ヘミングウェイ+α研究ページ

ヘミングウェイ+α研究ページ

「馬糞を踏む」

九英会の機関誌に載せた雑文です。ネタがなかったので……。

授業で文学を教えるようになってから、フォークナーに言及するたびにいつも学生にする話があります。フォークナーの短編小説に「納屋を焼く」という作品があるのですが、その主人公のアブナー・スノープスが馬糞を踏むところがあり、私はこの場面がものすごくかっこいいと思うのです。フォークナーと言えば馬糞、というくらいこの話ばかりするもので、学生たちは若干あきれかえっている様子ですが、私にとってはアメリカ文学作品で最も印象に残っている場面のひとつなのです。


アブナー・スノープスは、自分の意志を貫き通すためなら、平気で悪事を行う凶悪な男です。地主と契約して小作農として働く貧乏白人なのですが、地主と利害がぶつかると、納屋に火をつけて次の土地に渡っていくという、冷酷残忍な男です。極悪な人物であるにもかかわらず、妙にこのアブナー・スノープスという人物に魅力を感じるのは、おそらく彼の強靱な意志の力にあるのだと思います。善悪の区別など一顧だにせず、ただひたすら自分の思うままに行動し、一切妥協することのない彼の姿は、凡人にはまねのできない凄みがあるのです。


問題の馬糞を踏む場面は、物語が始まってしばらくのところ、アブナーが息子を連れて新しい主人となるド・スペイン少佐という大地主の家に向かうときに現れます。彼の歩みは、その性格をよく表して、ただひたすらまっすぐです。そのアブナーの歩く前方に馬糞が落ちているのですが、ほんの少しでも脇へよけるなり歩幅を変えるなりすれば簡単によけられるにもかかわらず、アブナーは全く歩みを変えることなく歩き続け、まともにその馬糞を踏みつけるのです。


その後アブナーは、馬糞を踏みつけた足でド・スペイン少佐の家に無理矢理上がり込み、敷かれてあったきれいな絨毯を踏みにじるのですが、それよりなにより馬糞を踏みつけても自分の足取りをいっさい変えようとはしない、そのかっこよさです! 授業ではいつもこの馬糞を踏むアブナーのかっこよさについて一所懸命説明するのですが、どうもなかなか伝わらないらしいですね。


もちろん私はアブナーのように他人の財産に害を加えたりしたいなどとは思っていませんが、これほどまっすぐに迷いなく突き進む姿に何となくあこがれを感じてしまうようです。それはおそらく現実の私が迷い、道を踏み誤り、つまずき、足踏みしてばかりだからなのでしょうね。少なくとも教育の場ではアブナーのように迷いなく突き進むべく、どれほど学生の失笑にあっても、フォークナーと言えばこの馬糞の話を続けていくつもりでいます。いずれ誰か共感してくれる学生を待ちながら。