九州大学言語学研究室

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村岡 諭「日本語における述語の絞込み処理と左側節境界の設定」

私たち人間が言語を使用して情報の伝達を行う際に,情報受信者である聞き手(読み手)は文頭の単語から順番に知覚することによって,その言語表現と対応する意味を理解している.そこで文処理研究では,音(文字)の連続と対応する意味を理解する仕組みである解析装置の解明が試みられている.本論文では,実験心理学的な手法を用いて,日本語の文処理過程において要素間の関係が確定できない状況で,解析装置が限られた情報をもとに要素間の関係を決定していく過程を実証的に示した.

言語を用いた情報伝達において,基本的な単位となる文は,事態や状況を表す述語と,その事態や状況に関連する要素を表す項から構成される.そして,項と述語との間で係り受け関係が結ばれることによって,文全体が表す意味が決定される.しかし,日本語では述語が文末まで出現しない.(1a, b)のように処理の途中段階では,係り受け関係の「受け」側となる述語が存在せず,(1c)のように文末に述語が出現した時点で初めて係り受け関係が確定する.

(1)a. 太郎が…
b. 太郎が花子に…
b. 太郎が花子に甘えた.

そこで,第二章では,「係り」側である名詞句が出現した時点で,解析装置は係り受け関係を構築するために「受け」側となる要素「Pred」を挿入し,既に出現した名詞句とPredとの間で係り受け関係を構築しているという提案を行った.「受け」側となるPredは,具体的な語彙特性は指定されておらず,(1a, b)のように順番に項となる名詞句が出現するに従って,その要素の語彙特性が指定される.さらに,解析装置は,どのような格助詞を持つ名詞句が入力されたかによって,どのような語彙が文末の述語として出現しうるのかを予想し,その予想の範囲を絞り込んでいくという処理を行っていると提案した.そこで,ニ格かヲ格かという目的語名詞句の格助詞の違いによって,解析装置が行う絞込み処理に違いがあるかを検証した(実験1・2).そして,解析装置は,要素間の係り受け関係だけでなく,どのような要素が述語として入力されるかについて(2)のように絞込み処理を行っていることを示した.

(2)a. ニ格名詞句入力時に,次に出現すると予想される要素は,動詞とヲ格名詞句である.
b. ヲ格名詞句入力時に,次に出現すると予想される要素は,動詞である.

次に,一つの文の中に二つの述語が含まれる複文構造と呼ばれる文における処理過程を取り上げた.項と述語によって節と呼ばれる構成素が形成され,複文構造では二つの節が入れ子構造になる.そこで,埋め込み節の範囲に関する問題が生じる.埋め込み節の終点である右側節境界は埋め込み節の述語が出現した時点で確定する.しかし,日本語には埋め込み節の始点である左側節境界を示す要素がないため,左側節境界の位置が問題となる.さらに,(3)に示すように,主節の述語が出現するまで,左側節境界の位置を確定することは出来ない.

(3)a. 太郎が 花子に [次郎が 本を 送ったと] 伝えた
b. 太郎が [花子に 次郎が 本を 送ったと] 思った
この左側節境界の問題は,係り受け関係の構築と関わる問題である.複文の処理においては,主節の述語が入力される前の段階で係り受け関係を構築するためには,左側節境界の設定を行う必要がある.よって,述語入力前に行われる処理を明らかにするためには,左側節境界の設定過程を明らかにすることが必要である.

そこで,まず第三章では,絞込み処理と左側節境界の設定との関連について検証を行った(実験3).そして,解析装置は,絞込み処理の結果,述語として出現しうる候補が存在しないと判断した場合に左側節境界を設定することが明らかになった.例えば,「太郎が花子に次郎が」という名詞句の連続では,「次郎が」が出現した時点で,二つ目のPredを挿入して,(4)の係り受け関係を構築する.

(4)
この結果から,解析装置が「次郎が」が入力されるまでに結ばれたPred1との係り受け関係を保持すると言える.

第四章では「あまり,少しも」等の否定呼応副詞によって左側節境界の設定位置に違いが生じるかを検証した(実験4・5).呼応副詞を含む文では,解析装置は呼応副詞の語彙的な指定に基づき述語の形式を予想する.

(5)
そして,解析装置は,呼応関係の処理の途中で左側節境界を設定する場合,(6)の係り受け関係を構築することが明らかになった.
(6)
(4)では左側節境界を設定するまでに構築された係り受け関係の保持が優先されたが,(6)では呼応関係を出来るだけ早く確定させるために,係り受け関係の保持が行われていない.この結果から,呼応関係と係り受け関係についてはそれぞれ異なる処理が行われており,その違いが左側節境界の設定に影響を及ぼすことを示した.

第五章では,韻律情報を取り上げた.第二章から第四章までは,文中に含まれる要素について格助詞という形態的情報や,呼応関係に関する語彙的情報を取り上げた.これらの情報は,解析装置がそれぞれの要素単独で利用することが可能な情報である.しかし,聴覚呈示された文を処理する際には,複数の要素間を通じて観察される韻律情報を利用することが可能である.そこで,複文構造を持つ文が聴覚呈示された場合に,韻律パターンの違いが左側節境界の設定位置に違いが生じるかを検証した(実験6・7・8).そして,有アクセント語の連続においても,無アクセント語の連続においても,それぞれで観察される韻律パターンの違いが左側節境界の設定に影響を及ぼすことを示した.従来の文処理研究では,有アクセント語の連続における韻律パターンだけに注目した研究がなされており,無アクセント語の連続においても特定の韻律パターンが解析装置の行う処理過程に影響を及ぼすことを示した研究はなされていない.第五章の結果から,アクセントの有無という語彙的な問題とは関係なく,主節の述語が持つ確定的な情報を利用できない段階で,解析装置は韻律情報を常に利用していることを示した.

本研究では,解析装置が文末の述語に関して絞込み処理を行い,さらにその絞込みの結果や,述語の形式に関する予想,さらに韻律情報などに基づいて左側節境界を設定する仕組みを提案した.確定的な情報を担う主節の述語が出現していない状況であっても,解析装置は,最も基本的な単位となる節の範囲の設定を行わなければ,要素間の関係を処理することは不可能である.よって,本論文で得られた知見は,文処理において最も基本的な情報の解析過程を明らかにするものであるといえる.