平成24年度 活動報告

 
 
 
 


<第86回大会> 2012年7月7日(於 福岡大学)



  • 「1925年の‘麗しの東インド’―日本画家古城江観の旅と制作―」
     ディクディク・サヤディクムラッ(九州産業大学大学院)

  •  インドネシアにおける近代美術は、「インドネシア近代美術の父」とも言われるスジョヨノとアグス・ジャヤが、1936年プルサギ(インドネシア画家協会)を結成したことをもって嚆矢とするのが定説となっている。
    プルサギがモダニズムをひっさげて登場する以前のインドネシア(当時はオランダ領東インド)美術界にあっては、東インドの熱帯風景を、甘い感傷を込めて穏やかに、かつエキゾチックに、理想化して描く絵画が人気を博していた。スジョヨノは、こうした一群の絵画を「ムーイ・インディ(麗しの東インド)」と呼んで、魂のこもっていないうわべだけのものであり、西洋人観光客におもねった絵画であると、激しく批判した。そのスジョヨノの批判以降、こうした絵画を「ムーイ・インディ」と呼ぶことが定着した。
    こうした絵画群は、インドネシア近代美術の発展を促す基盤として、一定の役割を果たしたと発表者は考えるが、スジョヨノの厳しい「ムーイ・インディ」批判もあって、インドネシア近代美術研究において、これまでこれらの絵画群が学術的な研究対象とされることはほとんどなかった。
     本発表では、「ムーイ・インディ」に関する基本事項を整理した上で、外国からの影響、とりわけ日本の影響がインドネシア絵画に何をもたらしたのかについて検討し、それが、それまでのインドネシア文化や宗教から生まれた芸術とは異なる新しい絵画の型をこの国にもたらし、現代まで続く芸術の基盤となり、また多民族に共通する一つの絵画表現の型ともなったことを実証することを目的とする。
     第二次世界大戦以前にヨーロッパへ渡航する途中に、インドネシアで下船した日本人芸術家は少なくない。その中では、ジャワに定住した画家森錦泉が比較的知られているし、洋画家矢崎千代二はスジョヨノに絵画の手ほどきをしたことで、スジョヨノの師として彼の地で尊敬を集めている。
     発表者は、これらインドネシアゆかりの日本人画家の中で、これまで研究されてこなかった画家古城江観(1891―1988)に注目して調査を行った。今回、画家が1925年にバタヴィアへ下船してから出発するまでの一年間の旅路を、彼の遺したインドネシアの新聞、雑誌の切り抜き、彼の撮影した写真など豊富な史料を精査して明らかにするとともに、一人の日本人画家の画業とそのインドネシア近代美術への影響を考察する。
     古城江観は、故郷鹿児島で日本画法を学び、1911年21歳の時に上京し、福井江亭の『天真塾』で四条派の勉強に励んだ。1922年秋台湾を皮切りに、11年間各国で展覧会をしながら旅行を続けたが、1925年の一年間バタヴィアから各地をめぐり、現地の日常生活や風景をスケッチや水彩によって描き出した。その日本画を基礎に南方情趣を表現した作品は当時高い人気を集めた。
     本研究は、日本軍政期、あるいはプルサギ以前の、日本インドネシア美術交流史研究に貴重な材料を提供すると思われる。

    
    
  • 「文化人としての植民地画家―陳澄波と劉錦堂をめぐって―」
     羽田 ジェシカ(九州大学)

