2016年度行事開催記録

【報告】応答の人類学第30回研究会+科研第5回研究会を開催しました。
日時:2017年1月22日(日)13:30~17:30頃
場所:京都大学 稲盛財団記念館3階 小会議室 I
参加人数:9人
プログラム:
13:30-13:40 趣旨と挨拶(清水展)
13:40-14:30 飯嶋秀治(九州大学)「フィールドワークの命綱―『ガイドライン』を形骸化にも萎縮化にも帰結させないために」
14:30-15:00 意見交換
15:00-15:10 中休み
15:10-16:10 伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)「調査する側とされる側、憑依と共感──本多勝一の問いかけをめぐって」
16:10-16:40 フィールド・ホーム・エデュケーションからの質疑(小國和子・飯嶋秀治)と応答
16:40-17:30 総合討論

□飯嶋秀治(九州大学)「フィールドワークの命綱―『ガイドライン』を形骸化にも萎縮化にも帰結させないために」
大学の授業やディシプリンの習得過程として、文献、調査、実験というのは人文、社会、自然諸科学それぞれで身につけるべき基本的な方法論であろう。
近年、文部科学省の方針で「国際教育」「課題解決型学習」「アクティブ・ラーニング」などが提示されると、大学における人文社会系の改組の話題が共起したこともあってか、文化人類学などでもフィールドワークやエスノグラフィーの方法が存在意義を示す文脈となってきた。
他方でそうした方針が出されると、COC事業などへの学生の送り出しを不安に想う教員の声も届くようになってきた。この不安にはいくつかの不安があるのだが、そこには教育研究を誠実かつ豊かに推進したいという願いと表裏関係になった不安も多い。
本発表では、こうした文脈において、自らがフィールドワークのガイドラインを策定する過程において資料を収集し、内容を分析し、考察した体験について共有したいと思う。

□伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)「調査する側とされる側、憑依と共感──本多勝一の問いかけをめぐって」
朝日新聞が生んだ戦後最大のスター記者とも評される本多勝一はジャーナリストとしての自身の仕事を2つの傾向に分けて振り返る。1つは、探検(京大探検部)の延長上のルポルタージュである。1960年代半ばまでに、朝日新聞紙面に連載され、後に単行本となった「極限の民族」三部作がその代表である。ある世代の人類学者たちにとってそれらは人類学者を志すきっかけともなった。もう1つは、ベトナム戦争の取材を契機とし、「殺される側」(構造的な弱者)の視点という、立ち位置を明確化して書かれるようになったルポルタージュ群である。複数の外国語にも訳されてジャーナリストとしての世界的な評価を得た『戦場の村』は全世界で数百万部が読まれたという。
「文化人類学者はなぜアメリカ先住民を調べ、なぜベトナムを調べ、なぜアイヌを […] 調べる『必要』があるのでしょうか」。これはいわゆる本多・山口論争で提示された(山口が答えていない)問いである。上記2つの傾向が交差する所から発せられた本多の問いは、20年後、また今日に至っても、エレガントな語彙でもって繰り返し想起されている。
徹頭徹尾「殺される側」に立とうとする姿勢から派生する、不可知論と処理されがちなニヒリスティックな言明も、やや無頓着にも見える弱者への同一化(憑依?)という位置取りも、それが構造的な問題(パワーの不平等)を荒削りな形で言い当てようとしていることに留意する必要があろう。さらに、本多が発信し続けてきたのはマスメディアの界だということを忘れてはいけない。エッセンシャリズムへの配慮の欠如といった、「普遍的な」学の理論を遡及的に当てはめることは、本多が対峙していた時事的な文脈を無視することに繋がる。
本多の仕事を全体として評する意図はないし、そのような能力もない。時々の仕事に対する様々な評があり得よう。本発表では、本多の活躍した時代状況にも留意しつつ、人類学が彼の仕事から何を引き出せるかに絞って議論をしたい。

□ディスカッション

飯嶋:今日は司会がいなかったので、野放図な状態になってるんですけど、スケジュールで書いてると先にこの講演の部分は、小國さん、僕、あと亀井さんが質問をぶつけて、その後フリーにする予定だったので、ちょっとそれを先にやらせてもらっていいですか。ちなみに、小國さんの役割はフィールドとの応答っていうので、本多勝一についてなんか聞きたいこと。僕は、ホームでの応答っていうので聞きたいことと、亀井さんがいないので、なんとなくどっちかが聞くみたいに感じになってるけど、3番目はエデュケーションでの応答ってことですね。

小國:日本福祉大の小國です。伊藤さんが、発題とコメントの両方を発表されたなという印象で、満たされてしまった感じなんですけれども、応答のフィールドワークということでこれまで模索してきた、人類学的なフィールドワークってなんなんだろうみたいなところに引き付けて最後のほうは聞いていました。一つには、後半でずっと出てきた、二分法を巡るいくつかの議論ですね。なかでも最後に出てきた、「共感」について、コメントというか、質問しますと、人類学におけるフィールドでの共感ってなんなんだろうかっていうのが、問いとして浮かびました。というのは、例えば、(ある意味単純化して、一方を)弱者として表象することによって、複雑な実態が見えなくなるという側面もあるわけです。だから、それに対して、人類学者は、それを丁寧に描くことがやっぱり大事だよっていう言い方が一つあると思うんですが、それによって、伊藤さんもおっしゃってたみたいに、運動としての、二分法のパワーは薄まってしまうという部分があるだろうと。

伊藤:そのような可能性があるということでしょうか。

小國:はい、そういうふうに見たときに、我々がこれまで議論をしてきたフィールドワークの社会への応答性に着目して、すごくざっくりと言ってしまうと、あえて戦略的に二分法をおいて書いていくっていうことがありなのかどうかっていうことがひとつの問いです。加えて、それは書く場や対象に応じたTPOだけの問題なのか、それとも本質的な問題なのかっていうのがちょっと自分の中でもまだ、もやっとしてるんです。つまり、例えば私であれば、開発援助側の人に地域の事情を話すときは、できるだけ単純化して、特に「住民」というものを単純化してしゃべるっていうことは、戦略的にはしてきてるんですよね。でもだからそれは、例えばTPOだけの話で、フィールドとの関わり合いの目線という問題ではないって言いきれるのか、それとも、フィールドワーカーの目線としてそういう見方をすることで、現地との関係性がそのように生成されてくるのか、みたいな。ああ、混乱してきました、すみません。例えば本多さんが、『虫と人間』で、すごい批判的に書いてるようなふうには人類学者は書かない、と思うんです。でも他方で面白いなと思うのは、人類学はマイノリティに共感してフィールドを見ていくというか、ある意味、他の社会科学の中で、あんたストイックだねえって言われ続けているようなセンシティビティを持ち合わせているはずなのに、でも行き着く先として『虫と人間』的な書き方にはならない。つまり、書くことの暴力性などにすごくセンシティブであろうとしつつも、調査者としてというかフィールドワーカーとしての自己肯定感が実はすごく強いのかな、人類学者は。といったようなことを、改めて自分に対してですけれども、問われた気がしました。まとめますと、TPOとしての書き分けっていうのと、関係性含めて、フィールドワーカーの目線、立ち位置としての二分法っていうのが、自分の中でどうなってるのかっていうのをもっと整理して言論化しないといけないって感じました、というのが1点です。そしてもう一つは、今日のお話をうけて、今の人類学フィールドワークの可能性ってどうなんだろう、という点でして、これまで数年に渡ってこの研究会で、応答のフィールドワークというものを議論してきました。本多さんが発信された話は、基本的には同時代性がすごく高くて、その時代の中で対峙すべきところへと、どんどん、短いもの含めて出されてきたわけですよね。そういう中で、人類学のスタンスも批判の対象にもなってきた。そう考えたときに、たとえばある意味、清水展さんは特徴的な実例だと思うのですが、当時の本多の対文化人類学批判に対して、いま、フィールドとフィールドワーカーの関係性が変わってきて、現場の人たちが自分で書いて発信できるようになってきている時代の私たちのフィールドとのお付き合いの仕方が展開している現状を踏まえると、人類学フィールドワークの可能性は広がってきていますって無邪気に答えられるのかどうか。今の時代ではどんなふうな答え方があるのか、などと考えました。まとまってなくてごめんなさい。

伊藤:1番目と2番目の話に関して、例えばこのスライドで言うと、要するに、二分法の話っていうのは、理論の話で言うと表象の暴力性みたいな話になっちゃうんですが、言論人というか、ジャーナリストないしマスメディアで活躍されている方々にとっては、戦略的という言い方もしたけども、ある種、社会的な効果を考えるわけですね。例えば萱野さんが民具収集でこんなに困っているんだよというのを、あるいは社会党の比例代表で、11位でいったん落選したということを、いかに伝えるか。時事的な効果を考えるわけですね。

それと類比的なかたちで、人類学者が書くということを捉えることができるのか、という問いがあります。本多さん自身が人類学的な素養を持った方で、かつ、人類学にも詳しかったこともあるので、人類学が持つであろう社会的な効果について鋭く問うた時代があったわけですよね。

別になにか答えがあるかどうかっていうとなかなか、特に複雑化してくるとなおさらだと思うんですけども、難しい話が出てくるなっていうふうに思っていて。小國さんの語彙で言うと、TPO、時間と場所と機会ですよね。

小國:そうですね、伊藤さんの言葉で言うと媒体、でしょうか。

伊藤:はい。媒体というのも、小國さんがTPOって今おっしゃったことと似たようなことだと思うんですけども。そのことが人類学にとって本質的なものか?と小國さんが問われている、といことでいいんですか?

小國:そうですね。今回少し読み直したときに、本多さん自身が、梅棹さんから学んだことを生かして実践してきてるって書いていたりする。だから、現場での聞き取りに対する目線の持ちようっていうところでの、親和性がすごく高いですし、今日もご報告されたように、私自身もそうだったんですけれども、学部で読めと言われた本の中に、普通にエスノグラフィーの例として本多勝一の本も入っていました。なので、ある意味、差異化せずに学び始めたっていうのが、入口だったんです。なので、学生や外から、ジャーナリストの書くものと、小國がいうものとの違いは何ですかって聞かれる立場になって考え始めたというところがあり、それに対する答えを探すような思いでもあったんですね。

参加者B:すいません。あの質問したいことがあるので、よろしいですか。

飯嶋:はい。どうぞ。

参加者B:はい。本多勝一氏から学ぶべきことは、職業倫理の問題じゃないかなと。彼は、本当の大虐殺はなかったと最初言い切っていた。でもその本が重版して出版を繰り返す中で、過去に出した分を削除して、過去をなかったことにしている。そういう職業的な倫理が彼は欠けてるんじゃないかと。そこで例えば受け手の読者の応答、そういうものの立場が今日は見られなかったので、その辺をちょっと今後研究していただきたいのと。伊藤さんが、倫理的に、本多氏が過去のことをなかったことにしているという事実に関して、どういうふうに捉えておられるかっていうのを知りたいんですけど。

伊藤:和多田さんですかね。

参加者B:ええ。わりとショックだったっておっしゃって。ウェブ上で見ることができるので。

伊藤: 九州のお医者さんでしたでしょうか、丁寧に、版を追ってっていうふうにやっておられますよね。さきほど印刷してきた資料についてですが、岡崎洋三さんという方が本多氏にインタビューしているわけですけども、岡崎洋三さんの本に載ってるものと、本多勝一全集っていう30巻のものに載ってるものが、最後の文章がちょっと違うんです。今日は、後のほうの版の一部を印刷してきました。前の版の時には言ってないことが、要するに、版の違いで、加筆したと断ってるものも断っていないものとがあるようです。岡崎さんとの対談は、テープを途中で止めたか最後まで書き起こしたか程度の違いで、最後の雑談を入れるか入れないかの違いです。ですので、そのお医者さんが指摘しているものとかなり違うものです。ここに数年前の、朝日新聞を退職された方(宇賀陽弘道氏)によるインタビュー(『本多勝一、探検的人生を語る』所収)があるんですけども、そこで、「インターネットに(本多)批判がたくさん出ている、当時の本多さんの作品の時代背景を考慮せずに批判・批評されている、見たことありますか」と聞いたら、「インターネットなどは見たことはない」、「今でも手書きだし、パソコンも使わない」って言うんですね。80歳台半ばですし、まあそんなもんかなとも思うんですが。インタビューには手を加えるやり方については「インタビューされた側」の流儀ということでご本人が書いています。

ご質問については、倫理的に言えば、少なくとも断って書く必要があるとは思いますね。ただそれが、どういうかたちで使われるのかなっていうのは多少気になるとこはありますね。

本多さんについてはわりと最近でも、なんとかチャンネルで、Twitterで拡散希望みたいなかたちで、写真の使い方などをめぐって批判的な言説が出ています。いわゆるネット右翼や右翼系の言論人の側を利するようなかたちになるっていうのが一つあって、本多流の二分法で言うと。1つの間違いで全てがなかったことになるのかって言うと、ロジックとしてはおかしいだろうと。

参加者B:そのSNSの文はホームページに全部書かれてるんですが、見たときのポイントというのが、例えば本多氏は九州のAさんと個人的に手紙でやり取りし、そのインターネットとはまったく関係がなくって、問い合わせがあって、それに対して誠実に答えなくって、という、その職業人としての、ジャーナリストとしての態度が問われているってことなんですね。

伊藤:それは僕も読みました、今回、色々調べる中でも読んだんですけども。

参加者B:だから、本多さんのことを語る際にそれが抜け落ちるっていうのは、隠してると捉えかねられないことになってしまうっていうのが、私の危惧するところなんです。そういう大きな職業的な倫理を外して本多氏を語れるのかという部分ですね。

伊藤:最初に申し上げたように、今日は人類学が本多勝一から何を学べるのかということに絞ってお話しています。似たような話で、大月隆寛さんが昔、もう20年くらい前だと思うんですけども、言ってましたね。本多さんって自分の原稿や本に思い入れがものすごい強い人だと思うんですよね。すごく強いと思います。ただ、それは今日の話題とどう繋がっていくのかな。人類学が何を学べるかという議論で。

参加者B:自分は職業倫理として、研究者として、あるいはジャーナリストといったときに、もし間違っていたとしたらそれをきちんと訂正し、それを現地の人が見るということが必要だと。そういう態度を本多さんはとることがなぜできないのかと。そこが人類学者、ジャーナリスト超えて学べることじゃないかなと思っていて、言いました。

伊藤:それは大事だと思います。自分の書いたものに対していかに誠実であるかというお話ですよね。

参加者B:私が思うのは、それは本多勝一個人じゃなくって、新聞で日々出たものを、縮刷版で残したりするときに、こっそり変えますよね。変えましたという訂正なしに、あたかもそれが正式であるようなかたちで残っていく。それは、向こうの立場で考えると、毎日リアルタイムの同時代にいかにインパクトのある発信をするか。そのため、自己を律するのは、「今」俺は嘘をついていない、正しいと思うことをやっていると。だからたとえばカンボジアの虐殺に関した情報が限られていて、間違ったんだけれども、1年経ったり、2年経ったら、もうそれは反省しないんだ、違うもっと重要な問題があるから、というような気が、本多勝一だけでなく、新聞文化にあるのかと。

実は単行本になった部分って、本多氏の場合、たまたま全集見たら初版には入っている。カンボジア、あれは嘘なのかって。でもあの人は、例えばここを変えました、ここを削除したっていうことに関しては、実は細かく書いてるんですね。前回の出版ではここを変えました、と。それを彼は首尾一貫でずっとやってきてるのに、カンボジアのその部分だけ、入れてない。それを指摘されたら、いや自分の後の仕事を見てくれたら分かるだろうと。でも普段から、本多氏の場合はきちんと全部入れ替えし、もし外す場合もちゃんと断りは入れてある。なのに、それに関しては、なんとも言ってない。実は私それまでのことをFacebookに出したら、朝日の今の記者の人から「イイネ」がどっとくるんですね。これはもう、自分個人の問題じゃなくて、若手の記者も見てるんだと。本多さんでもこういうことをしてるんだと。

参加者C:3年前なんですけれども、たぶん大江さんの裁判のときに、私一度だけ、横に座って20分ぐらい本多さんとお話する機会を得たんですが、最後に、体悪くしてらっしゃいますよね。それで、「本多さん今からもしも予算も、体調も、気にせず何が一番やりたいですか」って言ったら、「もう一回中国を思う存分回って、今の自分が、今話を聞きたい」っておっしゃって、それがすごく印象的で。

参加者B:例えば彼がカンボジアの大虐殺がなかった、ということは、今でも訂正できるんですね、そこを次の出版から外しましたと。だから、本多ファンが言っていることなんですけど、その断り書きがなぜできないのかと。彼は誰もできない業績を残してるのに、そこを責められてしまうと何も言えなくなってしまう。だから、逆に、そこをきちんと研究者の人とかが、実はこういうことも考えられるんじゃないか、ああいうことも考えられるんじゃないかって。周りの若い記者が、かなりがっくりきてると思う。その辺の職業的な倫理を誰も言えないのか、言わないのかと。おそらく研究に行かれるときにも、そういうことが後々分かった場合に、その人はどういう態度を取るのかと。ジャーナリストも、研究者も、問われてるんじゃないかなと。すいません長くなって。

飯嶋:では、ちょっと角度を変えてそれ言い換えると、僕はホーム担当なのですが、ちょっとそれを後回しにして言うと、エデュケーションの問題だって僕は思っています。つまり、本多さんがやったことを、どういうふうにして他人に教えて、あるいは教えてなかったとしたら、それをどういうふうに誰が学んでるのかっていうのって、すごく気になります。例えば前半の、山口昌男って、山口昌男じゃなくても文化人類学者と論争になるだろうなって感じはします。本多さんの業績を見てても、自分は色んな民族誌的なのも書いていて、事件もやってて、「民族誌をあなたもやっていたじゃない」っていうのがあるのに、殺される側の話になると、急に民族誌の仕事がなかったかのような話になっちゃったり。そういうのっていうのは、なんか読んできた中で、書いてあったりしましたか?つまり、本多さんの仕事を、どういう人に教えたのか、あるいは学んだのかっていうことに関して。『週刊金曜日』は、ネットワーク的じゃないですか。同僚たちが作ったような媒体だって感じがしますが。本多さんが梅棹忠夫から学んだように、本多さんから人類学者から学んでるわけですよね、色んな人たちがあれを見て、人類学者になったりするわけだから。ジャーナリストじゃなくても、僕はいいと思うんだけど。本多さんから学んだ人たちっていうのは、どういうふうにしてそれを学んで、あるいは本多さん自身はどういう媒体でなんか教えるような機会はあったのだろうか。

伊藤:あれは山口の「反応」だとも本多は言っています。なかったかのような言い方を本多はしてはいないと思います。むしろ、本多は、「ジャーナリストとしての私自身の仕事についても共通の問題を含んでいるため」「当の文化人類学者はどのように考え、どう行動しているのか、参考というよりもむしろ自分自身も問題として、知りたいと思う」、だから「ご教示をいただけたら有難い」と論争のものになった文章の冒頭に書いています。ようするに、自分自身の問題として教えを乞いたいと「人類学者一般」に向けて書いているんですけどもね。それに山口が反応した。

本多氏が教育しているのかどうかについて詳しいことを知らないけども朝日のなんとかレクチャーとかでしゃべったりしているものも、ほとんど全部、活字になってます。活字を通じて、後進の人たちに教えているということになるんだとは思いますけれども。

さっき小國さんも言ってましたが、人類学者にとっては、無媒介で、彼の書いた三部作などは、エスノグラフィーとして読むことができわけです。『カナダ・エスキモー』を読んで、現場密着型の調査ってこんなふうにやるんだっていうことを、僕なんかも学べるし、学んだ。あるいは、こういうふうに記述すると、映像を写しとるみたいに読み手に向けて書きうるんだということを、僕ら人類学者も彼の著作から学んでるんだと思うんですよね、エスノグラフィーとして人類学では紹介されたりしてわけですから。

教えるというよりは、彼の著作から学んだし学べるっていうことかな、と思いますけどね。

飯嶋:なるほど。いや山口昌男さんなんかだと、山口さんはこうした、ああしたって、お弟子さんたちがいっぱい残してるから、山口昌男書いてないことだって色々分かるわけじゃない、彼が何をやってたかっていうのが。そういう意味で、本多さんについて、そばにいた人はなんかやってたりするようなこと書いてないのかなってことでした。

伊藤:僕は本多氏の弟子でも何でもないし、会ったこともない。単なる読者ですから。読んでいたの20年以上前。

飯嶋:それとホームに関しては、僕個人ので言うと、2つ思いついたのですが。

一つは、本多さんは僕にとっては基礎的な問題を提供してるんだけど、ホームで書くこと、あるいはホームで書くことが現地の人にどういうふうなことを与えるのかっていう議論をやるときには、何かその後の色んな歴史をふまえてからやりたいという感じがします。例えば、僕は、オーストラリア先住民研究ですが、アボリジニの場合は同じようなことは色んな人たちから問われてきました。そうした批判を受けて出てきたパターンの1つは、伊藤君も言ったけど、歴史研究。それから、アボリジニがやろうとしてることをサポートしながら調査をやるというのが二つ目。それから、三つ目は、アボリジナルスタディーズといって、アボリジニが主体となって作る媒体を作しました。けれどもこれは残念ながら、今、投稿が少ないです。それから、ミュージアム問題もあって、白人が勝手に展示をしていたのに対して、アボリジニは自分でそれをものを管理するというのもやったのですが、これは90年代に盛り上がりましたが、結局自分たちで保管できないということになって、今はミュージアムへの環流が始まっているところもあります。だから、現地、ホームで書いて、その対立で「やられる側の立場」に立ってみろっていうのはその後も踏まえて議論した方が良い。

参加者C:表象のほうからちょっとコメントがあるんですけど。文化人類学者は特権的な立場なんですよ。スピヴァクも、サイードも、ファーストディシプリンは英文学なんですね。文化人類学会に最初に行ってびっくりしたのは、文化人類学者であれば、たとえそこに三日間いたとしても彼らが観察したものは正しいんです。でも、私たちがオーラル・ヒストリーをして、どんなにちゃんと録音して、ちゃんと調査をして持って帰ってきても、文化人類学でなかったら、ディシプリン優先主義になると。

最初に捕虜の調査を始めるときも、私は、政治学と文化人類学とイギリスのポストコロニアルセオリーと、3人の先生を回って、結局ポストコロニアルセオリーのほうがやりやすい、となった。まずこの二分法、脱構築するのがそもそもの、ポストコロニアルの目的なわけですから。それがずっと誤解されたまま続いてる気がして。

飯嶋:さきほどの話に戻ると、アボリジニのフィールドで言うと、ホームでの運動としてああいう(「やられる側の立場」)言説を作ったときに、結果的に問われるのは、1個は、本多さんの言説が、現地との関係、現地の構造的な差別がどのくらい変わったのかって問われてくるんだろうと。で、これは前置きでした。それを問おうとしてたんじゃなくて。興味深かったのが、若手で上智にいた研究者が言ってたのですが、上智で鶴見良行さんたちが、あの種のものの流通とか、構造的差別を知らずに使ってたっていうのを、解きほぐそうとした研究をやり始めたときに、その方は、罪意識からスタートする研究はやめにしたいって思って、今の研究に走ったという方もいました。つまり、ある程度そういうふうな形でやったときに、逆作用が起こって、のちのジェネレーションからすると、それ一度ゼロにしたいみたいなこともあったりする。だから、同時代として考えるのではなく、その後をフォローしてから言いたい感じがあるんで、ちょっと置いて、単純な質問に落とすと、今だと、例えば本多さんが、聞いた現地のためにやったことみたいな形で単純化して言うと、ホームからやったことをね。本を書く、それから金銭的な支援をするっていうのがありましたが、それ以外にはどういうことがあったのでしょうか。

伊藤:どの話で?

飯嶋:いや、どこのお話でも。海外の場合はほとんどコンタクト、当時は取れないですものね。

伊藤:例えばベ平連ときは、彼がけっこう本が売れたので、アパートを借りて、そこに誰かかくまってたんですよね。脱走兵だかをかくまっていた。表に出なかったんだけども、実は本多さんだったっていうのは、後で確か、朝日新聞を退職してから言っていたかとおもいます。例えばそういうのは朝日新聞の本多の頃は、たぶん表に出なかった。

僕はとにかく個人的に面識があるわけでもないので、彼の著作を読んだ範囲内で話しています。もっと他にも色々あるかもしれない。ある程度はやっぱり実践もあるわけでしょ、それは。

飯嶋:なるほど。いくつかのオプションがあったってことですね。はい。これで、三つ質問終わりましたので、どうぞ。

関根:本多勝一についてこういうふうにきちんと聞いたのが初めてで、非常に面白かったんですけれど。運動としての二分法の持つパワーっていうのを考えていかなきゃいけないって、伊藤さんはその辺のところを特に今日話して、共感されたわけですよね。本多勝一がなんかやったことっていうか、われわれに示してくれることは、まずなんと言っても、第一の点っていうのは、たぶん相対化の視点というのを示してくれたっていうところにあるわけですよね。当時の時代背景から言っても、それはかなり新鮮というか、画期的で、だからそれを読んで刺激を受けて人類学を志したって人も多かったっていうことが、それからも分かると思うんですが。しかし一方で、中立や公正は虚構であるということも言って、立場を明確化することが大事だっていうことを言ったわけですよね。そこで殺す側の支配的な言説を批判する。あるいは、殺される側に立つっていうこと、そういう、いわゆるマイノリティ憑依っていうことをしていくわけなんですけれども。そこで、本多勝一の中に二分法が明確に作られることになるんだろうと思うんですが、しかし、運動としてそういった二分法っていうものが、ほんとにパワーを持ってるのかっていうのは、どうなのかなっていう感じもちょっとあって。二分法の中では二分法でしかないっていうか。そこにあるのは、片方に寄ったパワーでしかないんじゃないのかなと思うんですよね。だから、例えば、アイヌのなんとかさんに金銭的な支援をしたとかなんとかっていうのは、これは決してその両方をつないでるわけではないって。対立項同士をつないでるわけでも、なにもなくて。常にその構造自体は維持している状態で、片方に肩入れしてるだけの話であると。大事なのは、二分法的な関係性がもしそこにあるとしたら、構造があるとしたら、そこを崩すことなんじゃないのかなっていうか、そこをどうつないでいくのかっていうか、どう対話していくのか、対話を作っていくのかっていう、そこが実は大事なんじゃないのかなというふうに思うんですよね。本多勝一の場合は、今日聞いた限りの中では、それはやっていなかったんだろうと。あくまでも、マイノリティ憑依をするだけであって、

要するに、一番大変なのは実はつなぐことであって、対話を作っていくっていうことなのかもしれないんだけど、結局それをやらずに、なんていうかな、片方の側に立って、憑依した状態の中で何かを言っていく、書いていく、支援するっていうことは、もしかすると、簡単なことなのかもしれない。言い方がちょっと悪いかもしれないけど。実は、そこをどうつないでいくのか、どうその二分法的な関係を崩していくのか。そこのところこそ、問われなきゃいけないっていうか。報道ということの観点から言うと、むしろそこが大事になってくるんじゃないか、というふうにも、今日ちょっと話を聞いてですけど感じたんですけども、どうでしょうね、それは。

伊藤:ありがとうございます。その二分法を崩す、つなぐというのはどういうことになるんでしょう。

関根:殺す、殺すっていうのもちょっとあれなんですけれども、支配する側とされる側っていう、ありますよね。これをどういうふうにその関係性を崩していくのかっていうことが問われるわけですね。本多勝一もおそらくそれを、その関係性を崩していくために解消するために、支配される側にのっかって、やってきたんだろうと思うんだけども、それだけだと、結局、実はその関係が固定していくだけなんではないかな。そうじゃなくて、その間をどうつないでいくのかっていう。支配する側とされる側っていうのはどういうふうに結び付けていくのかっていう、そこが実は問われなきゃいけないのではないか。これを僕は崩すって言ったんですけど。

清水:よろしいでしょうか。それについては、例えば伊藤君やわれわれが後知恵で本多勝一を批判するんじゃなくて、当時の具体的なリアルタイムのコンテクストのなかで彼を理解するためにはどうしたらいいのかを考えてみる必要があるかな、って思います。関根さんが明確に問題の所在を明らかにしていますけど、本多勝一が活躍した時代というのは、とりわけベトナム反戦にしても、アイヌの人たちの問題にしても、二分法的な議論の立て方と進め方によって、初めて問題の所在を明確にすることができたし、中立を装って安全地帯から発言する知識人らに対して、いったいお前はどんなんだ、っていう匕首を喉元に突きつけるために、とっても有効だったんだと思うんですね。

二分法は、いい使い方をすれば、問題の所在がクリアになりますよね。けれども、悪い使い方をすれば、意見の異なる相手との対立を激化させ、敵対する関係にしてしまいかねません。相手をまず敵にして、しかも相手の主張や問題を矮小化して、それを叩きのめして、自分の正当化を図るという、そういう悪しき使い方もあると思いあります。本多勝一の場合も、あえて二分法の後者の、悪意も入った戦術として二分法による矮小化ということをやったかもしれませんけど、当時の時代状況の中では、何が・どこが具体的に問題なのかということを、きわめて分かりやすく、明快に主張したのだと思います。たとえ粗雑な議論であっても、だからパワーがあって人気があったんじゃないかなと思うんですね。

僕は、人類学が、本多勝一、基本的にはエキゾティシズム、梅棹の探検の人として敬服していますけど、やっぱりもう探検の思想というか感性というか、異文化や他者に対するエッセンシャリズム的な理解を試みたんだと思います。お二人には、京大山岳部や探検部の感性と呼べるようなものを色濃く感じます。人類学のディシプリンによるトレーニングではなく、現地で・現場で見て考えたこと、問題系を、我がこととして問題化する。その際には、今ではエキゾティシズムやオリエンタリズム、他者構築だぁと批判されかねない二項対立的な理解に惹かれていったと思うんですね。お二人とも、他者と異文化を迂回した自文化批判へと戻ってきていますので、その点は敬服しています。ただし、清水昭俊さんが明快に述べていますけれども、自己理解や自己批判のために、わざわざ遠い未開の人たちを「エキゾティックな」他者として構築し、利用する必要はないんですね。

