九州大学言語学研究室

TOP課程博士論文>水本 豪

水本 豪「幼児の言語理解に及ぼす作動記憶容量の影響」

言語発達を研究する場合、幼児がそれぞれの発達段階においてどのような「言語知識」(言語に関する知識、言語に特化した能力)を有しているかを明らかにする必要がある。その際に、言語理解実験等に基づいて幼児の言語知識を確認する研究が多いが、発達段階にある幼児の言語知識を正しく抽出するためには、種々の「言語外の要因」を考慮する必要がある。本論文は、そのような言語外要因の一つとして、幼児の作動記憶容量の個人差が、言語理解の個人差にどのように影響を及ぼしているかを解明しようとしたものである。

作動記憶(working memory) とは、人間の情報処理において、何らかの情報の処理と並行して行われる、一時的な情報の保持を担う(それを可能にしている)記憶のシステムである。例えば、買い物で釣り銭の額を暗算する場合、それまでに計算した結果を保持しつつ次の計算を行う。その際、必要な情報を頭の中に一時的に保持しつつ、同時に他の情報の処理を行うことが要求されている。

言語理解のプロセスにとって作動記憶による情報保持のはたらきは必要不可欠なものであり、成人を対象とした研究において、作動記憶による保持の個人差が言語理解の個人差として現れることが指摘されている。ところが、幼児を対象とした言語理解研究において、特に日本語を母語とする幼児を対象とした研究においては、これまで作動記憶容量の個人差と発達段階にある幼児の言語理解との関係についてはほとんど研究がなかった。本研究は、このような背景のもとに、幼児の作動記憶容量の個人差が言語理解の発達に大きな影響を及ぼすことを、言語理解実験により明らかにしたものである。

本論文は、第1部「問題と方法」、第2部「処理済み情報の保持に関する影響」、第3部「入力情報の保持に関する影響」、第4部「本論文の意義と今後の展望」の4部からなる。

第1部では、第1章において、本研究の背景に言及しながら、言語発達研究の目標と方法を論じた。また、これまでの言語発達研究の問題点を指摘し、なぜ幼児の言語理解における作動記憶容量の影響を調査する必要があるかを論じた。第2章では作動記憶容量の指標となる、リスニングスパンテストの作成、及びその妥当性調査を実施し、このテストが作動記憶容量の指標として妥当であることを示した。

第2部では、第3章において、幼児が数量詞遊離文を正しく理解することができるかどうかが、作動記憶容量の大小と関係していることを示した。また、第4章では文脈による理解促進効果の有無について、幼児の作動記憶容量の大小が、具体的な言語現象の理解における個人差に反映されることを論じた。

第3部では、第5章から第6章において、幼児が格助詞に基づき文を正しく理解することができるかどうかが、作動記憶容量の大小と関係していることを示した。格助詞は述部が入力されなければ、その機能を十分に決定することができない。言い換えれば、格助詞は述部が入力されるまで正確に保持されておく必要がある。作動記憶によりどれだけ正確に保持できるかが、幼児の作動記憶容量の大小と関係していることを明らかにした。

第4部では、第7章において、それまでの実験結果や議論を踏まえ、幼児の言語理解に及ぼす作動記憶容量の影響を論ずるとともに、本論文の発達研究における意義を示した。

本論文で明らかにした、幼児の言語理解に及ぼす作動記憶容量の影響は、次のようにまとめることができる。

(1)処理済情報の保持: 言語を理解する際、既に入力され、処理された情報を保持しておくことが必要となる。幼児の言語理解において、作動記憶容量の個人差が、処理済情報を保持し、参照する必要のある言語現象の理解に影響を及ぼしている。 (2)入力情報の保持: 作動記憶により保持された情報は永久に保持できるわけではなく、他の情報が入力、保持される中で古い情報は消去されていく。作動記憶容量が小さい幼児は入力された情報の正確な保持ができず、多くの情報が消去されることになる。そのために作動記憶容量の大きい幼児や成人とは異なる言語理解が行われる。

本論文の有する意義、特に、言語発達研究、言語獲得研究の2つの領域における意義は次の点に纏められる。本論文は、幼児の言語理解に作動記憶容量の影響がどのように現れるかを実験により示すとともに、ある現象の理解に関して、知識の有無とは無関係に、その現象を理解できないことの原因が作動記憶容量の個人差にあることを示した。一連の実験結果は、これまでの研究の再解釈に繋がるだけでなく、言語に関する知識の過小評価の原因となる1つの要因の特定を行ったという点で言語発達研究におけるひとつの意義を有する。また、「どの程度まで普遍文法として規定されることがらを他の何かによって説明することができるか」という近年の生成文法理論(ミニマリスト・プログラム、Chomsky(2004))に基づき、「幼児の言語発達を言語習得にとって必要となる、そして、必要不可欠である認知能力の発達の問題にどの程度還元することができるか」という言語獲得研究の新しい方向性を見出しているという点において、言語獲得研究に対する意義を有している。