  •  本発表は台湾美術について、特に1920―30年代初期に絞って論じるものである。この時代は植民統治期初の文官総督時代であり、植民地民も武力抵抗から平和共存の自治を求める方針に転換する中で、新台湾文化の構築を模索していた。彼らの多くは幼時に漢文塾で教育を受けていたため、漢文化とそのルーツである中国が、彼らの近代植民地文化形成の重要な要素であった。一次資料に見られるように、当時の台湾知識人は美術を新文化運動の重要な一環として位置づけている。従って、台湾植民地美術を考察する際、日本文化の受容が中心課題である統治側が主導した主流文化と、漢文化を中心とした本土文化の主体性の問題の双方に鑑み、植民地文化の多様性を考察する必要がある。
     台湾にはごく近い位置に古い美術伝統を持つ、独立国としての母国(中国)がある。そのことは、植民地画家たちにどんな影響をもたらしたのか。当時、先に近代化の道を歩んだ日本には、中国から来た美術留学生が大勢いた。その一方日本では、1911年の清朝崩壊後、王族の旧蔵品が流入したり、歴代皇帝の収集品が古物陳列所で公開されたりしたことで、「支那伝統芸術」が再評価されていた。本発表はこのような背景から生まれた美術を、1895年の下関条約で植民地になる直前の台湾で生まれた劉錦堂(1894―1937)と陳澄波(1895―1947)を例として考察する。年齢もほぼ同じで生い立ちも似た二人が、異なる時期に異なる地域を選んで中国に渡った理由とその時代的意義、および彼らが乱世中にも関わらず一心に美術に拘った理由を考える。
     劉錦堂が日本にいた1916―20年の期間は中国の五四運動の時期と重なり、青年たちは新文化運動と反帝国主義運動に燃えていた。一方、陳が日本に滞在した1924―29年の間は日中文化交流が盛んな時期だった。劉が中国に渡った1920年の北京は中国の首都で、北京大学画学研究所などに人材が集まって、中国の美術をリードする機運があった。一方、陳が中国に行った1928年に首都は南京に移って、杭州に国立芸術院が設立され、南の美術活動は特に活発な状態にあった。彼らがそれぞれ北京、上海を選んで渡ったことはその時代の情況を確実に把握して出した結論であり、二人の画業はその時代状況の変遷を反映したものである。中国画壇で当時最も活躍していた画家たちとともに活動した二人は中国の伝統絵画に高い関心を持っていたが、他の中国画家と異なり、水墨画を創作しなかった。彼らは日本で身につけた油彩技法を基に、伝統絵画の筆法と構図を用いて油彩での伝統の再生を試みた。本発表は当時の二人の足跡を追うことによって、近代台湾、中国と日本の美術史の間にある闇に光を当て、文化の側面から東アジアにおける植民地台湾美術の位置付けを試みるのである。

    
    
    • <第1回>『デ アルテ』論文奨励賞 授賞式

      授賞論文 「酒井抱一筆夏秋草図屏風の銀地背景に関する一試論」
            立木 美江(九州産業大学大学院)

    •  授賞式では、まず選考委員が紹介された。下村耕史委員長が第一回デアルテ賞受賞者を発表し、賞状と副賞が受賞者の立木美江子氏に授与された。続いて小林法子委員から選考経過と受賞理由が読み上げられた。その後、立木氏から挨拶があり、授賞式を終えた。
       第1回授賞式の詳細は、『デ アルテ』論文奨励賞をご覧下さい。
      
      
      
    • 見学会

       福岡大学 文系センター棟・中央図書館 (古賀春江作品等)

    
    
    

    <第87回大会> 2012年12月8日(研究発表:於 都城島津邸、見学会:都城市立美術館)、9日(見学会:霧島アートの森)

    
    
    
    
    • 「黒漆花鳥文螺鈿琵琶 銘「孝鳥絃」について」
       野口 朋子(財団法人鍋島報效会)

    •  黒漆花鳥文螺鈿琵琶 銘「孝鳥絃」は、佐賀藩の豪商である武富家に伝わり、平成23年に御子孫により佐賀県立博物館へ寄贈された資料である。江戸後期に記された「武富家伝記」(鍋島家文庫)によると、同家は16世紀後半に明国より渡来した十三官道順なる人物を始祖とする。その孫にあたる武富常古が長崎において清国の商人より「ゆゑ有」「古き琵琶」を入手し、これを琵琶の名手であった息子咸亮(号廉斎1638―1718)が京都滞在中に後水尾帝(1596―1680)の御前で弾奏して「孝鳥絃」の銘を賜った、との記述がある。本資料はこれに該当するものと推測され、共箱の蓋表には「孝鳥絃」との貼紙墨書がある。
       ふっくらとした洋梨形の共鳴胴に棹を付けた、四弦、曲頸の琵琶である。法量は全長93.2�p、胴幅38.5�pで、形態・法量ともに日本における雅楽琵琶と共通するものの、柱の跡や通弦孔など細部の造りは明・清代の中国琵琶に通じる要素を有している。表板を除く総体を黒漆塗とし、薄貝螺鈿の剥出法により、裏板には樹木や花鳥を遠近感を持たせて配置し、側面や頸先などの各部位には花唐草をあらわす。螺鈿の細部に施された毛彫りや貝片の輪郭を隈取った箔絵に見られる装飾性、琵琶の曲線を活かした安定感のある構図など、入念な作であることが窺われる。本資料については東洋漆工史、楽器学の各専門家により、中国・明代の制作と考えられるものの、楽器としての形態は類例がない、との見解が示されている。
       本報告では、上記の見解をふまえ、本資料の装飾・形態に関する問題点を整理し、漆工品として、楽器としての位置付けを試みるとともに、本資料が制作された歴史的・文化的背景について考察を行う。まずは本資料に施された螺鈿装飾の技法や図様を検証する。続いて中国琵琶と日本琵琶の歴史と形態の系譜をもとに、現存する中近世の装飾琵琶と比較することにより、本資料の楽器としての特質を明らかにしたい。このことにより、ふっくらとした洋梨形の胴を持つ螺鈿装飾琵琶としては国内外の作品を概観しても初見の可能性が高い点を指摘する。この上で、上記「武富家伝記」に立ち返り、記述内容の検証を行う。武富常古が長崎において本資料を入手したとされる時期は、明末清初の動乱期に相当すると考えられるが、当該期に長崎を通して日本に明楽や黄檗宗をもたらした中心的人物は、明国福建省の出身者であった。一方、ほっそりした胴が主流である中国琵琶の中で、福建省を中心とした南音琵琶は、唐代以来の古い伝統を残すふっくらした胴を有している。特異な形状を持ち他に類例のない本資料の性格付けは困難であるが、江戸時代前期に長崎を舞台にもたらされた明国の多彩なる文化の枠組みの中で捉えることはできないだろうか。