でも振り返れば、本多勝一が代表するような、「殺す側と殺される側」、「調査する側と調査される側」というような二項対立の議論の立て方、進め方による素朴な暴力的なパワーを失ってしまったことが、かえって人類学がレトリカルな話を精緻化する方向へと進んだことの裏返しとしてあると思うんですね。人類学が、表象や”positionality”やポストコロニアルの問題系とかで、30年ぐらい、うじうじと悩み苦しみ、現代思想の助けを借りながら取り組んできててる問題というのは、とうの昔に本多勝一が粗雑ながらも、自身の見聞にもとづき、具体的に提起して、解決法まで示唆しているように思います。政治に無色透明な立場はなく、対立する勢力のあいだで中立を装って安全でいられる場所はないんだ。各自がポジションを明確にして、どちらかに与する以外に選択の余地はないんだと。

当時のベトナム戦争と学生運動の時代では、それは非常に新しいというか、問題の提起と若者を巻き込んでゆくためには、もっとも効果的だったのでしょう。では、はて、さて、今、われわれが本多勝一から学べることって何なのかっていうふうに、あらためて考えてみる必要は確かにありますよね。関根さんが適確に指摘されたように、二項対立が分断と対立を招くだけだとしたら、それの隘路を抜けてゆく道を見つけなければならないんですね。私自身は、人類学者はジャーナリストや運動家ではないので、センセーショナルに人を煽ることをしない、むしろ問題の所在を明らかにしたうえで、その影響を受ける被害者の側と与える加害者の側とを結ぶ、そのために細部に着目して、こんがらかってもつれた糸をほぐしてゆくこと。同時に、大同小異というか、小さな差異を誇張して対立を招きいれるのではなく、逆に小異を捨てて大同に付くような大きな判断をしてゆく、つまり鳥の目の俯瞰図と、虫の目の詳細図の両方を提供し、総合的な理解と判断に役立ってゆくことなのでは、と漠然と考えています。言葉で、明快に説明できないのですけど。

ですから、伊藤君が、本多勝一に触発されて人類学を志し、彼の著書をほとんど読み、さらには実際に平取の家族に深く関わって毎年の夏休みにはそこを訪れながら二十数年を過ごしきたことで見えてきたこと、考えてきたことを、ぜひ聞いてみたいです。果たして、今、人類学者はフィールドの人たちとどのように関わり、コミットしてゆけばいいのか、それによって人類学の応答可能性がいかに開かれてふきそうか、ということについてです。私にも、まだよく分からない問題なので、お答えが難しいかもしれませんが。

伊藤:ありがとうございます。そうですね。23年前の93年当時と今とでは、同じ地域がこんなに変わるのかと思うぐらい変わりました。アイヌという語彙が使えないような状況から、アイヌ語の挨拶を日常的にするというまでに。それはやはり国際的な連携の影響が強いと思ってます。若い子たちが皆ハワイとかカナダとかニュージーランドとか行くんですよね。国際的な紐帯というのは相当影響力があり、ものごとが変わるんですよね。海外にもおなじ先住民がいる。かっこいいというふうに変わるんですよ。アイヌであるということが。もう全然違う話になってて。

ところで亀井さんが以前、別の所で書いていたことをもじって言うと、戦略というのを、短期、中期、長期とか、いくつかのレベルとかで考え得るんだろうとおもいます。さっき小國さんがTPOと言ったのに近いのかもしれませんけど。

さっき関根さんが崩すっておっしゃったことに関連しますが、理論的には崩れているんですよ。要するに、エッセンシャリスティックなものは、常に排除を伴うので、暴力的になる、というのは、理論としては我々はすでに学んでしまってるので、素朴に二分法で受け止めて、という話はなりません。ですけども、『民研』にこれを書いてた20年前当時だとしても、10年前でも、例えば仮にテレビのマイクかなにかを向けられたら、「アイヌの人たちってこんなに困ってるんですよ」と、僕も言うかもしれないんですよね。それを言説の個別性と言うか、なんと呼ぶかは別として。それは、どういう媒体なのかということや、社会との関係の中での言説ということを勘案して。エッセンシャリスティックな言明はそうした文脈の中ではパワーを持ちます。これは、学術とは違うロジックで回ってるところでの話だと思うんですよね。

しかし、学術では、そうした言説によって阻害される可能性があることを指摘せざるをえません。本多さんの時事的な報道・評論によって萱野さんが注目されて常に二風谷取材がくると。すると、いつもおなじ人に取材が集中すると。20年前などは、とにかく僕と同じ世代の人が「貝澤(正)さんの息子のところにばっかり、なんでも仕事が行くし、テレビも行くし」と言っていました。それもいまは変わりましたが。

例えば、「アイヌの人たち、山に住んでいて、観光地にいても仕事が終わったら山に戻るんでしょ?」っていまだに考えているような人たちにとっては、ある程度のところまで知ってもらう必要があるとか。さらにその先に、でもじつは内部では一枚岩ではないのだ、という現実もあるわけです。

研究者の書き物はそもそも各媒体が普通の人はあまり読まないようなもの媒体(学術誌)に書いているわけですが、ジャーナリストは、先ほど帰られた方もそうかもしれませんけども、常になんか右翼に叩かれるかもしれないとか、ネットで炎上するんじゃないかとかっていうぎりぎりのところで戦いながら書いてるかもしれなくて。その辺っていうのが全然違うんだろうなと思います。

学べるところと、僕ら(アカデミック)とはやっぱ違うところと色々あると思うんですよね。

今日、本多さんについての議論を「理論の話にしない」っていうのは、彼が書いている立ち位置がまったく我々アカデミックと違うからなんです。エッセンシャリズムの良し・悪しといった理論の話とは別の次元、数百万の読者が読むという影響力のあるところ書かれるものなので。戦略がたぶん彼の中であって、カンボジアの虐殺についての書き換えの話なんかも、リアルなポリティクスの中で、本多さんを打ち負かそうという陣営と負けてくれるなという陣営とのせめぎ合いの文脈も見つめながら、訂正する・しない、といった話題を引き受けて考えざるを得ないんだとおもいます。

参加者D:本多さんは輝ける星、エースだと思うんですよね、かつても今も。特にジャーナリズムを志した昔の青年たちにとっては。

伊藤:ですね。ただ、80歳超えておられますしね。「老害」という語彙を使う人もいるようです。

飯嶋:いよいよ話は佳境に入ってあれですけれども。Cさんからの質問に、ぱっと答えられれば。

参加者C:確かに、誰が語って、それを代表して、それを一般に伝えてしまうのかっていう点では、表象の問題があると思うんですが、彼らのやろうとしたことっていうのは、本来、サイードのエキゾティシズムに対する反発も含めて、二分法理論もまさに脱構築しようとしたのがポストコロニアリズムだったと思っているんですね。元捕虜の問題にしても、結局日本とも関わってく、まさに加害者、被害者の非常に中途半端なところにいる方たちをどうやって扱うかっていったときに、他のところだと、どっちかにカテゴライズしないといけない。けれどポストコロニアリズムはそれが可能だと。加害者、被害者というところだけではわりきれない、例えば植民地の被害者であったインド人もやはり、イギリスが送りこんだとはいえ、あとではケニアに行って、、というような話が出てきましたけれども、そのような、多重化していく状況というものがある。

スピヴァクも、イギリスに植民地化されるインドだけど、インドの中のベンガルの人間がそこの少数民族であるところの女性を強姦して言うこと聞かせようとするっていうのを書いてるんですね。そこでencounter meっていう英語の間違った使い方も含めて、『ドラウパディー』っていう小説にしている。『ドラウパディー』はもともとそこの女神の名前で、非常に多重に、なんていうか、入れ込んだ支配性、被支配性、ジェンダーというものをなんとか舞台に乗っけようとした努力だと思います。あの中で、一個だけ印刷に間に合わずに出なかった1行があるんです。彼女はあえてすべてあれを英語で書いていますが、インドの自分が所属していた部族の、そして書いている部族のもう読めなくなっている1行を入れてるんです。ですから、まさに彼が批評するなら、私はあれがどっかに出るのであればその1行、わざと読めない1行入れることによって、彼女は英語がすべての言語ですかっていうことに対する、ものすごいアンチテーゼをやってるんですね。だから、ここで使われる表象、さっき先生が使われた表象というのは、まさに一つの固定化された表象というタームの使われ方のような気がして。

本来のポストコロニアリズム、本来のリプリゼンテーションの議論というのは、実は多様性があって、まさにこれを脱構築しながら、今私たちはどうやっていくかっていうことの可能性を指し示すものであると思います。実際に、ようやく一昨年まとまって、去年出たものにも、映像の中に出てくる表象も、関係者がなんとかその表象させまいとしてものすごく映画に働きかけるんですね。でもそれが結局映画となって、一般人に働きかけられる。だから、映画だけが独立したテクストであるかのような考えで表象として分析するんじゃなく、そこにはすごいポリティックスと、それと生きてる人たちが表象されまい、ということがあると。はっきり言ってるんです。私たちはなぜ金持ちの表象のために犠牲にされるのか。リプリゼンテーションっていう言葉を使って、当時の1956年の段階で。生きてる元捕虜ですけど。でも彼らも元捕虜ではあるけど、それこそ白人としてはポロナイザーとしての立場にいる人たちですよね。だから、その表象というものがどうできあがるかっていうことは実はまだもっと複雑な議論っていうか、議論の立て方が可能になる部分があって、それは先生の今日のテーゼにうまくつけて言えなかったですけれども、可能だと思いました。

もう一つは、今日は本多さんがものすごく称揚されてるのを聞いて、不思議に思っていたんです。私の付近では、ジャーナリズムは学問ではなくて、文化人類学、社会学、歴史学であればディシプリンであると。インターディシプリンでさえ、ディシプリンではない。あの人たちの言ってることはいい加減であって。そういうディシプリンを受けた人であれば3日間行って、観察したものも学問である。そうでない人が行って、3日間観察したもの学問にはならないっていう、わりとそういう、非常にオーソドックスっていうか、クラシックなとこにいるので、だからその特権性っていうものが本来は、本多さんが思う以上に、私は文化人類学にどんどん与えられていってるような気がします。

これはおまけですが、本多さんが興味深いのは、本多勝一さんと1980年代に歴史学の人たちが、オーラル・ヒストリーの可能性というのが、青木書店でまとまりましたが、歴研でディスカッションしたときに、オーラル・ヒストリーなんて英語使うだけでも被植民地のほんと情けないアメリカにやられたって、ものすごいなんかもうオール批判で、俺は聞き取りでいいと。俺は俺のやり方でいいとか。

伊藤:体験史。

参加者C:体験史ですね、はい。体験史でいいと。だけど、ジャーナリズムという言葉をお使いになるわけですよね。その辺りどうなのって。じゃあフランス語は、あるいはラテンはいいかって。

伊藤:オーラル・ヒストリーという語彙が英語だというのこともあるんでしょうけれども。青木書店から出た本(『オーラル・ヒストリーと体験史』)では、体験史っていう言い方をしています。要するに、史料(資料)というものに対する考え方が違うわけです。生きている人の言うことはころころ変わる。死んだ人の言ったこと・書かれたことは史実として残る、とされる。だとするとその人が死ねばいいんですね、と本多さんは言っています。死ねばころころ変わらずに史実になる、と。しかし、もし500年生きている人がいて、その人が語ることは、ではどうなのだ?という根本的な問題提起をしているわけです。その意味では、生きている人の語るオーラルも、歴史の史料(資料)として同じように記録として扱えるんだと言っているわけです。彼の言うことの是非には議論がありえますが。たぶんそこら辺があんまりかみ合ってなかったんじゃないかなという感じがします。

参加者C:そうですね。かみ合ってなかった。オファーされた先生は、オーラル・ヒストリーというのは語る人の人権、語る人の主権性をも大事にするから言うんですってことをおっしゃってるけど、そこをすっ飛ばしてると。あとは、やっぱり調査対象にどれだけフィードバックしていくかっていうことが今の時代とは変わっていて、先生たちはもう向こうのほうもフィードバックされることが可能な時代に入ってきてるんではないかと思うし、私なんかの場合は絶対そうだし。だから、ほんとにTPOを分けられるのかっていうクエスチョンが、これからの人たちには出てくるだろうと、ねえ。

参加者D:そうですよね。同時代でこっちに出したのと、あっちに出したのがあって、現地の人たちがどっちを見るか。

参加者C:そう。少なくとも100年後には、あ、こんなとこでこっちでこう書いてた、みたいなかたちになっているのね。そんなことを感じました。

伊藤:そうですね。だから、一つ確認しておきたいのは、20年前に自分が論文を書いたときは、理論的には本多批判になっています。ですけども、さっきも申し上げたように、理論じゃない部分で本多氏から何か学べないかっていう話なんですね。あの人は学者ではないっていうふうに思っているわけで、ジャーナリストなので。しかし僕らも、「モード1」というか、閉じたかたちで学術だけをやってるわけにもいかなくなってきています。学と学の外部との界面で、理論と現実のポリティックスとの界面で、本多さんの、なにか、身振りみたいなところから、学べるとこがあるか・ないか。あるとすればどこなんだ、っていうことです。

本多氏を「称揚している」って言われましたが、それは少し違います。僕は修士論文を書いていたときから理論的には、彼の書いたものが二分法的・本質主義的である、というのを批判的に指摘していましたし、今日も指摘しています。実際の、現場のエンピリカルな部分で言えば、要するに、北海道(平取その他)で何が起こってるの見れば、本多さんの書いているとおりにはなっていないということですね。1カ月ぐらい調査すれば、見えてきちゃうので。でもあえて、それを本多氏はやってないんですよね。逆に、それをやろうとした太田竜に対してある種の批判しているわけですよ。なぜなら、かく乱するからだ、と。政治的にですね。要するに、目的論に立つわけです。これは、学術とは違うロジックで回っている部分であって、ある種の運動なんですよ。あるいは戦略なんですよね。その際、先ほど言ったような、何に書くかという媒体やオーディエンスが関わってきます。つまり、書くのは新聞であり、時事的なんですよね。そもそもずっと残るであろうものを書いているのではない、ということを認識する必要があります。だから、僕らとは、もちろん違います。ただ、ひるがえって、僕らが社会へ応答していこうとしている中で、本多が対峙していた時事的な文脈を無視しないかたちで、引き出せるものがあるとすれば何なんだろう、っていう話なんですよね、今日の話は。理論的なところでは、学ぶことはほとんど実はないような気がするんですよね。もちろん、書くっていうことで言うと、すごく良い書き手だと思います。ルポルタージュの書き手としては学ぶところはたくさんあって、あんなふうには書けないなと思いますし、先ほども言いましたが調査の仕方も学べるとも思います。ただ、学術的にということではないですね。

参加者C:結局、やっぱり学術も影響を与えるものであり、この世の中をなんとか整骨していくというか、整体していく役目は負わざるを得ないと思うし、全くart for art’s sakeじゃないですけれども、そういうわけにもいかず、アイヌに関してやることは、それに対する否定論が変に出てきている今となっては、意味を持つわけだし。それがあるということを人々に知ってもらわずに、どこかに隠しておいて100年後にじゃなくて、やっぱり語り掛けてそれを解決していくっていうことと、そのように、切り離せない問題をトピックに選んでしまった場合に、どういう関わり合いのポジションがあるか、それぞれどうしてらっしゃるかっていうのを、まさに応答という部分で。

飯嶋:申し訳ない、これ1時間ぐらい続くことになりそうなので、場を移して。この場でのディスカッションはここで止めたいと思います。
以上。


【報告】応答の人類学第29回研究会+科研第4回研究会を開催しました。
日時:2016年9月25日(日)13時30分~18時00分
場所:九州大学箱崎キャンパス文学部・人文学府・人文学研究院2階比較宗教学演習室( http://www2.lit.kyushu-u.ac.jp/access/ )
参加人数:11人

プログラム:
13:30-13:40 趣旨と挨拶(飯嶋秀治)
13:40-14:40 清水展(京都大学教授)「日本社会を外から見る、比較で考える— 中根千枝にオリジナリティと応答性をもたらしたもの」
14:40-15:10 フィールド・ホーム・エデュケーションからの質疑(小國和子・飯嶋秀治・亀井伸孝)と応答
15:10-15:30 中休み
15:30-16:30 福元満治(ペシャワール会事務局長)「人災(戦乱)と天災(旱魃)の荒野・アフガニスタンで用水路を拓く—中村哲医師とNGOペシャワ
ール会の行動理念」
16:30-17:00 フィールド・ホーム・エデュケーションからの質疑(小國和子・飯嶋秀治・亀井伸孝)と応答
17:00-18:00 総合討論

【講演1】清水展(京都大学東南アジア研究所)「日本社会を外から見る、比較で考えるー中根千枝にオリジナリティと応答性をもたらしたもの」
中根千枝は、学術研究において、マスメディアにおいて、また財界や官界において、人類学者としてもっとも大きな影響を及ぼした一人である。氏の経歴と活動をたどり、人類学における応答の責任と可能性のひとつのあり方として考察したい。
氏の人類学者としての経歴の始まりは、1939年の初め、小学校6年生のときに、北京に移り住んだことであろう。すでに同地で弁護士(法律事務所経営者)として活躍していた父親に合流するため、家族で渡航した。そのまま日本高等女学校に入学し、北京で4年生まで過ごした経験と見聞が、人類学者となる素養を作った。
ある朝、起きてみると家の前にラクダがいて、遠く西域から来たと思うと、自分も行ってみたい、行けそうだと強く感じたという。いずれ中央アジアの研究をするためには、まず英語の勉強だと津田塾大に入学。同大学を卒業し、女子も受け入れことになった東大に転学。以後は、東大初の女性助教授・教授、研究所長となり、単著10冊(内英語3冊)を出版した。
学会での活躍以外に、文部省、外務省、大蔵省、農林省などの各種委員会委員や国際人類学民族学連合副会長(1973−1988)、その他の要職を歴任し、2001年に文化勲章を受賞した。国際協力事業団への助言と協力のほか、「協力隊を育てる会」の会長を長期(1986−1997)務めたことも応答責任の観点から重要な活動である。
一見すると、パワーエリートのように見える経歴ながら、氏自身は、その影響力とは裏腹に、常に政界・財界・官界とは距離をとり、興味深い異文化・他者として観察する視点から接していた。日本社会やパワーエリートに対するデタッチメントは、中国、インド、イギリス、イタリア、アメリカなどでの長期の滞在調査・研究をとおして培われた感性と文化相対主義(普遍主義の双子としての)の視点によると考える。

□ディスカッション
飯嶋 今からフィールド、ホーム、エデュケーションで小國さん、僕、亀井さんが質問します。もう一問一答で、1分ぐらいしか、時間がない感じです。

清水 申し訳ございません、遅れてきたうえに。

飯嶋 じゃあ小國さんのほうから。

小國 ありがとうございます。私、フィールドワークをしている中根千枝さんっていうのがイメージできなかったというか、執筆されたものや理論的な印象が強かったので、今回、できるだけ若い時代の彼女のフィールドでの話を知りたいってことで、いくつか探して読みました。そこで気づいたことがいくつかあって、その点に関して質問したいんですが。既に最後のところで清水さんがお答えくださった部分もあって、それはたとえばフィールドへのスタンスとか、フィールドの使いかたとか。なかでも、フィールドとの距離の取り方という見方で見た時に、中根さんはフィールドを通して日本を見ようっていう姿がすごく明確で、逆に言えばフィールド自体への距離感は結構あるようにも感じられたんですね。そこはどうだったのかなっていうのが一つ目の問いだったんです。それに関連して、清水さんのお話の一部最後のほうで、現地への応答という観点から見たときに「直接、無名の地域の人たちに対してっていう答えがあったわけではないけれど」っていう話があったんですが、その時代に、等身大のフィールドワークをしている過程では、いろいろな応答をしてきているっていう側面も、またあったのかなとも。60年代ぐらいの紀行文を読み返しますと、医者と間違えられて薬を配ったりしている話が書いてあって、なんだか急に身近に感じられたりして。ですので、中根先生は「タテ社会」のような、高名で大きな仕事がありすぎるがゆえに、あまり知られていない、見えていない現地への応答部分っていうのがもしあるのであれば、教えていただきたいです。

清水 詳しいことは良く分からないんですけど、彼女のフィールドワークっていうのは、僕らのフィールドワークと全然違って、まずアッサムに行くのが大変だった時代です。ポーターを使って、5、6人の男のポーターをつれて、こんなちっちゃい若い女性が、ポーターを探していくので、馬鹿にされてはいけないということで、その時初めてたばこを吸ったのだそうです。

小國 そのように書いてありました。

清水 本当は、たばこはそんなにうまいともなんとも思わなかったんだけれども、大の男を使うためにって。そういう意味では、村の中に入る前に、そこに行って生活するためにポーターが不可欠で、荷物を運ぶ、食べ物を運ぶ、コックさんもいるみたいな、大名旅行だったんじゃないかなと思います。最初に村に入る時はね。そういう調査では、フェース・トゥ・フェースの応答っていうことには、簡単にはならないんかもしれません。マリノフスキの有名な写真の、椅子に座ったお取り調べみたいなフィールドワークがありますよね。あれと、今の僕らがやるフィールドワークの中間くらいなんじゃないのかなっていう気がしています。ただ、若い女性として、村の女性達とは、割りと仲良くなったみたいです。今度、チャンスがあったらちゃんと聞いてみますね。

小國 要は、中根千枝さんが、フィールド(を見る、にとどまらず、むしろフィールド)から日本を見るっていうところが明確であるがゆえに、日本での発信力がすごくあったんだと感じました。われわれも含めて、今までのフィールドワーカーは、フィールドとの往還っていうのが、まず第一義的にくるがゆえに、日本で見るとすごい人類学が内向きな印象になってるものあるのかなっていうのが、今回、読み直した時に感じたことです。

清水 その指摘は、すごい面白くて重要ですね。彼女は、4年以上外国に行ってて、一度も日本に戻らず、一回もホームシックにならなかったそうです。4年以上過ぎても日本にはぜんぜん帰りたくなかったのだけれども、文科省から東文研を通じて帰国せよとの命令がきて、仕方なく帰国したのだそうです。どこにいても生活に問題はないし、知的に楽しいし、世界は驚きに満ちている、ということだったようです。そういう意味では夏目漱石がロンドンでうつ病になった体験とは、全然違うんですね。そのままだからずっと日本に帰らないで、諸国漫遊・武者修行ができたら、こんな幸せなことはないと思っていたみたいです。でも、税金使って給料払ってるんだから、それはないだろうって、文部省が気が付いて呼び戻されたわけです。公務員の海外出張が2年までというのは、中根さんのぶっ飛んだ事例があって、できた内規なんだそうです。

飯嶋 まずい例を作ったかもしれない(笑)。

清水 そうですね。

飯嶋 じゃあ、僕から。実はこの中根千枝論をやるっていう時に、山路(勝彦)先生に相談した時、山路先生からは近年のナショナリズムとか、日本的経営論を射程に入れるのかっていう質問が来たんです。それは中根千枝先生の、ある意味、負の遺産だろうという示唆だったと思うんですね。それは今日お話ししていただいた4番の話、最後のところにも関わってくるんだと思うんですけど、文化相対主義を逆手にとられた状況ですね。そこの前提のところ、聞きたいんですけど、僕はやっぱりホームでの活躍っていうんで、各種委員会、審議員の委員っていうのを、もうちょっと詳しく聞きたいっていうのがあって、つまり個別にはどっちが、こっち(人類学者側)からやったのか。それとも当て職的に、なんかでやらなくちゃいけなかったのかとか、いろいろあると思うんですよ。その場面で具体的に中根先生がやった活躍っていうのは、やっぱり文章に残ってないので。

清水 それは書かないですね。

飯嶋 何かご存知なことがあったら、一つでもエピソード的なことがあったらですね、教えていただけますか。

清水 財務省の財政制度審議会っていうのが、大蔵省の活動に関するお目付け役の、最高の諮問委員会みたいなのの委員をされていて、しかも会長もやったりしてるんですね。

飯嶋 なんでそうなったのでしょう。

清水 一つは頼まれるから。

飯嶋 じゃあ、向こう(行政側)から?

清水 そうです、全部向こうから。

飯嶋 なるほど。

清水 もう一つは、彼女は基本的には、世の中を少しでも良くしようと願っており、筋が通らない、変なのは変と言うんですけど、小うるさいことは言わない。だいたい官僚っていうのはみんな頭がいいから、一応いくつかのオプションを考えていて、結論もだいたい決まってるんだそうです。でも外部の有識、知識人からお墨付きを得るのが必要だから、私なんかを便利に使うのよねって、よく言ってました。その辺の割り切り方とか、自分が期待されている役割の演じ方をよく心得ているんですね。彼女は頭が柔らかいというか、相手の立場にたったときの考え方とか感じ方とかが、すんなりと分かるようなんです。若い頃から中国、インド、イギリス、イタリア、アメリカなどで長く暮らした生活感覚なんでしょうね。文化相対主義の立場といえるかもしれません。彼女自身は文化相対主義という言葉を使いませんけど。イギリス社会人類学ですから。

飯嶋 というところまで、割り切ってやってるんですか。

清水 そうですね、自身の役割と位置づけをすごく分かって、割り切っていますね。官僚相手に、官庁でも参与観察をしている、って感じですね。相手の考えていること、望んでいること、論理構成を、相手の立場になって理解しようとする姿勢があると思います。ほんとに大事なことで筋が通らなかったら、しっかり反対意見を言うけれども、たいしたことない案件ならば、こまかなことはゴチャゴチャ言わないんですね。
ただ、一方的なサービスだけでなくて、重要な審議会で文部省や財務省、外務省の上級官僚の局長クラスと顔見知りになり相手の要請や期待に応えていると、いざというときに、恩返しのように逆に助けてくれることが大事なんだそうです。外務省なんかも、各国の大使が日本に着任して、日本理解のために中根さんの本を読んできて、面白いからぜひ会いたい、食事に招待したいなんて外務省を通じて要望すると、中根さんはなるべく応えようとするんですね。合う意味で使い甲斐があるし使い勝手がいい,便利な知識人だったと言えるかもしれません。官僚も現金なところと、浪花節的なところが入り混じって、まあ、人間的なところがありますから。そんな助け合いみたいな関係が、いざというときに、役に立つんだそうです。たとえば、先ほど紹介した中曽根内閣のゼロシーリングのときに、12講座から16講座に拡充できたのなんか、文部省と財務省の両方に話の通じる高官がいたからできたことなんです。

飯嶋 ありがとうございます。

清水 使い勝手がいいのは例えば建設省の委員のときかな、大蔵の財政審議会の委員のときかな、青函トンネルの工事現場の視察に行ったときのエピソードです。工事現場の男たちは、女がトンネルに入ることをすごく嫌がるんですね、女が工事中のトンネル入る事故が起こるからと。中根さんは、その視察のためにわざわざ青森まで行ったんですけれども、現場監督が入り口で、「申し訳ない。ぜひここまでにしてください」って懇願するんですね。東京からアテンドで同行した官僚は、真っ青になって困るわけです。忙しい大先生をお連れして、無駄足を踏ませるわけですから。女性差別だとか言ってキーとなって、後で問題とすることもありだったのでしょうが、彼女は人類学者ですから,東は東、西は西、それぞれローカルな文化があるから「そうなの、なら仕方ないわね」って言って、けっして強行しないんですめ。それで、すんなり引き下がると、視察をアレンジした省庁の関係者は、すごく恩に感ずるようです。それが、巡り巡って返ってくることもある、という感じかな。そのための投資とか、そういうのではけっしてないんですけど。彼女が決して無理強いをしない、引くとこはあっさりと引くので、官僚の側としては使いやすかったんだと思います。

飯嶋 はい。では、亀井さん。

亀井 いろいろ聞きたいのですが、一つはそういう北京育ちみたいな来歴の中で、独特の視点の獲得をした。あるいは観察の仕方ですね。そういうのを具体的に教えていたのかとか、あるいは勧めていたり、期待していたのか、学生に対してですね。特に私が気になるのは、日本を相対化して自分をナショナリズムに結び付けずに見るのはいいんですけど、その逆。彼女は北京で日本軍政下あったわけですよね。日中戦争の最中で。当然、戦後民主主義の中では日本のコロニアリズムと一体化した、そういうことで、批判されうる、そういうポジションにあったと思うんです。そういう肯定ではないにせよ、それに対する植民地経験の記憶みたいなこととどう付き合っていったのか。その辺り、さっきのデタッチメントっていうのと、それをどう教えていたかっていうふうにクロスさせることは、教育者としてどうなのかなっていうのが関心の中心ですね。

