(数有る)の金銀をもて無限(限り無き)の驕りをきはめ、有用の金銀をもて無用の物に費しぬる故に、金銀日に虚耗して、あまねく民間に流行せず。よりて粒米狼戻して極めて価廉なれども、閭里の貧民はそれをさへもとむる力なければ、富民は常に■梁に厭ども、かたへには菜色ある人あり。富民は常に肥甘に飽ども、かたへには餓死する人あり。中に悪性なる者は、自から死を救んとては法禁をも犯し、盗賊をもするぞかし。こゝをもて見るに、世の困窮なる故にこゝに及ぶなれば、その本源風俗の驕奢より起りて、一朝一夕の事にあらず。されど此六七十年以前迄は、世間今よりも猶繁華なりしが、もとより驕奢を好むの俗はありながら、倹素を尚ぶの人もおほくありき。それをいかにといふに、其比は前代の故老あまた国にのこりしが、いづれも其父祖わかゝりし時より、昼夜草野に起臥して、汗馬野戦にいとまなければ、華奢風流の事は夢にもしらず。其子孫も家風に習て、いはゞ今いふ田舎風なりしかども、おのづから文なうして質にあまり、かりにも虚なうして実にあつし。甲斐〴〵しく頼もしく、しかもまめやかに情ありし。いつしかさやうの人もうせはてゝ、在朝の士大夫世禄に浴し、泰平なるまゝにうき事をしらねば、宴安をのみ懐て其鴆毒なる事をさとらず。驕奢淫佚こゝに至るもあやしむにたらず。まいて貨殖の家游侠の徒は、論ずる事なかるべし。されば其弊郡県にも移るといへど、今とても田舎にはさすが古風のこりて、市朝とは同じ物にもあらず。もとより民はおろかにして粗暴なるまゝに、大悪をする人もあり、又は一概にて分別なき程に、難儀に臨ては、己が怒にたへず、上にたてあふ事もあれども、大やう市朝の人の邪智をもて人をたばかるやうの事はなき程に、おのづからすなほなる方もありて、恵に感じやすく、理にをるゝもすみやかなり。己がなりはひだにあれば、みづからたる事をしる事ぞかし。たゞ郡長たる人、民を天とするの心を忘れず、歳の豊凶にしたがひて賦税を上下し、飢寒の患なく、父母を養ひ妻子を畜ふにたるやうに相計らひなば、民安堵してながく流離の愁なからまし。さる上にて条法を設けて、威刑をしめし遊惰をいましめ、紛奢を禁じなば、一郡感服して、好風俗となるべし。もろ〳〵の郡県一統にかくありなば、其風おのづから市朝にも移りなん。今市朝にあらゆる人数夥しといふとも、天下の郡県に比せば、十分の一にもたらざるべし。それさへ市朝の風盛なれば、郡県へも移るぞかし。況や四方の郡県、各安堵して阜厚になりなば、其風天下へ移りて、樸実日に勝、華靡日に減じなん。しからば驕奢の風やうやく変じて倹素に復せん事、うたがひなかるべし。

    富士のすそ野
 たゞ思ふべし、民は邦の本、郡国は邦の藩屏なり。もし郡県の民憔悴流離しなば、天下の勢もこれより薄くなるべし。古より民窮しては乱を思ふといへば、郡県危ければ国も危く、郡県安ければ国も安し。さきに郡県は治乱のかゝる所と申つるは是にて候。ひとり風俗のもとゝいふばかりにては候はず。むかし憲廟の御時、ある士人の好学(学を好む)ありけり。其人按察使に命ぜられて、畿内の郡県を巡りしが、首途に臨て学問の師に贈言を乞しに、其師、「此たび道中にて富士山の下を通り給ん時、よくすそのを見て行かれ候へ。あれ程の山は、あれ程のすそのなくてはたもつべからず。すべて山は上より土下りて、下の埤厚なるにてこそ持候へ。もし上かさありて下ほそく、上大きにして下小さくば、忽に崩れつべし。此度上の御為をおぼさば、たゞ下を厚うするやうに御意得候へ。此外に申べき事は候はず」といひしとなん。是易の剥卦の意にていへるなるべし。剥卦上を艮にす、艮は山なり。下を坤にす、坤は地なり。これ地上に山ある象なり。山は高く上に位すれども、下は地に附てはなれず。是山は地を基本とするなり。人の上たる人、上を剥落して下を厚うすれば、邦安うして山の地上に安置するがごとし。もし下を剥落して上にませば、山在地上(山地上に在り)の象にそむく程に、やがて危かるべしとなり。其に付て翁が愚案にて考候に、只今市井無類の徒、多く府下に介居て国の害をなし侍る。第一人家に火をつけて大害を貽し候。是大方は郡県の流氓にて候。郡県困窮して流離に及、身の置所なきまゝに、なにの心当もなく府下に出候へども、生活すべきやうなく、又故里へ帰りてもよる方なく候故、盗賊をして身命をつぎ申外はなく候。もし郡県困窮せず、父兄親族土著してあらば、それらにも勘当せられて立のく程のものは格別にて候。其外はたとひ府下にいでゝ手振すとも、かなはずば故里へ帰り候べし。身のより所あるに、頑然極刑に陥るを見ながら、身をすてゝ悪事をいたす事はあるまじく候。又諸国より追放せられて流浪するものも、郡県賑ひ候はゞ、しるべにつきてたよる所もあるべく候へども、それ右に申通にて候故、諸方の悪党こと〴〵く府下に萃まるにて候。されば郡県やゝゆたかになり申さず候ては、府下の盗賊やみがたかるべく候歟。それに無用の華奢を専にする風俗に候故、貴族厚禄の家より、すこし時めくものに至るまで、下人を召抱るに、今様のばさら男の異形に作れるをえらぶになんありける。下部にても、謹厚なる者に、さやうなるはなし。よりて世上に溢れものども、宅内の側屋にあつまりゐて飲酒博奕し、はては酔臥して、多くは失火するをもしらず。又其最悪性なる物は、貨をぬすみ難をのがれんとしては、みづから主人の宅にわざと火をつくるもあるやうにきこえ侍る。是は主人たる者の意得あしきに起り候へども、畢竟華奢をこのむの流弊にて候。とにかくに市朝の奢侈を抑へ、郡県の困窮を賑はすにしくはなかるべし。

    天下の宝
 されど古より太平百年に及び候へば、大かたは奢侈風をなし候。今奢侈を抑へ、倹素を崇んとならば、節倹廉直の士を撰んで官に有しむるにあり。号令科条の及べきにあらず。第五倫いへらずや。「以身教者従。以言教者訟(身を以て教る者は従ひ。言を以て教る者は訟ふ)」官長身正しければ、一官の畏慎ておのづからしたがひ、官長正しからねば言語をもて教といへど、其下争訟て心服せず。法令屡下れども、いよ〳〵多事になりて治まりがたし。所詮官長その人にあらざればなり。もとより国政は、法令を闕べからずといへど、法は人をもて行はる。人なければ法虚しく行はれず。孔子も「為政在人。其人存則政挙。其人亡則政息(政を為すは人に在り。其人存れば則ち政挙ぐ。其人亡すれば則ち政息む)」とのたまへり。翁昔ある故人の家に会して二典の文を論ぜしが、暦数の事に及べり。翁いふは、「歩歴の法始て虞書に見ゆるといへど、後世を経て元に至て精しくなりし。そのかみ此法だに具りなば、羲和に銘じて候せしむるにも及ばざらまし」主人聞て「いやさはいふべからず。天は運動の物なり。運動の人をもて候せずしては、其きざしの忽微なるを覚えず。暦法は一定の物なり。暦法にのみゆだねて、人の目力をもて審にせざるは、聖人敬天の心にあらず」といふを聞て、心に銘じてふかく感服しき。天度は万古不易にて、遅速盈縮常ある物なり。それさへ動物なれば、定法の及ばざる所あるぞかし。況や人心変動常なく、是非互に見え、情偽紛ひいづ。一定の法をもて尽すべきにあらず。この故に材は取べけれども、嗇夫の利口は張釈之是れを黜く。贓は罪すべけれども、掾吏の自首は呉祐これを賞す。麑を放つをもて託国の仁をとり、卵を盗めども干城の将をすてず。公孫弘が布被は、倹に似て矯情の姦をしるべく、郭子儀が奢欲は、奢に似て汚行の譏を貽さず。もし一定の格に泥んで、万変の事を制せんとならば、いはゆる柱に膠して瑟を鼓し、舟に刻で剣を求るなり。いかで変にあひ宜きにかなふべき。たゞ其人を得て、法を人にゆだねて行はしむれば、操縦進退時により事によりて変通する程に、法を用て法に用られず、法華を転じて法華に転ぜられず。さやうの人多く官にあり事に任せば、国政なにの滞る事かあらん。法も行はれ衆も服して、日に治平ならむかし。されば天下の宝、なにか人材に過たる物あるべき。この故に「楚は白珩を宝とせずして賢を宝とす」と王孫圉がいひし事、楚語に見えたり。梁恵王、吾国に径寸の珠ありて、車の前後十二乗を照すとて、斉の威王に誇られしかば、威王、「寡人四臣ありて千里を照す。何ぞ十二乗のみならんや」といはれしには、恵王も慚る色ありしとぞ。それに付て申も恐れなれど、ひそかに感じ奉るは、東照宮の御事なり。ある時一役人闕たる事ありしに、ある老臣に何がしを代り仰付らるべきと思しめす。其人がらいかなるぞと御尋ありしに、其人はかねて臣がもとへ出入いたし候はねば、いかやうの人物にて候や存知し候はぬよしを御いらへ申せば、御気色かはりて、「麾下の多き諸士を、のこらず其人がらをしれといはゞ、わが誤なり。又は汝諸士の善悪を必しもしるべき職にもあらぬに、問てしらぬをとがめば、わがひが事たるべし。件のものは麾下人多き中にも、日ごろ禄もなみにこえて、人にしられぬ程の身にもあらず。それに汝は、第一群臣の善悪を見聞置て、わが今のごとく尋る時はいひ聞するを職とするものなり。いづれに付ても存知せずというてさてやむべき事かは。さやうの事とはしらで、おもき職をいひつけ置しは、わが目がねちがひたるにてこそあれ。よく思うて見候へ。すべて武道に志ふかき士は、家老又は権柄の人に諂ひ追従せぬ物ぞかし。さやうなる中によき人あるべし。その埋れぬやうにと、つねに気をつけ心にかけてたづねもとめてこそ、君の為を思ふとはいふべけれ。刀脇ざし、茶湯道具の類に名物埋れてあると聞ては、なにとぞとり出してわれに見せんと思ふべし。それはいかやうの名物にてもあれ、国家の用にたゝず。なくても事欠ぬものなり。たゞ宝の中の宝といふは人にとゞめたるなり。これはわれ常々口ぐせのやうにいふ事なれども、それをよその事にして、うかときく心から、唯今のやうなる返答をばするぞかし。さて汝等がもとへ出入するものばかり立身する事とおもはゞ、諸士の心だてあしくなりて、権家にこび諂ふをよしとせん。されば麾下の士恥をしり義を守るは、国家の元気なり。それに諸士の心きたなくなりて恥をしらず、鼻は曲りても息さへいでなばと思ふやうになりゆきなば、なに事をするも苟偸にして、義を守る心なかるべし。しからば人の元気うせて死するごとく、国家の元気衰へて、やがて敗亡に至るも難かるべきにあらず。向後汝等こゝに心をつけて、大切の事と覚悟いたし候へ」と仰ありけるとぞ。窃に此仰によりて考るに、人材を至宝とし給ひ、四維を国の元気とし給ふ事は、誠に国家の亀鑑、宗廟の基本たるべし。我朝の人主に、つひに此御面影に似たるもきかず。古今にすぐれさせ給ふ御事といふべし。中に老臣を御しかりありし事、とかう申に及ばず。周礼に冢宰あり、歴代に吏部あり。常に六卿の上に居て、ために人材を撰ぶを己が職とす。其外閥閲の家も、所識の材を保任して、朝廷に登進むるを奉公としけり。しかあれど後世に至て古道日に衰へ、君相ともに是を急務とせず。常に人の賢否をしるに心なければ、選挙の道ありといへど、洽聞、宏訶、身言、書判の末事にすぎず。吏部たる人も、身銓衡の職にありといへど、薄書、期会さし当りたる事をのみつとめて、第一の本職を取失ひし事、代々もてしかなり。況や本朝において鎌倉より以来、君相たる人、此さたに及ぶ事をきかず。しかるに此厳命をきゝては、そのかみの老臣たる人、たれか恐懼諫動して、上の盛意に承順ざる者あらん。むべも御治世以後、人材輩出し、庶政修挙し、文明日に開けて、天下泰平の化に浴せざるはなし。是皆東照宮の御遺沢にあらずや。日夜奉仰(仰せ奉る)も余りあるべき事なり。

    風俗は政の田地
 しかるに天下国家には、風俗といふ物ばかり大切なるはなし。君上の威は天のごとく、其恐るべき事は雷のごとし。たれか背くべきなれども、世話に大勢に手なしといふやうに、一世の風俗には勝がたし。さる程に号令法度も、それにて一過は改るやうなれども、つひに風俗にけおされて、あまねく下へ達しがたく、ながく末まで遂ざる程に、たゞ局面ばかり取伝て、はては風俗のなりになりてやむぞかし。たとへば風俗は田地なり、政は穀種のごとし。たとひ嘉穀の種にても、地ごしらへあしくては、そだちがたし。そのごとく善政良法といへども、風俗とゝのはずしては行れがたし。穀種のそだゝん事を欲せば、地ごしらへするにしくはなく、政令の行はれん事を欲せば、風俗をとゝのふるにしくはなし。されば風俗のもとは人君の身にあり。人君たる人、身ををさめて下を化するといふは、古今不易の道なり。人君の身をさまらずしては、下たる人なにを目当にすべき。しかれども古より善悪ともに久しく堅まりて、世の風俗となりて急には改まらぬ物ぞかし。中に悪に移るはやすく、善に移るは難き習なれば、今風俗を改んとならば、たゞあしきかたへゆかぬやうにつなぎたもつにあるべし。是を風俗を維持すといふなり。風俗を維持する事は、君一人の力にては及がたし。時の執権をはじめ、もろ〳〵官長として群下の上にをる人、各君の意をうけて、身ををさめ行を慎て、人の手本となるやうにだにあらば、其下にたつ人、おのづから恐るゝ事あり恥る事ありて、法令もきくべき程に、風俗も改りてゆくべし。今の御代、上には倹素を尊びおはしまし、毛頭も御栄耀なき事、天下のしりたる事なれども、末々の驕奢はいまだやまず、常に声色を遠ざけられ、昼夜御政治に御心を尽さるれども、末々の淫佚はいまだやまず。されば上の御盛徳は、翁づれが数ならぬ身にさへ、常に仰ぎ奉る事なれば、まいて歴々諸役人として、たれか上の御旨をうけざる人あるべき。さこそ各油断はあるまじけれども、久しく衰へ来りたる風俗なれば、かくあるにてやあらんかし。万治寛文のころかとよ、世に鶉はやりて、貴富の家互によき鶉を購りもとめし程に、其価しきりに踊貴しけり。阿部豊後守忠秋も其ころ鶉をすかれて、常に籠を座側に置てなかせてきかれけり。それをさる列侯なる人きゝて、其ころ世にかくれなき鶉を厚価にてもとめて、ある官医をもて、ちかきころめづらしき鶉をもとめ得て候。御慰に進じたきよしをいはせけり。その官医豊州のもとへ来て其旨を達して、「御もらひ候はゞ、さぞよろこびにてあるべく候」といひければ、豊州きかれて、「先へよく意得て」とばかりにて、とかくの返事なし。しばらくありて近習のものを呼て、「鶉籠の口をみな庭のかたへむけよ」とある程に、みな外へむけければ、「其口をのこりなくあけよ」とある程に、皆あけければ、鶉残らず籠をいでゝとびさりぬ。かの官医見て不審におもひ、「久しく御手馴し鳥にて又立帰り候にや」といへば、豊州「いや、さにてはなし。今日より残らず放ちやるにて侍る。さて序ながら申す。某ごとき 上の御威光にて人に執しおもはるゝ身にて、物はすくまじき事にて侍る。某このごろふと鶉をすき候へば、はやさやうにきこゆる人もおはし候。向後はふつと鶉すきをやめ侍るべし」といはれしかば、かの官医も手持なくみえしとぞ。わが数奇たる事はやめがたく、人の志とてたま〳〵贈る物は、もらひてもさてあるべきを、上の御為を忘ぬよりして、かり初の事にも、世の風俗へも移り、わが権威にもなるやうの事は、かたくつゝしまるゝ程にかくありけり。其外同じころ執権の衆は、いづれもつゆ身に驕なく、権にほこらず、なに事もおほやけに沙汰せられし程に、其風下に移りて、末々の役人までも、廉潔質直なる人ありて、風俗を維持せしぞかし。されど翁おもふに、風俗の上より下へ移るはさる事にて、又下より上へも移るにてありけり。たとへば上より下へ移るは、水の源すめば下流すみ、源濁れば下流濁るがごとし。下より上へ移るは、下流泥塞すれば、其泥を上へ推のぼせて、漸々上流に及ぶがごとし。今富商大賈の子弟、武人俗吏の悪党、其外市井無頼の徒、日夜娼家戯場をもて家とし、酒色博奕をもて事とす。其風上へ移りて、列侯群守の身にて、ひそかに娼家の遊を好むもあり、士大夫といはるゝ身にて、きそうて戯場の風を学ぶもあり。是皆下より上へ移るにあらずや。今此流俗を正さんとならば、いよ〳〵上にたつ官長を沙汰して、源を澄すこともとよりの事にて、又下にある悪党を捜抉して、下流の泥を浚ふべし。しかるに、今比屋の賤民ども、日ごろ府庁へ手遠き程に、たとひ冤告する事ありて、官へ訴へんとしても、大かたは口上拙く礼儀をしらねば、にはかに府庁の晴なる所へいでゝは、事の子細をくはしく陳ずる事あたはず。それに下吏いさゝか推恕の心なく、威勢を募る程に、少しにても無調法なる事あれば厳譴せられ、一言にても口上相違する事あれば詰問せらる。よりて我に十分の理ありても、府庁へ訴るをはなはだ難事とす。その上府庁はたゞ一所にて、四方の訴は日々にかさなりて山のごとし。中々手およびがたく、たとひ軽き事にても、滞りて多くの日かずを経る程に、其間比隣什伍相与に、たび〳〵庁へ召出さるゝまゝ、一閭のわづらひとなり、費用もかゝる故に、それにこりて、大かたは下にて無為にすますをよしとす。かくては姦賊悪党いかでか国にたえぬべき。所詮府庁手遠く、又は訴る事たやすからず、むづかしき故ぞかし。今姦悪を浚治せんとならば、方々にあまた小庁をたて、囹圄を設け、人を択て其長とし、その手寄〳〵に幾街と各受取の限を定め、すべて不調に俗せしむべし。さて什伍の法をいよ〳〵厳にし、比隣互に相いましめて、善をすゝめ悪をこらし、もし凶狠にして人の言を用ひず、衆目にあまる程の悪ある者をば、たとひ其人国家の法ををかす事はなくとも、すみやかにその手寄の監司へ告しらするやうにし、其場にて僉議の上、軽科ならば当座にすまし、重科ならば禁獄もいたさせ、追て僉議の趣を委細に具状し、其人を并せて府庁に遣して、庁主の処決を仰ぐべし。しかあらば府下の人家、なに事にても官に達するに、府庁に至るの労なく、府庁も小庁の成獄を受て聴断せば、日々応対簡易にして、下より訴る事も、壅滞するの患なかるべし。それのみならず、下の悪党郷曲の間に隠るべきやうなく、人々庸行をつゝしむ心も出来て、急に感服する事はなくとも、面革には至りなん。かくして時月を経なば、風俗も漸く改りぬべし。たゞ官長たる人、大かた無事を専にし、姑息を安んじ、其下を治るに、公法をさへ犯さねば、見ゆるしきゝのがすをよしとす。それにては風俗の改まるべき期もなかるべし。もし一旦の料簡にていはゞ、風俗の僉議は迂遠なるやうに聞ゆれども、翁はふかく恐れて、国政を妨げ、士風を敗るのもとは、こゝにありとおもへり。腐儒迂闊の故態とやいはん。しかしながら、杞国憂天(杞国天を憂ふる)の愚人ともいふべし。

駿台雑話 巻三

    天下は天下の天下
 春過夏来て日もやう〳〵ながきころ、天気も折から清和にて、庭の緑樹もしげりあひつゝ、花にまさるといひしもさる事とおもはる。翁が身のわづらはしさも、やゝこゝろよく覚えしかば、ひとり明窓のもとに巻をひろげて、古今の事を歴観し、いと感慨ふかゝりしに、いつも見馴し心しりの人さへあまた問来て、かたみに書を講じ文を論じて、日をくらしけるが、座中の人々いかが思ひけん、於戯前王不忘(於戯前王忘れず)といひしを、翁きゝとがめて、「各申さるゝ如く、只今天下泰平なる故に、世にある有徳有位の人は、もとより親を親とし賢を賢とし、我等ごとき徳もなく位もなきいやしき身までも、楽を楽とし利を利として優游して卒歳(歳を卒ふる)は、これ皆泰平の余沢にあらずや。欧陽永叔豊楽亭記を著して、「宋の太祖四海の乱を定めて、天下の人をしてゐながら百年泰平の楽みに安んぜしむ。たれか其恩のふかきをしらむ」といへり。翁も亦おもへらく、東照宮風に櫛り雨に沐し、御一生の力を尽し、撥乱反正し給ひてより、今百有余年に及て、干戈動かず、四海浪静かにして、天下泰平の化に浴しぬ。又誰か御恩のふかきを戴かざる。然るに我等ごときいやしき身にて申すは恐れあれども、上に御盛徳をのべて世に伝へ広るは、儒臣の事なれば、さしてふかく憚るべきにもあらず。それにつきて、御盛徳の事おほき中に、日ごろふかく奉感(感じ奉り)て、あまねく世にしらせ度とおもひ侍る事あり。今各のために語り侍るべし。天下は天下の天下、一人の天下にあらずといふ事は、六韜の書にいでゝ、天下の君たる人は、常に忘るまじき事にて候。最万世不刊の名言と申べし。されど中国にても、三代を除ては、およそ創業の君、大かた天下を得るを我一人の楽として、天下の天下とするはなし。むかし明の太祖創業のはじめ、中山王徐達、軍中にて疾を得ると聞給ひて、いそぎ召かへし、諸医を召ていろ〳〵療治せられしかども、終にかなはざりしかば、太祖自から山川社稷に祈て、「今数年徐達が命をあたへ給へ。さるにおいては、達が死せん時、朕が命も一度にとり給へ」と神に告給へり。太祖の諸将徐達を第一とす。天下を平定するの功、徐達にしくはなし。此時天下甫て定まりて、達先死し、われひとり残りて泰平の楽を享るの本意なき事をかなしみて、せめて数年天下の安きを共にして、死なば諸ともに死なんと、わが命をかけて神にちかへるなるべし。翁明の史録を読て、こゝに至て歎息しておもへり。古より真主は別の事なり。馬援が光武を見て、「帝王有真(帝王真有り)」といひし、むべさもあらんかし。もとより徐達が死する時、天下すでに明に帰して、冢嗣も定まり、社稷も固く、たとひ太祖崩じ給ひても、そこに危き事なき程に、かくはの給しぞかし。されど天下を得ては、ながく存命して、わが身の楽をきはめむとこそ思ひ給べきに、功臣の死をかなしみて、死を同うせんと祈り給ひしにてしりぬ。あながちに天下を得るをもて楽とせず。なにとて天下を得るを楽とせざるといへば、其心はじめより、天下を天下の天下として、一人の天下とせねばなり。漢の高祖、光武なども同じ規模なるべし。此大器量なくては、天下を得がたし。もし小児のめづらしき玩物を得て、いつも身をはなさず、人にとられんかと気づかひするやうにては、たとひ天下を得ても、やがて失ふべし。秦の始皇、楚の項羽、我朝にてもちかき比、信長、秀吉をもてしるべし。いづれも不仁にして天下を失ふはさる事にて、しかしながら天下をたもつ器量に非ず。されば古人も、「深山有宝無心於宝者得之(深山宝有り宝に心無き者之を得る)」とはいへるぞかし。天正十四年の事かよと、長湫合戦の後、東照宮すでに豊臣秀吉と御和睦ありしが、秀吉使を遠州浜松へつかはし、上洛と号して大坂へ御来会をすすめられしかども、御同心なかりしかば、頻に使来る事数度に及てやまず。それにてもなほ御同心なかりしかば、秀吉母氏大政所を質として、御出賀を請れしに、御思案ありて御上洛あるべきのよし仰出されしを、群臣危き事におもひて、いづれも一同に申上けるは「もし御上洛なきを秀吉いかられ、鉾楯に及候とも、もとより御弓矢のつよきは申に及ばず。それに臣等一命をすてゝ禦ぎ候はゞ、秀吉百万の兵といふとも、心やすくは敗れ候まじ。それに只今危き所へ御越まします事あるべからず」とて、達てとゞめ奉りしかば、その時、「いづれも申通りて候。秀吉の威勢におそれて上洛せんといふにはあらず。よくおもうて見よ。天下の兵乱久しく打続て、此比までも干戈をさまらず、都鄙安堵せざるにあらずや。此一両年の間、漸く天下静謐にむかひつるに、某秀吉と鉾楯におよびなば、又争乱始りて天下の大難になりぬべし。もし上洛して不慮の変もあらば、其時は天下のために一命をすてんと覚悟したるぞ」と仰られしかば、群臣みな肝に銘じて、とかう申上るに及ばざりしとぞ。岡崎を御首途の時、井伊、本多に御身後の事まで仰おかれたれば、御自身にも危しとおぼしめさゞるにもあらず。それにおもき御身といひ、をしき御命をもて、天下に代らむと仰られし御一言の誠は、天人に感通すべし。それ故にこそ天命人心に御かなひありて、天下をたもち給ひしぞかし。されば明の太祖は、命をかけて功臣の死を救はんと祈り給ひ、東照宮は、御命をかけて天下の難を済はんとおもひ給ふ。御器量の大きにして、いはゆる実に心なきは同じ事なれども、御仁心の深厚なるは、恐らくは太祖のおよび給ふ所にあらじ。いつの比にかありけむ、ある人の家にて、東照宮の御軍功の事など語りあひしが、其序に主人この事語りいでゝ、其添けなさを思ひとり、賓主ともにおぼえず落涙におよびにき。しかるに兵家者流、又は世の智謀を好む者、是等の事を聞ては、主将人心を攬のかしこき謀とおもへり。常に権詐を尚ぶ心より見れば、さいふも似合たる評議とはいひながら、是非もなき事なり。さやうの人のためには語るべからず。

    直諫は一番鎗より難し
 されば古より倭漢ともに、創業の君おほくは天下を一人の天下とおもふ故に、天下を得ては、栄華をきはめ名聞をつとめぬはなし。しかるに、天下を御一人の私物とおぼしめさぬ故に、御治世の後も、いさゝか御身の御栄華をばおぼしよらず、たゞ天下の為に御思慮を労して、ながく燕翼の謀を貽しおかれしかば、重暉累洽、御代を逐て昇平なるぞかし。関ヶ原御陣以後、いつの比にかありけん、山岡道阿弥前羽半入など御前に伺候し、御閑話ありしに、「天下をしろしめさるる御身にては、なにゝても世にまれなる事をあそばしおかれ候はゞ、ながく御名も遺るべく候。それ故太閤も大仏を建立にて候」と両人申上けるに、「各申通大仏殿は末の世迄も残り、太閤の名も伝るべし。されど我は一方の名を残す事をおもはず、たゞ天下のためになるべき事を工夫して、後嗣に貽す外はなし。是大仏殿いくつ建立したるよりも増るべしとおもふ」と上意ありしとぞ。さて両人をば、おろかに浅はかなる事を申すとこそおぼしめしけめと、恐れながらもおしはかり奉らるれ。かの朝鮮を征伐して、おほくの人を殺し、大仏を建立して多くの財を費しぬるは、天下の害にてこそあれ、国家のためになにか糸毫の益になる事ある。たゞ愚人の耳目をおどろかすばかりにて、少し心ある人は、いまの世迄も眉をしわむるぞかし。しかれば、末の世に名をのこすとはいへど、ながき譏を招くなるべし。しらずや、今日光の御廟、屹として泰山の如く、国々までも奉祀して、仰ぎ奉らざるはなし。是こそ永代不朽の御名誉とはいふべけれ。それに別してひとつ感じ奉るべきは、かくばかり古今に傑出し給ふ御事にて、御在世の内、御自身の聡明に傲り給はず、常に下の直言を納めさせ給ふこそ、真の御聡明とも申奉るべけれ。古より人君の徳を論ずるに、諫をいるゝを本とす。およそ人聖人にあらざれば、必過失あり。たとひあしき事ありても、諫をいるれば、虚損の疾の補薬を受るがごとし。虚損おもしといへど、よく治するの頼あり。いかほどよき事ありても、諫をふせげば、虚損の病の補薬を受ざるがごとし。虚損軽しといへど、不治のおそれあり。しかれども英明の君のくせとして、好で自ら用る程に、下の直言をふかく忌にくめり。もろこしにては、いづれの代にも、諫議正言などの官をたておきて、求諫要(諫めを求むる要)とすれども、多くは其名ばかりにて、直言する人は退きやすく、阿諛する人はすゝみやすし。よりて上に過挙あれども改めず、国に闕政あれども挙せず。是古今の通患なりき。いはんや我朝武家の代になりて、上は専に武威をもて下を制し、下はたゞ勇力をもて上につかふ。言語塞がりやすく、下情通じがたく、国事日に非なる事、もとゝしてこのよしなり。しかるに上下ともにこれを簡要の事と思ひよる人あるはまれなり。こゝに東照宮、兵乱槍擾の間に御出まし〳〵て、常に言路をひらき、下情を通ずるを御心とし給ふをぞ、古今にすぐれたまひたる御事と申べし。遠州浜松の御城に御座なされし時、ある夜本多佐渡守、井に外様の者三人、御用の事ありて御前に召出さる。御用すみて、三人の者は退出しけるが、中に一人御前にて鼻かみ袋より筆記の物一通取出し、自身に御前へ持てさしあげけり。「それはなにぞ」と御尋あれば、「日ごろ私の存じよりに候事ども書付おき申候。はゞかりながら万にひとつも御意得にもなるべきかと存知候て、さし上候」よしを申ければ、「それは奇特なる心入かな」と御感なされ、「佐渡守はきゝてもくるしからず。それにてよみてきかせよ」と仰らるゝ程に、数箇条ありしを段々よみけるに、一箇条をよみをはる度ごとに、「尤なる事」と御あいさつありて、「其筆記の物是へ」とて御取あそばし、さて仰られけるは、「是に限らず、此後も存じよりたる事あらば、少しも遠慮なくいひきかせよ」とありしかば、「御聞とゞけあそばされ、かたじけなく存じ奉る」と申て、御前を立けり。其跡に佐渡守残り居けるが、「さても彼者卒爾なる仕かたにて候。それに一箇条も御用に立申べきと存ずる事はきこえ申さず候」と申上ければ、御手をふらせ給うて、「いやとよ、さして用にたつほどの事はなけれども、其身相応の思案をつくし、内々書付置て我等に見せんとおもふ志は、なによりも奇特なる事ぞかし。其いひ上る事、用にたてばとり、用にたゝねばとらぬ迄にてこそあれ、卒爾なるしかたなどといふべき事にはあらず。惣じて上も下も、我身のあやまちはしらぬものなり。されど小身なる者は、心安き友達傍輩などあれば、たがひに身の上の悪き事をいうて吟味もする程に、意付て改る事おほし。是は小身の益なり。大身なるものは、友達傍輩と出合て心安く語るといふ事もなければ、常に出合ものとては、家臣所従ばかりなり。それらは大かたの事をば、御尤とならではいはぬ程に、我過をしるべきやうなし。しらねば改る心もつかずして打過るのみなり。是は大身の損といふべし。古より富貴なるものゝ、国を失ひ家を亡すは、大かた我過ちをいひきかするものなくて、自身にする事をよきとばかりおもふ故なり。しかれば、わが悪事を告知する者は、大切に思ふべきにあらずや」と仰せられしを、佐渡守うけ給りて覚え居けるが、あるとき嫡子上野介に語りきかせ、上の御思慮のふかきにそへて、御仁厚なる事をいうて、落涙におよびしに、上野介きゝて、「其人は誰にて候つる、其申上候事はいかやうに事にて候や」と尋ねられければ、佐渡守、上野介をしかりて、「たゞ上の思召の結構なる事を思ふべし。其人の名も、その申上し事も、汝きゝて何にせんとおもふぞ」とて、いひきかせざりしとぞ。上野介年わかにて、其人を嘲ける心にてをかしく思うて、名をきゝ其事をきかんといはれしを、佐渡守合点して、おさへられしなるべし。其後駿府の御城に御座なされし時、御側に侍坐の衆へ上意ありしは、「人君はよき家老を持べき事なり。我常におもふに、主君の悪事あるを見て、主君の怒をもかへり見ず、諫言をいるゝ家老は、戦場にて一番鎗をするよりも、遥にまさりたる心ばせといふべし。其子細は、敵に向て勝負をするも、身命をかばいてはならぬ事なれども、必敵にうたるべきにもあらず。たとひ討死しても、世に名をのこし、主君にもをしまれぬれば、死しても本望なる事なり。又敵を討取りぬれば、主君の感にあづかり、恩賞を得て子孫にも伝れば、戦場のはたらきは、生死ともに心にいさみあるべし。それとはちがうて、主君の無道なるをなげきて、しば〳〵直諫すれば、忠言耳に逆ふ習にて、主君の心にあはぬ程に、常にいとひ嫌はれて、たゞ礼貌にてあひしらはれ、日に疎遠になるものなり。それに新進容悦の諂ひもの共、件の家老を事にふれて讒する程に、日を遂て主君の目見せあしくなりて、何をいうても用られず。其時はいかなる忠臣も退屈する故に、或は病気と称し、或は致仕をねがうて、身を引退く分別するぞかし。然るに主君の気に背くにもかまはず、いくたびもすゝみいでゝ極諫しなば、主君怒を積て手討にするか、又は押こめて出さぬやうにするにてあるべし。それを露も心にかけず、たゞわが報国の志をつくして終るは、世にありがたき忠臣といふべし。是に比すれば、戦場の一番鎗は反てやすき道理なり」と仰られしとなん。誠に万世御子孫の御事は申に及ばず、すべて人君たる人の永き艦戒となすべき御言葉どもなり。

