九州大学言語学研究室

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松岡雄太「モンゴル語のアスペクトに関する研究−満洲語・朝鮮語との対照研究」

本論文は,モンゴル語のアスペクトについて,現代語という共時態,及び,中世語から現代語に至るまでの通時態,の二つの側面から体系的に記述したものである.本論文は,第1章「問題提起と用語の定義」,第2章「現代語のアスペクト体系」,第3章「アスペクトの通時的変遷」,第4章「まとめと今後の課題」の四章から構成される.

第1章では,アスペクトに関する従来の記述が,研究者によって大きく異なること,そしてその原因が,アスペクトをどのように定義するかの違いにあることを論じた.アスペクトの定義は,主に,(a) Comrie (1976) に代表される,アスペクトを「機能=意味論的範疇」として定義する立場と,(b) Маслов (1978, 1984) に代表される,アスペクトを「文法範疇」として定義する立場,に二分される.従来の研究における記述の不一致は,前者 (a) の立場で,アスペクトを意味的に定義した結果生じたものだと考えられる.意味的な定義には,原理的に無限のバリエーションがありうるためである.本論文では,後者 (b) Маслов (1978, 1984) の定義に依拠して議論を進める.

第2章では,まず,中国内蒙古自治区東部で話されるホルチン方言を対象にして,現代語のアスペクト体系を明らかにした.従来の研究においてアスペクト形式として扱われていた形式は,(a)「ゼロ形式(音形をもたない無標の形式)」,(b)「接辞」(-sx-, -čix-, -čgaa-, -lj- など),(c)「副動詞 + bai-」(-j bai-, -aad (l) bai-, -saar bai-),(d)「形動詞 + bai-」(-sn bai, -dag bai-),(e)「副動詞 + 副動詞」(-saar + -saar, -aad + -aad など)の五種類にまとめられる.これらの形式の中で,アスペクト範疇を形成するのは,(a)「ゼロ形式」と (c)「副動詞 + bai-」の二種類のみであり,これらの形式が次のような体系をなしていることを明らかにした.

(1) 現代語のアスペクト体系
(a) 動作の継続について,無標の「一般相」(ゼロ形式)と有標の「継続相」(「副動詞 + bai-」)が対立をなす.
(b) 有標の「継続相」は,さらに,動作の継続を動きのあるものとして捉えるか,動きのないものとして捉えるかにおいて,「動的継続相」(-j bai-)と「静的継続相」(-aad bai-)の対立をなす.
(c) 有標の「継続相」は,さらに,動作が継続する時間的な長さにおいて,「継続相」(-j bai-)と「長期継続相」(-saar bai-)の対立をなす.

第2章では,次に,アスペクトの意味に関わる動詞の分類を行なった.「継続相」の三つの形式(-j bai-, -aad bai-, -saar bai-)は,結合する動詞が,限界動詞か非限界動詞かによって意味が変わる.本論文では,動詞の限界性が -j bai-,-aad bai- の意味から判別できることを主張した.

第2章では,最後に,ホルチン方言と現代朝鮮語のアスペクト体系における類似点を示し,ホルチン方言に「動的継続相」と「静的継続相」という対立をみとめる妥当性が,類型論的に支持されることを論じた.また,「結果性」を表わす,ホルチン方言の -aad bai- と現代朝鮮語 -a/e iss- には,「目の前性」において違いがあることを指摘した.すなわち,朝鮮語の -a/e iss- は,目の前に見える「結果性」しか表わせないのに対して,ホルチン方言の -aad bai- は,目の前に見えない「結果性」も表わせる.

第3章では,まず,『元朝秘史』を研究対象として,中世語(13世紀〜15世紀前半)のアスペクトについて論じた.中世語には,現代語の「副動詞 + bai-」(-j bai-,-aad bai-, -saar bai-)に相当する形式に,-n bü- と -jü bü- の二種類があり,これら二種類の形式は,次のような体系をなしていることを明らかにした.

(2) 中世語のアスペクト体系
(a) 動作の継続について,無標の「一般相」(ゼロ形式)と有標の「継続相」(「副動詞 + bü-」)が対立をなす.
(b) 有標の「継続相」は,さらに,「動的継続相」(-n bü-)と「静的継続相」(-ju bü-)の対立をなす.

以上のことから,モンゴル語のアスペクトには,中世語から現代語に至る過程で,@「存在動詞の変化」(bü- からbai- に),A「動的継続相と静的継続相における,形式のシフト」(-n bü- から -j bai- に,-jü bü- から -aad bai- に),B「-saar bai- の発生」という大きく三つの変化が起こったと考えられる.

第3章では,次に,この通時的変遷を明らかにするために,「蒙文档案」,『蒙語老乞大』,『初学指南』といった口語文献を対象とし,近代語(17世紀〜19世紀)のアスペクトについて論じた.これら三種類の近代語文献からは,上述の,@「存在動詞の変化」とA「-n bü- から -j bai- への移行」が,遅くとも17世紀初葉に起こったことと,同,B「-saar bai- の発生」が,遅くとも18世紀に遡ることが確認される.なお,-aad bai- の用例は,上の三種類の近代語文献には確認されない.

また,モンゴル語のアスペクトに上述の変化が起こった原因に関して,17世紀から18世紀にかけてモンゴル語と満洲語の間に言語接触があり,モンゴル語が満洲語から影響を受けたのではないかという仮説を提示した.ホルチン方言と満洲語のアスペクト体系は大変類似している.

第4章では,まず,第2章と第3章で明らかにしたことを整理して示した.また,今後の研究課題の一つとして,現代語の方言差について言及した.モンゴル国で話されるハルハ方言のアスペクトは,ホルチン方言と若干異なるが,この違いは,ハルハ方言がホルチン方言よりさらに文法化(語彙項目が歴史的に文法的な機能を果たすようになる過程)の進んだ段階にあることを示唆することを主張した.今後,現代語の諸方言を調査することによって,アスペクト体系の通時的変遷を明らかにすることもできると考えられる.

以上,本論文は,従来の研究が各形式の意味記述にとどまっていた段階から,それらを体系的に捉える段階に,研究を進めた.