「霊と心」10選

クラパンザーノは、私たちにとって内なる「精神」が日常的かつ行為に動機を与えるものであるように、モロッコ人トゥハーミにとっては、外なる「精霊」こそ が日常的かつ馴染み深く行為を引き起こすものであったと考察した(クラパンザーノ『精霊と結婚した男』紀伊国屋書店、1991)。私たちの「心」と異文化 における「霊」とを表裏関係で捉えることが適当であるかの是非はともかくとして、以下に挙げられる「霊と心にまつわる10選」は、いずれも、‘奇妙なもの を奇妙でなくすこと’‘奇妙でないものを奇妙にすること’を通して、すなわち現在生きられている世界の「当たり前さ」をその位置から引き下げることによっ て与えられるであろう新しい視座を―まさにクラパンザーノがトゥハーミとの対話を通して感知し得たであろう―得ることが出来るように、との意図を持って選 ばれたものばかりである。

 

<「奇妙な世界」に誘う2冊:外から内へ―鬼人・狂人編>

まずは、霊そのものというよりも、非日常が日常を侵犯したときに現れる「奇妙な世界」の雰囲気を漂わせる2冊を選択。

 

 1.カルロス・カスタネダ『未知の次元』講談社学術文庫、1993 ☆☆☆☆

ご存じカスタネダのドン・ファンものの一つで、ナワールとトナールについての呪術師の説明。我々は全て、生まれて直ぐに泡の中に入り、泡に反射した自分 をみているに過ぎない。泡の内部の世界即ちエコロケーションによって創りあげられた世界こそがトナールであり、その外部の「全体性」こそがナワールなので ある。

 

 2.ミルチャ・エリアーデ『ダヤン・ゆりの花陰で』筑摩書房、1986 ☆☆☆☆☆

現象学的宗教学の泰斗で余りにも有名なエリアーデ、ルーマニア生まれで、インドに留学し(しかもヨガの修行にも勤しみ)、フランス、アメリカ で活躍した彼の宗教研究(「トナール」)のアンチ・ツイニングあるいは「ナワール」が結晶化した幻想小説。アインシュタインが臨終の床で残した最後のメッ セージとは何か(不確定性原理のハイゼンベルグのみが理解していたと言われている)、数学の天才ダヤンは「永遠のユダヤ人(裏切り者のユダ)」(神によっ て死を拒絶され、聖書の黙示録で世界に終りにおいてのみ死ねると記されている)によってその隠された謎の解読へ誘われるが(アインシュタインとハイゼンベ ルグのみが理解し即座に隠蔽された「最終方程式」をダヤンが見出せば「世界の終り」の日時を正確に知ることが出来るためである)、しかし「夢の時間」の中 で発表されたその論文は、結論部分が破られていたのである。そして精神病院で目覚めたダヤンはしかしその結論部分を思い出すことはできないのだ。

 

<霊と呪術のカタログ―オタク編>

  3.フレイザー『金枝篇』(1~5)岩波文庫、1951-1952 ☆☆☆

儀礼と神話学派の最高傑作、その主題の「満ち欠けするゴッド・キング」の謎解きも面白いが、世界各地の精霊や呪術に関する(どちらかと言えばいい加減な)情報は単純にそして気楽に楽しめる。

 

<闇の心性を探り出す―奇人編>

読めば分かることだが・・・。「呪術」や「霊」をめぐる思考の裏にひそむ集団の「闇の心性」を探ろうとする限界ギリギリの2冊。

 

 4.ナタン・ワシュテル『神々と吸血鬼 民族学のフィールドから』岩波書店、1997 ☆☆☆☆☆

著者は1987年に7年ぶりに南米ボリビアの先住民の村を訪れる。最初の訪問から既に16年の歳月が過ぎ去っていた。その間に、先住民たちの所 へも近代化の波は押し寄せ、伝統的な神々が廃れキリスト教が村内を席巻していた。こうしたコンテクストを背景に、本書の前半は廃れ行く伝統への戸惑いが幾 分ノスタルジックに(お好みなら「エントロピックに」)語られる。しかし、後半は1978年にその村で発生したある事件をめぐって考察が展開する。

それはアンデス地方の最も恐ろしい強迫観念のひとつ「カリシリ」にまつわるものである。カリシリとは人気のない道や、夜間に人を襲い呪薬を 使って昏睡状態に陥れ、その隙に、被害者の脂肪を抜き取ってしまうという「油取り魔」のことである。そのカリシリがこの村にも出たのである。そして村内に 熾烈な「カリシリ狩り」が巻き起こり、無実の容疑者が仮借なき迫害に晒される。著者はその容疑者の一人と接触し、カフカの『審判』のような出来事の真相へ と近づいていくのである。しかしそれは著者自身の調査者としての位置取りを危険に晒すことでもあったのである。合わせて『敗者の想像力』もおすすめ。

 

 5.小松和彦『異人論』ちくま学芸文庫、1995 ☆☆☆☆

これは一貫した理屈で書かれているが、理屈抜きに面白い希有な一冊。もっとくだけた雰囲気ながら、「呪いは効果を持つのか」というそのものズ バリのストレートなテーマから、同じく人々の間に潜む「闇の心性」を暴いていく著書として、『日本の呪い―「闇の心性」が生み出す文化とは』(小松和彦 著、光文社カッパブックス、1988年)もお薦め。

 