    杉田壱岐
 是によりて思ふに、陥陣(陣を陥し)先登するは、難きやうにて易く、犯顔(顔を犯し)直言するは、易きやうにて難し。然るに古今君も臣も、陥陣(陣を陥し)先登の功を貴ぶ事をばしれども、犯顔(顔を犯し)直言の忠を重んずる事をばしらず。されば君たり臣たる人、いづれも東照宮の上意を忘るまじき事なり。寛永のころ、越前故伊予守殿の家老に、杉田壱岐といふ者あり。もとは足軽なりしが、其身の材をもて微賤より登庸せられ、厚禄をうけ、国老に列しけり。伊予守殿参勤にて一年在江戸の内、費用過分なりしを、常に前年より支度して、用度たる様にしけるは、ひとへに壱岐が功なりしとかや。それはさる事にて、常に犯顔(顔を犯し)直言して、君の過を匡救する事を忘れず。ある時伊予守殿在国にて鷹狩し、晡時に及て帰城あり。家老どもいづれも出迎しに、伊予守殿ことの外気色よろしく、家老どもに対して、「今日わか者どものはたらき、いつにすぐれて見えし。あれにては万一の事もありて出陣すとも、上の御用にもたつべしと覚ゆるぞかし。其方どもも承ていづれもよろこび候へ」とありしかば、家老どもいづれも、「御家のためなにより目出度御事にて候」といひしに、壱岐一人末座にありけるが、黙々として居たりしを、何とぞいふかとしばらく見あはせられしが、こらへかねられ、「壱岐は何とおもふ」とありしに、其時壱岐、「只今の御意承り候に、はゞかりながら歎かしき御事に存じ候。当時士共御鷹野などの御供に出候とては、さきにて御手討になり候はんもはかりがたく候とて、妻子といとま乞して立わかれ候と承り候。かやうに上をうとみ候て思ひつき奉らず候ては、万一の時御用に立べきとは不存候。それを御存知なく、頼もしく思しめさるゝとの御意こそ、おろかなる御事にて候へ」といひしかば、伊予守殿大きに気色損じければ、何がしとかやいひし者、伊予守殿の刀もちて側に居たりしが、壱岐に「座を立候へ」といひしを、壱岐聞て、其人をはたとにらみ、「いづれもは御鷹野の御供して、しゝさるを遂てかけ廻るを御奉公とす。此壱岐が奉公はさにてはなし。いらざる事申候な」とて、其まゝ脇指を抜てうしろへなげすて、伊予守殿のそばへ進みより、「たゞ御手討にあそばされ下され候へ。むなしくながら候て、御運のおとろへさせ給ふを見候はんよりは、只今御手にかゝり候はゞ、責て御恩の報じ奉る志のしるしと存じ候はん」といひて、頭をのべ平伏しけるを見給て、なにともいはで奥へいられけり。其跡にて、外の家老ども壱岐にむかひて、「御為をおもひて申されしは尤にて候へども、折もあるべき事にて候。今日御鷹野より御機嫌にて御帰りありしに、御気さきををられ候事は、遠慮もあるべき事にこそ」と云しを、壱岐、「君へ諫を申上候に、御機嫌を考候ては、よき折とてはなき物にて候。今日はよき序とこそ存候へ。其上某事は、御取立のものにて候へば、各とはわけのちがひたる者にて候。御手討にあひ候ても其分の事にて候」といひければ、諸家老各感じあひける。さて家に帰りつゝ、切腹の用意して君命の下るを待けるが、日ごろ糟糠の妻のありけるにむかうて、「そこにいひおく事たゞひとつ侍り。御身は女の身なれば、直に御恩をうけたるにてはなけれども、我御厚恩を荷ふ故に、足軽の妻といはれし身が、今歴々の妻とて大勢の所従に囲繞せられしは、かぎりなき御恩にあらずや。しかればわれ生害仰付らるゝ跡にても、たゞ朝夕今迄御恩の有がたかりし事を忘れずして、かりにも上を怨み奉る心あるべからず。もし女心にて、我身のものうきにつけて、上を怨み奉るやうなる事を、言葉の末にもつゆおきなば、黄泉の下までもふかく怨と思ふべし」といひける。さて今やと待けるに、夜ふくる程に人来て門をたゝきしが、「召あるまゝ登城すべし」となり。さてこそとおもひて登城しけるに、すぐに寝所へめし入、「其方が昼いひし事、心にかゝりて寝られぬ間、夜陰なれどもよびつるなり。わがあやまりたる事はとかくいふに及ばず。其方が心ざしをふかく感じ思うて満足する」との事にて、直に腰の物を賜りしかば、壱岐も思ひ寄らぬ事にて、おぼえず落涙に咽びつゝ拝賜してまかり出けるとぞ。此事、翁加賀にありし時、越前の人ありて語りしが、今おもへば此杉田などこそ、東照宮の仰られし世に有がたき家老といふべし。誠に一番鎗よりも難き事にあらんかし。

    伴大膳
 されば巧侫なる臣は、人君の心にかなひて、常に任用せらるれども、大切の事には、剛直なる人ならでは用にたちがたし。それに付て右の杉田事とはちがひたる事なれども、序ながらかたり侍るべし。大坂冬御陣の前に、片桐市正摂州茨木の城に拠て御味方いたせしに、柴山小兵衛が泉州堺に有て急難なりと聞て、間近く味方の急難を見捨ては、御味方申たる甲斐なき事とおもひ、茨木の城へ引とり一所にならんとて、手下の兵少し引わけてつかはしけるに、其兵摂州尼崎を過て堺にいたらんとしけるを、大坂より兵をつかはし、茨木の兵を取巻て攻ける程に、尼崎の城へ援兵を乞しかども、城より救はざりしかば、茨木の兵のこらず討死しけり。此時尼崎の城主建部三十郎幼少なりし故、播州池田武蔵守より、池田越前、宮城大蔵などいふ宿将に、士卒を添てつかはし置けるが、此者ども片桐を疑て、茨木の兵を救はざるにてありける。世には武蔵守大坂と内通あるやうにも沙汰せしなり。大坂と一たび御和睦の後、京二条の御城にて、此事御僉議ありしに、武蔵守の家臣に、伴大膳といふ者は、上にもよく御存知ある者なりしが、御前において段段申わけいたしけれども、御憤未だとけず、今においてとやかく申候ても、眼前に味方の兵うたるゝを見ころせし事、武蔵守心底いぶかしく思しめさるゝよし仰られ、其まゝ御座をたゝせらるゝを見奉り、脇指を抜てうしろへなげすて、御側へ匍匐より、御小袖の裳にすがり、「是は御なさけもなき上意にて候。いかに御姫さまの御腹より生れ候はずとて、武蔵守も御孫とは思しめされず候や。たゞ今此申わけ仕らずしては、いつ申わけ仕るべく候や」とて、はら〳〵と涙をながしつゝ申上ければ、其誠を感じおぼしめさるゝにや、「よし、今はきゝわけたるぞ。いそぎ帰りて武蔵守に申きかせて安堵させよ」と上意ありしかば、大膳手を合せ平伏して、御礼を申上てまかり出けり。其跡にて御前伺候の衆へ仰られしは、「あの大膳が父をも大膳といひて、武蔵守が父三左衛門いまだ弱年にて庄三郎といひし時の馬卒なりしが、長湫の戦に庄三郎が父勝入、兄庄九郎討死したると聞て、同じく討死せんとて、乗つけゆかむとするを、彼が父大膳、其時は何がし男とかいひて、馬の口を取しが、しひて馬を引返してつれてのきけるを、庄三郎怒りて、「はなせはなせ」といひて、馬上より鐙にて頭を続けざまに二三町が間蹴つけし程に、面より血の瀑の如くながるゝをもかまはずして、つひにのかせけり。其時討死せば、むなしく死して家も絶なまし。しかるに播州一国の主となりしは、かの大膳が其時の働にて存命したる故ぞかし。さすが親の子ほどありて、あの大膳も、主のために身をかばふ事なきは、ういやつとおもふなり。今の世に、われらが前へいでゝ、さきのやうなる事をいふべき者は、外には覚えず。武蔵守はよき人をもちたる」と上意ありしとなり。そも〳〵大膳が匹夫をもて天下の御威光に対し、主君の為に一命を抛て、国の宿冤を明かにしけるは、世にたぐひなかるべし。さればこそ上庁を回し、御気色も霽るのみならず、ふかく御感を蒙りしは、大かたなるべき事かは。しかしながら、上の御盛徳と申侍るべし。されば是に限らず、鈴木久三郎が池禦の鯉をとりしをば、御手討になされんとおぼしめすほどの事なりしかども、直言を申上ければ、其まゝ御怒をやめられ、反て御感じあそばしけり。初鹿伝右衛門が御朱印に墨をぬりて悪口申せしをば、一往放棄せられしかども、長湫の戦に、伝右衛門ひそかにかくれて御供して首級を得たりしかば、即時に其場にて御直に前の罪を御免し、戦功を御感じありける。其外にも常に御威光を屈せられ、下の義気を御取たてなされしかば、群士も勇気を折かれ奉らざる程に、御ために命をすつる事を露いとふ心なかりき。かの織田、北条、武田、上杉の主将も、智謀雄略は世にすぐれけめども、専に己が威力にほこり、下の勇気をひしぐをもて手柄とせし程に、一旦は盛なるやうなれ共、上一人の威勢ばかりにて、下の義気おとろへては久敷はつゞかぬものなり。さればこそ、いづれもつひに亡びしぞかし。是をもて、東照宮御思慮のふかきをしるべし。其ころ御弓矢のつよかりし事、天下にならびなかりしは、いはれなきにあらず。然れども今世の人、大かたは御武運つよかりしとばかりいふめり。もとより御仁徳ふかゝりし故に、天命にかなひ給ひしは、自然の道理にして、それはせんぎの及ぶところにあらず。せんぎの上にていはゞ、御武運のつよかりしは、御弓矢のつよきにあり。御弓矢のつよかりしは、諸士の義気を御そだてなされしにあり。しかれば下の義気を御そだてありしは大切の事にて、御孫謀を貽したまへるひとつともいふべし。しかるをたゞ御武運のつよきとばかり意得るは、いと浅き事なるべし。

    阿閉掃部
 前に申つる杉田壱岐が事につけて思ひ出し候。是も越前の士にて候。さして忠義に係る事にては侍らねども、其ころの士風を語り申べし。秀康卿越前に封ぜられ給ひし後、阿閉掃部とて、武功の誉ありし者を、厚禄にて召抱られけり。又狛伊勢とて、是も国にて世禄の歴々なりしが、嫡子に鎧の著初させけるに、かの掃部を招待しつゝ、子に鎧きする事をたのみけり。さて饗膳すみ、いはひの盃に及びし時、伊勢「今日は愚息が鎧の著初にて候まゝ、御身の御武功の事御物語候て彼に御きかせ候へ」といひしに、掃部、「いや、某が身の上に、御はなし申べき程の武功は覚え申さず候。されど御望も黙しがたく候まゝ、某一生の内に武者振りの見事なる士を一人見申て候。その事をはなし申べし。江州志津嶽の戦に、暮方に某一騎、余吾の湖のわたりを引候ひしに、(阿閉掃部が父は阿閉淡路守とて、明智にくみしけるとなん。然れば志津嶽合戦の時、掃部は柴田方にてあるべし。)敵とおぼしくて、うしろより詞をかけし故、馬を引返し候へば、其人申候は、「今朝よりかせぎ候へども、よき敵にあひ申さず候。御人体を見うけ、幸とこそ存候へ。御不祥ながら御相手になり申べき」とてすゝみより候故、「それこそこなたも望む所にて候へ」とて、たがひに馬をのりはなし、すでに鎗をあはせんとしけるに、其人、「しばし御待候へ。今朝より雑兵をおほく突崩し候故、鎗よごれて候まゝ、槍をあらひ候て御相手になり候はん」とて、余吾の湖に鎗を打ひたし、二三遍あらひつゝ、「さらば」とて突あひしが、久しく勝負なかりし程に、日も暮はてゝ、ものゝあやめも見えずなりぬ。其時あなたより又詞をかけ、「もはや鎗先も見えず候。御残多くは候へども、是までにて候。御いとま申候べし。御名こそ承たく候。某は青木新兵衛と申者にて候」とて、某が名をも承り候て、「此後又陣頭にて出合候はゞ、たがひに人手にはかゝり申まじく候。もし又味方にて候はゞ、わりなく入魂致し候べし。さらば」とて立わかれしが、是程見事なる武士はつひに見侍らず。いかゞなりはて候にや」と語りけるに、其比伊勢がもとへ、心安く出入する青木方斎といふ浪士あり。其日も来て勝手に居たりしが、此物語をきゝて、勝手よりにじりいでつゝ、掃部にむかひて、「さても只今の御物がたり承り、今更昔を思ひ、涙をおとしてこそ候へ。其時の御相手になり候青木新兵衛は、はづかしながら我等にて候。かく申ばかりにては、うきたる事におぼすべく候」とて、其時双方のよろひのをどし、馬の毛いろを一々いひけるが、ひとつもちがはざりけれは、掃部おどろきつゝ、「さて〳〵久しくてあひ候て本望に候」とて、手前にありし盃を方斎にさし、「是をしるしに」とて、腰のわきざしを抜てひきける。それより方斎が名国にたかくなりし程に、秀康卿の耳へも達せしかば、掃部と同じ禄にてめし出されけるとぞ。其後一伯殿筑紫へ左遷の時、掃部はいかゞなりけんかしらず。方斎は先禄にて加賀へ招かれ、それよりすぐに仕へて、子孫相続して今にあり。翁加賀に有し時、ある人此事を語るをきゝしが、青木が武者ぶりの見事なるはさる事にて、阿閉が彼が事をいひ出て、名のり合てよろこびし、又伊勢が子の鎧の著初に掃部を招て、子のためにとて武功の物がたりを望し、いづれもさしたる事にてはなけれども、其ころの士風、武をたしなみし事しられ侍る。たゞ今人家に子をそだて候に、食の喰そめ袴の著初などとていはひ候へども、鎧の著初と申事は、大禄の家は存ぜず、我等如きのいやしき武士の家には承らず候。是も人々武の心懸うすき故にて候。よりて大小両刀又は甲冑等のこしらへの華美を専にし、たゞ武を道具と迄意得る体にて候。我朝は武家の治世になりしより、五百年以来、天下武をもて風をなし候故、外の事はしらず、武の一筋は人々つねに忘れず、仮初の一言にも臆したる事をばいはず、しばらくたつにも脇指をはなさず、文道より見候はゞ、かたくなにいやしき方にもあるべく候へども、是程に心懸ず候ては、武の一筋はとほり申さず候。翁かねて学者に申候は、学者の道に志ざす事、武士の行住坐臥に武を忘れぬやうにさへ候はゞ、聖賢の域に至らん事も難かるべきにあらず。もとより武も義気の発する所にて候。古来我朝の武士を見るに、多くは不学にて文道の僉議はうとく候へども、義にあたりては、一命を軽んじ、廉恥の心を失はぬは、武義のいたす所にて候。されば鎌倉以来教化は世に行はれず候へども、責て此武義ひとつにて士風をも維持し、国家も治平なる事に候つるに、近来はその武義さへかやうにおとろへ行候事は、所詮風俗の日に遊惰になり候故と、いとなげかしくこそおもひ侍れ。

    士の節義
 ある時の会に、古今節義の事に及けるに、翁いひけるは、「孔子、季路冉有の二子を、父と君とを弑するには不従(従はず)と仰られて候。少し志あるきはの人の、君父を弑するに同意する事あるべきや。二子は孔門の高弟にあらずや。それにかく仰らるゝ事、たゞ季氏が不臣をいましめ給ふといふばかりにはあらず、是はいはれある事にて候。たゞ今刀を取て君父を殺す者ありて、我に同意せよといはむには、誰か従ひ申べきにて候。然るに時移り勢変じて、君父たる人を殺しても、其跡あらはれず、人もさしてとがめぬやうに成行時は、己が利害にひかれて、覚悟を失ふものにて候。楊雄は王莽が平帝を弑せしに仕へて、反て莽が功徳を頌し、沉約は蕭衍をすゝめて、和帝を弑し、その謀臣となる。さては明の靖難の時にて見給へ。燕王は建文帝を殺せしかども、在朝の名臣蹇義、夏原吉、楊溥、楊栄を始とし、いづれも燕王を奉じて、是に臣とし仕へざるはなし。其外歴代不学無識の徒は論ずるにたらず、是等は皆一代の文儒として、世に名をあらはす人ぞかし。是にてしるべし、季路、冉有を弑父与君(父と君とを弑する)には不従(従はず)との給ふは、二子大義においては、見る事明かにして、慥に覚悟のたがはぬ所を、聖人見届給てかくの給ひけることを。実に容易の事とはいふべからず。我朝にても、源義朝が父為義を殺すにて見給へ。其身も大悪としらぬにてはなけれども、君命はおもし。父ながら朝敵となりたる人なれば、是を救ふ事叶ひがたし。それに鎌田正清などいふ無慙の輩、いろ〳〵拵へていひけるまゝ、あへなく是を殺してけり。彼二子はかやうの場に至ては、たとひ身命を果しても、覚悟をたがふる事あるまじきなり。義朝さしも源家の名将と聞ゆれども、勇気ばかりにて、義理にくらく、志節なき故に是ほどの理非にまよひたり。いかゞして長田忠致がおのれをころすをとがむべき。但此事は北畠親房の神皇正統記の論正しうして、最理に当れり。此事の断案ともいふべし。正統記にいへるは、「義朝父のくびをきらせたりし事、大きなるとがなり。古今にもきかず、倭漢にも例なし。勲功の賞に申替るとも、自から退くとも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。程なく滅びぬる事は天理なり。およそかゝる事は、其身のとがはさる事にて、朝家の御あやまりなり。よく朝議あるべかりけるに、其比名臣もあまたありしが、などか諫め申さゞりける。大義には滅親(親を滅す)といふ事のあるは、石碏といふ人其子をころしたる事なり。不忠の子を殺すは理なり。父不忠なりとも、子としてころすの道理なし、保元、平治よりこのかた天下乱れて、武威さかりに、王位かろくなりぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれぞかし」とぞ。此時代是程正しき議論あるをきかず。さすが親房、南朝の耆老とて、此見識ある程に、此議論もあるぞかし。ちかきころ明智光秀が、織田信長を弑せんとて、丹波路より引返す時、塗中にて、旗下の将士へ隠謀の企ある事を始ていひきかせ、さて一党同心せんといふ一紙の誓文を出しけるに、軍士たがひに驚き視て、とかうの事に及ばざりしに、斎藤内蔵介申けるは、「此御企千にひとつも御利運あるべき事にて候はゞ、同異いたすまじく候へども、御敗亡は見えたる事にて候。それに只今辞退いたし候はゞ、命ををしみて其場をはづし申にて候。それは士の義にあらず」とて、一番に血判しければ、残りの人々も一言に及ばず、みな同じけるとなり。孟子に、「非義之義、大人弗為(非義の義、大人はせず)」といへり。内蔵介が義は、大人のせざる所なり。此時光秀をつよく諫てきかれず、光秀が手にかゝりて死なんは、中々まさるべし。万一光秀本望を達し、永く世にあらば、内蔵介いきてをるべきや。いきてをらば前にいひたる事はいつはりなり。よしまた其時自殺するにもせよ、賊党の名はのがれ得ず。世話にいはゆる犬死といふべし。畢竟義理の筋にくらき故に、小節に拘り時勢に逼られて、つひに賊党に陥り、極罪に処せられけるは、なげかしき事ならずや。

    歳寒知松柏
 座中ひとり、宋の文天祥、謝枋得が事をいひて嘆美するに、又ひとり明の方孝孺が事をいひ出て、「孝孺、成祖に対して始終少しも屈せず、あくまで成祖を罵て口をさかれ、まのあたり赤族せらるゝを見て悔ざりし、古今義烈の士といふべし」といふを、翁聞て、「文山が衣帯にのこれる賛、畳山が却聘の書を見給へ。二子の心事明白なる事をしるべし。文山が元の博羅と問答するを見るに、其気象凛々として犯すべからず。しかも其従容たる事は、方孝孺等が慷慨して就死(死に就く)にもまさりて殊勝にぞ覚え侍る。但文山は宋の丞相にて、もとより国と休戚を同うする身なり。畳山は宋の臣たりといへど、顕仕にも登らず、国事に預る程の身にもあらねば、宋亡びて、元に仕へずして、隠れ居ても、さてやみなん。然るに八十歳におよべる老母ある故に、しばらくながらへてありしが、後に元人の聘を却けて、つひに食を絶て死しけり。其清節文山と抗衡すべし。趙子昂、留夢炎等是を見て、恬然として元に仕へしこそ、いかで羞悪の心を失ひけるにや。無恥(恥無き)の甚しきものなり。さて明朝靖難の乱に、殉国の諸臣、その勇壮義烈、いづれも孝孺におとるべからず。古今義気の集まるところとや申べき。此時先朝の文武名をしらるゝ程の者、燕王を迎奉せしかど、此諸臣ばかり国難に殉ひし事は、誠に歳寒うして松柏をしるとも申べし。孝孺が弟孝友が就戮(戮に就き)しを孝孺見て、それまでは、九族門生ころされて尸を前に積を見ても、一たび顧る事なかりしが、さすが兄弟の愛忍びがたくやありけん、おぼえず落涙しければ、孝友詩を口づから占て、兄の孝孺に訣れける。其詩に、
阿兄何必涙潸々(阿兄何ぞ必ず涙潸々たる)
取義成仁在此間(義を取り仁を成す此の間在り)
華表柱頭千載後(華表柱頭千載の後)
旅魂依旧到家山(旅魂旧きに依つて家山に到らんか)
 いとあはれなりし事なり。百世の下までも、きく人袂をしぼるべし。されど殉難の諸臣は、世に赫著する事にて侍れば、今更申にも及ばず。こゝに其列にはあらで、殉死よりもまさりて覚ゆるは、建文帝に従ひて出亡せし二十二人にて候。中にも翰林修選程済が貞節は、古今比類なき事といふべし。それにつきて建文帝の始末を、各はくはしく考へ置給へるや。翁たゞ今は記憶うせて、たしかに覚しと思ふ事もおほくはたがひぬれば、只あらましを物語し侍るべし。太祖の時、懿文太子薨じて、建文帝嫡孫をもて皇統を継れしが、帝年わかく材弱くおはせしに、叔父の燕王雄才ありて、倔強難制(倔強制し難く)見えし程に、百歳の後国家の変あらむ事を太祖かねて慮り給るにや、其時誠意伯劉基博学にて、讖緯の事をも奏進せしと聞えしが、劉基などが所為にもあるにや、ひとつの紅篋を密緘して残しおかれけり。大難に臨て是を開けといふ事にぞありける。然るに燕兵すでに大内に迫て、京城守らず、今はかうよと見えし時、命じて大内に火をかけさせ、帝自から焚死するやうに物して、其紛れに程済かの紅篋を打砕きて見れば、度牒三張、三人の名にそへて、袈裟、帽子、剃刀の類まで内に備りてあり。又篋内に朱書して、応文は鬼門よりいで、其余は水関の御溝よりいでゝ、薄暮に神楽観に会すとあり。三人の名、ひとりは応文、是は建文帝たるべし。ひとりは応能、是は楊応能応じ、ひとりは応賢、是は葉希賢応す。程済急に帝の髪を祝しければ、両人も同じく髪をおろし、衣を易て袈裟を著しぬ。帝は殿中にありあひける士九人をしたがへて、丑寅の門よりいでけるに、神楽観の道士王昇舟を艤して待うけつゝ、帝を導て観に到りしが、程なく応能、希賢を始として、すべて二十二人来会する時は、すでに薄暮になりにき。かの紅篋の讖すこしもたがふ事なきは、いとあやしといふべし。それより二十二人の者、妻子をふり捨て、帝にしたがひ、いづくともなく出亡しけり。応能、希賢は比丘となり、程済は道人と号し此三人は左右をはなれず。外の十九人は東西に聚散し、道路に往来して、衣食を給し、応援をなし、相与に壱心戮力(心を壱つにし力を戮せ)て、始終一のごとし。京城陥りし時、成祖、宮人に帝のあり所を詰問れしに、馬后の屍をさししめしければ、さては自から焚死しけるとて、其屍を煨燼の中よりとり出て、礼葬せられしが、其後世に建文帝いまだ死せずと沙汰しけるを聞て、ひそかに天下を捜してやまず。胡■に命じて、仙人張三丰を訪求めさせられしも、実は帝の踪迹をたづねんがためと聞えし。よりて人に物色せられん事をおそれて、一所に留居するもかなはねば、君臣ともに影をかくし、迹をけちて、四方に漂泊す。其後従亡の人皆うせはてゝ、両比丘も相継で身まかりければ、程済一人ばかりのこりて、帝を奉護しけるが、或は屡空にして出て糧を募り、或は侍病(病に侍り)て出て薬を乞、その崎嶇艱難思ひやるべし。帝詩をよくす。名勝を遊歴して、多くは詩を賦して、懐旧の情をいへり。其中一首覚え侍る。
牢落西南四十秋(牢落西南四十秋)
蕭々白髪已盈頭(蕭々たる白髪已に頭に盈つ)
乾坤有恨家何在(乾坤恨み有り家何くにか在る)
江漢無情水自流(江漢情無し水自から流る)
長楽宮中雲気散(長楽宮中雲気散じ)
朝元閣上雨声収(朝元閣上雨声収まる)
新蒲細柳年々緑(新蒲細柳年々緑に)
野老呑声哭未休(野老声を呑んで哭未だ休まず)
 是を吟ずるに人をして千載の恨みあらしむ。帝長命にて、成祖、仁宗の両朝を歴て、英宗正統五年に至て、粤西におはせしに、帝と同宿の僧ありしが、今において帝いでば、朝廷にあはれまれん事をはかりて、帝の詩を窃て、自から建文帝と称して出ければ、藩司其僧并に帝を械繋して、京師に送りしに、程済徒跣にてしたがひけり。御史鞫問の上に、其僧は詐罔をもて論死せし程に、帝はさてやむべかりしを、帝南帰の思ひあるによりて、自から其実を白状せられければ、朝廷旧宮人に命じて探求めしむるに、建文帝たること無疑(疑ひ無き)に決定せしかば、詔ありて帝をむかへて西内にいれしむ。程済これを聞て、「今日始て臣が職を終ぬ」とて、終に迹をくらましてのがれさりぬ。その帝に従て出亡してより、こゝに至て三十九年の間、艱楚をなめて始終つきまとひ、ふたゝび帝を宮中にいれし事、其貞節の堅きをいふに、古今いまだきかざるところなり。狐趙が文公にしたがひ、甯兪が成公に従ひしには、はるかにまさりぬべし。是をもていはゞ、一時殉難はやすく、程済たる事は難し。孔子のいはゆる「其知には及べく、其愚には及べからず」とは、是等の事をや申べき。帝すでに宮中に入しかば、宮中の人老仏といひける。つひに寿をもて終られけるとぞ。これも古今にためしなく、いとめづらしき事なり」

    手折手にふく春風
 日かず経て継て講会ありしに、講はてゝ翁、「前日節義の事を語り候しが、跡にておもひ候へば、いまだ申のこして候。前日申つる事どもにて考て見給へ。盛衰栄枯は世の常なり。それにより志をかへぬは、是又士の常なり。もし時のもやうにつきて覚悟を変じ、世話にいふえりもとにつくやうにては、なにをもて士と申侍るべき。
水辺楊柳緑煙糸(水辺の楊柳緑煙の糸)  立馬煩君折一枝(馬を立て君を煩はして一枝を折る)
唯有春風最相惜(唯春風の最も相惜しむ有り)  慇懃更向手中吹(慇懃更に手中に向かつて吹く)
 これ唐の楊巨源が楊柳の詩なり。此三四の句意、婉にしておもしろく覚侍る。よりて其意を翁がよめる歌に、
なれてふく名残やをしき青柳の手折し枝をしたふ春風
 楊柳の人にをられて、はや木を離れたるとて、春風のそれをよそにしてふきなば、いかに情なかるべきを、なほ其手折手をさりやらで、をしみがほに吹こそ、いとやさしく覚え侍る。古より忠臣義士の、盛衰存亡をもて心をかへぬにたとへつべく候。翁むかし源平盛衰記をよみて、源氏の士には渡辺瀧口競、平家の士には弥平兵衛宗清が事を感ぜしが、又東鑑にて、伊藤九郎祐清(祐清事東鑑両所に見えて、前には祐泰とす。今考るに、伊藤九郎が兄阿津三郎を祐泰といふ。九郎を祐泰といふは誤也)が事を見て感じけるまゝ、三烈士の伝を半撰び置しが、いまだ稿を脱せざる内に、池魚の災にかゝり、其後ふたゝび草を起す事もなく打過し程に、今は其文をば跡もなく忘侍る。渡辺競は、源三位入道頼政が所従の士には第一のものなり。然るに治承年中、頼政高倉宮をすゝめて兵を起せし時、京師を急に発して、倉皇として三井寺へ赴しが、打忘てやありけん、競にかくとしらせざりし程に、競しばらく猶予して家にありしを、平宗盛聞て、日ごろ競が魁偉なるを見て、己が所従にせまほしく思ひしが、頼政が親臣なれば、請べきやうもなかりしに、このたび競ひとり都に残りしときゝて、「六波羅に参れ」と人していはせければ参りけり。宗盛対面して、「汝今より我につかへば、入道の恩にはまさるべし」とて、小糟毛といふ馬に貝鞍おき、乗かへの料とて、遠山といふ馬を引そへ、黒いとをどしのよろひ冑まで皆具してたびけり。競かしこまり給りて、ほくそ笑ひして罷帰りぬ。一族家人打よりて、「入道殿是程の大事を思ひたち給ふに、ひとり取残されしは、真実に遺恨なり。大将のかへうちたへかたらひ給ふはいなみがたし。時の花をかざしにせよといふ事もあれば、たゞ此まゝにてあれかし」といふを、競、「いやとよ、勇士の義さはあらず」とて、宗盛よりたびける鎧著て、小かすげにのり、郎等七騎打つれて、三井寺へとて打出しが、六波羅の門前を通りし時、馬にのりながら門の内へのぞきつゝ、高声にいひいれけるは、「競こそ只今下し賜りし馬にのり、三井寺へ罷越候。御眷顧を蒙り候へども、三位入道の恩忘れがたく候へば、此度死をともにいたすにて候。御門前をむなしく打過んはほいなく候へば、御いとまを申候」とて、三井寺にいたり、頼政と一所になりしが、其後宇治橋の合戦に、いさぎよく討死してけり。弥平兵衛宗清は、平頼盛の士なり。平治の乱に、頼朝幼少にて頼盛の家に囚れしを、頼盛の母老尼、清盛に乞て死を救ひけり。其時宗清、頼朝を朝夕にいたはりしが、平家西国へ落し時、頼朝かねて頼盛に通問して、疎意なきよしをいはせける程に、頼盛独一門に叛て都にとゞまりける。其後平家いまだ亡びずして西海にありし時、頼朝、旧恩の謝せんために頼盛を鎌倉に招きしが、宗清をも必召具せらるべき由をいひおこされければ、頼盛関東に赴くとて、宗清に「いざつれて下らん」といひしに、宗清いひけるは、「頼朝某に下れと候は、定て昔のなじみを思ひいでゝ、所領引出物などして、そのかみ扶助せし労を報ぜんとの事にてあるべく候。今更源氏に諂ひて、其蔭により候はんは、西海にある朋友どもの承る所も口惜こそ候へ。君はかくて都に御安堵しおはしまし候へども、御一門はいづれも西海に流落し給ひ、日夜やすき御心もあるまじく候。こゝにて思ひやり奉るも痛はしくこそ候へ。鎌倉に御越候て、頼朝が事を尋られ候はゞ、折ふしいたはる事あるよしを仰せられて給り候へ」とて、鎌倉へは行ざりけり。其後西海へ下りけるにや、其終をしらず。伊藤祐清は、伊藤祐親が第二子なり。頼朝伊豆に流謫の時、祐親に依ておはせしが、祐親禁衛の役に当て京師に赴し間に、祐親が女と通じて一男を産す。祐親瓜期に至て京師より帰し後、是を聞て大に怒りつゝ、其男を殺しけり。頼朝をも害せんとするを祐清かなしみ、頼朝をふかく愛護し、ひそかにのがれさらしむ。其後頼朝兵を起して伊豆より相摸へ赴し時、祐親平家のみかたとして、大庭景親等と石橋山にいたりて、頼朝を追襲けり。其後頼朝すでに東国を平定し、自から大兵を率て駿河に至られし時、祐親を生捕て至しを、其罪を決する迄、祐親をば祐親が婿三補義澄に預られ、祐清をめし出して、勧賞を行はれんとありしに、祐清「たゞ御恩には、はやく殺され候へ。父囚はれ、其子勧賞せらるゝ法や候。もし我を殺し給はずば、平家に帰すべし」といふに、さればとて我を救ひし者を殺すべきやうなしとて、ゆるして放ちやりけり。祐親それよりすぐに京師に奔りて平家に属し、後篠原の合戦に、つひに討死をとげけり。此三人時代も大かた同じく、志節も相似たり。その清風高義、源平の間に求るに、其類すくなくおぼえ侍る。さて元弘建武の乱に至て、天下板蕩の間、死難死節(難に死し節に死する)の士、限なく相見え候中に、翁かねて安藤左衛門聖秀が事を感じて落涙しける。聖秀は北条高時が臣なり。新田義貞の妻の為には伯父なりしかば、鎌倉すでに陥る時、彼女房義貞の文に我文を添て、ひそかに聖秀がもとへつかはしける。聖秀は高時が将として新田の兵と戦しが、郎党大かた討死し、聖秀も薄手あまた負て引かへしけるが、高時すでに屋形に火をかけて、東勝寺へ落けるといへば、「御屋形の焼跡には、討死のもの多く見ゆるか」と問けるに「一人も見えず」といふを聞て、「口惜き事かな。いざ殿ばら、とても死なん命を、御やかたの跡にて心静に自害せん」とて、百余騎を相従へて、やかたのあとへ赴しが、今朝まで甍をならべて、さしも奇麗なりし大厦高牆、忽に灰燼となりぬるを見て、聖秀感慨にたへず、涙をさへ惘然として立たる所へ、彼文をもて来りぬ。是を披き見れば、「鎌倉の有さま、今はさてとこそ承り候へ。いかにもしてこなたへ御出候へ。身にかへても申宥むべし」とあり。聖秀是を見て、大きに色を損じて申けるは、「われ今まで主恩に浴して人にしらるゝ身が、今事の急なるに臨て、降人になりて出なば、豈恥をしりたる者といはんや。されば女性心にて、たとひかやうの事をいはるゝとも、義貞勇士の義をしられば、さる事や有べきと制せらるべし。又義貞こなたの許否を試むためにいひこさるゝとも、北の方は我かたざまの名を失はじと思はれば、かたく是を距るべし。只似たるを友とするうたてさよ」と一度はうらみ一度は怒り、彼使の見る前にて、其文を刀に拳り加へて、腹かき切て死にける。嗚呼聖秀いかなる人ぞや。義気の勇壮、志操の潔白、是に過たる事やあるべき。さて近代にては、武田勝頼の臣小宮山内膳が節義こそ、最感嘆するに余りあれ。内膳は勝頼近習の臣たりしが、天正年中の事にや、内膳人と争訟しける事ありつるに、勝頼讒人の言をもちひて、内膳が不直に決しかば、内膳罪なくしてながく逐しりぞけらるゝ程に、是非なく家に蟄居して数月を経けるが、織田の兵甲州に乱入して、勝頼敗北し、故府をすてゝ、温井常陸介を先とし、纔四十二人の兵と天目山中に奔るときこえしかば、内膳身をもて赴急(急赴き)しが、道にて追付けり。さきの内膳と争ひし者、并に讒せし者を問けるに、いづれもとくに逃去ぬといへば、内膳慷慨としてかたへの人にいひけるは、「君我をもちひずして棄給ふに、今出て其難に死せば、君の明を損ずるに似たり。又死せねば臣の義をやぶる。よし君の明を損ずるとも、臣の義をば傷らじ」とて、四十二人と同じく国難に殉ひけり。此難に甲州の士、皆勝頼を叛て逃去しに、四十二人ばかり、傾覆流離の間につきまとひて、いさゝか二心なく、国難に殉ひしは、いづれも節義の士と申べし。中に内膳は、讒をもて冤枉にあひしをも怨ず、従者の列にもあらぬ蟄居の身として、外より来て赴死(死に赴き)し事、其忠烈はるかに温井等が上にあるべし。武田滅亡の後、東照宮内膳が忠義をふかく感じ給ひ、其子なくして祭祀の絶るを哀み給て、内膳が弟小宮山又七郎をめし出されしが、其後小田原陣の前、武職の人をきはめられしに、又七郎を以て御長柄鎗奉行に仰付られける。其時内膳が勝頼に対して忠義ありし事をくはしく仰たてられ、誠に武士の手本とおぼしめす。又七郎いまだ弱年なれども、兄内膳が忠義を感じ思召によりて、重き職を命ぜらるゝよし上意なんありけるとぞ。誠に死後のめいぼく、忠義の験と申べし。

