ヘミングウェイ+α研究ページ

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「キューバのハポネ」

九州アメリカ文学会のニューズレターに掲載されたエッセイです。ヘミングウェイ協会より先に書いてしまいました……。

昨年9月にヘミングウェイの蔵書を調査するため、10日ほどキューバに行ってきました。ヘミングウェイは晩年の20年をキューバで生活し、持ち物も含めてその家がキューバ政府によって保存されているのです。社会主義の国に行くのは初めてのことでしたので、いったいどんなところかといろいろ想像をめぐらせていたのですが、実際行ってみるといろいろな意味で期待を裏切られました。今回は、あまり日本では知られていないキューバの様子をご紹介いたします。


まず社会主義の国は自由が制限されているという思い込みがあったのですが、到着初日にハバナ新市街のホテルに行ってみて、早くもこれがまったく事実と異なっているということに気づきました。ホテルの部屋のテレビをつけると、いきなり放映されていたのがハリウッド映画!ホテルの中庭にあったレストランに行ってみると、そこで流れているアメリカ映画を、店員もお客さんも食い入るように眺めています。こういう資本主義国の文化はてっきり規制されているのだと思っていました。後から話を聞いてみると、キューバは社会主義の国とはいえ、中国や旧ソ連のような情報規制はほとんどしていないのだそうで、もしアメリカの豊かな生活をあこがれてアメリカに出て行きたいと考える若者が出てきても、基本的にはご自由に、というスタンスなのだそうです。キューバという国は本当に国を大事に考える者が作り上げるのだという自負があるのだということで、とにかく何も制限しない、自由の国なのです。10日ほど過ごしてみて思ったのは、社会主義の国というよりはラテンの明るい国という印象でした。


到着してすぐ、キューバ第2の都市サンチアーゴ・デ・クーバに向かう用事があったのですが、このときに乗ったキューバ・エアーの飛行機がすごかったのです。早朝まだ真っ暗な時間に出発したのですが、大量の現地の人たちと一緒にバスに詰め込まれ、暗闇の飛行場を飛行機のあるところまで走り、飛行機に乗ったのですが、乗ってみて驚いたのが、バスから飛行機に乗り換えても、中がほとんど同じに見えたことです。飛行機だというのに椅子は折りたたみ式で、歩くとなんだか心持ち足元でミシミシいってそうな雰囲気です。私はあらかじめ話に聞いていたので厚着をしていたのですが、飛行機が高度を上げると、空調がしっかりしていないのでしょう、地上は灼熱の国であるにもかかわらず、上空ではほとんど氷点下です。現地の人たちは飛行機に乗り慣れていないのか、Tシャツ1枚とかの格好でガタガタ震えています。目的地に着陸するといきなり足元からものすごい勢いで白い水蒸気が立ちこめてきます。


飛行機のこともそうですが、キューバのあちこちで特に驚かされたのが、ありとあらゆるところでとにかく貧乏なこと。まず水が出ません。お風呂に入ろうと思ってシャワーを出しても、高級ホテルでもお湯が出なかったり、一度は一般家庭にお世話になったときなど、シャワーから出るのは水一筋!これで体を洗うのかと驚きました。電気も貴重で、賑やかな商店街を歩いていても、昼は店内の電気が消されているために、店が開いているのか閉まっているのかも分からない状態です。とりわけすごいと思ったのが、電気代がもったいなくて幹線道路の信号が所々で消されていること。よく大きな事故が起こらないものだと感心してしまいました。道路は道路で穴ぼこだらけ、修復される様子もありません。


そんな貧しさであるにもかかわらず、不思議なことにキューバはカリブ海沿岸の国の中でももっとも治安のいい国のひとつです。現地の日本人の話によると、もちろんキューバにも悪い人はいるのですが、人を傷つけてまでお金を取ろうという人はいないのだそうです。ちょっと意外な気がしたのですが、よく考えれば本来こちらの方が遥かに普通なのではないでしょうか。そして殺人事件などせいぜい年間1件あるかないかだということです。それも物取りの犯行などではなく、ラテン系の情熱的な人が多いせいで、痴情のもつれで人を殺したりする人が時々思い出したように現れるのだそうです。


しかしながら私がキューバに行ってもっとも感銘を受けたのは、町ゆく人々の幸せな顔と、彼らの愛国心でした。それを典型的に感じたのが、着いて間もない頃、とある小さな広場を散歩していたときのことでした。見ると向こうから腰の曲がったよぼよぼのお婆さんがこちらに歩いてきます。すぐ近くまで来たとき、急に私の顔を見るやいなや、拳に親指をぐっと立てて私の方につきだし、「ハポネ!」と叫ぶのです。ハポネが「日本人」という意味のスペイン語であるのは知っていましたが、いったい何のことやらさっぱり分からず、私も勢いに負けて同じポーズを返しておきました。後から聞いたところによると、これはキューバ特有の挨拶なんだそうです。町中では至る所で互いに親指を出し合っています。そしてキューバ人は自分の国をものすごく誇りに思っているので、相手の国の名前を言うことが相手に対して敬意を払うことになるのだそうです。きっと相手も同じように自分の国を誇りに思っているはず、と考えているのでしょう。その後も至る所でいろんな世代の人たちに「ハポネ!」と声をかけられました(ときどき間違って「チノ!」と言われるときもあるのはご愛敬)。とかく愛国心というのは他国に対して攻撃的になるものだと思っていましたが、キューバでは自分の国に対する愛国心が他国に対して敬意を示すことにつながっているのだと知って、とても感激してしまいました。


先ほども書きましたように、キューバは物質的には貧しい国なのですが、精神的にはとてつもなく豊かな国のような気がします。町行く人の顔がとにかく明るいのです。歩いていると頻繁に現地の人に話しかけられ、カタコトの英語で(スペイン語発音するので最初は何を言っているのかさっぱり分かりませんでした)「オレの国を見に来たのか?あそこは見たか?ここはすごいぞ!」と次から次へと自分の国の見せたいところを教えてくれるのです。まあこういう人たちの何%かは悪い人たちなので、うっかりしているとえらい目に遭ってしまうのですが。


食事は貧しくても、電気がつかなくても、あるいは風呂に入れなくても、配給で最低限度の生活が保障されているせいもあるのでしょうが、とにかく楽しそうに生きているのだなあと思いました。そしてこの貧しさは決して彼らのせいばかりではなく、アメリカの経済封鎖が大きな原因になっています。彼らの側は例のハリウッド映画のように、アメリカのものを入れることには何の抵抗もないにもかかわらず、アメリカ側が一方的にキューバに制裁を加えている状況なのです。モノがないせいで50年代までにアメリカが持ち込んだ製品をギリギリまで修理して使いながら、毎日そんなことを気にもせず、歌って踊って楽しく暮らすのがキューバ流なのです。子どもの頃から学校では、社会主義の国は競争がないので進歩しないのだと教わってきましたが、こんなに幸せそうな姿を見ていると、いったい何のための「進歩」なのかと思わずにはいられませんでした。


きっともう少しだけ豊かであれば、つまりアメリカの経済封鎖さえなければ、この国はきっとこの世の楽園なのではないか、そんなことを思いながら帰りの飛行機に乗ったのでした。 。