2026 年6月6日、トーマス・マンが生まれて151 年の誕生日にあたる日に、第132回トーマス・マン研究会が福岡大学で行われた。その際、最初に行われた新刊報告は、スヴェンヤ・フラスペーラーの『繊細さについて センシビリティとレジリエンスの思想史』(稲葉瑛志・鈴木啓峻訳、郁文堂、2026年)だ。報告は、訳書のひとりである大阪大学准教授の鈴木啓峻氏によって行われた。稲葉瑛志氏(三重大学准教授)と同様に、マン研究会のメンバーである。
ドイツ本国でベストセラーになった同書は、実に面白い。そして身がつまされる。現代社会のなかで生きる私たちの息苦しさや、「ハラスメント」をめぐる問題の難しさは、どこからくるのであろうか。強靭な「昭和の男」は後ろ指をさされることが多い。本当は、傷つきやすいのに……そう思う中高年は意外と多い。自分はひとに胸襟を開いている。だけど、どうしてひとは自分に共感してくれないのか。だからこそ考えなければならない。なぜひとは他者に対して共感できるのであろうか。そもそも共感とはなんであろうか。
ノルベルト・エリアスを問題にする同書の第1章は、実に刺激に満ちている。そこには「昭和の男」を遥かに凌駕する「西欧中世の男」が問題になるからだ。こうした「強靭な」男たちを代弁してくるのは、やはりニーチェだろうか。この問題を深めるのが、第2章だ。第3章はサミュエル・リチャードソンやジャン=ジャック・ルソーを扱う。「繊細さ」や「共感」を考える者にとって必読の箇所だ。ルソーにおける思想と行動の乖離も問題になっている。女性の悲劇を扱う文学作品、例えば、女性を主人公とする『アンナ・カレーニナ』、『エフィ・ブリースト』、『ボヴァリー夫人』などは、いずれも男性作家による作品だが、なぜ男女を問わず、多くの読者に共感をもたらし続けているのであろうか。
フラスペーラーは、「繊細さ」をめぐる思想的な潮流を鮮やか読み解く。この本はカウンセリングの本ではない。しかし、それでいて、いわゆるカウンセリングの本以上に、「繊細さ」をめぐる気づきを私たちにもたらしてくれる。かつて、トーマス・マン研究会で話題になったクラウス・テーヴェライトの「男らしさ」もアンドレアス・レクヴィッツの「独自なもの」も問題にされているだけに、繊細と独自性についても私たちは改めて考えさせられた。そもそも主観的な経験を言葉を通じて客観的に伝えることは、どうして可能なのだろうか。その可能性は単なる見せかけだけかもしれない。そう思ってよいのであろうか。
言語は普遍的な体系である。だからこそ、初めから個別的なものを取りこぼす。その意味で、言語芸術と称される文学は、個別的なものを扱いながら、原理的に個別的なものを語り尽くせない。その意味で、文学作品はすべて「失敗作」ではないか。別言すると、未完でない作品も、本質的に「未完」である。つまり、「断片」なのだ。だが、そうした機能不全を言語が有するにもかかわらず、いや、有するからこそ、フラスペーラーの言葉を援用すると、「その取りこぼしにこそ、新しい形式を繰り返し掬い上げる自由が宿っている」。たしかに、モダニズムの文学は「取りこぼし」を意識するところから始まったのだ。20世紀のドイツ語圏文学を代表するインゲボルク・バッハマンが言っている。「文学はユートピアである」と。
以上の拙文を通じて、『繊細さについて』に関心をもたれた方は、郁文堂のホームページ(https://ikubundo.com/book/9784261073713/繊細さについて)をぜひご覧になっていただきたい。実は、本書第1章「繊細化の過程」が無料で読める。「立ち読み」できるのだ。また、2026年6月6日付け朝日新聞の書評欄でも紹介されている。私たちがマン研究会で同書をめぐり熱く議論をした日だ。議論のひとつを序でにここで紹介しておこう。
ドイツ語の総称男性名詞は、ドイツでとかく問題になる。例えば、「全生徒」のことを表記する際、「Schüler」 でいいのか、やはり「Schüler_innen」と表記すべきではないか。こうした議論はドイツでよくおこる。なぜだろうか。ドイツ人が「繊細」だからか。以前、フランス語を習った際に、フランス人の先生が言っていた説明を思い出す。研究会の参加者が100人だとしよう。そのうち1人でも男性がいれば、ドイツ語で sie (彼ら、彼女たち)にあたる表記は、フランス語だと、elles(彼女たち)ではなく、ils(彼ら)となる。女性99人、男性1人でもだ。こうした表記が問題にならないのは、フランス人が「繊細」でないからか。
そんなことが研究会で話題になった。他言語、例えばイタリア語やロシア語や中国語ではどうなっているのだろうか。ドイツ人なら日本語の役割語をどう思うであろうか。役割語は意外と絵本に多い。そうだとすると、日本の絵本は、ドイツ人的に考えると、あまり「繊細」でないのか。もしかすると子供たちを「洗脳」しているのか、それとも子供たちに社会の中で生きる「強靭さ」を植えつけているのか。議論は尽きず、私などは勢い余って、二次会まで行ってしまった。ともあれ、あまりにも面白すぎる本を訳者の鈴木さんからいただき、しかも、鈴木さんからお話を伺う機会を得たのだ。こうした貴重な経験を通じて、過敏化し、多様化する現代について、実に深く広く考える機会を得た。午前様になりながら…… (小黒康正)