    烈女種なし
 翁むかし加賀にありし時、ある人のいひしは、「およそ人の諸悪、大小によらず、改めぬれば、世にいひわけあり。旧悪は少しも疵にてなし。たゞ改めてもいひわけのたちがたき事ふたつあり。士の死ぬべき場をはづしたると、ぬすみしたると、此ふたつは、一たび其事ありては、一生の疵となりて、其人ながくすたりぬべし。しかれば、士の家に生るゝ者には、男女ともに幼少より節義の事を常にいひきかせて、忘れさすまじき事也」と。尤なる事なり。然るにすべて婦人は、柔順を専にして剛健をつとめずとはいひながら、士の婦女としては、此一ふしを忘るべからず。もし不慮の変にあはん時に、心よわくして節義を欠なば、日ごろの婦行もいふにたらず。古より衛の共姜を始として、歴代貞節の女世に絶せず。漢の陳孝婦、魏の令女が事を、朱子の小学の書にも載たまひしはふかき心あるべし。それにつきて衛侯の夫人南子が、「忠臣不為昭々信節、不為冥々惰行(忠臣は昭々の為に節を信べず、冥々の為に行を惰らず)」といひ、令女が、「仁者不以盛衰改節、義者不以存亡易心(仁者は盛衰を以て節を改めず、義者は存亡を以て心を易へず)」といひしこそ、婦人の言にも似ず、耳をおどろかしぬ。聖賢の訓といふとも、是には過まじく覚ゆ。されど令女は言にはぢず、其行相叶ひたれば、元よりいふべきやうなし。南子は是ほどの見識ありながら、淫行あるこそ、いとゞ罪おもく覚ゆれ。こゝに又丈夫にもまさりて貞節世にすぐれたるは、倭漢よく似たる事あり。漢の平帝の皇后は、王莽が女なり。父莽、漢の臣として、天下を簒ひ、平帝を弑せしが、いく程なく漢兵起て、莽を攻滅してけり。皇后宮闕に火の懸るを見て、「我なにの面目ありて漢兵に見えんや」といひて、自から火に投じてほろび給ひけり。我朝にては、長岡越中守忠興の夫人、明智光秀が女なりしが、父光秀織田信長の臣として、信長父子を弑しけるを、羽柴秀吉、西国より軍を還して、光秀を滅しぬ。其後関原の乱に、忠興大軍に従て関東に下られける。其跡に石田が兵忠興の館に来て、夫人をとらへてゆかんとしけるに、夫人、「われ一命を惜て、夫家の辱を貽さじ。敵のこみいらぬ先に」とて、自殺して果られければ、其義にすすめられて、留守の士、小笠原勝斎、河北石見、館に火をかけて、おしならびて腹をきる。何の局といふ女房、其外三四人、手に手を取、火中にとび入て死にき。今に至て世にめづらしくいさぎよき事にぞいひ伝へ侍る。かゝる大逆臣の女に、かゝる貞烈の人ありける事、上千載をへだてて、孝平皇后にならぶべし。其外には倭漢共にたえて類なき事なり。されば名将に種なしと申侍るが、翁は烈女にも種なしとこそ思ひ候へ」といへば、ひとりの客、「いやその種なきがたねあるにて候べし。此節義の心は、仁義の性を種として生じ候。此性なくして、気習よりしからしむる物にて候はゞ、或は膂力のごとく、丈夫にはありて、婦女にはなく、或は威儀の如く、良家には余ありて、卑族にはたらざるにもあらむかし。今本性を種として生ずる故に、父祖にもよらず、世類にもかゝらず、善人の子にも悪人あり、悪人の子にも善人あり、男女貴賤にもよるべからず、父祖親戚にもよるべからず」といふを、翁打感じて、「是こそ正当の論にて候へ。翁が申は、人類の種あるを知て、天性の種あるをしらざるにて候。但それにつき候ては、婦女又は卑賤に節義の行あるは、甄揚して本然天性の種あるを証し、又は下賤のつたなき婦女等にさへかく節義あれば、士大夫をもてそれにおとるべきやはと思ひ候はゞ、人の義心を興起するにもなり候べし。こゝにその人がらにも似ず、奇特に覚え侍るは、源義経の妾静が事にて候。静は京師にて名を得たる舞妓なりしが、材色をもて義経に寵せられけり。義経都を落し時、静も吉野までつきまとひしが、それより都へ帰り居しを、頼朝鎌倉へめしよせて、義経の行衛をとはれけれども、吉野より末はしらぬよしを申す程に、さて放ちかへさるべかりしを、義経の子を懐孕してありける程に、誕生する迄とて、しばらくとめられしが、かねて舞曲の芸、世に隠れなかりければ、頼朝その芸を見ばやとて、鶴が岡の祠にてまはせられける。静心うき事に思ひて、再三辞しけれども、しひて命ぜられしかば、いなみがたくて舞けり。頼朝時といひ、所がらといひ、静必祝歌をこそ唱ふらめと思はれけるに、さはなくて、
しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな
又おしかへして、
吉野山峰のしら雪ふみわけて入にし人のあとぞ恋しき
とかなでければ、頼朝怒て、「今日の事なれば、時世をぞ祝すべきに、叛逆の義経をしたふ事奇怪なり」とて、すでに罪にも処せらるべかりしを、夫人政子のわび言にて、事解にけり。静それを帯芥ともせず、程へて都に帰りつゝ、一生世に出ず、身を隠して終りけり。かの草も木もなびきし威に惕れず、勢に屈せず、始終志をたてゝ、義経に負かざりし事、高館にて殉死せし輩とも并称すべし。ちかきころ、京師の醇儒中村惕斎が撰びしとかやいふ、倭漢貞烈の女を載し姫鏡と題せし書に、是をいひ残しけるこそ遺恨なれ。是は静娼家に生れて、出所たゞしからざる故なるべし。それはさる事なれども、名教を裨くるためには、是等をもすつまじき事と、翁はかねて思ひし程に、今各へも申つるぞかし。詩にいはく、「釆葑釆菲、無以下体(葑を釆り菲を釆る、下体を以てすること無かれ)」この謂なり。

    沢橋が母
 加賀の前田家より、毎年八丈嶋浮田家子孫のもとへ、資用のために、小金幾星、丹薬幾包、其外瑣細の物件、定数ありて、目録の如く、公けの官吏に付して、八丈が嶋へ達せしむ。翁加賀にありし時、其いはれを故老に問に、沢橋兵太夫といふ者より起りたる事なり。豊臣太閤の時、前田家の先祖、大納言利家の女を、太閤養女とし、浮田秀家に嫁す。是秀家の夫人なり。然るに慶長年中、関原師散じて後、秀家は石田方の渠魁たれば、死罪に処せらるべかりしを、嶋津家の乞哀(哀を乞ふ)によりて、死一等を減じて、秀家并に其子八郎、八丈が嶋へ竄逐せらる。八郎に乳母ありけるに、是はとくに逃去ぬ。其介の女房、(俗にさしといふ)八郎が幼少にして、乳母に離れて、遥々嶋に赴くを、ふかく泣悲しみ、徒跣にて官庁に詣り、しきりに八郎につれて嶋に到らんと願ひけれども、制禁ありし程に、是をゆるさず。女房、「此上はなにの為にいきてあらむ」とて、すでに自殺せんとするを、官吏おさへて、さて議しけるは、「此女房を目前にて見ころしなば、後に上にきこえん時、不便におぼしめして、など窺ざりしともし御とがめもありなんか。只窺ひ奉りて、御旨にまかするにしくはなし」とて、窺ひければ、「女なればくるしかるまじ。嶋へつかはし候へ」と命下りしかば、女房限なくよろこびて、秀家父子につれて、嶋へ赴きけり。其時三歳になりし子を抱き、浮田家の夫人のもとへ来て、「自は八郎御曹子の御事、余りいたはしく候へば、御供申候て嶋へ参り候。此御奉公を忘れおはしまさずば、此子を御側の人へ仰付られ御そだてさせ、人になして給り候へ」といひすてゝさりぬ。夫人其子を常に膝下に置て撫育し、「此子が母は身をすてゝ、我子八郎が先途を見届し者なれば、此子をばわが子とおもふべし」とて、所生のごとくせられしとなり。其子の父はいかなる者にかありけんしらず、氏は沢橋にてありける。夫人後には加賀に到り、前田家に依ておはせしが、秀家備前の国守たりしによりて、加賀国人夫人を称して備前君とす。今に其墓加賀にあり。夫人在世の時、沢橋氏が子成長して、仕べき程になりしかば、前田家へ召仕はるゝやうにふかく付託せられしかば、彼家にて所領給り、沢橋兵太夫何がしと名乗けるが、たゞ明暮母の事をのみ思ひて、涙をおとしけり。いく程なく遁世の願あるよしにて国をさり、形をかへて僧となり、いづかたにありとも行衛しれざりけるに、元和のころにかありけん、将軍家御上洛ありて、二条の御城へ入せらるゝ時、ひとりの僧御駕輿ちかく訴状を捧げけるを、御供の中より抑へけれども、きかざりける程に、討てすてんとしけるを、御輿の内より御覧ありて、「沙門を聊爾なる事いたし候な。訴状うけ取候て、御跡より召連て参り候へ」と、御直に上意あり。さてもと前田肥前守家来のよし申によりて、前田大和守、御上洛の御供にてありし御預ありて、後程なく江戸へ還御ありしかば、大和守召具して江戸へ下りぬ。其訴状の趣は、「某三歳の時、母にて候もの、主家の為に、八丈が嶋へ罷越て候。母を嶋にさし置、其子として跡に残り居候ては、いきてあるべうも覚えず候。御慈悲に母と一所に嶋へつかはされ下され候へ」との事になんありける。官吏上の御旨を奉りて、思ひとまるやうに再三寛喩ありけれども、御うけ合申さず。所詮思ひ切たる容色なり。上にも其志を不便におぼしめさるゝにや、かさねて仰出さるは、「嶋へつかはさるゝ事は、御大法においてならせられぬ事なり。嶋より母をめし返さるべし。嶋より帰候やうに、文にて申こし候へ」とありければ、兵太夫申やう、「ありがたき御事に候。たとひ申こし候ても、母中々承引仕まじく候。されども仰出されにて候まゝ、申こし候はん」とて、文かきてつかはしけるが、兵太夫申如く、母嶋にて其ふみを見て、大きに腹だち、「我汝が三歳の時、御主の先途を見とゞけんとて、上へ奉願(願ひ奉り)て、一度こゝへ来りしものが、今汝を見んとて、御主をすてふたゝび帰るべきやうやある。いと口惜き事を聞くものかな。かさねて申こし候はゞ、返答にも及まじ」といひこしける。官吏兵太夫を公庁へめしよせ、是程に仰出されてかなはねば、上にもなさるべきやうなし。其かはりには、外に願ひ奉りたきことあらば、御かなへ下さるべきょしいひ渡しければ、兵太夫かしこまりて、卑賤の身として、上をはばかり奉らず、所存を申上候に、重く御取あげありて、是程にまで仰出され候に、此上に私の所存をたて申べきにも候はず。たゞしひとつ願ひ奉り度事こそ候へ。前田家は、浮田と由緒ある事にて候へば、彼家より、毎歳助成の金并に入用のもの承り候て、永代嶋へさしこし候やうに公命下り候はゞ、限なき御恩沢にて候べし。しからば母もよろこび申すにてあるべく候。某母への孝行、このひとつにて候。外に願ひ奉るべき事はなく候よし申上ければ、其事下りて朝議ありけるに、「是はくるしかるまじき事なり。されど金も員数多くはなりがたし。其外の物も、品によりてならぬものもあるべし。所詮僉議して、其員数其物品をきはめて、前田家へ申渡し候やうに」との事にて、今に至るまで、毎歳加賀の家より、定めのごとくしたゝめて官へ付し、官にて其物件を点検し、嶋へ送り届くる事になりたり。此事四方へきこえしかば、列侯の家より争て徴辟せしかども、兵太夫、「我此後仕官の所存なし。但加賀の家は、旧君の事なれば、是は辞すべからず」とて、加賀へ帰参しけるが、程なく病死し、子なくして家絶にける。翁古今を考るに、母子たがひに忠孝の道を尽したる事、是に類すべきはなし、一奇事といふべし。況や匹夫をもて万乗の尊を動かし奉りし事、至誠の致す所とも申べし。然るに是程の事を、加賀にてさへ、今は沙汰する人も稀なれば、其名世にあらはれずして埋るゝこそ口惜候へ。さて上の御仁政は勿論の事ぞかし。よく下情を御察し、卑賤の義を御そだてなされしは、誠に有がたき御事なり。御祖訓のごとく、国家の元気を養はるゝの思しめしにてもあらんかし。浅智短慮の及べきにあらず。

    天野三郎兵衛
 他日継で諸客来会せしに、翁いふやうは、「前日節義の事を申候つる。但節義は、事変によりてあらはれ候。もし平居無事の時にていはゞ、廉潔耿介の士ほど世に貴ぶべき物は候はず。官職に任ずれば必成績をいたし、事変にあへば必節義をあらはす、常変ともに国家の用に立ものにて候。すべて智勇ある士は、一人一職に任じては、一かど用にたち候へども、諸司の職を命ずるには、人がらの廉潔なる士を撰ぶべし、いかにとなれば、諸司には必同寮あり。其心廉潔ならざるは権威を貪り、又は名聞をつとむる程に、相そねまねば必ず相おもねるものなり。さる程に外はしひて相和すれども、内は互に相ふせぐ。それ故智も勇も相さへられて、剛も剛をなさず、柔も柔をなさず、たゞ僉議がちにて、先格をおひ後難を招かぬやうに裁断する迄にて候。いかでか国家において推たちたる験を見るべき。よりて諸事はかどらず、ゆきてとゞかぬ事もおほきぞかし。永禄のころ、東照宮参河に御座なされし時、御制法を定められ、高力与左衛門清長、本多作左衛門重次、天野三郎兵衛康景を三奉行に仰付らる。其頃与人の諺に、「仏高力鬼作左どちへんなしの天野三郎兵衛」といひしとぞ。どちへんなしは、左右遷就して一決せぬの俗語なり。此諺をもて考るに、高力はたゞ寛仁にして、本多があらきにかまはず、本多はたゞ勇決にして、高力が慈悲にかまはず、天野は高力か本多が裁断をそねむ心なく、たゞ道理次第にして、少しも己をたてぬと見え候。これは三人ともに人がら廉潔にして、奔競の心なき故に、同職にあはせんともせず、また同職をおさへんともせず、互に面々の心にまゝにふるまふと見えし。そこを御覧なされ、同職に仰付られしが、始は思ひ〳〵にて一致せぬやうに見えしに、此三人にて国政たゞしく、諸事治まりし程に、御目がねのつよき事を、人々感服し奉りしとなり。高力、本多が人がらの事は、くはしくしらず、天野三郎兵衛は、慶長年中、駿州興国寺の城主として、三万石を領しけり。領地の竹をきらせて、営作の為に積置て、足軽三人をして守らせけるに、御領田原の郷民、此竹を盗取しかば、番をせし足軽見付て、盗一人をきり殺す。残党逃有て、代官井手某に訴ふ。井手郷民の手前を吟味せざる事はあるまじきが、竹を盗む事たしかならぬにやありけん、人を康景がもとへつかはし、御領の民を、こなたへ断なくして卒爾に殺す事重罪なり。速にその足軽を誅すべきのよしをいひやりければ、康景、「盗を殺すは古今の法なり、なにをもて罪とせん。其上かの足軽私に殺すにあらず、康景下知してころさしむ。もし此事誤にならば、康景罪に行はるべし」とて、少しも許容の気色なし。井手其まゝにてはやみがたき故、郷民実は竹をぬすまず、無実の罪にてころさるゝを、康景己が足軽に荷担して、誅せざるのよし言上しければ、康景がもとへ下手人出すべきのよし仰出されけれども、前のごとくいひて御うけ申上ず。東照宮きこしめして、康景においては、不義の所為あるべからず。もしくは人のいふに欺かるゝにやあらん、後日に御糾問ありて、実否を定めらるべきのよし仰出されしが、本多上野介正純を康景がもとへつかはされて、たとひ此事理なりとも、一たび仰出されたる上にて、其通に仰付られねば、御威光も軽きやうに聞ゆる間、三人に鬮をとらせ、その内一人とりあたりたる者を誅し、しかるべきのよし、正純申されしかば、「御威光軽くなるとある上には、とかう申上るに及ばず」とて、御うけ申上にける。さて申けるは、「理をまげて罪なきものを殺し我身を立るは、勇士の本意にあらず、所詮身を退るにしかず」とていづちともなく逐電し、行方はしれざりけり。其後、台廟の御時に及て、ある人駿遠あたりの地にてかありけん、其所はたしかに聞ず、一人の仙人とおぼしきに行あひしに、其仙人「今は誰の代ぞ」ととふ。「今の君は、権現様の御子御代を継せ給ふ」といふ。「権現様とはたが事ぞ」と問ける程に、くはしくいひきかせければ、その時よく合点して、「土井甚三郎といふものありしが、いまはいかゞなりぬる」と問けるとぞ。甚三郎は大炊頭の事なり。此事世に沙汰ありて、「其仙人は大かた天野三郎兵衛にてあらん」といひけるが、「康景駿河にありし時、甚三郎すでに大炊頭といひしに、かの仙人甚三郎といふを見れば、康景にてはあるまじ」といふ人もあれど、古人は真率にて、いつもよびつけたる名をいふほどに、大炊頭のわか名をよく覚えて、かくいひたるにもあらんかし。よし其仙人は誰にもせよ、嗚呼康景潔白の士なるかな。無辜(辜無き)をころして、己が身を立つるは、非義なり。これさねば上意にそむくに似たり。とにかくに世にありては、身の一分たゝずと思ひきりて、三万石の禄を棄て、跡をけちぬるこそ、世にたぐひなき事といふべし。

    結解の何がし
 されど潔白なる武士も、世にたえずあるものなり。寛永正保のころにかありけん、江戸芝の天徳寺境内のわき寺に、常念仏とて、常にたえず念仏を唱る所ありしが、ある夕暮に、住僧外へ出るとて見れば、旅人と見えて、油単つゝみ頭にかけて、其さまいやしからぬ人の、門前にたゝずみてありしが、やゝ久しくして帰るまでもとの所にありし故、住持あやしみて「何人にて候や。内へ入てやすみ給へ」といへば、其人いふは、「御寺の念仏の声いと殊勝に覚え候程に、こゝに時を移して居るにて候。左候はゞ、御茶ひとつ給らん」とて内へ入ぬ。住持「いづかたよりいづかたへ参られ候ふや」と問ければ、「某は奥州辺より出たる者にて候。江戸にむかし知たる者の候て、遥々尋参り候へども、年久しき事にて候故、其人の行衛も今はしれ申さず候。是よりいづかたへなりとも身をよせ候はんとこそ存じ候へ」といふを、住持きゝて「はや日も暮て候まゝ、こよひは是に一宿いたされ候へ」とてとめけり。翌日住持いひけるは、「御身の落つき所もいまだ定まらぬと聞えて候。其間はいつ迄も御宿いたし申べし。ゆる〳〵と寺に御逗留候へ」といへば、「かたじけなく候」とてとゞまりけり。さてなにくれと物がたりするに、ふるき事など覚えて、たゞ人とは見えざる程に、天徳寺の和尚きゝて、後は本房へまねきて、ねんごろに扶持し置つゝ、寺中の事をまかせしが、残る所もなくよく取さばき、衆僧のしまりにもなりしかば、簡要の人とてたつとびあひけり。其ころある国主の、退休して居らるゝ人ありしが、世に年たかく、ふるき事をも覚えて、常に傍にゐて伽になる人あらば、俸禄も厚く、国賓のあしらひにて召抱へむとて、尋求られしに、此寺の檀越、「この人にしくはあるまじ。幸の事」とて、この人に告ければ、「御志はかたじけなく候へども、某事奉公の望はなく候。今までは申さず候へども、かく御懇意の上につゝみ申べきにても候はず」とて、そこにて始て名乗けり。それ迄は寺にてなにとか名をつきてをりけん、それはしらず。「某は蒲生氏郷の家にて、結解の何がしと申者にて候。蒲生の家ほろび候てより、他家に腕くびをにぎる心なく、乞食候てなりとも一生ををへつゝ、行倒るゝまでと覚悟いたし候つるに、存知もよらず寺の御恩になり候。今はたゞ此御恩をこそ報じがたく候へ」とて、九戸合戦の時、其外にも氏郷より給りし感状、其後蒲生滅びて、方々諸侯より招きし書状とも取出て、座中の人に見せて、「もはや是も無用のものに候」とて、火にて焼すてけり。かくて歳月を経し程に、明暦丁酉のとし、江戸中大火にて天徳寺も延焼しけり。結解、「たゞ某にまかせられ候へ」とて、和尚をはじめ衆僧をも立ちのかせ、わが身ひとり跡に残りてかけ廻りつゝ、仏像、仏経、其外諸道具ひとつものこらずのけさせて後、「もはや思ひのこす事もなし、汝等ものき候へ」とて、下辺男までをもこと〴〵くのかせけり。さて火焼通りてのち、堂間の焼あとに、一人凝然として手を供し、結跏趺坐して、焚死したありけるを見ればかの結解なりけり。寺中の上下、涙をながしをしみあひしとぞ。結解いつまで寺のわづらひとなりて存命せんと、ほいなき事におもひしかども、久しく寺の恩を受ける故、なにとぞ今一たび恩を報じて、ともかくもならばやと思ひしに、幸火災に付て、寺の為に身をすてゝ、一かどの奉公せし程に、もはや是までと思ひてこそ、自らは焚死ぬらめ。其心を思ひやるに、いさぎよく覚え侍る。又ちかきころ、一人の独行の士あり。翁わかき時、世に沙汰せし事なり。阿部故豊後守忠秋の家にて、物頭をつとめし者のよし、姓名をば今忘れたり。何とて子細ありけるにや、忠秋へいとまを取て、江戸八丁堀にて、町の裏屋をかりて住居せしが、年を経るにしたがひ貧困して糧も絶る程に、家主見かねて、朝夕のたべ物つゞけ候しが、病気づきけるとて、打臥して外へも出ずなりぬるゆゑ、家主人をつかはし、粥などやうのものもたせ贈りけれども、不食の病とて、それを辞してうけず、戸をさして人の入来らぬやうにせし間、家主日々戸外より病を尋けるに、始はいらへもしけるが、後はいらへもなかりし故に、近隣のものなど召つれ、戸を破り内へ入て見れば、具足櫃によりかゝり、膝の上に大小を横たへて、すのこの上にこも一枚敷たるに坐して終りけり。傍に遺書一通あり。披て見れば、年来家主の恩を忘れぬよしをしるしおき、「寺へのつかはし物、并に家主へ宿代のいまだすますして残りしを、此金にて引取給り候へ」とて、遺書に金を添て残しおきけり。さて具足櫃の中には、巳の刻ばかりにかゞやきける鎧一領、皆具のまゝにて、黄金三枚いれ置けり。大小のしたても、ふるくこそあれ皆金ごしらへのまゝなり。さて衣服は著せし物のみにて、其外鍋釜等のものひとつもなし。百日にも食物をしたゝめたる気色とは見えざりき。此事私にて決しがたく、時の町奉行所へ申出ければ、「其者の遺書のごとく沙汰いたし候へ」との事にてありける。後日に忠秋もきかれて、「さては餓死しけるよな、不便の事なり」と申されしとなり。世に申伝る佐野源左衛門常世が事、なにゝ出ける事にかさだかならず。或人、「是は太平記北野通夜物がたりの段に見えし、摂津の国難波の浦の老尼の事を取直して、造り出したる物なり」といひし。さもあらんかし。それはそれにもせよ、此餓死しける浪士などこそ、今の世の常世ともいふべけれ。上に御大事あらば、一番に馳参るべき事疑なし。されど昔の常世は、ふたゝび世に出しが、此人はむなしく餓死して果けるこそ、其身もさぞ無念に思ふらめ。かやうの人、世にうづもれて、語り侍る人もなし。なげかしき事なり。

    二人の乞児
 近世是ほど風俗衰へて、利欲にさかしけれども、人の性もと善なる程に、族姓にもよらず、ならはしにもよらず、乞食体の者にも、はからざるに義理をしるの心あるぞかし。朱子小学の書に、「幸茲秉彝、極天罔墜(幸ひ茲の彝を秉る、天を極めて墜ること罔し)」といへるは、信にして誣ざる事とこそおもひ侍れ。此十年以前、享保癸卯の歳の十二月十七日、江戸室町の商人、越後屋吉兵衛といふ者の手代市十郎、諸方の買懸の金請取て帰りしが、金三拾両入たる袋ひとつ見えざる故、さだめて塗にておとしたるものにてあらん。もはやあるまじきとはおもひながら、もと来し路を段々に尋ねありく程に、ある所に乞食一人ありしが、見とがめて、「なにを尋候や。もし金をおとさるゝにては候はずや」といふをきゝて、市十郎うれしくて、有のまゝに語りければ、「さればとよ、我等拾ひ置て候。其主のたづね来ぬ事はあらじと、それを待てこそさき程より此所にをるにて候。いよ〳〵慥なる事承りとゞけて、たがひなくば渡し候べし」といふ。市十郎金の員数、又は中にある証文などのやう、一々いひきかせしに、「さては疑なし」とて取出し、袋のまゝにて渡しけり。市十郎余の事に、さてやみがたくて、内五両取出して、「是は責てそこの得分にせられよ」とてあたへけれども、中々受るけしきなし。市十郎いひけるは、「此かねはなき物にきはめ置しに、そこの志ゆゑにこそ、ふたたび手にも入たれ。然るをのこらず我物にすべきにあらず。達て受てくれ候へ」といへば、「よく考へて見給へ。其五両をもらふ意得ならば、三拾両を返し申べきや。もとより自分のよくにて拾ひ置たるにてなく候。定ておとしたる人、主人のかねなどならば、さぞ難儀に及ばるべし。他人に拾はせなば、其落せし人にはふたゝび返るまじ。さらば我等拾置て、其人に返さまく思て、拾置たるにてこそ候へ。そこもとへ渡し候へば、我等が志通りて候。さらばいとま申候はん」とて、其まゝそこをさりて、見かへりもせで行けるを、市十郎跡をしたひて、取あへず懐中より金一星取出し、「けふは寒気もつよく候。帰られ候はゞ、是にて酒をもとめてたべられ候へ」とてあたへければ、「是は御志にて候まゝ、申受候て、是にて御酒給申べき」とて、それをば受て立ちわかれける。名を尋ければ、名は八兵衛とて、車善七が手下の乞食のよし申候。市十郎宅に帰りて、主人吉兵衛にくはしく語りしかば、吉兵衛聞て感涙にたへず、「なにとぞ右の五両を八兵衛につかはしたし。明朝早く善七が宅迄持参し、善七にも申きかせ、八兵衛に合点いたさせ、とかく受候やうにはからひ候へ」とて、市十郎に手代頭をさしそへつかはしける。さて善七がもとへ行て尋ねければ、「其八兵衛と申候乞食は、昨夕いづくにてやらん、金一きれもらひ候とて、善七へも見せ候しが、なかまの乞食どもよびあつめ候て、その金をもて酒肴もとめ、人にも給させ、其身もたべ候しが、たべつけぬものを多くたべ候て、食傷いたし候か、今暁急死いたし候」といふを聞て、市十郎おどろき、死骸を見とゞけ、善七に、「此死骸もらひたく候。かまへて粗忽に外へ移すべからず」と堅くいひ合せ、さて家に帰り、其よしを吉兵衛にいひきかせければ、早々人をつかはし、死骸をうけ取、右の五両のかねをもて、本庄無縁寺にて厚く葬りしとなん。吉兵衛も義に感ずる事、商売には奇特といふべし。日ごろ加賀侯家の用をきゝて出入する故に、手代市十郎その月の廿日に加賀の邸へ来て、かの家の役人に始終語りしとて、翁にきかする人ありき。世に是に似たるやうの事ありと、折ふし人のはなしにきくといへど、是程たしかなる事はきかず。よりてきゝたる通りを少しものこさず、各にも語り侍る。おもふに八兵衛たゞ人にあらず。いかなれば乞食の党には入にけん、定めてもとはいやしからぬものにありしが、孤貧きはまりて、家もなく乞食してありく程に、外の乞食と一列になりて、是非なく善七が手下に属しけるにもあらむ。さればながらへて甲斐なき事とおもひしが、幸に金を得て酒肉をもとめ、火伴と歓会しける程に、是を限りとおもひて、自から喉などしめて死けるにもあらん、はかりがたし。この八兵衛を士とし、又は人の上におくとも、権柄をもて人の物を乞求るやうの事は、決してすまじき者なり。されば世には名は歴々の士大夫とよばれて、実は乞食なる人もあり。此八兵衛は、名は乞食なれども、実は士大夫といふべし。又加賀の国に野田山とてあり。前田家先祖以来代々こゝに葬る故に、家中の諸士も、死すれば其麓に葬らざるはすくなし。さる間、中元には家々より墓前に灯籠を具ふ、毎歳の事なり。厚禄の家こそ、仮屋を造り、人をつけ置て守りもすれ、其外は大かた夜ふくればともし捨て帰りぬるに、下部の悪党ども来て、火を打けし、蠟燭を奪取けり。側に乞食とおぼしき者、こもをかぶりて臥し居たりけるが、それを見て、「人の祖考のためとて墓にすゝめける物を、さやうに狼藉する事あるべからず」と制しけるに、悪党ども、もろともに罵つて、「こもをかぶる身として、いらぬ事をいふ奴かな」といひしに、その乞食きゝて、「各が今するやうなる事をせぬ故にこもをかぶる」といひしとぞ。斉の餓者の、嗟来の食を食せざる故に、こゝに至るといひしに語意相似て、おもしろく覚え侍る。此乞児辞令にもよかりなん。言簡にて意足といふべし。たゞいつもくり事のやうなる事なれども、古も今も、からもやまとも、節義の守りある人あれど、凍餒にさへ免れずして、溝壑に斃れて其名も世にしられぬこそかなしけれ。もとより幽隠の行を甄揚するは、吾徒の任なり。今物語せし結解の何がし、乞食八兵衛が類、世になほ多かるべし。翁がきかぬはいかゞせん、きゝてはいはざるに忍びず。昔我朝勅撰の和歌集を見るに、いやしき野僧妓女の類も、天子公卿に名を列するは、倭歌に尊卑の差別なし。是を倭歌の徳といへり。今翁が節義を語るとて、良家名族の士に、乞食など迄を並べ挙てひとつに称するも、其心亦しかなり。節義に貴賤のへだてなし。是節義の徳といふべし。各にもきかれ候て、翁が議論不倫なりと思ひ給ふべからず。


駿台雑話 巻四

    灯台もと暗し
 三伏の夏もはや半過行しころ、人々すゞみがてらに駿台の菴にとぶらひ来けり。折ふし積雨新に霽て、夕日梢にのこれるに、庭の竹樹露すゞしく、池の芙蓉風かをり、なにとなく見すぐしがたき折からなり。諸客はしゐしつゝ、勾欄によりて、詩歌を朗詠しけるが、はやものゝあやめも見えぬばかりに暮ゆけば、やがて内に入て、翁にいとま申さむといふを、「今しばし」とあれば、「さらば宵の間過る程こゝにありて、御物語承らん」とて、各坐につきけり。しばらくありて燭もて至りぬるに、翁ふとおもひよりしまゝ、燭台をさして、「世俗の諺に、灯台もと暗しといふは、いかやうの事にたとへていふにやあらん。おの〳〵いうて見給へ」とあれば、座客の中ひとりいひけるは、世に何事にてもあれ、外にはかくれなき事を、其もとにてきけば却て分明ならぬやうの事に、かく申ならし候。但我等が愚見にて、是に道理をつけて申候はゞ、孟子の「道在邇而求諸遠(道邇きに在りて諸を遠きに求む)」といふ意にもたとへばたとへつべし。人ごとに本を忘れて末をつとめ、近きをすてて遠きに求るは常の事にて候。是を射る者の的にのみ志して、あたりの手前にある事をしらぬにたとへたれば、灯台のもとくらきにたとへても同じこゝろならんかし。亦ひとり聞て、「されば其事にて候。羅大経が鶴林玉露に、悟道といふ尼の作とて、
尽日尋春不見春(尽日春を尋ねて春を見ず)  芒鞋蹈遍隴頭雲(芒鞋蹈遍す隴頭の雲)
帰来笑撚梅花嗅(帰り来たって梅花を撚って嗅げば)  春在枝頭已十分(春は枝頭に在って已に十分)
 是も道のちかきに在て遠きに求るたとへなり。ひめもす山野に春を尋くらして、春はとくにわが宿の梅にある事をしらずといへるも、灯台もとくらきの意にもよくかなひて、いとゞおもしろくこそ候へ」又ひとり、「道のさたばかりにも限らず、外の事にもあるべし。たとへば東晋の時、桓温三秦に打入しに当て、王猛来見しけるに、「三秦の豪傑、なにとていまだ一人も見え来らぬ」と問しにぞ、桓温が眼のくらきもしられけり。三秦の豪傑王猛に過たるものやあるべき。眼前に豪傑あるをしらずして、豪傑にむかうて豪傑を問しは、灯台もとくらきにて候はずや」又ひとり、「古より倭漢共に英主の遠略をつとむるが、其威望遠く敵国に及べども、まぢかく蕭牆のもとに敵ある事をしらざるも、灯台もと暗きにたとふべし。近代日本にていはゞ、織田信長、関東関西の諸国迄手をのばし、討したがへられしかども、手本にくらうして明智にころされし、灯台もとくらきにあらずや」といふを、翁きゝて、「すべて比喩の語は、義理のとりやうにて色々に申さるゝ物にて候。此諺も各たがひに其義をつくされしにて、もはや此外はあるまじく覚え侍る。但各の申さるゝは、いづれも灯台もと暗しを、あしきかたにたとへらるゝにて候。翁は又此諺をよろしき方に取なしてきゝ度こそ侍れ。又一種の道理もあるべきにや。韓退之が短檠の歌に、「長檠八尺空自長(長檠八尺空しく自づから長し)。」短檠二尺便且光(短檠二尺便ち且つ光る)」と作れるごとく、燭台も長きは燭のもとくらく、短きは燭のもとあかるし。夜中に書をよみ字を写すやうの事には、手もとを明らかにして其用をかなふる故に、短きを貴ぶにて候へども、さりとて一二尺の手燭にては、燭のもとこそあかるくあるべけれ、此座上にても、くま〴〵のくらきを照しぬる事は難かるべし。まいて稠人広座をいかゞして照し申べしや。しかればもとをあかるくしては、遠きをてらし難し。遠きをてらすは、必もとくらきものとしるべし。翁いつの比か、関尹子を見侍りしに、「吾道は処暗(暗きに処る)がごとし。よく明中の事を区画す」といへり。関尹子は関令尹喜が書なり。尹喜は老子の弟子にて、道徳経五千言も、此人の為にあらはせると也。今世に伝る関尹子の書は、大かた後人の作にて、尹喜に名を託したる物にてもあらむかし。されど老子の道は、たしかに処暗(暗きに処る)を宗とすることにて侍る。但老子の道にも限るべからず、吾儒にも簡要とする事也。たとへばわが身くらがりにゐて、くらがりよりあかりを見れば、あかりの事のこりなく見ゆるものなり。わが身あかりにゐて、あかりよりくらがりを見ては、くらがりの事一切見えぬものぞかし。さればくらがりにゐてあかりをみるやうに、己が智をふかくひそめ養て、くらきより明らかなるを生ずるやうにすれば、其明悠長寛大にて、自然に遠きにおよびなん。それこそ真の明といふべけれ。もし己が材智にほこり、聡明を尽して、たゞ手もとのあかるきを専にせば、あかりにゐてくらがりを見るがごとし。其明浅近短慮にて、遠きに及ばざるのみならず、たゞ手もとの事のみ見えて、下手の棊をうつがごとし。末の手は見えざる程に、毎々是非をあやまる事も多かるべし。こゝをもて聖人易において、「明入地中明夷、君子以莅衆用晦而明(明地中に入るは明夷なり、君子以て衆に莅むに晦を用ひて明なり)」との給へり。古の聖王、冕旒目を蔽ひ、黈(黈=黄+圭)絋耳を塞ぐも、聡明の刃はやきをきらうて、晦きをもちひて養はんとなり。古より倭漢ともに大智遠識の人の、己が材智に傲て、好で自から用るをきかず。老子の「良賈深蔵若虚、君子盛徳若愚(良賈深く蔵して虚しきが若し、君子は盛徳愚なるが若し)」といへるも、げにさる事ぞかし。ちかきころ故板倉周防守、京師に留守たりし時、訴訟をきかれしに、己が材智のはやきり、声色のうごきなば、我もそれに気乗じ、彼もそれに気奪はれ、両造の辞を審かにせず、双方の情を尽さゞる事あらんとて、必障子をへだてゝ、わざと手づから茶をひきなどし、たゞ心のちらぬやうにしてきかれしとなり。さすが近代の名人とはいひながら、おのづから聖人の心にもかなへり。それ故曲直理を尽し、聴断神に通じ、人々畏服せざるはなし。いはゆる用晦而明(晦を用ひて明)なるにあらずや。今に至て世の談者伝へ誦して、口実とする事枚挙するにいとまあらず。中にも翁が最感じおもふ事あり。周防守ある時、京の在家を通られしに、さる家に幼少の子出てあそびしが、「あれ周防こそ通らるれ」といひしを、周防守馬上にて聞とがめて、「我不肖といへど、上の御代官としてこゝにあれば、京中村閭に住する者、男女老弱をいはず、我をかくおしくだしていう事あるべからず。しかるに此家の児輩かくいふは、常に家人の我をうらみてかくいふを聞馴し故なるべし。是は定めて子細あるべし」とて、其家主の名をきかせて通られしが、翌日其家主を召よせて、「汝先年何にても訴訟したる事やある。今尋ぬるは少しもきづかひなる事にてはなし。ありしやうに申べし」といはれしかば、始はなにかと辞退しけるが、再三とはれて「此上はかくさず申上候。それのとしそれの月の事にて候。父の配分の事に就て、一類の者と争ひ候て訴へ候しが、其者無実の事を申かけ候へども、証人共を多くこしらへ候て申出候故、御聴断の上、相手の勝に定まり候。其次第かやう〳〵」とくはしく語るを、下役人に命じて、其年にあたりし簿案をくらせけるに、すこしもたがひなかりしかば、其上にていよ〳〵尋きはめて、「是はたしかに某が聴あやまりたるなり。いと残念なれども、もはや年久しき事なれば、今更すべきやうなし。其配分ほどを某償て、我過を謝すべし」とて、自分の金銀を出して其者へとらせられしとぞ。是にてしるべし、周防守己が威勢をつのらず、己が過失をかくさず、我は常に晦に処て明を衒はず、我は常に愚に処て智を先だてず、其心公にして私なし。誠に古今に有がたき明智といふべし。今是等をもて此諺を考るに、燭台はながくしてもとのくらきにて、其明おのづから遠きにおよぶ。君子の道は闇然として日にあきらかなるがごとし。もし短うしてもとあかるければ、其明わづかに近うしてやみぬ。小人の道は的然として日にほろぶるがごとし。此理をしめして、明かなるものは必もとをくらうすといふ心にて、灯台もとくらしといふにもあらむかし。但此諺の正意は、各のいへるごとく成べし。翁がいへるをば姑く一説にそなへ給へかし。さても根もなき事に、あまりくはしき僉議かな」とて、翁微笑しければ、諸客、「かやうの事にも、翁の心のつけられやうこそ別段の事にて候へ」とて、各感じあへり。

