「速度と人生 その3」

関 一敏のコラム 「速度と人生 その3」~食事の速度~

 10代末。大学に入ると語学別でクラスができあがっていた。たしか43L三7D(昭和43年入学のフランス語未習クラスの7組)。男30名、女10名ほ どだった。その最初の自己紹介の時に、橋本くんがクラスの自己紹介で、ぼく食べるのが速いんです。兄弟がたくさんいて、末っ子なものだからと云った。大昔 の話だが、そのときの顔までおぼえている。姉がひとりしかおらず、食べ物はいつも二分していたから、この話には正直なところ驚いた。第一、食事に速度が あったっけ。

 

30代半頃。ずっとあとになって人類学をみようみまねで教えはじめた筑波大学で、秋頃に民俗学のスタッフといっしょに実習に出かけた。班に分かれて調査 カードをつくる坦々とした実習だったが、当時院生の斎藤純くんが「おーい、速く食べないと話者が野良に出てしまうぞぉ」と学部生に檄をとばしていた。これ には内心驚いた。それまで日本でも欧州でも祭りの調査しか知らなかったが、祭りならば、むしろいっしょにゆっくりと食べることを学んできた。何よりも酒が 飲めないと話がすすまないので、飲めない酒を飲む訓練をしてきたのだった(それでも調査地の雪の上におもいきり吐いたことがある)。うーん、速く食べるこ とがフィールドワークの条件のひとつだったか。大丈夫かな。

 

40代初め。危ぶみつつ良い歳になって始めたフィリピンの長期調査では、幸いなことにせいて食べる必要に迫られることはなかった。山村の日常はゆったりと した時間の流れにあって、せいても人がいないときはいない、話が聞けないときはきけない、といつからか諦観したのかもしれない。おそくとも朝6時には活動 しはじめる生活時間の仕組みでは、午後はゆるんだ時間帯となり、昼食後に小1時間眠るシエスタの効用を身体が憶えてしまったこともある。(1980年頃に 島の反対側の沿岸のまちで調査していたJ=P.デュモンさんはどうしていたのだろうか。)筆者が大変だったのは、食事よりもむしろ手洗いの時間短縮のほう だった。いやつまり、日本では本をもってトイレにしけこむタイプなので、朝イチに多数と重なる手洗いはじつに苦手だった。

 

20代末にもどる。フランス留学時代によばれた家で、ゆっくりとゆっくりと食事をする仕方に逆の驚きを感じたことがある。皿のハム一枚をナイフとフォーク で切りながら口に運ぶ。へたなフランス語で話しながら、いく切れかに分けて一枚のハムを食べる。皿のチーズを同じようにして口に運び、話をする。一尾の大 きくない魚を切りながら口に運び、話をする。そのつど台所からそれが出てくるので、相手とほぼ同じ速度でギアをローにして食べないと手持ちぶさたになって しまう。そうやってたっぷり時間をつかって食事をすると、量が多くなくとも高い満腹感が得られることを知った。食物ではなく、話で腹をいっぱいにする手法 というか。

 

そうしていまは50代になった。食の町福岡にいて、できるだけゆっくりとC級グルメの道を模索している。大学で寝起きすることが多く、いっとき日参してい たファミリイ・レストランはやめて、近場の食堂をまわっている。国道3号線沿いのパチンコ屋わきの食堂のみそ汁は格別だ。うまい坊の野菜のてんぷらはけっ こういける。風呂がえりに味わう美味香の白菜炒めは最近のブームである。手洗いもゆっくりと、ときに小難しい本で思索している。この速度は性に合っている のだが、同時にこれでいいのかと自問する。もう一度、まったく新しい場所で、ちがう速度の食事を体験したい。うん。つまり、これから何年間かの調査地をさ がしている。年齢にも速度がある。


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