「宗教学」10選

1.古典

20世紀初頭の人文学的才能がとりくもうとした初発の主題群がよく分かる三冊をあげます。心理・象徴・社会にそれぞれ比重のある著作ですが、いずれも「これから」つくるべきものとして諸学問をイメージしていて、しかもその手さぐりが予備知識なしで分かる本です。古典というのは、再読三読にたえるだけの豊かな知的源泉たりうること、よって孤高であるかもしれないが孤立してはいないことを意味します。W.ジェイムスの回心論、人生語り、多元的現実のその後の系譜や、早逝したR.エルツの背後にいるデュルケムやモスらの圧倒的な社会学=人類学創出運動や、M.ウェバーのカリスマ論や神義論の深さをくりかえし読むならば、われわれの小さな背丈からも世界が見とおしうることが分かるはずです。

 W.ジェイムス 1969(1901-02)『宗教経験の諸相』上下巻、岩波文庫

「たとえば、人間の心が、いくつもの異なる平衡状態をもちうることから、どれかの面を底にして静止することのできる多面体のようなものだと仮定するならば、人間の心の革命はそのような多面体の空間的回転のようなものだということもできよう。」(「聖徳」)

 R.エルツ 2001(1907,1909)『右手の優越』ちくま学芸文庫

「死者たちを合わせることで、いろいろな血縁集団や地縁集団がより高次の統一を形成する。かれらは連帯感を意識して、これによって結ばれ、お互いに助けあおうとする。死者の《社会》をつくることで、生者の《社会》が規則的に再生されていくのである。」(「死の集合表象」)

 M.ウェーバー 1972(1920-21) 『宗教社会学論選』みすず書房

「幸福な人間は、自分が幸福をえているという事実だけではなかなか満足しないものである。それ以上に彼は、自分が幸福であることの正当性をも要求するようになる。・・・これが幸福の神義論とよばれるものである。・・・この観点を逆転させて、つまり、苦難の宗教的聖化へといたらしめる道程ははるかに複雑である。」(「世界宗教の経済倫理 序」)

2.世界大に

以下の四冊は著者で選びました。かれらのどの一冊でもよいわけですが、なるべくうすくて密度が濃く、翻訳のよいものをあげました。四者とも、それ以前の学問的常識を方法的に真正面から批判しながら、ならばどうするのかを別の大著群で実演してきた人たちです。古くて新しいエッセンシャリズム批判をへてなお宗教研究が可能でありかつ有意であることを、これらは先鋭に教えてくれるでしょう。わたし個人には、元気のないときの蘇生術です。

 C.レヴィ=ストロース 1970(1965) 『今日のトーテミスム』みすず書房

「トーテミスムという考えは、まず、キリスト教的思考が本質的なものと考える人間と自然との間の非連続性という注文と両立しない精神的態度を、いわば悪魔祓いをするようにして、われわれの宇宙の外に投げ出すものであった。・・・ベルグソンが、トーテミスムのいくつかの面を、民族学者より良く、あるいは民族学者より先に理解することができたのは、トーテミスムを内側から生きている、あるいは生きたいくつかのいわゆる未開民族の考えと、ベルグソンの思想とが奇妙な類似を示しているということではないだろうか。」(「心の中のトーテミスム」)

 P.ヴェーヌ 1983(1976,1978) 『差異の目録』法政大学出版局

「いんちきな自然対象-たとえば宗教とか、何々教だとか-はじつに色とりどりな要素(祭式主義、聖なる書物、安心感を与えること、さまざまな情動、等々)を寄せ集めている。これらの要素は、時代が変わって別の時代がくれば、まったくちがった実践のなかにふりわけられ、そうした実践によって、まったく別の風貌のもとに対象化されるであろう。ドゥルーズの発言にならうなら、木々は存在しない。根茎しか存在しない。」(「歴史を変えるフーコー」)

 C.ギンズブルグ 1988(1966-84論文集)『神話・寓意・徴候』せりか書房

「過去、現在、未来に向けられた推論的、あるいは易占的パラダイムが存在するのだ。それは認識形態により、対象を異にする。それが未来に向けられると本来の意味での占いになる。過去と現在と未来に向けられると、診断と予後という二つの顔をもつ医学的症候学になる。そして過去に向けられると法学になる。しかし、この推論的、あるいは易占的パラダイムの背後には、人間の知的活動の最古の形態がかいま見える。つまり地面にかがみこみ、獲物の足跡を調べている狩人の姿である。」(「徴候」)