    運慶が口伝
 さて翁いひけるは、「月は盈れば虧、花は盛なればちる。家語に、子路持満を孔子に問ければ、「聡明睿智守之以愚(聡明睿智之を守るに愚を以てす)」とのたまへり。翁が前にいへる、明を晦に養ふも、聡明を十分に尽さじとなり。すべて物は十分につくすを嫌ふ也。なに事をするも七八分にして、前をのこして尽さぬをよしとす。もし心ゆくまゝに、一旦に残さず尽しぬれば、必後に悔みある物也。或人仏師運慶が口伝とて語しは、仏を作るには耳鼻をば先大きにすべし。もし耳鼻を十分能程に斲れば、後に小さく見ゆる時に、大きにしたくてもかなはず。口目をば先小さくすべし。もし口目を十分よき程にあくれば、後にもし大きに見ゆる時に、小さくしたくてもかなはず。されば耳鼻を大きにし、口目を小さくするを第一の口伝とするとぞ。是はもと韓非子に出て、宋の蘇頌がいひし事なり。此木偶人を作る意得は何事にもあるべし。しばらく思ひつけたる事にていふに、曲礼に、「君子不尽人之歓、不竭人之忠、以全交也(君子人の歓びを尽くさず、人の忠を竭さず、以て交はりを全くすなり)」といへり。是等にてもしるべし、人の我為に杯酒を催しなどして歓愛を篤うするを、人の歓といふ。人の歓を十分にきはむる故に、あまりしたしくなれば、反て無礼にもなり、あまり興あらむとすれば、反て無興にも成もの也。陳の公子完、斉の桓公のために親愛せられしが、桓公其家に就て飲れしに、昼迄にてはあきたらずとて、「火をもてつげ」といはれしを、「臣卜其昼、未卜其夜(臣其昼を卜す、未だ其夜を卜せず)」とて夜飲を辞せしは、人の歓をつくさじと也。人の我為に音問をかゝさずなどして、心のまめやかなるを人の忠といふ。人の忠を十分に頼む故に、すこしとゞかねば、必とがむるもの也。聖人易の恒卦において、初六の九四に求望の心ふかきをいましめて、「復恒貞凶(復く恒にす貞凶)」といへるは、人の忠をつくさじとなり。こゝをもて君子はかねて人の歓を尽さず、人の忠を竭さずして、人と始終交を全うするぞかし。もし国家の政にていふとも、其理同じかるべし。いやしき諺にいふごとく、国の仕置は、すり木にて升の底をまはすがごとくすべし。すみ〴〵すり木の行とゞかぬところあり。其行とゞかぬ所、かへりて人のくつろぎ、事のよけいともなる程に、久しうしておのづから行とゞく物なり。然るを法令を厳にして、急に行とゞくやうにとするときは、終に行とゞかざるのみならず、外にさはり出来て騒動にも及ぶぞかし。易に、「王用三駆失前禽(王用三駆す前禽を失ふ)」といへるも、天子の猟は不合囲(合はせ囲まず)とて、網の三面ばかり張て一面をあけ、禽のにげみちを残す也。其ごとく政事のおほやうにて、たゞ七八分程にして、二三分を残すにたとへていふなるべし。詩にいはく、「彼有不獲穉(彼こに獲らざる穉有り)。此有不斂穧(此に斂めざる穧有り)。彼有遺秉(彼こに遺れる秉有り)。此有滞穂(此に滞る穂有り)。伊寡婦之利(伊寡婦の利)」これ田畝の事ながら、周時上に寛政あり、下に遺利ある事をしるべし。又十分に尽さずして、前禽を失ふの心なり。翁嘗て歴史を考るに、漢は文帝に至り、宋は仁宗に至て最盛なりと称す。然に二君いづれも寛大にして、政事はかどる事なく、行たらぬやうなりしが、天下穏かにして、おのづから治り安かりき。文帝の後武帝に至りて、張湯桑弘羊等をもちひて、威怒を十分にきはめ、貨利は一毫も遺さず。是より生霊荼毒し、民心離叛て、漢家の危き事殆累卵のごとし。仁宗の後神宗に至て、王安石呂恵卿等を用て、新法を造り、功利に趨る。是より朝野騒擾し、民心愁苦し、宋朝の禍こゝに濫觴しけらし。二君みな英明の主にてありしが、いかゞしてこゝに至るといへば、たゞ材力に驕り、諸欲を尽さんとして、持満の道にくらく、三駆の法をしらざればなり。宋史に史臣仁宗を賛していはく、
四十二年之間(四十二年の間)。吏治若偸惰(吏治偸惰のごとし)。而任事蔑残刻之人(而れども事に任じ残刻の人を蔑なし)。刑法似縦弛(刑法縦弛に似て)。而決獄多平允之士(而れども決獄平允の士多く)。国未嘗無嬖倖(国未だ嘗て嬖倖無くんばあらず)。而不足以累治世之体(而れども以て治世の体を累はすに足らず)。朝未嘗無小人(朝未だ嘗て小人無くんばあらず)。而不足以勝善類之気(而れども以て善類の気に勝つに足らず)。君臣上下惻怛之心忠厚之政(君臣上下惻怛の心忠厚の政)。所以培植国基者厚矣(以て国基を培植する所の者厚し)。
 此賛よく仁宗の朝を推論してその理を尽せり。是をもて見るに、仁宗の時、君臣ともに聡明をつくさず、寛容をたつとぶとしれたり。誠に三駆失前禽(三駆前禽を失ふ)の遺風といふべし。

    法は江河のごとし
 されば古人も、「人君は貴明不貴察(明を貴んで察を貴まず)」といへり。明と察とは似て似ぬ事なり。明は燭台にて座を照すがごとし。其光たかく其本をぐらけれども、座中をあまねく照すべし。察は紙燭にて物を照すがごとし。手もとあかるくして物を見とむる事いちはやけれども、遠きを照すことあたはず。この故に人君の明は燭台のごとくなるべし、紙燭のごとくなるべからず。天下の法は、寛大にして江河のごとく成べし、瑣細にして溝渠のごとくなるべからず。江河は大きにしていちじるければよけやすし。しかも深広にしてあなどりがたき故に犯しがたし。溝渠は小さくしてしげければ、よけがたし。しかも浅狭にして近づきやすき故に犯しやすし。さるによりて昔より江河を蹈あやまりて、はまるものあるをきかず。溝渠にはやゝもすればはまるもの多し。こゝをもて後漢の郎顗が安帝に上つる書に、「王者の法は江河のごとし。易避(避け易く)して難犯(犯し難し)」といへり。古今不易の名言といふべし。されどしかあればとて、政は一向に寛大なるをよしとするといふにもあらず。是は科条を繁くして法令煩苛なるを悪むといふ事なり。もとより寛大なるをよしとすれども、時により事によりては厳急にするを貴ぶべし。大かた泰平の世は、民族遊惰に流れ、驕奢を好むぞかし。今是を治るに、もし無事を専にし、簡易をつとめては、旧弊除くべきやうなし。必政事を革め、法令を厳にして、民の耳目を新にすべし。然るに、民は可与楽成、不可与謀始(与に成を楽しむべく、与に始を謀るべからず)とて、民はおろかにして国家の利病をしらず、たゞ私の利害をのみ先とする故に、其事の始には、己が勝手にあしきを見て、衆謗競起て、異議もまち〳〵なる物ぞかし。古より明智の人は、それに少しも拘らずして、其功を成就しぬれば、畢竟天下の利となる故に、つひには上下安堵して、もろともによろこぶものなり。是かの晦きをもちひ、遠きを照すの明ならずしては成がたし。小智短慮の人の及べき所にあらず。むかし鄭の子産、鄭国の政をせしに、旧俗の弊を改て、いときびしく車服の驕を禁じ、田廬の制を定めしかば、富人おそれて、美服をば襡に入てかくしけり。豪民の兼并する田をばこと〴〵く取上て部伍に帰せしむ。さる程に与人これが為に誦していはく、「取我衣冠而褚之。取我田疇而伍之。孰殺子産。吾其与之(我衣冠を取って之を褚す。我田疇を取って之に伍す。孰か子産を殺さん。吾其之に与からん)」とまで怨望せしかども、三年に及て、驕奢の風やみ、侵暴の害除きしかば、亦誦していはく、「我有子弟。子産誨之。我有田疇。子産殖之。子産而死。誰其嗣之(我に子弟有り。子産之を誨ふ。我に田疇有り。子産之を殖す。子産死す。誰其之を嗣がん)」とて、たがひによろこびけるとぞ。子産は恵人なりと孔子もの給ひて、其政民を愛養する事ふかゝりしかども、ひとへに寛を貴ぶにあらず、猛なるべき時はかくありしぞかし。其後政を子大叔に授けし時、子大叔が寛に過む事を兼てさとりて、「火は烈くして民望で畏るゝが故に、火に入て死するものはすくなし。水は懦弱にして民狎て翫ぶ故に、多く溺れて死す」といへり。此水火のたとへも、前にいひし江河溝渠の意と同じかるべし。然れば、古の明王賢相は、寛を本とすといへど、時によりて猛をも用ひけらし。この故に、「寛則民慢。慢則糾之以猛。猛則民残。残則施之以寛。寛以済猛。猛以済寛。政是以和(寛なれば則ち民慢なり。慢なれば則ち之を糾すに猛を以てす。猛なれば則ち民残はる。残はるれば則ち之を施すに寛を以てす。寛以て猛を済ひ。猛以て寛を済ふ。政是を以て和す)」と孔子もの給へり。一偏には意得べからず。

    鴟鵂のふみ
 たゞし国家の事は、大小によらず、国弊民瘼改めずんばあるべからず。其外は、おほやう旧貫によりて改めざるをよしとす。木の匠のつくれる器も、旧制を改て新しく仕出したるは、一旦勝手に能やうなれども、其すがた下りていやしきのみならず、其用手せばくして広からず、小まはしにてやすからず。さるまゝにいろ〳〵たくみ出して、わづらはしくなりゆく程に、やがてもちひずなりぬるぞかし。こゝにをかしき物がたり侍る。ある人鴟鵂を畜て、それを囮にして鳥を捕けるに、同じく殺生する友達のもとより、みゝづくをかりに越けるが、其ふみに、みゝづくを略し「づく」とかきて、其末に「づくとはみゝづくの事にて候。みゝづくとかき候へば、文字かず多くこと長に成候故に、づくとかき候」となが〳〵とことわりけり。それならば始よりみゝづくとかけかしと片腹いたし。文字をつゞめんとて、多くの文字をそへ、詞を短くせんとて、かへりてながくなり事をしらず。翁世間の事をみるに此たぐひ多し。たとへばものをいふにも、常にいひつけたるやうにいへばよきを、我しりがほにからことばなどにて舌短にいひつれば、人きゝとらぬ程に、亦いひなほしなんどしていとむづかし。事をなすにも、今までなし来るやうにすればよきを、我かしこげに理屈をもて手廻しにしつれば、ことつかふる程に、又でなほしなんどして、跡へもどる事おほし。かやうの事は物馴ぬ人のある事なり。いづれもみゝづくのふみにたぐふべし。其外なに事によらず、たゞありふりたるやうにすれば、やすらかにして事ゆきぬるを、よろしき仕かたこそあれとて、あたらしく仕出しぬれば、ことおほくむづかしくなりつゝ、かねてのよういとはちがふ物なり。中にも国家の政には、もつとも此意得あるべき事也。古より新進の人、己が材智をあらはさんとて、好て新意を出し、旧政を改る事、いづれの代にもなきにあらず。其内十に二三は益ある事もあれど、大かたは近郊をのみ見て遠慮を忘れ、事の易きをのみ見て難きをしらず。さる程に思の外にさはる事おほく出来て、貨財を費し人力を耗しながら、何の甲斐なき事になるぞかし。しかのみならず毛を吹て疵を求め、風なうして波を生じ、忠厚の風日に敗れ、奔競の習日に長ずる程に、たとひ小利を得る共、ながく国家の害を貽す事軽きにあらず。いはんや祖宗の良法成策、先代より用ひ来て、天下の耳熟し事久し。かやうの類は軽々しくいろふ事あるべからず。宋の熙寧中に、しば〳〵法を変じければ、唐庚存旧の論をあらはしけるが、「国家の旧物は常に民の耳目に習はすべし。不得已(已むことを得ず)に非ざるよりは、改易変置して民心を失ふべからず」と論じけるこそ、尤其理ある事に覚え侍れ。但それも一概にはいひがたし。たとへば祖宗の代に、時宜にしたがひ仮に建置て、ながく用ふべからざる事あり、いまだ首尾備はらざる事あり。さやうの類は、後嗣の代に至て、或は改革し、或は斟酌してこそ、祖宗の志をなすともいふべけれ。もし祖宗の法とてそれに泥て世のわづらひ、治のさまたげとも成事を、其まゝさし置なば、何をもて旧弊を改むべき。何をもて善政を行ふべき。又なにをもて孝子慈孫ある事を望むべき。定めて祖宗の心にもかなふべからず」とて、翁古を援今を証して語りけるに、夏のみじか夜はやあけがたにちかければ、諸客皆いとま申てまかりぬ。

    つれ〴〵草
 ある時諸客来り会してけるに、翁が傍に兼好が徒然草あるを見て、一人の客いひけるは、「兼好は倭語に長じたる者にて、風景人情をよくいひとり、人に頤を解しめ候。翁も好みて見給へるや」翁、「いやとよ、病中臥しがちにて日をくらしかね候故、かやうの書を児輩によませて承るにて候。これをとさして好むといふにも侍らず」といへば、外の一人、「兼好はやゝ見識ある人のやうに世にも申習はし候。翁はいかゞ思給にや」翁、「世に一種の侘人ありて兼好をしたひ侍る。それは彼が名利をいとひ、閑寂を楽しむに同心するゆゑにて候。翁はそれもたしかには思ひ侍らず。太平記に、高師直が為に艶書をかきし事見えたり。其後、伊賀守橘成忠が招に仍て、伊賀の国に赴きしが、そこにて成忠が娘に通ぜし事、園太暦に載て、其時の歌なども見えたり。是にてしるべし、世に諂らひ色にふけり、隠逸をこのみ名利をいとふといへど、もとより隠者の操ある人にあらず。されば、徒然草も仏法に朶頤し、諄々として出離をとくかと見れば、女色に垂涎して淫奔を語る。なのに見識かあるべき。されど徒然草に限らず、此程我国の物がたり草子をよませて承るに、事実を記し候書、三鏡、栄花物語などの外は、いづれも取にたらぬものにて候。大かたはあまき仏ばなしにてあきはて侍れど、それは世の流弊なればいかゞせん。其外ともすれば好色のさてにて、聞に忍びざる事おほく、中にも伊勢、源氏物がたりなどは、年弱なる男女には、禁じて見すまじき物なり。淫乱を導く媒とも成ぬべし。しかるに薦紳家に、源氏物語を我国の宝といへるは、いかなる故ともしらず。定て倭語の妙を得たるに心酔しての事にやあらむ。いはゆる庶子の春花を採て、家丞の秋実を忘るゝ也。それに近世此物語を註釈し講説して、毛詩に淫奔の詩を挙て歎懲をしめすごとく、人の戒世の教とするといへるは、俗話にいふ杓子定木なるべし。いかにとなれば、二南は脩身斉家(身を脩め家を斉ふる)の本なり。雅頌は論道述徳(道を論じ徳を述ぶる)の辞也。国風はもとより里巷の男女各言情(情を言ふ)の詩なれば、正もあり邪もあれども、其邪といふも、媒妎によらずして淫奔するといふばかりにて、いづれか后妃を盗み継母寡嫂に淫するやうの事やある。又伊勢、源氏のごとく、邪淫の事のみを始終いひ尽してやむにはあらず。よりて正を見てはみづから勧み、邪を見てはみづからこらすぞかし。伊勢源氏は、いはゞ長恨歌、西廂記などの品にて、其冗長にして醜悪なる物ぞかし。然るに聖人垂教(教へを垂るゝ)の書に比していふは、誠に氷炭薫猷をひとしうするなるべし。昔より我国釈教世に行はれて、仏につかふるより重しとするはなく、荒淫俗をなして色に耽るより楽しとするはなし、それ故に当時あらはしぬる物語も、この二端をしるすを高致とするならし。さて自余の記しおく事も、多くは奇怪妄誕の談ならねば、俳諧鄙陋の説なり。ひとつとして義理にわたる事なし。責て此徒然草ほどの物も見当らず候。世に賞翫するも理にて侍る。其載る所、仏法のさた好色の事を除て、風景をのべ人情をかたり、又は世にあらゆる種々の事をしるしおきけるも、尤おろかに聞ゆる事もあれども、大かたは理趣ある事になん覚え侍る。中にも雑念をいましめて、「我心に主あらましかば、そこばくの事は入来らじ」といひ、懈怠をいましめて、「道を学する人、夕には朝ある事を思はず、朝には夕ある事を思はず、たゞ今の一念の上においてたゞちにすゝむべし」といひ、貝をおほふたとへを引きて、「万の事外にむきて求むべからず、たゞこゝもとを正しくして、前程をとふ事なかれ」といひ、松下禅尼のあかりしやうじをはられし事を引て、世を治る道倹約をもとゝする事をいひ、高名の木のぼりがいひし事を引て、あやまちは危き程はなくして、安き所になりてある事をいふ。外にもかやうのたぐひ多かり。いづれも簡要の旨にて、聖賢の教にもかなひぬべし。さすが人物怜悧なる故に、其いふ所時とし道理にあたる事もあるにこそ。鉄中錚々傭中佼々といへる類なり。管中より豹を窺て一斑を見るともいふべし。たゞし是ほど頴悟なる人もおほく得がたし。もし聖賢の道を学しめば、中々釈門に陥るには至らじ。をしき事なり。それに釈門に入にし甲斐さへなくて、女色に溺れ一生を誤り、今に至て汚名を残しつるこそ、なげきても余ある事なれ。是につけても人欲の険しきをしるべし。

    青砥が続松
 しかはいへど、「君子は人をもて言をすてず」と聖人もの給へり、翁も徒然草にて一の益を得たる事こそ侍れ。それはかの巻中の一条に、「いひやせましいはずやあらましとおもふ事は、おほやうはいはぬがよきなり」とあり。又一言芳談とやらんいふ物語を引て、「しやせましせずやあらましと思ふ事は、おほやうはせぬがよきなり」ともあり。翁いつも言語飲食について此語を思ひ出し侍る。いうてあしきとしれたる事は、誰もいはぬものなり。いうてもよしいはでもよしとおもふ事をいうて、やゝもすれば跡にくやむぞかし。喰てあたるとしれたる物は、誰もくはぬ物なり。喰てもよしくはでもよしとおもふ物を喰て、やゝもすれば跡にくやむぞかし。兼好も身に覚えありてこそかくはいひつらめ。よのつねの人の省になる語なり。但兼好は老荘の無為を尚ぶ人なれば、なに事も必しもいはんとせず、必しもなさんとせぬ心にてかくいふなるべし。今翁が此語をもちふるはさにてはなし。孟子に、「可以取。可以無取。取傷廉(以て取るべし。以て取ること無かるべし。取れば廉を傷る)」といへる、其意此語と相似たり。可以取(以て取るべし)は、はじめかくと見て、可以無取(以て取ること無かるべし)は、かさねて料簡をくはふる意なり。されば兼好が此語も、かくいへばとて、一概にたゞいはぬがよし。せぬがよしとは意得べからず。其いはずやあらまし、せずやあらましと思ふ所に意をつくべし。道理にて思ふと、勝手にておもふとのちがひあるべし。道理においていふべき事なるを思ひよらずして、勝手にいはぬがよしと思うていはでやみ、道理においてすべき事なるを思ひよらずして、勝手にせぬがよしとおもふてせずしてやみなば、ひかへがちにて後の悔みこそなかるべけれども、それにはいつか善にすゝみ、義にいさむべき。されば、「まそほのすゝきますほのすゝき」といふ事は、なに事かはしらねども、雨中に蓑笠著て尋にゆきしをば、兼好もよしとおもへばこそ、是をもしるしおきけめ。さいつころ太平記を児輩のよむを聞侍るに、北野通夜物がたりに、むかし青砥左衛門夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋に入て持たる銭を、十文誤て滑川へ落したりけるを、よしさてもあれかしとてこそ行過べかりしを、其辺の人家へ人を走らかし、銭五十文を出して続松を十把買て、是を燃しつゝ、川を浚て終に十文の銭を求め得たりける。さていひける、「十文の銭は、たゞ今求めずば、水底に沈てながく失ぬべし。五十文の銭は、商人の手に渉りてながくうせず。彼と我となにの差別かあるべき。彼此六十文の銭を失はず。豈天下の利にあらずや」といひしとぞ。五十文の銭を費して十文の銭を求るは、常人の思案にていはゞ、勝手にはきはめてせぬをよしとする事なれども、道理においてすべき所を考てかくするにこそ。いはゞ軽き事のやうなれども、抜群の見識なくてはなるまじき事ぞかし。「商人と我となにの差別かあるべき」といへるは、「楚王失弓、楚人得之(楚王弓を失ふ、楚人之を得む)」といふにかなひて、「天下の利にあらずや」といへるは、楚人得之(楚人之を得む)といふよりも其識量一かさ大きなる事也。青砥左衛門たゞうどにはあらず、其言行世に伝らざるこそ遺恨なる事なれ。

    渡部番
 ある時諸客来会せしに、翁いひけるは、「ちかき比、我国の書をよませて承るに、古より茂材懿行の人もあるべけれど、ふるき物語などは、少も道理のさたに及ぶ事なく、記録の類も、国史をはじめ、時政事実の略をしるす迄にて、当時の人物、又は人の言行をば、しるすべき事ともおもひよらねば、しるし置べきやうもなし。よりて忠臣義士の事も、世に湮没して伝らず。是も我国の一欠事といふべし。其後武家の世に成て、勇将烈士、君のため国のため死を潔うする事、歴挙するにいとまあらず、責て是はすこし風教の助けともなりなんかし。もし上にたち下を治る人にていはゞ、平家治世のはじめ、小松の重盛をこそ世に賢人とは称すれ。父清盛暴逆にして君に背しを、重盛その間にゐて、忠孝ふたつながら闕ず、誠に後世臣子たる者の法とすべし。されど灯籠の大臣といはれ、異国へ金を渡せし事を見に、材職暗弱、恐らくはいふにたらず。其子維盛、浮島が原にて水鳥の羽音におどろきて都へにげ帰り、天下の人口に係りしも、家法厳ならずして、子弟驕泰にそだつが故なり。灯籠の念仏祟りをなすなるべし。其余平家の君臣、やゝ勇壮なるもあれども、それも優柔不断にして材力弱ければ、将率は運籌決勝の略なく、士卒は先登陥陣の勇なし。されば上総介忠清が士大将としていかめしく振舞しも、維盛と同じくにげ帰りしをば、其時の人、「ころもたゞきよ」と嘲弄せしぞかし。又筑後守貞能は清盛第一の寵臣にて、平家全盛の時は、意気揚々たりしが、寿永年中、平家安徳帝を奉じて西海に赴し折しも、貞能出征して凱旋せしが、塗中にて車駕に出合しに、ひとり引ちがへて都へ帰しかども、身の置所なきまゝに平家の跡を追て西国へ行しが、平家の勢日に蹙りて、日に危亡に瀕きを見て、又逃去て釈門に入つゝ、肥後入道と称しける。其後無程(程無く)源氏の世となりしかば鎌倉に至り、宇都宮朝綱と旧識のよしみあるによりて、朝綱に因て乞降(降を乞ひ)し故に、一命を助けられ、抖擻行脚して、あなたこなたと餬ひつゝ、一生を終るときこえし。恥をしらざるの甚しきものなり。是につきて渡部右馬允番が事を感じ侍る。義経西国へ落し時、渡部にて番がもとへとりて、事のよしをいひければ、番あはれみて見送りけり、後に其事聞えて、関東にめされて、梶原にあづけられ、十二年を経たりし程に、鎮西の追討使に天野藤内遠景むかひけり。大将家のきりものにて、十世の宥を得る程の事なりけり。(加賀の国に天野何がしといひし一人の浪士ありしが、遠景が子孫なり。それが家に、頼朝より遠景に下し給し御教書一通あり。「天野藤内遠景は奉公他に異なるの間、頼朝十代、遠景十代、所領相違あるべからず」とかけるよし、それをみたる人の語りし。いとめづらしき事におぼゆるまゝ、今十世の宥とはいふなり)其時鎮西の任はてゝ帰りしが、上洛の時渡部を通りて、番が妹をめとりけり。相具して関東に下向しけるが、遠景「此上は彼御気色においては、いかにもし申ゆるすべし。若御承引なくば、遠景申あづかるべし」といひければ、番が親類郎等、「さりとも今は右馬殿の召籠はゆるされなん」と悦あへり。さて遠景関東に下り著て、いつしか使を番がもとへつかはしていひけるは、「思ひがけずかくゆかりに成まゐらせて候へば、ひとへに親ともたのみ奉るべし。内外に付て疎略を存すべからず」といひやりたりけり。番多年の召人にて、今日きらるべしあすきらるべしといひて、十余年に及びけれども、かたうど一人もなければ、申なだむる者なし。たま〳〵かゝるたより出来けるは、いかばかりかうれしかるべきに、番がいひけるは、「弓箭とる身のかゝるめにあふ事、恥にてあらず。さこそたよりなき身なれども、あながちにそのぬしこひねがふべきむこにあらず」とて、返事にいひけるは、「したしくならせ給ふのよし、存知がたく候。番は独身の者にて候へば、御ゆかりに成まゐらすべき事覚え候はず」とあららかにいひやりければ、遠景大きにいきどほり、やすからぬ事に思ひて、ともすれば大将にあしざまに申ければ、いよ〳〵罪おもくなりまさりにけり。され共番は少もいたまず、物ともせざりけり。かゝる程に大将奥刕泰衡を伐し時、番をめしていはれけるは、「汝をとくに身のいとまとらすべかりしに、思ふ子細ありてけふまではいけおきたるなり。身の安否は此たびの合戦によるべし」とて、鎧馬鞍など給りければ、番かしこまり悦てむかひけるが、身命を惜まずゆゝしかりければ、其科をゆるされて本領返し給り、二たび旧里に帰しとなん。番いかなる人とはしらねど、始終死を守て志をかへざりしにて、其操の廉潔なる事思ひやるべし。当時嬖幸の臣にゆかりを求めて命をたすかるをさへ屑とせず。いはんや貞能がごとく、仇を忘れ勢に附て、苟免るを幸とせんや。孔子も行己有恥(己を行ふに恥有る)をもて士との給へり。番がごとき誠の士といふべし。

    大仏の銭
 されども忠清、貞能がごときは、もとより容悦の具臣なれば、ふかくは論ずるにたらず。翁が日ごろうたてしくおもふは重衡の事にて侍る。其身不幸にして生捕れしは、さして恥辱にあらず。然るに鎌倉に囚れし時は、宴遊の席に臨て艶女に款語し、奈良へ渡されし時は、警衛の士にねがうて愛妾に邂逅す。すべて丈夫のすべき事にあらず、いとみぐるしき事なり。しかるにそれをばいさゝか恥ずして、父命によりて奈良の大仏を燬し事を、自からも大きなる罪悪とくやみおそれて、鎌倉にて頼朝の前にても陳謝し、京師にて法然に邂逅しても、此事をいひ出してふかくくやみしは、罪障懺悔の為とこそ思はれけめ。その愚暗是非もなき事なり。近世松永弾正がふたゝび奈良の大仏をやきしを、信長の猛悪にてさへ、是をば大罪と思はるればこそ、松永が主君三好義永を弑し、光源院殿をころし奉りし大逆罪にならべて、三の人のならぬ事をしたるとて、弾正をはぢしめられしぞかし、嗚呼仏法の人心を蠧惑する事、何ぞこゝに至るや。然るに寛文の比かとよ、松平故伊豆守信綱執政の時、千年以来金仙を尊て、かく成たる風俗の後に出て、京の大仏を鋳て銭とし、天下を利益せられしこそ、先にも後にもきかざる事なれ。其卓識誠に古今に傑出すともいふべし。御当家創業以後、文明日に開きし故に、かくのごとき人も出るぞかし。重衡などをしてきかしめば、ほとんど驚死にも至りつべし。されば伊豆守善政多き中に、始て上聞して天下の殉死を禁じ、諸国の人質をやめ、大仏を銭に鋳られし、此三をば世にも大器量の事にいひ伝しなり。殉死を禁ぜられしは、ながく後世の害を除き、人質をやめられしは、あまねく諸国の患をすくひ、大仏を銭に鋳られしは、大きに古今の惑をとく。天下後世において大功徳ありといふべし。但此時伊豆守に限らず、諸執政いづれも至公至明にして、諸侯諸役人に対して私のもとめなく、私の怒なく、只正道をもて下知せられし程に、其威令下に行はれしかば、諸侯諸役人も各おそれ慎みて、身持も正しかりしぞかし。しかも己が材智をもて人をふさがず、己が権柄をもおて下をあなどらねば、諸役人も執政の威勢にはゞからず、上の御為、又は官守の事に付ては、必面争て、言を尽さゞるなし。昔魯公伯禽、魯に入封の時、周公いましめて、「平易近民、民心帰之(平易民に近づくれば、民心之に帰す)」との給へり。かの諸執政、この周公の語に本づかるゝにてもなけれども、其心公にして治道に明なれば、おのづから聖人の心にもかなへり。されば其余沢今に至て、太平の化日に盛なる事、上の御盛徳とは申ながら、かの諸執政の力なきにもあらず。中に就て伊豆守の平易にて無造作なりしは、世にたぐひなき事にてありけり。其頃井上新左衛門といふ人は、執政府の従事たりしが、疎直に文飾なきをもて伊豆守のために愛せらる。新左衛門常に詼諧を好みて、其為人(人と為り)東方朔に似たり。ある時いづかたよりか鱈を献上しけるを、御前に披露するとて、伊豆守見届られしに、鱈に塵つきてありしかば、伊豆守気色損じて、取次ぐ人をしかられしを、新左衛門傍にありしが、「いや鱈には塵ある筈にて候」といふを伊豆守「いかに」ととへば、「三番三にちりやたらりと申候はずや」といふ時に、伊豆守聞て笑ひつゝ、気色なほりて、「とかく物に念のいらぬ故にて候。なに事も念をいるゝにしくはなし」といはれしを、新左衛門、「各様には御念のいり候がよく候。我等ごとき軽き者は、あまり念をいれ候へば、却てあしき事もある物にて候」といふを、伊豆守「なにか念をいれてあしきやうあるべき」といはれければ、「其事に候。昔唐の玄宗、方士に命じて楊貴妃のありかを尋られしが、方士蓬莱宮に到て貴妃にあひし程に、帰て此よしを奏聞せんとて、其しるしを乞しかば、玉の簪をたまはりけり。然るをあまり念過て、是は世にたぐひあるべき物なりとて、かさねて玄宗、貴妃との密語を聞て還報じければ、一旦首尾はよかりしが、玄宗、方士を疑ひそめられしより思はるゝは、此密語は貴妃とわれふたりより外、他人しるべき事にあらず。然るを方士しりてかくいふは、兼て貴妃と通じたるにやと、つひに方士を誅し給ひしとなり。前の玉の簪ばかりにて能候を、あまり念をいれたる故にかくのごとし」といひければ、又新左が例のそぞろごとをいふとて、一座興に入てやみける。其後天草の事出来て、伊豆守奉命(命を奉じ)てゆかれしが、不日に賊みな伏誅(誅に伏くし)て江戸へ帰著せられしに、旅装のまゝ直に登城ありしかば、折ふし在城の面々、残らず迎労しけり。新左衛門も衆中にありけるを、伊豆守はやく見つけて、「そこに語る事こそあれ。今御前より罷りて」とて、御前へ出られ、さてやゝしばらくありて、御前より退かれ、衆中にていはれしは、「此たび天草にて、諸侯一度に賊塁へ向ふべしと約束定りて、さておしよする時は、某が本陣にて、鐘を撞べし。それを相図に諸手の衆あつまるべしといひ合せて、僉議の間日を経けるが、某おもふには、今夜にても賊方の者か、又は馬鹿ものありて、忍び入て、鐘を撞て我衆を誤る事もあらむかと、撞木を取よせて我側に置けるが、又おもふには、必撞木にも限るべからず。鉄炮やうのものにても撞まじきにもあらずと、鐘を地へおろさせ、こもにて巻て置せたり。然る所に賊徒挑戦つて、思ひよらず俄に手合せありければ、さらば鐘を撞べしといふに、上へ釣あげこもをとく程に、つひにまにあはずして、たゞかゝりに懸りて攻潰しけり。其時かのいつぞや申されし、方士蓬莱宮の物語は、かやうの事にこそと、そこの事を思ひ出せし」とありしとなり。これ戯れに近き物語なれども、伊豆守理にさとく、人の言をすてず、それにたゞ今馬よりおり、御前へ出て天草の首尾を申上らるゝ折ふし、常人ならば中々おもひもつけじ。たとひ思ひつくとも、此節はさてやむべき事なるを、只常の気色にて、稠人広座の中ともいはず、我あやまちたりし事をも有のまゝに語られしにぞ、伊豆守の心公にして、器量の大きなるもしられける。世に古今の良相とするも、げに理りと覚ゆるぞかし。是をもて見るに、世の権威にほこり。辺幅を脩る人は、誠に馬援がいはゆる井底の蛙也。嗚呼いやしいかな。

