「共生社会システム論」10選

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Ⅰ.異文化理解の基本文献

「異文化」は必ずしも生易しい存在ではない。それは時として自らに疑問や混乱、嫌悪感をも引き起こし得る存在である。しかし、私の理解では、文化人類学はこうした異文化理解の可能性に賭けることで、自らが持っていた疑問や嫌悪感の土台を自壊させるような営みであり得 、共生社会システム論の方法がフィールド・ワークにある以上、我々もこの課題を共有するものである。そうした観点から、ここでは3点を選んだ。

1.マリノフスキー、B.1922=1980「西太平洋の遠洋航海者」寺田和夫・増田義郎訳 中公バックス世界の名著71巻 中央公論社

本書で感心する点には、観察というより洗練された綿密な記述、異文化が自文化の何に相当するのかと考える反転する身振り、結果的に西欧文化がトロブリアント諸島の文化に埋め込まれているようにみえること、の3点が挙げられる。

2.レヴィ=ストロース、C.1955=1980「悲しき熱帯」川田順造訳 中公バックス世界の名著71巻 中央公論社

本書で感心する点には、フィールドワークの臨場感に満ちた記述、予想もつかない諸体系が相関しているという意外な指摘、遥かなる視線から眺められた文化そのものを超越するような思索、の3点が挙げられる。
1も2も現在から見れば批判の多い文献である。だが、誰がマリノフスキーに並ぶフィールド・ワーカーであったか、誰がレヴィ=ストロースに並ぶ透徹した思索をなしたか、と問うとき、私は今でも沈黙を迫られざるをえない。

 

3.佐藤郁哉 1984『暴走族のエスノグラフィー-モードの叛乱と文化の呪縛』 新曜社

本書は、1と2の後に文化人類学を主導したギアーツの影響下に書かれた文献である。異文化を内在的に理解する一方で、内在的に捉えただけでは問題が解消する訳ではないことを身近に引き付けて考えるのに適している。

 

いずれもそれぞれの仕方で自壊に至りかねない程の異文化理解の可能性に賭けた痕跡であり、外にある異文化を内の生活世界に持ち込む想像力と、内にある自文化を外から見返す想像力に満ちている。

 

Ⅱ.共生理念の基本文献

それでは自壊するほどの異文化理解に至ったとき人は何を基本として歩みなおせばよいのであろうか?ここに選んだ4点は、いずれも何らかの自壊を目前にして、それぞれの仕方でその基本を探求した文献である。「共生」は完成した哲学ではなく、生成過程の理念である。それを学問の規範とするためには、幅広い展望からその根本を問う必要があろう。ここにある文献は、私にその探求への身振りを伝え、「共生」理念の生成の現場に読者を誘い得る。

 

1.今西錦司 1972『生物の世界』講談社文庫 講談社

本書が書かれたのは実は戦前であり、特攻隊を目前にして遺書を書くような精神状況で書かれている。そこで今西は、進化の原理をダーウィン流の「適者生存」ではなく「棲み分け」の原理に見出し、そこから生物の進化としての歴史まで考えるというジャイアント・ステップを踏み出した(なお、生物の世界の「共生」を踏まえておきたいのなら、もう1冊、リン・マーギュリスとドリオン・セーガン1987=1989『ミクロコスモス―生命と進化』田宮信雄訳 東京科学同人を推薦する。マーギュリスは細胞共生説の提唱者である)。 共生社会システム論の「共生」は、現在のところ生物学的な共棲(symbiosis)と同一ではなく、むしろ社会学的な共生(cultural symbiosis,conviviality,co-existence, living together,communality)に近い。そうであるにせよ、生物学的なそれを知らないのでは何が社会に独自なものかを判断し難いであろうし、その違いを押さえた上で、両者の接続を目指すのなら力強い論になろう。実際、symbiosisの語自体は、1622年からの淵源を持ち、メンデルスゾーンの弟子達によってよく広められたという経緯を持っているので、この縺れを解きほぐすこと自体が、一つの優れた課題となろう。

 