清水 まず後のことからいくと、彼女はとても幸運だったと思いますね。今の日中関係から過去を考えると、間違った印象を持つんですけども、70年代80年代の日中関係はすごく良かったんです。というのは冷戦が終わるまで、中国にとっての最大の敵はソ連で、ソ連との関係が一番厳しいから、キッシンジャーが米中の和解を進めたり、田中角栄が日中国交回復をできたんですね。
中国の国内を見ると、1950年代の末の大躍進政策が大失敗に終わり、3千万人以上の餓死者を出しました。そのために毛沢東は一時失脚し、劉少奇ら後に走資派と呼ばれるグループが資本主義的なインセンティブを取り入れた経済政策を採用します。それに対して、毛沢東は、自身の復権を賭けて1960年代半ばからは反右派闘争を開始し、文化大革命をを発動します。それから10年あまり、中国国内は大混乱に陥るわけです。そして毛沢東と周恩来が死に、毛沢東夫人の紅青ら4人組が逮捕された1976年にやっと、大混乱が収まり始めます。文革のあいだ、大学は完全に機能停止し、入試も行われませんでした。国内の混乱がひどく、国内にこそ主要な敵がいるとされましたから、日本への批判はほとんどされませんでした。
なので日中国交回復がなされた1972年以降、70年代から80年代にかけは日中まさに日中の蜜月時代だったわけです。基本的な建前は、日中両国民は日本軍国主義の共通の被害者っていうことにされましたから。テレビドラマの「赤いシリーズ」の主演女優として山口百恵は熱狂的な人気を集め、高倉健は日中両国のヒーローでした。ソ連が主要な敵である以上、米帝も日本軍国主義も、それぞれの国内の一部の誤った考えと路線による逸脱であり、小異を捨てて大同につく方針のもとでは、大きな問題とされなかったのです。
確かに満州事変からアジア太平洋戦争のあいだに日本軍はひどい虐待虐殺を中国でしたのですけど、そのことがとりわけ強調され、学校で教えられるようになったのは、江沢民の時代の1990年代に入ってからです。1989年6月4日の天安門事件で、中国共産党が完全に支配の正当性と国民の支持を失ってしまったからなんです。北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結していた学生を中心とした一般市民に対し、中国人民解放軍が武力弾圧を強行し、無差別発砲や戦車・装甲車での轢き殺しをなどしました。
人民解放軍が人民を虐殺したことで共産党の威信が一気に失われ、それを立て直すために、愛国教育のカリキュラムが重点導入されたのです。1995年に抗日戦争勝利50周年を祝うために、全国に抗日戦争記念館が建てられ、日本軍の侵略を中国共産党が大きな犠牲を払って撃退し、中国人民を解放した、という歴史が教えられるようになったのです。ちょうど、その頃、1994〜95年に、娘が北京大学付属中学に1年間通っていたので、私もそのカリキュラムのことは、割りと勉強しました。
ちょっと脱線しましたけど、中根さんが定年退職をしたのは、1987年ですから、日中の蜜月時代にいちばん生産的な知的活動と社会貢献をしましたし、費孝通やチベット学研究所の研究者らときわめて友好的な交流ができたわけです。そのせいもあると思いますし、ギアツの解釈学やターナーの象徴論にほとんど関心を示さなかったのと同様に、ポストコロニアル理論やポストコロニアル批判の問題系にも関心を示しませんでした。そして彼女の父親が軍人ではく、弁護士というシビリアンであったこと、そして戦況が悪化してくる前に、日本へ引き揚げたことで、中国人から直接に面と向かって糾弾されることはなかったと思います。彼女が住んだのは、日本人が集住する租界からはだいぶ離れて、父親の法律事務所で働くのも、中国人ばかりだったようですから、個人的な体験としては、罪悪感を抱くことはなかったと思います。
なので、中根さんは、ある意味で、とても幸運なめぐり合わせを生きてこられたと思います。1950年代に4年半も長く外国に出られたことから始まって。

亀井 時代が。逆に、知識人として使いやすくもあったという、左翼陣営からも距離を置いてって感じですね。本人は学生や読者に、どういう自分のまなざしを、どんな感じで進めるんですか。

清水 そうですね、彼女は、ぜんぜん右翼ではなくて、とてもリベラルだと思いますけど、リベラルの意味が、日本的な常識や知的惰性に絡め取られずに、ほんとに自由だ、という意味でですけど。ただ、彼女はやっぱりイギリスの経験主義にもとづく社会科学としての人類学の可能性を信じていますし、そこから何かを言おうという意識がとても強いですね。確かに彼女の経験は、当時の日本社会の常識からはかなりぶっ飛んでいますし、そのことが彼女を作ったのだと思います。けれども、彼女の特殊な個人的な経歴が中根千枝を作ったと言ったら、彼女は強い抵抗があると思います。人間的な感性や資質の部分ではそうかもしれませんけど、社会人類学のトレーニングを受けてしっかりその認識法と分析法を体得すれば、対象社会からデタッチして客観的に社会の全体構造を見られるし、分析理解できるんだと確信していると思います。そういう意味では、中根千枝の職人芸ではなくて、誰でもが学び修得できるディシプリンとして、社会人類学を考えています。その意味で、とてもプラクティカルな知性だと思います。人類学のトレーニングによって、自分のような人間を作れるというふうに、本当に信じてたんじゃないのかな。
いろんな官庁の官僚から頼まれていろんな委員会をやるんですけど「先生忙しくて大変じゃないですか。謝金だって少ないし」って言ったら「でも、こういうことをやっていると、いつか学生のためになって返ってくるのよね」って言うんですね。文部者のアジア諸国派遣留学生制度とかは、彼女がかなり頑張って作ったんですけど、それもLSEのレイモンド・ファースのゼミでフィールドワークの重要性を叩き込まれたからだと思います。これからのアジアとの友好のためには、現地に長く滞在して、言葉が分かって、現地の友人を作り、等身大で相手ができる研究者を作らなければならない、という強い使命感があったようです。。
それができるまでは、奨学金によって長期のフィールドワークや留学に出られる院生はほとんどいませんでした。例外は、アンデス考古学が、何年かごとに科研をとって、そのグループの一員として連れていってもらえるくらいでした。文部省のアジア諸国派遣留学生制度が70年代の前半にできてから、東大の文化人類学研究室からほぼ毎が一人は採用されて、私もそうですが、高い歩留まりで研究者になっています。その意味で、教育面でも、直接間接に大きな貢献と言うか、応答責任を果たしてこられたと思います。

飯嶋 では、とりあえずこれで第一部終わりにします。5分間だけ休憩にしましょう。

清水 申し訳ございません。遅れてきたうえに、だらだらしゃべって。話し出したら、つい、いろんなことが。

飯嶋 清水先生、ありがとうございました。

【講演2】福元満治(ペシャワール会事務局)「人災(戦乱)と天災(旱魃)の荒野・アフガニスタンで用水路を拓く―中村哲医師とNGOペシャワール会の行動理念」
昨年から、福岡県朝倉市へアフガニスタン政府関係者の訪問が相ついだ。農村開発大臣、大統領特別代行、水とエネルギー省副大臣。彼らの目的は、朝倉市にある水利施設の山田堰である。なぜ彼らは、江戸時代に完成した取水堰を訪問したのか。それが、アフガニスタンで活動を続ける中村哲医師の水資源確保事業の原点だからである。2000年に始まった大旱魃に対して、一NGOによる「アフガン緑の大地計画」は、アフガン東部で井戸を掘り、さらに農業用水路の建設によって1万5000ha(東京ドーム3000個分)の砂漠化した農地を回復させた。欧米軍の「反テロ戦争」によって荒廃したアフガニスタンにとって、必要なものはWARではなくWATERであることを認識せざるをえない事態なのである。一人の異教徒である日本人医師が、伝統的で頑固な異文化コミュニティーの中にあって、アフガン人ワーカーと共に可能とした事業について報告すると共に、それを支える日本側事務局についてもお話します。

□ディスカッション

清水 何年からですか、JICA(国際協力機構)とFAO(国連食料農業機関)が始まったのは?

福元 JICA(国際協力機構)とは5年前から共同事業をやっており、FAO(国連食料農業機関)とは正式に契約が決まったのは、今年(2016年)の8月からです。JICAとの共同事業は今回で第4次になります。財政的のこともありますけれど、現地に対しては一種のオーソリティが必要な場合があります。アフガニスタンには日本政府から多額の復興資金が出ています。一NGOだと現地の行政とのやり取りで面倒な局面が出てくることがあります。それと、今後アフガン全土でプロジェクトを展開するには、一NGOでは限界があります。やはり国家レベルの事業にならざるをえない。JICAとの共同事業はその布石と言えます。FAO(国連食料農業機関)とは、灌漑技術の研修・継承のための研修所建設で共同事業を行いますが、それもアフガン全土での今後の展開を考えて同様の意味があります。
以前は、私たちができるのは、アフガニスタン東部において灌漑システムのモデルを作り上げることまでだと考えていました。かつて砂漠化したり旱魃の影響で耕作不能に陥っていた地域16000ヘクタールに、私たちの現地事業体であるPMS(平和医療団・日本=総院長・中村哲)が灌漑用水路を建設して、緑に甦らせました。難民も帰還して60万人が生きる空間を確保することができています。この灌漑システムをモデルに、あとは国家レベルのプロジェクトを全土で展開して欲しいというのが、私たちの望んだことです。

私の事務局長としての役割というのは、ひとことで言うと現地と日本側の温度差の調整です。現地と日本では、イスラム教を奉じる頑固な伝統社会と、世俗化された情報過多の高度消費社会という違いだけでなく、いろんな局面で温度差があります。また現地は、治安が悪い。米軍の空爆だけでなく強盗や誘拐事件もある。
そういう現地の状況もありますが、現地の事業体PMSを構成するのはアフガン人で、職員が110人ほどに現場作業員が200人〜300人毎日働いている。彼らにとって灌漑事業は生業でもあるし、本来農民である彼らにとっては、用水路建設は、自分たちの生存空間を確保するための事業です。そこには、ボランティア意識など微塵もない。ところがそれを支える日本側ペシャワール会事務局員30人の大半はボランティアで、その8割は主婦層です。会員は13000人いますが、いわば平和な日本に暮らす普通の市民です。現地との温度差は、結論ではなく前提です。
ペシャワール会は本来医療チームですが、現在進めている主な事業は、旱魃が進行するなかでの灌漑事業です。ただ、日本を含めた欧米の「国際社会」には、アフガニスタンで大旱魃が進行しているという認識はありません。先進国のメディアが伝えるアフガニスタンのイメージは、イスラム原理主義の武装勢力が不毛の大地で反政府テロを行っているというようなものだと思います。日本側事務局は、国際社会だけでなく一般的な日本人がアフガニスタンに対してもつイメージを修正しながら協力を求め、財政的あるいは人的・事務的に現地を支えてゆく必要があります。私の仕事は、現地と日本のさまざまな温度差を可能な限り認識して、それを事務局内においても、対外的にも調整してゆくことだと思っています。

具体的な仕事としては事業についてのメディアと会員向けの広報活動です。現地活動の現状と支援の必要性を会員や支援者に伝えるための広報活動です。会員への広報=事業報告は年4回の会報で行いますが、マスメディアにはこの数カ月で、週刊文春で中村医師の紹介記事、毎日新聞では、加藤登紀子さんとの対談が出ました。それから、NHKのETV特集で、「武器ではなく命の水を 医師・中村哲とアフガニスタン」が放映されました。それから、もうすぐ雑誌『家の光』、今年の初めには、『暮しの手帖』や朝日新聞に出ています。雑誌『SIGHT』にも出ます。対談の形式で、安倍政権についても突っ込んだ話をしています。そういう広報の段取りや調整も私の役割です。それと中村医師の講演活動のマネージメントです。これも広報活動の一環です。
また独自のDVDも第3弾を企画しています。現地事業のドキュメンタリーです。総集編と、技術編という2部構成で、朗読を吉永小百合さんが、協力を申し出てくださいました。第1弾と第2弾では菅原文太さんが無償でナレーションや朗読をやってくださいました。
制作は、日本電波ニュース社というプロダクションです。実際、NHKのETV特集も現地取材しているのは、日本電波ニュース社です。ドキュメンタリーで辺境だとか、紛争地で危険度の高い地域の作品の現地取材は、独立プロやフリーのジャーナリストが撮影したものが多いですね。NHKにしても民放にしても、若いディレクターや記者は現地に行く意志があるんですけれども、上司が行かしてくれない場合があります。

飯嶋 フリーディスカッションの時間、長く取りたいので。じゃあ、一問一答でさっきと同じで、もう、やっちゃいましょう。じゃあ、小國さん、僕、亀井さんの順でやります。お願いします。

小國 ありがとうございました。とても一問一答ではできないぐらい、お聞きしたいことも教えていただきたいこともあるんですけど。実務的な部分は取りあえず全部後回しにするということで、中村さんについて1点ペシャワール会について1点、福元さんに1点、質問します。どれか一つに限っていただいても結構です。

福元 分かりました。できるだけ簡潔にお答えします。

小國 まず、福元さんご自身にお聞きしたいのは、今、最後のほうでだいぶお話されたんですが、編集者としてのお仕事で鍛えてこられた、その知見であるとか、言葉のセンスであるとか。その、職業的な専門性が、中村哲さんはじめとする現地事業を支える上で、生かされたって思われる具体的な点があれば、教えていただければ。
特に、広報活動がとっても大事という中で、どのタイミングで、あるいはどのくらいの時間軸で、何を見せて、何をどこで見せるのか、見せないのかみたいな所について、お答えいただきたい。これは福元さんへの質問です。
もう一つは、中村哲さんのことに関して、中村さん自身の信仰心っていうのがどう活動に関連付けられるのかと。たとえばモスクをつくられたり、ご自身はクリスチャンであったりというのと同時に、その思想は前面に出さないで、ペシャワール会をやっておられる。
何十年も前から、日本で国際協力NGOをやっている団体の中には、結構、信仰心があるところはそれを前面に出してやってるという印象があります。それをあえて一切出さないでやっている。逆に、そこになにか思想的なこだわりがあるならばお聞きしたい。
三点目に、ペシャワール会に関しては、先ほどからのお話の中で、よく福元さんが口にされた「土木の専門家」であるとか、その、いわゆる「専門」領域、「専門家」っていう言葉を、言ってみればかっこつけで使っておられるような気がして。
だとすれば、それに対してペシャワール会が、現地でずっと積み重ねてきた中での。たとえば「現場における専門性」とは何か、みたいなものを、もし問われたら何とお答えになるか教えてください。すみません、どれか1個だけでいいです。

福元 分かりました。できるだけお答えします。中村さんと関わるきっかけになったのは、私が編集者であるということが、一番だったと思います。私は1983年のペシャワール会結成の当初から関わっていたわけじゃなくて、発足3年目ぐらいから関わりました。それまでは、ペシャワール会のことは、新聞で知っていた程度です。パキスタン・ペシャワールのミッション病院に赴任してハンセン病を診るお医者さんがいて、車両を送らなきゃいけないから募金するというキャンペーンがあったんです。ただ、その記事を見て思ったのは、自分はそういう美しい話は苦手だなというのが、正直な感じでした。

清水 そういう考えね。

福元 そうです。そういうひねくれた人間で、あまのじゃくなんです。学生の頃は、いわゆる全共闘世代で、その時いろんな政治的な動きを見て、自分には性に合わないと思っていました。それでも深く関わった方です。その後、ひょんなことから水俣病闘争に関わることになり、石牟礼道子さんとか、今では、思想史家として知られる渡辺京二さんのそばにいたことが、私のその後の人生を決めたようなところはあります。
ただ水俣病闘争というのは、70年代の他の市民運動とはずいぶん異質でした。「怨」や「死民」の旗を掲げてチッソ本社を占拠していたように、近代的な市民の権利を追求する運動ではなく、水俣病患者や不知火海の漁民の言語化されなかった思いを表現しようとした運動でした。あえて言えば、近代によって抑圧された民衆の思いと水俣病の患者の位相をシンクロさせて、そこに何かを結像させようとした。実現不能な幻を追い求めたわけです。ですから、今でも近代的な市民運動というのは、何か肌に合わない。正直苦手なんです。だから水俣以来40年以上デモに出たことも市民運動に参加したこともありません。
それで、ペシャワール会のキャンペーンも市民運動的なものだと見ていたわけです。ところが、30年前、中村さんが西日本新聞に連載していたエッセイを読んだんです。赴任したペシャワールのミッション病院でのハンセン病診療の日々を綴ったエッセイですが、無駄のない硬質な文章で、「これは、市民運動とは異質だ」と、私の先入観が崩れた。そして自分の中で眠っていた血が騒いだと言うか、編集者としてもこの人の本は俺が出すべきだと思ったのです。あとで気づいたんですが、私は中村さんに嫉妬したんです。何に嫉妬したのかというと、現地の患者であるとか、難民に対する中村さんの関係の深さに嫉妬したんです。それから市民運動のことでいうと、ペシャワール会は、私の記憶の限りでは、デモだけでなく街頭行動ということを一切やったことはありません。運動ではなく、事業だと考えています。
それで、本を出したいと思ってペシャワール会に行ったんですが、矛盾する気持ちを抱えていました。それは、ペシャワール会には、運動としては関わるまいという気持ちと、中村さんとは、本を出版したら著者と編集者としての関係ではすまなくなるだろうな、という予感でした。そして、その予感はあたって30年たったわけです。
とりあえずペシャワール会の例会に出るようになり、1年間は、ただ礼状書きだけをしようと思ったんです。ところが会に通っていると、会報の作り方が非常に素人臭かったり、広報のための記者会見の段取りがまずかったりする。それで、私は出版社の人間でマスコミの知り合いも多いということで、自然広報の責任者みたいになっていったわけです。
それから、中村さんの信仰のことですけれども、中村さんはクリスチャンですが、信仰心を前面に出すことはないですね。講演やインタビューで「なぜそこまで、アフガンのためにできるのか。その持続する志を支えるものは何か?」と聞かれると、「いや、男だったら逃げるわけにはいかんでしょう」というふうな答えしか言わない人です。特に自分の内面については語らない。例えば「失われた20年と日本では言われますが、先生はどう思われますか」という講演での質問には、「そうですね、この20年で日本から義理と人情が失われましたね」て、そういうことを言う人です。
私と歳がひとつしか違わないですけれど、子供のころ親から論語の素読をたたきこまれたという、とても戦後の生まれとは思えないメンタリティの人です。私は仏教徒ですので、うちの会では特に宗教が語られることはありません。現地でも中村さんは、セレモニーの時などは、イスラム教徒と同じようにお祈りをしていますね。自然な感じです。
それで、現地の人に「ドクターは、異教徒なのになぜイスラムのためにそこまでやるんだ」と聞かれると、「あのヒンドゥークシュの山を見ろ。あの頂には聖なるものがある。その聖なる目標は、イスラム教徒であろうと、キリスト教徒だろうと、仏教徒だろうと一緒だろう。違うのはその登り口だけだ」と言うみたいです。例えがうまいですよね。

清水 プロテスタントですか。

福元 プロテスタントです。西南学院中学の時キリスト教の洗礼を受けたと聞いています。それで、会の結成初期の支援グループは、中村さんの母教会と、山登りをする人なので福岡の登山グループと九大の医学部の同級生の三つが母体になっていました。

伊藤 さっきの山の話って、実は仏教徒の説明の仕方なんです。それは、僕、キリスト教のクリスチャンホームに生まれたので。その、山の登り方の話って、どっちかっていうとキリスト教徒の話じゃなくて、仏教徒が説明するときの話です。詳しい話は端折りますけど。

福元 そうですか。それから、専門性の問題ですが、用水路をつくるときにアドバイスをもらったのは、二人の専門家です。九大の工学部の土木出身の研究者で私の友人で、彼とそのまた友人で九大の工学部を出て土木のコンサル会社にいた人から、中村さんにいろいろアドバイスを貰いました。その後蛇篭や農業土木の基礎資料を頂きました。唯それはアドバイス以上のものではなく、中村医師は独学で土木技術を学んだと思います。日本から現場に専門家が指導に来たことは1回もありません。
中村さんは九州の河川、筑後川とか、球磨川とかにある歴史的な灌漑に関する構造物を見て、そして専門書を読んで学びながら、現場で実践していった。基礎的なものから徐々に複雑な構造物になっていきました。それも近代的工法だけでなく、江戸時代に完成した伝統的な農業土木の技術を学んでいきました。良心的なお医者さんは、日本でも外国でもたくさんいると思いますが、用水路を設計して、重機を運転して、大規模な灌漑施設を建設する医者って、世界を見渡してもあまりいませんよね。
もちろん専門家は現地にもいます。外国留学組や大学出の専門家もいる。しかしそういう人は近代工法しか関心がない。現地は、伝統社会というか近代化過程にありますから、知識層は近代的なものに対する強い関心がある。逆に伝統的で古いものには関心を持たない。
中村さんは、日本の伝統的な灌漑工法を勉強して、現地の技術や材料を組み合わせて、現地にふさわしい工法を模索していきました。取水堰とか、蛇籠工とか、柳枝工とか、石出し水制や調整池とか、水門やサイホンにコンクリートや鉄筋も使ったけれど、ベースは伝統工法でやった。その原点は、福岡県朝倉市の山田堰です。200年以上前に古賀百工という庄屋さんが完成させた斜め堰です。現地事業の映像を見た日本の農業土木の専門家たちは、「これこそ、土木の原点だ」と評価してくれました。

飯嶋 僕は一点だけに絞ります。この、現地と、日本の温度差の調整役っていうのがすごく重要な仕事だと思ったんですが、例えばさっきのだと、中村さんが現地から「現地と日本には温度差がある」と言ってくる。日本側に伝えるときの、調整をやったって話だったんですけど。逆側とかってあるんですか、つまり、日本側の温度を向こう側に伝えるときの調整とかっていうので。

福元 そうですね。われわれの場合、現地事業の方向性については日本側ではあまり議論をしません。中村医師がやりたいことを、どう実現するかっていうことが会の基本です。そういう意味では、事務局が福岡にあることがいいんだと思います。九州人は、理屈を嫌うところがありますので。東京だと情報も多くて、優秀な人も論客もたくさんいるので、現地と日本の間で方針をめぐって議論が起こると思います。私は現地の方針に対して日本の受け止め方について、中村医師に伝えることはありますが、方針に反対することはほとんどありません。

飯嶋 調整ってやっぱり、中村さんのほうが熱くて、それと日本側との調整ですか。

福元 そうです。現地、現場の熱がある。旱魃だけでなく、洪水に襲われたり治安も悪い。緊張の度合いが違います。

飯嶋 分かりましたありがとうございます。じゃあ、亀井さん。

亀井 何人か、日本の若手の人を現地に送り込んでましたよね、そういうときに、もう、全く放任で送り込んでいくのか、それともある程度事前の研修なり、ちょっと働き加減の指導をして行ったり、つまり、現地で活躍する人たちに何か提示していってるかというのと、それから、これ、もう少し関わりの薄い人でもいいけど、例えば、中村さんなり、ご自身の公演会とかで、中学生と高校生とか、一般市民に講演で語りかけたりしますよね、で、もちろん、会の活動を公開することが非常に重要な役割を持つわけですが。
プラス、直接現地に行くわけではないけれども、日本の市民として、あるいは子どもたちに知っといてほしい。何を優先的に語りかけたいと思ってらっしゃるか。行く人たちの、必ずしも行かないまでも、広く浅く関わりを持つ日本の市民子どもたちに対して、どういったことを強く訴えてこられてきたかっていうのを教えてください。

福元 われわれはワーカーと言うんですけれども。海外青年協力隊みたいな形での、語学を含めた事前の研修は一切ないです。渡航前の心構えを話す程度です。一応試用期間というのは現地での3カ月間です。現地での滞在費用は、会が負担します。たまに外大を出てパシュトゥー語を知っている青年はいましたけれど、大半は、英語もそこそこで、行って現場で覚える。先に来た者が教える。数ヶ月で、現場での会話も不自由なくなる。

亀井 よく言えばそれでできるっていうことか。

福元 中村さんも「志望動機にはこだわることはない」と言います。志というか、あまりにも真剣に「貧しい人たちを救いたい」と考えつめる青年は、長続きしない。私は「志はあんまり高く持ちすぎちゃいかんよ。高下駄履くとこけるよ。無理せず、志は高いより、出来れば深い方が良いよ」と言うんです。考えつめると、現地の食べ物が食えなくなるんです。そういう青年もいました。少なかったですけれども。

亀井 面接で事前にご覧になったりして、たまにはお断りすることもある? 適性を・・・。

福元 基準は、ものすごくゆるいです。人柄だけの面接で、9割はOKでした。学歴や専門性が高くて、一流商社向きというか、印象でなんか無理だろうなというような人はいました。そういう人は、やはり行かないですね。
なかには、任期を終えた数年後に、「あのときはすいません、学歴詐称していました」って言うんです。で、「何、どうした」って言ったら、「あのときは、○○学院卒業と書いたんですけど、実は東大だったんです」と言う青年が一人ましたけど。こちらも「そうね」って言っただけです。

亀井 なんで下方修正して。高学歴だと落とされるかもしれないって、うわさになったりして。

福元 大体8割ぐらいは、大学出ています。あと、何人か高卒者や中退者がいました。それと、うちを退任した後、大学に入り直した者も何人かいます。医学部に行ったのが2人はいます。

亀井 講演会などで、伝えたいことは何ですか。

福元 もちろん中村さんのやっていることとアフガニスタンの現状を伝えるわけですが、私の知っているイスラムについても伝えたい。イスラム教徒は、世界に今16億とか17億いますが、日本人がイスラムに抱くのは、自爆テロのように血塗られたイメージです。でも、大半のイスラム教徒はそうではないんだよ。ほとんどのイスラム教徒は、普通の日本の青年だとかおじさんおばさんと変わらないんだよということを伝えたい。特に、私たちが活動するアフガニスタンという国は、2000年から始まる旱魃の前までは、国民の8割が農民で、穀物自給率が93%あった豊かな農業国でした。そのことを知ってほしい。
先ほど申し上げたように、文化には、それぞれ固有性があるんだと。自分の文化の物差しで優劣を測らないほうがいい。相手の文化は理解するのは難しいけれど理解できないまでも、尊重してほしい。文化というのはそれぞれローカルなもので、風土に根ざした不合理なものを含んでるんですよということは必ず言います。
それと日本政府は、アフガニスタンに民生支援を続けています。そのことが日本に対する信頼になっていますので、無理に自衛隊を出すことは必要ないしアフガン人も期待していないですよということを言います

亀井 ありがとうございました。

飯嶋  じゃあ、あと、15分ぐらいで、もし、この後、懇親会に行きますけど。そこに行けないっていう人がいたら、早めに言って。

伊藤 すいません、簡単な質問なんですけど。今の、そういう、尺度と一般の話で、すごく僕らのやってるような文化人学的な、そういう民主主義、近代的、人権的リクワイヤーっていうのは、そうだと思うんですけど。それで、さっきの、北欧のそういうのがすごく印象に残ってるんですけど。ただ、これがどのぐらいっていうのが、さっきの飯嶋さんとか、亀井さんの質問、たまたま今、スマホで中村哲さんのウィキペディアで、ウィキペディアありますよね、調べてたんですけど。
ウィキペディアで3行。日本語のウィキペディアじゃなくて、英語のウィキペディアを見ると、中村哲さんっていうのは何年に生まれて、それで、日本の医者なんだと。で、彼はラマ何とか賞っていうものをもらったんだっていうのと、パキスタンとアフガニスタンのボーダーランドで、すごく頑張ってると、3行しか書いてなくて。で、例えば、そういうふうなものが、例えばさっきの北欧の人が、そういったNPOか何か分かりませんけども。失敗しないようにというか、ちょっと失敗っていうか、損が起こらないように。だから、日本ではなくて、他の所にそういう理念とかっていうものを、伝えるみたいな感じっていうのは3行なので、ちょっと今。

清水 英語見なかった。

福元  質問にお答えすると、中村医師の本を英語で翻訳しようという企画は、今までもありました。しかし現地のスタッフにもいろいろ相談して、控えています。現地スタッフや中村医師のセキュリティの問題です。われわれの事業に大半の人は共感してくれると思うのですが、悪意を持つ人たちもいます。あるいは、政治的な意図でターゲットにしてくるグループもいる。紛争や混乱によってお金を稼ぐ人たちもいる。中村医師の活動を翻訳して「ぜひオバマ大統領に知らせるべきだ」とおっしゃる文化人の方もありました。しかしネット社会ですので、どこからタマが飛んでくるかわからない。今のところ敢えて英語では情報を出さないようにしています。

伊藤 極端に少ない。極端に何も書いてないんで、逆にびっくりっていう。

福元 ネットの存在を過小評価してるわけでもありません。現地と連絡するときに、やはりネットでなけりゃできないことがたくさんあります。昔は大変でした、連絡が。今は、中村医師の帰国中に用水路に問題が起こった場合でも、どうしたらいいかと、現地から写真が来る。中村医師がそれを受けて、指示できるんです。そういう意味でネットは、われわれも活用しています。
例えば、会報を季刊で3万部出していますが、ウェブマガジンにしたらどうかという人はよくいます。でも、やはり紙のほうがじっくり読めるんです。それに、家族・友人で回して読めます。中には、「ホームページをもっと充実すれば、会員は爆発的に増えるのに」って言われる方もありますが、ホームページを見て、会員になった人っていうのはごく少数です。ホームページを見る人たちは、興味はあるけれども深い関心はない。関わらないんです、見てるだけです。
新聞を読んだり、ドキュメンタリーを観たり、講演を聴いたりして、その上で、会報を読み、あるいは中村医師の著書を読む。そういう人が会員になっています。現在会員が13000人いて、支援者も5000人くらいいて、それで年間3億円ほどのお金が集まっています。世界的に見ると小さい規模ですが、宗教団体などのスポンサーなしでこの規模のNGOは、日本には他にないのではないかと思います。
ついでにNGOが存続するための、私が考える条件を三つ挙げますと。
一つは現地活動の実質があるということです。これを粉飾するNGOというのがあるんです。それから、二つ目は活動報告をきちんとすること。明暗含めて、失敗も報告する。三つ目は会計報告が明瞭であること。きちんと監査を入れる。
この3つのうちどれかひとつでもごまかすと潰れます。現に、過去、北九州と鹿児島の大きなNGOが、活動の粉飾や資金流用で潰れました。これはNGOに限らずあらゆる組織にいえるかもしれません。東芝だってそうで、粉飾するわけです。だから、組織というものは全部そうかもしれません。実体があって、報告がきちんとしいて、会計が明瞭であるというのは原則だと思います。

飯嶋 どうぞ。

木村 質問で、すごく感銘を受けました。良かったです。
中村さんの話は、ちゃんとまだ、受け止められてなくて話だけなんですけど、そうすると、きょう、応答の人類学っていう、枠組なんですけれども、本当の意味で、現地に応答しようとすると、中村さんみたいに新しい専門知識を付けていって、どんどん自分も変わっていくっていう意味で、応答をある意味超えしまっている感じもして。応答、むしろ福元さんのされていることのほうが人類学者のある意味、目標というか。目指すべき視点に近いというか、感じました。
こちらに基盤を置きながらも、でも、現地とうまく調整しながらお互いをうまく伝えてくっていうところが、やっぱり、人類学者の目指すべきだという、近いので、きょうはお話を伺ってすごく良かったと。僕はどうなれるんだろうかという。そんなことを考えました。

