『美学のアップデート』(吉岡洋)

少し前の話になるが、2026年2月1日、吉岡洋先生から『美学のアップデート』(水声社、2025年)をいただいた。吉岡先生は、美学会の元会長で、京都大学教授を経て、現在、京都芸術大学文明哲学研究所所長を務められている。先生とは、第26期日本学術会議「日本文学の伝統と現代社会分科会」でご一緒させてもらった。御著書をいただいたのは、分科会の企画で「日本文学と藍」シンポジウムが京都芸術大学で行われたときのことで、懇親会での席だったと記憶する。

御著書を読んだ際、シンポジウムの議論で自分が述べたことを思い出した。藍と青の違いについてだ。「藍は青よりいでて」と言うが、藍は植物由来の色として現実的な色、青は自然界にない色として非現実的な色ではないか。たしか谷川俊太郎の詩にあったが、海は青く見えても、手に取ると透明、青はどこにもない。古代ローマの哲学者ルクレティウスも同様のことを述べている。空の青についても同じことが言えるだろう。

当方、ドイツ文学研究者として、ドイツ・ロマン派のノヴァーリスにおける「青」に言及した。また、シンポジウムの席上で述べなかったことだが、ユダヤ系の作家イルゼ・アイヒンガーの小説『より大きな希望』(1948年)はナチスに支配された世界で少女エレンが青の世界を求める物語だ。両者において「青」は、現実の「どこにもない場所」、つまり、「ウ・トポス」となる。ユートピアが託された色は、否定性を本質とする「場所」であり、「言葉」であろう。 

そんなことを考えながら、いただいた本を読んだ。第2章「炭鉱のカナリア、または「弱さ」について」は、とりわけ興味深い。「弱さ」とはなにか。「言葉にならない経験、言語的認識の足場を失うような経験の持つ性質のこと」だ。そこには「誘惑の力」、芸術を立ち上げる力がある。「弱さ」をめぐる言葉は実に力強い。「非言語的な経験をとりあえず保護しておく仕組みのこと」、それが芸術だ。こうして既存の芸術観が、アップデートされていく。

同書では、私たちの日常経験にもとづいて美学の本質が語られている。例えば、「キモかわいい」という現代語がなかなか面白い。「言葉にならない経験」を若者なりに示しているからだ。その点で、否定性にもとづく芸術観と結びつく。そもそも私たちの存在自体が否定性にもとづいている。「生きることとはまさに、世界のほとんどが見えないこと、闇のなかにいることにほかならない」。絶えず「夜の闇」にいる私たちにとって、芸術こそが「より大きな希望」となる。

第5章「自然が芸術を模倣する?」の最後に立てられた問いが、これまた興味深い。「自然と技術(アート)との関係について、私たちはいまだにピュグマリオーンとフランケンシュタインの呪縛の中を、ウロウロしているだけなのではないだろうか?」という問いだ。こうした問いが立てられるのは、「芸術とは自然の模倣である」という言葉が、2000年にもわたって、今日でもいまだ鳴り響いているからだ。

良書をいただくと、「棚からぼたもち」、自分自身の思考がいつの間にか更新されている気がする。2冊目の拙著『水の女 トポスへの船路』(九州大学出版会、2012年;新装版、2021年)で書いたことだが、「水の女」の文学的系譜は、特に近代ドイツ文学において、「外なる異界」や「未知なる他者」のみならず、「内なる異界」や「未知なる自己」をも取り込みながら、「水の深さ」が「心の深さ」となる現代的な「他者」経験を問題にしていく。

より一般化して言うと、古今東西、世界中のいずれの地域にもある「水の女」の物語は、水を出自とする女性と陸に住む男性の遭遇を単に扱うだけではない。実は、私たちの身体と関わり合いながら、「言語」と「言語にならざるもの」が繰り返し衝突する「トポス」を築く。そう述べた拙著を、私はなんだかアップデートしたくなったなった。文学における「水の女」は、青く見えても、その青がどこにもない「水」の世界から来るだけに、「どこにもない」という力強い「弱さ」を私たちにもたらすのだ。(小黒康正)