九大美学メモリアル ― 美学・美術史研究室お別れ会 ―

美学美術史研究室の歴史

研究室史


 本研究室は、1927年11月、西欧留学から帰国した京都帝国大の植田寿蔵を教授に迎えて創設された。植田は翌年4月に京大教授と兼任となり、1932年5月、京大の専任として転出。その後、1932年5月に京城帝国大学から着任した上野直昭も、35年4月まで京城大教授を兼任した。植田は芸術哲学を研究、上野は日本の上代彫刻を中心に東西美術を比較研究し、昭和初期の学界をリードした。

 他大学の教授が兼任するという変則的な研究室の運営は、1935年4月、矢崎美盛が哲学・哲学史講座から専任教授として転じ、ようやく解消されるに至った。矢崎は、福岡に居住し、困難な時期にありながら旺盛な執筆と熱心な教育に邁進し、研究室の基礎を確立した。ヘーゲル哲学の紹介者として知られた矢崎は、東洋美術やキリスト教美術の研究と啓蒙に尽力し、『アヴェマリア』(1953)を出版、岩波少年美術館(1950~52)の編集を主導したほか、地方における美学美術史学の研究理念と方法を実践的に示した『様式の美学』(1946)は、後の調査の指針とされた。

 1948年4月、矢崎が東大に転出し、谷口鉄雄が専任講師として旧制広島高校より着任。1951年に助教授、1955年7月に教授に昇任。その間、矢崎が1953年11月まで教授を兼任した。谷口はリーグルの様式論を紹介したほか、日本美術史、東洋書画の芸術論研究を深め、後に『校本歴代名画記』(1981)を上梓した。豊後の石仏や観世音寺諸像の研究の他、九州の近代美術にも造詣が深く、九州の美術界に大きく貢献し、美術館創設に尽力した。『東洋美術論考』(1973)を刊行し1973年4月に退官。ほかに『西日本画壇史』(1981)、『美術史学の断章』(1983)、『回想 矢崎美盛先生』(1985)、『蘭亭序論訳注』(1993)、『東洋美術研究』(1994)がある。

 谷口が在職中の1959年5月、ドイツ留学から帰国した前川誠郎が京都大学から助教授として転任、2人体制の下で東西美術と芸術論の研究が進展した。前川はデューラーや初期ネーデルラント絵画を中心とする北方ルネサンス美術を専門とし、西洋美術の学生を育成、1970年、東大に転出した。谷口は、1966年7月から1969年11月まで評議員、学部長、学長事務取扱等を歴任し、その重責を果たした。同窓会の研究室便りは、ジェット機ファントムの墜落事故は、その対応に谷口から大いに時間を奪い、前川は機体処理問題集会にてゲバルト洗礼を受け、1か月入院したと報告している。

 1971年4月、谷口の定年退官を前に、平田寛が奈良国立文化財研究所より助教授として着任し、1978年、教授に昇任。古代中世の仏教絵画史を専門とする平田は、中国画論のほか西洋中世美学思想にも通じ、中世美術の基底に流れる芸術思想を学僧と絵師の双方から考察、1994年3月の退官後、『絵仏師の時代』(1996)で國華賞、メトロポリタン学術賞、日本学士院賞を受賞した。ほかに『ふうじん帖』(1996)、『絵仏師の作品』(1997)がある。平田の着任以来、矢崎の『様式の美学』を念頭に、九州山口地域を中心とする寺社調査が頻繁に行われるようになった。

 1979年9月、仏教美術史を専門とする菊竹淳一が奈良国立博物館より助教授として着任。2人の専門性を活かした運営が強化され、この間を前後し、科研費や教育委員会等の事業として、国東富貴寺の調査、対馬の調査、人吉の調査をはじめ、各地の社寺で悉皆調査が実施された。光学的手法も応用した最新資料の蓄積は、九州美術資料アーカイブとしての研究室の役割を充実させた。新出の作例には国指定や県指定の重要文化財も数多い。調査で鍛えられた門下生は、美術館・博物館・研究機関に就職した。韓国を中心に留学生が研鑽を積み、博士号を取得して帰国し母国の学界発展に寄与している。1987年より平田は、評議員、学部長となり学部運営に奔走したが、その間、菊竹は、東アジアの観点から朝鮮・中国・日本の美術史を研究、また同様の観点から九州の美術文化の特性を検証すべく、国内外で精力的な仏教美術の調査を継続した。主著に『日本古版画集成』(1984)の他、『高麗時代の仏画』(1997)があり、韓国語版と日本語版が出版されいる。菊竹は、平田の退官後、1995年に教授へ昇進し、同年から評議員、学部長を務め、2000年の大学院重点化に尽力、現在の4人体制の基礎を確立した。大学院重点化にともない、大学院の専修を美学美術史から芸術学に改称、学部の専門分野は、旧名称を踏襲している。

 1996年4月、三輪英夫が東京国立文化財研究所より助教授として着任。三輪は、近代日本美術を専門とし、九州における当該分野研究者の育成を期したが、2000年に病気により退職した。