    泰時の無欲
 他日継ての会に、諸客「前日平家の人物をば御評論承りて候。鎌倉以来の人物は多き事に候へば、あまねく承るに及ばず。其中に翁の取給へる人は誰々にて候や承度候」といへば、翁「鎌倉治世の後に至て、北条泰時こそ、漢の丙魏、唐の姚宋にもはづかしからぬ人にて候へ。わが国にはあまり比類なかるべし。此人栂尾の明慧にあうて、「某不肖の身をもて重任に当り、群下に臨み侍る。いかゞして衆を治め、争をやめ侍るべし」ととはれしに、明慧「たゞ無欲に成給へ」といはれしを、泰時かさねて、「某ひとり無欲に成候共、群下なにとて無欲に成候べき」といはれけるに、明慧、「下に目をつけずして、御身先無欲に成て見給へ」といはれしを、泰時ふかく信じて、父義時死去の時、所領財宝大かた諸弟に配分して、其身はわづかにたるばかりとられけるを、二位の尼泰時に、「自分のとられやうあまりすくなき事」といはれしに、「某は家督をうけ候へば、なにの乏しき事もなく候。只弟どものゆたかなるやうにとこそおもひ候へ」といはれしかば、二位の尼も感涙に及ばれしが、其後年を逐て親族肅穆し、鎌倉の武臣も感服しけり。明慧浮屠なれども、孔子の季康子にの給ひし、「苟子之不欲、雖賞之不窃(苟も子が欲せずんば、之を賞す雖へども窃まじ)」といふにかなへり。泰時の明慧の一言を信用して、鎌倉よく治まりしにて、聖人の言誣べからざる事をしるべし。明慧もたゞうどにはあらざりけらし。さて泰時家督以後、日ごとにつとめて公庁へ出て、ひねもす蹇々として庶務を治められしに、群長を待事恭謹にして、争を分ち訟を聴るゝ事明恕なりしこと、東鑑を見てしるべし。昔ある老儒の語るをきゝし。泰時ある時訟をきかれしに、双方対決しけるが、半に成て一方の相手忽に理に服して、「只今迄己が申所をよしと思て候へばこそ争訟に及び候へども、今日始て手前の非を覚悟いたして候。此上はもはや一言申にも及ばず」とてやみぬ。泰時感じて、「此争は汝がまけなり。理非によりて決断すべし。但某今迄多くの訟をきゝしかども、即座に汝がごとく理に服するものを見ず。是を賞せずしてなにをか賞すべき」とて、別に恩賞を行れしが、後は争訟もやうやく稀に成て、訟庭も閑になりしとぞ。此事何やらん古き物語にて見しといひしが忘にき。其後考へもし侍らず。此一事にても、泰時の公明にして、無情(情無き)者は其辞を尽す事を得ず。又恩威ふたつながら正しき事もしられたり。其孫謀のよき、後嗣に及て、時頼、時宗いづれも遺訓を守り、成法に依てよく政を勤られしかば、四方の人心鎌倉に帰嚮せざるはなし。北条氏皇朝の陪臣をもて天下の権を執て、数代の安きを得たるは、泰時の功といふべし。世に時頼を泰時より賢明なるやうに称しぬるは、意得がたく思ひ侍る。たゞ早く高位を脱屣して浮屠に帰し、微行をこのみ下情を察せられしを、奇特の事とこそいふらめ。それは道理をしらぬ人のいふ事なり。其身宗廟社稷の重きを承て、自から仏寺に逃れ、微行を楽とする事やあるべき。君徳を穢し、治体を失へり。人主の法とすべからず。是にて見れば、其治規模近小にして、遠大に昧かりけらし。中々に泰時に及ぶべき人にあらず。其外鎌倉の人物を考るに、上下ともにすべて取にたる人なかるべし。但建国のはじめ、あまたの人材幕下に群集すといへど、血気勇悍の人迄にて、いづれも粗暴無識、皆■(=糸偏+峰の旁)灌が下にて候。其中に畠山重忠は、勇力世にすぐれ、古今の壮士といふばかりにてもなく、志操潔白にして、きはめて正直の人也。世に和田と並称するはその倫に非ず。梶原が讒にあひし時、「誓文をもて陳謝せよ」といひしを、「重忠一生偽をいはねば、今更誓文に及べきやうなし」とてうけざりしかども、頼朝も疑をのこさず、梶原も怒を加へず。是にてもとより忠信の上下に感孚する事をしるべし。其上己が善に伐らず、人の功を蔽はず、おのづから寛厚長者の気象なんありけり。当時諸将の中に求るに、少しき似たる人もなし。不幸にして三浦と同じく、前後北条が為にころさるゝこそ、いと口惜き事なれ。其最後も、さすがに他よりは一きはいさぎよく見えしぞかし。こゝに至て、時政、泰時が悪、天道にさかひ、人望に背く、其罪誅しても余りあり。もし泰時なかりせば、北条家の滅びむ事、高時が時を待侍らじ。ひとり田楽入道をのみ罪すべからず。

    楠正成
 建武中興の人物にては、縉紳家に藤藤房、韜鈐家に楠正成、もとより輿論の帰する所にて候。もし其人品をいはゞ、藤房は公卿輔弼の臣たり。正成は将帥禦侮の臣たり。其材の大小をいはゞ、正成の材、藤房の及ぶ所にあらず。藤房龍馬の諌は、直言極諌朝廷を聳動す。まことに朝陽の鳳鳴といふべし。然れども正成恢復の功とは並論じがたし。其上藤房は一諌の後国をさり世をのがれしが、正成は其身国難に死するのみにあらず、忠義代々家に伝へ、天下にあらはる。当時誰か正成に比する人あるべき。たゞし正成も外の言行世に伝はらざれば、その為人(人と為り)くはしき事はしれ侍らず。世に楠家の遺書とて、きれ〴〵流布する物あれど、おほくは後人の偽作と見え侍る。しかれども、其しるき事は、喪乱の始、一城をもて天下を引受て、始終少しも挫屈せざるにて、其材量のたくましきを思ひはかるべし。殊に仰慕すべきは、天下一盛一衰の間、名将勇士といへども、時勢に附て反側を常とし、朝夕をたもたざる中に、独楠家のみ子孫累葉かたく遺訓をまもり、一門闔族心を一にし、力を戮せ、各身をもて国に報い、三代の間一人も弐心ある事をきかず。古今比類なかるべし。正成徳沢深厚にして、ながく人心を結ぶ事なからんには、いかでかかくの如くなるべき。然るに世の尚論する人、推尊で諸葛孔明に比するは、両人いづれも兵略をつとめ、興復を謀り、父子国事に死するも同じければなり。それはさる事なれども、孔明は臥龍なり。道徳を懐抱し、功名を遺外し、草廬にて一生を終んとせしに、はからざるに蜀の先主の三顧に遇て、不得已(已むことを得ず)して出仕へしが、一朝関趙が上に立て、君臣魚水のごとく成し。さればその出処、伊尹、呂望に近しとなん古人の論もあるぞかし。正成はもと功名科中の人なり。後醍醐帝笠置に臨幸の時、近国の名士を徴れし間、正成も召に応じて参じけし。是その出処孔明とは大きに異なる上、恢復の後も尊氏義貞の下に列して、専に任用せらるゝ事をきかず。孔明をもて擬せば、恐らくは其倫にあらじ。其兵を用るも、孔明は正大にして奇計をもちひず、節制の兵といふべし。翁かねて論ずらく、正成が敵を料り兵を用るは韓信に似たり。韓信楚に寄食する時より、既に項王の易制(制し易き)をしり、正成河内に家居する時より、既に鎌倉の易弱(弱め易き)をしる。よりて韓信高祖を見て、盛に項王の勇を称して、其勇は恐るゝにたらざる事をいひ、正成、後醍醐帝に謁して、盛に鎌倉の強きを称して、其強きは恃にたらざる事をいふ。其後両人共に多くは籌策を用て取勝(勝を取り)し事、掌握にあるがごとし。韓信は嚢沙背水敵を破り、正成は鉤屏木偶敵を、鏖にするを見給へ。両人の兵を用ること一轍に出ざるかは。何れも摧堅拉鋭(堅きを摧き鋭を拉ぐ)といへど、韓信が材は敏速に長じてよく攻、いまだその守るをきかず。正成が材は持重にたへてよく守る、いまだその攻るを見ず。韓信に城を守らしめば、よく正成が如くならんか。正成に敵を攻しめば、よく韓信がごとくならんか。古人も「攻守勢殊也(攻守勢ひ殊なり)」といへばいかゞあるべき。翁がいまで決せざる所也。しかいへど韓信が兵は、利欲の私にいでゝ、一身のためにし、正成が兵は、忠義の公にいでゝ、国家のためにす。其底績の心おのづから同じからず。むかし河内の人の語りしとて或人翁にいひしは、金剛山のあたりに、南北の明神と号する祠あり。その中坐を正成とす。左右は孫子呉子なり。正成常に「われ天下に武功を立る事は孫呉のかげなり」といひしによりて、是を祔祭するとぞ。是にて今に正成が遺愛の民にある事をしるべし。但正成かくのごとく絶倫の材をもて、聖賢の道を学びずして、孫呉が術をのみ崇びしは、遺恨といふべし。湊川にて自殺するとて、弟正季と最後の一念を語る事、はなはだ陋し。

    足利家の乱れ
 足利一統の後、幕下の人物にては、細川頼之をこそ世に良相と称し侍れ。先君の遺命をうけ、幼主を輔け、上を奉じ下を御するをみるに、やゝ老成の材といふべし。然れども小術を用て君威を強する事をしりて、曾て陳善閉邪(善を陳べ邪を閉ぐ)ことをしらず。されば義満昏弱の君にあらず。其輔佐よろしからば、いかやう成英主ともなるべき人ぞかし。その驕泰をきはめ、僭逆を肆にするに至るは、頼之といへども其罪をのがるべからず。是をもていふに其人称するにたらず。其外足利家の名門右族、いづれも跋扈将軍にあらざるはなし。応仁文明の比、京都には細川畠山党を分ち、鎌倉には足利上杉雄を争ひ、日夜合戦して虚き月なし。しかのみならず君臣相害し、親族相殺し、その毒鬼蜮のごとく、其暴虎狼のごとし。天下に人倫の道絶はてゝ、たゞ日月地に堕ざる迄にぞありける。是をぞ古今乱世の極といふべし。もろこしにていはゞ、李唐の季、五代の初に似たり。いつぞや唐書を読侍しに僖宗、昭宗の時に至て、其比君上の廃立、多くは人臣の手にいでしかば、楊復恭が昭宗を己がたてたるとて、「負心門生天子(心に負く門生の天子)」といひしをこそ、古今になき事なれ、とあまりの事にをかしかりしか。其後我朝近代の野史にて、「新参の主人譜代の家人に背くやうやある」といひし事あるを見て、さても乱世の風俗、からもやまともよく似たる事よと思ひ侍りし。されば応仁の後、足利家の代を終るまで、前後百年の間、其名将勇士、寒促飛廉が徒にあらざれば、賁育黝舎が類なり。中々賢愚得失を論ずるに及ばず。但鎌倉両上杉の時、太田道灌こそ、名将の誉ありし。然ども翁おもへらく、上杉氏、山内、扇谷両党たりといへども、山内を宗室とす。此時越後の上杉房顕山内の家を継て、其子顕定に及べり。道灌は其父道真より、扇谷の上杉定正が家老たれば、定正をたすけて、顕定と嫡庶の義を講じ、親族の好を篤して、扇谷の家を安んじてこそ、身の輔相たりし甲斐もあるべきを、反て謀をもて山内の権を奪ひしかば、両上杉不和になりける程に、終に兵難を招て、定正と同じく顕定が為にころされたり。恐らくは其材、主を庇し身を保つにたらざるに似たり。しかいへど武略すぐれたるのみにあらず、文学に志ざし倭歌をこのみて、かゝる乱世には得がたき人ともいふべし。翁いつも思ひいでゝ感吟するは、世に伝る「かゝる時さこそ命の」とよめる歌にて侍る。此歌を世には道灌敵にころさるゝ時、臨終によみしといへど、さにてはあらず。募景集とて、彼が自からかきあつめし藻塩草あり。其中に此歌をのせて、其詞書に、
康正元年の冬、藤沢の役に、かたきも味方も入まじり、三日をかさねていどみあらそふ事になりぬ。されども味方の武威つよくして、かたき北条憲定のぬしつひに自腹して、余兵おのがじしむなしうなり、あるはあたにあたりてかたみに死するも侍る時、藤沢のかたへの松原のむれにてたゝかふ男あるに、味方は中村治部少輔藤原重頼とて、京家の人の世にしづみて、屋形に扶持せられて侍りしになん。敵の男は栗毛なる駒に乗て、二ツ引りやうに升り龍の紋付たるさしものなりけり。遠目ながらよろひの毛もいかめしうぞみえける。しばしたゝかうて鎗をあはせしに、目の前に敵の男つきとめられ、やがて中村手づから首を取て我陣に来りて、かう〳〵となん語りけるに、いまだ壮年にもたらぬ男の、色しろうしてたけたかゝるべき心地したり。鬢のあたりたゞならずたきしめつゝ、あはれもいやまし、あだながらにくからぬおもかけなり。中村重頼、「この心ばへのやさしきに、歌ひとつものしで手向に」とすゝめ侍りければ、その首にむかひて、
かゝるときさこそ命のをしからめかねてなき身とおもひしらずば
重頼返し、
なき身とは誰もしれども諸ともにいまはにおよぶことをしぞおもふ
此道灌の歌は、孔子の給へる「勇士不忘喪元(勇士は元を喪ふことを忘れず)」といふ心にもかなひ侍らんかし。されど古の勇士の不忘喪元(元を喪ふことを忘れず)といふは、其志朝夕に義をおもんずるにあり。首を刎らるゝとも義を失はじとなり。必しも戦場に死を軽んずるに限るべからず。我朝の武士の、かねてなき身と思ふといふは、其志戦場に死を軽んずるにあり。首をとらるゝともうしろをみせじとなり。あながち朝夕に義を重んずるによるにあらず。其おもむき同じやうにて、しかもちがひありとしるべし。されど其僉議はしばらくさし置、此事歌にのみあらず、敵も味方も、死したるもいきたるも、とりどりいさぎよく、優にやさしき事といふべし。

    武田信繁
 爰に足利氏の季世、天文、永禄の間に至て、賢と称すべき人あり。甲州武田信玄の弟、左典厩武田信繁是なり。然るに近代武功をのみ尚びて、徳行をば称せざる故に、信玄の名は高けれども、信繁の賢はかくれて世にしる人なし。今翁があらはさずしては、誰かいひ出る者あらん。信玄の父信虎、信繁を愛して信玄を廃する心あり。それ故信玄父子不和なりしに、群臣いづれも信玄の武略に長じたるを見て、信虎をすてゝ信玄に思ひ附しかば、信玄群臣と謀て、信虎をすかし出して是を距ぎし程に、信虎甲州へ帰る事かなはず、今川氏真が外祖父たるによりて、駿河に出奔して、今川家の寄公となりて、年を経けれども、信玄つひに父をむかへて国に入ることなし。信虎後に京都に流洛して、一生をなん終たり。信繁、信虎の愛子として、信玄を廃して信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知たる事なれば、必忌悪むべし。それに国にのこりて信玄につかふるは、危難の場なり。父を追出す程の人なれば、露友愛の心あるべきにもあらず。しかるに信繁嫌疑の間に処ながら、信玄につかへて、兄弟の間少しも違言ある事をきかず。むかし後漢の東海王強は、光武の太子たりしが、廃せられて諸侯王に下れり。明帝母寵によりて、弟をもて立て太子となり給ひけるが、其後明帝の代に至て、東海王恭謹にして、上を奉じ身を全して終られしをば、前史にも褒称して記置しぞかし。されどそれは明帝孝友なれば、つかへやすかるべし。信繁はそれとはちがひ、残忍至極の兄につかへて、朝夕国に倦々として、人臣の節を失はず。信玄といへども、常に親任して疑忌の心なく、始終一のごとし。その忠信誠実人の感孚するにあらずして、いかでかくのごとくなるべき。さて川中嶋にて討死せられしこそ、尤義にあたりて覚え侍る。信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの為に命ををしむべき。されば主辱かしめらるれば臣死するの義を守て、こゝろよく討死せられしは、誠に見危授命(危ふきを見て命を授く)といふべし。其子を誡られし条子がきの物を見侍るに、一として恭敬篤実のことにあらざるはなし。其中一条に、「たとひ海は野となり野は海となるとも、尽未来際御やかたに対して二心あるべからず」といひ、又一条に、「たとひいかやうの御懇意にても、後庭へ出入すべからず」といひ、又一条に、「諸人同座する時、もし好色の語に及ばゝ、目にたゝぬやうにして其座を立べし」といふにてしりぬ。信繁人がら恭謹なる物から、しかも身を守ること厳正にて、かり初にも汚俗に同せず。其高風清節、古人に恥さるべし。又一条に、「合戦に赴く時、敵ちかくならば、人数を急にあらくつかふべし」とあり。是にて信繁戦陣に勇ありて、兵をまはすに熟しぬる事をしれり。しかれば勇威武略さへ兼備りけらし。易にいはゆる、「知剛知柔万夫之望(剛を知り柔を知る万夫の望み)」とは、此人のたぐひをいふべし。嚮に信玄社稷の慮ありて、はやく此人をたてゝ世子とし、監国の任にをらしめば、甲州ながく滅ざらまし。しかるに昏昧剛愎の勝頼に伝へしかば、信玄死していく程なく、織田氏のためにほろぼされにき。なげかしき事にあらずや。

    兵法の大事
 後日諸客来会しけるに、例の講はてゝ、翁いひけるは、「各日比、武田流の兵法を講ぜらるゝよしきゝ侍る。前日申せし信繁の、「敵近くならば人数をあらくつかふべし」といはれしはいかゞ、軽き事のやうなれ共、尤用兵(兵を用ふる)の要を得たり。信繁も是にて毎度利を得て、簡要の事と思はるればこそ、かく子息へもいひ伝へられける。此序に兵法の事をあら〳〵語り侍るべし。翁日ごろ兵書を考へ見るに、兵術の要は、孫武が十三篇にあり。十三篇の要は軍形兵勢の二篇にあり。おほよそ用兵(兵を用ふる)の法は、形勢のふたつに過べからず。しばらく常語にていはゞ、軍形は軍のかた、又は軍のもやうといはんかし。兵勢は兵のきほひ、又は兵の調子といはんかし。軍形は行師(師を行る)の法にして、兵勢は合戦の法なり。軍形は行師(師を行る)の法といふは、今僅に百ばかりの人数にても廻して見給へ。それさへ末々迄は下知とゞかぬ物ぞかし。まいて三軍の師をまはすに、時に当ての下知ばかりにしては、いかで自由に廻るべき。たゞ将帥たる人、成算より割出して、軍伍を定め、手分を定め、約束を定め、其外の事迄分段を明かにして、人数を一定の形にはめて師をやれば、三軍ひとつもやうになりて、なにの造作もなく廻るべし。軍の強弱は、もやうによりて生ずるものなり。又兵勢は合戦の法といふは、常の軽き事にても考へ給へ。急節に臨ては、すこし手延なれば、度を失ふ物ぞかし。まいて合戦の勝負は呼吸の間にあり。それに鎗先に向ては、士卒の勇怯ひとしからねば、とかく猶予しやすし。たゞ将帥たる人、こゝに至ては人数をはげしくあらくつかうて、其きほひに乗じてすゝめば、おのづから調子めいらずして、勝利を得べし。兵の勇怯は調子によりて生ずるものなり。されば孫子に「勇怯は勢也。強弱形也(強弱は形なり)」とこそ見えて侍れ。譬ば猛虎深山にありては百獣震恐せしが、陥穽の中に在に及ては、尾を揺かして食を求るがごとし。猛虎にはかに弱くなるにはあらず。又をかしきたとへなれ共、世にいふ女の丑時参りといふ事あり。常には闇がりをさへおそるゝ物が、嫉妬の怒に乗じては、丑時参りして、少しもおそれやらず。其女にはかにつよくなるにはあらず。是にて勇怯の勢にあり、強弱の形にある事をしるべし。但軍形は本なり、兵勢は軍形よりしてこそ出来にけれ。もし軍形乱れなば、士卒勇なりといふとも、必敗軍すべし。この故に「勝兵先勝而後求戦。敗兵先戦而後求勝(勝兵は先づ勝つ。而して後戦ひを求む。敗兵は先づ戦つて、而して後勝つことを求む)」といへり。先勝は軍形にあり。いまだ戦はぬ先に、必勝べき手だて定まる故に、先勝とはいふなり。先勝て戦へば、兵鈍らず、戦とゞこほらず、敵を破る事破竹のごとくなるべし。よりて孫子に、「勝者之戦。若決積水於千仞之渓者形也(勝つ者の戦ひ。積水を千仞の渓に決するがごとき者は形なり)」となん。是は必勝の形先定まりて、其勢に乗じて戦へば、なにの手もなく勝事をいへり。然るに合戦の場に臨ては、ゆるやかなるを嫌うて、はげしきをいとはず。おそきを嫌て、はやきをいとはず。もしゆるやかにおそれければ、士卒の心たるみて、其勢を失ふものなり。信繁の人数をあらくつかへといひしはこゝなり。是則兵勢なり。孫子に是を論じて、「激水之疾至於漂石者也。鷙鳥之疾至於毀折者節也。故善戦者其勢険。其節短。勢如弘弩。節如発機(激水の疾石を漂はすに至る者は勢ひなり。鷙鳥の疾毀折に至る者は節なり。故に善く戦ふ者は其の勢ひ険。其の節短。勢ひは弩を弘るがごとし。節は機を発するがごとし)」といへり。すべて物には鼓の拍子あるごとく、はり合てはずみのあるは勢なり。竹のふしあるごとく、きはだちて折めのあるは節なり。水激して石のおもきを漂はすに至るは、岩にあたるはずみのつよければなり。安流する水の水さき弱きが石をたゞよはす事をきかず。鷹鷙て鳥の翅をとりひしぐに至るは、禽にせまる折めのきびしければなり。ながのしする鷹の羽づかひゆるきが、毀折する事をきかず。よりて善戦者は其勢必険しく、其節必短し。一足も所向をしりぞけばきる。一毫も軍法を敗ればきる。かく険しからねば、其勢弛ぶものなり。日を刻して急にすゝみて兵を駐めず。戦勝ては早く引て長追せず。かく短からねば、其節のぶるものなり。其勢弛び其節延れば、士卒倦怠つて、必勝利を失ふべし。されば勢如弘弩(勢ひは弩を弘るがごとし)とは、必はりつめて少しも手をゆるさず。節如発機(節は機を発するがごとし)とは、忽急にはなちて、しばしもゆとりせず。この故に良将の下に怯卒なし、愚将の下に強兵なし。孫子に是を論じて、
善戦者求之於勢。不責於人。故能択人而任勢。任勢者。其用人也如転木石。木石之性。安則静。危則動。方則止。円則行。故善戦人之勢。如転円石於千仞之山者勢也。(善く戦ふ者は之を勢ひに求め。人に責めず。故に能く人を択んで勢ひに任ず。勢ひに任ずる者は。其の人を用ふるや木石を転ずるがごとし。木石の性。安ければ則ち静かに。危ふければ動く。方なれば則ち止まる。円なれば行く。故に善く人を戦はしむるの勢ひ。円石を千仞の山に転ずるがごとき者は勢ひなり)
 孫武が此語、一字一句も兵の肯綮にあたらざるはなし。孫武は誠に兵家の祖なるかな。

    孫臏韓信が兵法
 されど孫武が兵法、其書ありといへども、自から兵を用て敵を料り勝ことを制するをきかず。そのかみ呉王闔閭に用られ、十三篇をも呉王に伝投せし事、史記孫子が伝に見えたり。闔閭西のかた強楚を破て郢に入、兵威諸国に振しは、定めて孫武が謀より出たる事にてあらんかし。その事実世に伝らねばしるべきやうなし。孫武が後、孫武が兵法をもちひて、其功天下に著れしは、孫臏、韓信のふたりにてなむありけり。孫臏は孫武が子孫なりしが、先祖の兵法を伝へて、斉の威王の師となる。此時魏より斉の与国趙を囲しを、威王将田忌に孫臏をさし副て趙を救しむ。孫臏は其前に魏将龐涓とともに兵法を学びしが、龐涓その能を嫉で、陰に臏を召て至れば其両足を断し程に、此度もたゞ車中に坐て軍の指図をしけり。田忌すぐに趙へゆかむといひしを、孫臏とゞめて、魏趙久しく相攻ぬれば、魏の軽兵鋭卒必外に竭し、老弱運漕して内に罷るゝを謀ていふやう、「趙に至らんよりは、速に魏都大梁に赴て其虚を衝んにはしかじ。かれ我国の危きを聞かば、必趙をすてゝ帰て自ら救む。しからばわれ一挙して、趙の囲をとくのみならず、その弊を魏に収るなり」とて、直に大梁に向ひしかば、魏師果して趙を捨て還りけるを、迎へ撃て大に勝利を得けり。これ趙を救ひながら、趙を救ふとは見せずして、魏を攻る形をもてしめし、虚に乗ずる急迫の勢をもて逼りしかば、魏師などか趙をすてゝ帰らざる事を得べき。これによりて見れば、前にいひしごとく、形にはめ、きほひにのすれば、わが士卒のみにもあらず、敵を制する事も掌握にあるがごとし。孫臏が魏を伐て趙の囲をとくにて、その形勢に熟するをしるべし。さればこそ孫臏も形格勢禁ずれば、おのづから解ることをすといへり。形にはむれば、敵必形にさゝへられ、勢にのすれば、敵必勢にせかれて自由を得ぬ程に、おのづから我計中に堕るぞかし。後十五年ありて、魏より韓を攻し時、韓告急於斉(韓急を斉に告げ)しかば、田忌又将兵(田忌又兵に将たる)として、前に趙を救しごとく、すぐに大梁に赴きけり。魏将龐涓是を聞て、韓を捨て帰る程に、斉師とくに行過て先にあり。孫臏、田忌にいふやう、「三晋の兵素より悍勇にして斉を怯しとす。善戦者は敵の勢によりて、その勢のまゝに態と利導して、己が思ふ図に引付るぞかし。兵法に「百里而趣利者蹶上将(百里にして利に趣く者は上将を蹶す)」といへり。さらばいよ〳〵魏を驕らしめて、百里にして利に趣かしめんとて、斉ノ師魏の境に入て、始て一舎する日は十万竃をなし、その明日は五万竃、又明日は三万竃と、日々にかまどの数を減じて、軍行の跡に遺しけり。さる程に龐涓斉ノ師の後を追ておしけるが、是をみて大によろこびていひけるは、「我もとより斉ノ師怯き事を知る。いかにとなれば、吾地に入事三日にして、士卒のにぐるもの既に過半に及べり。いざ急に追つめんとて、其日歩軍をすてゝ騎兵ばかりにて、二日の道を一日にうちけり。孫臏其行を度るに、暮に馬陵に至るべし。馬陵は旁に阻隘多くして兵を伏すべし。こゝに龐涓を討取べしと思ひつゝ、大樹を斫り白げて、「龐涓此樹下に死なん」と大書したり。さて善射るものをすぐり、万弩をそろへて道を夾んで伏さしめ、それ等と約して、「暮に火の高く挙るを見て、万弩一度におこれ」と、其期を待けるに、龐涓果して夜に成てかの斫れる木の下に至しが、白書を見て不審におもひ、急に火を高く挙て燭しけるに、其書をよみて未畢(未だ畢はらざる)に、万弩倶におこりしかば、魏師大に破れて、龐涓自ら刎て、「遂に豎子が名をなしつ」といひて死にけり。龐涓が前に孫臏を足たちし時、人の足をきるは則わが首をきるといふ事をしらず。曾子の「戒之戒之。出乎爾者反乎爾者也(之を戒めよ之を戒めよ。爾に出づる者は爾に反へる者なり)」との給ひしこそ思ひあたりしか。聖賢の言いつかたがひ侍るべき。是は小人の戒とすべし。
ながく世にたてじとてこそあしきらめ足はたゝねど首はとりけり
 是は翁がたはことなり。足のかはりに首を得たれば、孫臏はかへどくしたりといふべし。しかるに竃を減してみせ、樹をしらけて見せける、ひとつとして敵を形にはめざるはなし。かまどを減して見すれば、敵必道を倍してゆき、樹をしらげて見すれば、敵必火を挙て見る。火を挙れば万弩倶に発す。万弩倶に発すれば敵自刎ねて死す。一として敵を勢にのせざるはなし。よく敵を料りて兵の形勢に熟せずんば、いかでかかくあるべき。孫武が後一人といふべし。炎漢の初に至て、高祖の諸将の中に、韓信こそは兵術に精しく、合戦の上手にてありし。其趙王歇を攻し時、背水の陣にて勝しは、今にあまねく世に称する事なり。兵法に、「右倍山陵。前左水沢(山陵を右にし倍き。水沢を前にし左にす)」といへるは、軍形の常なり。然れ共兵に常勢なし。敵に因て変化すれば、軍にも常形なかるべし。此時趙兵二十万と号す。漢兵数万にたらず。其上皆あつまり勢にて、決戦の心なし。韓信これによりて、水にそむきて陣せしめたり。水に背きて陣するは死地なり。一足跡へひけば、水に逐はめられて死する故に、おのづから面々にかせぎて殊死して戦はざる事を得ず。趙軍漢の軍の死地に陥るを見ては、必なにの用意もなく軽々しくすゝみたゝかふべし。我死戦の衆をもて軽進の兵を撃なば、必一戦に勝利を得べしとはかりしが、はたしてその謀はづれざりけり。然ども水に背て陣せしをば、当時諸将も口には諾せしかども、心には服せず、敵もこれを望見て大に笑しぞかし。これ敵もみかたも形にはめられ勢にのせられて、みづからおぼえず。戦勝ても其勝ける故をしらざりけらし。その外佯りて旗鼓を捨て走て、敵をして空壁逐利(壁を空しくし利を逐は)しめ、趙旗を抜て漢の赤幟をたてゝ、趙軍の気を奪ひしなど、いづれも敵を形におとして、自然の勢をもて駆しかば、みかたはいよ〳〵勇戦し、敵はみづから死を救ふにいとまあらざりけり。孫臏が後、兵の形勢に熟し合戦に長じたるは韓信ならし。むべ自から将兵(兵に将たる)の能を論じて、「多ければ多くして益善」とはいひけり。げにさもと覚えし。然るに孫臏、韓信が兵法をもて、孫武が書に考るに、符節を合せたるがごとし。こゝをもて兵法は、いよ〳〵形勢にある事をしるべし。孫子にいへらずや、「先為不可勝以待敵之可勝(先づ勝つべからざるを為して以て敵の勝つべきを待つ)」とは、先不可勝(先づ勝つべからざる)は我にあり。万全不敗(万全敗れざる)の形也。敵之可勝(敵の勝つべき)は敵にあり。必勝不失(必勝失はざる)の勢なり。其機を形にこめ、其戦を勢に決す。其機を形にこむるに当ては、淵のごとくふかく、龍のごとく潜まる。いはゆる蔵於九地之下(九地の下に蔵るゝ)もの也。其戦を勢に決するに当ては、飇(風+犬犬犬)のごとくおこり、雷のごとく撃。いはゆる動於九天之上(九天の上に動く)ものなり。忽かくれ忽あらはれ、奇正相生じ、虚実相形る。環の無端(端無き)がごとし。兵術の妙、こゝに至てもはや加ふべき事なし。但其簡要をいはゞ、兵は神速なるにあり。もし神速ならねば、其計策多くは敵にはかられ、又は長陣すれば、将軍も退屈する程に、軍形兵勢もいづれの処にか用べき。孫子にも、「兵聞拙速、未睹巧之久也(兵は拙速を聞く、未だ巧みにして久しきを睹ざるなり)」といへり。善将兵者(善く兵に将たる者)は、たゞ形勢に明かにして、其余勝敗の数にあづからぬ事は、多くは不調なれども、反て是をもて勝利を得る事速也。是を「拙而速也(拙にして速やかなり)」といふ。兵家の貴ぶ所也。若勝敗の数に暗くして、たゞ屯営を周備にし、号令を煩涜にして、すぎて持久の計をすれば、軍法調熟して、すきまもなく見ゆれども、兵久しければ変生ずる程に、はては敗軍に及ぶぞかし。是を巧而(巧みにして)久しといふ、兵家の忌所なり。況や兵久してやまねば、其間多く財を糜し人を殺し、ながく国家に害を貽す事すくなからず。むかし蜀の先主自将として呉を攻る時、七百営を連ね、三十屯をたて、呉と相拒こと半年に及ぶ。巧而(巧みにして)久しといふべし。つひに兵疲意沮で、陸遜が為に破られたり。我朝にても、近代上杉、武田の両虎争雄(雄を争ひ)しが、いづれも正法疎かなるにあらず、軍令精しからざるにあらず、然ども先為不可勝(勝つべからざるを為し)て敵の可勝(勝つべき)を待事をしらず。互に一戦の間に勝ことをつとめて、しば〳〵相攻る事年を経てやまず。是又巧而久(巧みにして久し)といふべし。遂になにの成功なくして、僅に其身を終て国滅にき。たゞ豊臣秀吉は、もとより不仁にして、誅暴止乱(暴を誅し乱を止むる)の兵にてはなけれども、勝敗の大数に明なりしかば、出師(師を出だす)になにの造作もなく、行兵(兵を行る)になにの巧計もなく、戦となれば必功を一挙に収む。遂に兵を頓て昿日(日を昿しく)することをきかず。いはゆる拙而速(拙にして速やか)なるものに近し。其将略恐らくは謙信、信玄の及所にあらじ。然共剽軽猾賊の人にして、礼楽慈愛は夢にもしらざりし程に、晩節無名の師を起して、朝鮮を征伐し、久しく師旅を暴露し、多く人民を魚肉せしかば、天下の人心離叛きけり。亦兵久しくして収めざるの禍なり。孫武が一言、兵の要旨を得たりといふべし。若勝敗の数に暗くして、たゞ屯営を周備にし、号令を煩涜にして、すぎて持久の計をすれば、軍法調熟して、すきまもなく見ゆれども、兵久ければ変生ずる程に、はては敗軍に及ぶぞかし。是を巧而久しといふ、兵家の忌所なり。況や兵久してやまねば、其間多く財を糜し人を殺し、ながく国家に害を貽す事すくなからず。むかし蜀の先主自将として呉を攻る時、七百営を連ね、三十屯をたて、呉と相拒こと半年に及ぶ。巧而久しといふべし。つひに兵疲意沮で、陸遜が為に破られたり。我朝にても、近代上杉、武田の両虎争雄(雄争ひ)しが、いづれも正法疎かなるにあらず、軍令精しからざるにあらず、然ども先為不可勝(先づ勝べからざるを為し)て敵の可勝(勝つべき)を待事をしらず。互に一戦の間に勝ことをつとめて、しば〳〵相攻る事年を経てやまず。是又巧而久といふべし。遂になにの成功なくして、僅に其身を終て国滅にき。たゞ豊臣秀吉は、もとより不仁にして、誅暴止乱(暴を誅し乱を止むる)の兵にてはなけれども、勝敗の大数に明なりしかば、出師(師を出す)になにの造作もなく、行兵(兵を行る)になにの巧計もなく、戦となれば必功を一挙に収む。遂に兵を頓て誅え昿日(日を昿しく)することをきかず。いはゆる拙而速なるものに近し。其将略恐らく謙信、信玄の及所にあらじ。然共剽軽猾賊の人にして、礼楽慈愛は夢にもしらざりし程に、晩節無名の師を起して、朝鮮を征伐し、久しく師旅を暴露し、多く人民を魚肉せしかば、天下の人心離叛きけり。亦兵久しくして収めざるの禍なり。孫武が一言、兵の要旨を得たりといふべし。

