ヘミングウェイ+α研究ページ

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「アドバルーンのある風景」

九英会の機関誌に載せたいつもどおりの雑文です。

うちの車を置いている駐車場から、最近ずっとアドバルーンが見えています。空にひとつだけぽつんと浮いたアドバルーンを見ていると、なぜか気分が落ち着いて、たまにぼけっと空を眺めてしまうことがあります。なんだかのどかで時間がゆっくり流れていくような気になってくるのです。最近までどうしてアドバルーンを見るのがこんなに好きなのか、自分でも不思議で、そこに特別理由があるなんて、あまり考えてもいませんでした。


子供の頃、小学校1年生の途中まで、私は大阪市内の住宅地に住んでいたのですが、そこから一駅ほど離れたすぐ近所に母方のおばあちゃんが住んでいました。幼稚園に通い始める前は、朝の掃除が終わるとすぐに、幼稚園に通い始めてからは、帰ってすぐに、母親に連れられておばあちゃんの家に向かい、そこで夕方まで過ごしていました。一日という時間がまだ無限のように長く感じられる年頃、その大半をおばあちゃんの家で過ごしていたのです。その家は昔ながらの日本家屋で、昼は電気もつけず、縁側から差し込む強い日差しで、家の中はかえって暗く感じられたのをよく覚えています。


そんな風にずっと一緒に過ごしていたせいもあるのでしょうが、わたしはおばあちゃんっ子で、従兄弟がたくさんいたにもかかわらず、おばあちゃんにいちばんかわいがられていた孫でした。おばあちゃんの家に通っていた時期は、今から考えればたかが3~4年程度に過ぎないのですが、子どもの頃の時間感覚のせいでしょうが、私にはずいぶん長い間、おばあちゃんと一緒に過ごしていたように思えます。


夏などは庭から入る強い光のそばで縁側に座り、扇風機を回しながらよくスイカを食べたりして、おじいちゃんやおばあちゃんにその日あった何気ない出来事などを話して聞かせていました。そんなときの時間はとてもゆっくりと流れていて、まるで永遠にその瞬間が続くかのように感じていました。というよりは、私の記憶に残るその光景が、その瞬間だけをとどめているからそんな錯覚を抱いているだけなのでしょうか。


その縁側から、まぶしくて目を細めながら空を見上げると、いつも見えていたのがアドバルーンだったのです。「アドバルーン」という言葉も、たぶんそのときおばあちゃんに教わったのだろうと思います。


最近はあまりアドバルーンを見かけることもなくなったように思います。久しぶりに駐車場で見て、懐かしいな、と思ったのですが、なぜこんなに落ち着いた気分になるのか、しばらく思い出せないでいました。学生のために費やす時間、論文を書く時間はとても楽しくて大好きなのですが、そうやってやるべき仕事に追われていると、ふとあの頃のゆったりと流れる時間に戻れたら……などとつい考えてしまいました。やがて年を重ねて、あのときのおばあちゃんと同じくらいの年になって隠居生活を送るようになれば、ふたたび時間はゆっくりと流れ始めるのでしょうか。