 2000年4月、東京大学より京谷啓徳が助教授として新たに着任、前川以来30年ぶりに西洋美術史の教員となった。京谷は、イタリア・ルネサンス美術を専門とし、宮廷美術や祝祭・儀礼と美術の関係を中心に研究している。2002年3月、菊竹が定年退官し、4月より中国哲学史講座の柴田篤が半年間、教授を兼担した。同年5月、東京大学から東口豊が講師として着任し、2009年11月、准教授に昇進。東口はアドルノの芸術思想の考察を中心に音楽美学を研究、芸術学全般について学生を指導している。2002年9月、後小路雅弘が福岡アジア美術館より教授として着任。アジア現代美術を専門とし大学院の現代文化論を担当。現代美術の現場から近代美術が拠り所としてきた制度や規範の諸問題を考察している。2004年3月、技官の林崎价男が退職。林崎は、美術資料の写真撮影、光学機器の活用に長年にわたって多大な功績を残した。2004年3月末、井手誠之輔が東京国立文化財研究所より教授として着任。専門は東アジア絵画史。日本伝来の宋元仏画と高麗仏画研究とを並行し、九州美術資料アーカイブのデジタル化と研究室の情報化を進めている。

 本研究室は、九州山口地域における美術・文化財関係の諸活動と結びつきが深い。とくに1970年代以降、各地に美術館や博物館が新設されるようになると、多くの卒業生が学芸員として就職し、調査研究の成果が展覧会に還元された。歴代教員は、各地の文化財審議委員、美術館、博物館の設立、運営に関わる専門委員として地域文化の発展に寄与している。1972年、西日本美学美術史懇話会を発展させて九州藝術学会が発足。本研究室が事務局を担当し、年に2回の学会を継続している。1984年から菊竹が代表幹事となり、学会誌『デ アルテ』を創刊。現在、後小路が代表幹事を務め、論文奨励賞を創設し、着実に裾野を広げ、近隣の研究者と組織する各種研究会の活動と連携し、若手研究者を育成している。専門研究と九州山口地域における一連の美術文化の育成と斯界への貢献が評価され、谷口、平田、菊竹が相次いで西日本文化賞を受賞している。歴代教員は、全国規模の学会に常任委員として参画し、美術史学会は、1969年、1987年、2007年(九州国立博物館、筑紫女学園大学との共催)、美学会は1984年に大会を開催。2011年からは、美術史学会西支部事務局が置かれている。

 本研究室の教育における特色は、各教員の専門領域の講義・演習の他に、実習、金曜会、九州大学芸術学研究会、研修旅行等が実施され、調査と教育・研究とが推進されてきた点にある。実習は、2004年より、古美術班と近現代美術班に分かれて実施。古美術班は井手が担当し、近隣の寺社、美術館、博物館で見学・調査を行っている。近現代美術班は、後小路が担当し、AQAプロジェクトの名のもとにアジアの現代美術から今日的テーマを選んで展覧会を開催している。 金曜会は、50年を超える伝統をもつ。金曜の午後に構成員全員が出席し、担当学生の発表に対して質疑応答し、有益な集団指導の機会となっている。大学院重点化にともない、2006年から、九州大学芸術学研究会を立ち上げ、年に2回開催している。博士課程学生は、美学会、美術史学会、九州芸術学会、本研究会等で発表し、論文投稿、博士論文執筆への里程標としている。

 研修旅行も、1963年から継続。従来、奈良の社寺、正倉院展、東大寺大仏への登壇による見学を恒例としてきたが、2011年から、関東と関西への研修旅行を隔年で実施し、海外(台湾、韓国)にも出向いている。研究室を中心とする共同研究の成果は、『国宝富貴寺』(1972)、『対馬の美術』(1978)、『九州仏教美術百選』(1979)、『九州美術史年表』(2001)として出版されている。近年の成果には、伊都キャンパス移転にともなう学内美術資料調査をまとめた『九州大学P&P 大学とアート―「公共性」の視点から』(2008)がある。

 本研究室は、教員と学生、専門職についた門下生との間における相互の信頼と協働のもとで、美学美術史学の発展を促進してきた。毎年12月29日に開かれる同窓会「ふく会」は、その象徴である。福岡で、河豚を喰らって法螺(来年の抱負)を吹き招福を期すという趣向のふく会は、60年代のある年末、助教授の前川と大学院生有志がはじめたのが最初であった。その後、卒業生に講座の現況を報告し、快活に親睦をはかる恒例行事となっている。

 現在、美術史3人と美学1人という4人体制となり、総勢40名を超える大所帯となっている。グローバルな規模で視野が拡大し、インターネットをはじめとする各種メディアから情報が氾濫する今日、美術の様態は多様に変貌し従来の規範も流動化しつつある。しかし、本研究室が、古今東西の美的な営為を畏敬し、調査と哲学的・歴史的思索の双方から、普遍の美と価値のあり方を探索し、その研鑽を怠らぬ場であることに変わりはない。

※この研究室史の一文は、九州大学百年史編纂事業の一環として、2013年度、文学部の部局史をまとめるにあたって、京谷と井手で作成したものです。
※2015年度後期から、基幹教育院の青野純子准教授、石井祐子准教授が大学院担当として研究室に所属されています。