福元 いえ。

清水 ちょっとよろしいでしょうか。最後コメントというか。感想というか。木村くんが言った最後の問題、すごい重要で、じゃあ、ちょっと1分ぐらい。人類学者がこのままやっていけるのかっていうのは、僕自身が90年代に持った問題で。80年代の後半からペシャワール会の活動をしてる中村さんに、敬服していて。人類学の学会の中では、もう人類学終わったとか、人類学が植民地主義だとか、いろんなことを言われて。ポストコロニアルの時代になって、一番論客は太田義信さんで九大の同僚で、その代表作が『トランスポジションの思想』なんですけど。
『トランスポジション』読んでもよく分からなかったんです。片や一方、中村さんがまさにトランスポジションをして、変わってくっての。僕にとっては、91年のピナトゥボ火山の噴火と80年代からの中村さんと、あと。知的な人類学のポストコロニアル、太田さんをはじめ、その三つのせめぎ合いの中で自己形成してきたのが、今の応答の人類学って、この研究会なんです。そういう意味でも、すごい思うところいろいろあるんですけど。
一つだけ、あらためて思うのは、僕は最近言ってるのは、さっきの中根千枝さんも、さっきの文化相対主義から、すごい輝いてたと。だから、今のグローバル化の時代は、文化相対主義ではなくて差異よりも、共通性への着目が重要なんだってなことを言ってるんですけれども。そのとき、いっつも気になっている、後ろ弾が飛んでくんのは、一つは浜本充さんの、彼やはり人類学は差異の語り方を丁寧にやってくべきだと。人類皆兄弟みたいなことを言うのはばかだという。
あともう一つは、中村さんがやっていることが、まさに差異に着目して、異文化を理解して、現地現場のフィールドワークということなんです。そうすっと、もう一回初心に帰る必要があるのかなというのと、ちょっといつまでも答えが出ない問題ずっと抱え込んでいて。どうしたらいいでしょうか。

飯嶋 ていうのを、じゃあ、飲み会で話してください。

清水 どうも、すいません、今…。

飯嶋 そうですか、了解しました。

清水 全く同じ問題で、中村さん見てると、人類学者がいつも問われるんです。おまえが何をやってるのかという。偉そうに異文化理解みたいなことを言って、理解して何になるんだみたいなことまで言われたら、それを、ずっとのどに留まったとげのように。

亀井 なので、もし、それについて一言述べさせていただくと、やっぱり文化人類学が、文化相対主義をしきりに声高に叫ばざるをえなかった、コロニアルな状況と、似たような国際NGOによる圧迫っていうか、無理解に基づいた実践っていうのが、横行してる状況って、やっぱりそういう場では相対主義的な語りっていうのはときとしてとして、対抗言説として役に立つし、かと言って、先ほどの中根千枝さんの、うまく時代に乗って日本の文化を肯定することによって多くの人たちに喝采されたっていうのを、そのまんま自文化に適用することで、逆に言うと今度は、今、経済が少し低調な、中国に追い越されるみたいな、そういう中で、逆に、今、日本文化を称揚する相対主義によって、称揚することっていうのは、むしろ外国人は出てけみたいな、そういうレイシズムを招きよせちゃう。
それは、やはり置き場所に非常によってくるんではないかっていうのは私の考え方。だから、文化相対主義を、あらゆるところで同じように適用することが得策とは思えず。やっぱり、今こそ使うべきところ、効果が発揮できる場所と、今そこで強調すべきではない場面っていうのは、やっぱり状況にかなりよって来るんではないかなというふうに、受け止めています。なので、そこで異文化を丁寧に理解しようというのは、まさにコロニアルな状況だからこそ、そういうの効いてくるんじゃないかというふうに思いました。

清水 そうすると、かつての文化相対主義が力を持ったときと比べて、今は仮想敵が変わって、国際NGOあるいは援助機関、あるいは外国政府そのもの。

亀井 民主主義の普及を、声高に要求して、さもなくば、爆撃をっていうような状況が、まさにその。

福元 そうですね、2001年の9.11に対する報復爆撃で空爆が起こる前に、カーブルに5カ所の診療所を運営していたんですけれど。そのときに借りていたオフィスの家賃が250ドルでした。ところが、タリバン政権が崩壊して、2002年の春には、世界中からNGOと国連機関がどっと入ってきたんです。それから、マスメディアも入ってきた。そうしたら、250ドルの家賃が3000ドルに上がりました。
私たちは、現地スタッフに現地の相場で給料を払っています。ところがNGOとか、国連が入って来ると、それが3倍とか、5倍ぐらいに上がるんです。そうすると、一緒のインフレ状態になって、物価もどんと上がる。そうすると英語がぺらぺらで、外国経験のあるような知識層の人たちはそこで職を得ます。大半の富裕層は安全な外国に逃れていて、一種の不在家主です。隣のパキスタンやヨーロッパにいたりアメリカにいたりする。その人たちが家賃250ドルを3000ドルに上げてくる。外国で教育を受けて英語が堪能な人たちが、ジャーナリストのコーディネーターになったり、NGOのコーディネーターになったりする。その知識層・富裕層は貧困層のことには関心がない。で、そういう中で物価があがると、貧困層の人たちは、ますます貧しくなっていきます。それでNGOや外国人は来ないほうがいいということになる。先進国での評価と違い、現地ではNGOの評判は、良くてビジネス、ひどい場合は詐欺師だと思われてる。
私たちは、山岳部に病院をつくってきましたけれども、欧米先進国の人たちは、都市部につくることが多い。都市部につくらないとマスメディアのスポットが当たらない。それが当たらないと存在しないのと一緒である。そうするとお金が集まらないと。ところが、中村医師は「みんなが行く所には誰かが行くから行かんでもよか」と言います。誰も行かない所にこそニーズがあるから行くと。要するにあまのじゃくです。みんなが行く所には行かない。行かない所には行くと。
国際社会の流れを見て学んだのは、多くの人たちが、同じことを言い始めたときには、ほとんどそれは虚構であるということです。皆が同じことを言い始めたら、そこには真実はない。みんなが同じことを言い始めるときは、ほとんどフィクションだと考えた方が良い。だから、本流には真実がないというのが、私が体験から学んだことです。

*今回のディスカッションは諸般の事情で大幅に遅れました。お詫びいたします(庶務・第29回世話人飯嶋秀治)。


【報告】「応答の人類学」第28回研究会+科研第3回研究会「Teaching Anthropologyの挑戦:調査と教育と社会の結節点を探る」を開催しました
日時:2016年7月16日(土)14時00分~
場所:京都大学人文科学研究所 4階大会議室

参加人数:約30人

<趣旨>
大学における文化人類学教育のあり方を探ることは、文化人類学に携わる私たちひとりひとりにとっての大きな関心事であるだけでなく、この分野の将来のあり方を左右する重要な営みでもある。また、「教える」ことを通じて、文化人類学そのものを捉え直し、学生たちの価値観について理解を深め、かつ、社会とのつながり方を確かめる側面もあるだろう。「教える」こととは、すぐれて自他の理解を誘う試みでもある。
スマートフォンが普及し、瞬時にウェブ上の有用な情報が無限に手に入るこの時代にあって、学生たちとともにいかなる文化人類学教育を実践していくか。その目指すところと具体的な方策はいかなるものであり、何が見えてきて、それらが学生と教員、社会をいかにつなぐ営みとなりうるか。
各大学における具体的な実践事例を通じて、その理念と方法、その効果を検討しつつ、あわせて社会との結節点を探るためのシンポジウムを開催する。

【日時】2016年7月16日(土) 14:00開演(13:30開場)、17:30終了予定
【会場】京都大学・人文科学研究所4階大会議室地図詳細:構内キャンパス38番
【プログラム】
趣旨説明 亀井伸孝(愛知県立大学/准教授)
研究発表 亀井伸孝
南出和余(桃山学院大学/准教授)
飯嶋秀治(九州大学/准教授)
シディクル・ラフマン(バングラデシュ・ジャハンギルノゴル大学/准教授)
コメント   橋本和也(京都文教大学/教授)
大西秀之(同志社女子大学/教授)
質疑応答
【発表者・タイトル・要旨】
亀井伸孝
「学生とともに行う「旅の写真展」の実践報告:ウェブ全盛の時代にモノと情報との付き合い方を学ぶ」
愛知県立大学国際関係学科は、2009年に設置された比較的新しい学科である。本学科では、その特色作りの一環として、学生たちが世界各地で撮影してきた写真を活用した「旅の写真展」を毎年開催している。その主たる目的は、知識や情報がもたらされるのを待っている立場に甘んじるのではなく、情報を自らフィールドで収集して社会に対し提示していく表現者の側に移行することを奨励するというものである。すでに6回を数えた開催実績の中で蓄積されたノウハウを提示するとともに、その中から見えてきた課題についても検討する。とくに、スマートフォンで簡単に情報の収集と発信ができるというウェブ、SNS全盛の時代における情報リテラシーのあり方や、表現行為の手軽さが生む責任の希薄化などに焦点を当て、あえてこの時代に、スキルの選択肢として、モノと情報との付き合い方を学ぶための教育のあり方を展望する。

南出和余
「映像制作を介したコミュニケーション:映像人類学教育実践」
デジタルカメラの普及とインターネット上での動画の共有によって、映像は、特定の制作者による情報発信かつ表現手段から、広く一般に開かれたコミュニケーション手段となった。現在の学生たちは、日々誰が作ったのか分からない動画からの情報を得、また自らの幼少期をホームビデオ映像に観ることも少なくない。一方、人類学者もまた、フィールドノート的に記録媒体として映像を用いる者もいれば、論文と同様に映像で研究発表を行う映像人類学実践も普及しつつある。本発表では、この映像人類学実践を教育の場に応用した事例を紹介する。発表者は、2010年から桃山学院大学国際教養学部において映像制作教育を行い、学生たちに約15分間のドキュメンタリー系の映像作品を作らせている。5年間で60本の作品が学生たちによって制作された。対象と直に接して撮影しなければ素材は存在しえないという現実から、映像制作には、デジタル時代にありながらもきわめてアナログ的コミュニケーションを要し、人類学的フィールドワークの要素が不可欠である。そのことからも、学生たちの映像作品からは、大学生たちがどのような関心のなかで生きていて、社会とどう向き合おうとしてるかを垣間見ることができる。

飯嶋秀治
「コンタクトゾーンとしてのエデュケーション:罹災半世紀後での民族誌媒介行為」
人類学の「エデュケーション」を考えるとき、教育人類学(Anthropology of Education)とは別に人類学教授(Teaching of Anthropology)の歴史があったことを思い出そう。一方で学習が、他方で教授があって、エデュケアー(教・育)は成立する。本発表では主に、九州の諸罹災地を学生たちと共に「文化人類学演習」として巡ろうとしていた際、結果的に同一の村落で文化人類学演習の8年間を過ごすことになった経緯をお話しする。それは今日、當眞千賀子の言う「形成的フィールドワーク」になっていったが、そこではフィールドの村人たち、ホームの学生たち、両者を橋渡しする教員たちの三者が交互に応答することで、民族誌を媒介としたエデュケアーな関係が構築されてきた。こうした経験を振り返り、足元のエデュケーションのなかに織り込まれたコンタクトゾーンを考察し、「エデュケーション」における応答の人類学の幾つかの論点について考察する

シディクル・ラフマン
「バングラデシュの人類学教育事情」

【共催】
日本学術振興会科学研究費助成事業 (科学研究費補助金基盤研究(A))「応答の人類学」
日本文化人類学会課題研究懇談会「応答の人類学」
「大学教育とフィールドワーク」研究会(2015年度公益信託澁澤民族学振興基金民族学振興プロジェクト)

京都人類学研究会Facebook
「大学教育とフィールドワーク」研究会(2015年度公益信託澁澤民族学振興基金民族学振興プロジェクト)

*京都人類学研究会との共催のため、ディスカッション公開せず。


【報告】「応答の人類学」第27回研究会「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」を開催しました。
日本文化人類学会第50回研究大会の同一会場で「応答の人類学」に関連する個人発表が連続して行われました。共通テーマは「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」です。
日時:2016年5月29日(日)(研究大会の第2日目)16:10-17:20
場所:南山大学名古屋キャンパス
〒466−8673 名古屋市昭和区山里町18
参加者数:約35人

E会場(S-48)16:10-17:20
共通テーマ「人類学教育と応答性(2): 人類学者の再生産モデルを超えて」
座長:伊藤泰信(北陸先端科学技術大学院大学)
・16:10-16:30 森正美(京都文教大学)
「人類学の全体性と横断性を活かす: 地域における実践活動から」
・16:35-16:55 亀井伸孝(愛知県立大学)
「学生たちの潜在能力を活用するフィールドワーク教育: 愛知県立大学国際関係学科「旅の写真展」の実践報告」
・17:00-17:20 飯嶋秀治(九州大学)
「ポスト罹災地での文化人類学演習: エデュケーションにおける応答の人類学」

ディスカッション
伊藤:それでは、時間になりましたので次の発表に移ります。ちょっとイレギュラーな感じもするんですが、お時間をいただきたいとおもいます。今から、森さん、亀井さん、飯嶋さんという順番で連続して発表いただきますが、これらは実は共通のテーマを持っています。去年の大阪での文化人類学会で、伊藤が代表をつとめた「人類学教育と応答性」という分科会がありましたが、いまから続く連続性を持った複数の発表は、去年の続編的な位置づけになります。要するに、こうして伊藤がお話をしているのは、ご厚意で座長にしていただいて、その続編的な機会をもつことになったためです。
2012年から続いている課題研究懇談会の1つである「応答の人類学」、さらに2014年には、学会の一般シンポジウムで、フィールドワーク教育について「大学で学ぶ文化人類学」という興味深いイベントがなされました。(両方とも代表が亀井さんです。)それらを引き継ぐ形でということで、昨年、「人類学教育と応答性──人類学者の再生産モデルを超えて」というタイトルの分科会を伊藤がおこないました。基本的に、去年の分科会趣旨が今日のテーマにつながっています。
1つめの趣旨は、フィールドワークやエスノグラフィ、文化的な価値の相対性や多(他)文化への感受性など、人類学というディシプリンが持っている良質の部分というものを、どのように創意工夫しながら大学(大学に限らないわけですけれども)での学生教育に活かしていくのか。これが1つの趣旨でありました。
2つめの趣旨は、次のようなものです。(職業的)人類学者は(日本ではほとんどが)大学教員だと思います。人類学者イコール大学教員です。多くの大学では人類学者を再生産していくというのではない、違った形の教育をしています。人類学者(=大学教員)の輩出でなく、社会一般に対して、どのような人材を育成し、送り出していくことが「人類学の応答性でありうるのか」という問いとけが2つめの趣旨になります。大学が社会的な責任や社会貢献などを求められているという背景も関係してくるかとおもいます。
そこから派生して更なる問いは、応答性に鑑みた人類学の可変・拡張可能性です。時代の変化・社会の変化に対応して、人類学の教育、ひいては、人類学という学じたいの枠組みやカタチは、どのようなものになりうるのか?という問いです。
さらに、昨年の分科会でも議論になったのは、フィールドワークと言っても、もう人類学者の専売特許ではなく、何を持って「人類学なのか」ということじたいも問われているということでした。
一方で、人類学を一般教養レベルで学部生に教えたり、ゼミで学部生を指導したりしますが、現状認識として、圧倒的多数が学者になるわけではなく民間企業などに就職していきます。他方で、我々人類学者(=大学教員)は、「人類学者の再生産モデル」(人類学専門の研究者を育てて輩出する教育モデル)で訓育を受けてきています。
人類学の再生産モデルであれば、徒弟制度のように、自分の背中を見せることがそのまま教育になるわけです。しかし、学部教育で、学者にならない人材を育成して社会に送り出すというのは再生産モデルとは全く違うわけです。人類学者としての自分の背中を見せることが、そのまま教育にはなりません。このあたりの乖離をどのように考えるか。そうした乖離を直視しつつ人類学の教育の議論を深める必要があります。このあたりの議論が去年の分科会の趣旨ですが、その趣旨が今回の発表群にも緩くつながっているといますので、最初に説明をさせていただきました。

*森・亀井・飯嶋各氏の発表
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E17/_pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E18/_pdf