2.ベイトソン、G.1972=2000『精神の生態学』佐藤良明訳 新思索社

遺伝学の父の下に生物学者として訓練をうけ、ニューギニアとバリで文化人類学のフィールド・ワークを行い、精神分裂病(現、統合失調症)のコミュニケーション的生成理論を提出し、タコとイルカの生態学を研究した後、最後は西欧の認識論を問題化したベイトソンは、ポランニーとはまた違った形で生命進化と西欧近代社会までを駆け上った学者である。しかしその経歴で身につけた知は付け焼き刃ではない。1968年彼自身が組織した学術会議で、参加者達が殆ど喧嘩に発展しそうな口論をはじめた時、彼は言った「この会議の10%は気に食わないことについて叫ぶための時間用にとっておいてある。僕らも人間だからね」。共生というと何も葛藤のない調和的な世界をイメージするかもしれないが、これほど我々の理念と異なったものはあるまい。むしろ葛藤があっても生きられる、喧嘩をしても修復できる世界に身構えよう(こうした姿勢に共感する人は、西平直1998『魂のアイデンティティ―心を巡るある遍歴』金子書房を参照)。また理論的にはこのベイトソンと下記のマイケル・ポラニーとを架橋した議論として、バーマン、M.1981=1989『デカルトからベイトソンへ-世界の再魔術化』柴田元幸訳 国文社 参照。

 

3.ポラニー、M.1958=1985『個人的知識―脱批判哲学をめざして』長尾史郎訳 ハーベスト社

ハンガリー動乱から逃れてアメリカに渡ったポランニーは、化学でノーベル賞候補者にまでなりながら、後年はあっさり社会学者になってしまったが、その影響力は、化学はもちろん現在の科学哲学(T.クーン等)、認知科学(J.ギブソン等)、社会科学(F.ハイエク等)にまで及んでいる。本書では、現在でもしばしば聞かれる主観的な知と客観的な知という対立を、生命進化の原理に基づき、近代人が何かを知ることの使命にまで結びつけた。その「人格的知」(上掲の翻訳では「個人的知識」)という概念の中心にあるイメージの1つが、実はconviviality(懇親性/饗宴的な生)というイメージであった(但し本書は大部であり、紹介者自身全体を理解し得たとはいい難い。手ごろなエッセンスを知るには、同1966=1980『暗黙知の次元―言語から非言語へ』佐藤敬三訳 紀伊国屋書店を推薦しておく。但し原題がTacit Dimensionであり、するとどうしてこの3章構成にならざるを得なかったのかを念頭におきながら確信的に深読みしてゆくこと)。なお彼の兄、経済史論学者だったカール・ポランニーが、最晩年、その名もずばりの『共生』(Co-existence)という雑誌創刊を準備中に他界しており、現在同タイトルの会議が毎年進行中であることも付記しておく。弟として、社会学者として、当然のことながら、マイケルはカールの著作も熟読していたし、そのカールの著作は、哲学(I.イリイチ、下記)、経済史学(R.L.ハイエルブローナー)、文化人類学(C.ギアーツ等)、世界資本主義システム論(I.ウォーラーステイン、下記)にも影響を与えている。

 

4.井上達夫 1986『共生の作法―会話としての正義』 創文社

本書は、異文化対立のような問題をいかにして乗り越えるのか、その理念と技法のモデルを探求した法哲学の文献である。相対主義はその究極で絶対主義に転じる(どの文化も相対的なのだから、我々はいまここの文化に居直ってよい、という論理である)。その時に何を根拠にどのような作法で介入し得るのかを探っている(より具体的な事例としては、井上達夫+名和田是彦+桂木隆夫1992『共生への冒険』毎日新聞社を参照。解説の「共生社会システム論」にある「共生」の理念は主に本書に依拠している)。また井上達夫+嶋津格+松浦好治編 1999『法の臨界』東京大学出版会3巻本のシリーズや、教科書的ながら、和田仁孝+太田勝造+阿部昌樹編 2002~Series Law in Action 日本評論社も刊行中なので、この種の理念をフィールドに落としてゆくのには参考になろう(経済的な側面については理論家のジェフリー・ホジソンやアマルティア・センも参考になろう)。

ここに紹介した著者の多くは、いずれも自壊という生活上の「問題」を、言葉の本来の意味での学問的「関心」へと転化する知を身につけていたのだと思う。

 

 

Ⅲ.実践介入の基本文献

「幅広い展望」から、「土台の自壊」を通過しながら、我々が立ち入るのは現実的な諸問題への介入である。この介入の仕方には、マクロな時代診断からミクロな記述の変容まで様々な層と技法がある。ここでは技法の細部に入るよりも、そうした世界への構えを伝えてくれる3点を選んだ。

