2024年
今年の3月に慶應義塾大学文学部を退職された香田芳樹氏から、ヘッベル『戯曲 ニーベルンゲン』(香田芳樹訳、岩波文庫、2024年)をいただきました。著者のフリードリヒ・ヘッベル(1813-1863)は、19世紀のドイツ文学を代表する劇作家です。代表作に『ゲノフェーファ』『ヘローデスとマリアムネ』『ギューゲスとその指輪』などがあります。
ヘッベルの『ニーベルンゲン』(1862)は中世の叙事詩『ニーベルンゲンの歌』にもとづく演劇で、ヴァーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』(1876年初演)以前のものです。『ニーベルンゲン』は、ドイツ語圏の多くの都市で上演のたびに大成功を収めたようで、ヘッベルは1863年にシラー賞を受賞しました。
香田氏の訳からも、当時の興奮がなんだか伝わってきます。そのせいでしょうか、私自身、多忙を極めているにもかかわらず、他の業務を忘れて読み耽ってしまいました。しかも、読みながら、2013年、2016年、2018年の「ご縁」を思い出してのことです。以下、かなり私的な新刊紹介になりますが、感想文としてお読みください。
2013年
この新訳を手に取ったとき、ルードルフ・カスナー(1873-1959)のヘッベル論を私自身が訳出したことを思い出しました。カスナーは、ヴィーンで活躍した思想家です。エッセイ集『モティーヴェ』(Motive, 1906)に所収された8番目のエッセイが「ヘッベル」でした。(小黒康正訳、九州大学大学院人文科学研究院『文学研究』第110輯、2013年)。
ヘッベルは詩的写実主義の筆致で歴史物を好んで扱いましたが、その際、個の意志はヘッベル自身の激しい性格が反映したかのように常に世界に対して否を唱え、逆らい続けます。個と全の峻烈な対峙は、ヘッベルの場合、しばしば男女の激しい対立を孕みながら、性格劇と運命劇を併せ持つ悲劇を生み出すのです。今回訳出された『ニーベルンゲン』もそうした作品でした。
カスナー後期の浩瀚の書『十九世紀』によりますと、ドイツ人ほど自分自身に至る場合に、長い道のりを歩む人間はいません。カスナーにとりまして、19世紀は「分裂の世紀」であり、「ドイツ的な世紀」でありました。カスナーのヘッベル論は、『モティーヴェ』において唯一ドイツ文学を扱う重要な「例外」と言えます。
そこでは、19世紀ドイツ文学を代表する劇作家を扱いながら、同時にそこに近代人の典型的な姿を徐々にあぶり出すのです。カスナーは「ドイツ的な世紀」、あるいはそうした世紀が生み出した尺度なき近代人と独自の姿勢で対峙する思想家でありました。その独自性は後の観相学に十全に展開されますが、このヘッベル論からそうした萌芽が多分に読み取れます。その意味で『モティーヴェ』における「例外」は、カスナー思想の萌芽であり、典型に他ならなかったのです。
ちなみに、カスナーにとって、ヘッベルは「偉大な成り上がり者で、偉大な成り上がり者が有する美徳と弱さをすべて有していた」のです。しかも、「裸であり、あるいは少なくとも衣服がひどいか着せられるのが遅すぎた」人物だったと、カスナーは言います。香田訳『ニーベルンゲン』を読みながら、カスナーの言葉を次々に思い出しました。
2016年
私は、8年前の2月17日にドイツのフランクフルト大学でドイツ語講演をしたことも思い出しました。招待者はドイツ中世史の碩学であるヨハネス・フリート教授です。私の研究内容に興味を持ってくださったフリート先生は、当時、私がヴィーンで研究滞在をしていたことを知り、招いてくださったのです。
当時の研究成果の一端を、『ドイツ文学』154号の特集「黙示録とユートピア」に、私は投稿しました。投稿先は、3月25日に刊行された日本独文学会の機関誌です。論文名は「第一次世界大戦期の日本とドイツにおける「第三の国」——イプセン、メレシコフスキー、トーマス・マン——」でした。フランクフルト大学で話したことも、一部、取り込まれております。実は、この特集、香田氏と当方が組んで行った企画で、導入の執筆は香田氏が担当されました。
香田氏とのご縁は続きます。当方が多和田葉子朗読会を同年の9月19日に九州大学で主催した際、香田氏を招待したのです。そして、翌日、九大独文関係者と一緒に水俣に行き、そのあと、熊本市に向かい、石牟礼道子氏を訪問しました。もちろん、多和田氏も、香田氏も、ご一緒です。なんというご縁だったのでしょうか。あの二日間のことは、今でもよく思い出します。
2018年
ヘッベル『ニーベルンゲン』の主な舞台は、ライン川中流左岸にあるヴォルムス(Worms)です。12世紀に竣工されたロマネスク建築の大聖堂を有し、13世紀前後に成立したとされる「ニーベルンゲンの歌」の舞台であり、しかもすでに11世紀から存在するヨーロッパ最古のユダヤ人墓地を残す古都であります。神聖ローマ帝国内での私闘を禁じる永久平和令を取り決めた帝国議会が1495年に開かれた場所もヴォルムスでありました。
私はこの古都を訪れたことがあります。6年前の8月17日、私がフリート教授に招かれてハイデルベルクのお宅に招かれた際、フケーの散文作品『皇帝ユリアヌスと騎士たちの物語』が話題になりました。当時、当方が訳していたからです(2023年6月に同学社から刊行)。興味深いことに、フケーも「ニーベルンゲンの歌」の改作にいどんた作家であり、しかも、『皇帝ユリアヌスと騎士たちの物語』の舞台もヴォルムスでした。
これまた、妙な縁だったかもしれません、私たちは翌日の8月18日にヴォルムスを訪れることになったのです。フリート先生が車を運転され、奥様もご一緒でした。私たちは上述の大聖堂とユダヤ人墓地を訪れながら、ヴォルムスのこと、フケー『皇帝ユリアヌスと騎士たちの物語』のこと、そして私の研究プロジェクトのことを話したと思います。実に至福の一日でした。
再び2024年
私は、目下、2021-2025年度科学研究費補助金による研究研究プロジェクト「近現代ドイツの文学・思想における「第三の国」——成立・展開・変容——」を行っております。これは、ドイツと日本における「第三帝国」Das Dritte Reich 以前の「第三の国」Das dritte Reich に関する研究です。以前、香田氏と一緒に行った特集「黙示録とユートピア」を発展させたものでもあります。今年は、9月20日にチューリヒ大学で国際的な研究発表会を行いました。
ヘッベルの『ニーベルンゲン』では、古代ゲルマンの英雄伝説にもとづいて成立した「ニーベルンゲンの歌」が、中世に流布した終末論の文脈でよみがえってきます。ブリュンヒルトが希求した「 死を超えるもの」は、訳者解題によれば、ベルンのディートリヒ託されているのです。それはドイツ語原文だと「Das Dritte」、香田氏は「第三の国」と訳されました。なんという結合の妙でしょうか。『ニーベルンゲン』を読んでいると、新旧さまざまなご縁が今なお結びついてきます。 (小黒康正)