      
      
    • 「21世紀のジャポニスム 英国のカーペットデザインに受け継がれた染め型紙の文様」
       阿佐美 淑子(三菱一号館美術館)

    •  19世紀半ば以降、欧米各地で開催された万国博覧会において、様々な日本の文物が紹介された。それは屏風などの絵画、陶磁器や漆などの工芸、着物等の染織、家具等、非常に多岐に渡っている。万博は西欧において初めての大量で広範な日本文化の紹介であった。自らの文化とは全く異なる日本の文物のデザインや色彩は人々を驚かせ、「ジャポニスム」と呼ばれる大規模な日本ブームを巻き起こした。
       江戸幕府や日本政府が関与した、こうした「公式」な日本文化の紹介と併行し、梱包材として使われたとされる浮世絵版画がジャポニスムに影響したことはよく知られている。近年、浮世絵と同様に、ジャポニスムの深化に関与したと考えられる「道具」の存在が次第に明らかになってきた。それは、絹や麻などの布地に文様を染め付けるための、日本の伝統的な「型紙」である。型紙は和紙を柿渋で貼り合わせて強化し、それに小刀を用いて様々な文様を彫り抜いて作られる道具で、数百年の歴史を誇る。
      型紙の文様が欧米の芸術に影響を及ぼしたと考えられることは、1988年に国立西洋美術館で開催された「ジャポニスム」展において、小規模ながら紹介がなされた。2006年にはパリの日本文化会館において、型紙のみに焦点を当て、ジャポニスムのデザインとの関係を検証する展覧会が行われている。2012年春から秋にかけ、東京の三菱一号館美術館、京都国立近代美術館、三重県立美術館において開催された「KATAGAMI Style」展はこの流れをくみ、型紙に特化して、ジャポニスムと型紙のデザインとの関係を探る日本で初めての試みであった。発表者はこの展覧会のための調査において、カーペット産業で知られる英国ウースターシャー州・キッダーミンスターにあるブリントンズ社に900点もの日本の型紙のコレクションがあることを知ることとなった。このコレクションは、英国における民間のものとしては最大のもので、20世紀初頭、カーペットのデザインソースとして使用されたと考えられている。数十年間に亘ってしまい込まれていたこの型紙コレクションは、近年同社資料室で再発見され、21世紀に入ってから、その文様を利用してカーペットがデザインされた。「Kagatami」と命名されたこのカーペットシリーズは発売後ただちに人気商品となり、現在では世界中へ輸出され、各地の高級ホテルや空港等に使用されている。
       ブリントンズの例に限らず、近年、西欧では型紙の文様の大胆さや精緻さが注目されて収集の対象となっている。またファブリック等にも型紙のデザインを用いたものが出回っている。19世紀末から20世紀初頭にかけて型紙がジャポニスムに影響を及ぼしていたような状況が、現在再び起こっているのである。本発表ではブリントンズ社によるカーペットへの応用例を中心に、ファブリックや陶磁器等、型紙が現代の欧米の製品に影響を与え続けていることを明らかにする。

      
      
    • 見学会
       案内 原田正俊氏(都城市立美術館)、立元史朗氏(鹿児島県霧島アートの森)

    •  都城市立美術館 (所蔵品展「夢の中へ」)
       都城市民会館 (菊竹清訓設計・外観のみ見学)
       鹿児島県霧島アートの森 (「加藤泉展 SOUL UNION DELUX」および常設作品)

    
    
    
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