    兵は詭道
 他日継て諸客来会せしが、「前日兵家形勢の説くはしく承り、感服し侍る。世に兵法を伝る人も一ならず候へ共、大かた上杉武田家の流にて、兵の故実器数には精しく候へども、中〳〵形勢などの沙汰には及ばず。是にて敵を料り勝ことを制するは、なりがたかるべきやうにかねて思ひ侍りしに、翁の論を承り、いよ〳〵世に伝るは皆兵の末事にて、兵法とするにたらずとこそ思ひ侍る。但形勢を審にし、智謀をもちひ候事、仁義の兵にもあるべきにや。聖賢の道には、すこしたがひたるやうに覚え侍るはいかゞ」といふに、翁聞て、「それはよき不審にて候。兵は聖人の常道にあらず、いはゞ、権道ともいふべし。みづから義を制する権度なくしては、にはかに用ひがたき道にて候。とかく兵は別段の事にて、常には用ひざる道と意得給ふべし。さらば古今兵の異同ある事を語り侍るべし。戦国以来料敵制勝(敵を料り勝つことを制する)の術を兵と申候へども、元来甲冑の士を兵といへば、兵は士卒の事にて候。むかし荀況古今の兵を論じて五とす。湯武の仁義、桓文の節制、秦の鋭士、魏の勇卒、斉の技撃是なり。王者の兵は、道徳に本つき、仁義を崇ぶ故に、三軍心を同うし力を戮せて、君上の難に赴く事、子弟の父兄を衛り、手臂の頭目を捍ぐがごとし。是を仁義の兵といふ。桓文の兵は、信義を守り、律令にしたがふ故に、三軍畏威(威を畏れ)て、一人も節義を踰る事なし。是を節制の兵といふ。嬴秦の兵は、ただ賞罰を厳にし、首級を尚ぶ、曽て兵に節制ある事をしらず。然ども士卒を淬励して勇敢を倡ふが故に、敵に赴て戦死する事をたのしむ。其強き事、魏斉の兵に比するに甚優れり。魏の兵は勇力の卒を募り、斉の兵は技撃の材を選び、一朝かりあつめて敵と闘しむ。其兵たゞ利を要して、あへて死敵(敵に死する)の志なし。是によりていふに、秦の鋭士より以下は、やゝ優劣ありといへど、一切に武力をもて取勝(勝つことを取る)のみ。すべて兵法ある事をきかず。兵法は節制の兵より以上にあるべし。仁義の兵といへども、僅に兵といへば、形勢智謀をすてぬ事にて候。是を捨ては、いかで敵を料り、勝ことを制し候べき。もとより仁義の兵に、後世の兵のごとく、詐欺を尚び反間を用るやうのむづかしく巧なる事はあるまじく候へども、たゞ敵と対したる正面において、或は敵の鋭気を挫き、或は敵の惰気をうち、或は不意にいで、或は険阻に逼る。とかくに敵を制して敵に制せられず、敵をいたして敵に致されざるやうに謀るは兵の法なり。昔趙宋の時、いづれの戦にか、ある一将、城守して敵に囲まれしに、炎天の事にて有けり。敵しきりに戦をいどみしかども、堅く城を閉て兵を出さず、一人に冑をきせて庭中にたたせ置けるが、時を移して冑火のごとくなりて、其人堪がたかりける時に、敵もさこそ困まんと量りて、急にきりて出ければ、敵一こらへもこらへずして敗軍しけりとなり。此事を朱子兵を論ずるとていひ出て、兵はかくあるべき事なりと仰られし。語類に見えしと覚え侍る。されば孔子も「三軍を行はば、臨事而懼好謀而成(事に臨み懼れ謀を好んで成す)者にくみせん」との給へり。異国の事は遠ければ姑さし置、我朝武家の世になりしより、天下攻伐をつとめて、戦争やむ事なかりし。建武以来、宮方武家がたとて、諸国にたて分れて、日夜合戦に及しかども、いづれも諸国仮合の卒をあつめて、衆の多寡をくらべ兵の強弱を争ひ、なにの成策もなく、両軍よせ合せて相撲角力の場のごとく、一時に勝負を決する外はなし。或は勝時もあり、或は負る時もあり。勝も負も一旦の事にて、むなしく士卒を多くころしてやみぬ。なにの兵法か論ずべき。いはゆる斉の技撃、魏の勇卒ともいふべし。足利氏の季世に至て、英雄蜂起し、四方に割拠して、兵を磨士を養ひ、日ごろ拊循して用ひしかば、其兵勇鋭にして百戦して挫けず、秦の鋭士ともいふべきにや。中にも武田、上杉などの兵は号令脩り、約束明かに、師出るに律をもてすれば、桓文の節制にも近かるべし。されば本朝の兵は、こゝに至て始て兵法をも論ずべかめり。然れども当代兵家者流と号する人、多くはかの兵律を伝るのみにて、兵法のもとは、敵を料り勝ことを制するの謀にありといふ事をしらず。其中ことに理にくらき人は、兵に荷担して、国家を治るの道も、是に外ならずといふめる。先年人のいひしは、ある兵家の説とて、孫子の「兵者詭道也」とあるを、兵は詭るも道なりとよむべし。兵は詭道なりとはよむべからずとぞ。翁きゝて一笑を発しき。是は兵を詭道といふを嫌て、兵はもと正直なれども、時としてはいつはるも道なりといふにやあらん。詭字は詐欺の二字と倭訓同じけれども、字義に差別あり。たゞ真手になく、常格をたがへたる道を詭道とはいふなり。されば孫子も「能而示之不能。用而示之不用(能くして之に能くせざることを示し、用ひて之に用ひざることを示す)」といはずや。よくしてよくすと見せ、用て用ると見せては、いかで敵を料り勝ことを制すべき。よりて兵は真手になく、常法に引ちがへて行ふ道なりといふべし。すぐに詐偽の道とはいふべからず。然共此筋を今日の常に出せば、詭遇して獲禽(禽を獲る)の心になりて、やがて詐偽に陥るべし。そこを孫武さすがの明者にて慥に見つけし程に、十三篇の初において、兵は詭道なりとはいひしぞかし。詭道なれば常道にあらず、常道にあらずして、いかで国家を治るの道とすべき。況や当代の兵家に相伝ふるは、皆兵の末事なるをや。或は城とり、或は軍のそなへ、又は古戦の後を僉議する迄にて、孫子の書をよむ人稀なり。たま〳〵よむ人ありても、文字にくらき故に、詭道二字の義にさへ通ぜず、何とて孫子のふかき意を得べきや。さるによりて其説を聞に、多くは臆見に出て相違したる事なり。無知妄作といふべし」

    不忘向君(君に向かうことを忘れず)
 後数日ありて諸客来会せしが、「前日兵の拙速を貴ぶ事を承候てより、自分にも考へ見候に、兵に限らず、大かたは何事も不調法にして速なるがよく候。然るをあまり思案過候て、仕方のよきやうにとこしらへ候へば、多くは文に拘り実を失い候故、やゝもすれば機会におくれ候て、後悔する事も出来候。是巧にして久しきの害にて候」といへれば、翁きゝて、「さにてこそ候へ。但其速なるに本源あり、たゞ常に心ゆるまず、気たるまざるを本源とす。心ゆるまず気たるまざれば、事物に奪はれぬ程に、おのづから落著候て、緩やかなる物にて候。さればすみやかなるは緩やかなるより生ずると思ひ給ふべし。もし速なるがよしとて俄にすみやかにすれば、心せき気さわがしく候程に、事に当に狼狽して、たゞおそきのみならず、却て不慮の害をも招ぞかし。近代諸侯の家にある宿老の武臣を見るに、そのかみ兵戦の世を経て、おのづから心ゆるまず、気たるまぬ故に、緩急の場に臨て、其速なる事他人の及ぶべき所にあらず。翁加賀にありし時、其先祖越後の堀の家に仕へし者ありて語りしは、越後守の家老に堀監物とて名ある者あり。(監物二代あり。二代監物は、慶長十五年、弟丹後守直奇と争訟して、最上に謫せらる。この監物は父監物直政なるべし)主人越後守伏見の邸にて、日暮に客を送り出けるに、越後守に怨ある者ありしか、かくれ居て急にきり懸しを、越後守も抜あはせし所に、監物はるかのうしろより、一番に来て彼者をきり倒しけるを、左右に供したる士共、諸ともに打とめけり。後日に右の士ども監物に逢て其日の事をいひ出て、「日暮といひ不慮の事といひ、我等ども心ならず少しおくれ候ひしを、御身にははるかの跡に御渡り候つるに、いかなれば一番に手に御あひ候にや、不審なる事にこそ存候へ」といへば、「いや、各とて武辺の某におとるべきにてはなく候へども、某はかねてひとつの覚悟ありての事にて候。各は此覚悟なき故に、某に先をさせらるゝとこそ存候へ。此後も各は殿の御供を勤らるゝ事にて候へば、向後御心得にもなるべく候まゝ、今迄は人に申さぬ事に候へども、伝授もいたし候べし。惣じて君の御前に伺候し、御後に供奉し候時は、仮にも脇へ目をやらず、初中終君に目をはなさずしてをるを簡要の法といたし候。左候へば君の動静針程の事も見つけずといふ事なし。よりて不慮の事ある時も、我しらず手にあふ事速なる物にて候。此某が一言を必忘れ給ふべからず」といひしとなり。是は武の心懸より覚悟したる事にてあるべけれども、聖賢の心にもかなひ侍るべし。翁日比論語郷党篇を読に、「君在ときは与々如たり」とあるを、朱子の注に「威儀中適之貌」というて、又張子の説を引て、「与々不忘向君也(与々は君に向かうを忘れざるなり)」とも釈しおけり。威儀中適にてよく聞えたる上に、張子の説を引るゝは、不忘向君(君に向かうを忘れず)といふに一種の義理もあるにや、いかやうの意味にかあらんと思ひしが、其後此事をきゝて、横渠の説緊要なる事をさとりぬ。かの監物が始終君に目をはなさぬといふは、是則不忘向君(君に向かうを忘れず)に非ずや。君に巵従し君に侍坐する時の第一の意得たるべき事也。監物もとより横渠与々の説を見て、其にて心付たるにてもなけれど、其意おのづから相叶へり。奇特なる事といふべし」

    大敵外になし
 翁かねておもふ事にて候。今の学者、聖賢の書を読て、なまじひに義理の僉議をいたし候へども、大かたは僉議に日を暮し、何にてもひとつ取とめて身に得たる事は侍らず。是も巧にして久しきと申べし。然るに武臣たる人は、不学にして一己の見付たる所によりて覚悟を決して、直に行ひ出し候故、端的に其験を見せ申にて候。学術なく候へば、理に当らぬ事もあるべく候へども、其得たる所おのづから聖賢の教にもかなひ候。いわゆる拙而速なるに候はずや。右の監物が事にて思ひ知給ふべし。それに付てこゝに殊勝なる事こそ候へ。寛永のころにかあらん、永井信濃守尚政、しきりに昇進して寵任せられけるが、其比井伊掃部頭直孝、一代の元老にておはせしに、或時邂逅して、「我等事弱年の身にて、特恩を蒙りて、重職をつとめ候事、誠に至極と申べく候。そこもとには御老功の御事にて候へば、我等心得にも成べき事おぼし召よりも候はゞ、仰きかされ候へ」とあれば、掃部頭先感じて、「奇特なる御心得にてこそ候へ。いかにも一ッ存じよりたる事候まゝ、伝授し候べし。されども大切なることを、あからさまには申がたし。いよ〳〵御聞あり度候はゞ、某が宅へ御越候へ」といはれしかば、日を定て礼服を著し、彼宅へ往れしに、掃部頭出て対面の後、「世話に油断大敵といふ事、定て御覚えあるべし。某が伝授外にはなく候。此一言にて候ぞ。必御忘れあるな」といはれしとて、むかし周の武王即位のはじめ、太公望を召て、「簡約にして行うて恒とし、万世に伝ふべき道ありや」と問給ひしかば、太公望まうさく、「其言丹書にあり。王もし聞むと欲せば斎戒し給へ」とありしかば、武王斎戒端冕して東面して立給へり。其時太公望西面して、丹書の言を武王にさづけていはく、「敬勝怠者吉。怠勝敬者減。義勝欲者従。欲勝義者凶。(敬怠に勝つ者は吉。怠敬に勝つ者は滅ぶ。義欲に勝つ者は従ひ。欲義に勝つ者は凶)」今油断大敵の語、鄙諺なれども、丹書の戒に叶へり。然るに君につかへ事を務るに油断のあしきとは、誰もしりたる事にて、しかも真実にしらぬ故に、右の諺をも等閑に聞すぐして、こゝに心をとゞむる人なし、よりて毎々油断して、過失を生じ禍咎を招て、ともすれば臍を噬ことおほきぞかし。掃部頭は常に油断を禁じて身に近づけぬ心から、真実に此事の簡要たるをしらるゝ故に、この諺を大切の事として、信濃守にも伝へられしなり。抜群の識あるに非しては、いかでかくあるべき。其上あからさまにいはれず、前に日を定め其人に盛服させて、おもく伝授せられしも、かの太公望の丹書を武王に授けし面影あり。かくあらねば其事軽し。そのこと軽ければ、其信深からず。其信深からねば、其人の益に成がたし。亦誠意懇到を見るべし。掃部頭学術のありし沙汰もきかねども、おのづから聖賢の教に叶へるこそ、極めて殊勝の事といふべし。我朝武家の代になりて五百年以来、世に是等の人あり是等の事あるをきかず。しかしながら、祖宗徳沢仁厚なるが所致(致す所)なり。これによりて謹而考るに、御当家天下をしろしめして、仁政四海に広被せしより、歴代残殺の風変じて、太平礼義の俗となりしが、寛永明暦の間に至て、在延の諸公運に応じて出て、承化輔治(化を承け治を輔け)しかば、其沢日に隆洽なりしぞかし。今其人がらを聞に、いづれも篤実簡重、寛厚の長者也。其政を謀るには、虚文を抑へ、事実をつとめ、人を取には材弁を退け、実行をすゝむ。近世智巧を尚ぶの風より見れば、其拙きに似たれども、凡百の有司、いづれも廉静寡欲なりしかば、各守身恭職(身を守り職を恭しく)して、時勢に附ず、身計をなさゞりき。是によりて庶政あがり、百事煕まり、たゞ此時を別して盛なりとす。勿論時運のしからしむるといひながら、其いはれなきにあらず。然るに篤実の士は、謹厚にして用にうとく、材智の士は、敏捷にして事にさとし。この故に、古今人材をもちふるに、多くは徳行をすてゝ材智の士を取ぞかし。さし当りよく職を弁じ、しば〳〵近效をたつる程に、敏速の功あると見ゆれども、事おほに僉議がちにて、事実常に隠れ、下情常に塞りぬれば、政弊民瘼も是より起るぞかし。是によりていふに兵に限らず、治世の政も、拙速をよしとして、巧遅を得たりとせず。むかし諸葛武侯の蜀につかふる、出将入相として内外の任を兼しが、高世の材もて自から用ずして、つとめて衆思の益をあつめ、僚作の諫を求む。自から至拙に処るといふべし。然るに其魏をうつ、毎戦(戦毎に)必勝しかば、司馬懿畏るゝ事虎のごとし。其益州を討する、七縦七禽にせしかば、孟獲心服して天威とす。その神速なる事想ひ見るべし。其後出師表にいへらずや、「劉繇朗各拠州郡。論安言計。動引聖人。群疑満腹。衆難塞胸。今歳不戦。明年不征。使孫策坐大遂并江東(各州郡に拠り。安を論じ計を言ふ。動聖人を引き。群疑腹に満ち。衆難胸に塞がる。今歳戦はず。明年征ず。孫策坐ながら大に遂に江東を并せして)」これ巧遅の害を論ずる事明白なり。但武侯の度量規模、もとより孫武が及ぶ所にあらず。今其言によりて、孫武の拙速巧久の語、最軍国の亀鑑として、武侯といへどもかふる事あたはざるをしるべし。孫武も亦人傑なるかな。

駿台雑話 巻五

    月は世々の形見
 今年もはや半過ぬれば、いつしか秋のけしきたちて、萩吹かぜも身にしるころなり。久しく翁のがり行ねば、此ほどの老のねざめも覚束なし。いざたづね問むとて、ある夕暮に、例の人々打つれて来しが、又もまゐらんとて帰らんとせしを、翁とゞめて「今宵は月もよし、薄酒すゝめ奉らん。しひてとまり給へ」といへば、「翁の心をいかでそむくべき。さあらば」とて、各座をしめて、清談の露やう〳〵繁き程に、家人やがて心得て、取あへぬまでにあるじまうけし、さかな取そへて、盃出しけり。諸客皆酔て興に入とぞ見えし。其中に一人、盃を停て、「青天有月来幾時。我今停盃一問之」(青天月在り来ること幾時。我今盃を停めて一たび之に問ふ)と、李白が詩を高らかに打吟じけるを、又ふたり脇よりつけて、「人攀明月不可得。月行却与人相随(人明月を攀づること得べからず。月行却て人と相随ふ)」とうたふ。又外の人々迭に唱和して、其次を「皎如飛鏡臨丹闕。緑煙滅尽清輝発(皎として飛鏡の丹闕に臨むがごとく。緑煙滅尽て清輝発す)」とうたふ。又其次を、「但見宵従海上来。寧知暁向雲間没。白兎搗薬秋復春。姮娥孤棲与誰鄰(但見る宵海上より来たるを。寧ろ知らんや暁雲間に向て没するを。白兎薬を搗秋復春。姮娥孤棲誰とともに鄰となる)」とうたふ。其次よりは翁も助音して、「今人不見古時月。今月曽経照古人。古人今人若流水。共看明月皆如此。惟願当歌対酒時。月光長照金樽裏(今人は見ず古時の月。今月曽て古人照らすことを経。古人今人流水のごとし。共に明月を看る皆此のごとし。惟願ふ歌に当り酒に対する時。月光長く照らす金樽の裏)」とうたひをさめけり。其後数献におよびて、玉山倒るゝばかりに見えけり。さて翁いふやう、「大かたは月をもめでじとはよみたれども、老の心も月みるにぞなぐさみ侍る。されど其につきて千載無窮の感もおこりぬれば、むべ月を人の老となるともいふべかめり。但月を見るにいろ〳〵あり。今思ひ出し侍る。童子の時、家にて八月十五夜の宴に、ひとり隅にむかひて居たりしに、さる武士の一丁字知らぬが、月をつく〴〵と見て、「月は径りいく尺かあるべき。各考て見給へ」といふ。又同じやうの人かたへより、「あれはものゝ切口とみゆ。奥へ長さいかほどかあらん」とて、たがひに僉議しけるを、きく人々皆舌を喰けり。翁もをさな心にをかしかりし。今おもへば世俗月を賞して、光のあかきをほこり影のきよきにめでて、良夜とてたゞ打より、物喰酒のみなどして歌ひのゝしるを楽とするは、かの寸尺を語るにひとしかりぬべし。又騒人墨客の月を詠めて、字ごとに金玉を雕、句ごとに錦繍を裁するも、風雅には聞ゆれど、其もたゞ景気のうへを翫ぶばかりにて、月にふかき感ある事をしらぬなるべし。翁が千載無窮の感と申すは、我儕古人をしたひて、其書をよみ、其心をしりつゝ、常に世をへたる恨あるに、月ばかりこそ世々の人を照し来て、今にあれば、古人の形見ともいふべし。されば月に対して昔を忍びては、さながら古人の面影もうつるやうに覚え、月はものいはねども、語るやうにもおぼえ、忘れてはむかしの事をとはまほしくもおもふぞかし。今李白が詩、月の景気をすてゝ、一気に古今を洞観して、「青天有月来幾時(青天月有りて来るは幾時ぞ)」といひ出すより、気象の高さ抜群に聞えて、詩の豪蕩超逸なるも、外の詩人の及べき事がらにあらず。むかしより李杜とて、杜甫が上に称するも理にてこそ侍れ。然れども李白が詩も、古今流水ごときを感ずる迄にて、後代を待の心は見えず。翁むかし楚辞をよみて、「往者余弗及。来者吾不聞(往く者は余及ばず。来たる者は吾聞かず。)」といふに至て、屈子が心をおしはかりつゝ、感にたへずなんおぼえき。この二句の意をいふに、屈子一代に知己なきをかなしみて、古人は誠にわが心を得たれば、あはれ一度あうて語らでとおもへど、其世に及ばねばかなはず。又末の世にさる人こそありて、我と心を同じうすらめとおもへど、其人をきかねば、誰とかしらんとぞ、是なん屈子に限らず、古今心あるきはは、大かた此恨なきにしもあらず。翁も此心にして月を見るにや、いとゞ感ふかく覚ゆるなり。もとより今は末の世の昔なれば、いづれの代にか、又わがごとく月に対して今を忍ぶ人もやあらん。月はさこそ其世をも照らすらめ。もしあつらへ告らるゝものならば、月にさは一言をものこさましとおもひ侍る。そのこゝろを、
  月見れば末の代までも忍ばれて見ぬいにしへのいとゞゆかしき
こゝをもて、我が月に無窮の感ありといへるを、諸君考へ見給へ。いはれなきにはあらず」

    離騒の秘事
 諸客聞て、「屈子の心をもて月を見る人、世にあることをきかず。今の世に翁ある事を、屈子にきかせぬこそ遺恨にて候へ。されば来者は吾不聞(吾聞かず)といはれけるもこゝにて候」といへば、翁、「とてもこよひは月にあかさん。さらば屈子のむかしをかたりて、離騒の意をくはしく説申さん。きゝ給はんや」といへば、諸客、「是は大なる幸にこそ」とて、耳をすまし居ける。さて翁、「楚辞は離騒を第一とす。屈子三閭の家に生れて、楚王の為にいろ〳〵心力を竭しけるを、懐王不明にして、小人の讒を信じ、其忠を察せず、終に遠ざけられしかども、君を露怨る心なく、国をうれへ俗をなげくのあまり、此篇を作れり。一篇の大意をいはゞ、屈子国と同族にて、世卿の家に生れしかば、身を潔し行を脩めて、上に奉ぜんと思ひしより、一国の賢をしたしみつゝ、群に抜でゝ志をたてし事を、衆芳を佩て奇服を好になん言葉を託しけり。かゝりし程にはからず、讒にあひて、君の心にはかにかはりしかば、さしもと思ひし人〳〵も、時俗にしたがひて心かはりゆくを、蘭薫をはじめもろ〳〵の芳草、にはかにあらぬものになん変じたるといへり。さて今こゝに有て、讒臣国を危うするを見聞も心うければ、いづこの国へもさらましとおもへど、それはわが本意ならねばするに忍びず、又国に人なければ、故都に思ひものこらず。よしさらば湘水にみづから投じなむ、といふにて篇ををへり。誠に惓々の心、匪躬の節、言外に溢れてこれを読人、袖をしぼらぬはなかるべし。されど是はしれたる事なれば、今更いふに及ばず。但離騒のおこりをいはゞ、水の源あるがごとく、木の根あるがごとく、大切のところひとつあり。是をしるを離騒の秘事とす。其秘事といふは外にあるにあらず、たゞ篇端の数語にあり。「帝高陽之苗裔兮。朕皇考曰伯庸(帝高陽の苗裔。朕皇考を伯庸と曰ふ)」といひ出せる心を、いかにと尋ぬべし。是たゞに身を思ひあがるにはあらず。又六朝の士大夫の門地にほこり、日本の武士の王孫を名乗とは、其心大にちがひたる事にてあめれ。それ人は先祖をおもはず、親を忘るゝ心より、身もち軽〳〵しく、人がらも崩るゝぞかし。屈子さすが先祖たゞしく、名だかき家に生れ、父のおもきあとをうけながら、いかに身をもちさげ、先祖をはづかしむべきと思ひつめてこそ、かくいひ出すらめ、といとあはれなり。其次に、「皇覧揆余于初度兮。肇錫余以嘉名。名余曰正則兮。字余曰霊均(皇覧て余を初度に揆す。肇余に錫ふに嘉名を以てす。余に名づけて正則と曰ふ。余に字して霊均と曰ふ)」といひ、又次て、「紛吾既有此内美兮。又重之以脩能(紛として吾既に此内美有り。又之に重ぬるに脩能を以てす)」とくり返し自賛するにて、屈子が心いよ〳〵しるし。其自賛の本意は、父の我を大事の物とおふしたてゝ、嘉名を名づけ、脩能を授つつ、かく教育する心を、かりにもあだになさじとなり。こゝをもて見るに、君を愛し国を憂るの志、もと祖孝を思ふ仁孝の心より生じて、其根ふかく源遠し。むべも其誠始終一のごとくにて、死に至てかはらざりけり。孝弟を為仁(仁を為す)の本とするも、是にてこそあなれ。それは其説ながければしばらくさしおく。たゞ屈子忠藎の本は、こゝにありとしるべし。然るに屈子死して二千戴に及びぬれども、離騒をよむ人、其辞をのみ玩て、一篇の見どころ此数句にとゞまるといふ事をしらず。翁久しく離騒をよみて、ひとり此意を得しより、身づから屈子が知己として、いとゞあはれを添る中にも、又うれしくもなんありける。されば秘事といひしは、是をふかくかくして人にしらせじとにもあらず、たゞ多年工夫して得たる事を浅はかにいはゞ、きく人さへ等閑にきゝて過なましとおもふ程に、秘事とは申つるぞかし。諸君此意を得て、容易なる事となきゝ給ひそ」といへば、諸客、「翁のいひ給ふごとく、古より離騒をよむ人おほけれど、先儒の論も終にこゝに及ばねば、我等ごとき浅見にて、中〳〵おもひよらぬ事なるを、こよひ翁の御物がたりにてこそ承候へ。共君一夜話。勝読十年書(君と共に一夜話る。十年の書読むに勝れり。)とは、かやうの事をや申べき」とて各よろこびあへりき。

    遍照が黒かみ
 翁又いふは、「父母は人のもとなり。人窮しては父母をよぶ。是人の天性にして、自然の誠なり。古より仁人孝子は、常に父母を思ふ心を失はず。我より父母の名をあらはさんことをおもうては善を果し、我より父母の恥を胎さん事をおそれては悪を遠ざく。こゝをもて孝を百行の本ともするぞかし。されば屈子讒にあうて父祖をおもふにて、その君に忠あるの根ざしふかきを知べし。むかし良岑の宗貞、深草の帝におくれ奉りて、俄に出家し、僧正遍照となんいひし。その遍照かしらおろすとて、父母を思ひいでゝ、
  たらちねはかゝれとてしもうば玉のわがくろかみはなでずやありけん
 すでに仏に帰して世を捨ども、そのきはになりて父母をおもひ出るにて、天性に父母を忘るゝに忍びざる物のあるとはしらる。しかるに親をすて子をすてゝ出家するを、真の道に入とするこそかなしけれ。孟子の人の性を戕賊するといへるも、此たぐひなるべし。屈子は古今の賢人、宗貞は一代の寵臣、其人物もとより同日の談にはあらねども、いづれも名卿世禄の家に生れぬれば、その父母の心、わが子のながく国につかへ、身をはづかしめざるやうにとこそ期しつらめ。今身窮して、ひとりは離騒を作りて父祖をよび、ひとりは倭歌を詠じて父母をよぶ。それは似たれども、屈子は身をもて国に報じて、死して家声を堕さねば、我父のつけし名をはづかしめずとなんいふべし。宗貞は家をすて世をのがれて、抖擻の身となり下りぬれば、たらちねのなでし髪をあらぬものにすといふべし。翁さいつころ遍照が歌を見て、返しの意につかうまつりし、
  たらちねのかくはなでずとしりながらなどおろすらんその黒かみを
 彼が徒もし聞かば、「出家の功徳にて父母も成仏する程に、髪をおろすを父母への報恩とす」といふにやあらん。それはもと仏説に惑て天理に盲すれば、今更なにとさは告べきやうなし。責ていはゞかくなん。
  たらちねを思ふこゝろは世をすつる身にもすてえぬものとかはしる
 いつぞや源平盛衰記をよませきゝ侍りしに、頼朝敵におはれて、ふし木の穴に隠れおはせしが、敵にさがされて、すでに自殺に及んとする時、髻の中に仏の小像をゆひ添しを、首を敵に渡さん時、大将軍の所為にあらずといはれんとて、かたへのくらき所にかくしおかれしとなり。いつか正しく公なる事の、人にはづかしき事あるや。仏をたのみて後生をたすからんとおもふは、丈夫のしわざにはあらず。はづかしと思はるればこそ、さしもたふとしとしける仏をばすつれども、この心をばすてえぬにてこそあなれ。是をもて人皆羞悪の心を固有すといふ事をしるべし。されば遍照は父母を思ひいでゝ、本意なしとしりながら、かしらをおろし、頼朝は敵にしらせて、はづかしとしりながら、仏にへつらふ。いづれも本心を失ふといふべし。

    世をすてゝ身をすてず
 さはいへど、遍照が世をすつるとて、たらちねを思ひ出るこそ、孝心言葉にあらはれて、殊勝に覚え侍る。古より簪纓家の出家する多けれども、父母の事など思ひ出るは、なほ俗習のまよひとする程に、かゝる心ある人をきかず。その外遍照の歌どもは、さすが天理の残り香ありてきこゆるにや。
  皆人は花のころもになりぬなり苔の袂よかわきだにせよ
君をしたふのなさけふかし。
  はちす葉のにごりにしまぬ心もてなじかは露を玉とあざむく
 直きを祟ふの心たかし。さて遍照が後には、西行にてこそあなれ。東国へ行脚の序に鎌倉を過しに、鶴岡にて群集の中に紛れゐたりしを、其人がらの抜群なるにて、頼朝やがて見とがめて、営中に請じ、弓馬、倭歌の事などとはれしに、かの魏々然たる物にすこしもかゝはらず、思ふままに物語うちして、営中に候ける三浦、畠山をはじめ其外の群傑をも、人なきごとく思ひけり。頼朝もさこそとゞめたく思はれけめども、拘留せらるべうもなく、まいて引出物などは中〳〵、沙汰にも及ばず、前にありし銀の猫を賜りしをば、其まゝ受て出る時、道の辺にあそびゐたる児にとらせてさりぬ。其後跡をけちて、ふたゝび音もせざりけり。其ころ高雄の文覚といひし豪猛至極の悪僧、鎌倉の権をかりて釈門に威を振ひしが、西行が人となりをにくみて、「おのれもし西行にあひなば、まのあたり辱しめん」といひしに、或時西行高雄わたりにて行くらしける程に、文覚に宿をぞかりける。文覚幸とよろこびて、其徒弟にいひけるは、「汝ら見よ。西行見えば、かならず打ん」とて、拳を握りて待ける程に、弟子ども、事出来んとて、うとましく思ひしに、文覚、西行を一目見て、気を奪はれ、しほ〳〵と屈伏しけり。後日に弟子ども、「何とて言葉には似給はざりける」といひければ、文覚、「彼がつらだましひを見よ。我をうつべきものなり」といひける。是等にて其人がら高潔にして、気魄精神たゞうどにあらざる事を知べし。たゞ惜むべきは、儒道世に行はれざる故に、かやうの人あれども、真の道をしらず。其質の高明なるまゝに、大かた世をいとひて浮屠に帰するこそ歎かしけれ。但君をすて親をすてゝ仏に帰して、我身ひとつをたすけむとおもふは、世をば捨れども、其心は君にかへ父にかへても身をばすてぬにてありけり。身を捨ずしては、世をすつともいふべからず。世にありて名利をねがふも、世をすてゝ極楽をねがふも、清濁はかはれど、身の楽を思ふは同じかるべし。もとより仏の教は人倫を仮と見れば、君父をすつるはよしさもあらばあれ、たゞとても捨るとならば、第一に身の楽をおもふ心をもすてゝ、扨名利にはなれて見よかし。世をのがるゝにも及ばず、名教中に自然の楽地あるべし。何ぞ必しも人倫をすて、事物を離るべき。人倫をすて事物を離れて、たゞ己が往生極楽をねがふは、世をすつるといへど、いまだ身をすてえぬより起りて、楽欲はなはだしともいふべし。むかし或人語りしは、「わが郷里にひとりの婦人ありしが、夫におくれて日夜哀慕し、玉の緒も絶ぬるばかりに見えしを、其子ふかく憂て、いろ〳〵いさむれどもきかざりしに、日ごろ仏法をとききかする僧のありしが、婦人にいひけるは、夫をしたふはさる事にて、それは仏法に妨げとならず、たゞし夫にわかれて、男女の道もたえ、身もさびしく、頼なくなりたるにつけて、我身のためにかゝりて、かなしむ心の少しもまじりなば、これ私欲のまよひにて大に罪障を増長すべし。その所をよく〳〵分別してなげきてよといひしかば、婦人忽に心をひるがへして、それよりなげかずなりにける」とぞ。翁おもふに、此僧婦人を教誨せしは、誠にかしこく聞ゆれども、其身も同じことなるをばしらず。されば昔より仏に帰する人、貴賤男女をいはず、いづれも身の苦楽をおもふより起らぬはなし。明智の人といへど、此婦人の覚悟にも及ばぬなるべし。あたら人材をむなしうして、既にいく世をか経たる。末の代とてもさぞあるらめと、なにとなく空の打ながめられて、
宇宙依然百代流 道喪文弊思悠々 誰知天上孤輪月 長照人間万古愁
(宇宙依然として百代流る。道喪び文弊を悠々と思う。天上の孤輪の月を誰か知らん。長人間の万古愁ひを照らす。)
詩書道廃共誰陳 我説紛々日競新 明月似知千載恨 慇懃来照白頭人
(詩書道を廃す誰と共に陳べり。我説紛々日新きを競う。明月知に似て千載を恨む。慇懃来たりす照らす白頭人を。)
翁自から此詩を賦して口すさびければ、諸客も伝へ誦しけるが、月落河傾て、夜も既にあけける程に、各いとま申てまかりぬ。