 

 

1.ベック、U.+A.ギデンズ+S.ラッシュ 1994=1997『再帰的近代化』松尾精文+小幡正敏+叶堂隆三訳 而立書房

本書は、現在のところ時代診断の書としてはもっとも優れている社会学文献のうちの1つで、特にグローバリズム(地球化)とファンダメンタリズム(原理主義)の帰結や伝統社会から現代社会への方向を見通すには最適であろう。こうして、いまだ名づけられざる現象にある言葉を投与することが一つの実践形態であることを見逃してはならない。また本書と甲乙つけがたいもう一つの時代診断の書として、ウォーラーステイン、I.1995=1997『新版 史的システムとしての資本主義』川北稔訳 岩波書店も推薦しておきたい。ひとつの系譜を紹介しておけば、後にconvivialityをキー・タームとするイリイチの翻訳をした栗原彬は、アメリカ留学当時、ウォーラーステインのディスカッション姿勢に感銘を受けており、また、ウォーラーステインを紹介した人物のうちの一人、花崎皋平も、後に「共生」を題目に据えた書籍を上梓している(経済的な側面に関しては、現状分析のサスキア・サッセン、社会提言のナンシー・フレイザーなども参考になろう)。
いずれにせよ「共生社会システム」の<社会システム>を見通すのに、フィールドと切り離されていない感覚がいい。

 

2.松田素二 1996『都市を飼い慣らす―アフリカの都市人類学』河出書房新社

本書は、1のような異文化理解の姿勢と、2のような共生理念を掲げ、では単なる地域研究にも、単なる学史の再生産にもおち込まずに、フィールドで何ができるのか、を考えるとき、一つの示唆を与えてくれるであろう。また、これとは別の、しかし同時代のフィールドに向う上で、多角的示唆を与えてくれるものとして、ピーターJ.テイラー+ポールL.レノックス編1995=1997『世界都市の論理』藤田直晴編訳 鹿島出版会などもある(但し抄訳なので、欠落した章は原書に当たること)。いずれ入り口はあっても出口はない探求の世界だが、これまでのようにフィールドの報告と考察ばかりをしていたのででは、所詮は学外とは切り離された特殊な嗜好性をもった研究に落ち込みかなない状況にある。そこで唯一のつながりは「共生」の可能性のみであり、そこでは研究相手や方法、前提の違う研究者をも<生の可能性の共有者>として見て衆知を募り、考えながら再び学外に出てゆくことがコツだろうと思う。

 

3.竹内敏晴 1988『ことばが劈かれるとき』筑摩文庫 筑摩書房

本書の竹内は、戦前の一切の言説が手のひらを返すように覆るのを見て、自らの身体、実感、言葉に基本を見出した。そこから、同じ崩壊をより年長者として目前にした野口三千三(みちぞう)の体操を手がかりに、言葉としての身振りと身振りとしての言葉を少しずつ劈いてゆくことになる。本書を野口三千三1977『野口体操・からだに貞く』白樹社などと併せて読むと、より身振りが和らぐ。ある生活世界を内在的に生きてしまっている人達の言葉と、学者のようにそれを超越的に説明しようとする人達の言葉とではどれほど違うのかがよく分かるだろう。この言葉の較差を自覚することから、言葉の鋳込みなおしの実践が始まる。そしてフィールドでも研究でも重要なのは、この声かけの位相である。

なお、より具体的な問題介入への道しるべとしては、エリ・ウィーゼル+川田順造編1996『介入? 人間の権利と国家の論理』廣瀬浩司+林修訳 藤原書店や山本和郎 2001『危機介入とコンサルテーション』ミネルヴァ書房、オハンロン、W.H. 1987=1995『ミルトン・エリクソン入門』森俊夫+菊池安希子訳 金剛書房を推薦しておく。最初のものは、文化的介入の諸問題を見渡すのに適しており、二番目のものは私が将来的な接続を予想している臨床コミュニティ心理学の入門書として最適、最後のものは問題介入という現象に、こんなにも多様な相があり得るのだということに気づかせてくれる。共生社会システム論は心理臨床と隣り合って人間共生システムを形成していることを忘れないで欲しい(また本ページの各著者名は、出来る限り彼らの所属機関や財団、アーカイヴにリンクしておいたので、更に関心のある方はそちらに当たられたい)。 (飯嶋 秀治)


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