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jasca/2016/0/2016_E19/_pdf

伊藤:それでは、冒頭でアナウンスをしたように質疑応答の時間としたいと思います。
まず「応答の人類学」あるいは、先ほど亀井さんが紹介してくださった澁澤のフィールドワークのプロジェクトなどでもご一緒されている徳島大学の内藤さんと、それから、京都文教大の松田先生にお願いしたいと思います。マイクをいただけますか。それでは内藤さんのほうから個別のコメントをいただきたいというふうに思います。
内藤:ありがとうございます。徳島大学の内藤です。私はたまたま地方国立大学に着任しました。いわゆるリベラルアーツ系の学部です。ですから最初の亀井さんのご発表にあった「ぼんやりしている」度合いが強い学部でたまたま人類学を教えている次第です。100人程度の学部スタッフの中で人類学を教えているのは2人という状況で教育をしています。また、これも最初のご発表にもあったように、大学改革の流れのなかで「教育のスリム化」が進められた結果からか、人類学という名前を冠した専門科目ではなく「フィールドワーク入門」などの共通教育科目や「社会調査実習」などのアクティブラーニング系の授業を担当しています。全体としては社会調査士養成プログラムの中で、かろうじて人類学的なフィールドワークに関する理論や方法論を教えている感じです。そういう環境の中でなんとか「人類学的なもの」を教えようとしております。
私自身はそのような感じでやってきましたが、本日はフィールドワーク教育における「成果」の発表という点に関して思ったことをそれぞれの方に質問させていただこうと思います。最初の森先生のご発表の宇治茶プロジェクトは非常に面白くて、「地元学」というふうに言われて、いろんな所でやられていると思います。こうしたプロジェクトは学生にいろんな発見をもたらすでしょうし、実際の地域づくりに関わるプロセスで学生が責任を持たないといけないでしょうからいい機会だと思います。他方で、ご自身でもおっしゃっていましたが、すでに発見・解釈されたものを再生産してしまうような「危うさ」もあるということです。つまりある地域で地元学的なプロジェクトを継続する場合、次年度以降の学生たちに「発見」をもたらさなくなるような危うさもあると思います。こういうプロジェクトを継続していく場合、いったいどのようにしたら、プロジェクトで作成した副読本を、地域に対する新たな「発見」をもたらす仕組みとして翌年度以降のプロジェクトで使ったり、バージョンアップしたりできるのだろうかということです。
いま多くの大学でフィールドワーク教育をやりなさい、PBLをやりなさいと言われていると思います。そんな中で人類学だけではなくて社会学とか地理学をはじめとする様々な分野の先生たちがフィールドワーク教育を実践しています。私が気になるのはそれらの多様なフィールドワーク教育のやり方と比べた場合の、人類学的なフィールドワーク教育特徴です。文科省や大学本部に言われるからしょうがなくやるかもしれませんが、他でもない人類学者がフィールドワーク教育をする時にどういうことができるのでしょうか。そういうことを考えることを通じて人類学の得意なこと、「人類学らしさ」というのは何か考える機会になったらいいと思って関心を持っていました。
もう1つ、亀井さんのプロジェクトでは学生がいろんな内容を発信しているんですが、海外旅行で撮影した写真を展覧会というかたちで「発信」するということは分かったのですが、発信の仕方、つまり、ある種の「遊び」を「学び」に変える取り組みだというふうにおっしゃっていたと思うんですけど、「学び」に変えるとはどういうことなのでしょうか?特に人類学のコンテクストでいうところの「学び」に変わるというのはどういうことなのでしょうか?また、「学び」への転換に向けた教員による介入の仕方ですね。これは人類学的な意味で面白いことなんですよ、というある種のものの見方の転換がなされているんだと思うんですけど、具体的にどういうことなのであろうかということが少し疑問に思いました。
最後に飯嶋さんが、息の長い取り組みの中でどういったな介入をしながらご自身もいろんな発見をしつつプロジェクトをどう展開してきたのかという点に関するご報告が非常に面白くて、本日の趣旨にぴったりだと思います。が、フィールドワークとかPBLとかアクティブラーニングってある種マジックワード的に使われていると思います。今回はご自身が実践されてきたプロセスについてご説明いただいたんですけれども、他分野と差異化するというか、特に差異化をしなくてもいいのかもしれませんが、他分野の先生方と同じ名前の授業を持たれたとして、人類学者がプロジェクトを回す際のポイントというか視点の特徴について少しご説明していただければいいかなと思いました。
伊藤:ありがとうございます。まずはコメントを内藤さんからいただきました。これに関してはお二人続けてやったほうが答えやすいですよね。では、松田凡先生、よろしくお願いします。
松田:京都文教大学の松田と申します。私の大学の状況は先ほど森さんのほうから説明していただきました。でも、お三方の話を伺っていると、私も十数年エチオピアへ学生を連れて行っていたんですけど、もう懲りて最近はやっていません。けれども、先生方のお話があまりに面白くて豊かで本当に面白そうなので、また悪い虫がうずきそうな感じを受けております。ちょっと怖いですが。私はお三方の話、個々の方がたへの質問もたくさんあるんですけど、ここではまとめて考えを述べさせていただきます。実践事例の報告という部分も含めてしていただいたんですけれども、この集まり自体もこの学会で2回目ということで伊藤さんもおっしゃいました。今後、ここでワンステップ研究のレベルを上げていくには何が必要なのかということをぜひお考えいただきたいと思いました。あるいは、現在はまだまだ実践事例をたくさん集めていくことが大事なのか、そういう段階なのかとそういう言い方もあるかとは思います。あるいは、こういう教育という分野には安易な理論化とかモデル化が馴染まないんだという、人類学などはわりとそういう主張をしてきたと思うんですけど、そういうふうに言うのか。しかし、戦略的に考える必要があるんじゃないかなと思っています。私が人類学のフィールドワーク教育が議論化されるということに期待するのは、その先に学生に対する評価の手法とか基準とかそういった問題がまだまだ解決されていないものとしてあるということであります。
こういう教育によっていったいどんな力が学生に身につくのか。教員はそれをどんな方法で評価するのか。カリキュラム内でやる以上はそういうことは必要でしょうし、一部カリキュラム外でやってらっしゃる先生の例もありましたけれども、やはり私どもの大学でも20年間どっちかというとそれを曖昧にしてきたかなというふうに今思っています。伊藤さんが最初に「人類学者の再生産モデルを超えて」ということをおっしゃいました。つまり、人類学研究者にならない学部学生に対する教育ということを考えるのであれば、そこにおいてどうそれを評価するのかということを考えていく必要があるんじゃないか。それならおまえがやれというふうに言われそうなんですけど、自戒を込めてもしご意見がありましたら今日の方々にご意見を聞かせていただきたいと思います。以上です。
伊藤:ありがとうございました。内藤さん・松田先生のお二人からコメントと質問をいただいたので、それでは、森さんのほうから回答をよろしくお願いいたします。
森:この場で大丈夫ですか。
伊藤:はい、大丈夫です。
森:2人の先生の発表を聞いて、私はやっぱりアウェイだったのでちょっとバクッとした話だったなと思ったんですけれども、それにもかかわらず内藤さんが宇治茶のいいところを拾っていただいて質問をしていただいてありがとうございます。これは実は7年続いているプロジェクトで、一時は授業とも接続をしていました。今は完全に課外的な活動になっているんですけれども、ご質問はこういった活動が継続していくときに伴う危うさとか、あるいは、そこで与えられる「宇治茶」という例えば1つの地域文化と考えたときに、そういうものがある種固定化して繰り返されて単なる再生産に終わってしまうんじゃないかというところだったと思います。今日あまり話ができなかったんですけれども、私自身がフィールドワークで面白いなと思っていることは、飯嶋先生の話の中にも個人調査と共同調査の両方を研究してほしいんだという話があったんですけれども、その両方をできることだと思っているんです。つまり、人類学って非常に個人の実践に注目して、一言でいえば本当に目の前のただ1人の人から何かすごく大きなことを学ぶという、さっきショックという言葉がありましたけれども、いい意味での衝撃がある。ただ、何に衝撃を受けるのかというのは一般論で語ってしまうと平均化されてしまうんだけれども、実は一人一人の学生とかを見ていくと、非常に個人の今まで抱えてきた人生、さっき学生のファミリーバックグラウンドを調べたら面白いなと思ったんですが、そういうふうに個人の実践がそういった企画とか、一言でいうと、あなたがやりたいと思うこと、あなたが面白いと思うことは何?という問いを自然に発することができ、そのベースの中で企画を考えることができるっていうところかなと思うんです。どうしても企画を考える、実は、この「宇治☆茶レンジャー」って業界を巻き込んだスタンプラリー、最初はまったくお金がなくて私の研究費とかを使って、全部スタッフが着るTシャツも手作りでハンコで押してとかで作ったんですけど、今外部の助成金が200万円ぐらいもらえて、1万人とか人が来るすごいイベントに育っているんです。なので、そういう大きなことがしたいという学生が入ってくる部分も若干あるんですけど、でも、ほとんどの学生は地域に出て勉強したいし何かやってみたい。でも、何をしたらいいか分からないという子たちなので、あまり責任にとらわれすぎたり先輩がやったことを繰り返すんじゃなくて、何も知らないあなたが勉強して何が面白いと思うの?っていう問いを、そして、大事なのはなぜ面白いと思うの?っていうことを言葉にしようか、形にしようかっていう、さっきの亀井さんの話で言うと、発信する意識に発見を転換していくということができるということが可能性かなと思っていて、私自身はこのプロジェクトにアドバイザーとして伴走しながら、それがすごく人類学的な可能性の実践なんじゃないかなと思っています。いいですか。
伊藤:ありがとうございます。
亀井:では、亀井からご質問にお答えします。ありがとうございました。まず、写真展、学生が遊びであれなんであれ撮ってきた写真をいかに学び、どのような学びにつなげるかというときに、必ず展示にあたってはタイトルをつける、何年何月、どこどこに行って、誰々が撮影というふうに、よく論文で写真などを掲載する時に必ず撮影した時期と場所と撮影者を明示するという引用スタイルがあります。それを徹底します。つまり「なんとなく写真きれいだね」ではデータにならないと。タイトル、何年何月、どこへ行って、誰が撮影ということで著作権者も明示する形できちんと情報を添えることによって有用な学術的なデータにもなるんだと。しかし、情報がなければ、これはただの画像にすぎないと。だから、それはしっかりやりましょうということをかなり強調しています。それから、先ほども述べましたけれども、なんとなく漫然と撮るのではなくて誰かに後でしっかり見てもらおう、どんな人に見られるか分からない、いい写真を撮ろうという姿勢を持って行ってらっしゃいということで、例えば、1回だけじゃなくて複数枚撮りためておいて、良い物を1個厳選するみたいな形でいいものを撮ると、後で人が見て満足してもらえるよという形でアドバイスをすると、そういったことを覚えておくと、実際その写真展をやって終わるので、レポート作成をそのまま義務づけたりするわけではないのですが、いずれ卒論で調査に行こうというときにそういう姿勢を持っておくことで研究に転用できるだろうということで、課外活動であまりガミガミ言って学生の意欲を減退させてもいけないので、原則は押さえてあとは自由にやってらっしゃいということを言っています。
松田さんからのご質問で評価の仕方ですが、基本、課外活動なので原則評価しませんし、一部授業に取り入れましたが、写真の中身について善し悪しは評価しておりません。学生たちの中には人気投票してコンテストにして優勝とか入賞を決めたいねなんていう人もいるんですが、それはまだ導入していなくて、なぜかというと、それによって「自信がないから私やめておく」みたいに学生が萎縮してしまうといけないので、一応今のところは出したい人は誰でも堂々と出しなさいということでやっていて、授業の一部に組み込んだ時はあくまでも参加態度、きちんと出席して作業を円滑にやって、それから、他の人に助言をしてという授業参加態度を評価対象としました。お答えしました。
飯嶋:僕なりに答えさせていただきます。ありがとうございました。私は内藤さんに対して、最初から人類学の特徴ということはあまり考えないです。フィールドで必要適宜なことをやるみたいな。こういう所ではそうだろうと思うんです。逆に、私はこの実習の前はハンセン病の施設に行っていたんですけど、そこでは、当時、社会調査士の話があったので単位に認定させてくれといって、当初はそれをOKしていたんですけど、そうしたら何が起こったかというと、ハンセン病の方たちが切々と語っている中で要するに資格目的で来た学生が、切々と涙を流しながら語っている方の目の前で寝ちゃったりするときがあるんです。それは、ここにも(寝ている方が)いますけど、まあまあいいんですけど、そういうことがあるとマズイので、逆に自主的な動機でやっているという。さっき見て分かったと思うんですけど、人類学といっても同じ文化人類学の連中の中でも結構多様性があって、いきなりそこの所にいけないところでもあるっていう実情です。
松田先生のほうでは、僕は亀井先生とは対照的で逆に面白かったと思うんですけど、オープンにあまりしないっていう方向でやっているんです。信頼がある所に関わっていく。その時には何かっていったら、学生とか修士はそれを評価の論文にできるかどうかというところが難しいところで、要するに逆にいうと、業績目的で来られちゃうとこういうところが難しくなっちゃうんです。なので、僕の場合はここは元来2人の教員でやっていた時は4単位だったんですけど1年間、僕は8単位にして、純粋にこれをやっただけでほぼ全員にAを出すという。それを内的な動機にしてもらっています。僕はこれを何かで公表することがあるとしたら、現地の課題がある程度解決された後だと僕は思っているんです。それまでは僕は積極的にやる気はないし、水俣の人はものすごくシビアですから、こういうのが出回っていたら「あいつの業績に水俣で名前をあげたな」と言う方もいます。そういう場所だっていうことでやらなくちゃいけない作業っていうのはあるとは思います。
伊藤:ありがとうございます。3人の、ちょっとイレギュラーですけれども、コメントをいただいてということで3人の方にお答えいただいたわけですけれども、いろいろ出てきたと思います。介入の仕方、評価の話、それから、他分野との差異化みたいな話とかいろいろ出てきました。時間が超過しているんですが、幸いなことに、この会場はこの何もないということを利用させていただいて、フロアからコメント、質問をいただきたいとおもいます。
フロアA:森さんとは数年前、地域連携でやったんですけど、私はまた別のことに舵を切ってしまって。
森:宇宙(研究)に舵を切っちゃった。
フロアA:いやそっちじゃない。飯嶋さんを含めてちょっと気になったのが、エデュケーションの応答があったときに、ここまでの議論というのは調査地というか現地と大学との関係なんですが、問題なのはエデュケーションの応答といった場合に実は学生なんですよね、問題なのは。私が舵を切ったほうは調査じゃなくてカメラを持ってとにかくフォト・エスノグラフィーで撮ってこいと、ランダムに。要は、問いかけは、君たちはどういうふうに世界を見ているかという問いかけなんです。とにかく留学生も多いものですから、フランス人に行かせると本当にエキゾチックジャパンを撮ってくると。だから、そもそもあなたたちはどういう目で見ているのかということで、気づいて怖かったのが、実はこれは箱庭療法とか心理学のカウンセリングで学生個人の単なる親の職業じゃなくてさまざまな心理的なことに入り込んでいっちゃうんです。でも、考えてみたら、実はフィールドワークといったときに、どうしてもわれわれは人類学者ですからフィールド調査地との関係なんですが、学生に対する協力という点で考えると、学生に対してどこまで入り込んでいくか。ちょっときつい言い方をすると、現地と学生の上に君臨する人類学者のような構図が見えてしまって、これはこれでよろしくないんじゃないかという気がしまして、調査地と関係なく学生との関係の中でどういう応答があったのかという点はどうだったのかということをお聞きしたいです。
飯嶋:それは本当に悩んでいるところなんです。悩んでいるところというのは結局これはいつ終わりになるか分からないという状況でスタートしていて、報告書を返した段階で向こうが「もう来るな」と言われたら終わりの調査なんです。だから、毎回毎回考えて大丈夫だな、大丈夫だなっていうふうにして確かめながらやっているので、しかも、こういう形で入っていくというのは結局、僕らくらいなんです。なので、逆にいうと、リサーチのところに入ったときにどういう所で他の人はどういうやっているんだろうというのを正直学びたいんだけど、よく分からないっていうのが水俣に関してはあって、僕はそういうふうな印象を受けられているのはもっともだと思うし、これからも工夫の余地があって。僕もともとはこのフィールドワークを始めたのは、九大に就職したので九州のリサーチのフィールドワークを全部やりたかったんです。そのうちの1個で入ったら、たまたま1年では抜けられないという感じになったので、それで付き合い続けているところもあるんです。学生たちにはまぁ興味深い形で楽しめるようなオプションを徐々に徐々に付け加えて、僕自身はやってきたと思うんですけど、まだこれからそういうことはいっぱいあると思うので、またいろんなことを教えていただければと思います。
亀井:学生たちに対してどう向き合うかということですが、基本、教員が世界を飛び回っていろんな情報をもたらして、口を開けて待っている学生に食べさせるっていうそういうことではなくて、むしろ学生たちがいろんなネタを運んでくるのを待ち受けている空っぽのお皿みたいな。場所だけはちゃんとつくって毎年恒例でやるから、いい写真持っておいでよ、撮ってくるのはあなたたちだよっていう形であえて教員が具体的なメッセージ性を発さずに場所をつくって待ち構えている接し方を何回か試行してみて、そうすると、情報が教員から学生に一方通行で流れるのではなくて学生から発した情報がその場に流れ込んでみんなが楽しめるコンテンツになっていくというのを経験してもらうというポジションにいるので、そういう接し方、情報の流れをちょっと変えてみるみたいな接し方もあるのかなということを試しに今やっているところです。
森:私のはちょっといわゆる調査実習みたいなのとはちょっと違うので感じが違うのかもしれないですけど、調査をやっている時も基本的に、さっき飯嶋さん「今年はこんな感じで」っていう感じだったんですけど、あまりそれを決めないで私は今までずっとやってきていて、取りあえず手がかりとして祭りに行くなら祭りに行くという対象は決めるんだけど、方向性みたいなものはまとまる年もあるし、まとまらない年も結構あります。ただ、報告書にしなくちゃいけないとか報告会をしなくちゃいけないとなってくると、出てきたバラバラのものをどうするか。さっきのカウンセリング的なところっていう話がAさんのほうからあったと思うんですけど、個人が選びたいテーマを決めるまでにすごく相談して、その人にとってのひっかかり、フックは何かということを一番大事にしたいなというのをずっと思ってきたので、それをやってきて、それをプロジェクトの企画の時もやっぱり一人一人の学生とも話をするし、学生同士も全員がしゃべって、でも、社会の枠組みと突き合わせなきゃいけないので、そこのところでどう調整するかを学ぶんだよみたいな。あくまでもみんなは学ぶプロセスにいるということを一生懸命伝えるというか、そんな感じかなと思います。でも、そういう意味では本当に悩ましいところで、社会連携、地域連携的なことをやっていると、何のために私はそれをやっているのかっていうこと自体を問われることになって、業界の人たちからも最初はすごい金儲けをしていると思われていて、人類学者ほどお金儲けが苦手な人たちいないんですけど、他所から来てそういうものにそもそも関心を持つこと自体がよく分からないと。だから、他者への興味をそんなに持つ人たちがこんなにいるっていうことも分からないし、本当に性善説じゃないけど、こんなに危機だったら何かできないかって何もない所から共感をもって行動してしまう、それを理解されるまでにずっと怪しい人だと思われてきたというのはあると思います。だから、そういう意味では本当に私もいつも思うんです。企画を考えて、大人がやればすごく早い。でも、それを我慢するということをずっと戒めようとは思っています。でも、難しいです。
伊藤:ありがとうございます。では、フロアの方。
フロアB:この「分科会崩れ」は、お互いというかそれぞれ実習をどうやるのという非常にプラティカルなことを情報交換するので、とても大事だなと思って来ました。さらに、そういうプラティカルな問題だけじゃなくて、現代社会において人類学的な知ってなんなのって結構深いテーマがあるなと思って聞いていました。なので、聞きたいことがめちゃくちゃたくさんあるんですけど、時間がないので、これをもっと長い時間とってくれればよかったのに。1個だけ、亀井さんのご発表でお聞きしたいんですが、君たちがやっていることは、もうすでに人類学なんだよっていう、北斗の拳モード。「おまえはもうやっている」。これは、すごくエンカレッジするにはいい教育だなと思うんですけど、どうしても私は古風なのか、妖怪人間ベムモードがでてきて、「早く自分でフィールドワークがやりたい」。早く人間になりたいようという、そういう要求が学生にあるのかな。もしそういうのがあるとしたら、それは、北斗の拳モードにどういうふうに滑り込ませていくのかとか、あるいは、それは学生がただ人の撮ってきた写真だけでは物足りないから、ちょっと人類学的な写真の撮り方、人類学的なセンスを教えてほしい、と言われるまで黙っているのかとか、そのへんの呼吸を教えていただきたいと思いました。
亀井:基本、課外活動としてやってきたことなので、あまり細かい指導、拘束してあれしてこれしてということはなかなかできないですけど、「こんなものを実は論文に載せていいんですか」みたいなことをよく聞かれることがあるんです。
「え?私が撮った写真とかでもいいんですか」。もちろんいい。例えばスケッチで描いてきた絵でも、きちんと描けば、いつどこで描いたかを添えることによって重要なデータになり得るし、堂々と論文やレポートに載せていいんだということを言うと、「意外に研究ってわりと日常的な生活の延長にあるんですね」みたいな感じでその気になってくれるというのが一番こういうことをやっていて面白いなと思うところです。必ずしも人類学を目指す学生ばかりではなくて、結局、写真展でそういうふうに課外活動を楽しんだ後、国際法とか経済学とかフィールドワークを必ずしも伴わない専攻を選んでいく学生も結構多いので、あまり人類学者モデルみたいなものをしつこく提示することはありませんけれども、中にはそれで味をしめてフィールドワークをもっと実際に卒論のために調査にあらためて行ってきますと。そういうときに何に気をつけたらいいですかみたいにあらためて求めてきた学生には、例えば他のいろいろな調査のノウハウみたいなことを追加でお話したりしますが、基本は学生の求めを待つみたいなところがあります。
伊藤:ありがとうございます。何時までというのは実はそんなに決まっていないという話だったんですけど、そんなに長くということはできないので、どうしてもっていう質問があれば。いかがでしょうか。
今、Bさんがおっしゃっていたのは、もともと去年の分科会でも、教育を考えることが人類学のカタチ自体を問うことだ、ということでしたので、まさにおっしゃっていただいた通りだと思います。
フロアA:Bさんがおっしゃっていて大切だと思うのは、例えば、水俣にしろ、多文化共生にせよ、震災にせよ、内田樹と言うところの「こんなもんでええちゃうんか症候群」があるんです。「どうやら世間で大切な問題と言われている」、「ここまでやればいい」というようなタイプの学生がいる。それから、もう1つは、人類学者が上に君臨するとさっき言いましたけど、本当に水俣病とか多文化共生とか震災を、学生が重要な問題と思っているかどうか、というところがあって、かなり学生の所に下りていかないといけないだろう。現地・調査地との応答の議論は多いんですけど、学生からの応答が一部聞けていないので、そこのところが人類学にどうやったらなるのかなというのはちょっと考えなければいけないかなと思います。
飯嶋:一言だけよろしいですか。さっきうまく答えられなかったこともあって、もうちょっといい答えを見つけたのでお答えすると、1つは2年に1回でしょ。つまり、もう1個の個人実習のほうはまったく個別のフィールドに向かう人類学演習の学生になります。これはほとんどの学生はどうなっちゃうかというと、卒論のテーマの調査になります。効率的ですものね。卒論のノウハウはここで教えて、それぞれ行ってきなさいってやっているんです。今回と前回の水俣実習に3年生で参加した学生が同じことを言っていたのが、ちょっとこれ意外でもあり、うれしくもあったんだけど、何かといったら、これは2年生の時にやりたかった、と言うんです。つまり、個人でやっているとバラバラでいて自分が何をやっていいのかよく分からないけど、僕が一緒に行っているので「こうやってあいさつやるんだ」とか、他の人と夜のミーティングなどをやっているので、あと、2人1組でやっていると、こういうふうなところが私よりフィールドノートをうまく取れているんだというのを学びながらやっているんです。つまり、君臨していると学生が思っているかというのを、そういうふうに僕が把握している限りで、判断できるエピソードかと思い言わせていただきました。
もう1個は、水俣自身に関してはどのくらい思っているかというのは分からないところです。ここは社会的役割みたいなところが僕自身はなんとなくムラムラあって。やっぱり臨床心理学の田嶌(誠一)さんというのは「節度ある押し付けがましさ」というキーワードに凝っているんですけど、つまり相手の懐に完全には踏み込まないんだけど、でも、これはフリーにやっているとそこまで来てくれるかなというところがあって、僕自身が重要だと思ったら責任を引き受けて僕がやる。問題が起こったら、僕がこれは責任編集を全部やっていますから、全部クレームは自分が負う。これ以外に僕は今のところやり方がないという感じです。
伊藤:ありがとうございます。もう1つぐらい何かありますでしょうか。
フロアC:もしよろしければ、学生という立場で。
伊藤:ぜひぜひ。
フロアC:大学院生のCと申します。私も院に上がって、自分自身、結局何をやっているんだろうというのはすごくよく問いただすんですけど、今日の話を聞いて本当に意外なところに人類学が転がっているんだよっていうのを学部生にぜひ気づいてほしくて。例えば私たちの同級生などは決して学部生全員が学問に情熱を注ぐというわけではなくて部活に情熱を4年間かけたという人もいるんですけど、部活だって見方によっては人類学のフィールドになるんだよというのは本当に気づいてほしかったところだったし、私は実際、沖縄の調査にはまってしまったのでそういうことをやったんですけど、同級生で部活をすごくやっていた人がいたので、それでぜひ卒論を書いてくれよと思ったんですけど、本当に高校の授業から出てきて何も分からないままに学部生というのはきておりますので、ぜひ先生方に人類学にはこういう見方があって、意外に身近な所に転がっているんだよということはぜひ私たち自身も知りたいところではあります。もう1つ自分自身の課題でもあるんですけど、せっかく人類学で意外といろんなことが見えてくるんだよということが分かってきたときに、それを社会に出たときにどう生かしていくかというところまで役立てると、初めてそこで人類学というのは社会で貢献できるんじゃないかと個人的には思っています。大変興味深い発表で、ありがとうございました。
伊藤:ありがとうございます。ちなみにマスター・・。
フロアC:マスター1年です。
伊藤:人類学専攻の修士1年ですね、ありがとうございます。これに応答するみたいなのはありますか。
森:それに応答して。すごくきれいにまとまったところに口をはさむのは本当は野暮なんですけど、さっき松田さんが評価の話をしていて、他の所でも少しやられているんですけど、人類学ずっと20年間何の役に立つんだと言われていて、就職とかもできないしって言われたんですけど、でも、そんなことなくて、ちゃんと就職もしてみんな働いているんです。他の所で何がやられているか。例えば、インターンシップを大学で受けた学生たちの卒業生追跡調査みたいなことを結構やっていて、結果的に、さっき横で気づいてくれよと思うけれどもその人の人生のプロセスの中で気づく時っていうのは学生時代とは限らないというのが結構ある。よく文化人類学科の卒業生が言うんですけど、社会に出てあらためて習っていたことの意味が分かった。あらためて役に立つと思ったとかっていう声があって、私たちはそういう学生たちに支えられてやってこられたところがあるんですけど、だから、評価を考えるときに、地域連携も同じなんですけど、すごく時間がかかる非常に長期間で後に結果が出るものなので、例えば変な話ですけど、人類学を学んで人類学者になっていない人の調査をするとか。少し違う形の方向性も考えないといけないんじゃないかな。それは実際、人類学科がなくなって、松田さんとかはホームページを立ち上げているんですけど、No Cultural Anthropology, No KBUって学生たちがそういうホームページを立ち上げて、卒業生が学んだことが卒業してどう活きたかっていうことを連載でエッセイを書いてくれていて、そういうのを読むと、アフリカに行って今看護学校に行っていると。最新号はそれですよね。そうすると、看護学校で実習に行って隣のおばあちゃんとか子どもたちにアンパンマンの絵を描いてあげるとよろこぶ。おばあちゃんに声をかけるとよろこぶ。これは私が文化人類学を学んで分かったことですってやっぱり言うんです。そういう意味では本当に今の短いタイムスパンの中での評価とか教育を考える、さっき私は切断されていると言ったんですけど、と違う、それに対抗する評価軸みたいなものをあらためて提案していくということもあるのかなというふうに聞いていて思いました。
伊藤:ありがとうございます。僕は今のお話を聞いた時に森さんに振ろうと思ったぐらいだったので。教育的には、「便益遅延性」という言い方ができるとおもいます。便益というのは、要するに教育を受ける者にとって「良いこと」、という意味です。その学生にとっての便益(「良いこと」)、教育の効果、が現れてくるかというのはいつになるか分からない、という点が教育の難しいところです。もしかしたら中年になって、あるいはお年寄りになってから「あの時」の教えが今に生きている、って気づく。便益は遅延する、教育の効果は後になってあらわれる、というのが教育の難しいところです。
すぐに効果が出るかどうか分からない。だけれども、就職とかそういったところで学部教育とかやっている場合は、それがどう役に立つのかっていう、説明の言語を我々は開発していかなければいけないというのは当然あり得ると思いますので、そのへんは動向が難しいところだというふうには思うんですけれども。
最後、清水先生、何か一言。
清水:京都に来てからエデュケーションの現場にいないので。僕は京都に来て10年、エデュケーションの現場で教養学部を教えていなくて、大学院生は研究者になりたいという人だけなので、こういうふうな人類学のTeaching Anthropologyの生の現場というのはすごいというのは、なかなか深いぞ、大変だぞ、面白いぞと思いました。ありがとうございました。
伊藤:では、時間が過ぎてしまったんですけれども、超過時間は15分どころじゃないですね。こういう人類学教育の企画がいろいろ続いているわけですし、教材を作ろうという動きもありますので、ぜひ継続して・・・
清水:1ついいですか。今の話で思ったんですけど、フィールドワークってすぐ社会調査とかするんですけど、そうじゃなくてマクドナルドでアルバイトするのもフィールドワークなんだとか、あるいは、入社試験の面接を受けるのもフィールドワークなんだとか。だって、社風とかいうので事前に会社の傾向とかどんな人材がほしいかとか社風を調べて行くので、その時にフィールドワークをしているんだという客観的な気持ちがあれば、すごくリラックスして学生のほうも少し余裕をもって高みの見物ではないけれども自由に動けるんじゃないのかな。だから、人類学のteaching anthropologyというのは具体的にはマクドナルドでバイトしている時にどういうふうにしたらフィールドワークになるかみたいな、そんなことを教えたらいいんじゃないのかな。そうしたらマックで実践することも。あとはインターンをやるのもまさにフィールドワークそのものだし、会社の面接試験とか集団面接もフィールドワークだっていうのは、まさにフィールドワークというのは作業観察なんだから作業して働いてインタビューを受けているところでも作業1つ実は観察するという、そんなことをうまく伝えられれば裾野が広がるなと思いました。
伊藤:ありがとうございます。スタッフのお二人も長い時間どうもありがとうございました。


「応答の人類学」第26回研究会+科研第1回研究会
日時:2016年5月27日(金)
場所:愛知県立大学サテライトキャンパス(愛知県産業労働センターウインクあいち15階)
〒450-0002 愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38
参加者:13人

プログラム:
13:00-13:10趣旨説明(飯嶋秀治)
13:10-14:10香月洋一郎「宮本常一-その存在を「民俗学者」と見ることの不自由さについて」
14:10-14:40コメント(小國、飯嶋、亀井)
14:40-14:50個別質疑
14:50-15:00休憩
15:00-16:00赤嶺淳「ベトナマコスの遺産−−鶴見良行の今日的意義と課題」
16:00-16:30コメント(小國、飯嶋、亀井)
16:30-16:40個別質疑
16:40-17:40総合討論
17:40-18:00会場片付けなど

***
宮本常一-その存在を「民俗学者」と見ることの不自由さについて
香月洋一郎

①2000人以上の猿まわしを送りだした山口県高洲で、名人と言われているのは15人足らず。
そのうちの一人、白石のおじいちゃんが宮本の訃報を聞いての悔みの言葉

「ええ世間師じゃったがのう。あんな人がおると旅をするものは助かるんじゃが。」

② 鶴見俊輔「子どもはね、小学校に入るときに『親問題』から離されるんですよ。親問題というのはもともとの問題、つまり、その最初の問題。たとえば『どうして生きていかなきゃいけないか』」(中略)
「柳田国男、南方熊楠、折口信夫、もっと降れば宮本常一、このへんの人はみんな親問題を持っていて(中略)」

③ 佐渡の太鼓打ち集団「鬼太鼓座」の将来に悩む座員に語りかけた宮本の言葉。(1978年12月)

「これから先、ほんとに国際性を持ってくるには、君たちのように外国へ精出して歩いてくることも大事なことだろうが、外国の文化を受け入れるような素地を国の中へ作っていかなきゃならないんじゃないか。その場っていうのはどういうもんだろうかって言ったら、つまり外国の人たちがやってきて、安んじておられる場所だろう。それじゃあ、向こうの習俗をすてないで、日本人の生活の中に入り込み、ともに生活できるような場があったかっていうと、ないだろう。
これが、やはり、君たちのやらなきゃならん仕事の一つだ。」

出典
①『生活学会報』第18号 宮本千晴「世間師の学」
②梅棹忠夫、鶴見俊輔、河合隼雄『丁丁発止』
③『いのちもやして、叩けよ―ー鼓童30年の軌跡―ー』

□ディスカッション
飯嶋:ありがとうございました。これ、特別なんですよ。僕は香月先生、2度九州大学にお招きしたんですけど、最初その時にも言われたんですけど、宮本常一を自分は背負って仕事は絶対したくないっていう、その方向で食っていこうと思えば食えるかもしれないんだけど、それをやっちゃうと自分がどんどん卑しくなっていくからっていうのでずっと語らないできたっていうところがあったんですね。
もう1つはこういう話を聞くと、僕は一方でだけど勇気づけられるんだけど、いや、そんな生存スキルも持っていない自分が何をできるんだろうということが問い返されるんですけど、その時も香月先生が集中講義でもおっしゃっていただきましたけど、自分自身は福岡で生まれて育った人間で農業のことは知らないと。知らないんだけど、知らない人間が農業を見ると、どういうところが見れるかっていう形でやっていることは可能で、その意味で手の内を探してやることの方が仕事として成立したし、面白いっていう形でおっしゃってたと思うので、今から小國さんと私と亀井さんから質問しますが、おそらく先ほど言われた話にちゃんと答えられる実質を持っているかどうか分からないですけど、自分たちの力量の中で今から質問しますので、分かることがあったらお答えしていただければ思います。小國さん、お願いします。

小國:先生、ありがとうございました。今から質問をさせていただくのですが、どうしても私個人の話をしないことにはその質問の意図が伝わらないような質問になってしまいますので、ちょっと皆さまお付き合いいただいて自己紹介兼ねさせていただきたいと思います。
日本福祉大の小國でございます。よろしくお願いいたします。今日多分こんなお話がまさか聞けると思っていなかったけれども、本当に知りたいことを教えていただいたって私自身は本当に感動を超えた状態です。というのは、私が宮本常一の書に触れた時は民俗学・民俗史として読んだのではなくて、国際協力の東南アジアの地域づくりの現場で、実践の姿勢を示すようなものとして読んだんですね。
そこで自分は文化人類学を背景として海外ボランティアとして働き始めたころだったのですが、民俗学や人類学系の本で、初めて「ギブアンドテイクできるものを持っている方が良い」ということを明言して農村のことを書いている書に出会った、それが常一だったんです。 ですので、耳を傾けて、問いかけた時には指導のようなものをもしながら書いていくっていう行為が、フィールドへの働きかけになるんだよなっていう、この実感を宮本常一の書ですごく言語化してくれていたと。ですので、そういうものとして私は宮本常一の書を読みましたし、今勤務先の日本福祉大学では、世界のいろいろな国で国際協力の実務に関わっている人たちを中心にした大学院で教えているのですが、今年は休講ですが、縁あって、地域社会開発論という科目のテキストに常一の『旅に学ぶ』を使わせていただいたりしています。
この1965年に出された書では、香月先生も引用されていたように、「自分が百姓であり、また家族の者が百姓をしていると、農民の世界が全て此岸側の世界として映るけれど、農業から手を引き、農村から離れると農村は彼岸の世界、あちら側になってしまう」ということであるとか、あるいは「自分自身もまた自分を学者などとは思ってはいない。農民たちの代弁者だと思っている」というようなこと。あるいは「もう1つ大切なことは、何か特技を持っており、それが相手に役に立つ方法でなければいけない」だとか、「与えるものがなければならぬ」みたいなことをたくさん書いておられました。
人類学を学んで「働きかける」ことへの戸惑いを持ったまま国際協力現場にいた私は、それに救われるような形でした。ですから今日まさに香月先生が、常一のことを、こういう人がたまたま大学の職を持っていたんですよ、食うためにっていう説明で、私は、今日、お聞きしたかったことの納得がいってしまって質問に至らないという気持ちもあるんですが。いや、でも、そこを皆さんとできるだけ共有したいので、あえて自分の思考体系を立ち戻る形でお話していますが、それを当初私が読んだ時に、当時はですから、「フィールドワーカーとしての宮本常一」が、農業指導だのといったことをしているという方向から読みました。
そうすると、どうしてこの人はこんなふうな実践をしていいと思っているんだろうかっていう問いが、観察者たれ、ということで人類学を学んできた立場から生まれました。つまりそこまでやっていいのかどうかっていうのが常に私にとっての歯止めになっていました。飯嶋さんがおっしゃったように、どこまで自分ではそういう知識・技術をつけないと農民の方とまともに関われないんだろうかっていう問いも生まれました。
つまり実践者としてどういうふうに力を付けないといけないのかということと、他方で学んできた聞き取り、書くということと結び付かないような、実践そのものに見える部分をどう処理していくのかっていう2つの問いが自分の中に生まれて。それに対してこの65年の時点で農民たちの代弁者だと思っているだなんて、逆に、「代弁者」って言っちゃいけないんじゃないか、みたいな思いも当時ありました。
ですので、今になって振り返ってしまえば60年代に書いたものと、その後70年代以降に書いたもの、おそらく香月先生の目線から身近でご覧になっていくと、常一自身の農村へのスタンスにも変遷があったのではないかと思うんです。宮本先生ご自身の経験と年齢を積み重ねる中での変化っていうんですかね。そこをあらためて伺って、宮本常一にとってのフィールド、農村の捉え方はどういうものであったのか、あるいは農村にとっての宮本先生の関係性っていうのは、初期のころと、その後ずっと実際に武蔵美に職を得て以降までの中でどんなふうに変わっていったのか、あるいは変わらなかったか、といったことを伺いたいです。
先ほどすでにお答えいただいたことで言うと、「東京から行った先生」というような、全然そんな感じには取られなかったよっていうのがまず1つの答えだとは思うのですが。あらためてフィールドとの関係性っていうものがどんなふうに変わっていったのかというところをお聞きして、今後の自分の糧にしたいなと思っている次第です。
また、自分自身、農家の家族というポジションをもって農村調査をしている中で、クロスする視点、「クロスオーバー」っていうふうに香月先生がおっしゃっていた部分をできればもっともっと言葉にして説明したいし、していただきたいなというようなところです。
香月:農村調査を始める時に農業のことを全く知らないということは、そのこと自体は肩身の狭い思いをする必要はないんですよ。知ろうとしないっていうことが一番まずいことなんです。知ろうとしない自分に気が付いてないっていうこと。僕は今から7年前で大学を辞めましたけども、そのころの大学院生でもそういうふうなことを思いたくなるような院生結構いましたので。
これも僕、宮本先生と雑談した時に、自分が調査の計画の打ち合わせをしてて、調査、自分らのやっていることは額に汗して畑を耕すことに比べたら虚業だろうと。つまり片一方は実業であると。虚業と実業は絶対置き換わることはできないんだけれども、橋を架けることはできるはずだという。その場合、学問で社会に貢献してますといったことじゃなくて、自分自身の意識として知ろうとしない自分を突き動かして変えていく、そのことでまず十分なんだという、スタート時点では。
それから、別にそこでその土地にとってプラスになるような情報を必ずしも持って入らなくても素直なリアクションでいいんですけども、素直さっていうのが基本でしょう。いつまでに論文書かなきゃいけないからこんな話を聞かなきゃいけないとかそれ先行だと現場で、さもしさが出ることがあるんですよ。それはね、相手に伝わっちゃうんです。そうするとそこでの関係が小さくなっちゃいます。
だから本当はきっちり2年で修論書こうって思う院生ってのは制度的には優等生なんだろうけれども、僕はどうしてもどんなもんかなと思ってしまう。生身の人間が生身の人間に会いに行くわけだから、あとはフィールドでの動きに任すしかないというおおらかさをどっかで持てないかなという。
今、実は佐渡での宮本常一、今、さっき鼓童、いろんなね、あそこ、今活動やっているんです。海外からいろんな人間が来てあそこでワークショップやってますが、そこにね、若い人類学者が宮本の足跡とその後の展開を調査に入っているんですよ。僕3年前佐渡でシンポジウムやった時に彼らもその発表をしてたから。
飯嶋:日本人ですか?
香月:ええ。話聞くと、僕らは最初にいかがわしさ知ってるんですよね。だって大学辞めて、職場辞めてね、佐渡に太鼓たたきに将来どうなるか分からないのが10数人来てという雰囲気。
清水:『平凡パンチ』読んでたんですよね。風俗だけ読みたくて買ってる連中が。
香月:そんなのはね、集まった人間がまさかここまで来るとはという。ところがね、ここまで来ちゃったら、ここまで来た洗練さでもって後振り返っちゃうんですよ。そうするとね、いかがわしさに対するアンテナが全部さびちゃう。これは本当はすごくむつかしい問題です。
ただ、僕らが例えば猿回しの知人なんかとよく話す時に、すごく価値観のある褒め言葉の1つとして、「いかがわしい」っていうのがあったんです。「あいつ、いかがわしいよな」っていうのは、あいつおもしれえよなと、可能性いろいろあるよなっちゅうのを「あいつ、いかがわしいよな」と言う。
洗練されたところから振り返るだけだと、いかがわしさに対するアンテナが鈍るんですよ。だから、今現代社会にあるそういう可能性を秘めているいかがわしい動きというのが今一つ見えにくい。これ、世代的なものかもしれませんけどもね。僕はそういういかがわしい動きっていうのは、何カ所かに関わっているもんですから、飯嶋さんにもその話をしたり、仙台でそういういかがわしい動きをやっている人を紹介したり。
こういうのは基本的に教育委員会とか、大学のネットワークに情報として上がってこないんです。上がってきたとしてもね、そういういかがわしさを持っているものという顔付きでは上がってこないんです。でもそれがね、生きてるっていうことはまだ日本の在野とか、民間社会って大丈夫なんじゃないのかなとは思います。割と農文協関係の本で名前出ている結城登美雄という人がいますけども、彼は、書いたものが一番つまんないんです。その動きのいかがわしいこと、いかがわしいこと。おもしれえな、この人はというね。
だから、そこのアンテナ、若い人持ってもらえないかなと。フィールドに入ったらそういうアンテナってすごく大事なんです。農業に対しての知識とか、村の人にこんなことを伝えられるみたいなことだけじゃなくて、村の人が屁とも思っていないようなことをこちらが面白がったりとか、そこの部分はよそ者しかできないかもしれない。
これも宮本常一の表現の中にありますが、自分で自分を突き飛ばすことができるか、と。それはよその力が要るよというそういうのがあるんですけれども。だから、よそ者っていうのは何かの知識とか技術なくてもそのことだけで小さくなる必要はないんですよ。僕が学生のころ同学年の学生でアマゾンに行った人がいました。
彼はアマゾンに行った時に自分は何にも地元の人にギブするものはないということで戻ってきて横浜市大で医者になって、その医療技術を持って行っている。そういうリアクションはすごいなと思うけども、あっけらかんとしてね、本当に素直なよそ者が入って行って、地元の人が全然価値置いていないものを面白がったりって、それはすごく大事なんですよ。そこは肩身を狭くしなくていいと思います。
僕自身第1冊目の本の冒頭に、今から農村のことを書くけども自分は農業のことを知らないと。農村育ちじゃないと最初宣言しているんですね。そういう人間のレポートですと。僕はそれでいいと思ってますから。いや、答えになったかどうか分かりませんけども。
飯嶋:どうぞ。
小國:香月先生ご自身のお話が出たので、例えば香月先生が宮本常一から引き継いだお写真を『写真景観論ノート』という形で出しておられるんですが、私が例えば開発実務家指導の目線であれを見ると、ものすごくプラクティカルな、農村現場に出会う仕事をする人はこういうものの見方を知りましょうみたいなものの実例として見えてきて、すごくそういうものとして読んだり、読ませたりするのですが、どういうふうに書かれたのかなと思って。
香月:あの本自体をですか?
小國:そうですね。
香月:あれは僕の中で未消化だったものをそのまま出しちゃったって感じなんです。社会に投げ出してみよう、って。
小國:そのように書いてありました。
香月:宮本常一って10万枚写真写していますけどもね、ほとんど人を写したものは比率的に少ないんですよ。問題として切り取ろうとする風景の中に雑念が入ると、言ってました。
ただ、僕自身が宮本常一に対して景観で一番ショックを覚えたのは、目の前にとにかくどこのものでもいいから国土地理院の航空写真1枚あるとしますね。それ、ネタに3時間か4時間話すんです。
「先生、これ、どう読みますか?」ってパッと見せたら、ずっと見ながら「こことここはおそらく中世の後半に開けたんだろうけども、村落構造が違うよ」みたいな。「何でそう思うんですか?」みたいなことを言うと、ずっと判断する判例を続けて下さるんですね。
宮本常一は晩年にアフリカ行くんですよ。帰ってきて電話いただいて、「アフリカで写した景観のスライドあがったからちょっと見に来い」と言って、部屋で白い紙貼って写しながら、日本の風景の解釈だったらアフリカのこの景観はこんなふうに解釈できるという。でも、実際どうなんだろうという、とか、2時間ぐらい話してくれるけど、多分、僕、それ吸収できたの2割あるかないかでしょうね。熱気だけ吸収して訳の分からない興奮で帰っきました。
景色ってのはそこに人間の意思と権利が潜んでいるから、それ、どう読み取り得るか。前もって文献資料でその土地のことが分かって、それがこうだよという読み取り方ではなくて。
僕は、それをどこまでやれてます、でもどこからはやれませんというのがあの本なんです。完全に吸収してたら僕は自分の本としてそういうことを書いています。だから、あの本はいかに溝が大きかったかという。でも、あの写真は僕の私蔵にするのではもったいないから、不特定多数の方にとにかく手渡しておこうという意図なんで、あまり突っ込まれると化けの皮はがれちゃいます。
小國:今伺って思ったのは、逆に宮本常一の膨大な蓄積が全てそこで書かれているようなものならば、簡単に、国際開発の実務家に紹介して実践書として使う、というようなことは難しかったのではないかなとも思いますし、私のようなものが、さらにそういう目線を持たない人と一緒に読み込むことは決して無理だったと思うのですが、そういう意味では、香月先生の手を経て世に出していただいたおかげで、私たちのように素人でもその入り口に立てるようなふうに読ませていただいてありがたいと思っています。