    詩文の評品
 他日継で諸客来会せしが、各疑問事訖て、詩文の談におよぶ。いづれも翁にむかうて、「詩文は学問の余事なれば、急務には候はねど、是も芸に游ぶの類とや申べき。されば翁の詩文の論を承たく候」といへば、翁先詩の事を論じて、「詩は三百篇はとかう議するに及ばず。漢魏以後の詩も、文理悠暢、意思淵永にして、風雅の趣を失はざりしなり。蕭統が文選にのする古詩十九首、もろもろ楽府歌行の詩をよみて知べし。しかるに六朝に至て、綺靡をきそひ、浮華をつとめしかば、風雅の体はほろびにたり。唐興て李杜王孟が徒いでゝ、六朝の余習を一洗し、大に古風を振興せしより、今に至て詩を手習ふ人は、唐詩を学びざるはなし。盛唐の詩は古をさる事遠しといへど、風景を写し人情を述るに、なほ風雅の残膏剰馥ありて、おのづから人心を感ずるの妙あれば、学者の性情を吟詠するには、唐詩も捨がたきものに侍り。宋の司馬温公、杜甫が、「国破山河在。城春草木深。感時花濺涙。恨別鳥驚心(国破て山河在り。城春にして草木深し。時を感じては花にも涙を濺ぎ。別を恨ては鳥にも心を驚す)」といふ詩を論じて、古人の詩は意在言外(意言外に在り)を貴ぶ。山河在といへば、余物なき事しるべし。草木深といへば、人なき事しるべし。花鳥は平時娯むべき物にして、それを見てなき、聞て悲しめば、当時流離の情いはずしてしれたり。又明の王鏊が唐詩を論ずとて、国風緑衣燕々、碩人黍離等の篇、いづれも言外無窮の感あり。後世たゞ唐人の詩のみ此意あり。「渓水悠々春自来」といへば、懐友(友を懐ふ)をいはねども、懐友(友を懐ふ)の意言外に溢る。「潮打空城寂寞囘(潮空城を打ちて寂寞として囘る)」といへば、興亡をいはねども、興亡の感言外に溢る。風人の体を得たり、といひし此二子の論、ふかく其理を得たりと覚え侍る。是にて唐詩の妙をしるべし。李白が大原の早秋を賦して、「霜威出塞早。雲色渡河秋。夢繞辺城月。心飛故国楼(霜威塞を出て早く。雲色河を渡て秋なり。夢は繞る辺の城月を。心は飛ぶ故国の楼を)」といへる、此類の詩は雄壮の気をもて勝れたり。杜甫が江亭を賦して、「水流心不競。雲在意倶遅。寂々春将晩。欣々物自私(水流て心競はず。雲在て意倶に遅し。寂々として春将に晩れんとす。欣々物自ら私す)」といへる、此類の詩は深遠の思をもて勝れたり。其外王維が「日落江湖白。潮来天地青(日落て江湖白く。潮来て天地青し)」といひ、杜甫が「呉楚東南坼。乾坤日夜浮(呉楚東南に坼く。乾坤日夜に浮く)」といひ、孟浩然が「微雲澹河漢。疎雨滴梧桐(微雲河漢に澹る。疎雨梧桐に滴る)」といひ、柳宗元が「壁空残月曙。門掩候蟲秋(壁は空し残月の曙。門は掩ふ候蟲の秋)」といふ、みな馴雅の詞をもて不群の思を発せり。誠に宋人のいはゆる、難状(状難し)の景を写して目前にあるがごとく、不尽(尽さざる)の意を含て言外にあらはるとは、是等の作をやいふべき。其余の詩も是に例して知べし。杜甫が秋興の八首、王昌齢が宮詞の諸篇は、其体はかはりたれども、各其能を縦まゝにして、ことに傑然たるものならんか。しかるに中唐より晩唐に至て、韋蘇州、柳儀曹が外は、昌黎が文章古今に卓絶すといへども、其詩風雅には少し遠かりき。まいて孟郊賈島が寒痩、元稹が軽浮、白居が浅俗、李商隠が僻渋、温庭筠が媚艶、いづれも詩の厄といふべし。其作たま〳〵盛唐に出入するもあれども、其大概を論ずるに意趣鄙しく、品格下りて、見るにたらず。其余の作者も、大かた声律に拘り、窩臼に落て、詩は性情を吟詠すといふ事をしらざるなるべし。鄭谷が雪を賦して、「江上晩来堪画処。漁人披得一蓑帰(江上晩に来る画に堪る処。漁人得て一蓑を披て帰す)」と作れるを東坡が評して、「是は村学中の詩なり」とて柳子厚が作りし「千山鳥飛絶。万逕人蹤滅。孤舟蓑笠翁。独釣寒江雪(千山の鳥飛ぶを絶つ。万の逕人蹤を滅ゆ。孤舟蓑笠の翁。独り釣寒江の雪に)」といふ詩を引て、別格の事といへり、鄭谷が詩は巧にして、俗耳には諧ふべけれども、子厚が詩をもて見れば、その鄙俗あらはれておほふべからず。東坡が眼力のたかきを知べし。それにつきて思ふに、「細雨湿衣看不見。閑花落地聴無声(細雨衣を湿して看を見ず。閑花地に落て聞に声無し)」といへるは、盧綸が詩なり。人口に膾炙して佳句となん称し侍れど、よくいひおふせたるばかりにて、吟詠するに余味なし。宋の僧志南が、「霑衣欲湿杏花雨。吹面不寒楊柳風(衣を霑して湿と欲す杏花の雨。面を吹く寒からざる楊柳の風)」といへるは、清麗閑暇、咀嚼して味あり。盧が詩にはまさりぬべし。されば志南が詩を朱文公の称し給ひしを、げにさることとおもひしが。其後撃壌集をよみて、「梧桐月向懐中照。楊柳風来面上吹(梧桐の月は懐中に向て照る。楊柳の風は面上に来て吹く)」といへるを見るに、又一等従容の気象ありて、有道の言とこそ覚え侍れ。誠に風流人豪と申べし。此三人の作、句調景趣ともに相似て、おのづから三段にきこえ侍る。盧は辞を主とし、志南、康節は情を主として、情に高下あり。是にてしり給へ、詩は辞に拘れば、理窟に落て味なく、情に発すれば、意思を含て味あり。しかいへばとて、初学の人、辞の雅俗をしらずして、にはかに情の沙汰には及がたし。今世好て詩を賦する人を見るに、多は日ごろ唐詩をくはしくよまずして、たゞ主意を先だてゝ、己が俗膓よりたゞちにいひ出す程に、巧なるは詼諧をきくに似たり。拙きは禅録をよむに似たり。又世に一種偏曲無実の人あり。なにの主意もなく、楽府古詩の辞を剽掠して高古に傲り、己が家流の外一代に詩なしとおもへり。然ども其詩をよむに、猥碎流麗一向に文理をなさず、浮萍のごとく断綆のごとし。文字の怪といふべし。しかるに其党の人は相師祖して是を文雅風流とし、あまさへ聖人の道は文雅風流なる物といひしよしをきゝ侍る。文雅風流はよしそれにもせよ、道は文雅風流なる物といへるは、いかなるいはれにかあらん。さいつころ人ありて翁にかくと告ける程に、「さては道は仁義にはあらずして、詩歌管絃にあるよな。しからば孔孟よりは世の騒客伶人こそ道に近かりけめ。今までしらざりしは、いと口惜かりける事よ」といひしが、是は翁が戯なり。もとより詩文を好み、華飾を事とするは、道に益なきといふばかりにてもなく、人の心術を害するなれば、学者の専につとむべき事には侍らず。但一向に詩歌をたちて風雅の趣をしらざらんは、質勝て野なる方とや申侍らん。

    倭歌に感興の益あり
 されば我朝に歌あるは、もろこしに詩あるがごとし。よりて詩歌とて同じやうに取はやし候へども、我朝はむかしよりもろこしの文辞にうとく、李杜諸名家の詩をよむ人まれなり。たとひ読ても、その旨に通じがたし。たま〳〵白居易の詩和かにて、倭歌の風にもかなひ、平易にして通じやすき程に、是を唐詩の上等として、このみて長慶集をのみ学びけらし。この故に其詩みな膚浅粗俗にして見るに足らず。懐風藻、本朝文粋など考て知給へかし。反て近来五山老禅の賦する絶句の体の、一種澹泊の味ありて取べきにはしかず。しかれば我朝の詩は、すてゝ論ずる事なかるべし。さて倭歌に至ては、我朝の人これおをもて性情を吟詠すれば、からやまと詞はかはれども、その所はかはるべからず。詩は一首にて詞理ともに具足して、曲尽人情(曲に人情に尽くし)たれば、もとより三十一字の及べきにあらず。翁わかき時より盛唐の詩を好て読て、賈至が早朝大明宮(早に大明宮に朝する)の詩に「千条弱柳垂青瑣。百囀流鶯遶建章。剱佩声随玉墀歩。衣冠身惹御爐香(千条の弱柳青瑣に垂れ。百囀の流鶯建章を遶る。剱佩声玉墀の歩に随ひ。衣冠の身御爐の香を惹く)」と賦し、それを和して、王維が、「九天閶(もんがまえに昌)闔開宮殿。万国衣冠拝勉旒。日色纔臨仙掌動。香煙欲傍袞龍浮(九天閶(もんがまえに昌)闔宮殿を開く。万国の衣冠冕旒を拝す。日は色纔に仙掌に臨みて動き。香煙は袞龍に傍て浮かんと欲す)」と賦し、岑参が、「金闕暁鐘開万戸。玉階仙仗擁千官。花迎剱佩星初落。柳払旌旗露未乾(金闕の暁鐘万戸を開く。玉階の仙仗千官を擁す。花剱佩を迎へて星初めて落ち。柳旌旗を払て露未だ乾かず)」と賦し、杜甫が「旌旗日暖龍蛇動。宮殿風微燕雀高。朝罷香煙携満袖。詩成珠玉在揮毫(旌旗日暖にして龍蛇動き。宮殿風微にして燕雀高し。朝罷んで香煙携へて袖に満つ。詩成て珠玉毫を揮ふに在り)」と賦するを見るに、文彩の煊赫たるのみにあらず、開元泰平の気象目中にあるがごとし。かやうの所に至て、倭歌の風情は、殆蛍燭の日におけるやうに覚え侍る。たゞその情に発する一ふしは、おのづから詩にかなふ所ありて、人心を起す益なきにあらず。国風芣苢の詩に、「采々芣苢。薄言采之。采々芣苢。薄言有之(芣苢を采々。薄く言に之を采る。芣苢を采々。薄く言に之を有り)」といふがごとし。是は婦人のおほばこを采て日をおくるを自から賦したるなり。なにのをかしきふしもなけれど、其時代泰平にして、婦人までも無事をたのしむの情、言外にあらはる。それにはからずしてかなひたるは、
  もゝしきの大宮人はいとまあれやさくらかざしてけふもくらしつ
とよめるにぞ、我朝も延喜天暦のころは、朝廷和平、群臣閑暇なりし事、おもひやられていと感ふかし。芣苢の詩によくかなひ侍る。其外古今集の歌は、詞すなほに余情ありて、おほくは一唱三嘆するにたへたり。
  もゝ千鳥さへづる春はものごとにあらたまれども我ぞふりゆく
此歌を吟ずれば、老人の懐旧の情を感ずべし。
  春の夜のやみはあやなし梅のはな色こそ見えね香やはかくるゝ
此歌を吟ずれば、有徳の不可揜(揜ふべからず)の誠を感ずべし。
  世中にさらぬわかれのなくもがな千世もいのる人の子のため
此歌を吟ずれば、孝子の愛親(親を愛す)の情を感ずべし。
  風ふけば興津白波たつた山夜半にや君がひとり行らん
此歌を吟ずれば、貞婦の思夫(夫を思う)の情を感ずべし。
  忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみ分て君を見むとは
此歌を吟ずれば、君子不忘故旧(故旧を忘れず)の情を感ずべし。此類外にもなほ多かるべし。古今集以後八代集に至ては、あげて数ふべからず。中に翁が常に好て吟ずる歌一首あり。鎌倉三代実朝の歌に、
  武士の矢なみつくろふ籠手の上にあられたばしるなすのしの原
此歌を定家卿評して、鬼をとりひしぐ体といはれしとぞ。誠に勇壮をもてすぐれたる歌なり。外に此体の歌おほく見え侍らず。武士たる人常に此歌を吟ぜば、その金革をしきねにするの志を感じて、勇気をすゝむべきとこそ思ひ侍れ。さて春秋のあはれをいひ、月花などを詠めし歌も、たゞ其まゝに写しとりて、さながらみるやうにあるは、なにのをかしきふしもなけれど、かの詞つゞきたくみに、よくいひかなへたると見ゆるよりは、感ふかうしてすてがたく覚え侍る。今思ひ出したる数首をもて例していはゞ、
  久かたの光のどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
  朝日かげにほへる山のさくら花つれなくきえぬ雪かとぞみる
  うちしめりあやめぞかをるほとゝぎす鳴やさつきの雨の夕暮
  庭の面はまだかわかぬに夕立の空さりげなく出る月かな
  夕されば門田のいなばおとづれてあしのまろ屋に秋風ぞ吹
  秋風にたなびく雲のたえまよりもれいづる月の影のさやけさ
  津の国の難波の春は夢なれやあしの枯葉に風渡るなり
  駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
 是等の歌、不尽の景気をうつして、さながら目に見るがごとく覚え侍る。折にふれて是を吟詠せば、襟懐を清くし、塵想もけぬべし。西行が、「わが仏法は、倭歌によりてすゝむ」といひし、さもありなんかし。わがともがらも吟詠をたすけ、性情を養ふには、たよりなきにあらず。されば倭歌のすてがたきはこゝにあるべし。但此ごろの歌は、あたらしくいひいでゝ、一ふしをかしくきこゆるはあれど、こと葉の外にけしき覚えて、あはれふかきはなし。いかでか人の心を感興するの益あるべき。是も晩唐以後の詩のごとく、詞にのみもとめて情に本づくといふ事をしらぬなるべし。なに事も風俗の衰へゆくまゝに、浮靡にながれて、実をとり失ひぬるこそ、なげかしき事なれ。詩歌のみに限るべからず。

    六義の沙汰
 座中ひとり、「紀貫之が古今集の序に、歌のさまを六くさにわけて、からの歌にもかくぞあるべきといへば、詩の六義に其意かよひ侍るにや、承たくこそ候へ」といふに、翁、「倭歌の事はしらず候へども、詩の六義は、古今集の序にいひける六くさの趣とは、大きにかはりたる事になん侍る。詩は風雅頌賦比興をもて六義とす。風は諸国にあらゆる男女、各己が情を詠ずるの詩なり。国々にて其風体かはるにて風といふなり。雅は朝廷の公卿大夫以下、己が情を詠ずる詩なり。声正しく体いやしからぬにて雅といふなり。頌は宗廟において、祖考を尊び、福祚を祷るの詩なれば、頌といふなり。この三にて詩の全体をすべたれば、いはゞ織物のたてあるがごとくなるゆゑに、是を三経とす。さて賦比興の三は、右之三経を横に貫くありて、風雅頌の詩いづれも賦比興の三の体にはづるゝはなく、いはゞ織物のぬきあるがごとくなるゆゑに、是を三緯とす。三経三緯を合せて六義とす。三経は前にいふごとく、詩の部立なれば、格別の事なり。三緯は毎章詩の仕立にてわかつ事なり。賦は葛覃巻耳などの詩のごとく、情事をすぐに詠ずるをいふなり。比興のふたつは、すこし紛はしき体ともいはんかし。比は他物をもてその本意に比喩す。宮人螽斯を賦して、螽斯の多子なるをもて、后妃の子孫多きに比し、婦人栢舟を賦して、栢舟の漂流するをもて、己が夫にすてられてよるべなきに比するがごとし。本意すぐに比する物にありて、別に本意をいふに及ばず。興は他物をもてその本意をいひ興す。関睢の詩の、関々たる睢鳩をもて、窈窕たる淑女を興し、樛木の詩の葛藟をもて、君子の福覆をいひ起すがごとし。上はいひ起す迄にて、下に本意をいふなり。今詩の六義をもて倭歌を論ずるに、万葉集にのする国々の歌は、風ともいふべけれど、その外古今以下代々の歌、多くは輦轂のもとの作なり。これを雅といへば、閨秀桑門の作、又は恋釈教等の歌まじれり、雅といふべからず。神祇慶賀の歌などは、その意やゝ頌に近しともいふべけれども、是又宗廟楽歌のこと葉にあらず。其体又別なり。しかれば風雅頌の三は、倭歌にはきはめてあはぬ事なり。いかでか是をもて、倭歌の部立を定むべき。賦比興の三は、倭歌の体をわかたば、是はわかれもし侍らんか。されど廿一代集の歌、大かたはすぐに風景をうつし、情事をのべて、比興するは稀なれば、十に八九は賦といふべし。中に比興の体もたま〳〵は見え侍る。仁徳帝の御即位をすゝめて、
  難波津にさくやこの花ふゆごもりいまは春べとさくやこのはな
とよみ、斎宮の御子のさはり出来て、斎宮にたゝずなりなんとしけるに、其事はれて、つひに初に復せし事をよろこびて、
  大空をてりゆく月のきよければ雲かくせどもひかりけなくに
とよみ、わが身の老朽て世にもちふるかたのなきを打なげきて
  おほあらきの森の下草おひぬれば駒もすさめずかる人もなし
とよめる、みな外のものをもて比して、始終本意をあらはさず。この類の歌は、詩にていへば比の体にかなへり。人丸が夜のながうしてあかしかねたるを、
  足曳きの山鳥の尾のしだり尾のなが〳〵し夜をひとりかもねむ
とよめる、此類の歌は、詩にていへば興なるべし。いかんとなれば、上の句に山鳥の尾をもていひ起して、本意は下の句にあり。其外世の人口にある歌に、自から痛て老にけるをなげきて、
  おしてるや難波のみつにやくしほのからくも我は老にけるかな
とよみ、うき身の世にすみがたきといふ意を、
  あし鳧のさわぐ入江の水の江の世にすみがたき我身なりけり
とよめる、皆上の句に外のものをもていひおこして、下の句にて本意をいふ。いづれも興の体にかなへり。さはいへど和歌はもとより風雅頌のわかちもなく、賦比興の体もさだかならず。貫之がいへる六くさは、詩の六義を深く考へずして、たゞ歌のさまを六くさにわけて、詩の六義とかずをあはせて、かくいふなるべし。されば詩の六義は詩の六義、歌の六義は歌の六義と、格別に見て、あはせ論ずべからず。倭歌に限らず、官職律令等の事にても見給へ。我朝にて漢唐をまなびて建たる事に、取誤りて名実齟齬したる事多し。しかるを倭書をとく人、多は強て牽合して、其誤を信にせんとす。恐らくは公道にあらず。たゞ信以伝信(信以て信を伝へ)。疑以伝疑(疑ひ以て疑ひを伝ふ)といふにしたがひて、是非のまゝに沙汰するこそ、明達の論とはいふべけれ」

    作文は読書にあり
 後数日ありて、諸客来会せしが、翁にむかひて、「前日倭歌唐詩の事くはしく承り、異聞を得侍る。但倭歌は、我等ごときのかねて学ばぬ事に候へば、必しも自からよむには及ばず。詩も必しも自から作らずとも、古詩を吟詠しても、襟懐をきようするに足ぬべし。たゞ文章はそれとはたがひ侍るべし。たゞ今聖賢の書をよみ候も、文辞によりて求る事にて候へば、文辞の法にくらくしては、其蘊に通ぜざるのみならず。其義を誤る事もあるべく候。其上孔子も辞は達するのみと仰られ候。自身に文辞をもて書を解し義理を論じ候にも、其法をしらずしては、道理をいひ達する事も成がたく侍るべし。今我等ごときの晩進後生、文章を学び候には、いかゞ意得てよくあるべく候や、承たくこそ」といふに、翁笑て「むかし漁獵をこのむ人のいふをきゝしに、魚をとるよりは、鳥をとるはおもしろく、とりを捕よりは、しゝ狩は又おもしろき物なりとぞ。其相手にする事がらの大きなるにしたがひて、おもしろさもまさるにて候。翁いとけなかりし比、小倉の百首をよみ習しより、和歌のをかしきふしをもかたはし承りしり、其後学に就候てより、又詩文を好み候て、是には多くの年月を費し候ひし。今はくやしき事におもひながら、はや七十にあまり候へども、さすが日ごろのすきはいまだやみがたくこそ候へ。それにつきておもひ候に、和歌より詩はおもしろく、詩よりは文章は又おもしろく思ひ侍る。翁かねて申事にて候。義理はふかき物にて候へども、義理の工夫は、我邦の人とても、からにおとるべきにもあらず。さる程に宋明諸儒の説をもこゝにて是非し、その及ばざる所をも発明するにて候はずや。たゞ此文辞ばかり、こゝにて常に取あつかはぬ事にて候へば、書をも国語をもて訓じ、顛倒してよみ来り候程に、老師宿儒といふとも、よく辞に得て意に通ずる事難かりなん。況や多くは渉猟をつとめて、書をよむ事も雑駁なれば、いかでか文辞のふかき味をしるべき。是によりて自から作れる文章も、辞なづみ意塞り、或は奇険を務、或は怪僻に渉り、自から古文辞と称して世に傲れども、大かた見るにたらぬ事にて候。たとへば富商大賈の己が貨財多きに誇りて、簪纓家の風流を真似するがごとし。珍器名物などのかざりにて紛らかしぬれば、はし〴〵似たるやうにもあれど、かのやすらかにしておのづから風流なるに比すれば、なにとなくいやしきさまありて、更に同じ物にあらず。又口吃する人のものがたりするがごとし。さながらわけ聞えぬにてもなけれど、言葉つかへていひとりえざる事おほし。今此弊を矯むとならば、漢唐以来明理の文を読て、其中より文法をさとるにしくはなし。其鉅作をもていはゞ、賈誼が治安の疏、董仲舒が対策の文、韓退之が原道、歐陽永叔が本論等の篇を最とすべし。其外、柳子厚三蘇王曽に至て、古今大家と称する人の文章を見給へ。平易条暢ならざるはなし。いづれか今人の好める弇州滄溟が文のごとく、詭異難渋なる事やある。文に韓柳欧蘇あるは、詩に李杜王孟あるがごとし。されば宋明諸家の文章を論ずるにも、韓柳欧蘇を宗とせざるはなし。然ども諸家の文章を論ずる、皆過高にして初学に益なし。章法、句法、抑揚頓挫などやうの沙汰は粗熟して後の事なるべし。むかし孫莘老、欧陽公と相識事久し。或時乗間(間乗じて)文字をもて問しに、欧公のいはく「作文無他術。唯読書多則為之自工。世人之患在懶読書。又作文字少。毎一篇出即求過人。如此少有至者。疵病不必待人指摘。多作自能見之(作文に他術無し。唯書を読むこと多ければ則之の為に自ら工る。世人之患書を読む懶り在り。又文字を作るの少し。一篇出る毎に即人過るを求む。此のごとく至者有ること少し。疵病必ず人の指摘を待たず。多く作れば自から能く之を見る)」翁おもへらく、欧陽公の言平実にして味あり。文章を学ぶにこれより近きはなかるべし。翁数年文章に心を用て、何とぞ捷径もあらんかといろ〳〵尋求しが、後に文を学ぶに別に悟入の法なし、たゞ読書にあり、欧陽公の言我を欺かざる事をしりぬ。欧陽公古今文章の大家として、其言かくのごとく、其上古人の為にいへるに、心底をのこさゞる事あるべからず。しかるにその意是に過ざれば、此外に余法なき事明らけし。又韓退之答李翊書、柳子厚答韋中立書(又韓退の李翊に答ふる書、柳子厚韋中立に答ふる書)、並に蘇老泉が上欧陽内翰書(欧陽内翰に上ぐる書)を見て知給ふべし。三子いづれも初より著作を事とせずして、積年の力を読書にもちひしかば、読書に労して著作に逸せし事、はからざるに符節をあはせたるがごとし。されば韓柳欧蘇が文章におけるは天授の材といへど、それさへ読書より得ざるはなし。今吾党の学は、文辞を専にせねば、必しも文章家を学んとにはあらねど、常に用るに辞達して事のかけぬ程にとならば、それも古文辞をよむにつとむべし。今の後生多くは躁進にして、久しく潜思読書(思を読書に潜むる)にたへず、常に鋭志著作(志を著作に鋭く)して、たゞ自から文を作りて、師友の指摘を求るをのみよしと思へり。しらずや指摘の益は、大体文字程に中りて中に一ニ所の疵病を改め、又は彼善於此(彼此れより善し)とするをいふなり。今率易にして不成体(体成らず)の文字をもて是正を求るは、たとへば室屋のごとし。結構次第を失ひ、材木等倫を失ひ、或は堂を後にし室を前にし、或は棟を椽とし椽を棟とせば、一向に住居をなさずといふべし。大匠といふともいかゞ脩補すべきや。たゞ穹を窒ぎ、傾を支る迄にしてやみなまし。今後生の文字を指摘するも亦かくのごとし。爾においてなにの益かあらん。この故に翁かねて後生にいへらく、「先筆を下さず、その作の功を読にもちひて、古文辞に覃思(思ひを覃う)せよ。久しうして必古人の口気になれ、古人の作意を得て、我心に悦懌する所あるべし。しからば時々誉揚するも工夫のひとつなりと先儒もいへば、著作を一向に廃せよとにもあらず、但十に七八の力を読にもちひ、二三の力を作にもちふべし。かくして月を経年を経ば、韓柳欧蘇がやうにこそなくとも、相応に悟入する所ありて、文字を作るに手熟し筆活して用るに随てたりぬべし。是晩うしてはやく、遠うして近きの道なり」

    多銭善賈
 座中の諸客、「文章の学は読書を要とする事くはしく承り候。しからば文章の為によむべき書はなに〳〵と承たく候」といへば、翁きゝて、「韓退之が進学解に、規をとり作を擬するの書をいふに、上姚姒より下大史所録子雲相如(下大史の録する所子雲相如)に至り、柳子厚が韋中立に答る書にいふにも、詩書を首として太史公に至る。二子いづれも班固以下は取所にあらずと見えて候。されど韓退之が答李翊(李翊に答る)の書に、「三代両漢の書にあらざれば敢てよまず」とあれば、西漢書をばすてざりしにや。欧陽、東坡などはことに博学の人にてあれば、古今の書によまざるはなかるべし。欧陽が韓文を学び、東坡が孟子を学ぶといふは、多読の功つもりて、こゝに至て性のちかきより悟入する所にあるによりていふなるべし。曽南豈陳無已に伯夷伝を与へてよませけるに、無已それより文法をさとるとなり。古人多はかくのごとし。今伯夷伝をよまざる人はなし。しらずよく文法を悟んや否や。ちかき頃帰化の人舜水の朱之瑜が物がたりに、東坡頴浜わかきころ、父老泉なにやらん常に一書を枕中より取出てよみけるが、ふかく秘して見せざりしを、父あらぬ時にひそかに取出して見れば孟子なりけるとぞ。此事なにの書にも見えず。あなたにてたゞ世にいひ伝へし事ときこえし。老泉が批点の孟子とて世に伝ふるも、真偽はしらねども、是をもていへばさもありぬべし。老泉も日ごろ先泰両漢の書を見たればこそ、孟子を読て悟入しける程に、かく愛玩はしつらめ。されば多銭善賈、長袖善舞といふごとく、文章も多読にしくはなかるべし。但先泰両漢の書とても、巻帙浩繁にして、吾徒の材力にてはあまねく精読し難かるべし。是によりて翁は其中を取て、五経論孟の類は勿論にて、老荘屈宋が作、淮南、荀卿が書、さて丘明が国語、左伝、司馬遷が史記、班固が西漢書に極めたく候。其外は唐宋大家の文を熟読すべし。是も全集をよむにはおよばず、幸に明の茅鹿門の抄録したるあれば、是にてことたりぬべし。八大家の文をよみて自得する所あらば、明朝諸家の文は遙に其下に出る事を知べし。体製迭に出て呈新(新を呈す)とも、珍とするにたらず。奇怪相競て献異(異を献す)とも驚にたらず。いはゆる観於海者難為水(海を観る者には水を為し難し)とは是等の謂なり。されば義理は濂洛関閩に至り、文章は韓柳欧蘇に至りてもはや加ふべからず。後世作者ありとも、これを易る事なかるべし。しかるに世の宿儒と称する人、己が麤浅猥瑣の文をもて、みだりに韓欧が文を非毀するよし聞え侍る。ちかき頃も其徒のいひしとて「韓はなほに取にたる。欧陽はいまだ文辞を解せぬなり」と語るをきゝてをかしかりしか。むかし韓退之文を作りて人に見せて、人笑へばよろこびとし、人誉ればわが文いまだ俗人のよろこぶ所あるとしりてうれへとすといへり。老子にも「下士聞道大笑之。不笑不足以為道(下士道を聞て之を大笑ふ。笑ざるは以て道と為に足らず)」とこそ見え侍れ。此等の人に笑はるゝにて、いよいよ韓欧が文の高きをしる。もし此等の人に誉られば、韓欧とするにたらず。是も程朱を譏ると同じ意にて、もとよりいふにたらぬ事なれども、己が量をしらざるの甚しきといふべし。古人を笑ふとすれど、みづから笑を後世に貽さんこそなげかしく覚え侍れ」

    文章の盛衰
 しばらくありて翁、古今の文章を論ずるに、西漢の文章は、秦疏制策の外、賈誼が過秦論、司馬遷が答任安書(任安に答ふる書)、司馬相如が諭巴蜀檄(巴蜀に諭す檄)、楊雄が解嘲、比類猶多し。其文大抵雄偉高邁、後人の及ぶところにあらず。東漢以後、文章衰弊して振はず、六朝に至て、四六俳偶をもて工とせしかば、規模蕩尽し、気象萎蕭して観にたるものなし。唐に至てその余習いまだ除かざりしに、韓退之、柳子厚の二子、いづれも超絶の材をもて、一生の力を尽し、古今の言を陶鎔して自から機杼を出したれば、その文上追西漢(西漢を追ひ)て殆過たりともいふべし。東坡が韓文公の碑に、「文起八代之衰。道済天下之溺(文八代の衰を起く。道天下の溺を済ふ)」といひしが、道済天下之溺(道天下の溺を済ふ)はしらず、文起八代之衰(文八代の衰を起く)といへるは異論なき事なり。誰かしからずといふべき。其後五代を歴て漸々衰へしを、欧陽、東坡の二子相継て出て振起せしかば、文章ふたゝびいにしへに復しぬ。其文光明正大、又追配韓柳(又追て韓柳に配し)て羞ざるべし。是をもていふに、韓柳欧蘇は文章家の大宗たり。古今文章においては、一人も非議するものあるをきかず。されば明朝に至て、朝臣文士多く出て、文章世に盛なりしが、劉基宋濂李夢陽何景明が徒名を一時に擅にし、大家と称せしかども、韓柳欧蘇が文においては、一言も雌黄を下す事なし。おもふにふかく慕尚して欽服しけらし。其外文章をもてきこゆるもの、唐順之王慎中が徒、各一家の言を立といへど、いづれか韓柳が遺流をくみ、欧蘇が余波を揚ざる者ある。然るに文章は時運と盛衰する物なれば、明の中葉より以後稍々衰へゆく程に、平易なるは鄙俚となり、簡古なるは剽窃となり、それより天下の文章科挙帖括の習に落て、是を時文と称せしかば、古文は見るべからざる事になりにたり。此時に当て古文に志ある人世に輩出して、復古矯俗(古に復し俗を矯める)に急なりしも、韓柳欧蘇が文をこそ赤幟とせしか、篇ごとに揄揚し、句ごとに品藻せざるはなし。しかあれど材識高からず、薀蓄深からざるによりて、その所作の文を見るに、古に似て古にあらず、雅に似て雅にあらず、最後に李攀龍王世貞出て、その平易にて膚俗にちかきを厭て、相与に奇怪の文を造作し、狂蕩の論を譸張し、洸洋自恣にし、一世を鼓動せしかば、四方の文士靡然として帰依せし程に、号して文章の主盟と称しき。されば滄溟鳳州も、常に韓柳欧蘇が文をば褒称して、終に非議する事をきかず。鳳州は晩節に及て文友と文を論じて、やゝ後悔して、平正にかへる志ありしかども及ばざりけるよし、銭謙益が列朝詩集に見えしと覚え侍る。しかるに今文章をもて自から許す人の、王氏が棄余を捨て彼が四部稿を師祖とすと見れば、また鳳州が心にたがひて、反つて韓欧を毀るこそ、いと意得がたけれ。定めてふかき意もあるにかあらん、翁などが小見にてしるべき所にあらず。

    曇陽大師
 今更こと新しき申事にて候へども、人は第一義理の大筋をしりたきものにて候。かやうの事をいふを今世の儒者きゝては、「たれ義理しらぬものやある。初心なる事をいふ」とて、さこそ嘲笑ふにてあるべく候へども、世に鉅儒と称する人にも、義理の筋くらき人も見え侍る。孔子も「君子は義以為質(義を以て質と為す)」と仰られて候。是は君子言行の上にて仰られ候へども、すべてよろづの事、義理を質とせざるはなし。いはんや文章は質ありての文なれば、義理にもとづかずしては、浮靡乱雑にして文章とはいふべからず、されば韓柳欧蘇の四人、いづれも文章科中の人なれば、道の深きをしりたる人とは許しがたけれども、義理の筋しらぬ人にはあらず。但韓欧は道のあらましをもうかゞひ、一代の正人たりぞかし。柳蘇はふたりながら釈氏に浸淫し、それに柳は叔父が党にいり、蘇は洛学の仇となる。これををもて正人君子のために貶議せらる。それは学術の正しからぬによれば、今更是非するにたらず。その文を見るに、必義理に根拠して、識遠く思ひ永し。中に柳が文は精深雅健にて、気格ことに雄抜しける。蘇が文は議論振発し、理致明鬯にして、確乎として抜べからず。こゝをもて韓欧に配して愧ざるにあらずや。明朝に至ても、弘治正徳のころまでは、文章といへば義理を主とせざるはなかりき。もし己が博聞に傲て、たゞに文辞に馳騁して、義理を主とせざるの文は、しひてその辞を矯飾して、文彩目を驚かし、変幻百出すといふとも、明眼の人一たび観ば、その猥浅にして見るにたらざるをしらんかし。滄溟鳳州等が文是なり。翁かねて二子の為人(人と為り)を考るに、狂率軽俳にして、夢にも義理しりたる人とは見えず。なにゝよりて徴逐して詞賦をもて相誇り、中原二子をもて自から許すに至る。その顛狂恣雎いふばかりなし。いく程なくして、鳳州が父王忬、怨家のために誣られて、下獄(獄に下し)論死せられしかば、鳳州弟世懋と同じく、棄官(官を棄て)て長安に走り、父の死に代らんとこひしかどもかなはざりしかば、号泣徒跣して柩を負て帰葬しける。これはさすが本心を失はぬ所もあるかと見えしか。それより身の不幸をかなしみけるにや、又は滄溟も心病にて暴卒せしかば、謔浪笑敖の友もなくなりし程に、志気沮喪しけるや、忽に故態を変じて釈氏に帰依し、伽藍を建立し、又弇州の園をつくりて、日夜賓客と其中に宴游し、歳月を玩愒しける。なほそれよりもあやしむべきは、社友王錫爵が女、比丘尼となりて恬澹教門を立しを、鳳州これが弟子となりつゝ、其尼を尊て曇陽大師と号し、錫爵と同じく結盧戒食し、それより賓客を謝し、筆硯をやき、朝夕梵誦をのみ勤めけるこそ希有なるわざなれ。しかもそれにもたへず、やゝ久しうして宿好を忘るゝ事あたはず、又出て詩人酒客の間にあそびけるが、程なく身まかりにけり。各是にて鳳州が為人(人と為り)を考へ給へ。病狂喪心(狂を病み心を喪ふ)の人に似たり。然ども博聞宏詞名を窃むにたり、同俗合汚(俗に同し汚を合せ)衆を収るにたりしかば、其時に当て地望の高き、游道の広き、海内の人物を鼓動せしかば、王守仁が良知の説をもて、天下を傾けし後はきかざる所なりとて、世の論者、陽明を並べ称して一代の盛事としき。翁おもへらく、明朝の学は二王に変ず。義理の学は陽明に変じ、文章の学は鳳州に変ず。但良知の説は内省存心の工夫に係て、儒者分内の事を離れず。鳳州に至ては、名撿をいとひ規矩を破り、たゞ文雅風流をもて学とすれば、その害晋の清談に似てなほ甚しきものといふべし。今世師儒と称して法を孔子に誦すといへど、実は名聞をつとめてつゆ道に志なければ、二百載の下鳳州が声威をかりて、世好に投じ時望を取んとするは、いとさかしき謀ならし。今其師といひ弟子といふもの、群居して文談するをきくに、口にまかせて大言し、道を語れば程朱を排し、文を論ずれば韓欧を貶し、自から牛耳を執て一世人なきやうにいへるこそ、むかしの攀龍世貞が会に髣髴しけれ。よく其伝を継たるといふべし。

