ヘミングウェイ+α研究ページ

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「箱崎への思い入れ」

元来私は場所に対してあまり思い入れを持たない性格で、初めて実家を離れて京都へ行ったときも、京都は日本一住みやすい場所だと(少なくとも住んでいる間だけは)思っていたし、最初の就職で岩手に行ったときも、岩手は第二の故郷であると(今でも)思っているし、九州に来たときには何もかもが素晴らしく、一生住み続けたいと(これも今でも)思っている。どこに行ってもそこが一番いい場所なのは、裏を返せば以前の土地に対して特別強い思い入れを持たないせいもあるのだろうと自分では思っていたし、箱崎キャンパスを離れることになったときにも、多少不便にはなるのだろうが、まあ別にどうでもいいとさえ思っていた。移転作業が進むさなかにも、いつの間にか10年以上もいたのかと驚きはするものの、ことさら感慨のようなものは湧いてこない。


ところがいざ研究室の引っ越しがすべて終わり、もうここに来ることもないのかと思って文系キャンパスの中門を通ろうとすると、ふとはじめてその門を通ったときのことを思い出したのだ。


あれは2006年8月のことで、夏のカンカン照りの太陽にあぶられながら、九州大学の採用面接に呼ばれたのだった。文系の中門のところで採用担当の村井和彦先生と待ち合わせをしていたのだが、ちょっと早めについたせいで汗だくになりながら待つことになってしまった。状況が状況だけにかなり緊張していたのだが、やがてキャンパスの奥から村井先生がのんびりと歩いて来られ、面接会場までキャンパスを案内してもらいながらいろいろお話を伺っていると、不思議と緊張感もほぐれてきたのを今でもよく覚えている。あのとき、村井先生にあちこちを案内してもらい、説明してもらったキャンパスが、私にとってはじめての箱崎の印象となったのだ。


村井先生は2011年にまだ57歳という若さで亡くなられた。ずいぶん短い期間だったがその間にどれほどお世話になったかわからない。亡くなられてからもう7年になるわけだが、改めて箱崎を立ち去るに際して、私の中で村井先生との思い出が箱崎キャンパスという場所にきわめて強く結びついていたことに改めて気づいたのだった。その日、文系中門を通るとき、村井先生に二度目のお別れをしたような気がしていた。


その後しばらく福岡を離れていたのだが、つい先日久しぶりに新しいキャンパスの研究室に来て、やっとのことで本棚の整理をし始めた。そのときおそらく引っ越しでもなければあったことにすら気づかなかっただろう古びた封筒が本の隙間に挟まっていたのを発見した。何かと思って取り出してみたら、九州大学の今のポストに応募する際に提出した書類の封筒である。審査が終わって返却されたものだろうが、自分の若い頃の写真と一緒に、どうも村井先生のものらしい鉛筆書きのメモがいくつか。


私の中で村井先生と結びついた箱崎キャンパスは近いうちになくなってしまうのだろうが、ご本人を思い出す品を再発見したことで、新しい研究室も少しだけ村井先生と結びついたような気がして、少し救われた気持ちになったのだった。