飯嶋:僕から。僕がやっぱり宮本先生の話を聞いてあらためて思ったのは、生き方が確かに実力がある人だ、融通無碍にアドバイスをしているっていうことなんですよね。だから例えば、観光なんかは離島振興法の時なんかものすごい反対しているのに、今の鬼太鼓座ではそれを薦めていますよね。
香月:地域がイニシアチブ持つべく動いているから。昔は、宮本先生は佐渡の観光対策をぼろくそたたいていました。というのは、あそこ、金北山ってすごくいい山があるんです、キャンプができる。昭和30年代かな、佐渡が観光開発やった時に夏休みになるとね、地元の小中学生はあの山に入るなっていうお触れが出てたんです。観光客の邪魔になるからです。宮本先生が「植民地じゃないんだよ」と書いてました。今、地元がイニシアチブ持ってやっている。佐渡はそれだけの力がありますから。
飯嶋:僕、何となくの担当っていうのは、さっきの言ったフィールドホーム、エデュケーションで言ったら、ホームで何やっているかっていうので、それは宮本さんの場合はもちろんそういうのが融通むげにやっているから、あえて切るのは変な感じもするっていうのでよく分かって上で、ちょっとあえて3つだけ端的にお伺いしたいことがあるんですけど。
1つは、ホームに帰ってきてからの表現をいろいろどういうふうにするかっていうことが僕らの議論してた中で1個文脈としてあったんですけど、例えば『忘れられた日本人』1つとっても、あの中には後の人類学で多声性って言われるようないろんな表現を取るっていうのは全部出ているっていう感じがしたんですね。あの話題を聞いた時にいや、それ宮本先生やってたじゃんみたいな感じなんで。
1つ聞きたいのは、だからそういうふうな書き方は宮本先生自身はある程度何か意識してやっていたのか、それとも素材をそのまま自分がそれほど内省もせずにやっていたのかっていうのは1点目聞きたいことなんですね。
2点目は九学会連合と八学会連合とか、要するにそういうふうな生活が確かな人が学者の人たちと一緒にやった時に、研究を、その人たちにどういうふうな視線を送ってたのかというのが2番目。つまり、これは他の人たちが今多分野連携とか、学際的とかと言っているのの宮本常一はそういうのでどういうふうにしていたんだろうというのを聞きたいというのが2点目なんですね。
3点目は僕、水俣もやっているので地元学、結城さんも結城さんでやっていますけど、吉本さんたちもやっていますけど、僕はね、あれはあれで入り口はすごくいいんだけど、もう一歩なんだよって感じがしてるんですよ。
話聞いててちょっと思ったのは、宮本さんの場合はやっぱり融通無碍にやってんだけど、地元学なんかやっぱりちょっと硬直化しちゃうようなところがなきにしもあらずなのかなという気もしているんですが、香月先生はちょっとそれ、自分の視点の中で地元学について何が違うんだろうっていうことを思っていることがあったら聞かせていただきたい。この3点をお願いします。
香月:最初の問題は宮本常一の場合は、これ、宮本常一だけじゃなくてそういう人、他にもいると思いますが、思想って語り口の中にある。最初からそんなふうに思っていたと思います。語り口自体が、展開性自体が思想なんだと。だから、表現スタイルの中に本質がある。これはさっきの山口昌男さん、坪井洋文さんたちの本、あの方の中にも宮本常一の評価として表現方法の中に思想、視座を埋め込んでいるみたいな、そういう指摘があります。だから、それは論文とか、レポートとか、エッセイとかは全然意識していないと思います。
それから九学会連合とアマチュアうんぬんに関しては、僕は仄聞ですがひどい目に遭った話をよく聞いてます。東大に地理学の先生がいて、その方に会いに行った時に、その周辺のある人が、民間のそういう訳の分からん者が来ることを快く思ってなくて、目の前でこれ見よがしに強い音でドアを閉めたとか、そういう話は聞いているんですよ。ただ、宮本先生本人からではなくそのまわりの人から。宮本先生はそんなとこに本質をみていませんでしたから。
それから地元学に関して言うと、その土地の人間が土地のものでどうやって食っていくかというのが基本的にベースなんですね。だから、例えば有明海で漁業が立ち行かなくなってミカンを植えたと。漁村が農協を作ったとか、それから山古志で棚田にニシキゴイ飼って農民が漁業組合作ったとか、そんな例をものすごく喜んでいたし評価してんです。「それでいいじゃねえか」って言ってね。
宮本常一が亡くなった後、そういういかがわしい面白い地域の動きっていくつも僕は見て、これ、宮本先生がこれ見たら相好崩して喜ぶなとか、膝を打って面白がるなというのがいくつもあったんです。で、そういうところは別に宮本常一から指導を受けたところではない。
そうすると、僕が最初の問いに戻りますが、宮本常一という言葉で言っているのは何だろう。宮本常一という言葉に収れんされちゃうと、逆にそれは見えなくなる。だからそれが1つの地域において自主性というものがどういう展開をしていくのが健全なのか。そこが基本軸でしょう。
飯嶋:ありがとうございます。次、亀井さん、お願いします。

亀井:亀井と申します。応答人類学のコアメンバーの1人です。私は教育とか、あるいは成果の関連とかを通じて研究者が視点とか、方向とか、成果とか、あるいはフィールドワークを通じて研究内外の人といかにつながりあっていくかということに一般的な関心がありまして、2つお尋ねしたいなと思っています。
1つは民具を何万点も集めてものをして語らしめるという、物質文化研究とか、私がこれまで学んできた生体人類学とか、ものをして人の姿を語らせるというそういうスタイルっていうのはとても特徴的だなと思ったんですけども、そういう彼の独自のはみ出したやり方というのは、その後これは多分1つの教育的な影響の在り方だと思うんですけども、どういった人たちにどんな形でこんにち受け継がれ続けているかなということに1つ関心があります。
彼は大学に勤めることはあまり潔しとしないというふうな感じで、ごく短期間に関わったとは思いますが、大学にいる、いないにかかわらず、その方法に薫陶を受けた人っていうのは結構いたのではないかと思いますので、その辺も何かあればお話をお伺いできたらと思います。
もう1つは、調査で訪れた村々の人たち。本当に津々浦々泊まり歩いてさまざまなものを集めてということで、ものにせよ、写真にせよ、膨大なコレクションがあるわけですけども、その調査に行く先々で協力した多くの人たち、村で生活する人たちですね。そういった人たちはどういう気持ちとか、関心とか期待で訪れてくる宮本を受け入れていたかとか、あるいはそういうふうに投げかけられる村の人たちへ期待に彼自身はどういうふうに応えようとしていたか。
もちろん研究者であり、もの書きでもありということで、研究成果をどんどん文字として、あるいはさまざまなコレクションとして成果を社会に残してきた人だとは思いますけども、当の具体的に民具を提供した人とか、彼を受け入れて泊めた人とか、そういう人たちとの具体的な付き合い方、期待を投げかけられ、あるいはそれに対してこうし、というような双方向なやりとりっていうのは具体的には現場ではどうだったのかなというとこに関心があります。
香月:最後のはすごくケースバイケースだから答えにくいんですけれども、「自分が付き合って連絡取って自分を分かりあってくれてる人は、全国で数えたら3,000人はいる」とは言っていました。この後があるんです。それね、「大学の教員になったら実際のそういう付き合いの幅が1/3に減った」と言って。在野の時はそれが頻繁にネットワーク動いてたと。
だから「大学すっとんきょうなやつが出ねえと駄目だぞ」とは言っていたんだけれども、同時に「そういうことに関しては大学って歩留まり悪いよね」みたいなことも言っていました。
だから、僕、晩年、亡くなる前の10カ月前くらいですが「1冊雑誌作ろうか」と言われたことあるんです。それ、今の先生の体力ではとても無理だろうと思って何も言えなかったんです。「今だったら読者3,000人は大丈夫なんだよ。だったら3,000部だったら雑誌できると思う」って。僕それはしなくて良かったなと思っています。
それからもう1つはね、宮本常一が相手にしたのは生産文化なんです。消費文化じゃないんですよ。消費文化になってくると宮本の方法論がどこまで展開できるかになるとね、これ、別のスタンスが要るかもしれない。でも今ね、生産文化に関しては多分教育の場でも先生自身がその教え方が分からない。
飯嶋:そうなんですよ。
香月:パッと、例えば今ごろの田んぼ見て、これ、大体田植え何日ぐらい前に終わったなってスッと分かる先生ってほとんどいないと思うんですけどもね。消費文化だったら記号論とか、いろんな世界観みたいな形でもやっていくから。
亀井:さっき3,000人とつながり続けていたという数のケースは、彼を受け入れて調査に協力し続けた生活者の皆さん、全国の人たちっていうのはどういう期待を彼に寄せていたんでしょうね。協力してもいいと受け入れる。
香月:自分の動きを信じてくれ応じてくれる存在でしょうね、おそらく。
亀井:信じる。
香月:あたりまえのことをあたりまえのこととして支えているものの的確な指摘、それを通して今と将来を洞察することの意味、そのレベルでのやりとりのつながり、でしょうか。
亀井:何かあったらすぐ来てくれる、実際に会える人。
香月:電話のアドバイスにしても、説明しなくてもその場の風景をイメージして本質がどこにあるかを見つけ整理して言ってくれているだみたいな。
亀井:はい。ありがとうございました。

飯嶋:50分というので10分ぐらい、あるいは15分ぐらいいいですかね。質問はなるべく端的にして話を聞くのをメインにしたいと思いますけど、一般にどの方からでも結構ですので質問、あるいはコメントがある方がいらっしゃいましたら挙手をして質問をしていただければと思います。
清水:一番簡単なことで。例えば、せこい人類学者が、例えば僕が人のふんどしで相撲をとろうと思って、彼こそはまさに正しい人類学の開祖というか、ご先祖様というか、と言った場合に宮本さんは「いや、そんなことない。嫌だな、止めろよ」って言いますかね。それとも「いいかな」って、鏡とすべき、あるいは人類学の1つの可能性というか、根源的な形がここにあるというふうなこと。鶴見さんの場合でも同じなんですけれども。
飯嶋:他人が勝手に期待して?
清水:ご当人は嫌がるかなと。
香月:僕は代弁はできないけれども微笑むと思いますよ。そう見てくれるかいみたいな感じで。
清水:それ、リアルタイムでの扱いがね、例えば大学のいわゆるディスプリントしての人類学とか、それは鶴見さんに対してもそうだし、宮本さんに対しても必ずしも温かかったりしたわけではないと。そういう愛と憎しみと恩しゅうを超えて、今、孫たちの世代がそういうふうに言うんならいいかなというふうに言ってくれるかなという。
香月:かなり長い時代、素人だという目でフォークロアの学会の一部の人から見られていたのは確かです。
飯嶋:すごいですよね。
清水:またフォークロアと人類学、またちょっと違うし。でも、例えば彼がやったことは今すっごいはやりのマテリアルカルチャーとか、マテリアリティとか、ものと人とのネットワークとか、すっごいこざかしい議論が宙返り2回転半何とか、ウルトラCみたいな議論があるんですけども、この流れを全く受け継いでいないんですよね。
香月:それでどちらかと言うと、ものすごく大ざっぱに言うと、京都学派と一番僕は共鳴してたんじゃないかとは思います。
関西での、魚澄惣五郎さんとか、そういう方との交流もベースになっているんでしょうね。だから東京の研究者というよりもまず京都の人たちに対しての。東京の東日本の研究者というのは、近畿圏をきちんと知らないということがものすごくハンデになっているということに気が付いてないと言ってたことがあります。
清水:海面より向こう見ている人多いですから。
香月:あと宮本常一が、東京の学者の中で一番評価してたのは守田志郎さんの先生。
清水:古島さん?
香月:古島さんの評価はすごく高かったと思います。
清水:ありがとうございました。でも、勝手に人類学の祖先だということで。
飯嶋:勝手に「自分は宮本の弟子だ」って言った人を笑った人ですから大丈夫なんじゃないかと。
香月:すごくいろんな解釈してくれて喜んでくれていると思います。
飯嶋:その他にいかがでしょうか。赤嶺さんも何かあったらいいですよ。
赤嶺:いやいや。今聞いちゃうと、あと話すことなくなっちゃう。似てるなと思いました、鶴見さんと。
飯嶋:どうぞ。
フロア:よろしいですか。実は突然参加させていただいてありがとうございます。私も国際開発の世界にずっとエントリーしてやっているんですけども、ちょっと今質問したいのは、結局宮本常一さんを育てた土壌というのがすごい大事だと思うんですよね。
私、今、農民運動をやるにあたって、ちょっとそこを突き詰めてみたりする時に、結局戦前・戦後の流れって言うと、渋沢さんにというか、キーパーソンに常一さんがいて。
私は戦前の農法主義とか、農業政治、あと、常一さん自体も私もまだ読んでいるところなんですけども、大規模な地域開発に対してどういうふうなコミットメントをしたのかとか、結構要するにいかがわしいことを私やってたんじゃないかなと思うんですよね、見てないところで。
あまりに本だけ読んでいると、小農というか、小さなところがやっているんだけれども、もっと農政的なところでもね、何らかのコミットメント、調査でもやっているのは分かっているんですけれども、もうちょっと政府に近いところにいたんじゃないかなっていうような気がするんですけども、そこのところは身近で見ていた香月先生に聞きたいなと思って今日来たんですけども。
香月:離島振興法の成立は宮本常一の調べたいろんな離島のレポートが、どこかで参考にはなっているとは思いますが、でも問題提起はずっとし続けて批判はするけれども、法律自体をいじる立場にはなかったはずなので。それは離島振興協議会の大矢内さんあたりがよく御存知かと。私は詳しくは知りません。
フロア:(講演の中で言及してましたが)生態学ってどんな感じの学問なんですか?
香月:聞き書きをひとつの軸として民俗学をやってきた者からすれば、まず、生態学の持っている「機能」というものへのアプローチ、「機能」という概念の用い方って、刺激的なんです。すごく新鮮で魅力があるんです。どこか対象を突き放しているようで、でもきちんとそこに入り込んでる。
飯嶋:いや、あらためてありがとうございました。この熱を冷ますために3時まで休みにします。ちょっとトイレ休憩しましょう。

***
ベトナマコスの遺産−−−−鶴見良行の今日的意義と課題 赤嶺 淳

ベトナム、ナマコ、ココス。いずれも、鶴見良行が入れ込んだテーマである(『ココス島奇譚』(1994)は未完)。むろん、鶴見の代表作は『バナナと日本人』(1982)でもあるし、『マングローブの沼地で』(1984)や『海道の社会史』(1997)をあげる人もいるかもしれない。本発表では、鶴見が「自身で見たアジアを鏡に「日本の近代」を捉えなおし、その未来をアジアの人びととともに変革しようとしていた」との仮定にたち、鶴見アジア学を運動論的観点から読みなおしてみたい。発表者は、1980年代末に晩年の鶴見が組織した市民研究「ヤシ研究会」に大学院生として参加した経験し、1992年4月に術後の鶴見とマレーシアのサバ州を歩いた経験をもつ。当時の記憶をたどりながら、鶴見が「市民研究」に託した思いを反省的に考察の対象とし、一貫して「モノと人が越境」する動態を描いてきた鶴見のアジア学の視点を再評価するとともに、「グローバル時代のアジア地域研究」のあり方、その意義・課題について試論をのべてみたい。

□ディスカッション
飯嶋:面白かった(笑)。
清水:1つ発見があったんだけど、赤嶺さんの話を聞いてて、語り口とかフォークシンガーの南こうせつにそっくりなんですね。
赤嶺:大分県っぽい。
清水:大分県人、そうだったんだと。
赤嶺:丸眼鏡にしないといけない。
清水:語り口とその顔つきと雰囲気かな。
赤嶺:そんなの言われたの初めてですよ。ありがとうございます。

飯嶋:そこと重なるのは世代ですよ。いや、面白かった。さっきと似てて役割がちょっと決まっているのでコメントを小國さんの方からお願いします。
小國:ありがとうございます。さっきちょっとコメントで自分の話をしすぎたので時間を短く質問したいと思います。1つ目はバナナ・エビ・ヤシ・ナマコもそうですけれど、共同研究には適した素材があるっていうふうに先ほどお話で出たんですが、そこをもう少しちょっと掘り下げて、最後におっしゃったバナナやコーヒーに触れることの危うさみたいなものも含めて教えていただきたいというのが1点目です。
2点目が、実はそれとすごく関連しているんですが、先ほどの宮本常一に関するお話で思想から研究へという話がありましたし、鶴見先生は本当に運動体のような存在というふうにも見えると思うんですね。そう考えた時に、ものを取り上げる「もの」研究において、何を取り上げ、誰に対して、何に向けて、というところで、何を取り上げ、誰に発信していくのかっていうのはある意味すごく政治的な判断であると考えられるんですね。
なので、そこは、取り上げられた「モノ」が、どのような鶴見先生ご自身の議題に関しているのかという点を伺いたいです。ベトナム戦争が原点のひとつであるというようなことはある程度想像がつくのですが、そこを確認したいというのと、むしろ、赤嶺さんご自身がどういう政治性を持って「モノ」を選ばれているのかということをお聞きしたいです。
どういう思想の下にクジラなのかっていうところを。
赤嶺:ありがとうございます。
小國:お願いします。
赤嶺:最初の点ですね。やっぱりバナナっていうのは両方ちょっと重なっちゃう答えになっちゃうんですけど、非常に戦略的だったと思います。僕、今日持ってきたか、昨日カットしたかちょっと定かじゃないんですけど、鶴見さんはまず最初にバターン半島というフィリピンのマニラ湾の端っこにある保税特区っていうのかな、輸出加工区っていうんですか、そこの車の問題をやるんですよ。でも、全然受けない。経済学者には評価されたって喜んでた。石川滋さんから褒められたとかですね。
でも、全然それで日本の問題とつながらないっていうか、広まらないことにフラストレーションがあったみたいで、もっと世に受けると言うとちょっとゲスですけども、自分は車でも何でもいいわけですよね。日本と東南アジアの、あるいは日本とフィリピンの関係を伝えたいがために保税特区・輸出加工区の問題を取り上げたのに、全然違う形でしか流通しないことにちょっとショックを受けた時に、じゃあということでバナナ。それ、たまたまうまくいったと思うんですね。
これ、アジア太平洋資料センターが「次、何をやりますか?」っていう時にエビ。エビはもうちょっと複雑なんですよね。養殖もあれば底引き網で取るとか。生産地もフィリピンだけじゃないですから。日本の中に入ってきてもカップラーメンの干しエビから、冷凍のでかいのからいろんなタイプのエビがやっぱり非常に複雑になった。
ヤシの場合はヤシのまんまで入ってきてないわけですよね。油としてだから、それがマーガリンになったり、洗剤になったりとか、カップラーメンの麺を揚げる油になったりとかなので、やっぱり分かりやすさが必要じゃないのっていうところだと思います。
僕、さっき言ったように、バナナと同じぐらい分かりやすいっていうのは、コーヒーなんですね。エビよりも簡単。コーヒーだって、いくらインスタントコーヒーだって、あれが熱帯から来ているのはみんなが分かっていることで、しかも大体、豆も写真見たりでイメージつくじゃないですか。しかも、大学の教材として考えれば、フェアトレードみたいなのはみんなとっつきやすいですよね。だからそういうことを考えた時に、コーヒーっていうのはいいんじゃないかなあなんて僕は思ってます。それはやっぱり分かりやすさです。
逆に危うさは、先ほど申し上げたように、まず現場に関心を持つことだと思うんですよね。私、前名古屋にいた時に、2010年ですかね、生物多様性条約の会議がある時に、名古屋市の大学にいた関係で、いろいろフェアトレードタウン構想みたいなのを、学生を交えて「やりなさい」っていう上意下達で会合に出させられた時に、名古屋市の学生がいて、いろんな話聞いて「ふーん」とか言って「偉いね」とか言って、ある程度までちゃんと話聞いてたんですよ。「ところで、現地に行ったことあるの?」って聞いたら「いや、私はフェアトレードタウンに興味があって、別にインドネシアとかどこでもいいんです」っていう話を聞いた途端にブチッて。

そこでこれは駄目だって思って、「ちょっと僕、用事があるんで」って席を外したんですけど、やっぱり関心を持って現地にまず行ってほしいですよね。行くのも今、大変なんですね。逆に行って、鶴見さんが苦笑いしていたのは、ミンダナオに行って搾取の現場や農薬の現場を見ると、「これは食べちゃいけない」っていうふうな過剰反応になっちゃう。その悩ましさっていうのがあるということですよね。
あるいは「左翼観光ルート」っていうふうに自虐的に言っていましたけども、フィリピンに行く以上、スモーキーマウンテンというスラムに行かないといけない。しかもスラムに行くと、子どもの目がキラキラしてたとか、必ずそういう印象ってみんな持って帰って来るじゃないですか。「それは違うよな」って彼は言っていたし、僕もそれはその通りだと思うんです。
どういうふうに仕掛けたら自分で自立してというか、インディペンデントに一人旅、バブル時代のわれわれのように、どっか旅行して何か面白さを見つけてくれるかなって思います。その仕掛けが、今は、もっと要るような気がします。夏休みはインターンシップに行かないと就職できないとか、そんなことばっかり言ってるでしょ? だから、それ、バブルの時代とは違うっていうのは、よく分かるんですけど、その辺をちょっと今悩んでいるところです。鶴見さん自身は、非常に戦略家でした。今言ったように非常に戦略的に構想してたと思います。
それ、私自身の問題に置き換えますと、私はそこまでまだよく俯瞰できていないですね、正直言って。ただ、私自身のスタンス、先ほど実は飛ばしたところがあって、知識人の役割の3つ目は「中立性」っていうことを書いてるんですね。私、今、水産庁の人と一緒に仕事しているので、中立とは言えないんですよ。ただし、クジラの国際捕鯨委員会にしても、ワシントン条約というナマコとか、マグロとか、絶滅の危機にひんしている動物を輸出入禁止しましょうという条約は国にしか発言権ないんですね。NGOは議場に入れますけども、最終的に交渉ごとというのは国家単位なので、そこに入れるというのは僕にとってはもちろん書けないことたくさんあるんですけど、知らずに書かないのと知ってて書かないとは絶対違うんですね。それ、皆さん分かると思うんですよ。
そういうこともあって、捕鯨もいろいろ悩ましいんですよ。ただ、冒頭に言ったように、私、捕鯨の研究するつもりはないので、捕鯨で何が言えるのか? そこでさっき中途半端になっちゃいましたけども、マーガリンが植物油になったっていう、われわれの生活様式が大転換ですよね。冷蔵庫の普及だとか、その後電子レンジが普及して、それが5割超えるのは87年だったかな。
そういう時にどんどんどんどん油の使用が増えていくわけですね、冷凍食品が増えるとか。そういう生活の変化の中で環境保護の問題を考えたいとか、そっちにあるので戦略というほどではないですけども、クジラのことは知らなくちゃいけないけども、それを研究したら、例えば国際関係論とかの人と全く一緒になっちゃうし、それこそ賛成・反対とか変な方に絡めとられちゃうかなっていうところで、捕鯨で何が言えるのかというところに今いこうとしているところです。
それがスタンスと言えばスタンスですし、それしかできないかなっていう気はしてます。あと、私はもちろんプロ・ホエーリングなつもりなんですけども、今、調査捕鯨になって30年なんですね。87年からですからほぼ30年。でも、商業捕鯨のことを知っている人ってまだまだ元気でたくさんいるんですよ、70代、80代。その人たちに商業捕鯨の時代の話を聞くっていうことを、やっていまして、それは白か黒かっていう議論の中で、結局反捕鯨のNGOの人とプロホエーリングの役人だったり、業界団体の人の話しか出てこなくて、本当の当事者っていうのは出てこないので、引退した人は結構しゃべってくれるんですよね。
その人たちの聞き書きを、いま、一生懸命やっているところです。これも記録するっていうことだけではなくて、そこにやっぱりヒントあるかなっていう。僕、面白かったのは北九州の旦過市場でクジラ屋さんって200メートルぐらいのところにまだ2軒あるんですよ、クジラ専門店ですよ。
その人たちに聞いてると、昔は朝起きて20キロぐらいパン屋に運んでた。パン屋さん?ピンと来なかったんですよ。クジラカツです。カツサンドっていうのはクジラだったんだっていうんですね。びっくりして。私、大分だから分かるけど、小倉っていえば福岡第2の都市だし、香月さんあれですけど。「えっ? カツサンドって、ここでも豚じゃなかったんですか?」っていうぐらいの驚きで。

だからそういう僕らが知らなかったことがやっぱりあるっていう当たり前のことですけど。そういうのをちょっと今肉声で記録することから、自分の生きていた時代なんで、それを相対化できたら自分の研究としても楽しいし、それが何となくつながるんではないかなという、そういう狙いというか、何となくのあれを持っています、展望です。