<身体と心―聖人編>

  6.モーリス・レナールト『ド・カモ―メラネシア世界の人格と神話』せりか書房、1990 ☆☆☆☆☆

プロテスタントの宣教師であり民族学者としても活躍したレーナルトの手による本書には、カナク人の世界のあり様が生き生きと描き出されている。

特に、タイトルにもなっている「カモ」(「ド・カモ」=本当の人:人間の意)概念を軸にカナク人の身体概念を辿ろうとする第二章(「身体の概 念」)、そして他者との関係を通してのみ現れ出る存在としての「カモ」をさらに深く思索しようと試みる第十一章(「メラネシア世界における人格の構造」) は、古典的な民族誌として、また知的好奇心をくすぐる分析として、魅力満載。

しかし同時に、ポストモダンの旗手クリフォードによって本書が「発掘」された経緯、そして、コロニアルな時代状況にありながら現地の文化との 「相互翻訳」「相互浸透」プロセスとしてレーナルトが布教活動を(そしておそらくは民族学者としての仕事も)実践したという背景談(布教先での「キリスト 教への本当の回心」がどのくらいあったか、と尋ねられたレーナルトが「おそらく、ただひとつ」と答えたという話は、彼の自省を示すエピソードとして実に象 徴的である)がカバーされた充実の訳者あとがき(by.坂井信三氏)が述べるように、本書は古典的なテキストを超え、異文化を「書く」という人類学におけ る認識論的な問題にまで思考の幅を広げることが出来る一冊でもあるのだ。

 

 7.ロバート・F・マーフィー著『ボディ・サイレント:病いと障害の人類学』新宿書房、1997 ☆☆☆☆☆

「歩くことができないかわりに、空を飛ぼうとする、すべての人々に捧げる」。本書は、脊髄の病に冒された人類学者が、次第に自由が利かなく なってゆく自らの身体を、そしてそれとは対照的にいまだもってなお自由な領域としてあり続ける心をフィールドとしながら描く「心と身体の民族誌」である。 著者マーフィーは、病をきっかけにして、一方で、自分を取り巻く周囲の人々の態度の変化のうちに、文化的かつ社会的に構築され規定されゆく「身体障害(そ して「身体」そのもの)」を考察し―障害のある身体をとおして社会をみつめなおす―、しかしながら他方において、自らの意識の襞の内部へと深く深くその思 考を潜行させてゆく

―「私の思惟と、生きているという実感とは、みな脳へと追い込まれた。今や脳こそが私の棲み家・・・」。自分自身をフィールドとしたこの人類学者は、人類学という学問に、感動的な定義を与えている。「人間の脆さと愚かしさについて学ぶすばらしい学問」である、と。

 

<心を疑え!―デカルト・バスターズ編(仙人編)>

「心」の自明さを、疑って疑って疑い倒す2冊。

 

 8.ギルバート・ライル『心の概念』みすず書房、1987 ☆☆☆☆

日常言語における様々な語用例を羅列しながら、「心」という概念の真空さ(核がない)を明かしていく。どこまでも「日常言語」に拘るこの著者 の論考が持つ「種明かし」的な面白さは、「哲学書」にあるまじき爽快な読後感を与えてくれる。 賢者の風格漂うこのライルは、モーツアルトよりもモーツアルト的であると評されたクリスチャン・バッハ(偉大なセバスチャン・バッハの末息子)のように、 ヴィトゲンシュタインよりもヴィトゲンシュタイン的である。ライルによるデカルト批判の根幹をなす概念である「カテゴリー・ミステイク」をよりよく理解す るために、そしてより効果的に使いこなすために、後の論文集『思考について』(みすず書房、1997)を併せ読まれたい。

 

 

 9.フランシスコ・ヴァレラ、エヴァン・トンプソン、エレノア・ロッシュ

『身体化された心:仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』工作舎、2001 ☆☆☆☆☆

オートポイエーシス理論の提唱者の一人であるヴァレラが、「心はどこにあるのか」「自己とは何か」という真っ向勝負の問いを、単なる主観的な 哲学的思索に留めることなく、自然科学分野にまでおよぶ広範な範囲において、迫力ある考察を展開している。あらゆる客観的・実証的基準の廃棄を説くため に、生物界における「事例」や新しいA.I.における「実験」を用いて検証する戦略が興味深い。表象を廃せよ。世界は常に、何事をも表象することなく、動 作しつづけるプロセスとして「在る」のだ。

 

<「奇妙な世界」再び:内から外へ―サイボーグ編>

  10.D・R・ホフスタッター、D・C・デネット編著『マインズ・アイ:コンピュータ時代の「心」と「私」』

TBSブリタニカ、1992 ☆☆☆☆

私たちにとってもっとも馴染み深くそして見慣れたものであるはずの心。それが疑われたとき、私たちが住むこの世界そのものが、「奇妙な世界」へと化す。 心とは?脳とは?身体とは?自己とは?コンピューターは心を持ちうるか・・・人間は・・・?ホフスタッター、デネット、ボルヘス、スマイリヤンら、当代 きっての語り手たちによる寓話の数々が、私たちを取り囲むこの見慣れた日常を、不思議と奇妙に満ちた非日常の世界へと流出させてゆく。あらゆる意味で、あ なたが今もっているであろう全ての自明的な感覚を打ち破ってくれること間違いなしの一冊。

 

(成末・衛藤)


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