ヘミングウェイ+α研究ページ

ヘミングウェイ+α研究ページ

「青の交響曲シンフォニー

「あっ」と、父と母が同時に声を上げるので驚いて顔をそちらに向けると、信号待ちの踏切の向こうを青い列車が駆け抜けていった。近鉄電車が一日一往復、大阪阿部野橋から吉野まで運行している「青の交響曲シンフォニー 」という特急列車である。


実は最近まで知らなかったのだが、両親はふたりとも電車が好きで、私が大学に通いはじめて実家を離れてからは日本中のあちこちの電車に乗りに行ったり、各地の鉄道博物館を訪ねたり、というのがふたりの共通の趣味だったそうだ。ここ数年、実家に帰るとカメラ好きの父親が珍しい列車を撮ったものだという写真を何枚も見せてくれた。そういえば一度九州に呼んだときは、きれいな列車がたくさん走っていると言ってずいぶん喜んでいた。


青の交響曲はつい最近走り始めたばかりの観光列車で、実家のすぐ近所の近鉄南大阪線を走っているのだが、残念ながらここ数年で父の肺気腫がひどく悪化しており、巨大な酸素ボンベを持って乗車するのは難しいということで乗るのは諦めていたらしい。せめて外から写真を、と思いながら、長時間の外出ができない状態で一日一往復しかない列車を待ち受けるのは難しかったようだ。


ちょうどこの日、妻を連れて実家に戻っていた私は、そんな身体の悪い状態で送ってくれなくていいと父に言ったのだが、たまには外出もしたいから送らせてほしいと言ってくれ、父の運転で最寄りの駅に向かっていたところだった。カメラこそ持っていなかったものの、「見られてよかったなあ」と嬉しそうにしている両親の顔を見ていると、なんとかあの列車に乗せてやる方法はないものかと考えさせられた。


それから20日後に父は死んだ。結局父を青い交響曲に乗せてやれることはできなかった。せっかくあの列車が通過する時間がわかったというのに、写真を撮ることもできないままの急な死であった。


ほんの少し前に帰ったばかりの実家に思いもよらずすぐに戻ることになり、それから1週間ほどは葬式や遺産の整理やらで慌ただしく過ぎていった。父と一緒に旅行や散歩をするのだけが趣味のような母が、脱力したように落ち込んでひどく小さく見えた。今後ひとりになって大丈夫だろうかと心配になる。今はまだするべきことが山積みになっていて、多少は気が紛れるのだろうが。


思えば定年後の両親が鉄道を趣味にしていたことを知らなかったのも、私があまり実家に帰ることがなかったせいであり、ずいぶんな親不孝であった。2年前に結婚する際に妻を連れて実家に帰ったときからは比較的よく連絡をとりあうようにはなっていた。妻と父とがずいぶんと気が合ったようで、普段無口な父親が、妻を連れて帰ったときにはひどく饒舌になり、鉄道以外にも趣味の多い父は色んな話を嬉しそうにしていたものだ。私たちが福岡に戻ると、「また来えへんかなあ」と寂しそうにしていたという。そんなことならもっと頻繁に帰ってやればよかったと今更のように後悔するが、多少なりとも結婚したことが死ぬ前のぎりぎりの親孝行にはなったのだろうか。


父の死後1週間が過ぎていちど福岡に戻らなければならなくなったとき、やはり最寄りの駅まで送りたいという母と一緒に、今度は歩いて駅まで向かう。「じゃあ」と言って改札を通り過ぎて母の方を振り返ると、そのほんの僅かの間にいつのまにか母が号泣している。やはり急にひとりになって心細いのだろう。「大丈夫やから、もう行き」という母をおいて立ち去り難く、「またすぐ戻るから」と声をかけるが、母の涙は止まらない。


その時通過列車の警告アナウンスが流れる中、背後をものすごいスピードで列車が駆け抜けた。思わず振り返ってみると、青い交響曲だった。


「あっ」と思わず二人で声を上げ、顔を見合わせる。そして泣くのを忘れたように母の顔に少しの笑みがこぼれた。


そういえば先日通過したのもちょうどこれくらいの時間であったか――。


「今度落ち着いたら位牌を持って一緒に乗ろう」


涙は止まらないものの、笑みの戻った母にそう声をかけて、実家を離れた。