飯嶋:僕はさっきの続きなんですけど、僕は研究行って帰ってきてからどういうふうにしてそれを足元で展開するのかっていうのが、何となく質問の時の役割になっているんですけど、その話にいきなり行く前に、僕はやっぱり鶴見さんの本を人類学の議論を聞いて、Multi-Sitedっていうのを聞いた時に、それ、鶴見さんやってるんじゃんって思ったんだよね。
赤嶺:そうなんですよ、ね。
飯嶋:それでいいんだけど、別に、評価されたくてやるわけじゃないからいいんだけどと思ったっていうのは、鶴見さんを思った時の一番最初にやっぱり思い出すことです。聞きたいのは何かって言うと、ほぼ今回もこの中に出てきたんですけど、やっぱり僕は『バナナと日本人』を出した時に、どうすればいいかっていうのは鶴見さんは考えてなかったんじゃないかと僕は思っているんですよ。
その時にところが出した時のリアクションがさっき書いたような、買わないっていうのが出てきたりっていうような。その時に僕は選択肢は開かれてたんだと思ってて、つまり文化を知っていくっていう路線でやっていて、伝道者なんだっていうふうにしてやっていくのと、あと、やっぱり言えるかな、言った方がいいかなっていうのは、晩年になると「伝道者です」ってのははっきり言っているんだけど、だって例えばみんな伝道者になっちゃったらどうするんだよっていうような、その時に鶴見さんって個人としてだから、いや、みんな伝道者になったら世界良くなるんじゃないって楽観するような人だったのか、それともやっぱりこういうとこに行く時に、ぎこちなさが自分の中であったのかなっていうのが気になっていることで。
僕なんかやっぱり教員なんかになってなかったら、その話を共有できる人と「この問題、ちょっと俺も困っているんだよね」みたいにしてやって、やっていたんだけど、教員になるとさ、やっぱり教える立場になると悩むじゃない、やっぱりこの立場って。つまり「何か問題があります」って言って止めるとどうなるかって言うと、学生って「自分たち個々で考えなさい」って言うと、苦しいまんまだとそのまんまフェードアウトするじゃない。解決が見い出されると。
だけど代案して「こういう方法があるんですよ」って言うと、そっちの方にみんな行っちゃうじゃない、今度。それで鶴見さん的なのはだから苦しさを入り口にしながら楽しさに行ったんだと思うんだけど、楽しさに行くと今度僕もそういうふうな形で学生に話すと、楽しさの方に流れちゃうんだよね、やっぱり学生って。
この辺で葛藤ってなかったのかなっていうのがもし知っていたら教えていただきたいのと、あと、ヒントになるのかなと思ったのが村井さんとの付き合い方なんですよね。村井さんってやっぱり鶴見さんとちょっと違ってて、運動性が最後までちょっと強かったと思ってて、企業を批判する時も具体的な名前を露骨に出していろんなところで言うしっていうような。ああいう伴走者でいながらちょっとスタンスが違うようなあの人に、鶴見さんってどういうスタンスだったのかなっていうのは、それの考えるヒントになるかなと思ってて、その辺をもし知っていることがあったら教えて。
赤嶺:ありがとうございます。鶴見さん自身は僕、彼はやっぱりブッキッシュというか、めちゃくちゃ本を読むんですね。あの人、アメリカでの生活が長いので英語も全然不自由しないし、何でそんなこと知ってるのっていうのをちゃんとどっから持ってきて、ここに書いてあるだろうみたいな。
基本的にはいわゆる人類学的なフィールドワークでどっぷり浸かってそっから見えてくるものから議論じゃなくて、ある程度見通しを持って確認をしていく感じが僕は強かったと思っています。だから逆に今飯嶋さん言ってた、帰ってきてからどう展開するかっていうのはある程度見通しがあって行く。その過程で文章を肉付けするのは現地での経験とかですけども、それが1つですね。
彼自身「定点観測」とか、「時差観察法」と言っていたんですけども、長期に行けない分、毎年夏休みに同じところに行ってその変化を確認する。彼は英語はめちゃくちゃできたけど、インドネシア語はできるわけじゃないし。村井さんと一緒にインドネシアとか行って、まさに共同研究なわけですよね。
バナナに戻りますと、おそらく鶴見さん自身は考えたかもしれないけど、食べるなとか、そういうことは食べろとも、食べるなとも考えてなかったかどうかはちょっと分かんないですけど、多分伝道者というのは意識してたと思います。ただ、これほど反響と思っていなかったと思います。
飯嶋:なるほどね。
赤嶺:「もの研究」って言い方も彼自身がどっかで言い出して、この時点で言っていなかったみたいですね。そういうバナナを通して世の中が見れるという目的はここまでなくって、それでうまくいったんで、次はエビだっていう、そんな感じだったんですね。

清水:裏話なんですけど、彼は自分でバナナの生産現場に突っ込んで行ったんじゃなくて、国立フィリピン大学の社会学教授のランディ・ダヴィットのグループがそこの第三世界研究センターでかなり実態調査をやってデータや情報もあって、大きな見方もある時に、まさに学際的な共同研究というような感じで入っていて、現地へ案内してもらい、現状を説明してもらって、村人の話を聞くときには通訳もついて。
だから彼は、日本でもフィリピンでも学会でも、その生活世界のただなかにいる当事者ではない自分、そこからの距離を常に意識せざるをえないマージナルマンであることを強く自覚してたのだと思います。だから謙虚であり、でも同時に、マージナルマンだからこそ見えること、距離をおくことで見えてくる全体像やら大事なポイントを口に出して語り、活字にして伝えなくてはという役割責務の自覚があったのだと思います。そしてフィリピンの田舎の人びとの暮らしが、すでに、もはや日本人の食卓に直接につながってしまっているのだから、日本人の意識もそのつながりに目を向け、考えるべきであるという確信があったと思うんですね。
赤嶺:そうですね。アビナレスさんたちはリサーチアシスタントでバナナ園に行って飛行機で農薬浴びたと言っていました。
清水:そうですね、ランディ・ダヴィット教授のところに左翼系の院生・学生が集まり、リサーチアシスタントになって研究と社会運動をつなぐような現地調査をする。アビナレスさんご自身もミンダナオ島出身でマニラに対する距離感とミンダナオへの愛着がとても強い。当時は、フィリピン大学の政治学科にいて、フィリピン大学の学生新聞Collegianの編集長をしたりしていました。その後にコーネル大学に留学して博士号を取得し、同じ東南アジア研究プログラムで学ぶアメリカ人女性と結婚する。お二人は、その後、京都大学東南アジア研究所のテヌア教員となり、研究所の国際化、ネットワーク拡充、英語発信で大きな貢献をしてくれました。いずれにしても、鶴見さんは、フィリピン側のキーパーソンのランディ・ダヴィッド教授とつながり、教授や第三世界研究所の若手スタッフの協力を得て、調査・研究・社会運動を進めていったわけですね。鶴見さんが、フィリピン側のそうした動きをふまえて、日本の学会ではなく、一般の人たちに伝えようとされた意図と努力はとても大事で貴重だったと思います。
赤嶺:これ、戒厳令下でやってたわけですから、やっぱりそれなりの覚悟がフィリピン側にはあったし、外国人だからうまくやれたっていうとこもあったと思うんですね。その辺は僕も本当に自分の中でこれから詰めなくちゃいけないところなんですけども。
清水:それは、パク・チョンヒ(朴正熙大統領)の時代のTK生(仮名)という韓国人の場合がそうですよね。彼は、パク・チョンヒの開発独裁の時代の韓国の政治・社会と人びとの暮らしの実際について、「韓国からの通信」と題するレポートを、1970年代の半ば頃から1980年代の終わり頃まで岩波の月刊誌『世界』に連載していました。私が大学生だった頃で、とても強い印象というか、衝撃を受けてました。後に宗教政治学者の池明観が名乗りでて分かるのですけど、彼は、東京女子大学教授として日本にいて、主に教会のネットワークを通じて牧師さんらが持ちだした資料や情報、インタビューをまとめていたんですね。韓国にいて、運動の渦中にいたら、もちろん、そうした活動はできません。東京にいて、距離を取れたから、現状の細部にわたる資料や情報をみながら、全体的な社会政治状況を分析できたんだと思います。
やはり、外部世界の関心の持続と注視、モラルサポートが社会・政治運動では重要なんだろうなと思います。その意味で、鶴見さんも重要な役割を果たしたベ平連というのは、学問と社会とのつながりいうか、調査・研究と運動の関係について、われわれが「応答の人類学の先達」として学ぶべき先輩のお一人という気がしています。
飯嶋:村井さんなんかにあれかね、役割分担的に考えていたのかね、何か。
赤嶺:村井さんはやっぱりインドネシアに根っこがあるっていうか、2年間びっちりいたし、だから最終的にはインドネシアのいろんな政治のことにも発言を一生懸命されていましたよね、開発の告発とか。
さっき言ったように、地域がなかったって言うと失礼だけど、やっぱり村井さんはあるんですよ、戻るべき自分の村みたいなの。鶴見さんは、それがなかったので、フィリピンとか、東南アジアとか、そういうくくりでしか発言しなかったと思うんですね。
鶴見さんと村井さんっていうのは20歳ぐらい違うんですかね。だからエビについて書く時は村井さんねっていうのは、最初っから決めてたみたいですね。あれはやっぱりトロールの問題があって、環境被害とか、マングローブの伐採っていうのもあるんで、「いい加減エビ食べるの止めたら」って、村井さん書いているんですね。
それをめぐって結構ディスカッションしたとは言っていました、どこまで書くかっていうことで。それは聞いたことがあります。「僕はバナナには食うとも、食うなとも書いてないよ、それはそうだろう」っていうのはここにある感じで言っていましたけど。
でも、その辺はもしかしたら村井さん自身の自分のもちろんポリシーもあって書いたんだと思いますし、僕、実は村井さんはあんまりお付き合いなくて、私、ナマコを一生懸命やっている時にいつも後ろから冷めた目で「そんな好事家なことばっかりやってていいの」って視線を感じたんですよね。それが怖くてなかなか村井さんには言えなかったんです。
清水:村井さんはご自分のフィールドを持ってらして、民族誌というか彼自身が生活誌と呼ぶものを書いているし(『スンダ生活誌』)、また今流行りのmuti-sitedあるいはmulti speciesの民族誌といえる『エビと日本人』を書いていますし、だから彼も鶴見さんと同様に、社会問題と積極的に関わりある、「応答の人類学」を試みた人といえるんじゃないかな。鶴見さん村井さんを直接の先輩であり先達であり、赤嶺さんご自身もそのお二人を身近に見ながら、敬服敬愛し、従い時に反発しながら自己形成をしてきました、お二人は自身の導きであっただけでなく、人類学の開放=解放を少々早すぎて、またそれと意識せずにやっていったと言い切ったほうが、われわれが刺激を受けて、必死に考える契機になるような気がします。
先ほど香月さんにも、「宮本さんは人類学者だって言ったら嫌でしょうか?」っていうのをお聞きしたのは、僕自身は結論出ていて2人共人類学なんだと、と勝手に決めているからなんですよ。そのお二人を人類学者というふうに捉える、あるいは勝手に解釈することによって人類学が面白くなる。特に鶴見さんと村井さんは、私にとってとても重要なんですね。というのは、70年代から90年代にかけて、日本では山口昌男さんが大スターで、記号学・解釈学の人文学が岩波をはじめ出版界とマスメディアを巻き込んで脚光を浴びていました。もちろん山口さん以外にも多士済済でした。でも、今になって後知恵で振り返ると、あの輝きは、高度成長からバブルへと豊かになっていった日本社会と表裏一体のものであった。高度大衆消費社会とは、記号の戯れに身を任せ、意味の消費に便益の満足を超えた快感を覚えるとか、という広告会社やメディア関係者のバブルへの乗りの良さに支えられていたような気がしています。でも、同時代の伏流水として、ベ平連から続く、もう一つの動きがあったというように思えるのです。その伏流水は、そろそろ地上にでてきてもいいんじゃないかな、と思っています。
もっとも、鶴見さんや村井さんのお仕事を、厳密な科学的(?)手法から価値判断する研究者のなかには、「なぜ2人が学者や研究者と言えるんだ。」とか、いろいろ悪口を言う人がたくさんいたんですよ。
赤嶺:分かります、分かります。
清水:学問的な手続きとして文字資料が十分でないとか、考証がなされていないとか、だから歴史学者じゃない、って言う人もいたけど、そう言われたら、歴史学でなくて結構です、人類学者として十分なお仕事です、って言えばいいんですよ。
ただ、そのようにあえて開き直って断言したときに、じゃあ人類学者って何だって言える必要があるんですね。いろんな定義ができるだろうと思いますけど、私自身は、フィールドワークをする現場を持っている、それをエスノグラフィに書くこと、この二つは基本的な要件だと思います。それで必要十分か、と挑発されたら、少々込み入った議論になりかねませんが、おおよそ、それくらいの説明でいいんじゃないかな、と思います。
赤嶺:そうですね。
清水:少なくともフィールドワークに関して「現地の言葉できなかったから人類学者じゃない」って言われたら、僕は北部ルソンの先住民・イフガオの調査を毎年15年続けましたけど、イフガオの言葉は結局は覚えられなかったんですね。冬休みや春休みを利用して、長くて1カ月、割りと多いのが1週間か2週間の滞在でした。ですから、最初は勉強したんですけど、すぐに覚えて、翌日にはさっぱり忘れている。ほんと言葉は若いときに身につけなければだめだぁ、50に近いおじさんに新しい言葉覚えさせんなよっ、ていう感じで開き直りました。私のフィールドワークは、調査助手や通訳を使わず、直接に会話するという流儀ですから、国語であるタガログで全部やりました。学校教育でタガログ語と英語をならいますから、というかそれで高等教育は行われますから、年寄りを除けば、皆、喋れるのですね。必要なときには、その場に居合わせた人や友だちに、イフガオ語とタガログ語または英語の通訳をしてもらいました。
だから鶴見さんの仕事は人類学者の僕の調査と同じだし、イフガオの前のピナトゥボの調査では初め1年半住んで、でも何か事件でも起こらないかぎり、ただただ単調な毎日を繰り返しダラダラと暮らしていただけでした。鶴見さんは、僕よりも年取ってるのにセンスがいいから、短期の滞在だけど、何ヶ所も見て回り、「マルチサイテッド・エスノグラフィの調査をした」って言えば、本当にね、彼こそこれからの未来の人類学を先取りした人類学者だっていうことになります。彼のお仕事を再読・再考・再発見することによって、応答の人類学の世界が広がってくるっていうことをすごい期待しているんです。
赤嶺:僕が「ありがとうございます」って言うのは変ですけど、鶴見さんは、これ、難しいんですけど、彼もずっとフリーランスでやってこられて、国際文化会館であれは親米の組織みたいなんで、アイハウス、インターナショナルハウスっていうのかな、英語では。やっぱりそこで反米を打ち出した瞬間、窓際族になっちゃうんです。
だからこそちょっと給料をもらいながら好き勝手できたんですけども、フリーランスで生きてきて最後60超えて大学に勤めて、やっぱりちょっとうれしかったと思うんですよ。
それを認められた。変な言い方です。こっから僕の深読みですけども、やっぱり親戚は鶴見和子・俊輔さんという、いとこですよね。素晴らしい知識人がいて、やっぱりそことのライバル意識っていうか、それは絶対あったと思います。やっぱり「俊輔から、この前褒められたよ」ってうれしそうに報告なんかしてました。「俺の書いたあれをね、結構、褒めてんだよね」なんて言って。だからその辺の大学っていうのはやっぱり俊輔さん・和子さんに褒められるとか、そういうライバル意識が当然あったと思っています。
鶴見さんが人類学者かどうかっていうのは、彼どう思うか別として、僕もさっきのアナ・チンの本を読みながら、これ、やっぱり一緒じゃんって思いました。共同研究とか、まさにそのとおりです。それは今でこそ、こうやってアメリカではやってて、その前の『現代思想』の特別増刊号でいろいろ出てますけども、「そんなの、前から、20年も前からやってんじゃん」っていう感じですね。「俺だってそうだぞ」みたいな(笑)。もちろん難しい議論はちょっとついていけないところもあるんですけど、それとは別にスピリットというか、精神は、まさにそのものですよね。それで人類学会が活性化するんであれば、私もちょっとぐらい貢献してもいいかなっていう、そんな感じですよね。
清水:これ、人類学の学会と縁がなさそうだけれども、マージナルマンとしてご自分を定義してね、例えば6ページに書いてある最後のところなんて「身体的な実践によって知識人もまた穴掘り職人や権力への助言者」と言ってます。人類学への自己批判を外からというか、中から問題化している、その前に代弁者ではなくて通訳、つなぐ人であったり、マージナルマンだったり自覚している。それは基本的には当事者主権、当事者の表象の権利を尊重するという問題と直接に関係しているんですよね。
現地のネイティブ・インフォーマンと外部からやって来た外国人の人類学者が、調査においてどのような関係をち、成果の本や論文・エッセーをどう書くかと。その問題を真面目に考えると、アメリカでは表象する権利の問題になってね、権利の問題と権利の行使の仕方でいかなる絵を描くかという風になってしまいす。弁護士がたくさんいるアメリカ社会だから権利問題になってしまうんでしょうけど、鶴見さんは、多分そのあたりの議論をずっとよく分かっている。それは表象や権利の問題ではなくて、どうせ僕はマージナルマンでつなぐ人なんで、だから、それを日本に伝える、日本と結んで問題の解決につなげてゆく、という風に考え、実行したんじゃないかな、って思うんです。ある意味では運動と結び付いて世の中良くするということに関わっているからこその実践とか、そういうことも含めて、応答の人類学を先取りしていたっていうふうに読み直したらすごい面白い世界が現れてくるに違いないと信じています。
赤嶺:だから僕自身よく分かって、そのマーカスっていう人も結構運動をやっていたみたいですね。だから同じ世代の人で。
清水:ベトナム戦争の時、青春を送った人の…
赤嶺:そうです。そうだと思います。
清水:良質な部分が。1番良質な人は大学辞めて、研究者を辞めて大学を去ってしまうんですね。これはアメリカの場合で、確か経済学者の佐和隆光さんが言ってたと思います。そして2番目に良質な人は大学に残り、辞めていった友人に負い目を感じながら、革命は無理としても、社会改良につながるような研究を模索するんですね。現状を、体制をささえる既存の枠組みを考え直そうとか。
赤嶺:だからやっぱりベトナムっていうのは大きかったんだな。
清水:大きかったですよね。
赤嶺:そこが僕自身のまさに身体的に理解できていないところあるんで、ちょっとそれが。ちょっとすいません、余談なんですが、ベトナムで言うと、前の大学でちょっと名古屋の大企業の人が非常勤理事やってて、どうしてもタイに学生を連れて行きたいと。その方は大阪外大だか、東京外大のタイ語学科を出てて、タイ語もとっても上手だし、個人的に少数民族を支援してきて「そこに学生を連れて行きたい」って言うから、教育担当の副学長が「ちょっと、赤嶺さん、連れてってよ」って言われて「いいっすよ」って行ったんですよ。
まず、下見にその人と2人で行ったんですけど、少数民族支援のNGOの簡易ベッドに寝ている時に「こっからベトナムの国境まで戦闘機だと10分かかんないんですよ」って。「うん?」と思ったら、彼はそこに行っていたんですよ。最前線。ベトナム戦争の、戦争の最前線に営業に行っていたわけ。その話に僕びっくりして、物腰も柔らかいし、タイ語も上手だし、タイのことよく知っているし、その温和な紳士と戦争というのが全然僕の中で結び付かなくて、ウワッという感じでした。それも含めて、やっぱりちゃんとベトナムのことを勉強しないといけないなっていうのがあるんですよね。
だから戦争、まさにさっきの捕鯨と一緒でいい、悪いとかじゃなくて、どういう形で関わってきたのかっていうことをちゃんと押さえないといけないなっていうのは本当に感じているんですよね。

飯嶋:僕のちょっとコメントは半分ぐらい教育に関わっているような感じだったけど、亀井さん。
亀井:2つ関心事があって、1つは例えばバナナやエビやそれぞれあるものに着目して世界を見ていく、感じていくっていう時に、ものへのこだわりっていうのは前半のお話と結構後半のお話に距離を感じたんですが、誰に向けて明らかになったものをメッセージを発していたのかな。
例えば、それこそ大学の初年時教育とかで『バナナと日本人』とか言って、私たちの身近な食物の背景がこんな抑圧がある世界が見えたのかっていう感じで、日本の特に若い読者なんかを啓発する上で、非常に効果のある実践だというふうな実感があるんですけども、それはやはり何となく食卓を囲んで知らずに過ごしている日本の読者を啓発するみたいな狙いがあったのだろうか。
それとも、やはりそういう構造を明らかにすることでフィリピンとか、東南アジアの人たちも含めた何か新しい社会を展望していて、そっちにも届けていこうという意思があったのかなっていうところがちょっと気になりました。
それからもう1つは、運動へのコミットの仕方ということで、実際平和運動ベ平連の運動とか、自由学校でしたっけ?アジア太平洋センター、立ち上げたりしている。かなり運動にコミった後に「私は調査報告書出すだけにする」っていうふうに言っていて、ある意味ストイックな自分のつながり方を律していくっていうのは、1つの潔い立場かなと思うんですけども、これはやはり相当暴れまくったと言いますか、活動を存分にやった上でのある種の身の引き方というふうに理解するのがいいのかな。それともやはり彼なりに実社会のコミットの仕方は、研究者としてやっぱり職能者でしたっけ?そういう領域に本業に立ち返るのが望ましいみたいな感じで変化があったのか。
つまりこれからも僕も調査法とか身に着けて世界に出ていくような時にも、やはり調査報告書を出すような禁欲的なスタイルを推奨していったのか、それともやりたい時は存分にやって、そろそろ体力も衰えてきたからそろそろ身を引こうかというようなモードでこの発言が出たのかどうだったのか。運動との距離の取り方。
赤嶺:ありがとうございます。最初は、これ、彼も笑いながらというか「いや、差別だよね」と言いながらですけど、基本は「女・子どもも分かる文章」と言っていました。すいません、女性の皆さん。だから大学ではないんですね。新書っていうこともそうだと思うんですけど、今、大学生でも新書なかなかきついかもしれない。高校生ぐらいまでを念頭に、高校生でも読めるっていうことを彼は意識していたと思います。思いますじゃない、そう発言してました。
その時にはやっぱり消費者一人一人が変わっていかない限り変わらないだろうという確信というか、信念があったと思うんですよね。「車、自動車の産業のことを書いても」っていうのは、その通りで、やっぱり車っていうのは大人なので子どもたちも含めて、あるいは家庭の主婦も含めて巻き込むには食材というのがぴったり来たという、狙っていたし、結果的にそうなったんだと思います。
運動へのコミットメントですけども、これはやっぱり日本の運動が弱いっていうことを勉強せずにデモでは変わらないっていうことは前から思ってたはずだし、そのじくじたる思いで俺はその代わり自分で調査をし、手の内も見せるし、アジア勉強会を私的にやるよと。だからアジア勉強会の中でデモもしつつ、一緒にやった人って結構いるんですよね。吉岡忍さんとか、足立倫行さんとか、あの人たちはアジア勉強会そのものかどうかは別として、ベ平連でずっと鶴見さんの周りにいた人たちなんですよね。
ですので、やっぱり日本の運動の問題点っていうのは、リサーチ力の弱さですね。それは今のNGOも、もしかして言えるのかもしれない。NGOもそうですよね。「反対」って言うだけではなくて、なぜ、どういう問題があるのかっていうことをちゃんと外務省に突きつけるぐらいのリサーチ力がないと力を持ちえないだろうっていうのはあったと思います。
亀井:ある意味で自分が調査をちゃんとやって運動に提供していくっていうのは、日本の運動が弱点を自らが補うんじゃなくて…
赤嶺:そのつもり。これ、50歳という年齢もあるので、身体的に疲れることもあると思うけども、やっぱり残りの時間何をするかってやっぱり考えた時に、デモだけでは世の中変わらないっていう、現実を直視した結果じゃないですか。
亀井:1つ目の方ですけど、誰にでも分かる身近な食材でっていうアプローチ、本当に分かりやすくて面白かったんですが、実際バナナやエビの生産に関わっている東南アジアの人たちに対して、あるいはそういう人たちと共に何かそういう成果を分かち合ったりとか、何か書き物でもいいし、ワークショップみたいな、当時でも、あるいは運動へのコミットメントでもいいんですけども、そういうような関わり方は残っていらっしゃるんですか?
赤嶺:そこが多分、村井さんとの決定的なちがいになりまして、村井さんは自分でエコシュリンプとか、向こうの漁民とつながって、エビを日本に入れるとか、自分でもやっているんですよね。ただ、鶴見さんの場合は、自分じゃないけども、その後ネグロス島の問題、サトウキビの問題があって、そこで農地改革の問題もあってエビができるとオルター・トレード・ジャパンみたいなところが関わるわけ。それはあくまでエビですから。
あるいはその会社がバナナを入れたりするんですけど、鶴見さん自身が売るっていうのもないし、これ、英語で『バナナと日本人』の大本の報告書はエスキャップか何かで英語で出している。アプローチ方法が、村井さんとはずいぶんちがうなぁ、って思います。
亀井:じゃ、私は。ありがとうございました。
赤嶺:あと、すいません。ものすごくランディ・ダヴィットっていう今フィリピン大学の名誉教授というか、ベテランですけど、あの世代、ずっと東南アジアにはかわいがっているというか、仲のいい人いっぱいいるんですよね。それって多分、今でもあんだけ広いネットワークを持った人っていうのはそうそういないんじゃないですかね。それは日本に留学してきたタイのスリチャイさんだとか、いろんな人もいるんですけどね。すごくやっぱり幅広く東南アジアの知識人をちゃんと若いころから交流してきた方ですね。

飯嶋:赤嶺さんの方の発表に期待して多分出席されている方もいらっしゃると思うので、個別の質問、答えていると多分長くなっちゃうかもしんないから、こっちのだけで個別の質問がもしあったら、質問だけ例えば投げかけてもらって。
赤嶺:いいですよ。
飯嶋:総合ディスカッションの方に入ろうかと思うんです。
赤嶺:一応、私、e-mailも載っけておけましたので、もし何かあれば。
飯嶋:いや、今、今。45分かそのぐらいまでそれをちょっと受け付けを。はい、どうぞ、皆さん。こちらの方で個別に聞きたいことがあったら。
フロア:アフリカでバナナのことを研究していて、共同研究でいろんな世界のバナナについてし始めているというか、してるというか、感じなんですけど、生態的学からやっているんでこういう運動とかとはまだあんまりそんなに関わってはいないんですけど、1つアドバイスというかもらいたいことがあって、『バナナと日本人』を最近読み直したんですね。
読み直してみたら、すごく冷静というか、今まで評価されていた告発本みたいなのじゃなくて、すごく植物学から何もあって、生産で流通っていうすごくオーソドックスな本になってて、学生とかが読んでも手本になるような手順で書いてあって、構成というか、ちょっと今回の運動論とは全然違う発想になるんですけど、本とか、ヤシとか作る時に、そういう構成というか、どういう戦略で順番に並べるみたいなのって鶴見先生は考えられていたんですか。バナナだけではなくて。
赤嶺:ただ、やっぱり材料によって多分大きく規定されると思うんですけど、バナナの場合はフィリピンのミンダナオっていうすごい特殊な土地、一般に言えばキリスト教の国でムスリム。でも、「ムスリム」と言いつつも先住民がいて、なおかつ、戦前から日本人の移民がいて麻を作っていたという、いろんなごちゃごちゃの歴史の面白さみたいなのを1つベースにしてるんですよね。だからそこをやっぱり分かってほしいっていうのが1つあったと思います。なぜミンダナオなのかっていう。
フィリピンだってアメリカとの関係で言えば、どこでも良かったわけですよね。もちろん台風が来るから台風来ないとことか、そういう選択はあったにしても、何ヘクタール、何千ヘクタールの土地が得られるっていうのは、やっぱミンダナオでしかありえなかったし、そこの歴史を語る複雑なところを分かってほしいというのがあったと思いますね、1つはね。
だからそれがエビでも、ヤシでもいいかって、多分またそれはそれぞれの事情っていうのがあると思うんで。
フロア:ものによってやっぱり構成を考えないといけないですよね。
赤嶺:思います。ただ、マツタケ本もそうなんですけど、やっぱり学際的というか、これは菌ですから菌の話とか、菌と松との共生関係とか、すごい自然科学の話もいっぱい散りばめられてて、やっぱり生物学的なものと商品という2つをうまく、それとその背景にある社会とか、歴史とかそんな感じですかね。
フロア:今バナナで話題となっているのが遺伝子組み換えのバナナの問題とかあって、これから最近ニュースでよく出始めているんですけど、それをどういうふうに扱おうかなっていう。私が研究しているウガンダという国で遺伝子組み換えの研究がされているんですけど、それに対して研究してきたら、どういうふうにアプローチするとかっていうのが。
飯嶋:そうですね、見えにくくなるもんね、問題がね、すごくね。
赤嶺:それは病気の関係ですか? 生産性?
フロア:病気の関係でやっぱり遺伝子組み換えを入れないといけないことがあるんですけど。それで何か。
赤嶺:いや、それで悩ましいのは、さっき言ったアブラヤシは他の油脂植物、大豆とか、トウモロコシとか、綿とか全部遺伝子組み換えなんですよ。アブラヤシだけがほぼ遺伝子組み換えじゃないので、堂々と自由に輸出できるというまた逆な意味で問題なのか、そういうものなのか分かんないんですけど。
だから遺伝子組み換えっていうのはやっぱり大きくマーケットできいてきますよね。今の現状だとEUは入れないし、日本も入れないことになってますよね。仮にウガンダがそういう開発をしても、それがフィリピンに行ってもなかなか日本には入れないですね。それは経済的にどうかとか。
フロア:そうですね。アフリカの場合だと、昔日本がアジアで開発してきた緑の革命が似たように今アフリカで革命を起こしてるっていう、そういうふうに警鐘を鳴らしている人がたくさんいて、それに対して何か言えるだろうかっていうふうな、そういうちょっと大きい問題かなと思っているんですけど。ありがとうございます。
赤嶺:いやいや、すいません。
飯嶋:1回赤嶺さんの発表はここで区切りにして、どうもあり

