九州大学言語学研究室

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菅沼 健太郎「トルコ語と現代ウイグル語のレキシコンの構造に関する音韻論的研究」


 音韻規則の適用・不適用によって、語彙間に音韻論的差異がみられることが従来指摘されてきた。例えば、日本語には複合語の後部要素の初頭子音を有声化する規則(連濁規則)が存在する。この規則は /tajori/“便り”などでは [tabi-dajori]“旅便り”のように適用される(後部要素 /tajori/ の t が d になる)が、/takusii/“タクシー”などでは [kaŋkoː-takuʃiː]“観光タクシー”のように適用されない。

 先行研究(McCawley 1968、Itô and Mester 1995a, 1995b, 1999 など)では、語彙間の音韻論的差異がみられるのは、語彙がレキシコン(心的辞書)においていくつかのグループに分かれており、どの音韻規則が適用され、どの音韻規則が適用されないのかが語彙グループ間で異なるためであるとする。語彙間の音韻論的差異に着目しつつ、語彙がいくつのグループに分かれているのかを明らかにすることは、音韻論的な側面からみたレキシコンの構造を明らかにすることになる。

 語彙間の音韻論的差異とレキシコンの構造に関する研究の中で、近年注目されているItô and Mester (1995a, 1995b, 1999) は、普遍的なレキシコンの構造として、(1) の「核と周辺」構造を提案する。また、彼らは、レキシコンの構造に関して下の (2) に示す仮定をする。


(2) a. レキシコン内の全ての語彙の集合は、包含関係にあり、(1) のような同心円を形成する。
 b. 音韻論的差異は、語彙の「もとの形を維持しようとする力」の強弱により生じる。
  例:/takusii/“タクシー”はその力が強く、複合語でも初頭の /t/ が維持される。
 c. 語彙グループの中には、当該言語の全ての規則が適用される語彙グループが1つ存在する。

 Itô and Mester (1995a, 1995b, 1999) の理論は日本語以外の様々な言語を対象とした研究でも採用されているが、彼らの理論の妥当性を批判的に検証した研究は少ない。また、「核と周辺」構造しかレキシコンの構造としてあり得ないのか、他の構造もあり得るとしたら、どのような構造があり得るのかが明らかではない。これを明らかにすることはレキシコンの普遍的特徴を明らかにすることにつながる。

 そのため、本論文では以下のことに取り組んだ。まず、Itô and Mester (1995a, 1995b, 1999) の理論の妥当性を検証するため、トルコ語と現代ウイグル語を対象として、それぞれでみられる音韻論的現象を記述する規則を提案し、両言語のレキシコンの構造を明らかにした。次に、トルコ語と現代ウイグル語、及び先行研究で提案された日本語と韓国語のレキシコンの構造を対照し、4言語間の共通点を明らかにした。そして、その共通点から、レキシコンの普遍的な特徴に関する仮説を提案した。

 以下本論文の構成を示す。第1章では、研究の目的について述べた。第2章ではItô and Mester (1995a, 1995b, 1999) の理論を紹介した。第3章ではトルコ語、第4章では現代ウイグル語の分析を行い、下の (3a) と (3b) に示すレキシコンの構造を明らかにした((3a,b) 中のX、Y、Zなどは語彙グループを示す)。
 第5章では、Itô and Mester (1995a, 1995b, 1999) の仮定する上の (2a-c) がトルコ語と現代ウイグル語に当てはまるかどうかを検証した。上の (3a,b) に示すように、トルコ語のレキシコンの構造も、現代ウイグル語のレキシコンの構造も、上の (1) の構造のような、「全ての語彙の集合が包含関係にあり、同心円を形成するような構造」になっていない。このことから (2a) が両言語に当てはまらないことがわかる。この他に、(2b, c) についても当てはまらない部分があることを第5章では明らかにした。

 第5章ではまた、トルコ語、現代ウイグル語、日本語、韓国語のレキシコンの構造を対照し、4言語の共通点を明らかにし、レキシコンの普遍的な特徴に関する仮説として (5) を提案した。

(5) a. レキシコンには、「最も多くの規則が適用される語彙グループ」が1つだけ存在する。
  例:(1)、(3a)、(3b) では、語彙グループZにのみ3つの規則が適用される。それ以外の語彙グループでは2つ、あるいは1つの規則が適用されている。
b. レキシコンは、語彙の集合間のどこかに包含関係がある構造をもつ。

 第6章ではまとめを行うとともに、今後の課題を述べた。