    寸鉄人をころす
 後数日ありて諸客来会せしが、翁に、「前日文章のために読べき書御示教ありて承りて候。それにつき請益(益を請け)たき事の候。右御差図の書は、我等とも日ごろ読候て、常に取あつかひ申物にて候。今改て文章のために読候には、よみやうの意得もあるべく候や。承たく候」といへば、翁「それは尤なる心づきにて候。大凡書は多読をよしといたし候へども、たとひ千巻万巻の書読候ても、その書に意を精しうせず、たゞうはべにてひと通りに読過しては、何の益をか得べく候。寸鉄人を殺すとて、一寸の鉄にてもよく鍛へば人を殺すにたり、長道具たりといへども、なまりにては用にたへざるがごとし。むかし東坡自から西漢書をよみし事をいふに、治道、人物、地理、官制、兵戦、貨財の類一過ごとに、専ら一事をもとめしかば、数過を待ずして事〳〵精覈なるとぞ。虞邵庵是をもて人に教て読書の良法としけり。今此法にしたがひて、五経、左伝、遷固が史をも文章の為とよまんには、義理事実に貪著せず、たゞ文章の一筋を主としてよむべし。志慮分るゝ所ありて専一ならねば、意を精しうすることをえがたし。それにつきて翁日ごろ四法を定め侍る。その一に字例、文字を用るの例なり。たとへば薬の能あるがごとし。参茋同じく補なれども、其用ひ異なり。芩連同じく瀉なれども、その用ひ異なり。文字も亦しかなり。勉字務字(勉の字務の字)同じくつとむるなれども、其もちひ異なり。慎字敬字(慎の字敬の字)同じくつゝしむなれども、其もちひ異なり。すべて我朝同訓の字、皆其同異を弁ずべし。もし同訓にまよひて其同異を弁ぜずしては、こまの行きをしらずして象棋をさすがごとし。必用ひ誤まる事多かるべし。其外の文字も、一字あれば一字の能あり。焉矣乎哉等の助字に至まで、同異しりやすきもあれど、少しのたがひにて、疑似するもあれば、とかく古人の用ひし例をひろく考へ、彼此をかよはして見るにしくはなし。其二に語類、字かさなりて成語をなす、其類一ならず。政治に係る語あり。兵戦にかゝる語あり、人の性行に係る語あり、事の措置に係る語あり、古訓の語あり、比喩の語あり、其外あげていふべからず。必しも其語をすぐに取にはあらねども、古の成語を多く記して、其中より転化し出せば、おのづから雅にして俗ならず、直にして迂ならず。其三には鋪敍語を鋪て章段をなすをいふなり。群分類聚の所あり、交互錯綜の所あり、意を設るの広く、言を布の贍はしきを見るべし。其四には体裁、鋪敍によりて首尾をなすをいふなり。起端あり、承接あり、転折あり、収結あり、文勢の抑揚頓挫条貫の滞らざるを見るべし。右の四法をもてよめば、汎然とよむにあらず。加之(之を加ふ)歳月の功をつまば、おのづから自得する所あらん。筆を下し文作るに、用字(字を用る)に誤らず、造語(語を造る)にいやしからず、鋪敍備り、体裁正しく、言をたて道を論ずるの助けとするにたらんかし。もし徒に文字をもてあそび、観美をつとめ、これをもて学問の事とせば、浮虚無実の甚しきといふべし。かの文雅風流を道とするものと、なにをもて異なるべき。しからば今かく云々するも、人を邪に納るにして、翁も其罪なしとせず。今世の学者、多くは軽俊にして実行を心とせず、たゞ文辞に馳騁して虚誉を求めざるはなし。然るに師儒たる者、たとひ痛く懲すとも、猶たえざるべし。況や道徳にあるか、文章にあるか。道徳にあるといはゞ、文辞はもとより道徳にあらず。文章にあるといはゞ、いはゆる夫子の文章は、道徳の美の威儀文辞にあらはるゝをいふなり。今たゞに文辞をさして道とするは、玉帛をもて礼とし、鐘鼓をもて楽とするに同じ。されば孔子も「礼云礼云。玉帛云乎哉。楽云楽云。鐘鼓云乎哉(礼と云ひ礼と云ふ。玉帛をしも云はんや。楽と云ひ楽と云ふ。鐘鼓をしも云はんや)」との給し。翁も聖言を真似て、文といひ章といふ、文辞をしもいはんやといはましとぞ思ひ侍る。

    言は身の文
 翁かねて思ふに、口を発する上にていへば言とし、言の連続する上にていへば語とし、語の模様をなす上にていへば辞とし、それを文字に写す上にていへば文辞とす。しかれば言語、文辞同じものなり。たゞし後世文字の辞を文辞といふより起て、文辞に限り文章といふは、古意を失ふのみならず、身に取て文章のおもきは言語にあり、文辞はその余事なる事をしらず。古より慎言(言を慎む)の訓一にしてたらず。孔子も「言行は君子の枢機、栄辱の主」との給ひ、子貢も「君子は一言もて知とし、一言もて不知す」といひ、南容は日に白圭を三復しけり。是によりていふに、身の文章は言語よりおもきはなし。介之推が、「言は身之文也」といひしをぞ、ふかく其理にあたりたるといふべし。世の儒者と称する人、多くは出辞気(辞気に出)して鄙倍を遠ざくる事をしらず。或は大言を恣にし、戯謔を好み、或は女色を論じ、貸利を議し、其言をきくに委巷の談のごとく、奴隷の語に似たり。文雅風流安にかある。それにたゞ詩を賦し文を著はし、琴を鼓し笙を吹て古人の文雅風流とす、いはゆる買櫃還珠(櫃を買て珠を還す)の類なるべし。たとひ文雅風流古人に似たりとも、優孟が孫叔敖を学ぶがごとし。況や大きに似ざるものをや。誰か真の孫叔敖とすべき」座客の中にいふは、「兵家山鹿の何がしが、世に士の金銀の事を口に沙汰するはいやしき事といふは、大きなる僻ごとなり。金銀はなくて叶はずして、至て大切なる物なり。それをいやしめ軽んずべきにあらずとて、諸侯より金銀を贈れば、取て戴きてさしおきけるとぞ。翁はいかゞ思ひ給へる」といへば、翁、「それは兵家利害の僉議よりいふにやあらん。士の道はさにはあらず。いかにとなれば、士は義理より大切なるはなし。其次には命を大切とし、金銀は又その次なり。此二つも大切なる物故に、やゝもすれば生死の場、金銀の事に臨ては、かの義理といふおもき物を取違るぞかし。よりて貪生貪利(生を貪り利を貪る)の事をば、心にとゞめじ口にもいはじと心づかひするは、士はかりにも利欲に近づかじとなり。惣じて利欲といふは、金銀の欲にかぎらず、身の勝手を思ふは皆利欲なり。されば命は金銀より大切なる物にあらずや。勝手をもていはゞ、命をいくるばかり勝手によき事はなけれども、義に臨ては塵芥よりも軽んずるは士の道なり。いはんや金銀においてをや。もとより大切のものなれば、常に身の養生をつゝしみ、金銀もあらく費し用ひざるはさもあるべき事なり。さればとて、命をし金銀たつとしと心におもひ口にもいふは、商賈などには似合たるべし、士にはあるまじき事なり。むかし小説の書にて見侍る。唐の柳公権が家に久しく召仕し婢ありしが、柳家をいでゝ楊巨源が家に仕へしに、夫人絹を買とて、自ら牙儈と價の高下を議せしを見て、俄に驚疾を得て楊家を謝し去けり。その後人にむかひて、「われ多年柳家にありしに、終に内子の自から物をかひ、物の價を問れし事をきかず。しかるに夫人牙儈と價を議せられしを見ければ、きもきけぬやうに覚えて驚疾を得たり」といひしとなり。柳氏はさすが唐の世族にて、家風いさぎよく、新進の家とは格別の事なんありける。されば中唐のころにはめづらしき事なればこそ、かく記し置けるならし。我朝は君子国と称せらるゝしるしにや、中古迄は風俗淳素にして、貸利にひすかしからず、義理を堅く守るとにはなけれども、おのづから廉恥の風もほろびずなんありける。武家の世になりて、風俗大きに変ずといへども、士たる者は金銀の事をば常にいろはずして、しかも倹素質直にて、いさゝか驕なかりき。近き頃までもしかなり。ある老人の物がたりに、朝鮮陣の時、日根野備中守朝鮮へ使に行しが、家貧して支度なりがたかりければ、三好新右衛門をもて、黒田如水より銀百枚をかりける。帰朝して後、新右衛門同道して如水のがり行て一体をいひしに、如水対面して、しばらくありて人をよびて、「さきにもらひし鯛を三枚におろして、其骨をたゞ今吸物にして出せ」といふ両人聞て、心に不足しけるに、酒をはりて、三好銀を取出して返ししかば、如水、「最初よりかしぬる心にてはなし。合力する心なり」とて再三しひてかへせども受取ずしてやみぬ。飲食の事には、もらひし鯛をもみだりにもちひず、しかも客のまへにていうて、いふまじき事とも思ひよらず。さて朋友急用の為には、銀百枚ををしむべしともおもはず。是等の事にても、其時代の士の風俗倹素質直にして、しかも義を忘ず、心事潔白なることをしるべし。翁わかき時の事をおもふに、其頃までも年わかき人などは、物の直段の事をば、かりにも口にいはず、女色の咄をきゝては赤面する人もありけり。大かたは古戦軍術の事を聞てよろこび、君父への奉公、武士の覚悟などを僉議せしぞかし。当代わかき人の出合をきくに、多くは勝手損得のはなし、又は女色遊興の事を互に語りあうて、一座の慰とせざるはなし。此五六十年以前とは格別の風にこそ成行けれ。又其ころ加賀に青地采女といひし士あり。
其子蔵人といひし者は翁が亡友なり。其父采女が子弟にいひしとて、「人と物をかへて興とする事、世にある事なれども、汝等必すべからず。かへまけて彼に得あるはよし、もしかへ勝て我に得ある時、棊象棋に勝たるとはちがひ、心すみせぬものなり」と語りしこそ、心にくゝ覚えしか。当世は人と物をかへて、かへかちたりとよろこび、又はたかき物をいやしく買得て、ほり出したるなどといふは、商賈のわざにして、士たる者のすまじくいふまじきことなり。また先年新井筑後守がいひしを覚え侍る。「人の噂をいふとて、しはき人とはいふまじきことなり。金銀にさへしはければ、命にはいよ〳〵しはかるべしとしれたり。しかれば臆病の唐名ときこゆべし。侍講のとき文廟へも申上ける」とて語りし、尤道理ある事なり。されば士は一言の上にも心をつけて、利欲、臆病、好色等の筋の事をいはず、口に無択言(択まん言無し)をこそまたなく見事なるともいふべけれ。かの世儒のいふ文雅風流も、こゝにもとめば、道に中らずといふとも遠からじ。今身の言行をすてゝ徒に文辞の末にもとめて、聖賢の道こゝにありとす。これその所好(好む所)に僻して、自から道に背くことをしらざるなり。しかしながら正学をみだり、後生を誤るこそなげかしけれ。詩にいはく、「誰生厲階。至今為梗(誰厲の階を生じ。今に至り梗を為す)」この謂なり」

    一日の沢
 冬もやう〳〵ふかくなりけるに、暮行空のけしきすさまじく、雪もちら〳〵打ちりしが、とかくする程に、日もすでにくれはてゝ、烏羽玉の闇さへいとゞうとまし。かくて夜もふけ行まゝに、夜さむ身にしみわたり、しばしもいねやらで、丑みつばかりになりぬるに、鐘のこゑもきこえず、鶏の音もせで、なにとなくしづかになるやうに覚えしが、いつあくるともなく、窓のしらみあひける程に、家にありしわらはよびおこして、閨の戸あけさすれば、夜のまに雪いとおもしろうふりつみて、庭の草木も花さき、にはかに春来るこゝちし、四の山の端もみな白妙になりて、人間世界、さながら天上の白玉京かとあやまたるゝ折しも、あたりちかき池の水鳥のこゑ〴〵になくも、程なければきこゆ。さこそ波のうきねのさむからめと、それさへ哀を添て、さても心あらん友もがなと、人ゆかしう思ひし折ふし、いつも問かはす人のもとよりとて、文もて来ぬ。いそぎ開て見れば、「めづらしき雪にて侍る。いかゞ見給ふやらん。さては此雪に、御起ふしも覚束なくおもひ侍る」となんかきけるにつけて、かの兼好が、雪のいとおもしろう降たりしあした、人のがりいふべき事ありて文やるとて、雪の事なにともいはざりしに、此雪いかゞ見ると一筆いはぬとて、口惜き事といひこせし事をふと思ひいでゝ、是はあなたよりかく気をつけていひこせしを、こなたより返事なくば、うらみやせんとおもひしまゝに、使しばしまたせて返事かきて奥に、
  空にふる雪はこずゑの花なれやちるかさくかとあやまたれける
とかきて、さて、「けふはひとへにさびしくくらし侍る。思ふどちいひあはせてこられよかし。それこそ誠の志と思ふべけれ」といひやりけり。かくてやゝ日たくる程になりて、門をたゝく音しけり。人してあけさすれば、かの文こせし人、例の人〳〵伴なひて来にけり。形のごとく主設けして、翁うれしく、さむさ忘れてにじり出、かたみに語りあひしが、酒煖めて出しけるに、衆客もみな醉を勧めて、清談いとこゝろよく見えし。翁、
  あるじする心ばかりはこゆるぎのいそぎありくにおとらめや君
 「われら事足たち侍らねば、御為にさかなもとめてありくことはかなひ侍らねども、心ばかりはそれにもおとり申候まじ」と戯ごとなどいひて程を経けるに、衆客、「けふの雪には、翁のから歌なくてやはあるべき」とて、翁に簡を授けしに、翁、「いやとよ、むかしは雪月花の折にあへば、はや詩の思ひよりも候しが、今は老ほれて、其心もさふらはず。詩も久しくすてゝ作らねば、口渋りていひ出べき事も覚えず。されどけふの御尋忘れがたく侍るまゝ、いかさまにも申てこそ見め」とて、しばし打案じて、
  家住駿台下 門臨万里流 隠雲平野樹 棹雪遠江舟
  (家は住す駿台の下 門は臨む万里の流れ 雲隠る平野の樹 雪に棹さす遠江の舟)
  吾老愧安道 客来皆子猷 草堂偏間寂 喜共故人遊
  (吾老て安道に愧づ 客来て皆子を猷 草堂偏へに閴寂 喜て故人と共に遊ぶ)
「もとより翁が言えは、地たかく長流に俯し候へども、門はながれに臨まず候。然るに今の詩に「門臨万里流(門は臨む万里の流れ)」といへるは、そらごとにちかく候得ども、言葉つゞきよく、句勢あるやうにと思より、かく申にて候。韋蘇州が「野渡無人舟自横(野渡人無く舟自ら横たう)」といひし類にて候。されば詩は詞に泥て心ならず不実になり候故に、古より篤実なる人は、多くは詩を好まぬも理にて候。たゞし是程の事は、詩にはゆるし申にてもあるべく候。常の言語に此くせ出申さぬやうに意得べき事にて候。さらば各も一首賦せられ候へ」とて、筆硯を授ければ、一人
  多天衝雪到君家 此日倚欄眺望賖 雨岸水寒如夾鏡 千林樹合似開花
(多天雪を衝て君家に到る 此日欄に倚て眺望賖なり 雨岸水寒鏡を夾むごとし 千林樹合花を開くに似たり)
又ひとり、
  天従雪後海寰新 積素凝華先入春 清白由来誰相似 草堂高臥是何人
(天雪後に従ひ海寰新し 素を積み華を凝らし先春に入る 清白の由来誰に相似る 草堂高く臥す是れ何人ぞ)
又ひとり、
  欲問駿台臥雪時 行吟招隠太冲が詩 古人高義今何在 此地無君誰与期
(問はんと欲す駿台雪に臥す時 行吟す招隠太冲が詩 古人の高義今何にか在る 此地君無くんば誰と与に期せん)
又ひとり前の翁が詩の韻を和して、
  高堂幽僻地 積雪暗長流 帰騎迷来路 漁人滞去舟
  (高堂幽僻の地 積雪長流に暗し 帰騎来路に迷ひ 漁人去舟に滞る)
  行蔵論古道 経済問嘉猷 寄語世閒の客 誰知塵外遊
  (行蔵古道を論じ 経済嘉猷を問う 語を寄す世閒客 誰知塵外の遊を)
 それより迭に唱和しける。かくて酒酣になる程に、翁も今すこしたうべんとてのまんとしけるが、座中に世に行はるゝ散楽の謡によき人ありしに、翁其人に一曲とすゝめしかば
  肩上の笠には無影の月をかたぶけ、担頭のしばには不香の花を手折つゝ
とうたひ出しけるを、外の客をもつけてうたひける。翁打きゝて、「折からよくこそ思ひよられ候へ。山家雪中の景気を見るやうに覚え侍る」とて、硯引よせて、
  六出花埋三径平 惣聞白雪入歌声 市中賖酒酒家近 堂上開書書帙清
(六出花埋て三径平 忽聞白雪歌声に入るを 市中酒を賖り酒家に近し 堂上書を開て書帙清)
  玉樹玲瓏四隣合 銀沙的皪一川明 幽棲何減山陰興 莫厭留談到日傾
(玉樹玲瓏四隣合す 銀沙的皪一川明なり 幽棲何ぞ減ぜん山陰の興 厭こと莫き留談日の傾くに到るを)
 翁諸客にいひけるは、「律詩は文字のもちひやうこそ簡要にて候へ。たとひきこえ候ても、相応すると相応せぬとあり。又一字にて景趣を生ずると意味なきとあり。自作の詩にて申候はいかゞに候へども、しばらく愚意を申候べし。此詩第一句の平字かふべからず。雪深くして三径のきはもなく、ひとつにふり埋みし体にて候。第二句の入字、字眼とも申すべし。諸君の謡を白雪の曲に比し、けふの雪の声に入と申所に意趣あるにて候。第五句の合字は、雪にて四隣の樹のひとつになるを申にて候。第六句の明字は、上に雪を銀沙に比し候故、的皪には明字的実にて、力あるやうに覚え候。いづれも心をつけたる字にて候。惣じて律詩は韻字の取やうにて、作者の品は其まましれ申ものにて候。世間の詩を作申者、一両句を得ては韻になづみ、其韻をさがし候てしひてもちひ候故、さながら韻に苦み候としれて見ぐるしく候。其韻に相応の字なくば、其一句をすきとかへ申候歟、又は韻をすてゝ、他韻にて作るべき事にて候。唐詩の韻の用やうをよく考て見るべし。是唐詩を学ぶ簡要のころなり。思過半(思ひ半に過ぐ)とも申べし。さて詩の僉議は是までにて候。今日の会ぞめづらしく覚え侍る。むかし子貢大蜡の祭に会飲せられしを、孔子「楽しきか」と問給ひしに、「一郷の人酒に醉て狂するがごとし。これを見てなにのたのしき事をしらず」と申されしを、「百日の蜡、一日の沢、爾が所知(知る所)にあらず」と仰られしと家語に見えたり。民ども四時稼穡を勤めて、歳終に一日飲酒宴楽して百日の労を忘る、是先王の遺沢なり。民のながく勤労に服して、相ともに君沢に楽しむを観ては、君子も同じく楽む心あるべきを、子貢のそこに心づかれぬをかくの給ふなるべし。しかれば翁も諸君も諸ともに飲酒宴楽して、一日の余暇を楽むは、太平の余沢なり。幸に時も蜡のころにあたれば、今日の会をばいはゆる一日の沢とも申すべし。我等ごときは、民のごとく稼穡を勤る事はなくとも、各学問をつとめ、忠信を脩め、仁義の道を世に明にして、風教を助ることを忘るべからず。是太平の沢に答揚して、不報の報と申べし。何必しも官にをり職に住するをのみ国家に報ずといはんや。

    尤物人を移す
 翁弱冠のころにかあらん、左伝を読て、叔向が母の、「夫有尤物足以移人。苟非徳義則必有禍(夫尤物有り人を移すに以て足れり。苟くも徳義に非ざれば則ち必ず禍有り)」といふに至て、竦然として戒懼の心にたへざりき。誠に亀鑑の名言といふべし。されば徳義の移人(人を移す)は、伯夷が清のごとく、柳下恵が和のごとし。天地の間の尤物なり。ここをもて伯夷が風をきく者は、頑夫も廉に懦夫も志を立る事あり。柳下恵が風をきくものは、鄙夫も寛に薄夫も敦し、人を移すにあらずや、其極をいはゞ、舜の韶、孔子の聖、天地の間の大尤物なり。孔子韶をきゝ給て、三月肉の味を忘るゝに至り、七十子終身(身を終ふる)まで親灸して去ざるに至る。又人を移すの甚しきといふべし。其外、忠臣孝子高潔義烈の行の人を感慕せしむるも皆其類なり。およそ徳義の類は、大に移せば大によし。小しき移せば小しきよし。何の禍かあらん。もし徳義の類にあらずして人を移すは、儀狄が酒、南威が色はいふに及ばず、其外錦繍珠玉珍禽奇獣に至るまで、人を移すにたるものはみな尤物なり。その為に移さるれば、大なるは必身をころし国を滅ぼし、小なるは必名を辱しめ咎を招く。古今歴々として考べし。詩文書札に至ては、儒者の事において、近うして又闕べからず。然ども李杜摩詰が詩、韓欧東坡か文、二王の書のごときは、是も又古今の尤物といふべし。各一種の人を移すにたるものあり。しかも又外物にして徳義の類にあらず。この故に古より詩賦を好み文章を好むの人、多く一心を投じ外事をすてゝ、ここに寝処せざるはなし。やゝ実に近きは、言論の雄偉を尚ぶに過ず。其文に馳而は雕鏤の美巧を衒ふに至る。身において何の益かあらん。道においてなにの得ることかあらん。いづれも玩物喪志(物を玩べば志を喪ふ)をいふべし。かの好書(書を好む)ものは、最下れり。しかるに唐の太宗の明をもて、遺命して蘭亭の本を棺にいれて、自ら随へるを観るに、其移人(人を移す)こと詩賦文章よりも甚し。これによれば、詩賦文章文字の類も、尤物の移人(人を移す)ものなり。声色の移人(人を移す)とはちがひ、必しも有禍(禍有り)といふにはあらねども、人をして虚文にはせ、実用を忘しむ。道に害なしといふべからず。翁老泉が高祖を論ずる意を取て、文章を論じておもへらく、学者の詩賦文章におけるは、医者の毒薬を用るがごとくなるべし。其毒をして治病(病を治する)にたりて、人を殺すに至らざらしむ。されば詩懐にたり、文章は辞達するに取て、ふかく好まざるをよしとす。もしふかく好まば、必ず其毒に中るべし。それに詩賦文章も一難事なり。今不逮の材をもてくはしうせんとせば、必歳月を費して、学問の功を妨ぐべし。韓愈が文を学びし事を自から敍るを見るに、処若忘。行若遺。儼乎其若思。茫乎其若迷(処て忘るゝが若し。行いて遺るゝが若し。儼乎として其れ思ふが若く、茫乎として其れ迷ふが若し)」といへり。翁こゝにおいて嘆息して、ふかく韓愈が為にをしまざる事をえず。嗚呼韓愈が材をもて、心を道学に用る事かくのごとくせば、聖賢に至るも難かるべきにあらず。たゞその学一生文辞の間にとゞまりて、已に実得の験を見ざりし程に、居恆飲博過従の楽に日を曠うし、潮州に流されし時は、大顚に動かされしぞかし。是其根源をたづぬるに、文章の為に誤まらるゝ故にて侍る。それにつけても、程朱の学者の詩文を好むをいましめられしも、あながちに詩文を禁絶せよとにもあらず、詩文の移人(人を移す)ことをおそれよとなり。是にて程朱道の為に慮る事の遠きを、諸君よく思ひ知給へ」といへば、諸客「けふは終日觴詠のあそびに陪従し、又詩の訓戒を承れば、誠に楽て淫せずとも申べし。詩にいはく「好楽無荒。良士瞿々(楽しみを好むとも荒むこと無かれ。良士瞿々)」今日の謂にてこそ候へ。我等とも此儘にて学問いたし候はゞ、庶幾は宴安の鴆毒を懐ふには至るまじく候。是みな翁の賜にて候」とて、各恭謝の体に見えしが、冬日の習にて、程なくたそがれ時になりしかば、諸ともに翁にいとまこひてまかりけるが、一人門を出るとて、
暮下駿台雪満蹊 漫々平白失東西(暮れに駿台を下れば雪満蹊 漫々平白東西を失す)
一條正路依然在 知我同行酔不迷(一條の正路依然として在り 知んぬ我が同行酔つて迷はざることを)
かく自詠しけるをかたへより吟賞して、「此詩有心(心有)かなや」といふこゑして、各己が家路にまかりぬ。

    年にはづかし
 朔風觱発として日夜に冽しく、寒気もいやましなりしかば、講会もしばらくやみて、後日を期せんといふ程こそあれ、今年もおぼえずはや暮にけり。例の人々、翁が起居を問むとて来りしに、翁むかひて、「このごろは年の暮とて、世上はさぞいそがはしくこそ候はめ。しかるに市朝に住ながら、翁が草堂ほどしづかなる事は侍らじ。蕭然たる環堵の中に、いつとなく病に臥して日をおくり侍れば、月のすぎ年の暮るをも覚え侍らず。されど歳月の逝はをしむにたらず。たゞ悲しむべきは、年ごろ学びし甲斐もなく、むなしく不徳にて身老年積て、此まゝ朽果むこそ、今更悔てもあまりある事にて候へ」とて、
  なにをして身のいたづらに老ぬらんとしのおもはん事もはづかし
といふ古歌を打ずんじて、「年にこそはぢかはしく候へ」といへば、諸客聞て、「むかし衛武公、行年九十五にて、猶箴儆於國(猶儆於國に箴)ていはく、「苟在朝者無謂我老耄而舎我。必恭恪於朝夕以交戒我(苟も朝に在る者我老耄すと謂つて我を舎つること無かれ。必朝夕に恭恪し以て交我を戒めよ)」とて、抑戒の詩を作て自ら儆められしとなり。今翁高年なりといへども、いまだ武公の年に及ばず、今より期頤のよはひを享て、日に徳にすゝまれ候やうにとこそ祝し候へ。諸弟子久しく師門に遊び候へども、今に呉下の阿蒙にて、むかしにかはりたる事もなく、多年の御教育をむなしういたし候事、材質の庸下なる故とは申ながら、学文のつとめざるによれば、翁のおしはかりもはづかしく、汗顔にたへぬ事にて候。されど御善誘によりて、此一両年はすこし道に見つけたる所も出来たるやうに候得ば、此後は相ともに勉強して、日夜進益をもとめんとこそ存候へ。しからば道においてなどか尺寸の效を得ざるべき。いよ〳〵翁の策励を仰ぎ候」といへば、翁聞て、「それは奇特なる御覚悟ながら、さるもあるべき事にて候。さて翁が先客へ申謝すべきは、衛の武公の事をもて翁をいましめらるゝこそ、ながく佩服して忘れがたく覚え侍れ。もとより武公の賢、などか企及べきにあらねども、其老て自儆られしは、およそ年老たる人の師法とすべき事にて候。翁かねて春秋列国の人物を論じておもへらく、春秋の時、衛において二人の大賢あり。諸侯には衛の武公、大夫には蘧伯玉、此二賢は、道を見る事真に、学を好むこと篤し。皆聖人の徒なり。伯玉が寡過(過ち寡き)を欲すれども未能(未だ能はず)とし、五十にして四十九年の非をしり、六十にして六十化すといへるも、武公の自儆めて我過を聞む事を求ると前後相比して、自治誠切なる事一に出るがごとし。孔門七十子の中に求とも、顔曽の外には多く得やすからざるまじ。ただに列国君大夫の賢といふのみにあらず。さればにや、その成徳の篤実光輝、こゝに至て今も猶人をして千載の下に興起せしむるぞかし。翁老たりといへども、今より謹て諸君の祝規を奉じて、残生を終むとこそおもひ侍れ。諸君のごときは、春秋にとみ材力にたる。もし懈らずして日に学に進まば、何ぞ古人に及ばざるべき。然ども歳月は恃むにたらず、材力は多とするにたらず。ただ孳々汲々として勉て不息(息まざる)にありぬべし。もし悠々として日を渉り、一旦年老齢傾きて後、日ごろの懈を思ひいでゝ、いかに悔ともなにの益かあるべき。即今翁が身の上にて候。されば古詩にも、「少壮不努力。(少壮にして努力せず。)老大徒に傷悲す」といひ、陶淵明も、「盛年不重来。一日難再晨及時当勉勵。歳月不待人。(盛年重ねて来たらず。一日再び晨なり難し時に及び当に勉励すべし。歳月人を待たず。)」といへば、古人も此感懐を同じうすとぞ見えし。是等の詩句時々吟詠して、勇進の志を振起すべし。又世に伝る朱文公の勧学の文に、
勿謂今日不学而有来日。勿謂今年不学而有来年。日月逝矣。歳不我延。嗚呼老矣。是誰 之愆。
(謂ふこと勿れ今日学ばずして来日有りと。謂ふこと勿れ今年学ばずして来年有りと。日月逝きぬ。歳我と延びず。嗚呼老いぬ。是誰が愆ぞ。)
此文本集に見えず。朱子家訓不自棄の文などの類にて、朱子の少作か、又は後人の擬作にて、名を朱子に託するにてもあらんか。よし誰の作にもせよ、言簡にして意も明白なり。折ふし打ずんじて自警むるによかるべし。それよりも翁が常に愛するは、陶侃が語なり。「大禹聖人乃惜寸陰。至於衆人当惜分陰。豈可佚遊荒廃。生無益於時。死無聞於後。是自棄也。(大禹聖人乃ち寸陰を惜しむ。衆人に至つては当に分陰を惜しむべし。豈に佚遊荒廃。生きて時に益無く。死して後に聞こゆること無かるべけんや。是自棄なり。)」といへるこそ、学者立志(志を立つる)をの法とすべし。前にいふ淵明が詩も、曩祖以来の家法にこそと思ひ侍る。およそ人と生れて学に志ありといふきはの、生て時に益なく死して後に聞ゆる事なく、草木と同じく朽果ばいと口惜かるべき事なり。されば諸君も此陶侃が語をもて自から激昂して、日夜勤勉せらるべし。但学は勇進をよろこぶといへども、又急迫なるをきらひ侍る。とかく一生こゝを離れぬ事にて候へば、急迫にして求べきにあらず。たゞ懈惰を戒て、常に聖賢の書に優遊涵泳せられば、久しうしておのづから進益あるべし。翁むかし加賀に在し時、士族の中に紹鷗、利休が風流を慕て、茶湯を好むものあり。江戸へ行役の時、道中茶具を持して、逆旅にても釜をかけ炭をおきて楽としけるを、同行の人見て「いかにすけばとて道中にてはやめよかし」といへば、其人いふは、「道中の日とて一生の外にあらばこそ。是も一生の日かずの内なれば、わが茶湯をする日にあらずといふ事なし。家にあると何ぞ異ならん」とて、其後もやめざりき。学者の道に志すも、此人の茶湯をこのむがごとくなるべし。もとより道は須臾も離るべからざれば、一生の間道を行ふ日にあらざるはなく、あふさきるさ道のある所にあらざるはなし。しかるを急迫にしてもとめば、たとひ僅々として有得(得ること有る)とも、皮膚の間にてやみなん。いかでか其胾を嚌で滋味に飫ことあるべき。況や急迫なれば、久しきにたへぬ物ぞかし。いまだ日至の時に及ばずして、やがて倦怠するに至りなん。翁おもへらく、学問は勉励を要とす。たゞ急にして迫切なるをおそる。義理は涵泳を貴ぶ。緩にして懈弛なるを戒む。迫切ならず、懈弛ならず、学者進脩の道において、緩急相得て背かざるに近かるべし。程子のいはく、志道懇切固是誠意。若迫切不中理。則反為不誠。(道に志すこと懇切固に是誠意。若し迫切理に中らざれば。則ち反つて不誠と為す。)又曰、「人謂要力行。亦只是淺近語。這一点意気能得幾時了。(人謂ふ力行を要す。亦只是淺近の語。這一点の意気能く幾くばく時を得了はらん)」諸君程子の言を見よ。翁説あたらずといふとも遠からじ」

    壬子試筆の詞附
 日月迭に移て、白駒の隙過やすく、衰病日に侵して、黄金の術成がたし。されば犬馬のよはひ是まであるべしとも思はざりしが、いつしか老の波より来て、ことしは七十あまり五つの春にもなりぬ。あまさへちかきころより身に痿疾を得て、手足もあがらず、起居もなやめるまゝ、昔の董生を学ぶとにはあらねども、此三とせ春の園を窺ふ事もかなはねば、閨の中ながら、梢につたふ鶯の音に残りの夢をさまし、枕にかをる梅が香に、過しむかしをしのぶばかりになんありける。しかはあれど、幸にわかかりし時より学びの窓に年を経る甲斐ありて、程朱の道にしたがひて、鄒魯の風をたづね、韓歐が文をこのみて、邯鄲の歩を学ぶにぞ、老のね覚も慰ぬべし。さても多くの年月を経て、世のうつりかはる有様を考ふるに、盛衰栄枯互に行かふをば、夢とやいはん、現とやいはん。誠に富貴は浮べる雲のごとく、禍福は糾へる縄のごとしといへるに、なにかたがふ事あるべき。中にたゞ吾聖人の建給へる三綱五常の道のみ、天地と並び伝え、古今のへだてなく、是ばかりはかはることあるべからず。人として仰ぎ崇ぶべきは此道ぞかし。然れども儒教世に行はれざりしより、人々義理にうとく、利欲にさとくなる程に、五常の道すたれて、風俗日に下りゆくこそなげかしけれ。もとよりいやしき身にて、一代の風教を維持せんとすも、わが力およぶべきにあらねば、ひとへに蚍蜉の樹を撼し、精衛が海を填むに似たるべし。さはいへど、世を憂民を新にするも吾儒分内の事なれば、是を度外に置べきにもあらず。いかなれば世に老師宿儒と称する人の、好て異説を肆にし、又は他道を雑へて、仁義五常の沙汰をばよそにするこそうけられね。たゞ務て新奇を競て、俗耳を悦ばしめ、時好に投ずるなるべし。いと口惜き事なり。古人のいはゆる阿世曲学(世に阿る曲学)とは是等をいふなるべし。よし人はさもあらばあれ、縦風俗は昔にあらずなりぬとも、わが身ひとつはもとのごとく、仁義の道を守りつゝ、前脩の模範を失はじと思ふこそ、責て儒となりししるしともいふべけれ。しかるにあら玉の春の初とて、人は皆己が志身の福を万代といはふ中に、我はたゞ五常の道に心をよせて、いつもかはらず目出たき物は此道なりとて、かくなん筆をこゝろむならし。
  此春もかはらでゆかむ七十にあまる五つの道をたづねて
  此筆記は、去年辛亥のとし春より冬に至る迄、諸生と語りし雑話を書集むとて、ことし壬子の春より筆を起して、秋に至て稿を脱しぬ。もとよりいやしき蜑のもくづながら、もし朽ずして吾党にながく伝りなば、後学の身を省る万一の助にもならんかし。よりてことし試毫の言葉を末に附して、終りて復始まり、無窮におよぶの意をしめしけるとぞ。
  享保壬子のとし冬十月鳩巣しるす
                 寛延庚午十一月
                   東都書肆崇文堂
                       日本橋南三町目
                       前川六左衛門