□総合ディスカッション
飯嶋:自己紹介がてら伊藤君からぐるっと回そうか。
伊藤:北陸先端科学技術大学院大学の伊藤と言います。よろしくお願いいたします。今日、いろいろ考え方あるんですけども、さっきのお話で旦過市場を訪問したとき(公開シンポジウム『フィールドワーク教育ってなんだ?』、於 北九州大)に、僕なんかはクジラなどを食べて楽しく過ごしただけなんですけど、赤嶺さんはちゃんと調査をやってたんだな、と。フィールドワーカーだなと感じました。
自己紹介しますと、学問や学って何だ、というのが博士論文の辺りからの関心で、ニュージーランドの先住民のマオリ学という、先住民の学と人類学との関係を調査しました。今日「いかがわしい」っていうのが褒め言葉だという話に勇気付けられたんですけど、ビジネス人類学、さらには企業のコンサル的な仕事(産学連携の事務方が営業で仕事を取ってきたりします)ということにも従事しています。
先ほどの語彙でいうといかがわしいですね。そういったビジネスと、人類学も含めた「学」との関係を、最近は調査しています。先住民とはまったく違うことをやっているようで、でも、学(学問)って何だということを考えているという意味では、自分の中では割と一貫しているみたいなところがあります。ところで、さっき清水展先生から、興味深い論点、すなわち、宮本常一も鶴見も、こちら側から勝手に人類学者とみなそう、それによって面白く広がるっていうお話がありました。僕も、まさにその通りだと思います。別に元指導教官だからとか、おべっかで言っているわけではないんですけど、そうだと思わされました。
ただ、そう思う反面、それとは逆もあると思っています。「宮本常一を人類学者である、鶴見も人類学者である」とみなすというのと逆で、「かれらは人類学者じゃない」って言うことも面白いかなって思うんですよ。
今日のお話とかでもそうですし、鶴見も宮本もそうだと思うんですけども、「学」が先に来てるわけじゃないんですよ。明らかに、いろんな運動だったり地域の課題だったり、そういうものが先に来ていて「学」っていうのは後なんですよね。
これは「応答の人類学」の研究会ですから、我々の側から言うと、人類学として、応答をどういうふうにかんがえるかという問いが先にきています。「学」、人類学が先にあって、そこから宮本や鶴見をみている。彼らを人類学者と見なそうというのはこちら側(学)から言い分なんです。
そのへんの違いというか、幅があるところにも、可能性があるんじゃないかなって思いながら、清水先生の意見に片方では賛同しつつも別の振り方もあるんじゃないかとおもって聞いていました。
(鶴見の)デモでは何も変わらないとか、在野のリサーチ力とかいろいろ議論がありましたし、「女・子ども」が大事なんだという鶴見の考えもありました。鶴見は小学校で授業とかやっているんです。子どもがどういうふうに「バナナと日本人」の話を聞いたかなど、鶴見の全集のバナナの巻にありますが、随分面白く読みました。「女・子ども」とかっていうふうな考えがまずあって、「学」というのはちょっとやっぱり後に来るんですね。
鶴見・宮本の両方ともフリーランスみたいなところから、最終的には大学教員にもなるわけですが、しかし大学教員のカテゴリーからはみ出すみたいな、そういうところの面白さというか。ちょっと僕らとは違うところに、応答の可能性を読み取れるのではないか。
さっき、僕ちょっとうまく聞き取れていなかったかもしれないですけど、(宮本常一の関わった猿まわしについて)「半芸半学」っておっしゃったんですね。半芸半学。ただし、ごちゃまぜではなく、クロスオーバーさせる。だとすると、宮本は民俗学者っていうふうに言われますが、宮本にとって民俗「学」って何だったんだろうとか、あるいは鶴見でも、自称としては「歴史ルポルタージュ作家」、ルポルタージュ作家なんですよね。学との距離感、学者との距離感を見つめてみる、どう考えるかという問いがあるかとおもいます。
さらに、翻って、われわれみたいな「学」というか、人類学者は大学で・・。
飯嶋:給料もらってる。
伊藤:大学で給料をもらってるわけですよね。宮本の言う「虚業」じゃないですけど、そういう立場からそれを宮本常一らを「人類学としてみなす」とはどうなるんだろうと。別に答えがあるわけではないですが、そこらへの距離も1つ議論としてあるのかと。両方の振り幅が考えられるんじゃないかなと。清水先生の言葉に触発されてそんなふうに思いました。
飯嶋:面白そう。
清水:よろしいですか?
飯嶋:はい。短めに。まだ自己紹介終わっていないから(笑)。
清水:今、伊藤さんの話を聞いたら、そうだよな、誰でも面白い人を人類学者に入れてしまうと、人類学者の系譜を最大に広げてたどって、けっきょく人類学の誇大広告をして、延命策を図っているみたいになりかねないですね。
飯嶋:人類学者は面白いけどっていうことですね。
内藤:早稲田大学理工学術院の内藤と申します。今日はお2人に偉大な先生方の話を伺って最初にやっぱり給料をもらっているということですごい一撃を受けました。今日いくつかのキーワードがあったなか印象に残っているもので、「さもしさ」という言葉がありました。
私はそのことを「下心」と表現してきましたが、めったに出会えないような研究対象とか、現場に入っていくときに、これはやっぱり聞いて調査して書かねばならぬみたいなことがあります。フィールドで「さもしさ」を受けとめてもらう甘えがありつつ、ただ、徹底して心がけているのはそこにいる人たちのためにならなきゃいけないということです。役に立たねばと脅迫にかられたり、差し迫って突き詰めてはいないのだけれども、常に考えてやっているところがあって。
それから、伊藤さんと一緒でわたしも理系分野で人類学を教えていて感じることですが、わりと人類学のステータスが低くないというか、フィールドワーク関連のうけがいいところがあります。人類学は「素直なよそ者」として徹底してフィールドで対象や現場に向き合うプロセスを述べることをしているわけで、その営みに終わりはありません。あらかじめ、「こういうのが人類学だよね」って言っちゃうと、勝手に枠組みを逆に作っちゃうみたいなところがあるんですよね。
飯嶋:その話、ちょっと香月先生とメールのやりとりの中であったのは応答ってそればっかりやってて本業をおろそかにして。
香月:ごく形式的な言い方になるんですが、つまりここのテーマを含んで論文を書くのか、向かうのか、含めないでいわゆる「論文」で勝負して、ここはここで何か処理するのか、対応するのか、それどうなんだろう。
飯嶋:そうですね。
香月:これはフィールドの中のテーマとして取り組むんだったら、そこで読みごたえのある論文にまずトライしてみるというところなんですよね。
飯嶋:そこでどっちで議論取るか全然違ってきますもんね。
フロアA:私、今日何で来たかって言うと、バナナの研究してるからなんですけど、「バナナの足研究会」っていう研究会をですね、私の先輩が。それは鶴見良行の『ナマコの眼』ですね。『ナマコの眼』っていうところから発想で足っていう研究会を私の先輩が立ち上げて。私第2世代っていうか、後輩にあたっていて、みんなでいろいろやったりとかですね。
今はもうちょっと違うメンバーとかちょっと入れてやっているんですけど。私のですね、もともとはアフリカで研究、フィールドワークっていうことで入っているんですけど、香月先生がおっしゃられた「いかがわしさ」っていうのは、やっぱり私も最初フィールドワーク行く時に全然なくて、やっぱりフィールドに行ったけど面白い何かセンスというか、そういうのなくて困ってはいたんですけど、ちょうどそこの調査してる地域がたまたまというか、最初に先生から言われて「行け」というふうに言われてバナナが主食だったんですね。
愚直に栽培とか、どうやって食文化とかですね、そういうのを作っていったらずっとのめり込んでいって、ずっとバナナ、15年ぐらいですかね、勉強してるんですけど、その関係で今ままで来ています。
飯嶋:コメントまで素直だ。
中:鳥取から来ました、鳥取大学です。私、思った以上にすごく楽しくお二方のお話聞けて良かったです。先ほど何人の方から言われているアイデンティティの問題には考えさせられることがありました。学者なりワークの。結構重大なところで、地域学部というところにいるんですけど、地域学部での役割を考えることが多いです。エリアスタディじゃなくて「地域文化学科」っていうふうに言うんですけど、何なんだろうなあと考えること機会がたくさんあります。一方また学生は「人類学」って言うと「はーん」という顔をされるので、学問領域をどういうふうに分かりやすく説明するかなっていう辺りですよね。
ネームで学が先に来て問題とかいろいろあるのになあと思いながら聞いてたんですけど、お二方の話を聞いてどういうふうに学生にとって、研究だけではなく、教育面について、結構面白できるのかなと思いました。その点で、お話の中のシステムづくりというかというか仕組みをどのように作るのかについて興味深く聞いていました。
学生が面白さを見つけてそれを彼女、彼らなりに追究なり、伸ばすなり、展開させる仕組みとかですね。仕掛けはすごく悩むところで、海外に連れて行ったりいろんなところに地域連れてったりするんですけれども、観光旅行のちょっと違うバージョンと思われちゃうので、そこからどうしたらいいのかなっていうのを非常に考えさせるところでした。
最初のお話の仕掛けというかですね、いろんなそこまで見てやっていたんだという話を聞いて、そうかって思いながらそういうふうにそこまで人を動かせるかなあということを思ったりもしました。
あと、もう1つは長いスパンで見るっていう内部考査ですよね。人類学者であれ、何であれ、学者であれ、学者でなく、給料もらう時点っていうのはある。ずっと学生とかってその間に何か入る人もいますけども、仕事をしてお仕事終わるという、その流れみたいないろんなその時々の情勢も¥あると思いますけど、この辺がお話の中であって、ああ、と思いつつもうちょっと聞きたいなというふうに思いました。
飯嶋:ありがとうございます。
フロアB:よろしくお願いします。私は皆さんのように大学で教えているのではなく、アマチュア無線連盟という。私自身も無線をやっております。あと、地震、東日本の地震の時にやっぱりアマチュア無線がどう関わるべきかみたいなのがありまして、いろいろやっていろんな方法で関わったんですけれども、また熊本で起きまして、またどうするかっていうのがありまして。
それで文化人類学会の災害人類学の方でまた顔を出して、今日は何で来たかと言いますと、このメールがすごく目に入って宮本常一さんのこれは絶対聞きたいなと思って、1日早く学会に来るのにいいかなと思って1日早く来てみました。
私は一番最初に入ったのが民話から入りました。世界文化人類学なんですけど。でも、その時はまだ文化人類学はやってなくて、民話って面白いなっていうところから入ってフィールドワークやっているうちに宮本常一さんに出会いました。
それで同じ民話の会に入ってらしたんですけども、でも、私は直接お会いしたことはありません、話だけ。私が入った時は亡くなりすれ違い。お葬式がどうのうこうの。すれ違いで。それだったらもう1回文化人類学学んでみようと思ってやったのが、すごくきっかけが宮本常一さんのこのフィールドワークの本、私もだいぶ読ませていただいたんですけど、いろんなこと。これは絶対行かなくちゃと思いました。すごい、ああ、そうなんだ、そうなんだ、すっきりしました。
香月:自分のことで言いますと、私の知り合いの東北のいかがわしい人間がどんな動きしてるかって後でもし時間があればお話しします。とんでもないことやって皆さんを元気付けてるから。
フロアB:私もアマチュア無線にすごく元気付けられた人たくさん知っています。仕事で電話をアマチュア無線やってて良かったって。こんないいこともあるんだとあらためて思いました。
飯嶋:ありがとうございます。どうぞ。
フロアC:今、名古屋港の周辺港町っていうところで町づくりの仕事をしていまして、同僚と一緒に町づくりの仕事をしているんですけども、私自身は人類学っていうものをきちっと勉強したわけでもないですし、バックグラウンドにあるわけでもないんですけれども、青年海外協力隊とか、あと、NGOとかを通じてアフリカに行ったり来たりで5年半ぐらい活動はしているんですね。
今は町づくりの仕事で名古屋と港町と呼ばれるところで日々地域の方々と交流しながらそこの課題であったりとか、どうすればいいかみたいなことを話し合いながら関わっていると同時に、昨年からは地方創生の動きがある中で愛知県のある小さな町の地方創生の総合戦略を作ったり、地域のこれからの町を考えるっていうところのアドバイザーと言いますか、コンサルティング的な関わりで入らせていただいているんですけれども、そこでもやっぱり私がやっていることというのは、私が解決策を持っているわけでは当然ないので、その地域の人たちに自分たちのこの町にどういう思いを持っているのかですとか、この町にあなたたちどう暮らしてきたのかとか、どうしていきたいと思っていますかみたいなことを聞いてそれを私はどちらかというと聞くだけですね。
返すっていうことも特にしているわけではなくて、個人的に聞いたりとか、それを地域の人たちが集まってみんなでそういう話し合いの場を作ったりとか、そこに私がどうしていきたいかちょっとみんなで話し合いましょうみたいなことをして、何か出てきたものをまとめるですとか、次の行動に動かすっていうか、そこのお手伝いをするみたいなことをずっと仕事にしているんですね。
なので、どちらかというと現場で聞いたものをそのまますぐにその人に返すみたいなことも媒体になっていると言いますか、そういう形でずっと関わってきているんですけれども、今この町づくりの仕事で、今日来た一番の目的はそこにあるんですけれども、どちらかと言うと本当に聞いてその場で返して次に動かしていくっていう活動につなげていったところから、ちょっともう1つ町づくりの中長期的な活動の1つとして、それをアーカイブにしていくですとか、それを町の財産と言いますか、何か記録としてきちっと残していくとか、それを何かの形で発信していくみたいなことをやっていければいいなということの思いがあって、今日香月先生も宮本常一さんもされてた地域の人たちの話ですとか、写真をきちっと記録を取っていくですとか、赤嶺先生の聞き書きのクジラの本とかも読ませていただいて、今日はお2人ともちょうど私が聞きたいなという興味がある分野で、私、そういうことを現場でやってきた分、この研究みたいな形でそれを論文にするですとか、書いてまた違う誰かに発信していくとか、見せるみたいなことをしてきているわけではないので、そこについての何かヒントと言いますか、自分の関わり方みたいなところが何かヒントが得れればいいかなと思って参加させていただきました。
何か質問とかということは特にまだ自分の中で整理ができていなんですけれども、非常にいい勉強になりました。ありがとうございました。
フロアD:同じ職場で同僚で今町づくりの仕事をしています。僕自身は町づくり学生時代から関わってて20年にはならないですけど、随分長いことやっているなというような気がしてます。ただ、僕の学生時代、町づくりの授業大学になくって、町づくり学とか、都市計画でもなくて、普通の経済学部で経済政策で商店街の活性化みたいなのりでお店をやるみたいなことを学生時代からしながら、愛知万博を経験したりしながら、今の職場で仕事をしてます。
今日お話を聞いていると、僕も現場入ると僕は同僚と違ってめちゃめちゃ走るんですね。やりたがりなのでどんどん手出します。ただ、実際ここは共通しているんですけど、町の人たちが自分で最後やんなきゃいけないので、僕も思っていて、だからすごく大事なところで実は手を抜いたりだとか、最終的にどうやってやったら預けられるんだろうかとか、その中でもちろんすごくできる商売と言えば手を出さないとか、そういうことをやっている自分がいるわけです。
そうなってくると、出す方がいいとか、出さない方がいいとか、それはどっちでもよくて、ただ、共通しているのは地域が自立していくっていうことはおそらく大事だと。今、地域っていうのは本当にデザイナーとか、研究者とかいろんな種類の専門家が集まってきて、僕もいかがわしいというところだけ読んでも面白くなってきてるんですね。非常にグレーにっていうか、ミックスでいろんなことができてて、町つくっているのは行政の人だけじゃ実はなくて、その中で何となくそのことに本気で関われていない人たちが住民みたいなことになっちゃうんで、実はすごくもったいないと思っていて、その人たちをどうやってやったら自分の町を自分で面白がられるんだろうか、やる気になっていくのかみたいなことを日々考えています。
今日は宮本常一さんが歩いて、聞いて、見て、あんなの僕コピーのショルダーで使ったりしながらフリーペーパーを作って、僕は町に入っていきながら町の人たちと出会って、面白い聞きながらそれをストーリーにして、主人公にして新聞作るみたいなことをしながら町に関わって、そういうやり方を今していて、とても参考にさせてもらった方々のそういう話をちょっと間近で聞いてみたいということで今日は来てすごく面白くて。
飯嶋:何よりです(笑)。どうしましょう。ぐるっと回ったから1回講演者のお2人に。
香月:この中で一番年長者僕かな?
飯嶋:そうでしょうね。
香月:そうですよね。
人生半分枯れてるのかもしれませんが、全体の話聞いてて真面目だなと思います。何でそこまで理詰めで考えようとすることだけですすめようとするのかなと思って。感覚の部分をどんなふうに付き合っているのかが出てきてないなと思う。「初心」に息づいていた感性の躍動みたいなものがもう少し見えてもいい。臆面もなく問題意識の中にあらわれてもいいんじゃないか、と。僕は7年前まで大学で勤めていたんで、大学院生と会うと好きなことをやりに大学院に来ている自分の存在をまず大っぴらに自分で肯定してあげていいんですよね。
でもね、彼らは自分の書いたものに自分の全存在にかかっているみたいな、ビクビクして鎧かぶっちゃうんですね。「お前、それ、逆だろう」って言いたいぐらい。だから彼の力が削がれてしまう。
でもそれを急にはずすと逆に論文が書けなくなるから、彼等との付き合いにはすごく苦労したんですけれども。なんか、そんなことをふと思い出しちゃって。
先ほど例えば宮本常一、民俗学の中でも宮本常一の評価って低い部分もあるんですよ。ただ面白いのは民俗学以外のジャンルで評価が高いんです。これはこれでいいと思っているんです。宮本先生らしいな、って。その不真面目な着地具合。
多分宮本常一という存在は、歴史学研究畑からは出なかったように思うんです。ではああいう人を生み出した民俗研究って何だろうって問題設定すると、もう少しフォーカスが絞れてくるんですね。今の民俗学はこうで、宮本はこうだからみたいな関係性ではなくて、ああいう時代にああいうバックグラウンドで宮本を生み出した民俗研究って一体何だろうという、そういう設定でいいような気がするんです。
凝縮したものがないとそこから体系性って読み取れませんし、その体系性がないと想像力って生まれてきませんから。伝承っていうのはそれがあって初めて展開するわけで。フォーカスをどこに置くかということでいいような気がします。
それから、教室で何か教えても、自分がこういうふうに準備してこんなふうに受け取ってくれるなんて思わない方がいいです。受け取るのはそちらの勝手です、と。でも、準備に手は抜けないと。手を抜いたら相手は分かりますから。でも、外れる形で受け取ってもそれは受け手の自由なんですね。そこは腹くくって大らかというか、大まかになっていいんじゃないかと。
それから、鶴見さんにしても、宮本常一にしても使命感もありましたし、戦略もあったけど、それと同じぐらい本人が面白がっているんですよね。それが書いたものから伝えてくるわけで、その面白さっていうのをこっちがどう受け止めるかという論理もあっていいんじゃないのかなという気がしてて。
僕は宮本常一から「フィールドワークで一番大事なものは何だと思うか?」ってポンと聞かれた時に、答えを何だろうと思ってたら「勢いだよ」って言われたんです。一見何でもない話の何でもない言葉がすっと立ち上って聞こえてくることがある。何でもない風景がパッと立ち上がって出てくることがある。それをきちんと受け止めることだ、みたいなことを言われて。
そうするとこれはどう自分のありように素直になれるか。でもうひとつ言えば、フィールドワークって、なぜか人や土地や時に相性があるんです。だから聞き書きだって相性があるんですよ。これは理詰めであまり説明できないんですね。あるっていうことは言えるけれども。
だからね、学生が、ろくな聞き書きしかしてない時に、こっちが「駄目じゃないか」って言って「相性が悪いんです」って返されたらこれはこれで困る。
でもそれ、フィールドワーカーがどう自分の中で受け止めて育てるかっていうのが、何となくフィールドの場合も本質のような気がするんです。そこからは理詰めの展開ができるんです。
さっきの鶴見さんの話を聞いて、宮本常一と似てるとこあるっていうのは結構思うんですね。例えばヤシの研究、「やってみなければ分からない」みたいな。宮本常一から雑談で「お前、試行錯誤の失敗って何か分かるか。それは何もやらないことだよ」と言われて、同じなんですね。
それから、ものすごくね、具体的な1点を押さえるんです。そこを押さえることでパッと状況の見方が変わるんですね。極めて具体的なんだけども、シンボリックなんです。そういうのは、感じた面白さをそのまま受け入れていく、てことがベースでしょう。ここ掘ったら面白いぞ、ありふれてるけど根深いぞ、みたいな。
それから、鶴見さんの「ヤシから何が見える」か。これも宮本の場合は民具の研究をするんじゃない、民具で研究するんだと強調していた。同じなんですけど。鶴見さんのような人がなんでそれまで出なかったんだろうかっていうのが、鶴見さんの本を読んですごく新鮮な思い受けた時に考えたことで。実はそれまでにも日本の商社こんな悪いことしてるとか、日本人は東南アジアでこんなあくどいことしてるみたいな指摘や書物は結構あったけど、鶴見さんのようなアプローチってなかったんですよね。
何であの時期にああいう人が出てたんだろうかっていうのは、僕は民俗研究の中で何で宮本常一みたいな人が出たんだろうかという、そこに重なる問題でもあるんですよ。これは簡単に答え出ないんです。この問題を持って問い続けることでいろんなものが整理されて見えてくる、そういう問題だと思うから。
だから今言ったことはちょっと不良っぽいから差し引いて聞いてください。理詰め、理詰めで考えて棚上げした部分はいつ付き合うんだろうなという感じが少ししたものですから。
赤嶺:いつも香月さんの後でしゃべりにくいですね。
飯嶋:だから理詰めにやっちゃいけないのかなって。
赤嶺:いや、違うんです。まだ上手に考えがまとめられていないんですね。ただ、私もですね、書くものとか、しゃべることと、なるべく実態を近づけたいっていう。これは無理なんですけど、それはやっぱりあって、1つは先ほど長いスパン、ライフタイムっていう話ありましたけども、いま、考えているのは、OB・OG、ゼミのですね、卒業生とどういう付き合いをするかでありまして、学生時代みんなこういうバナナでもエビでもね、東南アジアうんぬんという話をして、商社に入ったらいきなり変わるっていうのは、やっぱりあり得ないわけで、みんなやっぱ悩んでいるんですよね。
そういう時に一緒に話しをしながら、理想の社会について議論するとか、その程度なんですけど、でも、それをこっちも忙しいし、向こうも忙しい。でも、そこをすり合わせて年に1回でも、2年に1回でも、会って話すというのを、今んとこ心がけているんですね。
私、名古屋に13年いて、東京に移って3年目なんですけど、まだまだ名古屋のコミュニティっていうのは生きてて、だからその人たちとお正月に1回必ず新年会。会うだけなんですけど、ただ、それぞれやっぱり壁にぶつかるとメールみたいなものが来て、その時に何か元に戻れる原点みたいなところがあってくれてるみたいなので、頑張ろうかなというところですかね。
われわれ別に革命家でもないし、いきなり明日から日本が良くなるなんて思えないじゃないですか。でも、そうやっていろんな学生を送り出すことに少し自己満足も含めて、そういう存在であったらいいし、でも、それは僕も頑張らないけど香月さんじゃないけど「あの人、最近手抜いてるじゃない」って卒業生たちから言われたら終わりだなと思ってます。
それはやっぱり僕はあんまり論文書かない、本の1章学会誌に書くっていうこと苦手だし、あんまり理詰めはうまくないし、相性が良くないので、だから一般に読んでもらえるような文章を書いて、これはうまくできたと思う時は送ったりしているんですよね。それはPDFですけど。
でも、そういう付き合いを常に卒業生の目っていうのはみんな社会に出て厳しいので、「先生、いい身分ですね」って言われないぐらいに頑張ろう、とそんな感じです。本当にそれに尽きてて、彼らも家庭を持って一生懸命、生活しているなかで、その緊張感は自分としても持っていたいなというのがあるんですよね。
その一方で、やっぱり日常的に東南アジアとの距離が当然離れる時に、「そういえば油脂っていうのは、そうなんですね」というような、常に新しい、「まだナマコですか?」じゃなくて、ちょっとやっぱり新しいネタをこっちも仕入れなくっちゃな、そんな距離感ですかね。
内山節さんですかね、労働を「稼ぎ」と「仕事」とに分けていますよね。僕、やっぱりそれがいいなと思ってるんです。「稼ぎ」は「稼ぎ」でちゃんと見合うほどはやろう。ただ、それと同時にボランティアって言えばいいのか分かんないですけど、自分が好きなことは、一生懸命「仕事」として責任ある成果を出したいなっていうそんな感じです。
鶴見さんは本当に自分の中で「呪縛」と言っていいのか分かんないんですけど、やっぱり全部は無理でも一部は絶対乗り越えなくちゃいけないと思っているし、本当に最後は油脂で、彼がココスになぜというのは本当に不思議で、行ってみなくちゃいけないと思っているんですけど、なかなかまたそこもね、アクセスが難度が高いんですよね。でも、ちょっと1回近いうちに行きたいなと思っています。
もともとは私有地だったらしいんですよ。それ、今、オーストラリアのものになって、所有権のやりとりの中でなかなか外国人が行けないところがあったんですね。ちょっとそれは近々行ってみようとは思っています。
飯嶋:どうぞ。どうぞというか結構時間だから、さっきの鶴見さんの研究会じゃないけど、自己紹介したら終わっちゃった(笑)。
清水:鶴見さんって僕やっぱりすごいなと思うんですね。さっきの繰り返しになりますけど、人類学にあえてこだわる必要はないんです。けども鶴見さんのフィールドワークというか旅先での身の処し方は、人類学者の理想のような気がするんですね。村や町に泊まったら誰よりも朝早くに起きて、町のマーケットに行って、見て回る。そして新鮮な魚やら野菜を買い込んでくる。その前の晩に、みんなでお酒を飲んでいて、他の連中はまだ寝ていたり、二日酔いでフラフラしたりしてるのに、鶴見さんはちゃんと早起きして出てゆく。僕は、だいたい飲み過ぎて起きられないタイプなんですけど。
彼は夜に飲んでも、ちゃんと翌朝には起きてマーケットに行き、写真を撮り、メモを取りる。それってやっぱりすごいですよね。マーケットには、人々の日々の暮らしに必要な基本的なものが食料品を中心にそろっていて、そこをちゃんと見ていると生活とか経済とかが分かってきますよね。鶴見さんはマーケットで買ってきた魚を自分でさばいて、チームの人に出してくれるという。そして夜になって、皆で楽しく酒飲みながら、今日、何見た、あれ見た、こんなことがあったとか、ワイワイ言いながら情報交換とか分析みたいなことをやる。旅のなかで地に足のついた暮らしをして、現場の情報を身をもって集め、考える。本当に理想的なフィールドワーカーという気がしています。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」ではないですけど、「そういうものに、私はなりたい」、って思います。
香月:自分が楽しんでる姿をそのまま見せてくれるでしょ。それってそのまま問題提起なんですよね。
赤嶺:あと、すいません補足ですけど、ノートとか、カードとか、蔵書は全部埼玉大学に行ったんですよ。
飯嶋:誰んとこ?
赤嶺:藤林泰さん。でも、埼玉大学も、こういうご時世なんで立教に。
飯嶋:そういう経緯なんだ。
赤嶺:立教がオープンに向けてかなり頑張って、一部のデータベースはネット上でも見れるんですけど、現在、最後の整備をしているところです。共生社会研究センターの方に。やっぱり国立大学は、もうからないと思うとすぐ手放しちゃう。人件費がかかるんですよね。専属の事務員もいたんですけど、センターごと宇井純さんの資料とか全部立教に移っちゃいました。
飯嶋:なるほどね。
赤嶺:でも、近くなったし、結果的にはよかったんじゃないですか。埼玉大学って、ちょっと遠かったでしょ? 立教だとアクセスもいいし、それなりに使えているみたいです。
清水:もう1回。僕ばっかりしゃべって申し訳ないんだけど、アマチュア無線やってらっしゃるっていうのがすごいうれしいです。私が言ってる「応答する人類学」のイメージの具体像って、黒人霊歌のコール&レスポンスの歌唱と、アマチュア無線のやりとりなんですね。アマチュア無線では、自分のコールサインを名乗って、「こちら何とか何とか、応答せよ」と呼びかけ、相手からの返信をまって、互いに呼びかけと聞き取りのやりとりを繰り返す。交互に呼びかけ合い、聞いて応え合うというのが大事なんだと思います。
フロアB:そうですね。
清水:僕が応答する人類学と言っているのは、研究者が一方的に観察したり質問したりするだけでなく、逆に研究者の方もまた、フィールドで現地の人から質問され、期待や要請を受け、呼びかけられてしまっていることを自覚し、それにちゃんと対応すること、応えてゆくことなんですね。それは面と向かって、私自身のことを聞かれたり、日本のことを聞かれたり、いろんなことを聞かれます。フィールドでの調査は、聞きたいことがほぼ決まっているインタビューなどとは違って、井戸端会議のようなところに紛れ込んで、なるべく邪魔せずに、話を聞いている、やることを見ている、時に話に割り込んだりする。もちろんこちらが質問することもありますけど、同時に向こうが興味をもったことに対して質問してくることもある。そうした世間話としての応答だけでなくて、お金を貸してほしいとか、日本に連れて行ってほしいとか、日本の女の子を紹介してほしいとか、いろんな希望や要求を出してきます。そういうやりとりのイメージとして、フィールドワークの最中に、またフィールドワークから戻ってきた後も、互いに離れているホームとフィールドとの間で、人類学者と現地の人のやりとりを続けてゆく、希望や要請に応答してゆく、というイメージです。
フロアB:すごかったです。あれが私も東日本の震災の時とか、熊本のと、実際に目の当たりにして感激しちゃいました。いろんな電池が足りないとか、みんなが分かってすっごい電池ばっかり送ってきて。「もう要らない」とか言われて。
清水:応答せよ、助けてくださいっていう生の声を聞く、それに答えるという活動ですね。そういう意味では宮本さんも、鶴見さんも現地で現場で応答する。そこで引き受けた問題を、日本に帰ってきても持ち続け、応答してゆく、という感じですね。
参議院に立候補したらさ、勝手に手弁当ボランティア1,000人集まるとかさ。
香月:それの報告が宮本先生の授業の一部なんですよ。一緒に現地に付いて行った場合はこんなふうに報告してるなとか、それも分かりますしね。面白かったです。
清水:現地・現場で応答する、そのことに学生やボランティアを巻き込んでゆく。地域で活動することが、民俗学や人類学の応答実践を行い、教育における応答の仕方のひとつになっている、というのがいいですね。大学のなかに閉ざされたものでなくて、外に開かれ、つながってゆくというのが。世間師というのでしょうかね 。
飯嶋:京大、山極さんになっても全然変わんないんですか、そんなのは。外から見たら山極さんになった時は僕らは大拍手だったけど、前の総長から比べると。実感としてはないのかな。
清水:あんまり変わってない。
飯嶋:そうなんだ。その後民俗学者の重信さんって共通の知り合いもパッと辞めちゃったらしいんで、民俗学は辞めやすいな、これはって思ったんだけど。
香月:北九州市立大だから。彼はちゃぶ台ひっくり返して辞めたって言ってた。
飯嶋:周りの2人が急に民俗学会辞めたから、いや、民俗学会やっぱりつえーなと思ったんですよ。そしたらマジョリティじゃなかったという(笑)。
今日は本当にお2人どうもありがとうございました。(拍手)
(文責:飯嶋)。