安全な基準、危険な基準

1.かつて、グレゴリー・ベイトソンはこんな例をもちだしていた。「呼吸の反射というのは酸素不足によってではなく、相対的に危険の少ない二酸化炭素の過剰によって引き起こされる」[Bateson1991(1972):15]。面白い指摘だと思う。もし、横隔膜が、酸素不足で起こるとしたら、二酸化炭素過剰で起こるよりも、相対的に危険な基準であり、私たちの身体はその基準を採用してこなかった。

2.今日、外でごぼ天うどんを食べてきた。九州の名物と言われている。確かに関東では食べた覚えがない。素材は、大豆(醤油)、小麦(うどん)、葱、ごぼう、さつまいも、といったところだろう。他にも、何の出汁か、どういう天麩羅粉を使っているのか、何か化学調味料をつかっているのか、など気になるけれど、とりあえず、それが分かると安心する。でも、これが、どこの大豆なのか、どこの小麦なのか、どこの葱なのか、どこのごぼうなのか、どこのさつまいもなのか、までは分かっていない。なので、少し、不安になる。

3.なにしろ、僕らが食べているエビがどのような仕組みでインドネシアから輸入されているのか、現地では、その産業のために、どのような生態系の破壊が生じてしまったのかは、村井吉敬さんが『エビと日本人』などで描いている。鶴見良行さんからアジア太平洋資料センター系の仕事は、バナナ、コーヒー、マグロなどについて、大同小異の構造があることを指摘してきている。なので、自分が既に、相対的に、危険な基準に足を突っ込んでいるのではないか、と不安に思うのである。

4.なのでときたま、ドラッグ・ストアやデパートの化粧品売り場で、一見きれいにパッケージされているけれど、成分を見るとさっぱりチンプンカンプンな化粧品などを見ると、「こんなものをいきなり身体にとりこんで大丈夫なのかな?」と不安になる。まぁ私たちの身体は、原則的に、内から外へと細胞の流れが出来ているので、多少、肌に何かをつけても、うわべのことだけだと分かっているのだけれど、「成分が分かる」だけでも既に危険に足を突っ込んでいるようにさえ感じるときがあるので、「成分さえ分からない」のは、とても危険な基準のように思うのである。

5.数日前から、夜の天神が美しく彩られている。けれども、美しい電飾の背景にも、その成分というものがある。東京電力で使われていた原子力発電所のウラニウムの一部は、オーストラリアから輸出されており、現地ではオーストラリア先住民の大地が掘り崩されている例がいくつもある。2000年までのジャビルカでは、ウラニウム発掘残土を保存しておいたプール水が溢れかえり、周囲に先住民が居住し、その河川から野菜を採っているところに浸水したことが疑われてさえいる。けれどもこういう背景を知らないと、自分たちが「危険な基準」を採用していることにさえ気づけない。

6.鳥山敏子は殺生と食べ物の関係について、「『生きているものを殺すのはいけないこと』という単純な考えが、『しかし、他人の殺したものは平気で食べられる』という行動と、なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」「殺す人と食べる人が分離されたときから差別がうまれ、いのちあるものをいのちあるものとみることさえできなくなってしまった」と書いて、原発の問題も構造は同じなのではないか?と思い、現場で作業をしてきた人物に思いを馳せいたが、現在では、さらにその外にも思いが馳せられないと「危険な基準」に足を突っ込むことになる。

7.今年「人類学と経済学―個人投資家の事例から」[飯嶋2011]で書いたのも、そういう指摘で、かつてであれば、成人儀礼で教えられていた「世界」や「人間」の意味は、その活動がもはやとんでもないところにまで広がっていて、成人式までに教えられる「人間」概念がそれに追いついていない、ということだった。私たちは実に危険な基準を採用しているように思うのである。

 

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