 J.ヒック 1994(1990改訂四版)『宗教の哲学』勁草書房

「みずからの聖域を定めた神学的な教義と行動の掟とをもつ制度としての宗教は、宗教的現実性の要求から生まれてきたものではなく、異なる文化圏の交流が未発達な時代に、そのような発展が歴史的に避けられなかったという理由から生まれてきたものであった。しかし、世界がひとつの交流の場になっている現在、みずからの歴史的-文化的な聖域をふみこえることが宗教的な思考にとって可能であり、また正しいことでもあるような、新たな状況に向かって、われわれはいま進んでいる。」(「諸宗教における相容れない真理の主張」)

3.あしもとから

生活世界をめぐる立場がおよそ対照的なふたりの近代主義者(柳田・丸山)と、そのどちらでもない絶妙な場所にいる民衆思想史家(安丸)で三冊です。益田勝実、高取正男、黒田俊雄など、日本思想史には傑出した仕事が累積されていて、日本の宗教学のてごわいが絶好の稽古相手になってくれます。というか、この土俵では負けがみえているので、これをフィールドに寄せて換骨奪胎する。

 

 柳田國男 1990 『柳田國男全集13』ちくま文庫(先祖の話1946、日本の祭1942)

「日本では祭というたった一つの行事を透してでないと、国の固有の信仰の古い姿と、それが変遷して今ある状態にまで改まってきている実情とは、窺い知ることができない。その理由は、諸君ならば定めて容易に認められるであろう。現在宗教といわるるいくつかの信仰組織、たとえば仏教や基督教と比べてみてもすぐに心づくが、我々の信仰には経典というものがない。・・・説教者という者はなく、少なくとも平日すなわち祭でない日の伝道ということはなかった。以前は、専門の神職というものは存在せず、ましてや彼等の教団組織などはなかった。・・・その教えはもっぱら行為と感覚とをもって伝達せらるべきもので、常の日・常の席ではこれを口にすることを憚られていた。すなわち年に何度かの祭に参加した者だけが、次々にその体験を新たにすべきものであった。温帯の国々においては、四季の循環ということが、まことに都合のよい記憶の支柱であった。」(「祭から祭礼へ」)

 丸山眞男 1961 『日本の思想』岩波新書

「部落共同体的人間関係はいわば日本社会の「自然状態」であり、そのかぎりで、また上からの近代化=官僚化にたいする日本的「抵抗」形態のモデルを提供している。しかしそれが本来実感から抽象された規範意識一般と無縁なものであるかがぎり、その「反抗」は規範形成力として、したがって秩序形成力としては作用せず、きわめて非日常的な形で爆発するにとどまる。それはしばしが生活の場を捨て、時務の「慷慨」によって組織の媒介なしに究極価値に一挙に自己を合一化しようとし、そこからかえって、抵抗が体制の側での操作に吸収される結果になるか、あるいは大は待合・銀座のバーから小は村の寄合に至る「富士の白雪ャのーえ」の放吟にそのエネルギーを発散してふたたび日常的な「実感」の世界に閉じこもる。」(「日本の思想」)

 安丸良夫 1971 『神々の明治維新』岩波新書

「割りきっていえば、本書は、神仏分離と廃仏毀釈を通じて、日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれた、と主張するものである。・・・この転換は、国際社会の力と力の闘技場へ加わろうとしたときの、一つのまだ弱小な民族の自己規定と自己統御にかかわっていた。この力の闘技場へ加わるためには、私たちの民族は、みずからの内的な弱さと不安に対応して、その弱さと不安をいっきょに代償する精神の内燃装置を必要としていた。・・・だが、そのためには、どんなに大きな飛躍と抑圧とが必要だったことだろう。伝統は、この課題にあわせて分割され、再編成された。」(「はじめに」)

■番外

柳川啓一  1987 『祭と儀礼の宗教学』筑摩書房(1972-84論文選)

竹沢尚一郎 1987 『象徴と権力』勁草書房

関一敏 幻の近刊『宗教学入門』以文社

 

(関一敏)


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